『ツルネ ―風舞高校弓道部―』試し読み
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 あれはなんだったんだろう。
 あれは誰。
 息を呑むほどの美しい射と、黒々としたフウの瞳が思い起こされる。
 ネット検索しようにも、入力すべき単語が見当たらなかった。夜多の森弓道場はホームページを開設しておらず、県内にある弓道場一覧に名を連ねる程度だった。そもそも個人情報保護法のもと、所属している人を公開しているはずもない。こんなことなら男の名前くらい聞いておくべきだった。でも、名を聞いてどうするというのだろう。
 湊は下校のため昇降口へ向かっていた。開け放たれた窓の外は明るく、部活へ向かう人々のざわめきが聞こえる。まだ遠い日暮れに目を細めると、風が凪いだ。
すると、またも背後から肩をつかまれた。もう確認するまでもないだろう。
「……遼平」
「おっす湊。何ぼーっとしてんだ?」
「おまえ、自分がデカくなってるって、わかってる? 重いんだって」
「わりい、つい癖で」
 悪いといいつつ、肩にまわした手はそのままだった。反対の手は、通りすぎる人にひらひらと振っている。
 遼平は小学生のころからよく肩を組む少年だった。人にベタベタされるのが苦手な湊だったが、遼平の笑顔を見るとむげにできず、されるがままになってしまう。湊と静弥がケンカをしたときも、遼平があいだに入って肩を組み、「おまえらがケンカしてると悲しい」と涙目で訴えられ、怒るに怒れなくなってしまったことが何度かあった。そのときと似たような感覚を覚えて、湊は嫌な予感がした。
「まだ家に帰るには早いだろ? 弓道部の説明会、一緒に行こう」と遼平は言った。
 すかさず湊も答える。
「やだ。行かない」
「いいだろ、説明くらい聞いても。トミー先生は腰痛で実技ができないから、静弥が見本を見せるらしいよ」
「遼平、おまえ静弥に買収されたんじゃないのか?」
「買収なんかされてないよ。でも、湊にはこう伝えてって頼まれた。『今日来なかったら、二度とクマに会わせてあげない』ってさ。あそこの家、とうとうクマを飼いだしたのか、すげえな」
 いやいや、そこは感心するところじゃないだろうと、湊は心の中でツッコんだ。
「俺にとって静弥は賢者で、湊は勇者なんだよなあ。湊には武勇伝もあるだろ? ほら、幼稚園の遠足のときのこと、覚えてない?」
「遠足? ああ、スズメバチが腕にとまってたのに、振り払わずにそのまま歩いてたこととか?でも、あれはたいしたことじゃないって。スズメバチが寄ってきても、手で払ったり殺してはいけないと、先生から再三注意されてたから」
「違うよ! おまえ、俺がさわれなかったザリガニを素手で捕まえてただろ。あれ見て、『こいつ、かっけえ!』って思ったんだ」
 湊は完全に脱力し、自らの膝に手をついた。
「遼平、おれたちはもう、幼稚園児や小学生じゃないんだ」
「高校生になったからって、何が違うのさ」
 遼平の無垢なまなざしが湊を射貫く。
 湊は一人っ子だが、いつも自分の後ろについてきたやんちゃな弟が、急に大人びたように錯覚した。
「じつは俺、中二のときに偶然、湊が弓を引いてるところを見たんだ。バシバシ矢が的にあたってるのを見て、すげえ興奮した。俺もこんなふうに引いてみたいって思った。湊たちと一緒に弓道やりたいって――。湊は家の用事が忙しいっていうから、このあいだはあきらめたけど、俺や静弥が協力すればなんとかなるんじゃないかな?せっかくこうして会えたんだぜ。説明だけでも聞いてみようよ。それから結論出せばいいじゃないか」
「遼平、おれは……」
「俺は湊と一緒に弓道がやりたい……ダメなの?」
 遼平の頭にしょんぼりと垂れた耳が見えるようだった。湊は昔から、年下のあしらいが下手だった。
「……わかった。とりあえず聞くだけなら」
