海姫マレ

海姫マレ

  • 著者:西川昌志
  • イラスト:高瀬亜貴子

 海は果てしなく広がっている。

 

 赤道面での直径約一万三千キロ。外周約四万キロを誇る地球という惑星の中で、その表面積の七十パーセントは海が占めている。体積にすれば十三億五千万立方キロメートル。その中でも人類によって解明されているのはほんのわずか十パーセントほどといわれている。

 そんな誰もが知り、でも誰も知らない海の中には、地上とはまた別の世界が広がっている。

 嵐で海が荒れていても、ひとたび海面をくぐれば、海の中では地上とは無関係に、静寂せいじゃくな異世界が広がっている。海の中に生きる生物は、優に一千万種を超えるとされる。人類はその中でも二十万種も発見できていない。

 もぐる。

 陸からそう遠くない比較的浅い海では、サンゴ礁が広く生息し、そこを隠れ家としてクマノミやナンヨウハギといった赤や青や黄の色とりどりの小さな魚たちが、天敵から身を守りながら共存している。

 さらに潜っていく。

 陸から離れた遠洋では、マグロやカツオといった食卓で馴染なじみのある魚が暮らしていて、さらにはシャチやクジラ、そして恐怖の象徴でもあるサメといった大型種が、広大な海原を悠々自適に泳いでいる。

 さらに、さらに潜っていく。

 そこは人類もまだ容易には到達できない深海。光も届かない闇の中では、人が耐えられないほどの冷たさと水圧が支配する。そんな恐ろしいともいえる世界でも、光を知らない無数の生物が暮らしている。太古に絶滅したとされていたシーラカンスや、十メートルを超えるリュウグウノツカイ、チョウチンアンコウといった、映像の中でしか見たこともないような、得も言われぬ怪物たちがいまだ人類に手を付けられていない自然の中を悠然と生き抜いている。

 そしてさらに、さらにさらに潜っていく。

 そこは人類がまだ知らぬ場所。

 理解も、想像もしていない場所。

 未知なる世界のその先に、誰も知らない海の住民だけが暮らす王国があったとしたら。

 

 

 

Ⅰ.

  

 

 海の生き物たちが、列をなして泳いでいる。

 海底を行くのは、赤く長い脚を持ったカニたち。彼らはいくつもの脚を小刻みに動かし、海底の砂をかき乱しながら進んでいく。その上を、銀色のきらびやかな魚が猛スピードで垂直方向に進んでいく。岩場でたたずんでいた二枚貝がぱかりと開く。すると列の途中から一斉に止まり、列が二分される。その二分された間を、今度は赤や青や黄の小さな魚たちが、ふわふわと隊列をなして進む。少しすると先ほどの二枚貝が閉まり、色とりどりの小さな魚たちが立ち止まって、再び大量のカニや銀色の魚たちが進みだした。そこにはまるで訓練されているかのように、海の交通網が整備されている。

 と、そこに猛スピードで近づいてくる黒い影があった。闇夜を押しつぶしたような黒く平べったい魚が、規律正しく進む生き物たちの隊列を強引に割って過ぎ去っていく。背中には赤く点滅をするクラゲと、その脇に小さなウミガメが一匹ぐったりと苦しそうに沈んでいる。それが過ぎ去っていくと、生き物たちは再び規律正しく一斉に動き始めた。

 

 ここは海底王国ニライカナイ。

 

 生息地域に関係なく、ありとあらゆる海の生物たちが暮らす場所。彼らは人とまったく同じように、ルールとモラルを遵守じゅんしゅし平和に暮らしていた。

「どいてどいて!」

 静かで悠然とした王国に、甲高く慌ただしい声が響き渡った。

 声の主は規律正しく列をなす魚たちとは逆に、白銀の尾を激しく上下に振りながら縦横無尽に泳いではその綺麗に並んだ列を崩していく。その少女の不規則な動きに、交通を取り仕切る二枚貝が困ったように閉じたり開いたりを繰り返す。

 白銀の美しい尾を持つその少女は、下半身とは打って変わって上半身は二本の腕が生えた肌色の肉体を持つ半人半魚だった。

 少女の前では、黒いしま模様のウミヘビが死に物狂いで逃げ回っていた。だがその距離は徐々に縮まっていき、慌てて方向転換をしたウミヘビが逃げ込んだのは尖鋭せんとつ型の岩が無数に連なった岩林がんりん。比較的体の小さなウミヘビは、息を殺しそこにひっそりと身をひそめた。

 岩林に隠れる小さな魚や貝が、その様子を陰から見守っている。ウミヘビは恐る恐る下げた首をもたげると、しかしもう自分を追ってきたものはどこかへ行ってしまったようで、ほっと胸をなで下ろす――が、ぬっと上から半人半魚の少女の顔が逆さになって下りてくる。

「捕まえたわ、ニョロニョロ!」

 

  

 

「続きましては」

 クジラが二頭はまるまる入れそうな広い部屋に、ひどく冷めた声が響き渡る。

 石でできた鎧を着た半人半魚のこの兵が、めんどくさそうに半眼で、石板に書かれた国民からの意見状を読み上げている。

「マレ様が交通を乱したせいで、息子と離れ離れになってしまった。会わせてほしい。こちらマグロの夫婦からの意見状です」

 読み上げると、近衛兵は視線だけを上げて当人であるマレを見た。

 輝くような白銀の尾を持つ半人半魚のマレは、これまた長く美しい淡紅うすべに色の髪を海中になびかせながら、その淡い色とは真逆に目力強く口を開く。

「しょうがないじゃない。ニョロニョロが逃げ回ったんだもの」

 マレは近衛兵ではなく、自身の正面の玉座に座る、ひと回りほども大きなものに向かって言う。近衛兵はその投げられた言葉を追いかけるように、視線を右へとスライドさせた。

 巨大な玉座に座るのは、マレと同じ半人半魚の、しかしこちらは弱々しくウェーブのかかった、げたような赤髪を持つ巨男おおおとこだった。海底王国ニライカナイの王にして、マレの父であるティダ王は片手で肘をつき、もう片方の手でばらばらに乱れたひげを二、三度触ってうなった。

