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前章

「まずい状況になりましたね」
 最低限の灯りしかない暗い一室で、壮年の男性官吏かんりは口を開いた。叱責するような口調だった。
 それに対し、真向かいに座る女性官吏が謝意を表すようにこうべを垂れる。
「再三警告したはずですが……いったいどうして、あなたは貴人を敵に回してしまうのでしょうか」
「ご心配をおかけして申し訳ありません、木暮こぐれ様」
「心配をかけているのではなく、迷惑をかけているのですよ、雪代ゆきしろ殿」
 呆れるような溜息が暗闇にこぼれる。
「よもや、薬殺阻止に挑むとは……」
「致し方ありません。わたしの職掌しょくしょうに関わることですから」
呪殺じゅさつならまだしも、薬殺の企てを阻止しようとするなんて。いや、呪いの方がまだ都合が良かった。あれはただ信じるか、信じないかによって実害が変わりますからな。ところが薬殺は違う。これは呪いで片づく話ではない。ヒトのまわしい業――欲望に忠実な行いです。呪いであれば下手人につながる糸を手繰たぐるのは難しいが、薬殺となれば必ず仕掛けた本人に行き着く。あなたは進んで虎穴こけつに近づいているのです。そこがどれほど危険な場所かを理解せずに」
「虎穴に入らずんば虎子こじを得ず。正しいことをするためには多少の危険を覚悟しなければ」
「命を落とすほどの危険であることを認識して頂きたい」
「……しかし」
「確かにヒトの業は呪いよりマシです。あやふやなものではなく、意図や感情という明確な形がありますから、捉えることも正すこともできるでしょう。ただ、命が危うくなる状況であれば、そこから身を退き、安全な場所に逃げることが定石。あなたは定石を無謀にも捨てたのです」
 ふたたび溜息。木暮という男は言葉を続ける。
「予定をはやめます。あなたの命を守るためにも、早急に随身ずいしん(護衛)を手配しなければ」
「……しかし、木暮様から随身をお借りするわけにはいきません。木暮様の随身をはべらすとなればいたずらに注目を集めてしまいます」
「そう思うのなら、もっと慎重に動いて貰いたいですね」
 木暮はわずかに笑いを含んだ口調で続ける。
「ご安心ください、雪代殿。わたしの随身をお貸しするのではない。あなたが雇う随身を用意すると言ったのです。古い伝手つてがあります。腕が立つ武官を育てている所に急使を遣わして、有望な若者を出仕させましょう」
「……わたしが、随身を雇うんですか」
 雪代の声には、困惑する響きがあった。
「自分の随身を持つことで、すこしは責任感も芽生えるのでは」
 木暮の声には悪戯いたずらっぽい響きがある。
 しばし迷うような沈黙を経て、雪代は声を絞り出す。
「随身の件ですが……わたしが、会いに行かなくてもいいんでしょうか」
「そこは限られた者しか立ち入ることを許されない。秘密の場所ですから、あなたをお連れすることはできません。わたし自ら現地におもむくので、ご安心ください」
「木暮様が直々に赴くなんて……何者なんですか、そこで訓練されている武官たちは」
「多くのことを語れませんが、朝廷に優秀な武官を献上する役目を担う秘密の集落です。実際に当人の働きを見れば分かるでしょう。彼らがどれだけ優秀なのかを。腕ばかりではなく観察力や思考にも磨きがかけられた逸材を――」
 木暮はわずかに間を置いた。
「その名は、――『飛廉ひれん』といいます」

典薬寮の魔女

てんやくりょうのまじょ

  • 著者:橘 悠馬
  • イラスト:遠田志帆
  • 発売日:2020年4月24日
  • ISBNコード:978-4-910052-07-6
  • 発行元:京都アニメーション