サクラの降る町 ―白ノ帳― 試し読み

空から君のかけがれて落ちてくる――。
かつて、この町にはサクラが降っていた。
春とは程遠い冷たい空気の中でも、ビルを溶かすほどの日照りの中でも、空から紙吹雪のようにサクラの花弁が降り注ぎ、町に一つ色を付け足した。
あの日、一片ひとひらの薄紅色をした花弁が、彼女が手にする本の上に落ちてきた。同時にページがめくられ、過ぎ去ったシーンの中に花弁は閉じ込められた。たった一片の花弁だ。でも、その厚みの分だけ、本の形はゆがんだ。
記憶と、そこに眠る想いは、今の自分の形を少しずついびつにしていく。
これは少しおかしな町で起きる物語。歪んでしまった私たちが希望を求めて手を伸ばす物語。

【Ⅰ】

バスの窓枠にイチョウの葉が引っかかっていた。風によってバタバタと震える黄色い葉っぱは、まるで魚のヒレのようだった。
停留所で親子が乗り込んでくる。赤ん坊を抱いた母親と、ぬいぐるみを抱いた四歳くらいの女の子だ。彼女たちは私が座る最後列へとやってきて隣へ座った。
「気に入った?」
「うん! 丸くてかわいい」
女の子が抱きしめているのは、峰上みねかみ市のイメージキャラクターである〝ミネカミネコ〟だった。私が中学の頃に名前の公募が行われたので、生み出されてからもう三年以上が経ったキャラクターだ。
女の子が、サクラの形をしたミネカミネコの肉球をぷにぷにつつく。
「ねぇママ。なんでこの子、手にお花がついてるの?」
「ミネカミネコは峰上市のことをみんなに紹介するのがお仕事だから。ここではアマザクラが降るんだよーって教えてるの」
女の子が「あまじゃくら?」と舌足らずに聞き返す。
「お空からサクラの花びらがふわふわーって降ってくるの」
「お花が降るの? 空から?」
そこで眠っていた赤ん坊が泣き出した。母親が慌ててあやし始める。
母親に会話を打ち切られた女の子は私のほうを振り向いた。座席の上でお尻を滑らせながらこちらに近づいてくる。
「お花が降るの?」
注意してくれることを期待して母親をちらりと確認するが、彼女は前の座席の老夫婦から声をかけられていた。赤ん坊をあやす手伝いを始めた老夫婦との会話に夢中で、こちらには気が付いていない。
「桜の花弁とよく似た物質が空から降ってくる現象を〝アマザクラ〟と呼ぶの。三十年ほど前から東アジア圏の特定地域のみで観測され始めた気象現象よ」
私が話し終えても、女の子はぽかんとしたままだった。
「お話むずかしい。お姉ちゃん、せつめー下手ね」
「小学生になったら授業で習うわ。とにかく空からサクラが降る町がいくつかあるの」
「なんで?」
「アマザクラの発生原因、特定の地域でしか観測されない理由、降る花弁の色に影響を与える要因、すべてがまだ科学的にはよく分かっていないわ」
「分かんないの? 大人なのに?」
女の子の挑発的な感想に、私は小気味よさを感じる。
「そう。大人たちは分かっていないの。アマザクラの真実を」
含みのある私の返答に、彼女は首を傾げた。
「お姉ちゃんは知ってるの?」
私が知る〝アマザクラの秘密〟を披露してみようかという、いたずら心が生まれる。しかし、そんなことをしたら周りからは子供に嘘を吹き込む悪い女子高生だと思われるだろう。
卑怯だが、私は受けた質問をはぐらかす。
「あの子は男の子? 女の子?」
母親の腕の中にいる赤ん坊はまだぐずついている。
「女の子だよ! まひるちゃんって言うの! お姉ちゃんは、いもーといる?」
なんてことはない質問に、私は即答できなかった。
「ええ。一応、ね」

