『ツルネ ―風舞高校弓道部―』試し読み
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 第一章  夜多の森

 見上げると、湊の瞳には霞む青い空が映った。
 十五歳という年齢にふさわしい、しなやかな体をトレーニングウエアで包み、山肌に雪が残る一本道を進んだ。梢のトンネルをくぐると、遠くに三両編成の電車がゆっくりと走る姿が見える。周囲の山々は萌黄色にけぶり、山桜の花がところどころ滲んでいる。
 山笑う季節だ。芽吹く木々がまぶしい。
 毎朝の日課であるランニングの終着地点は近所の公園だった。隅にある水道で顔を洗うと、Tシャツの裾をまくりあげてぬぐった。むきだしになった左脇腹からは、一筋の白い痣がのぞいている。
 きちんと拭けていないため、前髪からは水がしたたり落ちていた。本来の彼ならば、このような横着なことはしない。タオルを忘れてしまったことと、ここから立ち去らなければならない理由が近づいていることを、察知しての行動だった。
 近所に散歩といったラフな格好の少年が、湊の隣に立っていた。フルリムのプラスチックフレーム眼鏡はなじみのもので、知的で冷静な彼を象徴するものの一つだ。湊よりずっと大人びた印象を受けるのは、少年が十六歳の誕生日をすでに迎えているためだけではないだろう。
 相手を茶化すような笑みを浮かべていた。
「おはよう、湊。春とはいえ、朝はまだ冷えるね」
「……静弥せいやか、おはよう」
 湊は静弥に会いたくないわけではなかった。むしろ親友と呼べる唯一の人物で、一番つきあいも長い。だが、トレーニング中はできれば会いたくなかったのだ。
 静弥はそのことをわかったうえで、何食わぬ顔で言った。
「いつもは父さんの役目なんだけどね。今朝は忙しくて僕が代わったんだ」
「ああ、クマの散歩か」
 この会話だけ聞くと、ぎょっとする人がいるかもしれない。「クマ」というのは犬の名前だ。バーニーズ・マウンテン・ドッグというスイス原産の山岳犬だ。暑さには弱いので、標高が高く、日本の中でも比較的涼しいこの土地は最適だ。
 バーニーの部分をとって「バニーちゃん」とウサギみたいな呼び方をする人はいても、「クマ」と名づける人は滅多にいないだろう。静弥のセンスを疑うが、この名前をつけることを許可した家族も敬服に値する。
 湊はクマにもあいさつをすると、クマはしっぽをパタパタとさせた。黒、白、茶のつやのある長い毛を持ち、目の上にある丸い茶色の毛が眉のようだ。抱きしめると、伝わる体温が心地いい。クマは湊の顔をペロリと舐めた。さらに湊の左脇腹に鼻を近づけて、見せろという仕草をする。
「こらっ、クマ、くすぐったいって。そこはもう大丈夫だから」
 たしなめられるとクマはすぐやめて、湊のそばに座った。四年前はやんちゃな子犬だったが、やさしくて賢く育った。ご主人によく似ている。
 二人と一匹は公園をあとにすると、裏の林へと入っていった。クマは人の役に立つことを喜ぶような犬で、ぼくについて来なさいとばかりに先頭を進んだ。車で行ける舗装された広い道があるがこちらのほうが近道で、途中からはひと一人がやっと通れるほどの狭い道となる。土地の者が行き来することでできた道、いわば獣道だ。
 いつもと違う朝に調子を崩したのか、転びそうになった湊の腕を静弥がつかんだ。
「大丈夫? 入学式の朝にコケて欠席したら、華々しい高校デビューだね」
「うるさい」
「まあ、そのときはうちの特別病室で、僕がつきっきりで看病をしてさしあげよう」
「丁重にお断りしとくよ。静弥じゃ、何されるかわかったもんじゃない」
「そんなことないよ。ね? クマ」
 クマは、肯定なのか否定なのかよくわからない返事を一つした。
 静弥の家は整形外科医院で、湊の家の真裏にあった。鳴宮なるみや湊と、竹早たけはや静弥にとってこの日は、同じ高校の入学式だった。山間の小さな町なので、高校が一緒というのは珍しいことではない。だが湊はこのことを、つい先日まで知らなかったのだ。経済的な理由から近所の公立高校を選んだ湊と違って、静弥なら県内一の学校や難関私立校だって選べたのに。
 何かすっきりしないものを感じつつも、湊はこれからはじまる新しい生活に思いを馳せた。

 風舞かぜまい高校入学式。
 この地方ではまだ咲かないはずの桜が、湊たちを迎えてくれた。