「それで、息子には会わせてやれそうか?」

「無理ですね。もう集団は遠い海の彼方かなたでしょう。二度と会うことはないかと」

 小さく息を吐くと、王というには頼りないたるんだ体をぽよんと揺らす。

「じき別の集団がここを通るはずだから、そこに付いていくよう交渉しておいてくれ」

 ちょいちょい、と指先で言って近衛兵は意見状の書かれた石を海底に落として割った。するとまた別の石版を取り出す。

「続きましては――

「まだあるのか」

 既に十二件目の意見状に、ティダ王は呆れたように驚いた。

「ご安心ください。次で最後です」

「……読み上げてくれ」

「マレ様に追いかけ回されたあげ、体を強引に鷲掴わしづかみにされて首筋の痛みが取れない。診断書も出ているので治療費としゃ料を要求する、とのことです」

「それは誰から?」

「ウミヘビです」

「ニョロニョロじゃない!」

 まさかのうったえ人に、たまらずマレが割って入った。

「あいつがウラシマたちをいじめていたから、私が成敗してやったのよ? どうして被害者面してるのよ!」

 まくし立てるように言って、マレは近衛兵へと詰め寄る。近衛兵は「私に言われましても」と小声でつぶやいた。

「それに首筋? あいつら筋痛めるの? ぐにゃぐにゃしてるのに? 首どこよ!」

 近衛兵は、今度は小さく「確かに」とうなった。

「なんであんな悪人の言うことを真に受けるの? 今回のトラブルも全部あいつを私が捕まえようとしただけなの。全部あいつのせい」

「マレ……お前は後先を考えて行動できんのか」

 まくし立てるマレに、ティダ王はまたため息をついた。

「後先って何? 怒られるのにおびえて、いじめを見て見ぬフリをしろっていうの?」

「そういうときのための衛兵だろう」

「衛兵って、あれが?」

 マレがびっと指をさした方向では、入口に立つ近衛兵の一人がうとうと船をこいでいた。近衛兵長が持っていたやりで地面を小突くと、その音に驚いて目を覚ます。

「そんなことよりマレ、お前はまた勝手に外に出たのか。あれほど街の外に出てはいかんと言っているのに」

 父の指摘に、マレはもう我慢ならないと鋭くにらみ返し、語気を強めて叫んだ。

「また話を変えた! お父さんはいつもそう! 肝心なところで話をはぐらかして話題を変えようとする! もっと街の外で起こっている問題に関心を持ってよ! みんな苦しんでる! 起こっている問題から目をそむけて何になるの? そんな人が世界中の海を支配する王様? よくやってこれたわね! 情けない!」

 ぐいぐいぐいっ、とひと言ずつ詰め寄り、王のたるんだお腹をタプタプと小突いた。

 マレが感情のままに思いの丈をぶちまけると、ティダ王は目を丸くして固まり、助けを求めるように視線を横に動かした。しかし脇にひかえて状況を見守っていた近衛兵長は、目が合うとゆっくりと顔をよそへと外して逃げた。

「落ち着きなさい、マレ。お前は王女なのだぞ? そう赤子みたいにぎゃんぎゃんとわめいていたら周りに示しがつかないであろう?」

「だったらまずはお父さんも王様らしくするべきでしょ? 子どもは親を見て育つのよ? 衛兵が抜けなのもお父さんのせいよ」

「ああ言えばこう言う……」

 しおしおとティダ王は声をすぼめ、広間はしんと静まり返った。

 玉座の間には他に数名の近衛兵がいたが、彼らは目の前で行われる親子げんかを止めようとする気配はない。なぜならそれが、日夜繰り返し行われていることだからだ。

 しかしその中でもひときわ豪奢ごうしゃな鎧をまとった近衛兵長が、渋々といった感じで口を開く。

「マレ様。お言葉ですが、我らがティダ王もお忙しい身。この広い海すべてをまかなえるわけではありません」

 近衛兵長の助言に、ティダ王はそうだそうだと言わんばかりに何度も首肯した。

「忙しい? 毎日座って寝ているだけなのに? 夢の中で帝王ダコと戦っているのかしら?」

 マレはわかりやすく嫌味を言って、その目を近衛兵長に向ける。

「あなたたちこそ、こんなところで突っ立ってないで、見回りの一つでも行ってきなさいよ。王宮にいたってここ数百年何も起こってないじゃない。問題は王国の外にあるのよ? 少し離れたところまで人間の魔の手が迫っているの! それくらい耳にしているでしょ?」

 マレが強く指摘すると、近衛兵長はそれ以上何も言わずにスッと元の態勢に戻って、まるで自分は岩であるかのように黙りこくった。

「マレ。わかった。お前の意思を汲んで、外への見回りの数を倍にしよう」

「本当?」

「ああ。ここニライカナイは数百年何も問題なくいとなんできたから、少し平和ボケしていたことは認める。改めよう」

「じゃあお父さんも王の証である神槍かみやりを手に、海の民のために遊説ゆうぜいを行うのはどう? 海の民は王の強い意思を聞きたいのよ。そうすれば不安はぬぐわれるわ」

 ニライカナイの王に代々継承される神槍がある。

 それは王の証であると同時に、絶大なパワーを有している。その槍一本で海を操り、すべての海の生物を支配下に置けるとされる。太古の時代、人魚の祖が神々から承ったとされる伝説を持つその神槍は、しかし今はあまり使われることはなく、マレも祭事の際に何度か見せてもらったくらいで、普段は宝物庫に保管されている。

「そういえばお前も来年は十六歳か。そろそろ成人祭の計画を練り始めねばな。近衛兵長、議会を開いてくれるか? おお、そうだ。私もイルミネーション用のクラゲを育てていたんだ。祭りには欠かせんからな。マレもきっと感動するぞ」

「また話を変えた! お父さん!」

 マレの怒鳴り声がだまし、部屋にいた誰もがびくりと身体を震わせた。ティダ王は少しだけ迷ったような顔をした後、小さく息を吐いた。

「マレ、十六になって成人祭を過ぎたら一人前の大人なんだ。そう遠くない未来、お前がここに座り、神槍を受け継ぎ、海のすべてを背負って立つ王になるのだぞ?」

「だから何よ?」

「だから、その、もう少し大人になりなさい」

「大人って何? まずいことから目を背けて見ないフリして、自分は楽をすること?」

「だからそういう考え方がだな……」

「またそうやって子ども扱いする。私は王国の将来を想って言っているの! 何千年も続いてきた海の王国を、私の代で終わらせたくない」

 父の言葉をさえぎってそう言い切ると、ティダ王は何かを思いついたように髭を二、三度触った。

「ふむ。海を心から心配するお前の気持ち、まことに恐れ入った。さすが私の娘だ」

「でしょ?」

「そこまで国の将来を想うのであれば、今お前がすべきことは一つではないかな?」

 