 遼平の顔がぱあっと明るくなった。静弥がからんでいるのが納得できないが、こんな顔をされては断れない。不甲斐ない自分に、湊はがくりとうなだれた。

 そのころ静弥は、トミー先生とともに皆より先に弓道場へ向かっていた。
 風舞高校弓道場は、校庭の隅にひっそりと建っていた。近的競技用で、射距離は二十八メートル、六人が同時に引ける広さが確保されている。使われていなかったわりに手入れが行き届いているのは、トミー先生が春休み中に、シルバー人材を導入して奮闘したおかげだ。静弥は息を吹き返したばかりの「風舞高校弓道部」の表札を手でなぞった。
 射場へ入場したら一礼し、上座の前まで進みでて二礼した。弓道場が裸足厳禁なのは、人様の家へ裸足であがるのが失礼なのと同じ理由だ。
 弓道場の準備は、まずあずち(安土)に水をかけ、的の中心が垜敷より二十七センチの高さに的をつける。的は霞的かすみまとと呼ばれる、同心円の黒線が描かれた直径三十六センチのものを使用する。
 次は弓具の準備だ。矢を矢立箱やたてばこに置き、弓に弦を張る。の高さ――弓の握りと弦の間隔は約十五センチにする。高さを測る専用の道具もあるが、静弥は右手を「いいね」と親指を立てた形にして測っている。さらに「ぐすね」で弦をこする。麻弦あさづるで編んだ小さなわらじの中に、くすねという松脂まつやにと油を煮たものが入っていて、摩擦で溶けることで弦のけばだちが整えられる。「手ぐすねを引く」ということわざはまさに弓由来だが、くすねの用途は異なる。
 ここまでできてから着替えに入った。弦を張ってすぐ行射ぎょうしゃすると弓の故障の原因になるため、早めになじませておく必要があった。
 巻藁まきわらに向かう静弥を見て、トミー先生は言った。
「あれ、竹早くん、眼鏡は?」
「ドライアイなので眼鏡派なんですが、弓を引くときだけはコンタクトにしているんです。以前、弦に引っかけて眼鏡を飛ばしてしまったことがあって」
「レンズ割れちゃってショックなんじゃよなあ。でも、普段眼鏡をかけてる者が眼鏡をはずしたときって、なんとも無防備でいいと思わんかね?」
「今の僕はばっちり見えてますからね。無防備どころか完全攻撃態勢ですよ」
「こりゃ、おっかない」
「トミー先生、僕を弓道部に誘ってくださってありがとうございます。ミッション、必ず成功させましょうね」
「頼りにしとるよ」
 ふおっほっほ、とトミー先生は笑った。
 静弥にとって、トミー先生はうれしい誤算だった。風舞高校弓道部が廃部寸前であることは受験前から調べ済みだった。おそらく湊も知っていただろう。だから、自分の手で弓道部を復活させるつもりでいたのだ。
 追い風は吹いている。
 もう一度、あの場所に立つための――。
 見えない力が背中を押してくれていると、静弥は自らを鼓舞した。
 この日、弓道入門教室と銘打った説明会が開かれることになっており、徐々に人が集まりはじめていた。男女合わせて二、三十人はいるだろうか。男子のお目当ては部活紹介だけではなかった。
「弓道女子ってレベル高いと思わね?」
「それな」
 だが、人目を惹く一人の男子の登場によって、男子の野望はあっけなく潰えた。
「遅くなりましたあ。準備ありがとうございまっす」
 女子から「七緒ななおくーん」という声がかかると、ピースにした手をひと振りした。「メッハー」「メッハー」と、意味不明なあいさつをかわしている。
 少し癖っ毛の明るい髪と、全身からキラキラ光線が発射されているような少年だった。手にした矢筒には「豚に真珠」ならぬ「カエルに真珠」のアクセサリーがぶらさがっている。
 静弥は弓を置くと、七緒を手招きした。
如月きさらぎ七緒くんだよね? 僕は今日一緒に組む竹早静弥、よろしく。その矢筒やづつについてるカエル、おもしろいね」
「ああ、これ、いいっしょ? カエルグッズを集めてるって言ったら、女の子たちがプレゼントしてくれちゃってさあ。今、部屋じゅうカエルだらけ。あっ、オレのことは七緒って呼び捨てでいいから」
