『時間』試し読み



僕らの住む南大沢駅から二駅六分、橋本駅のすぐ近くに大型ショッピングモール『エアリアル橋本』がある。できてからまだ二年ほどの新しい商業施設で、中はおしゃれな店舗がずらりと並んでいる。
その中の一店で、僕はガラスケースを食い入るように見つめていた。隣でマチが困ったような顔をしている。
「指輪とかいいのに……」
「いややっぱりこういう節目のことはきちんとしないと」
「きちんとも何も、さっきまで婚約指輪と結婚指輪の違いも知らなかったのに……」
痛いところを突かれて呻く。自分の専門の神話だ民話だ以外に関しては、僕は悲しいくらいに物知らずだ。指輪の名前が違うくらいは知ってたけれど、まさか順番に両方買わなきゃいけないという過酷な風習だったとは……。きちんとなんて言ったばかりだが、残念ながらそれは予算の都合上不可能だった。
はっきり言ってしまえば僕らは貧しい。僕は助教になりたてだし、マチに至ってはまだ院生で二人の収入の当ては限られる。入籍後には当然引っ越しも控えているのでお金はいくら節約してもいい時期だった。結婚式もしないのは二人で決めている。
「だから指輪なんて……」
マチがもう一度漏らす。
正直にいえば、僕の中にも指輪代を節約した方がいいんじゃないかという気持ちが有り続けている。無理をしてもしょうがないとも思っていた。
でも。
「でも」
僕は自分の中にある、もう一つの正直な気持ちを口にした。
「買いたいんだ、マチに」
ケースに並ぶ貴金属を再び真剣に見つめる。
隣でマチが頷いてくれたような気がした。見てないので気のせいかもしれないけれど。
結婚指輪の並ぶ一角に何度目かの視線を走らせる。本来ならばデザインとか石とかを見るものなんだろうけど、僕は否も応もなく値札を吟味させられていた。一番安いものが。
ペアで一〇万円……。
それは痛すぎる金額だった。昨日の会食でもすでに三万円が飛んでしまっている。最初から二軒目の居酒屋に行っていればみんな幸せになれたのに……などというしょうのない後悔が湧いてくる。
いや待とう。少し冷静に考えてみよう。そもそも結婚指輪はペアでないといけないなんて誰が決めたんだろうか。たとえば僕が指輪をしたとしても、研究中の資料に傷でもついたら大変なので仕事中はきっと外してしまうはずだ。僕らは式も挙げないわけだし指輪の交換もない。なら緊急で両方揃える必要はないのでは……。一案だけど今日はマチの指輪だけ買って、生活に余裕が出てきたら僕の方を買うとかそういう方法も……。
「覚さん」
マチに呼ばれた。向こう側のショーケースの前で手招きしている。そちらに寄って行くと、彼女がケースの中を指さした。
「これがいいよ」
マチが指したのは結婚指輪とは違うコーナーに並んでいる、シルバーのペアリングだった。
二つの指輪をよく眺める。石は付いていない。特別なデザインでもない。ただ金属が輪になっただけのシンプルな指輪が二本。値段はペアで一万円だ。
僕はなんとも情けない顔になった。
誰がどう見ても気を使われているのが解る。しかし気を使わないでと言える甲斐性もない。
昨日に引き続いて僕はやっぱり情けなくて、だから情けない顔をするしかなかった。
「覚さんはどうせ」マチが眼鏡のつるを上げて言った。「片方だけなら買えるかもとか、変なことを考えていたんでしょうけど」
「なんでわかるの……」
マチは僕の質問に答えずに微笑む。
「値段はいくらでもいいの。デザインもなんでもいい。でも絶対に二つでないと駄目」
それが結婚指輪なの。と、マチは僕に教えてくれた。
僕はそんなことも判らないくらい馬鹿で。
だからもう観念して、マチが選んだ指輪を買うことに決めた。でもきっとそれが正しいんだと思った。
ショッピングモールの休憩所は子供達が物凄い勢いで走り回っている。そんなムードもへったくれもない場所で僕は彼女の手に指輪をはめた。サイズを測ってもらって買った指輪は、当たり前だけどマチの薬指にぴったりだった。




買い物を終えた僕らはマチの部屋に行った。僕の部屋とは比べようもなく片付いている。多分彼女の専攻が宇宙物理で、宇宙は部屋に収集できないからだと思う。
マチはお茶を飲みながら、薬指の指輪をニマニマと眺めている。喜んでもらえたなら何よりだ。僕はといえば生まれて初めてする指輪の感触がなんとも落ち着かなかった。ひとしきり楽しんでから二人とも外してケースに戻す。次に付けるのは結婚した後だ。
「そういえば気分だけでもと思って買ってみたんだけど……」
僕はモールの本屋で買った雑誌をテーブルに出す。
「あ、『メルフィ』」
マチが目を輝かせて本をめくった。それは日本で一番有名な結婚情報誌だ。僕も反対側から本を覗き込む。多分人生で一度くらいしか買わない本だろう。
彼女は興味深げに結婚式場の特集ページを読み始めた。大人気の式場『エテルニエ表参道』ではフォトジェニックなアートワークに彩られたオフホワイトのチャペルがクラシカルかつラグジュアリーでゲストのエグゼクティブもディナーパフォーマンスがデザートビュッフェらしかった。僕は専門の研究者ではないので意味がよくわからない。
「挙式だけでも本当にいろいろあるんだね」
「でもなんか演出過多じゃないかなあ……。これなに?」
「巨大クラッカー演出だって」
誌面の写真を見る。チャペルの中に入ってきた新郎新婦が巨大クラッカーの紙テープに絡め取られていた。結婚式の演出というよりも野生動物の罠みたいに見える。
「あ、これ可愛い」とマチが指したのは、ウェディングドレスの裾を持って歩く子供の写真だった。よく読むとドレスの裾じゃなくてベールを持っているんだそうで、ベールボーイ・ベールガールというらしい。これも初めて知った。
「こういうのって親戚の子がやるのかね」
「この式場は手配してくれるみたいだよ。いいね。可愛いよね」
マチははしゃぎながら分厚い情報誌を楽しんでいる。
式は挙げられないけれど。僕達だって間違いなく結婚するのだから、せめてこれくらいの楽しみはあってもいいかなと思った。
「新婚旅行も行けないしね……」
「また勝手に落ち込んでる」
マチが呆れて言う。
「別に行けないことはないと思うけど」
「うん?」
「覚さんが『新婚旅行だから海外に数日』なんて思い込んでるだけでしょう? 週末に近場へ行くくらいでも充分旅行なんじゃない? たとえばええと、箱根の温泉とかは? あとは日帰りで高尾山とか」
なるほどと思いつつも、箱根はともかく高尾山は流石に近過ぎだった。南大沢からは車で三十分もかからない。神社や史跡も多いのでフィールドワークでしょっちゅう行っている。新婚旅行と定期巡回は流石に区別したいなあと思う。
と、ちょうどその時に僕のスマホが鳴った。
画面には《万亀先生》の文字が表示されていた。

二人が刻む幸せな“時間”に思わず涙が溢れる。
KAエスマ文庫史上最大の感動がここに。

時間

  • 2020年2月21日(金)
  • 713円(税込)