  

 

「次」

 ――と、にべもなくマレは白銀の尾ヒレを左に振った。すると、前に沈んだ顔でつっ立っていた同じ人魚族の男が、近衛兵の一人に連れられて部屋を出ていった。

 それは王女マレの婚約者を決めるお披露目ひろめ会だ。各地域、各種族を代表した男が集まり、マレの伴侶はんりょとなるべくアピールし合う。

 出ていった扉から、今度は上半身は人だが、赤く鋭い数本の脚を生やした男が、両指をもじもじと胸の前でいじくりながら入ってくる。男は落ち着かない様子でその場でおどおどと身体を揺らしながら早口にしゃべり出した。

「わわ、私の家は確かに小さいですが、そして私もたいしたカニじゃなく、正直マレ様とは不釣り合いなカニですが……その、脚も十本ありますし……いや、実は九本……」

「不釣り合いなら来ないで。次」

 間髪入れずにヒレを左へと振るう。

 次に入ってきたのは、マレと同じ人魚で青白い尾を持った中性的な顔立ちの男だった。

「どうも初めまして! ニライカナイのお姫様に会えるなんて光栄っす! 早速なんすけど、自分をぜひ結婚相手の候補にしてほしいっす!」

「単刀直入に言ってくれるのは気持ちがいいけど、ウインクやめてくれない? 気持ち悪いわ」

「あ、これウインクじゃなくて寝てるんっす。自分、寝るとおぼれちゃうんで、右と左交互に半分ずつ寝てるんっす。面白いっしょ?」

 と、閉じていた右目が開き、開いていた左目が閉じる。

「あ、おはようございます。あれ、僕どこまで話しました?」

「なんか怖い! 次!」

 次に入ってきたのは全身黄色と茶色の縞模様の美しい人魚だった。

「どうも。父から欲しいものを与えてやるから行ってこいと言われて来ました。とりま約束は果たしたんで帰っていいっすか?」

「出てけぇ!」

 

 すべての候補者が出ていった部屋で、マレは大きくため息をついた。そんなマレに、傍にいた赤いドレスのようなヒレを付けた半人半魚の侍女がマレに寄って話しかけた。

「どうでした? マレ様。お気に召された殿方とのがたはいらっしゃいましたか?」

 過剰なまでに反り上がったまつ毛を、ぱちぱちと必要以上にまばたきさせる侍女。

「いたように見える? 私のこの顔見てよ、まだタコの踊り食いを見ているほうが楽しそうな顔をしているわ」

「まぁ、なんて下品な例えを」

「海にまともな男はいないのかしら? ほとんど人の目を見て話さなかったし、小さい声で何言っているかもわからないわ。そりゃ海も人間におかされるわよね」

「昨今の男性はそういったのがトレンドなのですよ? 温和で優しいんです」

「自分中心で弱々しいの間違いでしょ?」

「ああ言えばこう言う……」

 マレは不機嫌そうに尾ヒレを左右に振り続ける。

「これマレ様。はしたない。何度も申し上げています」

「ごめんなさい。でもこうしてないと落ち着かなくて」

「思い通りにいかないといつもそうなんですから。ティダ王がマレ様のためを思って、縁談を進めてくださっているんです。いずれはパートナーとして広大な海を支配していくんですから、真剣にお選びくださいな」

「別に結婚なんてする必要ないじゃない。私一人で十分やっていけるわ」

「子どもはどうするのです。それこそ、マレ様の代で王国は終わりますよ?」

「そうだけど……」

 そんな先の話をされても腑に落ちない、とマレは口をへの字にゆがめた。

「もしそうなったら義妹様方に継承権を移さざるを得なくなるかもしれないんですよ? お家にとっても、マレ様にとってもそれは不本意でしょう」

「でも私はまだ結婚なんてしたくない。そんなことより、まずは目の前の問題を解決すべきよ」

「問題ってなんですか」

「知らないの? また近くで大量のゴミが放棄されて、ジュゴンの群れが全滅したそうよ?」

「聞いてますよ。最近街でも噂が広がってます」

「海は以前よりどんどんにごっているし、妙な病気が蔓延まんえんしているって噂も。こうしている間にも、人間が海を汚し続けているの。汚染だけじゃない。北方では、人間がサメを無差別に捕まえた挙句、ヒレだけを切り落として体は海に捨てるなんて非道な話も聞いたわ。許せない!」

「じゃあどうしろって言うんです? ティダ王に軍隊を出させて、人間と殺し合えと? 魔法で脚でも生やして陸に上がれとでも?」

「あら、そんなことできるの?」

「あの神槍でしたら可能でしょうけど……できませんよ。私たちが陸に上がったところで無力です。それこそ人間どものえさにされておしまいですよ」

「でも何かしないと。何も変わらないわ」

「ですから」

 と、侍女は絵と文字の書かれた山のような量の石板を、マレの前にドンと差し出した。

「良き人と結婚して、子孫繁栄するのです。長い歴史を生き抜けば、いずれ状況が変わるときが来ます」

「もう。わからずや」

 

  

 

「人間なんて大嫌い」

 ニライカナイの街から遠く離れた海をマレは泳いでいた。すぐ傍をウミガメの子どもが悠々と泳いでいる。マレは時折こうして街を出て数日帰らない。あまりに自由気ままであるが、海を支配する王の娘であることを誰もが知っているので、彼女を襲おうなんて命知らずはいない。

「どうして海を汚すの? どうして私たちを捕まえて食べるの? 私たちは何もしてないのに。それを指をくわえて見ているだけのお父さんたちも同罪だわ。大人たちはみんな同じ。どうしようもないから、そういうものだからって諦める。静観することが大人みたいに振る舞っているけど、面倒事が嫌いなだけじゃない。何が海底王国ニライカナイよ。数千年の歴史よ。あんな王様ならいないほうがマシ。デブでハゲかけてるし。王様なんて名ばかりで、ただの食っちゃ寝の親父よ? この間なんか珍しく神槍を手にしてると思ったら、それで背中かいてたのよ? ありえない! ねぇ、ウラシマ?」

 息継ぎもせずまくし立てたマレが、ようやく傍を泳ぐ小さなウミガメを見た。ウラシマと呼ばれたその子ウミガメは、目の前を逃げ回る小エビを必死に追いかけ、それをパクリと食べた後、ようやくマレを見返した

