海は果てしなく広がっている。
赤道面での直径約一万三千キロ。外周約四万キロを誇る地球という惑星の中で、その表面積の七十パーセントは海が占めている。体積にすれば十三億五千万立方キロメートル。その中でも人類によって解明されているのはほんのわずか十パーセントほどといわれている。
そんな誰もが知り、でも誰も知らない海の中には、地上とはまた別の世界が広がっている。
嵐で海が荒れていても、ひとたび海面をくぐれば、海の中では地上とは無関係に、静寂な異世界が広がっている。海の中に生きる生物は、優に一千万種を超えるとされる。人類はその中でも二十万種も発見できていない。
潜る。
陸からそう遠くない比較的浅い海では、サンゴ礁が広く生息し、そこを隠れ家としてクマノミやナンヨウハギといった赤や青や黄の色とりどりの小さな魚たちが、天敵から身を守りながら共存している。
さらに潜っていく。
陸から離れた遠洋では、マグロやカツオといった食卓で馴染みのある魚が暮らしていて、さらにはシャチやクジラ、そして恐怖の象徴でもあるサメといった大型種が、莫大な海原を悠々自適に泳いでいる。
さらに、さらに潜っていく。
そこは人類もまだ容易には到達できない深海。光も届かない闇の中では、人が耐えられないほどの冷たさと水圧が支配する。そんな恐ろしいともいえる世界でも、光を知らない無数の生物が暮らしている。太古に絶滅したとされていたシーラカンスや、十メートルを超えるリュウグウノツカイ、チョウチンアンコウといった、映像の中でしか見たこともないような、得も言われぬ怪物たちが未だ人類に手を付けられていない自然の中を悠然と生き抜いている。
そしてさらに、さらにさらに潜っていく。
そこは人類がまだ知らぬ場所。
理解も、想像もしていない場所。
未知なる世界のその先に、誰も知らない海の住民だけが暮らす王国があったとしたら。
第1章
1
海の生き物たちが、列をなして泳いでいる。
海底を行くのは、赤く長い脚を持ったカニたち。彼らはいくつもの脚を小刻みに動かし、海底の砂をかき乱しながら進んでいく。その上を、銀色のきらびやかな魚が猛スピードで垂直方向に進んでいく。岩場で佇んでいた二枚貝がぱかりと開く。すると列の途中から一斉に止まり、列が二分される。その二分された間を、今度は赤や青や黄の小さな魚たちが、ふわふわと隊列をなして進む。少しすると先ほどの二枚貝が閉まり、色とりどりの小さな魚たちが立ち止まって、再び大量のカニや銀色の魚たちが進みだした。そこにはまるで訓練されているかのように、海の交通網が整備されている。
と、そこに猛スピードで近づいてくる黒い影があった。闇夜を押しつぶしたような黒く平べったい魚が、規律正しく進む生き物たちの隊列を強引に割って過ぎ去っていく。背中には赤く点滅をするクラゲと、その脇に小さなウミガメが一匹ぐったりと苦しそうに沈んでいる。それが過ぎ去っていくと、生き物たちは再び規律正しく一斉に動き始めた。
ここは海底王国ニライカナイ。
生息地域に関係なく、ありとあらゆる海の生物たちが暮らす場所。彼らは人とまったく同じように、ルールとモラルを遵守し平和に暮らしていた。
「どいてどいて!」
静かで悠然とした王国に、甲高く慌ただしい声が響き渡った。
声の主は規律正しく列をなす魚たちとは逆に、白銀の尾を激しく上下に振りながら縦横無尽に泳いではその綺麗に並んだ列を崩していく。その少女の不規則な動きに、交通を取り仕切る二枚貝が困ったように閉じたり開いたりを繰り返す。
白銀の美しい尾を持つその少女は、下半身とは打って変わって上半身は二本の腕が生えた肌色の肉体を持つ半人半魚だった。
少女の前では、黒い縞模様のウミヘビが死に物狂いで逃げ回っていた。だがその距離は徐々に縮まっていき、慌てて方向転換をしたウミヘビが逃げ込んだのは尖鋭型の岩が無数に連なった岩林。比較的体の小さなウミヘビは、息を殺しそこにひっそりと身を潜めた。
