サクラの降る町 ―白ノ帳―

サクラの降る町 ―白ノ帳―

  • 著者:小川晴央
  • イラスト:フライ

 空から君の欠片かけらがれて落ちてくる――

 かつて、この町にはサクラが降っていた。

 春とは程遠い冷たい空気の中でも、ビルを溶かすほどの日照りの中でも、空から紙吹雪のようにサクラの花弁が降り注ぎ、町に一つ色を付け足した。

 あの日、一片ひとひらの薄紅色をした花弁が、彼女が手にする本の上に落ちてきた。同時にページがめくられ、過ぎ去ったシーンの中に花弁は閉じ込められた。たった一片の花弁だ。でも、その厚みの分だけ、本の形はゆがんだ。

 記憶と、そこに眠る想いは、今の自分の形を少しずついびつにしていく。

 これは少しおかしな町で起きる物語。歪んでしまった私たちが希望を求めて手を伸ばす物語。

 

 

 

【Ⅰ】

    

 

 バスの窓枠にイチョウの葉が引っかかっていた。風によってバタバタと震える黄色い葉っぱは、まるで魚のヒレのようだった。

 停留所で親子が乗り込んでくる。赤ん坊を抱いた母親と、ぬいぐるみを抱いた四歳くらいの女の子だ。彼女たちは私が座る最後列へとやってきて隣へ座った。

「気に入った?」

「うん! 丸くてかわいい」

 女の子が抱きしめているのは、峰上みねかみ市のイメージキャラクターである〝ミネカミネコ〟だった。私が中学の頃に名前の公募が行われたので、生み出されてからもう三年以上が経ったキャラクターだ。

 女の子が、サクラの形をしたミネカミネコの肉球をぷにぷにつつく。

「ねぇママ。なんでこの子、手にお花がついてるの?」

「ミネカミネコは峰上市のことをみんなに紹介するのがお仕事だから。ここではアマザクラが降るんだよーって教えてるの」

 女の子が「あまじゃくら?」と舌足らずに聞き返す。

「お空からサクラの花びらがふわふわーって降ってくるの」

「お花が降るの? 空から?」

 そこで眠っていた赤ん坊が泣き出した。母親が慌ててあやし始める。

 母親に会話を打ち切られた女の子は私のほうを振り向いた。座席の上でお尻を滑らせながらこちらに近づいてくる。

「お花が降るの?」

 注意してくれることを期待して母親をちらりと確認するが、彼女は前の座席の老夫婦から声をかけられていた。赤ん坊をあやす手伝いを始めた老夫婦との会話に夢中で、こちらには気が付いていない。

「桜の花弁とよく似た物質が空から降ってくる現象を〝アマザクラ〟と呼ぶの。三十年ほど前から東アジア圏の特定地域のみで観測され始めた気象現象よ」

 私が話し終えても、女の子はぽかんとしたままだった。

「お話むずかしい。お姉ちゃん、せつめー下手ね」

「小学生になったら授業で習うわ。とにかく空からサクラが降る町がいくつかあるの」

「なんで?」

「アマザクラの発生原因、特定の地域でしか観測されない理由、降る花弁の色に影響を与える要因、すべてがまだ科学的にはよく分かっていないわ」

「分かんないの? 大人なのに?」

 女の子の挑発的な感想に、私は小気味よさを感じる。

「そう。大人たちは分かっていないの。アマザクラの真実を」

 含みのある私の返答に、彼女は首を傾げた。

「お姉ちゃんは知ってるの?」

 私が知る〝アマザクラの秘密〟を披露してみようかという、いたずら心が生まれる。しかし、そんなことをしたら周りからは子供に嘘を吹き込む悪い女子高生だと思われるだろう。

 卑怯だが、私は受けた質問をはぐらかす。

「あの子は男の子? 女の子?」

 母親の腕の中にいる赤ん坊はまだぐずついている。

「女の子だよ! まひるちゃんって言うの! お姉ちゃんは、いもーといる?」

 なんてことはない質問に、私は即答できなかった。

「ええ。一応、ね」

 

    

 

 病院名が記された停留所でバスを降りる。ロータリーを抜けて院内に入ると、消毒液のつんとした匂いが鼻を突いた。エレベーターで八階まで昇り、その一室の扉を開ける。

 ベッドの名札には《紫々ししぶきあい》と名前が記されていた。

「愛里ちゃん、久しぶり。いつもと違って平日だから少し驚かせてしまったかもしれないわね」

 ベッドで眠る彼女は私の挨拶に応えない。部屋を満たしているのは、間仕切りカーテンが風に揺れる音だけだ。

「そうだ、今日はお土産があるの。ちょっと手を借りるわね。もう十一月も終わるし、乾燥もひどくなると思ったからハンドクリームを買ってきたの。香りがいいものを選んだつもりだけれど、柑橘系の香りはあなたの趣味に合うかしら……?」

 愛里の手を取りクリームを塗り込む。彼女はその間、くすぐったいと笑うこともせず、穏やかな呼吸を繰り返すだけだった。

 陶器のように白い肌、シーツの上で広がる長髪、つんと立った愛嬌のある鼻先。彼女は今にもあくびをしながら起き上がってきそうだ。

 だが、彼女は一年もの間、眠り続けている。

 ノックと共に看護師が病室の中へと入ってきた。愛里を長く担当してくれている彼女は、ベッド脇に座る私を見て「あれ!」と声をあげる。

「ルカちゃん久しぶり。驚いた。平日だよね今日。この間、お父さんが峰上に戻ってきたって話は聞いてたけど、ルカちゃんも一緒に帰ってきてたんだっけ?」

 看護師は私が着ている九重ここのえ高校のブレザーを確認しながら首を傾げた。

「私だけはまだ九重に住んでます。高校の手続きの問題もあるので、春までは向こうで一人暮らしです」

 こうして愛里の顔を見るのはひと月ぶりだった。私の実家はこの峰上市にあるが、今住んでいるのはここから二百キロほど離れた場所にある九重町という田舎町だ。気軽に行き来できる距離にはない。

「じゃあ今日は学校サボって里帰り?」

「いえ、修学旅行中なんです。午後は自由時間なので、ここに」

 愛里の心拍数や血圧をメモしていた彼女が手を止め、私に微笑む。

「そんな時間まで使ってお見舞いに来てくれるなんて、いいお姉ちゃんだね」

 彼女は私たちが血の繋がらない姉妹であることを知っていたはずだが、それでも私を〝お姉ちゃん〟と言い切った。

「今更、京都で行きたい場所もなかっただけです」

 二ヶ月前に行われた学園祭以来の大きな行事ではあるが、行き先が地元となると浮き足立つこともなかった。

「それでもえらいよ。お母さんも毎日のように声をかけに来ているし、お父さんも九重に転勤になったあと、すぐに峰上で写真の仕事を見つけて戻ってきてさ。そういうのって、きっと神様が見ててくれると思うな」

 神様なんていないだろう、と内心で呟いてから自嘲する。自分も同じくらい非科学的なものを信じているからだ。

 ――愛里の心は、アマザクラと繋がっていたんです。

 この町に降るサクラが彼女の感情に反応していたなんて、きっと信じてもらえない。

 ――アマザクラが、私の妹を覚めない眠りにつかせたんです。

 そんなことを言ったら、きっと正気を疑われるだろう。

 窓から見える乾いた空には、食べかけの綿菓子みたいな雲が浮かんでいるだけだ。雨は降りそうもない。雪もひょうもみぞれも。そして、サクラも――

 一年前まで、この町ではアマザクラが観測されていた。

 だが、去年のクリスマスイブからは一度も観測されていない。それは、愛里が覚めない眠りについたのとまったく同じタイミングだった。

 ――アマザクラから、彼女を取り戻したいんです。

 そんな私の願いを、世界は笑うだろうか。

 

    

 

 私が小学五年生の時、母親が他の男と暮らすために家を出ていった。

 客観的に見れば母親も全人類のうちの一人に過ぎない。それでも、仕事で家を空けてばかりの父親の代わりにそばにいてくれた彼女は、幼い私にとって大きな存在だった。

 だから彼女が突然いなくなったことにショックを受けたし、裏切られたと感じた。

 それから私は他人に対して小さな不信感を持つようになり、出会う前から裏切られる準備をするようになった。

 愛だとか、絆だとか、そういう言葉が、まるでペガサスやツチノコのような架空のものであるかのように思えた。

 だから、笑顔で近寄ってきたクラスメイトが影で私の悪口を言っていた時も、担任教師の不倫が教室で話題になった時も、特に驚きはしなかった。

 そんなものだろう。私にとって絆で繋がれた人間関係は、トランプタワーのように不安定なものに感じられた。机の上でバラバラに折り重なっている有様のほうが自然な状態に思える。

