モボモガ

モボモガ

  • 著者:結城 弘
  • イラスト:しらび

プロローグ:大正七(一九一八)年 十月

 

 あと五分。

 今朝目覚めた時に、そう言ってまた布団を被った自分を引っぱたいてやりたい。

 なぜ五分なのか。一分や二分では駄目なのか。五分なんて再び寝入ってしまうには充分な時間をとってしまうから、朝寝坊の常習犯になるのではないか。

 そもそも世の中がいけない。この世で一番偉いのはお天道てんと様であり、そのお天道様がお隠れになったら寝て、お昇りになったら起きるのが礼儀であり、自然の摂理でもある。

 それをあの時計という奴は知らぬとみえる。おのが作りし時間の法で人民を支配し、毎日毎日時計の針で人間の尻をチクタクつついて追いたてるとは、無礼千万極まりない。

 時計とはまったくとんでもない無法者だ、悪代官だ、暴君だ。

「うちの朝寝坊は、時計将軍の圧政に対するご維新いしんどす」

 朝寝坊から起きた紫苑しおん景季けいきはぶつぶつ言いつつ長い髪をまとめ、薄曙うすあけぼの色の着物、海老えびちゃはかま栖鳳絣せいほうがすりの羽織という女学校の恰好に手早く着替えた。奥の間から通り庭に足を出し、編み上げ靴を履いていると、売り場の方から大小の時計の忌々いまいましい機械の音が聞こえてくる。

 先日唯一の身内である父が、近頃世界を席巻している性質たちの悪い流行性感冒かんぼうかかってしまい、一人娘にうつしてはなるまいという父の懇願で、病気が治まるまでの間、景季は昔奉公していたこの朝倉あさくら時計店に寝泊まりさせてもらっている。

 中は京都の町家と同じ造りだが、外は非木造の材質で、高い時計塔が備わっている。店主は出かけたのか、表のガラス戸はカーテンが閉まっていて、中は暗く静まりかえっている。

 そのカーテンの向こうで、人影が動いた気がした。

 お客さんかな? そう思った直後、ガラス戸が激しく揺り動かされ、景季は飛び上がった。鍵がかかった戸をこじ開けようとする音とともに、外から悪態あくたいをつく声が聞こえてくる。

 ――盗人? 白昼堂々盗みに入るとは、大胆不敵にも程がある。

 景季は通り庭に立てかけてあったほうきを掴むと、表戸に柄の先を向けた。盗人の一人や二人追い返してやる、と息巻いていると、裏戸から大きな音が響いて再び飛び上がった。

 外が一気に騒がしくなり、一人や二人どころではない大勢の足音や怒声が店の周りを取り囲んでいる。この状態はもはやただの強盗ではない。

 暴徒による打ち壊しだろうか。今年の夏頃から、米価の暴騰ぼうとうに苦しむ民衆が米屋や商店を打ち壊す事件が相次いでいて、ここ京都でも大きな騒ぎになっていた。

 これは敵わんとみると、景季は靴のまま奥の間に上がり、戸をぴしゃりと閉めた。

 同時に表と裏で戸が破られる音がし、無遠慮な足音が店内に雪崩なだれ込んできた。

「今物音がせなんだか」と一人が低い声で言った。

「ひょっとすると栖鳳絣の羽織の娘ちゃうか。女学校行っきょるの、誰も見てへんやろ」

「まあええ。もしおったら、『時計』のりかを訊き出すまでや」

 時計? と景季は首を傾げた。時計なら売り場に腐るほどあるのに。

「時計ねぇ。高価で変わった形の時計とは聞いとるが……」

 まさか、と景季は首からげた懐中時計を服の中から引っ張り出した。

 手の平に収まるほどの十八金製の懐中時計。

 文字盤の外縁に沿って目盛が「100」まで時計回りに刻まれており、長針・短針とは別の細い針が「0」を指している。文字盤の中にはさらに小さな文字盤が三つ埋め込まれていて、右側面の巻きねじを挟む形で二時位置と四時位置にそれぞれツマミがついている。