「わかるよ。背中がかゆいとなんとしてもかきたくなっちゃうよね」

「そういう話をしてるんじゃなくて……まぁいいわ。ウラシマはまだ子どもだし」

「そう。僕は一番下の弟だから子どもなんだ。マレ様と一緒だね」

「私は違う。成人祭は終えてないけど、十分大人」

「そうは見えないけど?」

「あなた、小さいのにいつも辛辣しんらつね」

「小ささは関係ないよね?」

 マレ以上にああ言えばこう言うウラシマに、マレは疲れて言い返すのをやめた。

「それにしても体は大丈夫? ニョロニョロにいじめられて運ばれていたけど」

「大丈夫だよ。いじめに耐えてもみんな見て見ぬフリするけど、あえて苦しいフリをしたらみんなが慌てて助けてくれることに気付いたんだ。だからあれは演技なんだ」

「なにそれ計画的だったの? 助けた私が馬鹿みたいじゃない」

「でもいじめられてたのは本当だよ? マレ様はだから助けてくれたんだよね?」

「そうだけど……んん、確かにそうね」

「まぁ背中が痒いのは本当だけどね」

 ぐるんぐるんとウラシマは体をひねりながら、届かない手を背中に伸ばそうとしている。マレは、ウラシマのその動きに合わせて自分もぐるぐると身体をひねりながら泳いだ。

 何にも縛られず、自由に海を泳ぐのは好きだ。マレからは自然と鼻歌が漏れ始め、その歌にウラシマが喜々として体を揺らす。マレもつられて一緒に踊り出した。

 しかし、ふと周囲の異変に気付いて泳ぎを止める。

 海の匂いが明らかに変わった。透き通った青は黒く濁り、海中には白い浮遊物が無数に浮かび上がっている。匂いの中心は、マレの向かう先からやってきている。

 そこは深く広い穴を中心に、海面まで突き出した高い壁に囲まれた色彩豊かな土地で、様々な海の生き物たちが集まってこっそりと暮らす隠れ家のような場所だった。いつもは訪れたマレを見つけては数匹のイルカたちが寄り集まり付き添ってくれる。イルカたちはいつも明るく踊るのが大好きで、暗くなったマレの気持ちを明るく切り替えてくれた。

 しかし今日は誰も迎えに来ない。異変を感じ取ったマレは速度を上げた。

「そんな、誰もいない」

 以前訪れたときと打って変わって、そこは何一つとして生命の息遣いのしない閑散とした土地に変わり果てていた。これまでは遊び場として盛っていた、ごっそりと開いた底の見えない穴が、マレの恐怖心をあおる。マレはあまりの不快な匂いと味に、口元を押さえた。

 迫りくる不安感にさいなまれながら、なんとか見える視界の中を手探りで探していく。手が何かに当たったと思ったら、それは人間がよく捨てる半透明のゴミだった。

 傍の岩陰にきらりと光るものがあり近寄ると、それは瀕死の状態で横たわるイルカだった。マレが慌てて抱き上げると、イルカはただでさえ青白い顔をより青白くさせ小さく震えていた。

「大丈夫!? 何があったの!?

「マレ様……すみません。先日突然、大量のゴミがやってきて……あっという間にここは汚染されてしまいました。逃げる間もなくみんなが苦しみだして……穴の中に……」

「嘘……みんな死んじゃったの?」

「マレ様も、早く、逃げて……」

 腕の中でわずかにまたたいていた命のともしびが、あえなく消えた。マレは悲しみのあまり慟哭どうこくし、その声だけが反響する。

 悲しみに浸っていたマレは、しかし悪臭に耐え切れずその場を離れた。視界が開けてくると、ウラシマが不安そうな表情で待ち受けていた。

「マレ様、何かあったの?」

「人間が……また海を汚してみんなを殺した……もう許せないっ!」

 ハの字に垂れ下がっていた眉を一変、逆ハの字に変えて、マレは一目散に泳ぎ出した。向かうは陸。憎き人間がむところ。

「マレ様マズイよマズイ。おきてで人魚は陸に近づいたら駄目なんだよ? 掟を破ったら泡になって消えちゃうんだよ?」

 後ろから必死に付いてくるウラシマがそう注意するも、マレはたぐいまれなる泳力であっという間にウラシマから離れていき、すぐにその声も聞こえなくなった。

 奥深い底まで広がっていた海底が、徐々にせり上がってきて陸が近いことをしらせる。すぐに海面と陸とが交差するところを視界に捉えた。

 水が生ぬるい。ここまで陸に近づいたのは初めてだった。父のティダ王からは決して陸に近づいてはいけないと言われている。海面に近づくことすら恐る恐るなのに、陸や人間に近づくなんてものはもっての外だ。マレの人生の中でも恐ろしいトラウマとして残っているのは、わずかに見える海面に、巨大な黒い影が図太い音をかき鳴らし、太い紐で編んだ網と呼ばれるものを垂らしながら進んでいくのを見たことだ。たくさんの仲間たちがその網にさらわれていき、帰ることはなかった。それを目の当たりにしたときは、あまりの恐怖に数日間家から出られなかった。人間は悪魔なのだと実感し何度も夢に出てきた。

 ニライカナイにある、決して陸に近づいてはいけないという掟は、そんな人間の暴力から民を守るための脅し文句なのだろう。人間と仲良くなり固い掟を破って陸に上がった人魚が泡となって消えてしまうという昔話に小さな頃はおびえたものだった。

 そんなことを思い出していると、海面近い水色の中に、見慣れぬ黒い影を見つけた。一瞬驚きに心臓が跳ねるが、それはとても小さくマレとそう変わらない大きさの生き物だとわかる。

 しかし決定的に違うのは、その生き物にはマレと違って二本の脚が生えていることだった。

 両の脚の先に青いヒレが付いており、それをゆらゆらと上下に揺らしながら海中を進んでいる。顔は何か黒いものでおおわれていてよく見えないが、マレはそれが何であるか瞬時に悟った。

「人間だわ」

 恐怖よりも、怒りが勝った。

 マレは戸惑いそうになる自分を無視して、その人間に近づいていく。マレが近づいていくと、それに気付いたのか人間は方向を変えて海面へと上昇していく。

 海底から海面まで、真っすぐに立てば頭が出てしまいそうなほどに陸へと近づいていき、人間はそのまま陸へと上がっていってしまった。それを見遣りつつ、少しだけ場所をずらしてマレは恐る恐る海面へと顔を出した。

 まず感じたのはまぶしさだった。そしてすぐに今まで体験したことのない焼けるような暑さを感じ取る。その犯人は、空と呼ばれる海よりも真っ青なところから、マレを見下ろしていた。あまりのまぶしさにマレは目が開けなかったが、次第に慣れてきたのか目の痛みが薄れてきて、徐々に視界が開けてくる。

 先ほどの人間が白い砂浜の上で立っているのが見えて、マレは慌てて近くの岩の陰へと隠れた。そこから様子を眺めていると、人間がおもむろに全身を覆っていた黒いものを脱ぎ捨て、その中からマレの上半身と同じ肌が露出される。しまいには両足についた青いヒレも脱ぎ捨てた。

「脱皮……人間が脱皮したわ!?