 でもきっと、愚かなのは人間ではなくて私だ。私は賢くなったんじゃない。普通の人間が当たり前に持っている能力を手放しただけだ。真実に気が付いたわけではなく、自分の視界を狭めただけだ。

 中学に入ってすぐの頃、男子生徒から渡されたラブレターを読まずに捨てた。その時プラスチックのゴミ箱に反射した自分の顔が、母親とそっくりなことに気が付いた。

 繋ぎたいと伸ばされた手を拒否する、冷たい目を私も携えていた。

 裏切られることへの恐怖と、他人を信じることができない弱さと、自己防衛のための諦め。

 いろいろなものが混ざり合った結果、私自身が冷たい人間になっていた。

 他の人間を嫌いになったように、自分自身のことも嫌いになった。

 私の手が人形のように冷たいのは、誰かに温もりを分け与える気がないからだ。

 絆の端っこを誰にも渡さないように抱きしめているから、世界と絡み合うことがないのだ。

 そのほうが楽だった。安心だった。

 変わらなくては、とは思えなかった。これが自分の本当の姿だと感じていたからだ。

 世間から見て、孤立している私は可哀想に映るのかもしれない。でも、それは私が受け入れるべき罰だ。繋がり合い愛し合う世界から背を向けた私が、その中の温もりと幸せだけを享受しようなんて思うべきではない。

 体から伸びるコードがすべて断線した、できそこないのアンドロイド。

 それが私だった。

 

 愛里と出会ったのは、中学二年生の時だ。父親が私に、交際相手の沙里さりさんという女性を紹介する際、彼女の娘である愛里も同席していた。

「愛里は、愛情の愛に、ふるさとの里、です。たまに〝えり〟って読み間違えられることもあるけど〝あいり〟です」

 それから何度か四人で出かけたが、愛里は小学生とは思えないほどにしっかりしていて、礼儀正しい女の子だった。電車内で立っているお年寄りがいれば必ず席を譲るし、近所の人への挨拶もかかさない。学校には友人がたくさんいたが、それを鼻にかけることもない誠実な女の子だった。

 それからしばらくして、父親と沙里さんが正式に再婚し、愛里は戸籍上の妹になった。

 同居生活が始まってからも彼女は礼儀正しく、私の内側へ無神経に踏み込んでくるようなことはしなかった。私が発している周りを遠ざけたいというオーラを敏感に感じ取っていたのだろう。

 私と彼女は、広い和室をふすまで仕切ってお互いの部屋にしていたのだが、そのふすまを開くことも滅多になかった。

 同居を始めた当初、ふすまの向こうから聞こえる生活音をわずらわしく感じるだろうと耳栓を用意したが、出番は少なかった。愛里は友人を部屋に呼ぶことはなかったし、掃除や模様替えなどは私がいない間に行っているようだった。

 聞こえてきたのは、ささやかな音だけだ。衣擦れ、紙の上を滑る筆記音、本のページをめくる音。彼女が立てる小さな物音は、すぐに私の生活の一部として馴染なじんでいった。

 朝起きてから挨拶を交わす。彼女のパンも一緒にトースターにいれる。些細なニュースに感想を漏らす。時間が合えば二人並んで学校への道を歩く。

 私たちはお揃いの洋服を着ることもなければ、特別な理由もなく二人で遊びにいくこともなかった。彼女は私のことを〝ルカさん〟と呼び、敬語を使い続けていた。周りの人からは、姉妹ではなく、先輩後輩関係だと間違われるほうが多かった。顔がまったく似ていないのだから当然ではあるが、私たちのやりとりや振る舞いも、姉妹や友人には見えなかったのだろう。

 親からはそんな距離感を心配されることもあったが、私にとっては奇跡のような出来事だった。私のような気難しい人間とぶつかり合うことなく、穏便に過ごせる相手がいることに驚いた。

 ただ、そんな愛里にも子供らしい一面があった。彼女はアマザクラに関する、ある非現実的な想像をしていたのだ。

 同じ家で暮らし始めて、半年ほどが経った秋のことだ。私は中学からの帰り道で、愛里と偶然一緒になった。

「あ、ルカさん! おかえりなさい」

「愛里ちゃんもお疲れ様」

 日は傾き始めていたがあたりはまだ明るく、私は彼女の着ているワンピースについた汚れに気が付いた。

「転んだの?」

 愛里は自分で服をつまんで、汚れた部分を恥ずかしそうに眺めた。

「今日体操着忘れちゃったんです。運動会の練習があったのに」

「あなたが忘れ物なんて珍しいわね」

「今朝、ちょっと嫌な夢を見たから、ボーっとしちゃって……」

 彼女とは今朝も顔を合わせていた。普段通りに見えたが、実際はそうではなかったらしい。

「どんな夢だったの?」

 愛里は足元へ視線を落とした。

「昔の、夢です……」

 その言葉に、私は再婚前に父親からされた話を思い出した。

 ――愛里ちゃんにはな、双子の妹がいたんだ。

 彼女は〝莉亜りあ〟という名前だったそうだ。

 ――愛里ちゃんが三年生の時、交通事故で亡くなったらしい。

 父は続けて家の中で安易に〝莉亜〟の話題を出さないよう私に忠告した。

 ――つらい記憶だ。進んで話したいものでもないだろう。沙里さんたちが話したいと思った時に聞かせてもらうようにしよう。

 もともと他人の過去を根掘り葉掘り尋ねる性分ではなかったし、沙里さんや愛里のほうからその話題が出ることもなかったので、亡くなった妹の存在にこちらから触れたことは一度もない。たまに沙里さんの部屋で二人の女の子が写った写真を見かけたことはあったが、それをじろじろと眺めたりもしなかった。そっとしておくことが、自分にとっての正解なのだと判断したからだ。

 だから今も、愛里が口にした〝昔の夢〟が莉亜と関係あるのか尋ねるようなことはしない。彼女を傷つけることなくそれを確認する方法を、私は持ち合わせていなかった。

「私は嫌な夢をみたり、寝不足だったりで寝覚めが悪い時は、参考書の問題を解いて頭を切り替えているわ」

「ルカさんでも、嫌な夢って見るんですね」

「そりゃ見るわよ。苦手な虫とか、母親が夢に出てくることもある」

「お母さんが出てくるのは、嫌な夢ですか?」

「明確に憎いとも嫌いとも言い切れないけど。ポジティブな感情はないわね」

 愛里は「ポジティブな感情はない」と私の言葉を口の中で繰り返した。

「私もお父さんの夢見たら、嫌な気持ちになります」

 お互いに似た境遇にあるので、実の両親の話題はタブーではなかった。だからといって深く話し合いたいテーマでもなかったので、私は話題を夢に関するものに戻す。

「夢は、眠っている間に脳が記憶を整理するために見るそうよ」

「へー。頭の中で思い出を再生してるって感じなんですかね」

 前方の踏切が下りる。立ち止まると、愛里は歩道脇の縁石に溜まった花弁に目をやった。灰色にくすんだ花弁は、あたりの枝木から落ちたものではない。今朝、空から降ってきたアマザクラだ。

「昔の夢を見たから、昔の気持ちも一緒に思い出して、こんなくすんだ花びらが降ったのかもしれません」

 峰上市のアマザクラは、自分の感情に反応して降っている。前にも、そんな空想を愛里が口にしたことがあった。

 ――この町のアマザクラに心が覗かれているんです。嬉しい時は綺麗な花びらが降って、苦しいとか、悔しい時は汚い花びらが降ってくるんです。

 彼女曰く、発光する不思議な花弁に触れた翌日から、この町でアマザクラが降り出したらしい。大人びた彼女らしくない、子供っぽい空想だった。

「そういえば、今日は、夢の中でもアマザクラが降ってたんですよ。真っ白な花びらでした」

「白?」

 アマザクラの色はその時々で変化するが、黒色から薄紅色までのグラデーションの中に収まる。峰上市以外の降花地域でも真っ白な花弁というものが観測されたことはなく、私は彼女の話が余計にファンタジーなものに感じられた。

 

 同居から一年が経ち、私が高校へ、愛里が中学へ進学した。

 事件が起こったのは、お互いが新しい学校に慣れ始めた五月の頃だった。

 その日、私は父の友人が開催する写真展へ足を運んでいた。父と愛里と共に三人で向かったが、父がその友人と仕事の打ち合わせを兼ねた食事に行くと言うので、私と愛里は先に家へ帰ることになった。