 春の訪れが早く浮かれているのは草木ばかりではなかった。式典のあと新入生を待ちかまえていたのは部活動の勧誘だ。赤やオレンジの色鮮やかなボンボンを持ったチアリーダー部の女子や、「パスは愛だ!」と書かれた応援幕を抱えた恰幅のよい男子など、どの集団も声を張りあげている。
 早速、サッカー部につかまっている新入生の姿もあった。日焼けした肌に、眼光だけがやたら鋭い。その隣には人目を惹くアイドルのような少年もいて、しきりに女子マネージャーに手を振っている。
 興味深げにあたりを見まわす静弥を横目に、湊は足早にその場を通りすぎようとした。ところが、いきなり、ひとまわりは大きい男に後ろから肩を組まれ、二人は身動きが取れなくなってしまった。
 なんて強引な勧誘なんだと、 湊はムッとした表情を相手に向けた。すると、目の前には人懐っこい笑顔があった。デジャブに似た感覚を覚える。
「湊だろ? こっちは静弥! 久しぶりだなあ。まさかおまえらに高校で再会するとは思ってなかったよ。すっげえうれしい」
「って、もしかして遼平りょうへい!? おまえ、デカくなりすぎだろ? 一瞬わかんなかった」
 静弥も続けて言った。
「湊は気づいてなかったけど、クラス分け名簿に遼平の名前を見つけていたよ」
「俺は、静弥が新入生代表の宣誓をしてたからわかったんだ。やっぱ、静弥は今でも頭いいんだな、すげえや。湊はしばらく見ないうちに、ますますカッコよくなってるし」
「その、親戚のおじさんが、甥っ子たちをおだてるみたいなセリフはやめろ」と湊が言うと、遼平は伸びをしながら、心底不思議そうな顔をした。
「そうなの? 俺は見たままを言っただけなんだけど」
 山之内やまのうち遼平は小五で転校した幼なじみだ。体は大きくなったが、中身は無邪気な子どもそのままだった。他の人に言われたら嫌みに取れるような言葉も、遼平が口にすると笑いを帯びる。子犬になつかれて本気で怒る人は少ないだろう。
 懐かしい顔に、緊張ぎみだった湊の顔もほころんだ。学校帰りに川で泳いで靴をなくしたとか、休診日に静弥の病院に忍び込んでテーピングで遊んで叱られたとか、幼少時の話をはじめるときりがなかった。兄弟のように過ごした面子だ。妙な連帯感がある。
 興奮冷めやらぬ三人だったが、近づいてきた小柄な男によって会話は中断された。遼平の知り合いだった。
「トミー先生、どうしたんすか?」
「トミー先生?」と湊が言う。
「そ、うちのクラスの担任で森岡富男もりおかとみお先生」
 トミー先生はおじいちゃん先生だ。三人を見まわすと背伸びして、ググっと顔を近づけた。
「わしはとある密命を受けておってのお。仲のいい君たちを見込んで、白羽の矢を立てにきた。密命とはミッションのことじゃよ」
「ミッション!? なになに??」
 湊はなんて胡散くさいと思ったが、遼平の目は好奇心いっぱいにキラキラと輝いた。
「じつはのお、この学校には弓道部があるんじゃが、最近はほとんど活動してなくての。校長から再建の命を受けたんじゃよ。弓道は個人競技と思われがちじゃが、皆の息がピッタリ合わんと上手く引けんのじゃ」
『弓道』という単語に、湊の心臓は高鳴った。
 遼平は「それで、それで?」と、すっかりその気になっていた。
「俺の行ってた中学、武道必修科目で弓道が選べたんすよ。弓道の先生に『君は筋がいい』って褒められちゃってさ。高校入ったら本格的にやってみようと思ってたっすよ。それに、湊たちに影響されたのもあるかも」
「そちらのお二人は弓道経験者かね?」
「そうっすよ。鳴宮と竹早は、中学のとき弓道部っす。特に鳴宮は弓道がやりたくて、弓道部のある私立中学を受験したって聞いてます。昔から弓の話ばっかしてたし」
 トミー先生は破顔した。
「弓道部のある中学は少ないから弓道経験者は貴重なのに、なんと三人もいっぺんに見つかるとはっ。わしの目に狂いはなかった。このミッションは成功したも同然じゃ。ではでは皆の者、まずは弓道場へ参ろうか」
 湊は慌てた。勝手に話を進めてもらっては困る。
「待ってください。僕はどこの部にも入らないつもりなんです。母が亡くなっているので家事はほとんど僕がしていて、父の夕飯も作らないといけないですし……すみません」
 湊の左脇腹にある白い痣は、母とともに交通事故に巻き込まれた際に負った傷の痕で、静弥がクマを飼いはじめたのは事故から一か月後のことだった。だが、すでに四年が経つ。無邪気なクマと、時間と、そして情熱を注いだあるものが、傷ついた湊たちを癒してくれた。傷痕が白くなっていることがその証だ。
 じゃあ、なんで毎朝の走り込みを続けているの――?