「脱皮じゃないよ。あれはウェットスーツってやつだよ」

 独り言に背後から返されて、マレはトビウオのように海面を跳ねた。振り返ると海面をウラシマがプカプカと浮かんでいる。

「マレ様、早く戻らないと泡になって消えちゃうよ?」

「そんなことあるわけないじゃない。それにまだ誰にも見られてないわ」

「あの人間をらしめるの?」

「そうよ。もう我慢ならないわ。おびえながら暮らすのはもうおしまい」

「でもさっきからずっと隠れて見てるだけじゃん。怖いんでしょ」

 気が付けばあらんばかりの握力で岩を掴んでいた手をパッと放す。

「怖くない! ただ、ほら、初めて見る生き物だから……そう、まずは様子見なのよ」

 マレは自分に言い聞かせるように言って向き直り、岩場の陰から浜辺を見つめた。ウェットスーツを脱いだ人間は、脱いだそのままに浜に座り込んで海をただじっと見つめていた。

「あれは男かしら。見た目は案外普通だけど、あいつもきっと魚を取って食べてたんだわ」

「違うよ。あれはダイビングっていうんだ。人間も海にもぐって海の中を見るのが趣味なんだよ。僕の仲間は陸の近くに住んでいるから、人間のことならいっぱい知ってるんだ」

「なにそれ。自分たちで汚しておいて勝手な奴らね」

 汚したり楽しんだり、人間のやることが理解できないとマレは浜辺に座る男の顔をにらみつけた。すると、見た目はマレとそう年齢の離れていない少年の瞳から、一筋の水滴がほおを伝って流れた。

「見た? 今、目から水が出たわ。なにあれ、毒かしら?」

「あれはね、涙っていうのさ。知らない? 知らないよね。マレ様たちは涙を流さないから」

「なみだ……それは何の意味があるの?」

「人間は悲しいときや痛いときに涙を流すんだって」

「じゃああの男は、悲しいの? それとも痛いの? どこか怪我けがしたとか?」

「マレ様、なんだか心配してる?」

「し、してないっ!」

 もうっ、と小さく言ってマレは海中へと潜り込んだ。

「どうしたの? もういいの? 人間を懲らしめないの?」

「言ったでしょ。とりあえずは様子見なの。それに陸に上がられたらどうしようもないもの」

「そーゆーことにしておいてあげる」

「ほんと生意気ね」

 しかしマレは帰る方向ではなく、先ほど人間の少年が潜っていた方向へと泳ぎ出した。

「どうしたの?」

「ダイビングは楽しむためのものでしょ? でもあの人間は悲しんでいたんでしょ? 矛盾むじゅんしてる。何か理由があるはずよ」

 確信を持って突き進むと、海面にまで飛び出た大きな岩山を見つける。海中からはまるで壁のように見える岩山のふもとに白いものを見つけた。マレはその瞬間、潜在的な恐怖がよみがえった。

「これ知ってる……船よね。人間が私たちを捕まえるために海の上で乗っているやつ」

 憎しみを込めて言うと、マレは普段なら逃げる対象である船へと迫った。

 船は既にび付いていて、かなり長い間その場に放置されていたことがわかる。

 案の定、船には誰もいなかった。小さな魚や貝たちが隠れ家にしているくらいで他に目新しいものは見つからない。しいて言えば、船自体が目新しく、マレは見慣れない装置を興味深げに触ったりした。とかく人間とは複雑なものを造る。人間が海に落としていくゴミの中には、マレにとって興味深い物も多く、人間の器用さは畏怖いふと共に感嘆すらしている。

 逆さになった船の床から突き出た、小さな部屋のようになっているところには、人間の所有物が散乱していた。その中にはキラキラと光る石や、何に使うのかわからない四角い板のようなものまである。

 気付けば好奇心へと変わっていたマレが船の中を見回っていると、すぐ傍の岩山の根本に、洞窟のような穴が開いているのを見つけた。見逃してしまいそうなその洞穴に、しかしマレは直感で何かを感じ取り入っていく。誘われるように奥へと進んでいくと、そこは明らかに何者かの手が入った洞窟であることは明白だった。

 だがかなり崩壊が進んでいる。地面には崩れたれきなどが無数に散らばっており、今にも崩壊してしまいそうな様相だった。いよいよ進む先をふさぐように瓦礫が山を成していたが、マレはその隙間を何とか体を通して進んだ。

「マレ様、行かないほうがいいよ」

 後ろから付いてきていたウラシマが、隙間の向こうから言った。

「なによ、怖がっちゃって」

「僕ここ嫌い」

 なぜかおびえるウラシマをしり目に、マレは反転して奥へと進む。

 すると壁面に画が描かれているのを見つける。宮殿画家の絵がいくつか部屋に飾ってあるが、そのどれとも違う、もっと前時代的なものを感じさせる。

 その壁画では、マレと同じ半人半魚の人魚族らしきものたちが並んでおり、彼らは巨大なタコのような生き物の前にひれ伏している様子が描かれていた。

「これきっと、神話の帝王ダコだわ」

 海の世界に広く伝わる創造神話がある。それは地域によって違いはあれども、その中にかつて海を支配していた巨大なタコのような神獣がいて、それを人魚族が打ち破ったというものがある。ニライカナイはそのほうとして神々から頂いた土地であり、マレの一族は神々から未来永劫海の統括を任されている、というものだった。神槍はその証である。

 壁画は先へと続いていた。今度は人魚族が手に槍を持ち、帝王ダコと戦っている。その中に、弓矢を向ける真っ赤な髪の女性の姿がひときわ大きく描かれていた。マレはその女性の画をそっと指でなでる。