 会場である百貨店を出たところで、愛里が口を開いた。

「素敵な写真展でしたね」

「確かに、プロの写真はひと味違うわね」

 父はアマザクラの風景写真を中心に撮影する写真家だったが、父の友人は犬や猫などの身近な動物を被写体としていた。

 愛里がお土産に購入したポストカードが入った袋を満足そうに持ち上げる。彼女が選んだのは、雪山の斜面でたたずむ白いウサギの写真が印刷されたものだった。

「ウサギ好きなの?」

「はい。小学校で飼ってたウサギを一時期世話してたことがあって。その頃から一番好きな動物なんです」

 彼女と遭遇したのは、飲食店が並ぶ通りを歩いている時だった。

 目の前からやってきた一人の女性が、私と愛里の前で突然立ち止まった。ぶつかるのを避けるためにそうしたのかと思ったが、その女性は突然私の肩を掴んできた。

「ルカ?」

 私はそこで初めて彼女の顔を確認した。彼女の目鼻立ちと、唇に塗られた赤い口紅を見た時、私の口から自然と言葉がこぼれ落ちた。

「お母さん……?」

 五年前に私を置いて家を出ていった母親がそこにいた。顔つきにほとんど変化はなかったが、最後に見た時には長かった髪が今は肩の上で切り揃えられていた。

「やっぱりルカなのね」

 彼女自身も私との遭遇に驚いているようだった。待ち伏せしたわけでもなく、偶然見かけて思わず声をかけてきたのだろう。

 数秒かけて状況を飲み込んでから、自分が失敗したことに気が付く。

 赤の他人を演じることが最もスマートな対応だった。母親が最後に見たのは小学五年生の自分なのだから。とぼければいくらでもやり過ごせたはずだ。

「元気、だった?」

 戸惑っていることは分かるが、五年ぶりに再会した娘への第一声にしては、それはずいぶんと軽いものだった。

 すると、一人の男性が彼女へ声をかけた。

「なに、知り合い?」

 彼は親しげに母の腰に手を回し、私の顔をじろじろと確認してきた。

 対処をいくつか考えた。皮肉を言ってもいい。恨み言の一つをぶつけてもいい。横に立つ男が家を出ていってから何人目の男性なのか尋ねてもいい。

 だが、その中から一つを選び取る前に、右手を愛里に引っ張られた。

 愛里が母親とは反対方向に走り出す。私は手を引かれるまま、そのあとに続いた。

 道行く人の喧噪けんそうも、あたりの商店から漏れる雑音もそこには満ちているはずだったが、私の耳には自分と愛里が鳴らす足音だけが届いていた。

 何度か角を曲がり、細い路地に駆け込んだところで、私は愛里に声をかける。

「愛里ちゃん。もういいのよ」

 彼女は息を切らしながら立ち止まると、私たちが走ってきた方向を振り返った。

「でも……」

「大丈夫。追いかけてくるような人じゃない」

 あの人は、私に対してそこまでの情熱を持っている人ではない。

 愛里は切らした息を整えながら、誰も入ってこない路地の入り口を眺めた。

「ごめんなさい、ルカさんが〝お母さん〟って呼んだから、助けなきゃって……」

 愛里は自分の行動に自分で驚いているようだった。

「ルカさん、前にあの人のこと苦手みたいなこと言ってたし、さっきも困ってるみたいだったから、思わず……。あ、ごめんなさい」

 そこで愛里が握りっぱなしだった手を慌てて放した。手の平に残った彼女の体温がすっと空気の中に霧散していくのを感じる。

「困ってるように、見えた?」

 愛里が申し訳なさそうにうつむく。

「私が同じ立場だったら困るかも、って思いました。あの人と、話したいこととかありましたか?」

「言ってやりたいことはあった気がするのだけど、今思うと、なにを言っても後悔していたような気がするわ」

 突然の遭遇にさすがの私も混乱していた。彼女にぶつけたい感情はあったが、それをあの場で勢いのまま吐き出していたら、それは母親の存在に心が乱されたことの証明になってしまう。きっと私はそれをあとから思い出して、自分を情けなく思っていたはずだ。

「あの状況で一目散に逃げ出すなんて、愛里ちゃんにも豪快なところがあるのね」

 それはいたずらが見つかった子供が取るような衝動的な行動で、自分一人では絶対に選ばない選択肢だった。だからこそ、首筋の汗や、ひりついたのどの感覚が新鮮で、爽快感すらあった。

「ありがとう。助かったわ」

 愛里が目を丸くしながら固まった。

「ルカさん、そんな風に笑うこともあるんですね」

 そんな風にとは、どんな風にだろうか、頬に手を当ててみたが、自分ではよく分からなかった。

「私も、笑う時は笑うわよ」

「あ、今は、ちょっと照れてます?」

 まるで流れ星でも見つけたかのような表情で、愛里が私の顔を覗き込む。

 彼女の視線から逃げるために私は歩き始めた。

 ふと、愛里と暮らし始めてからすぐの出来事を思い出す。一度、愛里が沙里さんからアドバイスを受けて、私のことを〝お姉ちゃん〟と呼んだことがあった。そんな彼女に私は無理して親しく振る舞わないでほしいと伝えた。愛里の気遣いを無下にした私は、思わず続けて自己弁護をした。

 ――ごめんなさい。私は〝お姉ちゃん〟なんてやったことがないから。

 情けない私の言い訳に、愛里は安心したように笑った。

 ――愛里もおんなじです。〝妹〟やるの、初めてです。

 見ず知らずの相手が、急に姉妹になる。その一点において私と彼女は同じ状況にあった。

 愛里は冷たい私とは真逆の人間だ。礼儀正しく、真面目で、思いやりがある。だから私たちの心の糸は、絡み合ってもいないし、結ばれてもいなかっただろう。でも、確かにその一ヶ所だけは交差していた。

 だが、そんなささやかな気付きも、愚かで自分勝手な私は結局台無しにしてしまう。

 

    

 

 十一月。高校の校則に合わせて新しく用意したコートが体に馴染んできた頃、峰上市で〝二色咲き〟という珍しい現象が起きた。

 通常、一度に一色の花弁を降らせるはずのアマザクラが、同時に二色の花弁を降らせるという現象だ。峰上市では薄紅色と灰色の花弁が同時に観測された。

 限られた地域でしか降らないアマザクラの中でもさらに珍しいその現象は、全国ニュースでも取り上げられた。番組内では科学的な裏付けのない曖昧あいまいな予想を学者が披露し、峰上市民の感想も流されていた。

 しかし週に数回、ひと月に渡って〝二色咲き〟が降り続いたことで、冬休みに入る頃には日常の一部になっていった。

 そんな十二月の終わり、学習塾での冬期講習を終えて、家に帰るその途中のこと。私は家の近くまで来たところで踏切に捕まった。そこは偶然にも、以前にアマザクラと心の関係について、愛里と話した踏切でもあった。

 甲高い警告音を響かせる遮断機の向こう側に愛里を見つける。

「愛里ちゃん?」

 彼女は顔を両手で覆い肩を震わせていた。

 初めて見る彼女の泣き顔だった。足をくじいて運動会に出られなかった時も、小学校の卒業式でも泣くこともなかった彼女が、赤ん坊のように泣いていた。

 ――もう、消えたい。

 涙をぬぐう腕の隙間から見えた口元が確かにそう動いた。次の瞬間、私は信じられないものを目にする。彼女の体が桜色に光り始めたのだ。街灯やイルミネーションを反射しているのではなく、彼女自身が暗闇の中でぼんやりと光っていた。

 互いの間を轟音と共に電車が通り過ぎる。電車の風圧によって光は粒となって舞い上がった。光の粒はまるでアマザクラのように風にもだえながら地面へと落ち、やがて光は消えた。それと同時に愛里もその場に倒れ込む。

「愛里ちゃん!」

 まだ上がりきっていない踏切をくぐり、彼女に駆け寄る。

「どうしたの? 愛里ちゃん! 愛里ちゃん!」

 呼吸はしていたが、上半身を持ち上げると彼女の腕が力なく地面に横たわった。

 その日から、峰上市ではアマザクラがぱたりと降らなくなった。

 