「わかった、僕も静弥って呼んでくれ。ところで、さっき『メッハー』って言ってたけど、あれは何?」
「『メルハバ』の略だよ。トルコ語でこんにちは」
 なぜトルコ語なんだと思いつつ、静弥はスルーすることにした。こういうところも女子人気が高い理由なんだろう。弓道をやっている男子ではあまり見ないタイプだ。
 弓と矢筒を預かっていると、もう一人、弓道場に似つかわしくない者が現れた。
 日焼けした健康的な肌を持つ少年だった。眼光が鋭いためか、さわやかスポーツ少年というよりは野性的で、どこか近寄りがたい雰囲気を漂わせている。七緒を取り囲んでいた女子も、さっと遠巻きになった。
「七緒、入り口で止まってんじゃねえよ。早く中へ入れ」
「えー、かっちゃんはせっかちさんだなあ」
「かっちゃんはやめろ」
「かっちゃんはかっちゃんだろ? 今さら他の呼び方できないよ」
「おまえと同じ高校で、さらに同じ部活なんて最悪」
「サッカー部行けば? 入学式の日もサッカー部の人たちに『君、中学のときはどこのポジションだった?』とか、聞かれてたっしょ?」
「サッカー部じゃねえ、俺は弓一筋なんだよ。おまえみたいに、袴をはくために弓道はじめたやつとは違うんだ」
「オレの袴姿イケてるよ。もちろん、見かけ倒しじゃないっす。今日は女の子たちに、オレのほれぼれする姿見せてあげないとね。だから、かっちゃんもしっかりやってよね」
「おまえにだけは言われたくねえな」
 呆気にとられている静弥に気づいたのか、七緒はあらためて紹介した。
「こっちは小野木海斗おのぎかいと。オレのいとこね」
「小野木くん、竹早です。よろしく」
「……おまえ、どこかの試合で見たことあるな。どこの中学だ?」
「そう? 私立だからこの辺じゃないし、名前をあげても知らないと思うよ。それより、そろそろはじめたいから、二人とも先に着替えてきて。弓は僕が張っておくよ」
 海斗は何か言いたげだったが、静弥に道具を託すと控え室へ向かった。

 第一回・弓道入門教室がはじまった。
 静弥は集まった人の中に湊と遼平の姿を見つけて、「遼平、グッジョブ」とつぶやいた。
 トミー先生はコホンと咳払いした。
「みんな、足は崩しておくれ。よく集まってくれたのお。わしは人気者じゃ。照れるのお」
「ベタな前置きはいいから、早く話を進めてください」という声に笑いが起きる。
「では、まずお願いじゃ。弓道は武道じゃ。あいさつをしっかりな。そして、ここが肝心なんじゃが、弓に矢を番えたら、冗談でも絶対に人に向けてはいけない。離すつもりがなくても矢が飛びだしたら、大事故につながるからね。矢を番えないで弓を引く『空打からうち』も、弦が切れて危ないので絶対にしないように。これは必ず守ってね」
 続いて、脇正面の右側に掲げられた「礼記らいき射義しゃぎ―」と「射法訓しゃほうくん」を唱和した。前者は「射は進退周還しんたいしゅうせん必ず礼にあたり、うちこころざし正しく、そとたいなおくして、然る後に弓矢をること審固しんこなり」ではじまる、おもに弓道の理念を説いた銘文だ。後者は「射法は、弓を射ずして骨を射ること最も肝要なり」ではじまる、吉見順正よしみじゅんせいによる、おもに術技の遺訓だ。
 トミー先生は前列にいる生徒に質問した。
「君、意味はわかるかな?」
「いえ、全然」
「わしもはじめは何が書いてあるかさっぱりじゃったよ。でも稽古を続けていれば『ああ、このことを言ってるんだな』ってことがわかってくる。君も楽しみにしておいてね」
「はい」
「そしてこれは呼吸法にもなるんじゃよ。音読は息を吐き続けることになるので、副交感神経を高めて緊張をやわらげる働きがあるんじゃ。弓引きに必要なのは平常心。弓道のエッセンスを学びながら呼吸法もできて一石二鳥じゃろ?」
『なるほどー』
 誰かの声が重なった。
