『時間』試し読み

Ⅰ.





大荷物に苛まれながら、大学までの道を急ぐ。
走ってズレた眼鏡を直す。背中にリュック、両手にエコバッグ、中身は資料の本やら紙束で馬鹿みたいに重い。あと石が入っている。なぜ僕は石を背負って走っているんだろう。エジプトのピラミッド造りに従事する労働者のような気分だった。
駅から大学までの道のりは直線で二〇〇メートルしかない。ただし大学正門から職場の研究室までが一キロあって何かが歪んでいるような気がしてならなかった。時空か建築計画のどちらかだろうと思う。
僕の勤務先である央都大学は、東京の隅っこにキャンパスを構える都立の総合大学だ。多摩の山林を存分に活かした広大な敷地には文系理系合わせて二五の学科と九〇〇〇人の学生が詰め込まれている。構内の端から端まで徒歩一五分。講義の間の休み時間が一〇分しかないのを考えると設計に根本的な欠陥があるのは明らかだった。そんな大学側の不始末をフォローするために学生達はみんな自転車か車で移動している。僕もできることなら文明の利器で石を運びたかったが、研究室に一台しかない車は教授から順番に使うので助教程度の僕はもっぱら人力になる。丸太を下に噛ませる古代方式で運ぶべきかと迷ったが、丸太がなかったので諦めて研究室へと急いだ。




「戻り、ましたあ」
息も絶え絶えに部屋へ入ると数人の学生が「おかえりなさーい」と応えた。パーテーションで区切られた自分の机に向かい、ようやく重りをどさどさと下ろす。石が入ったリュックだけは丁重に扱った。借り物なので壊したら事だ。
顔を上げて壁の時計を確認する。一六時前。まずい、もう時間がない。
「有馬君」
呼ばれて振り返ると、教授室から万亀先生が出てくるところだった。今日は先生もフィールドワークに出ていたはずだけれど、御年七〇の御尊顔は疲れた様子もない。多分車輪の力だと思う。
「どうだった?」
「バッチリです」
僕は勢い込んでリュックを開けた。中から新聞紙の塊を取り出し、そのままバリバリと剥いていく。緩衝材がなかったので何重にも包んできた。
最後の一枚を剥ぎ取ると、漬物石ほどの大きさの自然石が顔を出す。
「実物を貸していただきました! 藤原さんちの御神体!」
僕は胸を張って鼻息を噴いた。今日のフィールドワークで最大の成果物、奥多摩にお住まいの藤原さん宅を守護していた《屋敷神》の御神体だ。
「すごいじゃない有馬君ー」
万亀先生も目を輝かせて石を眺めた。
僕はここ央都大学・文化人類学研究室に助教として勤めながら、文化人類学の研究をしている。
文化人類学などと言っても一般の方は何をやっているのかさっぱりわからないだろうし、僕も大学に入るまではさっぱり知らなかったけれど。要は人間の文化を研究して人間を理解していこうという分野になる。
ただこの《文化》というのがあんまりにも広大無辺であるので研究の内容は多岐に渡り、研究者によっては全然違うことをやっていたりする。代表的なものだけでも歴史・言語・衣食住・社会制度・音楽・教育エトセトラエトセトラ……。でもそれこそがまさに人間の多様性そのものでもあるので、やっぱりこの分野はとても面白いと思う。
そんな中で僕が専攻しているのがいわゆる《民俗学》で、中でも地域の信仰や祭り、神話や民話などを主に研究している。歴史ある大きな祭事を調べることもあれば、一つの家系にのみ細々と伝わる伝承を追ったりもする。今日借りられた藤原さん宅の御神体などは後者になる。
「いやしかし、神々しいね」
万亀先生が頷きながら石を眺める。
「まったくです」
僕も同意して眼鏡を上げた。藤原さんの家系を室町時代から守護しているという歴史深い神様は、眼鏡のレンズ越しでも堂々たる威厳を感じざるを得ない。
「元々はただの石ころでも、人の想いを長年受け続けるとなんというかこう、宿るものがあるんだろうねえ」
「人の魂、その神性の顕現ですかね……」
携帯の着信音が鳴った。藤原さんからだった。電話を取って今日の御礼を言う。要件を聞いて電話を切った。
「先生」
「なに?」
「今思い出したそうなんですが前の御神体は去年落として割れたらしく、それはおばあちゃんが代わりに置いといた漬物石だそうです」
「そっか」
万亀先生は窓の外を見つめた。
「これが文化人類学の面白いところだよね……」
違うと思った。着信が鳴った。
画面には《マチ》の文字と一六時五分が表示されている。
「帰りますッ! あ! 神様ッ!」
僕は就任一年目の御神体を大慌てで包み直し、着替えの入った紙袋を持って教室を走り出た。後ろで万亀先生の声がフェードアウトみたいに遠ざかっていった。
「真千子ちゃんによろしくねぇ~…………」

二人が刻む幸せな“時間”に思わず涙が溢れる。
KAエスマ文庫史上最大の感動がここに。

時間

  • 2020年2月21日(金)
  • 648円+税