 いくら検査をしても、愛里が眠りについてしまった原因は分からないままだった。様々な病気の可能性が否定されていくと同時に、私の中である考えが膨らんでいった。

 愛里の心は、本当にアマザクラと繋がっていたのではないだろうか――

 アマザクラはまだ科学的に解明されていないことだらけだ。そのアマザクラが原因ならば、昏睡状態の理由が解明できないことにも、愛里が眠りにつく際に見た発光現象にも納得がいった。馬鹿みたいな仮説だと分かっていたが、だんだんとそれが私にとっての真実になっていった。

 

 冬休みが明け、私は学校へ向かうために家を出た。

 なにか忘れ物をしている気がした。停留所に着いてから鞄の中を確認したが、必要なものはすべて入っていた。鍵も閉め忘れてこなかったし、朝使ったトースターのコンセントも抜いてきた。なのに思考にぽっかりと穴が空いたような感覚があった。

「あぁ、そうか……」

 ぽっかりと空いているのは私の右側の空間だった。

 バスを待ちながら道を覗き込む彼女が、今日はいない。

 愛里と暮らし始める前は一人で登校するのが当たり前だった。学校でも家でも大抵の時間を一人で過ごしていた。その状態に戻っただけなのに、氷を押しつけられたように心臓がひりひりした。

 私は家へと戻り、愛里の部屋の戸を開けた。もちろんそこに彼女の姿はない。

 私は一体、なにをしていたのだろうか。

 アマザクラが愛里の心の内面に反応しているなら、アマザクラの異常は、愛里の心の異常だったはずだ。〝二色咲き〟という現象が起きた時、愛里の心の中でも今までにないことが起きていたことになる。

 ――もう、消えたい。

 あの時、遮断機の警告音でほとんど声は聞こえなかった。だがあの瞬間を思い出すたび、はっきりと頭の中で彼女の声が響く。

 愛里は、消えたいと願うほどの〝なにか〟を抱えていたのだ。にもかかわらず、私はそのことにまったく気付かなかった。

 愛里の体が光り出したのは、彼女が〝消えたい〟と呟いたその時だった。アマザクラが彼女の心と繋がっていたという前提に立って思い返すと、あれはまるで、彼女の願いにアマザクラが呼応したかのようだった。

 きっと彼女の心と繋がっているアマザクラが、彼女の心を守るために眠りにつかせたのだ。

 打ち明けてほしかった。なんて言葉はあまりにも都合が良過ぎる。

 私は一度でも、彼女の心に近づこうとしただろうか。深く踏み込まない関係に甘えて、距離を取っていたのは他でもない私なのだ。

 愛里が眠りについてから、たくさんの人が彼女の身を案じた。沙里さんも、中学の友人も、教師も、彼女の目が覚めることを祈った。

 彼らの中にも、愛里が思い悩んでいたことを知る者はいなかった。私だけの責任じゃない。私が悪いわけではない。そんな醜い自己弁護を心の中で唱えるたび、むしろ罪悪感は広がっていった。

 あの日、私の手を引いて母親から一緒に逃げ出してくれた彼女に、私は少しでもなにかを返していただろうか。私がもっと彼女を気遣っていたなら、彼女と信頼関係を築けていたなら、この悲劇は避けられたかもしれない。

「ごめんなさい……」

 受け取る人間がいない場所での謝罪は、実に空虚で、なんの価値もないものだった。

「分からなかったの。ずっと一人だったから……」

 人を大切にするやり方も、誰かを思いやる方法も、私は知らなかった。

 だから今も、なにが愛里を追い詰めていたのか、想像すらできない。

 答えを彼女に尋ねることはもうできない。情けなさと無力さが足の先から湧き上がり、それが全身を満たした時、目から一滴の涙がこぼれ落ちた。

 悲しむ資格などないだろうと、心の中に住む冷たい目をした私が吐き捨てた。

 

    

 

 看護師が去って、病室にはまた私と眠ったままの愛里だけが残された。

 沈黙が私を締めつける。窒息できない程度に弱く、忘れることはできない程度にきつく。

 ベッドの脇に設置されたテレビ台には、彼女が眠っている間に持ち込まれた様々なお見舞い品が並んでいる。所属していたバスケ部から送られた色紙と千羽鶴、クラスメイトからのメッセージが録音されたMP3プレイヤー、花が活けられた花瓶。すべてが彼女の目覚めを願って贈られたものだ。

 そこに積まれた愛情と同じ分だけ、私の心は重くなる。罪滅ぼしをしなくてはと、気持ちが焦る。

 病室の扉がノックされた。看護師が戻ってきたのかと思ったが、扉を開けて入ってきたのは私と同じ九重高校の制服を着た少女だった。

「ごめん、ちょっと遅れた。班を離れる前に、先生に捕まっちゃってさ」

 かみしきツバサが、気まずそうに肩をすくめた。

 

    

 

 修学旅行一日目の夜は騒がしかった。同室のクラスメイトは恋愛話や、引退した部活の先輩の愚痴など、私には興味のない話題で盛り上がっていた。

 だが、二日目となるとさすがに疲労が溜まったのか、みんなすやすやと眠っている。寝息と旅館の壁掛け時計の音が部屋を満たしていた。

 私はそれがかえって落ち着かず、なかなか眠りにつくことができなかった。

 部屋を出て、旅館のロビーへと向かった。自動販売機でウーロン茶を購入していると、後ろからツバサに声をかけられた。

「眠れないの? ルカ」

 彼女も私と同部屋だった。私が部屋を出たことに気付いて追ってきたのだろう。

 布団の上で何度か寝返りをうっていたのか、セミロングの黒髪が乱れてぼさぼさになっている。羽織ったパーカーの間から見える浴衣の帯も斜めになっているが、それは大浴場から帰ってきた時からそうだった。

「ツバサさんも?」

「あちこち観光したみんなと違って、私ら愛里ちゃんの病院に行っただけだからね」

 自由時間は決められた班単位で行動する決まりだったが、そのルールはあってないようなものだった。ほとんどの生徒が部活の仲間や仲のいい友人と行動していて、私の班員も好きな映画のロケ地巡りをしたいからと、別行動を取っていた。

 ツバサも似たような状況だったため、愛里のお見舞いに行く私と病院で合流することにしていたのだった。

「ルカもついてないね。修学旅行先が地元って。もし今も前の学校にいたら、どこ行ってたの?」

「ハワイか、勉強合宿か、選択式よ」

「それ勉強合宿選ぶ人いるの?」

「いるわよ。割と」

 私が春まで通っていた峰上学園の進学校っぷりに、ツバサは「うげー」とあきれ返った。

「勉強に熱心な人もいれば、家庭の事情で費用が出せない人もいるし、ハワイでもパシりにされるだけだから行かないって人もいるし」

 ツバサが険しい表情で腕を組む。本人が前にコンプレックスだと語っていた目つきが、さらにきつくなった。

「パシり……。名門高校にもそういうテンション下がる嫌な話あるんだ」

「プライドが高い人が多い学校だし。私も実際に目にしたことだってあるわ」

「それは気分悪いね……」

「昔の話よ」

 ある少女の姿が思い浮かぶ。重たい黒髪に縁の太いメガネ、記憶の中の彼女はうつむいていた。

 ――すごい、ですね……。紫々吹さんは。

 嫌味と感嘆が半分ずつ混ざった声と共に、なぜか湿った匂いがした。

 ツバサが体をぐっと伸ばしながら、濁点だくてんがついたようなうめき声を漏らす。

「それにしてもハワイかー! 行ってみたい、ようなそうでもないような……」

「あなた、旅行好きってわけじゃないものね」

「英語が得意だったり、知らない文化を楽しめる教養があったりすれば楽しいんだろうけど、私はどっちもからっきしだし。嫌いってわけでもないんだけど……、ってこのどっちつかずな感じが、また私っぽいよね」

 ロビーに設置されたソファに腰掛ける。ツバサも私から一つ間を空けて同じソファに座った。

 正面に小さな土産物売り場が見える。網シャッターで仕切られた向こう側の棚に、京都のご当地キーホルダーが並んでいた。ミネカミネコのキーホルダーもあるが、端のほうに追いやられている。アマザクラが降らなくなった今、ミネカミネコは少々時代遅れなのだ。

「今日は愛里ちゃんの顔が見られてよかったよ」

 ツバサは、私と愛里に関する話を誰よりも知っている。それは彼女自身が九重町のアマザクラと繋がる人間だからだ。

 愛里が眠りに落ちてから、私は彼女を目覚めさせる方法を探した。アマザクラを知るために様々な方向からアプローチし、その中で出会ったのがツバサだった。私はアマザクラに関する理解を深めるために父親の引っ越しについていき、彼女に近づいたのだ。