 遼平と七緒だ。いつのまにか遼平の隣に七緒が座っていて、顔を見合わせてクスクス笑っている。二人をはさんで両端にいる湊と海斗は仏頂面だった。
 トミー先生は弓具を掲げた。
「弓道に必要な道具はおもに三つ。弓と矢、そして、『ゆがけ』じゃ。これは鹿皮でできた、手を保護するグローブで、学生のほとんどは三本指のがけを使っとるよ。まずは実際の射技を見てもらおうかの。試合は三人だち、または五人立で行われる。今日は三人立じゃ」
 静弥と海斗、七緒の三人が腰をあげたときだった。ちょっとすみませんと言って訪れた者は、校内放送で七緒に呼び出しがかかっていると告げた。
「マジっすか? オレ、何かやったっけかなあ。トミー先生すみません、ちょっと行ってきます。なんだったら、代わりに別の人にやってもらっちゃってください」
「えー、七緒くんが引かないなら帰ろうかな」などという女子の声に、トミー先生はあたりを見まわした。
「そうじゃ、もう一人経験者がいたのお。しかもイケメンじゃよ。鳴宮くん、袴に着替えんでいいんで、ちょっと引いてみてくれんかの」
 湊は間を置いて、「ええっ!?」と大きな声をあげた。
「無理です。おれはもう半年以上、弓を握ってないんです」
「やり方を見てもらうだけじゃから。道具も借り物になるし、あたらないのは当然とみんなもわかっとる。みんなも彼の射、見てみたいよのお?」
 一同がいっせいに拍手をしたため、湊は断りづらい状況に追い込まれた。
 湊の準備を待つあいだ、他の人は弓具にさわってみようということになり、トミー先生たちは壁際へと移動した。
 海斗は矢を手にすると、湊に近づいた。
「ボタンに弦を引っかけるとまずいから、胸当てするか体操着に着替えろ。弓は何キロ使ってた? 矢束やづか測るから左腕を水平に伸ばして」
「ちょっ、ちょっと待てって。おれは引くなんて一言も言ってない。そうだ、遼平も中学の授業で引いたことがあるって」
「授業で引いたくらいじゃ、まだ危なっかしいだろうが。あたらなくて当然とトミー先生も言ってんだし、誰もおまえの腕前なんか気にしちゃいねえ」
「そうじゃない、そうじゃないんだ……」
「なんだよ、うっせえな。頼まれごとの一つや二つ引き受けろよ。弓引きの端くれとして恥ずかしくねえのかよ?」
 弓引きという言葉に、湊は言葉を失った。
 海斗はそれを了承ととらえ、湊ののど元を起点に矢の長さを確認した。短いと、引いたときに弓の内側に矢を引き込んでしまい、暴発させてしまう危険性があるからだ。
 静弥は湊のそばに立った。
「まずは巻藁で試射してみようよ。それで無理そうだったら断ろう。弽は部の備品があるけど、どうする?」
「……それはいい」
「わかった。体操着は教室まで取りに行ってると時間のロスだから、僕のを貸すよ」
 湊はTシャツとジャージに着替えると、鞄からトンボ柄の巾着を取りだした。中から出てきたのは、使い込まれた弽だった。先日、静弥が言っていた、湊が持ち歩いている大切なものとは、このことだった。
 弓を射るとき、矢の端をつまんで引いていると思っている人がいるが、じつは、親指を弦に引っかけて引いている。湊が使用している堅帽子かたぼうし三つ弽には、親指根元に弦枕つるまくらと呼ばれる弦を引っかける溝が施されており、弽によって位置や形状が微妙に異なるため、慣れたものでないと使いにくい。「掛け替えのない」とは弓道由来の言葉で、「掛け」とは弽のことだ。
 湊は下弽したがけと弽をつけると、滑り止め用のぎり粉を中指につけて、ギュッと鳴らした。
 巻藁の前に立つと、心臓は早鐘を打っていた。筋トレやゴム弓は欠かさず行っていたものの、実際に弓を握るのは久しぶりだった。所作を正しく覚えているのだろうかと不安が募る。だが、体は無意識に動き、気づけば矢番やつがえまで終えていた。
 行射に入った。慎重に弓を引き絞っていく。弓を一番張った状態「会」までいくと、湊は数をかぞえた。