岩林に隠れる小さな魚や貝が、その様子を陰から見守っている。ウミヘビは恐る恐る下げた首をもたげると、しかしもう自分を追ってきたものはどこかへ行ってしまったようで、ほっと胸をなで下ろす――が、ぬっと上から半人半魚の少女の顔が逆さになって下りてくる。
「捕まえたわ、ニョロニョロ!」
〇
「続きましては」
クジラが二頭はまるまる入れそうな広い部屋に、ひどく冷めた声が響き渡る。
石でできた鎧を着た半人半魚の近衛兵がめんどくさそうに半眼で、石板に書かれた国民からの意見状を読み上げている。
「マレ様が交通を乱したせいで、息子と離れ離れになってしまった。会わせてほしい。こちらマグロの夫婦からの意見状です」
読み上げると、近衛兵は視線だけを上げて当人であるマレを見た。
輝くような白銀の尾を持つ半人半魚のマレは、これまた長く美しい淡紅色の髪を海中になびかせながら、その淡い色とは真逆に目力強く口を開く。
「しょうがないじゃない。ニョロニョロが逃げ回ったんだもの」
マレは近衛兵ではなく、自身の正面の玉座に座る、ひと回りほども大きなものに向かって言う。近衛兵はその投げられた言葉を追いかけるように、視線を右へとスライドさせた。
巨大な玉座に座るのは、マレと同じ半人半魚の、しかしこちらは弱々しくウェーブのかかった、焦げたような赤髪を持つ巨男だった。海底王国ニライカナイの王にして、マレの父であるティダ王は片手で肘をつき、もう片方の手でばらばらに乱れた髭を二、三度触ってうなった。
「それで、息子には会わせてやれそうか?」
「無理ですね。もう集団は遠い海の彼方でしょう。二度と会うことはないかと」
小さく息を吐くと、王というには頼りないたるんだ体をぽよんと揺らす。
「じき別の集団がここを通るはずだから、そこに付いていくよう交渉しておいてくれ」
ちょいちょい、と指先で言って近衛兵は意見状の書かれた石を海底に落として割った。するとまた別の石版を取り出す。
「続きましては――」
「まだあるのか」
既に十二件目の意見状に、ティダ王は呆れたように驚いた。
「ご安心ください。次で最後です」
「……読み上げてくれ」
「マレ様に追いかけ回された挙句、体を強引に鷲掴みにされて首筋の痛みが取れない。診断書も出ているので治療費と慰謝料を要求する、とのことです」
「それは誰から?」
「ウミヘビです」
「ニョロニョロじゃない!」
まさかの訴え人に、堪らずマレが割って入った。
「あいつがウラシマたちをいじめていたから、私が成敗してやったのよ? どうして被害者面してるのよ!」
まくし立てるように言って、マレは近衛兵へと詰め寄る。近衛兵は「私に言われましても」と小声でつぶやいた。
「それに首筋? あいつら筋痛めるの? ぐにゃぐにゃしてるのに? 首どこよ!」
近衛兵は、今度は小さく「確かに」とうなった。
「なんであんな悪人の言うことを真に受けるの? 今回のトラブルも全部あいつを私が捕まえようとしただけなの。全部あいつのせい」
「マレ……お前は後先を考えて行動できんのか」
まくし立てるマレに、ティダ王はまたため息をついた。
「後先って何? 怒られるのにおびえて、いじめを見て見ぬフリをしろっていうの?」
「そういうときのための衛兵だろう」
「衛兵って、あれが?」
マレがびっと指をさした方向では、入口に立つ近衛兵の一人がうとうと船をこいでいた。近衛兵長が持っていた槍で地面を小突くと、その音に驚いて目を覚ます。
「そんなことよりマレ、お前はまた勝手に外に出たのか。あれほど街の外に出てはいかんと言っているのに」
父の指摘に、マレはもう我慢ならないと鋭くにらみ返し、語気を強めて叫んだ。
「また話を変えた! お父さんはいつもそう! 肝心なところで話をはぐらかして話題を変えようとする! もっと街の外で起こっている問題に関心を持ってよ! みんな苦しんでる! 起こっている問題から目を背けて何になるの? そんな人が世界中の海を支配する王様? よくやってこれたわね! 情けない!」