 その夏。ツバサは疎遠になっていた幼馴染みであるたまヒヨリとの仲直りを果たした。

 ただ仲直りと呼ぶには切実で、必死で、アマザクラと九重町の空を巻き込んだ壮大なものだったのだけれど、端的に説明するならば、仲直りという言葉になるのだろう。

 一連の出来事の中で、愛里がなにに悩んでいたのかを解き明かすことはできなかった。九重の空で起きたことの答えは、愛里にそのまま当てはめられるものではなかったのだ。

 だが、それでも私は確かにこの目で見た。

 アマザクラが絶望に捕らわれた者を眠りにつかせようとする瞬間と、

 心を絶望から救い出し、それを阻止するところを――

 愛里が抱えている苦しみを解決すれば、彼女は目を覚ます。

 その確証を掴んだだけでも、九重町へ来た価値があったと思っている。

「愛里ちゃんの頭の中が分かったらいいのにね。なんかこう、秘密道具みたいなのを繋いでさ。そしたら、眠っちゃう前、なにがつらかったのか教えてもらえるじゃん」

 ツバサの空想を馬鹿にする気にはなれなかった。

 愛里の苦しみの正体を知り、それを恐れる必要はないのだと枕元で呼びかけ、彼女が目を覚ます。私もそんな想像をしたことがあった。しかし、それは吹き出しが空っぽの漫画のようなもので、具体性がない妄想に過ぎなかった。

「愛里ちゃんがつけていた日記でもあれば、手がかりになるのだけどね」

 堂々巡りになりそうな会話を切り上げるためか、ツバサが勢いよく立ち上がった。彼女も喉が渇いていたらしく自動販売機コーナーへと近づいていったが、財布を部屋に忘れてきたようだった。

「私が買うわ」

 ツバサの代わりに二本目のウーロン茶を購入すると、彼女は警戒心をあらわにした。

「ルカが私におごるなんて……!」

「修学旅行の貴重な自由時間を奪ってしまったから。その謝罪よ」

 ペットボトルを差し出すが、ツバサは受け取らなかった。不服そうな顔をしているが、その理由はよく分からない。

「謝ってもらう必要はないって。私だって愛里ちゃんのお見舞いしたかったし」

「ツバサさんを通して私はアマザクラに対する理解を深められている。それだけで助かっているのに、そのうえ私に付き合わせたんだもの」

「ルカは自分に厳しいよね」

「客観的に自分を見てるだけよ」

 ツバサが「あんたらしいね」と苦笑いする。

「んー。でも、友達からそこまで他人行儀にされるのはなんかちょっとやだな」

「友達……」

 私が実感の伴わない言葉を口にすると、ツバサは、ばつが悪そうに顔を逸らした。

「な、なりゆきで、そうなっただけだけど、そういう関係ではあるでしょ。だから、ごめん、って意味なら、それはいらない」

「もう買ってしまったんだから、受け取ってもらえないと困るわ」

「なら、お礼の印としてちょうだい」

「違いあるの?」

「違うでしょ。なんかこう……、私もうまく説明できないけどさ、分かんない?」

 しばらく考えてみたがツバサが言いたいことは結局理解できなかった。

「よく分からないけど、じゃあ、お礼として」

 ツバサは「ん」と満足そうにウーロン茶を受け取り、口元へと運んだ。

「んじゃ、そろそろ部屋戻ろっか。明日寝坊でもしたら恥ずかしいし」

 ツバサが部屋に向かって歩き出す。すると、彼女の肩から一枚の花弁が落ちた。

 花弁の形や大きさはアマザクラに似ていたが、それは私が今まで見たことのない白色をしていた。綿毛のようにふわふわと揺れる花弁を、私は宙で見失う。あたりの床を探してみるが、花弁など、どこにも落ちていなかった。

 

    

 

 修学旅行から戻るとすぐに、期末テスト期間がやってきた。ツバサに泣きつかれて勉強を教えた日もあり、むしろ普段よりも学習時間は減った。だが、試験問題に難解なものはなく、どの教科も納得のいく出来だった。

 九重高校の校舎を出る。山間にある高校の敷地からは九重町の町並みを見渡すことができた。京都の中心部にほど近い峰上市とは違い、九重町は土地の高低差も大きく、交通の便も悪い。建物よりも、畑や林の緑色が視界の半分を占めている。

 それでも、私はこの町が嫌いではなかった。時間がゆったりと進むこの町は、峰上での出来事を思い出すたびに冷たくなる私の心を少しだけ楽にしてくれた。

「ルカー、おまたせー」

 振り向くとレンガ造りの階段の上にツバサが立っていた。少し遅れて、ヒヨリもその横に顔を出す。

「ルッカちゃーん!」

 ヒヨリは肩が抜けそうな勢いでぶんぶんと手を振った。同時に栗色の髪もふわふわと揺れる。今朝挨拶を交わしたばかりなのに、まるで数年ぶりに再会を果たしたかのような勢いだ。

 ツバサはヒヨリの肩に手を置き、歩調を合わせながら階段を下りてくる。過去に階段から落ちて大怪我を負ったことがあるツバサのために、ヒヨリが手すり代わりになっているのだ。ツバサ曰く手すりのない階段でもゆっくりなら降りられるようだが、ヒヨリは毎回当然のことのように彼女へ肩を貸している。

「ルカちゃんはテストどうだった?」

「ルカならうちのテストくらい余裕でしょ。それよりヒヨリは大丈夫だったの?」

 ツバサが心配しているのはヒヨリの学力ではなく、彼女の天然さから来るケアレスミスだ。

 尋ね返されたヒヨリは、ふふん、と鼻を鳴らして自慢げにこちらに手の平を向けた。そこには《名前!!》とマジックでメモが書いてある。

「ツバちゃんに何度も注意されたからメモっておきました! これで0点の教科はないはず!」

「それって、カンニングにはならないの?」

 私の指摘にヒヨリは「え? はっ! 確かに!」と顔を真っ青にした。

「じ、自首してくる」

「ルカ! 変なこと言わないでよ! ヒヨリも冗談を真に受けない!」

 別に冗談のつもりはなかったのだが、確かに高校のテストで〝名前〟という漢字の書き取り問題が出るはずもないので、とがめる教師はいないだろう。

「あ、そういえば、ルカちゃんは、冬休みになったらすぐ峰上に戻るんだよね? 愛里ちゃんのこともあるし」

「ええ。その予定よ」

 ヒヨリが持つアマザクラに関しての知識は一般人と同レベルだ。だから、愛里とアマザクラの関係などは話していない。しかし、彼女も愛里が昏睡状態にあることは知っている。

 ヒヨリは私だけではなく、ことあるごとに愛里のことを気遣ってくれていた。ハンドクリームをプレゼントしてはどうかと提案してくれたのも彼女だ。修学旅行中も愛里を見舞いたいと考えてくれていたのだが、それは実行委員としての仕事があったせいで叶わなかった。

「それならルカちゃん、もしよかったら今から〝二学期お疲れ様会〟をやらない?」

 ヒヨリの提案に続いて、ツバサが補足する。

「親戚が美味しい鶏肉を送ってきてくれたんだよ。そんで今日うち鍋なわけ。よかったらヒヨリとルカも呼べば? って親も言ってくれてさ」

 反射的に断る理由を探してしまう自分がいたが、私はその提案に甘えることにした。

 

    

 

 ツバサの母親は私たちが三人で食事をとれるようにと、自分たちの分とは別に鍋を用意していた。客間で食事をとりながら雑談をしていると、ツバサがある先輩の話題を出した。

「そういえば昨日、我那覇がなは先輩が学校に来てたよ」

 ツバサの視線の先にはサラダの上に乗ったブロッコリーがあった。おそらくそれを見て彼のアフロヘアーを連想したのだろう。 

 我那覇先輩は夏に行われた文化祭で私たちがお世話になった軽音部の先輩だ。いつもチューインガムを噛んでいて、なぜかある言葉を好んで使う。

「それは〝ぜん〟珍しいわね」

 ツバサが「それ昨日も言ってた」と笑い、その時の様子を説明し始める。

「受験組じゃないし、しばらく学校には来てなかったけど、進路のことで先生に呼び出されたみたいでさー」

「ツバちゃん。我那覇先輩は卒業したらどうするの? なにか聞いてる?」

「〝北北西に向かう〟んだってさ」

「それは進路じゃなくて方角ね」

 私がこのツッコミを本人にしても「細かいことはいいんだよ」と笑い飛ばされただろう。

「ヒッチハイクで旅するんだってさ。私も一緒に来ないかって誘われたよ。女子がいたほうが車が捕まりやすいだろうからって」

「アメリカの映画でよくあるよねー。セクシーポーズとって車を止めるの」

「ツバサさんには無理でしょう」

「我那覇先輩にも同じこと言われた。お前は体当たりして車を止めるほうが似合ってるって」

 