 一、二、三、四、五――。
 矢は湊の手を離れ、巻藁の真ん中にあたった。
 弓を倒すと、トミー先生は湊に声をかけた。
「おお、きれいな射型しゃけいをしとるじゃないか。それなら大丈夫じゃ」
 湊は口を固く結び、巻藁に刺さった矢を抜いた。肩で呼吸すると、少し離れたところから見守っていた静弥も、同じように大きく息を吐いた。
 準備が整うと、静弥、湊、海斗の順に入場口に並んだ。入場の開始だ。
 礼をすると擦り足で前進し、各々の的へと向きを変え、ここでいったん坐って浅い礼をした。このとき並んだ位置を本座ほんざという。立ちあがると、矢を射る位置まで進んで再び坐す。この位置を射位しゃい、このように坐してから行射に入る方法を「坐射ざしゃ」、そして終始立ったまま行う方法を「立射りっしゃ」という。
 三人がそろって矢を番えているあいだに、トミー先生が解説をはじめた。
「見てのとおり、矢を二本持っておるじゃろ? この二本を『一手ひとて』といって、甲矢はや乙矢おとやの順で射っていく。まずは竹早くんからだ。一番前のことを『大前おおまえ』という」
 言われて、静弥は矢番えした弓を捧げ持って立ちあがった。足を踏み開くと、弓を左膝に置き、右手を腰のあたりに取る。それを合図に二番の湊も立ちあがり、静弥の動作を追った。
 静弥は右手で弦を取り、左手で弓を握ると、再び顔を的へと向けた。体の正面で両腕をあげると、矢先をゆっくりと的中心へ寄せていく。弓を張りつめた瞬間は、まさに弓道の見せ場だ。人と弓とが作りだす十文字の形は、当人はもちろんのこと、見る者にも心地よい緊張を与える。
 一、二、三、四、五――。
 的中だ。おおっという声があがった。
 静弥の弦音を合図に、湊も弓を打起うちおこした。湊の矢先も的中心にゆっくりと近づいていく――と、誰もが思っていた。
 ところが、矢は的の中心に向かうことなく早々に湊の手から離れ、的の前へと大きくはずしていた。的の前とは右側のことで、後ろとは左側のことだ。度肝を抜くがごとく速さで矢が放たれたため、場内は一瞬ざわっとなった。「何、あれ?」といった表情で、顔を見合わせている者もいる。
 トミー先生はおどけて言った。
「美人が多くて緊張したかのお。あたってもはずしてもポーカーフェイスが基本じゃよ。喜怒哀楽を表に出さないのが他者に対する礼儀なんじゃ。アーチェリーなどと違って、どこにあたっても一点。あたりとはずれの二択しかない。さて、一番後ろは『おち』ね」
 海斗は湊の弦音を合図に弓を打起すはずだったのだが、言われて動作に入った。弓を引き絞り、離れの瞬間を待ったが、矢は的をはずした。
 二射目、静弥の放った矢は的の後ろへと抜けた。静弥は手持ちの矢二本を射終え、退場をはじめたが、湊は動けなかった。暴れる胸の鼓動と、首筋の脈打つ音が耳をつんざく。恐る恐る弓を打起したが、芝生の向こうから的が迫ってくるように見え、呼吸ができない。
 離すな、離しちゃだめだ――。
 湊は心中で何度も唱えた。矢の長さの半分ほどを引き、そこから大きく引分けようとしたが、またも途中で矢は飛びだし、的のはるか上、垜を覆う幕を打ち抜いていた。
 最後、海斗が的中を決めると、一、〇、一の計六射二中で終了した。
「弓道は見た目以上に的中するのが難しくての。だからこそ、あたったときの喜びもひとしおじゃよ。一緒に学んでいこうと思っとるから、興味を持った人はぜひ明日もここに集まっておくれ」
 トミー先生の言葉で解散となると、海斗は湊が着替え終えるのを待って詰め寄った。
「おい、鳴宮。なんだ、さっきの射は……。『幕打まくうち』は仕方ねえとしても、なんであんなに早いんだよ? おまえがすぐ離しちまうから、後ろの俺は弓構ゆがまえすら間に合わねえじゃねえか」
「だから、はじめから無理だって言っただろ? おれだって早く離すつもりはないんだ」