 湊には、静弥の声が聞こえたような気がした。だが、静弥は何も言わなかった。
「残念じゃのお。まあ、状況が変わったら、ぜひ見学だけでも来ておくれ。そちらの竹早くんと山之内くんはどうじゃね?」
「ぜひ、入部させてください」
「俺も俺もっ」
 隣にいるはずの静弥が遠く見えた。
 湊は部活動をやらない。静弥は弓道部へ入部する。
 なんの問題もないはずなのに、ざわついた胸の内がおさまらない。静弥は振り返ると、真っすぐ湊を見た。
「先に弓道場へ行っているよ」
「おれはもう弓道はやらない」
「僕は知ってるよ。湊が大切なものを持ち歩いていることを」
 湊は思わず鞄を押さえた。そして静弥のハッタリに引っかかったのだと気づいたとき、その場から立ち去ることだけが、湊にできるささやかな反撃だった。
 
 クラスメイトや女子からの誘いも断り、湊は一人帰宅した。
 父との二人暮らしだったが、静弥とその両親が親身だったこともあり、寂しいとか不便といったことをそれほど感じたことはなかった。トミー先生には家事が忙しいと言ったが、湊の父は家で夕食をとらない日も多いので完全な言い訳だ。鞄の中にトンボ柄の巾着があるのを確認すると、暮れゆく空の下へ飛びだした。
 自転車に乗るのが好きだった。
 風は冷ややかで、抱え込んだ言葉をさらい、疼く熱を冷ましていく。しばらくいくと長い坂にぶつかった。立ち漕ぎでのぼっていると、後ろから来た車がクラクションを鳴らした。ちゃんと端を走っているのに、鳴らされたりするのは心外だ。
 目的地も決めずにふらふらと走りまわり、そろそろ引き返そうとしたとき、目の前に黄色い小鳥が飛びだしてきた。湊が走る前を一羽のキセキレイが飛翔する。道の両側は森だというのに、いつまでも舗装された道の、地面ぎりぎりを滑空している。
 気がつくと、湊は見慣れぬ場所にいた。黄色い鳥は消え去り、代わりに「夜多やた神社」という古びた案内板が目にとまる。鳥居の袂に自転車を停めると、石段をのぼった。
 そこは夜多の森と呼ばれる、コナラやミズナラなどの落葉樹が生い茂る森だった。見上げる湊を試すように木々は揺らぎ、ざわざわと音を立てる。薄闇の中、手を合わせて天に祈りを捧げているような新芽が光った。紅紫色のミヤマツツジの蕾は固く、茶色の帽子をかぶっている。どこからかホッホ・ゴロスケホッホという鳴き声が響いた。
 森を抜けると、夜多神社にたどり着いた。一本の桜の木があり、足元は薄桃色に染まっている。社は古くこぢんまりとしており、人の気配はなかった。
 幽霊でも出てきそうだな……。そう思ったとき、聞こえてきた音にはっとなった。
 弦音だ、弦音が聞こえる――。
 どこからか、カーンという高い音が聞こえてきたのだ。
 大地から芽を出すと一夜にして天へ向かう竹のごとく、伸びやかで冴えた響き。弓で金属音のような音色が出せるなんて信じられない。弦音は、矢を発したときに弦が弓を打つことで鳴るといわれ、矢を離してゆるんだ弦が、元の形にピンと張り戻るときの音も弦音と考察される。
 古い記憶と重なった。幼いときに母と見た、あのときの射手が引いているのではないかと。
 拝殿の隣の建物には明かりが灯っていた。
「夜多の森弓道場」の看板が掲げられた日本家屋で、入口には作りつけの郵便受けがあった。かなりの年代もので、木は腐食し苔むしているところもある。早鳴りする胸を押さえて玄関前を通りすぎると、建物の右脇へと進んだ。
 こんな夕暮れの森の中で弓を引いているのが人とは思えなかった。もしかしたら本当に幽霊なのかもしれない。いや、幽霊でもかまわない。
 どうか、消えないでくれ。
 おれが行くまで消えないで。