 食事と後片付けを終える頃にはもう七時を過ぎていた。私たちは上着を羽織って外へ出る。付近に街灯は少ないが、代わりに丸い月があたりを照らしていた。

「ツバちゃんお腹苦しかったら見送りいいよ?」

「平気だよ、すぐそこだし」

 神屋敷家と環木家はすぐ近くにある。川が間に挟まっているので正確には隣家とは言えないのかもしれないが、お互いに相手の部屋の窓灯りが見える程度の距離にある。

 その間にある橋を渡りきり、環木家が目の前にきたところでヒヨリが足を止めた。

 ヒヨリはなぜか部隊行進のようなきっちりとした回れ右をしてから、ロボットのように話し始めた。

「ソ、ソーダ! ツバちゃんに、聞かなきゃいけないことアッタんダッタ!」

「どしたの急に」

 ヒヨリがコートの留め具を手いじりしながらツバサに尋ねた。

「いや、えっと、ツバちゃんは来週のクリスマスイブ、なにか予定あるのかなーって」

「ん? 冬休みは基本暇だよ」

「えっとね、うちのお母さんが職場の友達とイルミネーションを見に行くんだって! 泊まりで。だから、さ……、一緒にどうかなって……」

 言い淀むヒヨリに代わって、ツバサが話を進める。

「いや、さすがにその旅行にはついてけないよ。おばさんの職場の人とは面識ないし」

 私は思わずツバサの背中に手刀をかましてしまった。

「そういうことじゃないでしょ」

「へ?」

 ヒヨリが手をもじもじとさせながら苦笑いする。

「そう。私家で一人になるから、もしよかったらお泊まり会どうかなって……。今日のお鍋のお礼に、ケーキ作るからさ……」

 うつむいているヒヨリには分からなかっただろうが、私にはツバサの耳が一瞬で真っ赤に染まるのがはっきりと見えた。

「え! い、いいの……?」

「もし、ツバちゃんが嫌じゃなかったら……」

「嫌じゃないよ! 全然! 余裕! 超余裕!」

 その答えにヒヨリが笑顔を浮かべるが、今度はツバサが赤面を見られまいとうつむいたので二人の視線はかみ合わなかった。

「じゃあ、詳しいことはまた」

 二人は赤べこのようにこくこくとうなずきあった。

「あ、冷凍できるケーキ作るから、ルカちゃんも九重に戻ってきた時、もしよかったら食べてね! じゃあ、また明日!」

 ヒヨリが一度門柱に肩をぶつけてから、家の中へと入っていった。

 動作感知式のライトが玄関で灯る。光の中に私は花弁を見つけた。

 アマザクラだ。いつの間にか、空からはらはらと桃色の花弁が降ってきていた。喜びや感動などのポジティブな感情に包まれた時に降る色だ。

 私は思わず「え……?」と声を漏らす。

 ツバサを確認すると、彼女は真っ赤になった顔を必死に両手で覆っていた。そんな彼女の周りをひらひらとアマザクラが舞う。

「うるさい! こっち見るな! アマザクラにも気付くな!」

「気付くなは無理よ」

「いや、だって! だってさぁー!」

 ツバサがその場にへたり込む。

「小さい頃、毎年クリスマスは一緒にケーキ作ってたんだよ。でも、疎遠になってからは一度もなかったから……」

 なんてことない誘いをしているはずのヒヨリがぎこちなかったのは、きっと断られることを危惧していたのだろう。二人にとっては、意味のある特別な行事だったのだ。

「だから、あんなこと言ってもらえるなんて思わなくて……」

 一枚の花弁がツバサの頭の上に落ちる。花弁は柔らかく優しい色合いをしていて、冬の空気がわずかに暖かくなったようにも感じた。

「あなたたちを見てると、自分が不完全な人間なんだと思い知らされるわ」

 もし仮に私の心がアマザクラと繋がったとしても、その空は綺麗なものにはならないだろう。人に愛されるものにはならないだろう。

「あなたはヒヨリさんを大切に想っていて、ヒヨリさんはあなたを大切に想っている。相手の言葉で一喜一憂しながら互いを思いやって、心を開いている。すごいって思う。素直に」

 自分には人と絆を築くために必要なものが欠けているのだ。二人といると、そのことを思い知らされる。

「時々考えるの。もしも愛里ちゃんの姉になるのが私じゃなくて、あなたやヒヨリさんだったら、きっとこんなことには、なってないんじゃないかって」

 簡単に愛里と距離を詰めて、眠りについてしまう前に彼女を助けることができたんじゃないだろうか。

「私じゃなくて、本当の妹が今もそばにいたら――

 私が口走った言葉にツバサが首を傾げる。愛里に交通事故で双子の妹を失った過去があることを、私はツバサに話したことがなかった。私は適当に誤魔化す。

「とにかく、私と愛里ちゃんは〝なりゆき〟で姉妹になっただけなのよね」

 ツバサが立ち上がり、しばらく言葉を探すような間を置いてからまた口を開く。

「ルカは確かにちょっと一匹狼みたいなところあるけどさ。でも、そんなあんたみたいな人間が、こんな田舎までアマザクラの謎を解くためにやってきて、今もずっと考え続けてるってことが、すごいことなんだと思うけどな」

「そうしないと自分のことが許せないから、そうしているだけよ」

「罪滅ぼし、ってこと?」

 私が答えを返せずにいると、代わりに橋の下でちゃぽんと水が音を立てた。

 

    

 

 期末テストが終わると冬休みまでの行事もなくなり、校内の雰囲気が緩くなった。現代文の教師も授業中だというのに雑談に興じていた。

「『星の王子さま』に出てくるバオバブの木を見てみたくてな。大学の卒業旅行はマダガスカルにしたんだよ」

 彼は一学期の終わりにも同じ話をしていたので、クラスの大半が真面目に聞いてはいなかった。ちらりと最前列にいるツバサを見ると、彼女もあくびをかみ殺していた。

 すると、私の鞄の中で電子音が鳴った。

 授業中は通話やメールの着信音はオフにしている。その音は気象庁が作ったスマホアプリの通知音だった。登録した地域にアマザクラが降った時、リアルタイムで知らせてくれるというものだ。

 だが、教室の窓から外を確認してもアマザクラは見当たらない。机の陰でスマホを操作し通知を見ると、呼吸が止まりそうになった。

 立ち上がる際に、椅子を後方へ倒してしまう。その音に驚くクラスメイトの間を通り抜けて、私はツバサの机に飛びつく。

「ど、どしたの、ルカ?」

 私はスマホをツバサの眼前に掲げる。彼女の黒い瞳にスマホの光が反射した。

「峰上市で……」

 画面の文字を読み上げるツバサの声が震えた。

「アマザクラを観測……?」

 教室の扉ががらりと開いた。廊下に立っていたのは九重高校の事務員だった。

「紫々吹ルカさん。ご家族からお電話が入っています。妹さんの件で」

 

 

 

【Ⅱ】

    

 

 峰上みねかみ駅へ向かう電車の中は空気が乾燥し、車両の奥のほうではサラリーマンが咳をしていた。暖房の熱でぼんやりとし始めた頭にふと過去の記憶が浮かぶ。それは冬の今思い出すには似つかわしくない、中三の夏の記憶だった。

 

    

 

 電車がカーブに差し掛かると、車輪と線路がこすれて甲高い音が響いた。ガタガタと揺れる車内で、隣に座っていたあいがぽつりと漏らした。

「本当によかったんでしょうか……」

「なにが?」

 愛里がスカートをぎゅっと握る。沙里さりさんが今日のためにと明るい色のブラウスをプレゼントしていたが、彼女が選んだのはいつも着ている紺色のワンピースだった。

「チケットです。私が使っちゃってよかったんでしょうか?」

 父親が仕事仲間から譲り受けたチケットは有名なテーマパークのものだった。「二人で行ってくるといい!」とチケットを渡された日、愛里は満面の笑みで感謝を父に伝えていた。だが、そのあとで、チケットを自分が使うことに申し訳なさを覚え始めたらしい。

「それが一番の有効活用だと思うけど」

「でも、ルカさんが友達と使ったほうがよかったんじゃ……」

「無理よ」

「無理……?」

「遊園地に一緒に出かけられるような友人はいないから」

 私は愛里のように転校せず同じ中学校で二年を過ごした。にもかかわらず、最後の夏に一緒に出かける友人がいないのは自慢にはならない。だが、愛里は感心したようにため息をついた。