病院名が記された停留所でバスを降りる。ロータリーを抜けて院内に入ると、消毒液のつんとした匂いが鼻を突いた。エレベーターで八階まで昇り、その一室の扉を開ける。
ベッドの名札には《ぶきあい》と名前が記されていた。
「愛里ちゃん、久しぶり。いつもと違って平日だから少し驚かせてしまったかもしれないわね」
ベッドで眠る彼女は私の挨拶に応えない。部屋を満たしているのは、間仕切りカーテンが風に揺れる音だけだ。
「そうだ、今日はお土産があるの。ちょっと手を借りるわね。もう十一月も終わるし、乾燥もひどくなると思ったからハンドクリームを買ってきたの。香りがいいものを選んだつもりだけれど、柑橘系の香りはあなたの趣味に合うかしら……?」
愛里の手を取りクリームを塗り込む。彼女はその間、くすぐったいと笑うこともせず、穏やかな呼吸を繰り返すだけだった。
陶器のように白い肌、シーツの上で広がる長髪、つんと立った愛嬌のある鼻先。彼女は今にもあくびをしながら起き上がってきそうだ。
だが、彼女は一年もの間、眠り続けている。
ノックと共に看護師が病室の中へと入ってきた。愛里を長く担当してくれている彼女は、ベッド脇に座る私を見て「あれ!」と声をあげる。
「ルカちゃん久しぶり。驚いた。平日だよね今日。この間、お父さんが峰上に戻ってきたって話は聞いてたけど、ルカちゃんも一緒に帰ってきてたんだっけ?」
看護師は私が着ている九重ここのえ高校のブレザーを確認しながら首を傾げた。
「私だけはまだ九重に住んでます。高校の手続きの問題もあるので、春までは向こうで一人暮らしです」
こうして愛里の顔を見るのはひと月ぶりだった。私の実家はこの峰上市にあるが、今住んでいるのはここから二百キロほど離れた場所にある九重町という田舎町だ。気軽に行き来できる距離にはない。
「じゃあ今日は学校サボって里帰り?」
「いえ、修学旅行中なんです。午後は自由時間なので、ここに」
愛里の心拍数や血圧をメモしていた彼女が手を止め、私に微笑む。
「そんな時間まで使ってお見舞いに来てくれるなんて、いいお姉ちゃんだね」
彼女は私たちが血の繋がらない姉妹であることを知っていたはずだが、それでも私を〝お姉ちゃん〟と言い切った。
「今更、京都で行きたい場所もなかっただけです」
二ヶ月前に行われた学園祭以来の大きな行事ではあるが、行き先が地元となると浮き足立つこともなかった。
「それでもえらいよ。お母さんも毎日のように声をかけに来ているし、お父さんも九重に転勤になったあと、すぐに峰上で写真の仕事を見つけて戻ってきてさ。そういうのって、きっと神様が見ててくれると思うな」
神様なんていないだろう、と内心で呟いてから自嘲する。自分も同じくらい非科学的なものを信じているからだ。
――愛里の心は、アマザクラと繋がっていたんです。
この町に降るサクラが彼女の感情に反応していたなんて、きっと信じてもらえない。
――アマザクラが、私の妹を覚めない眠りにつかせたんです。
そんなことを言ったら、きっと正気を疑われるだろう。
窓から見える乾いた空には、食べかけの綿菓子みたいな雲が浮かんでいるだけだ。雨は降りそうもない。雪もひょうもみぞれも。そして、サクラも――。
一年前まで、この町ではアマザクラが観測されていた。
だが、去年のクリスマスイブからは一度も観測されていない。それは、愛里が覚めない眠りについたのとまったく同じタイミングだった。
――アマザクラから、彼女を取り戻したいんです。
そんな私の願いを、世界は笑うだろうか。