「はあ? 下手な言い訳してんじゃねえ。巻藁では普通に引いてただろうが。的前に立ったとたん、あんな雑な射をしやがって。弓引きとして恥ずかしくねえのか」
「……ああ、そうだよ。おれはもう弓引きじゃない……。どいてくれ、帰るから」
 湊は海斗を振り払うと、足早に玄関へ向かった。静弥は急いであとを追った。
「湊、明日も来るだろう? ……待ってるから」
「待たなくていいっ、おれはもう弓道はやらない!」
 走り去る湊の背を見つめる静弥のかたわらで、トミー先生はつぶやいた。
「竹早くん、彼はもしかして」
「――早気はやけです」

 湊は自転車にまたがると、脇目も振らず駆けた。
 雨が降りはじめた。濡れてすべるグリップを握りしめて、自転車を押しながら急な坂道を登った。てかてかと光るアスファルトの上をテールランプの赤い残像が尾を引き、車のタイヤが水を弾く音が追い越していく。鳥居が見えると、自転車を停めて夜多の森へ入った。
 夜多の森弓道場、屋外観覧席の竹柵の先にあの男はいた。男に見つからないよう、その場にしゃがんで見物した。雨で湿度が高いためか、以前聞いたような透きとおる弦音ではなかったが、伸びやかな肢体から繰りだされる射はやはりきれいだった。どこにも偏りのない、ある種解放された動き。それでいて、どこか厳かな感じもする。
 まるで、願掛けでもしているようだ。
 星も月も見えない夜に、おれなら何に願うだろう。
 はたと、男と目が合った。向こうのほうが高いところにいるのだから、見つかってあたりまえか。
 男は弽をつけた右手をチョキにして、ひょいひょいと手招きした。湊は拒絶したわけではなく、ただ頭が働かずにぼんやりとその仕草を眺めていた。すると、男は手にしていた弓を足元に置き、射場の縁まできてしゃがみ込んだ。両手で「おいで、おいで」と誘う。
 これはまるで――。
「おれは犬猫じゃありません」
「だったら、さっさと来いって。暗闇にずぶ濡れの少年がいるなんて、こっちから見ると幽霊みたいでめっちゃ怖いんだって」
「射場を汚したくないし」
「あとで拭いときゃ平気だって。おまえが拭いてくれるんだろう?」
 あの夜と同じようにニッと笑った。湊はずぶ濡れのまま射場へあがった。男は床に寝かした弓を拾うとその場から離れ、風呂敷包みを手に戻った。
「脱いで乾かしな、初心者用の道着一式を貸してやるから。男子更衣室は受付のまん前な。あと、俺に丁寧語は使わなくていいぞ」
 着替えて戻ると、男は射場の隅に座っていた。湊が濡らしてしまったところもきれいに拭きとられている。「ほれ」と言って手渡されたのは、今度は炎がデザインされた缶コーヒーだった。
 湊は缶を両手で包んだ。
「……あったかい」
「夜は冷えるからな。おっと、いいものがあった。おまえも食う?」
 何が出てくるのかと思ったらおやきだった。しかもあんこ入り。湊はコーヒーと一緒に甘いおやきを口に放り込んだ。
 飲み終えると男は、弦の中仕掛なかじかけの調整をした。矢のはずの溝は弦の太さより若干大きい。矢を番えやすくするため、弦にボンドを塗ってほぐした麻を巻きつけて、ほどよい太さに整える。
 湊は夜空を見てつぶやいた。
「今日は雨だからフウは無理か」
「そうだな、今度晴れてる日に呼んでやるよ。おまえの肩はフウのとまり木に最適だからな」
「おれは置物じゃないって。ところで、ここって何時までやってるんだ?」
「一応夜九時までってことになってるけど、最近は昼間しか使ってないみたいだな。使用するときは郵便受けから鍵を出して入り、受付に料金を置いておくんだ。一時間五十円な。夜間、誰もいないっていうんで、カップルが忍び込んだこともあったらしい」
「神聖な道場でなんという……」
「おまえ、そっち方面は縁遠そうだな。俺が手ほどきしてやろうか?」
「このエロおやじめ」
 男はニヤけたまま、道宝どうほうと呼ばれる、小さな拍子木のようなもので中仕掛けを固く締めた。稽古を再開するかと思いきや、予想外の言葉を口にした。