「すごいなぁ、ルカさん」

「友人がいないことが?」

「そうじゃなくて、そのことを気にしてない感じが、なんか、かっこいいです」

「愛里ちゃんのようにたくさんの友達に囲まれることができる人のほうがきっと得よ。このチケットは、あなたが友達と使うべきだったと思う」

 愛里は顎に人差し指を当てながら考え始める。

「んー。私も難しいです。一人は、選べなさそう」

「友人が多いから?」

「いえ、一人を選ぶと他の子と距離ができちゃうから」

 そこで次の停車駅を知らせるアナウンスが車内に響く。

「ルカさんはなにに乗りたいですか?」

「できれば次の乗り換えで、急行に乗りたいわね」

 私の答えに愛里はくすくすと笑った。

「違いますよ。遊園地のアトラクションの話です」

「それはあなたが乗りたいものに乗りましょう」

「あれ、遊園地とかあんまり好きじゃないですか?」

 私はジェットコースターのスリルを楽しむタイプでも、キャラクターの着ぐるみと写真撮影するタイプでもない。今日は、愛里の保護者としてついてきたつもりだった。とはいえ乗り気でないことを彼女に伝えるのはさすがにはばかられた。

「待ち時間に、本が読めるわね」

 苦肉の策でひねり出した答えに、愛里は予想外の反応を示した。

「へぇ。どんな本を持ってきたんですか?」

 私は鞄から文庫本を取り出す。H・G・ウェルズの『宇宙戦争』。中学の図書室から借りてきたもので返却期限が迫っていることを説明した。

「宇宙人が攻めてくるお話ですか? なんだか意外です。えっとこういうの、なんて言うんでしたっけ?」

「サイエンスフィクションね。有名な作品みたいだから手に取ってみただけで、このジャンルが特別好きというわけでもないわ」

「面白いですか?」

「ええ、すぐに人間が襲われるシーンが始まるから」

 スリリングな導入部を褒めたつもりだったが、スプラッタ好きだと誤解されかねない返答をしてしまった。別にどちらに取られても構わないので訂正はしない。

「愛里ちゃんは本を読むの?」

「ファンタジーとか好きですよ!」

 彼女は有名な海外児童文学のタイトルを挙げた。剣と魔法の世界を舞台にした作品で、映画化も決まっている有名シリーズだ。

「前に新作が発売されていたわね。先週ニュースで見たわ」

「そうなんですよ! 前の巻が気になるところで終わってて……!」

 彼女は自分の声が大きくなっていることに気が付いて声をひそめる。

「小学校の図書館にもあるんですけど、なかなか順番が回ってこないんです」

「買えばいいじゃない」

「ですよね」

 愛里がぎこちなく笑う。彼女はもらったチケットを使うことにすら恐縮してしまうほどに慎ましい。ハードカバーで値が張るあのシリーズの本を購入するのに、尻込みしてしまっているのかもしれない。

「本、読んでてくれていいですよ」

「そうね、そうさせてもらうわ」

 私はそこで会話を切り上げ、到着まで読書に没頭した。だが、そのせいで私は彼女の異変を見逃した。

 愛里は目的の駅に着くなりトイレに駆け込んだ。乗り物酔いをしていたのだ。私は彼女が苦しんでいることにまったく気付かなかった。やはり自分には姉など向いていないのだと自虐しながら、愛里のために購入したペットボトルを握りしめた。

 

    

 

 握った手の中で、パキンとコーヒーの缶が音を立てた。九重ここのえ駅で購入したものだが、まだプルタブは開いていない。すでに常温になっていて、カイロの役割すら果たしていなかった。

 その時、車内がにわかにざわついた。咳をしていたサラリーマンが立ち上がり、扉付近にいた女子大生たちがスマホを取り出し動画の撮影を始めた。

「私ここ越して来たばっかだから、本物見るの初めてー」

「地元民でも、この色は初めてだよ」

 いつの間にか車両は峰上市内へと入っていた。窓の外を町並みが流れていく。

 見慣れたはずの光景に違和感があった。黒や灰色の屋根のところどころが、塗装がげているかのように白くなっている。雪が降った翌日のような光景だったが、目を凝らすと、その〝白〟を形成しているのが、小さな花弁であることが分かる。

 

 一年ぶりに峰上市で観測されたアマザクラは、白色だった――

 

 やがて峰上駅のホームへ車両が到着した。私は改札を抜け、駅から曇天どんてんの下へと小走りで飛び出した。地面にしゃがみ込み、落ちている花弁を拾い上げる。

 薄紅色の花弁が光の反射などによって白っぽく見えることはある。だが、今自分の手の平にある花弁は紛れもなく白一色だった。表面の筋も目を凝らさないと分からないほどだ。造花の花弁だと言われても信じてしまいそうなほどに現実味がない。

 タクシー乗り場を挟んだ向こう側にテレビ局のクルーがいた。レポーターが足元に残る花弁を指さしながらカメラに向かってなにかをしゃべっている。

 カメラに向かって手を振る野次馬の間を通り抜け、私はバス停へと向かう。だがその途中、私は思わず立ち止まった。

 駅のロータリーの真ん中に一匹のウサギがたたずんでいた。白い体を毛繕けづくろいしている。

 周りを見渡すが、ウサギに気が付いている人は誰もいなかった。

 その時、自転車に乗った女性が私の目の前を通り過ぎる。同時にウサギは跡形もなく消え去った。

 私は、なにかを見間違えたのだと結論づけて、病院へ向かうバスへと乗り込んだ。

 

 病院のロビーで父と沙里さんと合流してから、私は医師の待つ診察室へと入った。

 医師の机には、私たちの不安な気持ちに似合わない小さなクリスマスツリーが飾られていた。医師はその隣にギザギザの線がいくつも並んでいる紙を広げる。愛里の脳波の計測結果が記された資料だった。

「これが今までの愛里さんの脳波で、こちらは今日計測したものです」

 専門的な用語をかみ砕きながら、医師は私たちに愛里の状態を説明した。

「今までは睡眠状態に近い脳波が計測されていたんですが、ここ数日変化が始まって、だんだんと脳全体の活動が弱まってきています」

 このままこの変化が続くようならば、完全に脳の活動が停止してしまうかもしれない。医師がそう告げた時、父は沙里さんの背中をさすった。

「もともと愛里さんの症状は異例なことが多くて、今回もなぜこのような変化が始まったのか……」

 困惑する医師の言葉を聞きながら、私は窓から見える曇天を睨みつけた。

 それから私は愛里の病室へと向かった。彼女が眠るベッドの脇には見慣れない機械が並べられていて、そこから伸びるコードが愛里の頭に貼り付けられていた。だが、ベッドで横たわる愛里自身は、今までと変わりないように見える。苦しそうな表情をしているわけでも、脂汗をにじませているわけでもない。

 私はハンカチに挟んできた花弁を眺める。紫色のハンカチの上では、花弁の白さがより際立つ。まるでハンカチに花弁の形の穴が空いているかのようだった。

「一体、なにが起こっているの……?」

 

    

 

 ツバサから電話がかかってきたのは、その日の晩のことだ。

 急いで荷造りをしたせいで、九重にスマホの充電器を忘れてきていた。自室の押し入れから同じ型の充電器を引っ張りだしたところでスマホが震えた。

『あ、もしもしルカ? その……、愛里ちゃん、どうだった?』

 私はツバサに、医師から聞いた愛里の状態と白いアマザクラに関しての説明をした。自分の口から説明することで、今日聞いたこと、そして見たものが現実なのだと再認識させられた。