 そう念じながら木々を抜け、屋外観覧ができる一角へとまわった。竹柵で仕切られた先をのぞくと、蛍光灯で照らされた広い射場が見えた。
 白の弓道衣に袴姿の、若い男が一人。
 さすがにあのとき見た射手とは別人だった。二十代くらいで、肩にかかる長さの髪を一つに結んでいる姿は神秘的でもある。
 男は弓に矢を番えると、弦や矢に問題がないか目で確認した。右手で弦を取り、左手は弓を握る。的に顔を向けると、弓矢を持った両手を上へあげた。無風帯の日に、空に煙がゆったりと立ちのぼるような風情――弓道教本どおりの動きだ。
 矢の長さの半分ほどを引いていったん止め、そこからさらに大きく引いていった。これを大三だいさん引分けひきわけという。日常、言葉では「弓を引く」と使うが、和弓は持ちあげた弓を左右均等に押し開く動作をしている。
 クライマックスは「かい」だ。会とは、自分に一番適した長さまで弓を引き絞ったときの呼び名だ。矢が放たれるまでの長い間は、弓と人が一体化した瞬間。まさに人と弓が出会った瞬間だ。湊の目に映る男は、奇跡という演目を演じている役者のように優雅で――。肌が粟立つとともに、矢は的へと吸い込まれていった。
 ど真ん中に的中だった。しかも、その一射だけではない。先に放たれていた五本の矢すべてが的に刺さっていた。その後、矢取りを終えるとまた六射し、そのすべてがあたった。
 十二射皆中。
 これが試合だったら優勝している。いや、優勝がどうとかより、とにかくきれいな射だ。男は弓を置くと正座をして、ゆがけと呼ばれる手袋をはずした。
 また矢取りに向かった男を見送ると、湊は大きく息を吐いた。汗ばんだ手のひらを上着にこすりつける。声をかけてみようか迷っていると、突然、頭上でギャッという声が聞こえ、思わず体がビクッと震えた。
「……なんだ、フクロウか。驚かすなよ」
「おまえ、何してんだ?」
 人の声がした。
 異変に振り返ると、先ほどの男が目の前に立っていた。涼やかな目元と高い鼻梁、上背があり、均整のとれた恵まれた体躯の持ち主だった。けれど音もなく近づくなんて、この男はいったい何者なのだろうか。
 
 男は持っていた藍染の手ぬぐいを左腕に巻きつけると、木々に向かってかざした。「フウ」と呼ぶと、大きく羽を広げたものが降下してきて、男の腕にとまった。
 羽ばたきが風を起こす。
 立ち尽くしている湊を尻目に、男はハート型の顔をした存在に話しかけた。
「フウ、おまえのほうが驚いたよな。こんなところに人がいてさ」
「……すみません。あの、『フウ』ってもしかして、そのフクロウの名前ですか?」
「そう、いい名だろ? 昔、ケガをしたこいつの世話をしたことがあって、そのときにつけたんだ。熟考したんだぜ。あ、保護の許可は取ってるからな」
 ものすごく安易につけられた名のような気がするのは気のせいだろうか。犬にクマと名づけるよりはましといおうか。
 フクロウ科のフクロウは、鷹狩りに使われるオオタカと同じくらいの大きさがある。フウは男の長い指を甘噛みした。まだら模様の羽を撫でると、気持ちよさそうに大きな瞳を閉じる。
「ずいぶん懐いているんですね」
「懐くというより慣れるかな。俺が呼ぶとエサをもらえると思ってるんだよ。今日はないのに呼んでしまったからなあ。悪いな、フウ」
「エサって」
「ピンクマウス、皮を剥いだネズミ」
「ですよね……」
「さわってみるか? ただし大きな声は禁物な。フクロウは耳がいいんだ」
 言われて、湊は恐る恐る手を伸ばした。頭から羽へと撫でると、フウはきゅうと体を縮めて、腰が引けたみたいな格好になった。
「なんか、ふわふわしてる」
「フクロウが音もなく飛べるのは、羽がやわらかいおかげなんだ。それよりおまえ、左手の甲から血が出てるぞ」
