『時間』試し読み



私鉄京王線の車窓を夕暮れの町並みが流れていく。
窓外を反対方向の列車が通過した。下り方面は帰宅の乗客が詰まっていたが、僕達が乗っている上りは座れるくらいだった。
隣ではマチが僕のスーツの袖を親指と人差し指でつまんでいる。
「汚いものみたいに持たないでよ……」
「だって覚さん……もうちょっと……」
自分の服を見返す。三年ぶり二度目に袖を通したスーツは、しまい方が悪かったせいかヨレヨレだった。ヨレヨレだったなどと言っているけれど、実のところ本当にヨレヨレなのか自分で判断できてるわけじゃない。マチの反応を見るに多分この服は駄目なんだろうなあと当て推量しているだけだ。僕はそれくらい服に頓着がなかった。
「カビ臭いし」
マチがスンスンと鼻を鳴らした。眼鏡に夕日が反射してキラリと光る。アニメとかに出てくる厳しい委員長みたいだと思った。
「ごめんてば……。けどマチだって格好のことは言えなくない? いつもとおんなじシャツとスカート……」
「私はいいの。家族だもん」
 ずるいなぁと思う。僕だって着飾ったマチが見たかった。けどこればかりは互いの立場上しょうがない。
終点の新宿でJRに乗り換えた。中央線と総武線を乗り継いで一路千葉を目指す。東京を西から東へ横断する一時間半の大旅行だ。目指すは船橋。マチの生まれ育った所。
メールの着信音がした。マチがスマホを取り出す。
「お父さん、駅に着いたって」
僕は漫画みたいに唾を飲み込んだ。
今日、僕は初めて彼女のお父さんに会う。
それが意味するところは、まぁそれしかないのだけど。解っていたつもりで今さら緊張してくる。服がヨレヨレだなんて出かける前に言ってほしかった。そうしたら代わりのスーツを用意する時間くらい、無かったな……。直前まで石運んでたしな……。漬物石を背負わせてくれた藤原さんちのお婆ちゃんが恨めしかったが、いつも良くしてくれるし筍ご飯も御馳走になったので恨み切れなかった。預かった石は丁重にお返しせねばと思う。今度は車を使える日に行こう、万亀先生の次の出張はいつだったか、などと考えていたらマチに袖を引かれた。気付けばもう船橋駅に着いていた。ああ。
何の心構えもできないまま、身体に棒が入ったみたいな動きで駅の階段を降りていく。待ち合わせ場所の中央改札口が近付いてきた。以前読んだゴルフ漫画に一瞬で心身の平静を整える技が載っていた気がするけど思い出す前に改札を抜けてしまった。もう駄目だった。
「お父さんは…………あ、いた」
僕は泣きそうな顔でマチが指さす先を見つめた。
四角い柱の傍らにいた男性がこちらに気付いて寄ってくる。ほとんど白髪の短髪で細い目をしたその人は、なんというか、自分の信用できない見立てでだけれど。
僕と同じくらい、ヨレヨレのスーツを着ていた。
マチが服の袖をつまむ。
「なんだい、真千子」
「お父さん……もうちょっと……」
それから僕とお父さんは、競争するようにペコペコと頭を下げあった。マチはその横で我慢しきれずに笑っていた。




