地面に落ちる前に桜の花弁が掴めたら、願い事が叶う。
そんなおまじないを、ヒヨリから教わった。
私たちはすぐに桜並木の下へと駆け出し、枝から舞い散る花弁を捕まえようと飛び跳ねた。
でも私はその日、一度だって花弁を掴むことはできなかったのだ。
くるくるとバレリーナのように回転しながら落ちてくる花弁は、腕の風圧にも敏感に反応して手の平から逃げてしまう。
はかなくて美しい薄ピンク色の花弁は、強く求めて手を伸ばせば伸ばすほど、いとも簡単に指の間をすり抜けていく。
これは少しおかしな町で起きる物語。願いを叶えようと手を伸ばす、なんの変哲もない私たちの物語。

【Ⅰ】

乾いた匂いがする。音楽室の壁にあいた穴から、木の香りが漏れているのかもしれない。
「ツバちゃんは大人になったら、ピアニストになるの?」
「分かんないよ、そんなの」
「でも、全国ツアーとかで忙しいと、あんまり会えないってことだよね。やだなぁ、それは」
鍵盤の上で、私の指がつまずいた。
「あ、間違えた」
「ヒヨリが変なこと言うからじゃん」
彼女は新品のセーラー服がしわになるのも気にせずに、グランドピアノのお尻に抱きついた。色素の薄い彼女の髪が、ピアノの上で波紋のように広がる。
「ふふ。ツバちゃんの心臓の音を聞いてるみたい」
まるで全身が鼓膜にでもなったかのように、ヒヨリはピアノの振動を受け止めている。
「私、この曲好きだなぁ」
『トビウオ二号』。おどりだしたくなるような軽快なメロディの中で、少し寂しげな恋を歌うこの曲は、少し前にヒットしたドラマの主題歌だった。
「これ、ヒヨリへの一回きりの誕生日プレゼントだったと思うんだけど」
私はドラマを観ていなかったのだが、ヒヨリが曲を気に入っていることを知ってから練習し、彼女の十歳の誕生日に演奏してみせたのだ。その時限りの演奏のつもりだったのだが、彼女はそれからもことあるごとにこの曲をリクエストしてきた。
「ツバちゃんだって、私が昔プレゼントした筆箱今も使ってるじゃん」
「なるほど。私が毎日あの筆箱を使ってるみたいに、私もこの曲は何度でも演奏しなきゃいけないわけだ」
「ふふ。そういうことー」
ヒヨリは頬をピアノに押し当てて、満足そうな顔をしている。そんな彼女をでるように、私は少しテンポを落として演奏を続ける。
こうやってヒヨリにピアノの演奏を聴いてもらうことが好きだった。
お泊まり会で布団に入ったあとにぽつりぽつりと交わす会話に似ている。
話したいことや用があるわけではないけれど、自然と口からこぼれ出る言葉を止めはせず、小さな相手の相槌あいづちに満足する。
でも、なんでだろう、胸の奥のほうにチリチリと痛みを感じる。
ヒヨリが音楽室の窓へと目線をやった。
「あ、降ってきた……」
窓からは暖かい日の光が差し込み続けている。降ってきたのは雨でも、雪でも、みぞれでもない。
サクラの花弁が、空から降ってきている。
「積もるかな」
その言葉には、不安も期待も込められていなかった。
「ヒヨリは好き? アマザクラ」
「どうかな。綺麗な時は好き。でも、くすんだやつは、あんまり好きじゃないかも」
私は白黒の鍵盤へ視線を向けたまま答える。
「積もるかどうかは、ヒヨリ次第だよ」
「私?」
メロディのスピードを少し抑えて、私は笑う。
「私知ってるんだ。アマザクラが、どんな時に降るのか……」
ヒヨリ自身にも内緒にしていることを、簡単に口にしてみる。
さっき感じた、胸の奥にある痛みの理由に気が付いたからだ。
目の前に広がっている中学の音楽室の光景が、夢だと気が付いたからだ。
今の私はもう高校二年生で、本物のヒヨリとこんな風に話すことはない。これは私が自分の頭の中で昔の記憶を掘り返して眺めているに過ぎない。
時々この夢を見る。決定的にヒヨリとの距離が離れてしまう直前の、もう戻れない、でも大切な、なにげない記憶に、私は今もすがりついている。
まぶたを押し上げる。
視界に自分の部屋の天井が広がる。予想通りであると同時に期待外れだった。
窓の外では夢の中と同じように、桜色の花弁がはらはらと踊っている。落下とは呼べないほど優雅だが、浮遊とも呼べないほどのぎこちなさで、花弁が次々と降ってくる。
上空には、雲も枝も、飛行機もない。町に春の気配なんて残っていない。
それでも、この町には時折、サクラが降るのだ。
原因不明の気象現象、みんなはそれを〝アマザクラ〟と呼んでいる。
朝だというのに、階段の手すりの冷たさから手を放すのが惜しまれるほど家の中の温度が高かった。夏がこの町にやってきたことを思い知らされる。
ダイニングルームへと移動してバナナを頬張ったところで、隣のリビングに弟の翔太しょうたがいることに気が付いた。毎朝の日課である体操を行っている。タンクトップ一枚でゆったりと上半身を回している姿は中学生には見えず、どうにもじじくさい。
体操しながら彼が観ているテレビでは、公共放送のニュース番組が流れていた。
梅雨つゆが明けて気温も高くなってきました。熱中症に注意してください。また九重ここのえ町では七時頃からアマザクラが観測されていますが、気象庁によると降花量は少なく、交通機関などに影響はない模様です』
画面が県内の動物園でトラが出産したニュースに切り替わる。赤ちゃんトラはもだえたくなるほどの愛らしさだったが、ゆっくり眺めている時間はなかった。
制服に着替えてから、最後に薄手のパーカーを羽織はおる。
ガレージから自転車を出すと、家のすぐ隣を流れる河川が目に入った。水面にアマザクラの花弁が浮かんでいる。一つ一つは人差し指の爪ほどの大きさだが、花筏はないかだを作りながら緩やかな流れに身を任せていた。
無意識のうちに、私は視線を対岸へと伸ばしていた。川を挟んだ向かいにあるレンガ調の家。その庭に自転車はない。ヒヨリがすでに学校へ出発したことを確認してから、私はペダルをこぎ始める。
途中、中学校の校門前で赤信号に引っかかる。隣では、美化委員会の生徒が気だるそうに竹ぼうきを動かしていた。
「俺ネットで見た。アマザクラって、宇宙生物のうろこが落ちてきてるらしいぜ?」
「宇宙生物なんているわけねーだろ。これはな、アメリカ軍の人工衛星に搭載された極秘兵器が降らせてるんだよ。政府の陰謀だ」
「ヒラヒラ花びら降らす兵器なんて、なんの役に立つんだよ」
「そりゃお前、宇宙生物には効くんだよ」

サクラの降る町

  • 著者 | 小川晴央
  • Illustration | フライ
  • 発売日 | 2020年5月22日(金)
  • 価格 | 648円(本体)+税
  • ISBN | 978-4-910052-08-3