私が小学五年生の時、母親が他の男と暮らすために家を出ていった。
客観的に見れば母親も全人類のうちの一人に過ぎない。それでも、仕事で家を空けてばかりの父親の代わりにそばにいてくれた彼女は、幼い私にとって大きな存在だった。
だから彼女が突然いなくなったことにショックを受けたし、裏切られたと感じた。
それから私は他人に対して小さな不信感を持つようになり、出会う前から裏切られる準備をするようになった。
愛だとか、絆だとか、そういう言葉が、まるでペガサスやツチノコのような架空のものであるかのように思えた。
だから、笑顔で近寄ってきたクラスメイトが影で私の悪口を言っていた時も、担任教師の不倫が教室で話題になった時も、特に驚きはしなかった。
そんなものだろう。私にとって絆で繋がれた人間関係は、トランプタワーのように不安定なものに感じられた。机の上でバラバラに折り重なっている有様のほうが自然な状態に思える。
でもきっと、愚かなのは人間ではなくて私だ。私は賢くなったんじゃない。普通の人間が当たり前に持っている能力を手放しただけだ。真実に気が付いたわけではなく、自分の視界を狭めただけだ。
中学に入ってすぐの頃、男子生徒から渡されたラブレターを読まずに捨てた。その時プラスチックのゴミ箱に反射した自分の顔が、母親とそっくりなことに気が付いた。
繋ぎたいと伸ばされた手を拒否する、冷たい目を私も携えていた。
裏切られることへの恐怖と、他人を信じることができない弱さと、自己防衛のための諦め。
いろいろなものが混ざり合った結果、私自身が冷たい人間になっていた。
他の人間を嫌いになったように、自分自身のことも嫌いになった。
私の手が人形のように冷たいのは、誰かに温もりを分け与える気がないからだ。
絆の端っこを誰にも渡さないように抱きしめているから、世界と絡み合うことがないのだ。
そのほうが楽だった。安心だった。
変わらなくては、とは思えなかった。これが自分の本当の姿だと感じていたからだ。
世間から見て、孤立している私は可哀想に映るのかもしれない。でも、それは私が受け入れるべき罰だ。繋がり合い愛し合う世界から背を向けた私が、その中の温もりと幸せだけを享受しようなんて思うべきではない。
体から伸びるコードがすべて断線した、できそこないのアンドロイド。
それが私だった。