「これ……誰?」

 次は、ニライカナイと思われる街を背後に、楽し気に踊る人魚族の様子が描かれている。その玉座に座るのは、先ほどの弓を持った赤い髪の女性だった。一層気になったマレだったが、その先は崩れた岩が隠してしまい見られなくなっていた。

「これ多分、ニライカナイの歴史が描かれているのよ。王国ができるまでの神話をたどっているんだわ」

 消えかかった壁画を指でなぞりながら、マレは確信を持ってつぶやく。気の遠くなるくらい昔に描かれた壁画に、どこか描き手の念のようなものさえ感じ取る。まるでその念に引っ張られるかのように洞窟を奥へと進んでいくと、真っすぐ横に進んでいた洞窟が、急上昇し始め垂直に上へと向かっていた。その道中も壁画は続いていて、見るに長い歴史の中で人魚族は何度も争い勝利を勝ち取ってきたのだろうとわかる。洞窟は地上へと続いていて、マレは泳ぐ速度を上げ、勢いよく海面へと顔を出した。

 そこは巨大なドーム状の空間が広がっていた。外から見た大きな岩山の内側が空洞となっているのだろう、マレの髪からしたたり落ちる水の音が、空洞内で反響する。ドーム状の天井の一部の亀裂から、太陽光がわずかに降り注いでいる。円状の水面の真ん中に数メートル四方の岩地ができており、その中央に何やら台座のようなものがしつらえられていた。

「何も……ない」

 少しがっかりしながらも、マレは台座の奥に見えたひときわ大きな壁画に目を奪われる。

 海中から続いていた壁画の物語は、海面から上がり空洞内の壁を伝って最奥へと続いている。それは先ほどの赤い髪の人魚が、両の脚を付けて陸地に上がっている姿だった。そして立派な一本の槍を手に堂々と立つ姿。そしてその彼女にひれ伏す人間の姿だった。

「綺麗」

 思わずマレの口からそうこぼれた。遥か昔に描かれた古代の壁画に違いない。手入れもされていない遺跡に放置され、その壁画のほとんどはかすれて消えかかっている。その絵もお世辞にも美しいタッチとは言い難い。

 だがどうして、マレには得も言われぬ感情が湧き立っていた。凛々りりしく人間たちを支配するその姿が、ひどく美しい。心が打ち震えるようだ。

「あの赤い髪の人、歴史で学んだことがないわ。きっと人間を支配していたのよ。あの槍も、お父さんが持っている神槍と形は違うけど似てる」

 何の根拠もないが、マレには確信に近いものがあった。

「ここはきっと隠された遺跡ね。何か私の知らない真実がここに描かれているに違いない」

「マレ様、そろそろ帰ろー! みんなが心配するよ!」

 釘付けになっていたマレに、遠くからウラシマの声が響いてきて意識を引き戻される。

 しばらく家に帰らないことは頻繁にはあるが、昨日の今日で悪目立ちしては今後も動きづらくなる。マレは後ろ髪を引かれる思いでその場を後にした。

 

  

 

 洞窟を出たとき、マレたちを巨大な黒い影が覆った。

 反射的にウラシマが慌てふためきマレの背後に隠れてしまう。何事かと顔を上げると、マレたちの頭上を何倍も大きな黒々しい魚が三匹、優雅に泳ぎ回っていた。

 流線形の体。鋭く飛び出たヒレは触れる者をすべて切り裂いてしまいそうなほどで。両脇まで裂けた口からは、獲物を一瞬で絶命させる鋭い牙が飛び出ている。

「サササ、サメだ……食べられるるる」

 マレの背後でウラシマが震える。

 獰猛どうもうな捕食者で分別のないサメは、基本的にほとんどの海の生き物からは野蛮な存在として恐れられている。海の生き物同士で捕食し合うことは当然あるが、サメは秩序を度外視し本能の赴くままに仲間を食らう。王国でもタコの次に嫌われていると言っても過言ではない。かつて帝王ダコに付き従い海を我がもの顔で跋扈ばっこしていたのもサメだといわれている。

 そんなマレを五人分はひと飲みできそうな巨大なサメが三匹。

「おいおい。ニライカナイのお姫様だ」

「本当だ。由緒正しきティダ王の愛娘がどうしてこんなへんなところに?」

「おかしいねぇ。いや面白いねぇ。美味しそうだねぇ」

 腹のあたりまで裂けた大きな口で、サメたちはそう愉快に笑う。

「駄目だよ駄目。お姫様を食べてしまったら、いかに鈍重なティダ王といえど、俺たちを捕まえに来て罰で石にされちまう」

「その通り。だからこれは食っちゃいけない。でも後ろのカメは別かな」

「別だな。カメは好きだ。バリバリバリって、音がいい!」

 またそう言って笑うサメたちに、ウラシマは手足首をできるだけ縮こめて丸くなった。

「ウラシマは食べちゃ駄目! この子は私の友達なの!」

「知ったこっちゃない。お姫様、あなたが王女なのは王宮の中だけだ。ここは誰にも縛られない広い海の彼方だぜ?」

「世間知らずの箱入り娘。生きる世界が狭い狭い」

「何も知らない! 何もわかってない! 何もできない!」

 一匹が脅すようにマレの目の前まで近づき、大きな口を開いて閉じる。しかしマレを食べることなく、目の前を左方へと泳いでいった。

「やっぱり甘やかされて育ったお姫様は怖いもの知らずだぜ」

「どうせ食われないとわかっているからね。おろかな王でも威光だけは抜群さ。しかし簒奪さんだつ者の娘らしくいやしい顔をしているよ。私たちの家まで奪うのかい?」

「憎たらしい! 食いたい! でも食えない!」

 三匹は言いたい放題言って、またゲラゲラと笑う。

「ねぇ、さんだつ者ってなに?」

 マレは言葉の一つに引っかかり、サメたちは顔を見合わせてまた笑う。

「やっぱり知らないぜ。娘には話さないのか」

「そりゃそうよ。自分たちが偽りの王家だなんて言えるものか」

「偽りの王! 偽りの王!」

「どういうこと? もしかしてそれって、あの遺跡の絵と何か関係あるの?」

「ああ、見てしまったのか。あれを」

 一匹のサメが苦笑気味に言ってマレの目の前まで降りてきた。一歩進めば口の中に飛び込んでしまいそうな距離で、しかしマレは逃げ出しそうになる気持ちを抑えてその場に立ち尽くした。そしてにらみつけるサメの目を、一層気を強くしてにらみ返した。

