序章、翼を得た瞬間
〝いいか、よく聞け、羽虫〟
暗闇のなか、その声がこだまする。考え込むとき、迷ったときに聞こえるその声は、近くにいないにも拘らず力強く聞こえるのだ。それは一般人からすれば、父親のように導いてくれる声、あるいは教師のように諭してくれる声なのかもしれない。
けれど俺にとっては、悪事を指示する頭領の声だ。そしてそれは、揺るぎない自信と誇りを込めた声でもあった。
俺を送り出す直前、盗賊団の頭領は、こう言った。
〝飛行船ってのは、重すぎてはいけないし、軽すぎてもいけないという厄介な乗り物だ。水上船のように重くしちまえば飛ぶことはできないし、軽くしちまえば風に溺れてしまう。だからこれを造るのはほんとうに頭のいい奴しかできない仕事だ。そして、それを安全に飛ばすのも頭のいい奴にしかできない仕事だ。だからおまえは、頭のいい奴の手伝いをしてこい。飛行船を欲しがっている客がいる。そいつらのために飛行船を調達するんだ〟
俺は猿のように壁をよじ登り、開け放たれた窓に辿り着き、警備が固い巨大な建造物にやすやすと侵入する。音をたてずに扉を開け、敏捷に梁の上を渡り歩く。そして、篝火やガス灯に自分の影が映し出されないように注意しながら、足音と気配を消して目標に接近した。
目の前に見えるのは、巨大格納庫に眠る美しい飛行船だった。
美しい流線形を描くエンベロープ(浮揚ガスを充填するガス袋)は要所を特殊な金属板で補強されており、大掛かりなレシプロ推進器が前方、中央部、後方の船腹に取り付けられていた。従来の飛行船にしてはあり得ない推進器の配置。学のない俺にでも分かる。この飛行船はただものではない。だからこそ、頭領はこれを盗んで来いと手下たちに指示を出したのだ。
その先陣を仰せつかったのが俺。
この後、侵入する盗人集団が警備兵を始末して、盗んだ飛行船をすばやく上昇させることができるように、俺は飛行船を地上につなぎとめる係留索を一つ残らず細工する。両舷に合わせて百本近くの係留索が繋がれているが、単純に切込みを入れるか、手間はかかるが結び目が解けやすくなるように細工すればいい。
暗がりと資材の山の陰で、俺は、誰にも気づかれないように片舷の係留索を細工し終える。
あと半分。
係留索を半分ほど細工すれば、時間通りに仲間たちが来るはずだった。
だが、残りの作業に取り掛かったものの、仲間たちは来なかった。
一向に気配が感じられない。足音すら聞こえない。
何かがおかしいと思って作業の手を止め、俺は立ち上がる。ひどい胸騒ぎがする。不安を抑えられない。混乱を鎮めることができない。どうして仲間たちは来ないのか。いつもなら、もう姿を見せているはずなのに。
動揺して、俺は作業を中断して、外の様子を確認しようとする。
裏口の小さな扉を開け、俺は格納庫の外に出た。異変にはすぐに気づいた。外は潜入したときよりも騒がしい。すべての建物に兵隊が集合しているようだ。靴音高らかに走る兵隊は武装を整えている。出入口をすべて固めながら内部を調査する様子はただ事ではなかった。
心臓がどくん、と鳴った。
盗人を探している。仲間は見つかり、彼らは残党を探しているんだ。
逃げなくては!
冷静に動くべきだったのに、俺は冷静さを欠き、すぐさま駆け出す。だからすぐに見つかった。背後から怒号をあげて兵隊が追いかけてくる。路地に入り、隠れる場所を探そうとするも、あちこちから追手が迫ってくる。道がどんどん塞がれていく。逃げられない! 手近な壁に飛びつきよじ登ろうとするが、大人が跳躍する。襟首をつかまれ、俺は乱暴に地面にたたきつけられた。
そこで、意識は途切れる。