『時間』試し読み



『大林田』を出た僕らは、駅近の古めかしい居酒屋に入り直していた。ふぐのお店では結局何を食べたのかよくわからなかったし、緊張のせいで話し切れなかったことが沢山あったからだ。
「男親だけで育てたからどうなることかと思っていたけど。まっすぐに育ってくれてホッとしてるんだ。本人には言わないけどね」
お父さんは多少饒舌になっていた。親しみやすいお店だからか、それともマチが化粧直しで席を外したからか。
「真千子から聞いたんだけども」
お父さんの声音が少しだけ落ちた。
「覚君のご両親は……」
「はい」
僕は努めて自然に答える。もちろんそれも今日話さなければならないことの一つだ。
「うちも母だけだったんですが、その母も四年前に亡くなりまして」
事実をなるべく淡々と説明する。うちの両親は早くに離婚していて、物心ついた頃には母さんしかいなかった。親戚筋との付き合いもほとんど無いので、今は本当に一人きりだ。
「大変だったね」
僕は首を振った。
「僕は何不自由なく大学まで出してもらいましたから……。大変だったのは母だけで……今さらですけど、もっと親孝行できたんじゃないかと後悔してます」
「君に苦労が掛からなかったなら、それが一番の親孝行でしょう」
「そういうものでしょうか……」
「そういうものだよ」
僕は子供の頃を思い出しながらビールに口を付けた。お酒が潤滑油みたいにゆるりと回って、自然と口が開いていく。
「母との暮らしは幸せだったんですけど」
頭に浮かんだことを徒然とこぼす。
「ただそれでも、父親っていうものに憧れがなかったかというと、それも違って……」
久しぶりに思い出したのは、子供の頃の運動会や参観日の光景だった。
級生と父親と母親。肩車された友達の姿。何の変哲もない、ただの家族。
「お父さんがいて、お母さんがいて、子供がいて……。そういう普通の家が、できたら良いなと思ってます。や、その普通が一番難しいのかもしれませんが……」
「そうだねえ。普通というのはとても難しい」
お父さんは噛みしめるように呟いた。僕も自分で言った言葉の意味を、もう一度考えていた。
普通の家。
幸福ということ。
僕は幸せに育った。マチも幸せに育った。僕らはとても幸せな時間を過ごしてきた。
けれどもし僕とマチの二人が揃っていたら。
そしたらもっと幸せになれるんじゃないかと、何の根拠もなく、でもどうしようもなく、そう思ってしまう。
それはただの無い物ねだりなのかもしれないけれど。
「難しいことをやろうとしたら、頑張らなきゃいけないよ」
お父さんが告げる。僕はお父さんの顔を見た。
「覚君。どうか頑張ってください」
僕は覚悟を決めて。
お義父さんに応えた。
「はい」
「二人で何話してたの?」
戻ってきたマチが上から覗き込んだ。お父さんがほろ酔いで答える。
「いやなに、子供の話とかね」
「子供の頃の話?」
「ちがうちがう。子供の話」
「何話してるのお父さん……」
マチが波線みたいな口をして赤くなった。僕もだんだん理解が浸透して顔が熱くなる。最後にお父さんが同じ顔になった。誰も何も言えなくなり、居間のテレビで微妙な場面が流れた時のような気まずい空気がそれから五分も続いたのだった。




深夜の空に星が出ていた。
終電で南大沢駅まで戻った頃にはもう一時近かった。駅から徒歩一五分のアパートに向かって、僕とマチはのんびりと歩いていく。誰もいないので手をつないだ。昼は大学関係の知り合いが街に溢れているのでこんな真似はそうそうできない。
向かっていたのは僕の部屋だった。同じ大学に通っているからマチの部屋もすぐ近くにある。本当は同棲でもした方が家賃や生活費が節約できるのだけど。僕もマチも生来の生真面目さというか融通の効かなさのせいで、結婚前にそういうのは……と踏み切れないまま今日まで来てしまった。やっぱり真面目というのは損が多いと思う。
「お父さん言ってたよ」
マチが思い出して笑う。
「二人とも眼鏡だから真面目な夫婦になるよって」
僕も笑った。眼鏡だから真面目って。なんて思いつつも、多分そうなるんだろうなあという妙な納得もあった。

部屋に入って電気を点ける。1Kの部屋は荷物で溢れ返っている。内容は主に研究の資料や本だ。荷物置き場が必要なのは判っていたので、駅から遠い代わりにキッチン四畳の広めの部屋を借りたのだけれど。結局資料は四畳に収まり切らずに六畳間の生活空間をも侵食していた。マチは慣れた様子で荷物の獣道を通っていく。
スーツを着替えて息を吐いていると、マチがお茶を淹れてくれた。温かい湯気が部屋の空気を加湿する。
「覚さん」
「ん?」
「今日はありがとう」
「いや、そんな。僕の方こそ」
本当に僕の方こそ、お義父さんにお礼が言いたい気持ちでいっぱいだった。こんな半人前の僕を認めてくれた。結婚を許してくれた。思い出して、心の中に小さな火が灯る。
お義父さんと話して改めて解った。今日ここからが始まりで、これから頑張り続けなきゃいけないということ。研究とはまた別の、長い長い登山道のまだ入り口なんだということ。
だから僕は。
とにかく頑張らなきゃいけないと思ったんだ。
「マチ!」
僕は心の勢いのままに叫んだ。
「はっ、はい」

二人が刻む幸せな“時間”に思わず涙が溢れる。
KAエスマ文庫史上最大の感動がここに。

時間

  • 2020年2月21日(金)
  • 713円(税込)