ぐいぐいぐいっ、とひと言ずつ詰め寄り、王のたるんだお腹をタプタプと小突いた。
マレが感情のままに思いの丈をぶちまけると、ティダ王は目を丸くして固まり、助けを求めるように視線を横に動かした。しかし脇に控えて状況を見守っていた近衛兵長は、目が合うとゆっくりと顔をよそへと外して逃げた。
「落ち着きなさい、マレ。お前は王女なのだぞ? そう赤子みたいにぎゃんぎゃんとわめいていたら周りに示しがつかないであろう?」
「だったらまずはお父さんも王様らしくするべきでしょ? 子どもは親を見て育つのよ? 衛兵が腑抜けなのもお父さんのせいよ」
「ああ言えばこう言う……」
しおしおとティダ王は声をすぼめ、広間はしんと静まり返った。
玉座の間には他に数名の近衛兵がいたが、彼らは目の前で行われる親子げんかを止めようとする気配はない。なぜならそれが、日夜繰り返し行われていることだからだ。
しかしその中でもひときわ豪奢な鎧をまとった近衛兵長が、渋々といった感じで口を開く。
「マレ様。お言葉ですが、我らがティダ王もお忙しい身。この広い海すべてをまかなえるわけではありません」
近衛兵長の助言に、ティダ王はそうだそうだと言わんばかりに何度も首肯した。
「忙しい? 毎日座って寝ているだけなのに? 夢の中で帝王ダコと戦っているのかしら?」
マレはわかりやすく嫌味を言って、その目を近衛兵長に向ける。
「あなたたちこそ、こんなところで突っ立ってないで、見回りの一つでも行ってきなさいよ。王宮にいたってここ数百年何も起こってないじゃない。問題は王国の外にあるのよ? 少し離れたところまで人間の魔の手が迫っているの! それくらい耳にしているでしょ?」
マレが強く指摘すると、近衛兵長はそれ以上何も言わずにスッと元の態勢に戻って、まるで自分は岩であるかのように黙りこくった。
「マレ。わかった。お前の意思を汲んで、外への見回りの数を倍にしよう」
「本当?」
「ああ。ここニライカナイは数百年何も問題なく営んできたから、少し平和ボケしていたことは認める。改めよう」
「じゃあお父さんも王の証である神槍を手に、海の民のために遊説を行うのはどう? 海の民は王の強い意思を聞きたいのよ。そうすれば不安はぬぐわれるわ」
ニライカナイの王に代々継承される神槍がある。
それは王の証であると同時に、絶大なパワーを有している。その槍一本で海を操り、すべての海の生物を支配下に置けるとされる。太古の時代、人魚の祖が神々から承ったとされる伝説を持つその神槍は、しかし今はあまり使われることはなく、マレも祭事の際に何度か見せてもらっただけで、普段は宝物庫に保管されている。
「そういえばお前も来年は十六歳か。そろそろ成人祭の計画を練り始めねばな。近衛兵長、議会を開いてくれるか? おお、そうだ。私もイルミネーション用のクラゲを育てていたんだ。祭りには欠かせんからな。マレもきっと感動するぞ」
「また話を変えた! お父さん!」
マレの怒鳴り声が木霊し、部屋にいた誰もがびくりと身体を震わせた。ティダ王は少しだけ迷ったような顔をした後、小さく息を吐いた。
「マレ、十六になって成人祭を過ぎたら一人前の大人なんだ。そう遠くない未来、お前がここに座り、神槍を受け継ぎ、海のすべてを背負って立つ王になるのだぞ?」
「だから何よ?」
「だから、その、もう少し大人になりなさい」
「大人って何? まずいことから目を背けて見ないフリして、自分は楽をすること?」
「だからそういう考え方がだな……」
「またそうやって子ども扱いする。私は王国の将来を想って言っているの! 何千年も続いてきた海の王国を、私の代で終わらせたくない」
父の言葉を遮ってそう言い切ると、ティダ王は何かを思いついたように髭を二、三度触った。
「ふむ。海を心から心配するお前の気持ち、まことに恐れ入った。さすが私の娘だ」
「でしょ?」
「そこまで国の将来を想うのであれば、今お前がすべきことは一つではないかな?」