愛里と出会ったのは、中学二年生の時だ。父親が私に、交際相手の沙里さりさんという女性を紹介する際、彼女の娘である愛里も同席していた。
「愛里は、愛情の愛に、ふるさとの里、です。たまに〝えり〟って読み間違えられることもあるけど〝あいり〟です」
それから何度か四人で出かけたが、愛里は小学生とは思えないほどにしっかりしていて、礼儀正しい女の子だった。電車内で立っているお年寄りがいれば必ず席を譲るし、近所の人への挨拶もかかさない。学校には友人がたくさんいたが、それを鼻にかけることもない誠実な女の子だった。
それからしばらくして、父親と沙里さんが正式に再婚し、愛里は戸籍上の妹になった。
同居生活が始まってからも彼女は礼儀正しく、私の内側へ無神経に踏み込んでくるようなことはしなかった。私が発している周りを遠ざけたいというオーラを敏感に感じ取っていたのだろう。
私と彼女は、広い和室をふすまで仕切ってお互いの部屋にしていたのだが、そのふすまを開くことも滅多になかった。
同居を始めた当初、ふすまの向こうから聞こえる生活音をわずらわしく感じるだろうと耳栓を用意したが、出番は少なかった。愛里は友人を部屋に呼ぶことはなかったし、掃除や模様替えなどは私がいない間に行っているようだった。
聞こえてきたのは、ささやかな音だけだ。衣擦れ、紙の上を滑る筆記音、本のページをめくる音。彼女が立てる小さな物音は、すぐに私の生活の一部として馴染なじんでいった。
朝起きてから挨拶を交わす。彼女のパンも一緒にトースターにいれる。些細なニュースに感想を漏らす。時間が合えば二人並んで学校への道を歩く。
私たちはお揃いの洋服を着ることもなければ、特別な理由もなく二人で遊びにいくこともなかった。彼女は私のことを〝ルカさん〟と呼び、敬語を使い続けていた。周りの人からは、姉妹ではなく、先輩後輩関係だと間違われるほうが多かった。顔がまったく似ていないのだから当然ではあるが、私たちのやりとりや振る舞いも、姉妹や友人には見えなかったのだろう。
親からはそんな距離感を心配されることもあったが、私にとっては奇跡のような出来事だった。私のような気難しい人間とぶつかり合うことなく、穏便に過ごせる相手がいることに驚いた。
ただ、そんな愛里にも子供らしい一面があった。彼女はアマザクラに関する、ある非現実的な想像をしていたのだ。
同じ家で暮らし始めて、半年ほどが経った秋のことだ。私は中学からの帰り道で、愛里と偶然一緒になった。
「あ、ルカさん! おかえりなさい」
「愛里ちゃんもお疲れ様」
日は傾き始めていたがあたりはまだ明るく、私は彼女の着ているワンピースについた汚れに気が付いた。
「転んだの?」
愛里は自分で服をつまんで、汚れた部分を恥ずかしそうに眺めた。
「今日体操着忘れちゃったんです。運動会の練習があったのに」
「あなたが忘れ物なんて珍しいわね」
「今朝、ちょっと嫌な夢を見たから、ボーっとしちゃって……」
彼女とは今朝も顔を合わせていた。普段通りに見えたが、実際はそうではなかったらしい。
「どんな夢だったの?」
愛里は足元へ視線を落とした。
「昔の、夢です……」
その言葉に、私は再婚前に父親からされた話を思い出した。
――愛里ちゃんにはな、双子の妹がいたんだ。
彼女は〝莉亜りあ〟という名前だったそうだ。
――愛里ちゃんが三年生の時、交通事故で亡くなったらしい。
父は続けて家の中で安易に〝莉亜〟の話題を出さないよう私に忠告した。
――つらい記憶だ。進んで話したいものでもないだろう。沙里さんたちが話したいと思った時に聞かせてもらうようにしよう。
もともと他人の過去を根掘り葉掘り尋ねる性分ではなかったし、沙里さんや愛里のほうからその話題が出ることもなかったので、亡くなった妹の存在にこちらから触れたことは一度もない。たまに沙里さんの部屋で二人の女の子が写った写真を見かけたことはあったが、それをじろじろと眺めたりもしなかった。そっとしておくことが、自分にとっての正解なのだと判断したからだ。
だから今も、愛里が口にした〝昔の夢〟が莉亜と関係あるのか尋ねるようなことはしない。彼女を傷つけることなくそれを確認する方法を、私は持ち合わせていなかった。
「私は嫌な夢をみたり、寝不足だったりで寝覚めが悪い時は、参考書の問題を解いて頭を切り替えているわ」
「ルカさんでも、嫌な夢って見るんですね」
「そりゃ見るわよ。苦手な虫とか、母親が夢に出てくることもある」
「お母さんが出てくるのは、嫌な夢ですか?」
「明確に憎いとも嫌いとも言い切れないけど。ポジティブな感情はないわね」
愛里は「ポジティブな感情はない」と私の言葉を口の中で繰り返した。
「私もお父さんの夢見たら、嫌な気持ちになります」
お互いに似た境遇にあるので、実の両親の話題はタブーではなかった。だからといって深く話し合いたいテーマでもなかったので、私は話題を夢に関するものに戻す。

私が守りたかった偽りの世界。君が教えてくれた真実の世界。

サクラの降る町 ―白ノ帳―

私が守りたかった偽りの世界。君が教えてくれた真実の世界。
  • 著者 | 小川晴央
  • Illustration | フライ
  • 発売日 | 2021年12月10日(金)
  • 価格 | 713円(税込)
  • ISBN | 978-4-910052-24-3