「おまえ、その感じだと弓道経験者だろう? ちょっと引いてみるか?」
「えっ、いいよ」
「遠慮なんかすんなって。弓が引きたくてここに来たんじゃないのか」
「いいって言ってるだろ!」
 湊は自分の出した声で我に返った。
「……悪い、おれ帰るよ」
「帰る前に、ここでいろいろぶちまけていっていいぞ。この弓道場は電話線すら通っていない、ある意味、現実世界から隔離された場所だ。俺はおまえのリアルに存在しない者。今からおまえが口にすることは、俺以外に決して伝わることはない」
 男は湊の返答を待った。
 長い時間が過ぎ、湊はあえぐように言葉を絞りだした。
「なんであなたは、そんなきれいな射ができるんだ? ……おれ、中学最後の試合で『早気はやけ』になってしまって、それから…………弓を引くのが怖いんだ……」
 早気とは、矢を離すと決断していないのに離れてしまう状態をいう。会に至らずに、引分けている最中に離れてしまうのだ。弓道における深刻な病といわれ、ゴルフのイップス病によく似ている。
「試合で敗退したあと、練習を再開したんだ。巻藁の前ではなんとか持てるのに、的前に立つと一秒と持たない。自分の体なのに全然いうことをきいてくれないんだ。離すまいと思えば思うほど、矢はおれの手をすり抜けていってしまう。そのうち弓を引くことすら怖くなって……。このままじゃ、みんなに迷惑がかかるって」
 入部してすぐのころ、とてもよくあたる先輩がいた。主将も務めているような人だった。だが早気になり、県大会目前で部を辞めてしまった。そのときは不思議でならなかった。なぜすぐ離してしまうのだろうと。自分の意思に反して離してしまうなんてことがあるのか。きっと、精神が弱い人なんだろうと。
 自分がその立場になってやっとわかった。先生に「なんで離してしまうんだ」と怒られても、仲間から「早すぎて間に合わない」と責められても、自分ではどうしようもできない。まさに病だ。いつしか、誰も何も言わなくなった。見限られたとわかった。
「そして、そのまま引退。今日、半年ぶりに弓を握ったんだ。もしかしたら直っているかもしれないって期待したけど、やっぱりだめだった……。カッコ悪いだろ? 才能のない人間なんてこんなもんさ」
「そうか、つらかったな」
 湊は驚いて顔をあげた。
 今、この人はなんて言った? 
 つらい? おれはつらかったのか?
 思わず目元を押さえた。湧きあがってくるものをこらえるのが精一杯だった。
 早気を発症したときの恐怖は濁流で溺れるに等しいが、誰もが共感できるものではないのだ。
「……あなたの名前を聞いてもいい? おれは湊、鳴宮湊」
滝川雅貴たきがわまさき。だいたいマサさんって呼ばれてるから、湊もそう呼んでいい」
「マサさん、おれ、どうしたらいいのかわからないんだ……。もうおれは弓道をやりたくない。無様な自分を再確認するようなことは嫌なんだ。だから、父さんから家計が厳しいから公立高校を受験してくれって言われたとき、救われたって思った。これで今、通ってる私立校に持ちあがらなくて済む、弓道をやめる大義名分ができたって。なのに、走り込みや筋トレがやめられない。弓がおれを呼び戻そうとするんだ……」
 ――弦音が呼んでいるんだ。
 果たせなかったいくつもの約束が足枷となる。あれだけ愛しんでおきながら、おまえはすべてを捨てて逃げるのかと。遼平が語った湊の武勇伝は過去のもので、今では戦い敗れて故 郷に逃げ帰った落ち武者同然だった。
「それでもおまえは弓を引きたい。違うのか?」
「……うん。でも、どうしたら早気が直せるのか……」
「おまえの目の前には、早気を克服したやつがいるんだが」
 マサさんはニッと笑った。

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