「これはどうやって食べるのかねぇ……」
お皿が透けた刺し身を前にしてマチのお父さん、時任充則さんは苦悩していた。というか僕も苦悩していた。ふぐなんて食べたことがない。
創業九〇年の天然とらふぐ専門店『大林田』のお座敷で、僕らは強いお刺身と向き合っている。初めてのご挨拶の場と思って出来る限りの背伸びしてしまった結果、僕もお父さんも不要に追い詰められていた。マチは声を殺して笑っていた。
「笑ってないで助けてよ……」
「このお皿の真ん中のポン酢で食べればいいんじゃない?」
「透明で上手く掴めないな……」
「お父さん、それお皿の模様。あ、美味し」
マチは一人でふぐを堪能している。彼氏をお父さんに紹介するという場面なのにプレッシャーはないんだろうか。ふと顔を向けるとお父さんと目が合ってしまい、僕らはぎこちなく笑い合った。
マチのお父さんは実験や分析用のガラス器具を製造する会社に勤めていると聞いた。フラスコとかメスシリンダーくらいなら僕でも知っているけれど、専門的な器具になると文系の僕では馴染みが薄く、うまく話に乗れなくてなんだか申し訳ない気持ちになった。ここは理系のマチに頼りたいシーンだ。
「とは言っても、真千子も物理とか数学とかそっちの方だからねえ」
お父さんがビールのグラスを置いて言う。
「理化学用品なんて研究室で使わないだろ?」
「使わないけど。かっこいいとは思うよ」
「解るのか」
「まあ多少は……」
お父さんは微笑んで、グラスのビールをちびりと飲んだ。
「この子も勉強が好きなのはいいんだけどさ。まさか院まで行くとは思わなくてねえ」
お父さんが僕に向いて言う。マチは僕と同じ央都大の理工学研究科・宇宙物理研究室の博士課程に院生として在籍している。
「おかげで僕も定年間際まで働き詰めだ」
「それは申し訳ないと思ってるけど……」
「まぁそれも最後の一年さ。就職頑張りなさい」
「ええと……ポスドクかなぁって……」
父さんの眉がハの字になった。実験機器の会社にお勤めなだけあって、その言葉の不穏さをご存知らしかった。
《ポスドク》はポストドクターの略称で、博士号取得者が期限付きで雇用される研究職のことだ。ただ期間雇用であるためどうしても不安定だし、給与もそこまで高くないので『高学歴ワーキングプア』などと揶揄されることもある。それを知っている親ならばあんな顔になるのも無理はない。
「大丈夫なのかい、食べていけるのかい」
「どうだろ……でももう少し勉強したいなぁって」
「真千子、聞きなさい」お父さんは思い詰めて言った。「宇宙はね、食べられないんだよ」
「お父さん知らないの? 最近の研究で宇宙の食べ方が少しずつ明らかになってきてるのよ?」
「なんだって、そうなのかい?」
「そうなの」
「じゃあ好きにしなさい……」
マチはにこりと笑い、お父さんは深い溜め息を吐いた。
仲の良さそうな親子だと思った。マチも普段より大分砕けているように見える。もう付き合って七年になるけれど、それでもまだ自分に対してはよそ行きの部分があるのかなと改めて感じる。
「それで、覚君は」
「あ、い、はい」
「社会学部、だったかな?」
「はいっ、文化人類学を専攻しております」
「うん。その文化人類学というのは…………いや、そのね、悪くは取らないでほしいんだけども、ちょっと気になっただけだから、あまりね、深く考えないで聞いてもらって構わないのだけどね…………ええと、それは…………………………………た……食べられるのかい?」
胃が縮まるのがわかった。多分質問したお父さんも胃が痛かっただろうと思う。そのような顔をしていらっしゃる。娘が連れてきた相手の収入は、父親ならば聞かざるを得ないのも当然のことで。
だからこそきちんと答えなければと必死で頭を回している間に、マチが口を開いた。
「覚さんね、春から助教なの」
それを聞いたお父さんの顔がパッと明るくなる。
「そうか。そうかい。それは良かったねえ」
お父さんの胃痛が消えていくのが手に取るようにわかった。
助教は大学教員の階級の一つで、教授・准教授・講師に次ぐ四番目、というか一番下っ端の役職である。
しかし下っ端と言っても大学の正規雇用であり、ポスドクと比べれば遥かに安定した立場であるのは間違いない。仕事で成果を上げていければ将来的には准教授、教授への道も開けている。研究で食べていくつもりならば助教は登山ルートの正しい入り口と言えるだろう。
それを知っているお父さんは、助教なら一安心という気持ちなんだろうと思う。僕も安心してもらえたこと自体はとても嬉しい。
けど、僕は。
「あの、お父さん」
これから家族になるんだという人に対して嘘を吐きたくなかった。
きちんと、本当のことを答えなきゃいけないと思った。
「うん?」
「僕は…………僕はまだ、助教なんて器じゃないんです」
「……それは?」
「僕が助教になれたのは研究室の教授の、万亀先生のおかげです」
顔を上げられないまま、お父さんの顔を見られないまま話す。
「本当は、僕の実績じゃあ助教なんて無理なんです。歳だってまだ二八で早過ぎるくらいですし、なら輝かしい研究成果があるかといえば、それも無いんです。僕の研究は学部生の頃からずっと続けているものですが、形になるにはまだ調べが足りませんし時間もかかります。だから本当は非常勤やポスドクをして食いつなぐしかない。それが今の僕の、適当な身の丈のはずなんです」
話すごとに胃が悲鳴をあげる。
堪えながら必死で言葉を絞る。
「でも教授は、万亀先生は僕の研究を面白いと言ってくれて……時間がかかることも解ってくださって……。だから先生はまだ結果も出ていない僕に、無理をして研究できる環境を与えてくれたんです。それに先生は、僕が結婚を考えてることも知ってました。そのためには生活の安定が必要だってことも」
今日こうしてお父さんに挨拶ができるのも、全部万亀先生のおかげだった。
僕だけの力じゃ何もできなかった。
だから。
「だから僕は……これから精一杯頑張らなきゃいけない立場で、助教にしてくれた先生にも、真千子さんにも、相応しい人間にならなきゃと思っていまして…………。つまりその、今の肩書きは借り物みたいなものということでして…………あの……ガッカリさせてしまって申し訳ないです……」
話がまとまらないまま、声が萎んでいった。
何もかもが恥ずかしくて仕方なかった。
借り物で飾って偉そうに挨拶に来ている自分が情けなさ過ぎる。気を抜くと今にも泣いてしまいそうだった。けどそれだけはと思って必死に堪えた。
「そうかい」
項垂れる頭の向こうからお父さんの声が聞こえる。急に背筋が寒くなる。今さら言わなければよかったと後悔が湧いてきた。僕はどこまでも情けない人間だった。
「真千子」
お父さんが言った。
「いい人を連れてきたねえ」
僕は顔を上げた。
お父さんがビールの瓶を向けてくれていた。慌ててグラスを取る。注いでもらったビールを飲もうとしたけど、両手に妙に力が入ってしまって上手く飲めない。
「覚さん?」
マチは僕の顔を覗き込んで、微笑んだ。
「泣いてる」

二人が刻む幸せな“時間”に思わず涙が溢れる。
KAエスマ文庫史上最大の感動がここに。

時間

  • 2020年2月21日(金)
  • 713円(税込)