「ほう。簒奪者の娘にしては、気概がある」

「聞かせて。あの壁画の意味を」

「あそこに描かれていることこそが、ニライカナイの本当の歴史なのさ」

「本当の、歴史? やっぱり!」

「そう。見たろう? 赤い髪の人魚を。あれこそがかつて海を支配しニライカナイの主として君臨していた真の王さ」

 真の王。その言葉が意味するところは一つ。

「だから、お父さんが、偽物の王だと?」

「そうさ。女王はすべての海を支配し、陸をも支配し始めていた。あの頃は素晴らしかったらしい。海は栄華を誇り、すべての海が、何におびえることもなく生き生きと暮らしていた。何百キロも先を見通せるほどに透き通った美しい海が広がる楽園だったと聞いている」

 サメは楽園を夢想するように恍惚こうこつとした表情で天を見上げた。

「あの遺跡はそれをたたえた場所なのさ。しかし争いを恐れた逆臣どもが、人間どもと結託して女王を罠にはめたんだ」

「その逆臣って、まさか……」

「ティダ王さ」

 マレの言葉を奪うように、サメは冷たく言った。

 彼女の中に何かがビリリと駆け抜けた。

「ティダ王らは陸の支配を進める女王に手を貸さず、逆に一緒になって女王を倒したんだ。そうすることで海の支配権を我がものにし、人間と互いに不可侵の条約を結んだんだよ。見てるだろう? 人間に対して弱気なティダ王の姿を」

「そうだったんだ……おかしいと思ってたの」

「だろう? 人間どもは条約も忘れて海でやりたい放題。なのにティダ王はいまだに条約をかたくなに守って見て見ぬフリ。なぜ? 決まっている。余計なことをしたら、人間に滅ぼされると恐れているからさ!」

 サメは言って、また高々と笑い出した。つられて二匹のサメも高笑いし、不吉な笑い声だけが場を支配した。

「おかしいと思わなかったかい? ティダ王が持つ変に曲がった神槍、あんな形の槍があると思う? 槍の刃も付いちゃいない」

「それは思っていたわ。なんであんな変な形なんだろうって……どうしてなの? 教えて!」

「好奇心だねぇ。好奇心は猫をも殺すって人間の言葉を送るよ。本当に知りたいのかい?」

「知りたい! ずっとおかしいと思ってたの! 私は、本当のことを知りたい!」

 確かめるように、サメはマレの瞳をじっくりと眺めた。

「いい目だ。お前は王になる素質があるのかもねぇ。ティダ王が持つ曲がった槍は、弓なのさ」

「弓?」

「そう。弓には矢が必要だろう? 元々、弓と矢で一つの神器だったのさ」

 ふとマレは壁画を思い出す。確かあの赤い髪の人魚が弓を手にしていた。女王はあの弓に倒されたのだろう。

「待って。じゃああの遺跡の台座には、その矢が置いてあったとか?」

 ピンと来たマレがそう言うと、サメは感嘆と小さな声を漏らした。

「その通りさ。じゃあどうしてあんな場所に矢が隠してあったと思う?」

「……もしかして、倒された女王が、その矢に封印されている……?」

「賢いねぇ。一を聞いて十を知るとはこのことかい! 海の未来が楽しみだよ」

 点と点がつながっていく。思っていたことがことごとく的中し、奇妙な心地よさを感じてしまう。これは何かの運命に突き動かされている。マレはそう確信した。

「ねぇ、その矢はどこにあるの? 封印ってことは、まだ女王は生きているのよね?」

「落ち着きなよ。元々女王が封印されたかみは、生き延びた臣下たちが持ち逃げてその遺跡に一緒に隠されていたのさ。いつか復活するときを願ってね。だけどね、丁度、そうだよ。マレ様が生まれた日に、誕生祭があったろう? 世界中の海の生き物たちがその誕生を祝ってどんちゃん騒ぎをしていたときに、地上では大変激しい嵐があってね。度重なる落雷で遺跡の一部がついに崩落して外にむき出しになったのさ」

 あ、とマレは思い起こす。ドーム状の遺跡の中で、一部亀裂が入っていたことを。

「あそこから人間が持ち出したのさ」

「どうしてそんなことするの? 女王は人間を支配しようとしてるんでしょ?」

「人間は汚いのさ! かつて結んだ条約なんざ、代替わりしたらお構いなしだ! 女王の封印された神矢は、神槍に匹敵する魔力を秘めている。かつて海を支配したパワーが眠ってるんだよ? それがあれば何ができると思う?」

 そうさ、とサメは続けた。

「海も空も、すべてを人間が支配する気さ」

 

  

 

 マレが生まれるずっとずっと昔。神話とも現実とも判別がつかないほどの時代に、神々を二分する争いが起こった。その際、地球を巨大な隕石が襲った。地球上の大半の生命を死滅させたその隕石がもたらした被害は甚大で、地球のあらゆる環境が一変してしまった。そのとき、隕石の大半は粉々に砕けて散らばったが、ひときわ大きな欠片かけらが海の底へ底へと沈んでいった。

 ニライカナイの街はその隕石の欠片を土台に作られており、特に宮殿は何千年もの時を経てその時代時代の職人たちがこつこつと岩を削り取り整えていったものであるとされる。

 そんな原初ともいえる遺物の宮殿に、マレは大急ぎで戻ってきた。

「お父さん!」

 マレは不躾ぶしつけに玉座の間に入り、大声で叫んだ。

 居眠りでもしていたのであろう、ティダ王がその音にぎょっとして目を覚ます。

「な、なんだマレ……脅かさないでくれ。そんなに血相を変えてどうした?」

「聞いたわ。全部」

「全部とは?」

「お父さんは簒奪者。神槍も、元々は弓だったって」

 マレがそう告げると、寝ぼけ眼だったティダ王の表情が一変した。彼は信じられないものを見るかのように、恐る恐る瞳をマレに向ける。

「お前……どこでそれを……まさか、陸に近づいたな!」

 いつものなまけた様子ではない、怒気に満ちた様子に一瞬気圧されるが、興奮状態だったマレはそれを打ち消すように叫び返す。

「そんな話はいいの! 本当のことを教えて! お父さんは女王を裏切ったの? 私たちは王家じゃなかったの?」

「馬鹿者……なんて愚かな真似を……! マレ、さすがの私も堪忍かんにん袋の緒が切れた。自由にさせすぎたのは間違いだったな」

 見たことのない父の冷めた表情に、おぞが走る。

「違う! そうじゃない! お父さん、話から逃げないで!」

「近衛兵長。マレを部屋に。絶対に外に出すな。私が良いと言うまでだ。いいな?」

「お父さんっ!」

 会話になっていない。マレはそのいきどおりに呼吸ができなくなるほどだったが、それ以上の会話は許されなかった。近衛兵の二人がマレを取り囲み、両腕を掴んで玉座の間から引きずり出す。