 そして裏蓋には、「1905 イツシ」という文字――恐らく西暦の1905年と、その年の干支である「乙巳いっし」のことだろう――が彫られている。

 妙な意匠いしょうだが、精巧な技術が施された高価な時計であることは素人目にもわかる。店主が苦心の末に、今年になってようやく完成させたことも知っている。

 ――私は物をぞんざいに扱う性質だから、これは景季が預かっといてくれ。

 店主にそう頼まれて以来、この時計は景季が肌身離さず持ち歩いていた。

 時計とはこれのことだろうか。だとしたら店主の最高傑作だけは守りきらねばならない。そう決心して押入れへと隠れた直後、誰かが土足のまま奥の間に上がってきた。

 畳を踏む音に景季の体が震え、心臓の音が聞こえやしまいかと息を必死に止める。

 足音が押入れの前に来て、懐中時計を胸に抱えて握る手が汗を――

「おい、先に二階探すの手伝てつどうてくれるか」

「え? へぇ、わかりました、だんさん」

 通り庭から旦那と呼ばれた男が声をかけ、傍の足音が離れた。

 ……助かった。

 カッコー。

 安堵したその瞬間、閑古鳥の声が響き、驚いた拍子に押入れのふすまを蹴飛ばしてしまった。売り場の壁に掛かるドイツ製の閑古鳥のからくり時計が、正時を知らせている。

 なぁにが「閑古鳥が鳴く」だ。おっかない連中で千客万来じゃないか。

「旦さん、今の音――

 通り庭からドカドカと足音が近づいてきたかと思うと、乱暴に襖が開け放たれた。

 口をマスクで隠した若い男が、ぎょろりと目を剥く。

「ここにおったか、栖鳳絣!」

 もはやこれまで。まんまんちゃんあん。

 閑古鳥が鳴く中、身を縮めた拍子に、景季の指が時計のツマミを押し込んでいた。

 

 カッコー、カッコー。

 閑古鳥の鳴き声が聞こえる。頬には冷たい石の感触。

 閉じていた目を開けると、石畳を踏み進む大量の足が見えた。

 ――外? 

「こらあかん、なんちゅうとこで寝てしもたんやろ」

 慌てて起き上がった景季だったが、周りの景色に違和感を覚えた。

 せわしなく行き交う人々は、全員が見慣れない洋服を着ていた。老若男女が青や茶のズボンを穿き、シャツやボタンのない服に身を包んでいる。石畳の上なのに、彼らの靴音は下駄のように甲高く響かない。着物姿の女性もいたが、親が外国人なのか、髪が茶色や金色だ。

 傍を通った水兵服の少女にふと目を向けた途端、景季は悲鳴を上げた。

 少女が穿く袴は膝上までしかなく、恥ずかしげもなく足を剥き出しにしているではないか。しかし少女は、むしろ着物姿の景季の方をいぶかしむ目で見ながら去っていった。

 少女の後ろ姿を目で追いかけていると、青や赤のランプをつけた電柱が立つ広い辻が見えた。

 閑古鳥が鳴く中、大勢の人々が縦横無尽に辻を渡る。その半分くらいは、なんと外国人だ。肌が真っ黒な男だったり、頭巾を被った女だったりと、見たこともない人種もいる。

 人の往来が止まると、今度は車輪をつけた塊がうなり声を上げて辻を走り出した。

 あれはひょっとして自動車だろうか。いつも数えるほどしか見かけない自動車があんなにたくさん走っているのに、人力車や市電の姿が一向に見当たらない。

 空を仰ぐと、恐ろしいほどに高いビルディングが周囲を取り囲んでいた。

 正面の建物の上にはロウソクのような形の真っ白な塔が屹立きつりつしている。別の建物には黒幕が垂れていて、「東京豊洲とよす市場移転後の築地つきじ市場 解体工事進む」と光る文字が流れては消えていく。振り返ると巨大なガラス張りの壁があって、白い塔を鏡のように映していた。 

 首から提げた懐中時計が揺れた。覗き込むと、先程は文字盤の縁の「0」を指していた針が、「100」を指していた。わけがわからない。ここはどこだ。

 景季は巨大なガラス壁に向かって震える足で歩き出した。

 自分は神隠しにでも遭って、遠い異国の地にでも来てしまったのだろうか。

 しかし、ガラス壁の入り口に掲げられていた看板を見た瞬間に、その考えは粉砕された。

 ――京都駅。

 そこには間違いなく、自分の生まれ育った街の名が刻まれていた。