「えっ」
 見ると、確かに血が滲んでいた。枝か何かで切ったのだろう。ヒリヒリと痛む。
「薬があるからついて来な」
「いえ、あのおれは……」
「まさかおまえ、俺を警戒してるのか? 別に薬代を請求したりしないから安心しろ」
 男は目を細めて、ニッと笑った。
 すべるように射場を行く男の後ろにつき従った。射場の脇正面は審判席で、十二畳ほどの広さに畳が敷きつめられ、床が一段高くなっていた。上座にあたるので、神棚や国旗などが祀られている。この審判席を通り抜けた右手奥が、この道場の控え室だった。
 男は湊の左肩にフウを乗せた。予想より軽く、心地よい重みとともに、フウの足が湊の肩をしっかりとつかむ。爪がカットされていないので服に穴があきそうだ。湊の意識がフウに集中しているあいだに、男は小物入れの引き出しを開けた。
「さてと、薬はどこにあったっけ……あっ」
 ガシャンと嫌な音が響き、引き出しごと中身があたりに飛び散った。今度はフウがビクッと震える。男は奥にあった薬を取りだそうとして、引き抜いてしまったのだ。
「あちゃあ、またやってしまった」
 またということは、頻繁に引き出しを引き抜いて、中身をばらまいているということか。
「だ、大丈夫ですか?」
「へーき。これは最近のやわなのと違って頑丈だから。おっと、あったあった」
 男は散らばった品々の中からちびたチューブを見つけると、湊に差しだした。塗り薬はかなり年季が入っていて効能が疑われる。
 薬を塗っているあいだ、切れかかった蛍光灯がまたたいていた。湊とフウが天井を見上げると、それに気づいた男は言った。
「悪い、目がチカチカするよな。替えの蛍光灯はあるんだけど面倒くさくて。そのうち誰かが替えてくれるだろう」
「……おれがやります」
 肩に乗ったフウを男へ返し、新しい蛍光灯を受け取ると、部屋の隅から脚立を出した。これまた年代物だ。
 男は飄々とした口ぶりで言った。
「サンキュウ。いつもは切れるまでほったらかしなんだ」
「あなたの家はすべて、取り替え回数の少ないLED照明にしたらいいと思います」
「なるほど。おまえ頭いいな」
 嫌みを言ったつもりだったのに、全然通じていないようだ。
 男は射場の縁まで行き、屋外へ向かって腕を振った。フウは夜の森へと消えていく。それを見送ると、鞄から何やら取りだした。
「ひと仕事のあとは一杯やるのが一番。ほら、これは礼。ぐいっといってくれ」
「結構です。飲酒は法律で二十歳からと決まっていますし、お酒を飲むと脳が委縮するので」
「……おまえ、すごいな。なんて真面目なんだと言いたいとこだけど、よく見てみろ」
 男が手にしていたのは、雪山の絵が入った缶コーヒーだった。
 飲み終えると缶を脇へ置き、また的へと向かった。手持ちの矢を射終えると矢取りに向かう、その繰り返しだ。
美しい所作を、缶を手にしたまま見守った。湊の見物を気にとめるでもなく、帰れとも言わない。いつの間にか、傷の痛みも引いていた。
 ノートに何か記入しているので尋ねた。
「何射あたったんですか?」
「○×はつけてない。矢数やかずだけ」
「今、いくつ?」
「八十」
「八十射? いつもそんなにたくさん引いているんですか?」
「ああ。一日百射を毎日続けて、計一万射を目指してるんだ。今日で七十九日目」
「何か目的があるとか」
「特になし。いうなれば酔狂ってとこだな」
 男はまた、三日月のように目を細めて笑った。
 紺青の穹天に映える弦音。
 自転車のペダルに足をかけると、頭上には月が輝いていた。

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