 マレは何度も叫んだ。父に、目の前の問題と向き合ってもらうために。

 だがしかし、その声は届くことはなかった。

「失望したぞマレ。お前にはまだ王の座は務まらん」

 

  

 

 マレの部屋は決まって騒がしかった。

 それはマレがあちこちの海からいろいろなものを持って帰ってくるから。丸い球型にこしらえた部屋の中には、色とりどりのオブジェが置かれている。それは珍妙な形をした大きな貝であったり、綺麗なサンゴであったり、時に人間が捨てたゴミの一つであったりもする。

 そして何よりにぎやかなのは、マレが歌って踊り回るからだ。

 そんないつもはにぎやかなはずの部屋の中で、マレはしゃがみ込み顔を両腕の中にうずめていた。静まり返った様子のマレに、ウラシマがすいすいと泳ぎ寄り声を掛ける。

「落ち込んでるの? マレ様が? お父さんに怒られたくらいで?」

「るさい」

「泣くの? マレ様も人間みたいに? 泣いちゃう感じ?」

「ええい! うるさいわね!」

 ウラシマのあおりともいえる投げかけに、マレは大きく叫んで立ち上がった。

「あなた落ち込んでいる相手に気遣いなさすぎ! それと泣いてない! 考え事をしていたの! 私がそんな女々しいことすると思う?」

「そうでなくっちゃ。何を考えていたの?」

 興味津々にマレの周りをすいすいと泳ぐウラシマを、マレはがしっと鷲掴んだ。そして気味の悪い満面の笑みを浮かべる。

「ウラシマ。手伝って」

 

 宮殿の中から抜け出す方法を、マレは熟知している。

 うるさい近衛兵たちに気付かれないように外へ出て、そして気付かれないように戻ってくる。もはやマレにとってそれは達人の域で造作もないことだった。

 部屋に置いてある壺をどけると穴がある。そこから部屋の外へと出ると、マレは上も下もない海の中を、あちこちへ身を隠しながら廊下を進んだ。

「外はこっちじゃないよ? 宮殿の外に逃げるんじゃないの?」

「いいから。周り見張ってて」

 マレが向かったのは宮殿の中でも奥の奥、宝物庫だった。うたた寝する見張りを横目に、マレはこっそりと扉を開けて中に入る。

 中はしばらく誰も出入りしていないことが明らかだった。壁に掛けられた明かりのチョウチンアンコウを鷲掴み、中を進む。しかし明かりでバレないように光量を抑えて。

「見張りは寝ているし、鍵はかかっていないし……宮殿の警備はどうなってるのかしら」

 愚痴ぐちりながらお目当ての物を探っていると、何か固い感触がありそれを手に取る。

「これって……私が小さい頃作った、玩具の神槍じゃない。こっちも、これも全部玩具」

 自分でも忘れていたような懐かしい品の数々。

「宝物庫なのにただの倉庫になってる。ああもうっ、先代の王の宝剣も床に落ちてる」

 あまりにもさんな管理だ。国の宝を何だと思っているのか。マレの中の怒りが一層増した。その宝剣が横たわる床に、ついでといった程度に置かれたお目当てのものを見つける。

「あった、あったわ」

 それは神槍だった。元は弓であったというその曲がった神槍が、特に飾られるわけでもなくその場に放り置かれてある。ともすればゴミだと捨てられてしまいそうだ。

伊達だてでも神様から貰ったものを、こんなところに置くかしら普通」

 とはいえ、今回はその杜撰さに救われたとマレは神槍を拾い上げて外へと持ち出した。

「そんなもの持ち出してどうするの?」

 王国を出てしばらく。黙々と泳いで進むマレに、ウラシマが尋ねた。

「決まっているじゃない。魔法で脚を付けるの。そして陸に上がって人間に奪われた対の神矢を取り返すのよ」

「人間になるの? そんなことができるの?」

「あの壁画の女王だって、脚を付けて陸に上がって人間を支配しようとしていたわ」

「でもそれって、成人祭を執り行った大人にしか扱えないんだよ?」

「成人祭なんて所詮形式的なものよ。大事なのは中身。私はもう十分大人なの」

 一度こうと決めたお姫様を納得させるのは大地を動かすよりも困難なことであった。

「ここでいいわ」

 マレが立ち止まったのは、以前人間の男を観察した浜辺の近くだった。万が一人間に見られてはまずいと、海岸沿いに北側へと移動する。

 マレはい上がりやすそうな手頃な岩場を見つけて上がり、魔法の神槍を手にそれを自身の白銀の尾に向ける。マレが強く願うと、神槍の先端からつたない白い光線がまろび出る。白い光がマレの下半身を包み込み、マレは驚きの声をあげる。するとズルズルと奇妙な感覚がして、光が消えるとそこには人間の双脚が備わっていた。

「わあ! 脚だ! 人間の脚だ!」

「ほら見なさい! すごいでしょう?」

 マレは生まれたての脚を上下に動かして見せる。

「じゃあウラシマ、どうせなくなったことも気付かないだろうから、しばらく神槍をそこら辺に隠しておいて」

 マレが神槍をウラシマに返すと、ウラシマは両手でずっしりとそれを受け取り、

「本当に行くの? 掟を破ると泡になっちゃうんだよ?」

「何よ。ウラシマそれ実際に見たことあるの? 私は自分の目で見たものしか信じない」

「……でも、もしマレ様が泡になっちゃったら寂しいよ」

 珍しく食い下がるウラシマに、マレはその小さな頭を指先でつついた。

「安心しなさい。すぐに戻ってくる。それに、このまま放っておいたって海は死んでしまう。例えお父さんや国を敵に回すことになったとしても、私は海を救いたい。かつての女王のように、海に栄華を取り戻したいの」

 決意を込めた瞳で、マレは付けたばかりの双脚で立ち上がった。