『白いアマザクラ……』

「あなたはどう考える?」

 アマザクラと繋がるツバサならば心当たりがあるかと期待したが、ツバサは『ごめん』と漏らした。電話の向こうで実際にうなだれている彼女の様子が目に浮かぶ。

『ニュースで見たけど、あんな色の花びら見たのは私も初めてだからさ……。文字通り頭が真っ白になった、みたいな時も、あんな色の花弁は降らないし』

 あてが外れた残念さから、電話を切ってしまいたい衝動に駆られる。だが、電話の向こうでツバサが『でも』と口にした。

「でも、なに?」

『もしかしたら、ルカを混乱させちゃうだけかなって思って言うかどうか悩んだんだけど。実はさ、私、白い花弁をある場所でなら見たことがあるんだ』

 腰掛けていたベッドから思わず立ち上がる。スマホに繋いでいた充電器のコードがぷつりと外れた。

「どういうこと?」

『待って待って、最後まで聞いたら、なんだそりゃって言われるかもしれないんだけど……』

「前置きはいらないわ。教えて」

 ツバサは私の勢いに押されながら続けた。

『見たのは〝夢の中〟なんだ……』

「夢……?」

『夢の中でアマザクラを見ることは割とあるんだけど、たまに、あれ? 今日の花びら真っ白だなーなんて気付くことがあって。って、ルカ聞いてる?』

 ツバサの話に反応しなかったのは、ある記憶を思い出していたからだった。

 ――今日は夢の中でもアマザクラが降ってたんですよ。真っ白な花びらでした。

「そういえば、愛里ちゃんも夢の中で白いアマザクラを見たって話してたことがあったわ……。昔のことを思い出す夢の中で降ってたって……」

 スマホの向こうで、ツバサが声を一際大きくする。

『ほんと!? それ、私も同じだよ。昔の出来事を思い出す夢でよく見るんだ。白いアマザクラ!』

「夢の中で降る白いアマザクラ……。でも、それがなんで現実の峰上市に……?」

 そこで思考が止まる。この情報をもとになにをどうすればいいのかも見当がつかない。

『ルカ、大丈夫?』

「愛里ちゃんの容体の変化はゆっくりだから。すぐに彼女の脳が活動を停止してしまうわけではないわ。まだ考える時間はあるはず」

『あんたが大丈夫かって意味だよ。急なことで、不安とか、怖いとかあるでしょ?』

「今は、私の状態なんて関係ないでしょ」

 先ほどまでと打って変わって、彼女の声に力がこもる。

『私、来週になったら、もう冬休みだからね』

「それは知ってるわ」

『そうじゃなくて! いつでも助けにいけるからねって意味!』

 どう答えるべきか悩む。今ツバサが目の前にいたとして、なにかを頼めるわけでもない。余裕のない自分の姿を見せることにも抵抗があった。

「大丈夫よ。あなたはヒヨリさんと冬休みを楽しんで」

 

    

 

 それから数日間、白いアマザクラが降ることも、愛里の状態が持ち直すこともなかった。悪い予想ばかりが当たってしまうことに苛立ちながらも、私たち家族は状況が好転するのを祈ることしかできなかった。

 クリスマスを目前に控えた二十二日。私は病院を訪れていた。

 愛里の病室の扉に手をかけると、沙里さんの声が中から聞こえた。

「愛里までいなくなったら、私どうすればいいの……」

 愛里まで。というのは、昔亡くした愛里の双子の妹、莉亜りあのことを指しているのだろう。

 私は聞こえなかったふりをしながら扉を開き、沙里さんの横に立った。

 沙里さんの目の下にはクマができていた。ここ数日よく眠れていないのだろう。もともと彼女は繊細で、気の強い人間ではない。愛里の現状は重くのしかかっているはずだ。

「沙里さん。私、午後はちょっと出かけてきます。こんな時に、すみません」

 愛里のことが心配じゃないのか、などと怒鳴られてもおかしくはなかったが、彼女はうなずくだけだった。

 アマザクラのことには触れないよう言葉を整理してから口を開く。

「愛里ちゃんを勇気づけられるようななにかが必要だと思うんです。それを探しにいきたくて」

「お医者さんも言ってたものね。昏睡状態の患者さんが、呼びかけで目を覚ましたことがあるって」

 沙里さんがベッド脇のキャビネットへ視線を移す。そこには、クラスメイトからの音声メッセージが入った音楽プレイヤーとスピーカーも置かれている。今までも、それを流すことで愛里の感覚や意識を刺激してきた。沙里さんは私の説明を聞いて、さらにメッセージを集めてくるつもりなのだと理解したのかもしれない。

「でもね、私の気のせいかもしれないけど、ルカちゃんがお見舞いにくると、愛里の表情が緩んでた気がするの……。だから、ここでルカちゃんが声をかけてくれるだけでも、きっと愛里の力になると思うわ」

 私は沙里さんの優しい言葉を素直に受け取ることができなかった。

「私は、自分の呼びかけに価値があるとは、思えません……」

 

    

 

 私は一度帰宅し昼食をとったあと、近所の図書館へと向かった。

 図書館のホールには、利用者の足音と貸し出し窓口の会話だけが響いている。

 私は窓際の席で〝夢〟というワードでヒットした書籍を手あたりしだいに読みあさっていた。だが、アマザクラとの関係を記したものなどあるわけもなく、レム睡眠とノンレム睡眠の違いなど、もともと持っている知識を補強するくらいしかできなかった。

「そりゃそうよね……」

 ため息をつくと、傍らに置いていたスマホの画面が光った。メッセージアプリに入ったツバサからのメッセージだ。授業中のはずでは、と思ったが、九重高校の終業式が昨日だったことを思い出す。

《確認してみた》

《ヒヨリも夢の中で、白いアマザクラを見たことあるみたい》

《しかも記憶をもとにした夢で》

 《偶然にしてはでき過ぎてる》

 《白いアマザクラはやっぱり夢と関係がある?》

《そうっぽい》

《ちなみにルカ、今家?》

 《今は図書館で調べもの》

 送信ボタンを押したところで、絵本コーナーで男の子が声をあげた。職員に静かにするよう注意されるが、それでも彼は窓の外を眺めていた。

「雪だー!」

 男の子の言葉につられて外の景色を確認する。確かに窓の外では、小さな白い粒が舞い踊っていた。しかし、一粒一粒の挙動は雪とは違い、ひどく不規則だ。ジグザクの軌道を描きながら地面へと落ちてきている。

「アマザクラ……」

 私は立ち上がり、本や鞄をその場に置いたまま図書館を飛び出す。冷え切った空気の中で舞っているのは白色の花弁だった。

 映像などではなく、私は自らの目で、白いアマザクラが空から降っているのを確認する。

 なにか目的があったわけでも、明確に観察したい部分があるわけでもなかった。なにかしなくては、という焦りだけが湧いてくる。

 空を見上げていると通行人とぶつかりそうになった。それを避けた時、視界の隅で白い小さな塊が動いた気がした。

 目をこすってからもう一度観察する。通行人が行き交う先に先日駅前で見かけたのと、まったく同じ白いウサギを見つける。

「ウサギ……?」

 前回と同じく、周りの人間にウサギは見えていないようだった。ウサギは赤い目を私に向けてから、後ろ足で地面を蹴って細い路地へと飛び込んだ。

 ただの見間違いかもしれなかった。それでも私はなぜかその方向から引力を感じ、路地の中へと入っていく。

 路地は学生服の専門店と雑貨屋の間にあり、人がすれ違うのがやっとな広さだった。十メートルほど先で行き止まりになっていて、ウサギはその奥にいた。体を丸めながら微動だにせず私を赤い目で見つめている。

 薄暗い路地の中でウサギの毛並みがぼんやりと光っている。足元に影はなく、まるで出来の悪い合成写真のようだ。

 一歩、二歩、と近づいていくが、ウサギが逃げることはなかった。私はしゃがみ込み、手を伸ばす。

 私の指がウサギの鼻先に触れる寸前、路地に強い風が吹き込んできた。二つの建物の隙間になだれ込んでくる空気の流れは、運ばれてきた白い花弁と共に私の体にぶつかった――

 

 

 風は私の肌を数秒間こすり続けてから消えた。だんだんと弱まっていったのではなく、突如として風圧がゼロになった。

 ゆっくりとまぶたを開くと、世界から色が消え去っていた

 まるで白黒映画の中にいるかのようだった。樹木に生い茂る葉も、校舎の壁も同じ灰色をしている。そこにはわずかな濃淡の違いしかない。

 校舎の壁?

 頭が冷静さを取り戻せば取り戻すほど、自分の状況に戸惑った。

 さっきまで目の前にあったはずの雑居ビルは消え去り、代わりに四階建ての校舎がそこに建っていた。私がいるのは路地ではなく、学校の校庭だ。

「なんで……」

 周りでは小学生たちが走り回っていた。中には体操着を着ている児童もいる。先ほどまで私がいた路地にあった学生服の店でディスプレイされていたものと似ていた。

 小学生だけではなく、教師らしき大人もいたが、誰も私の存在など気にも留めていなかった。まるで幽霊かなにかにでもなった気分だ。

 ここは現実ではない。だがその割には、私の心はなぜか落ち着いていた。戸惑ってはいるが、恐怖や危機感はない。非常識を疑う頭の感覚が半分麻痺しているかのようだった。

「これは、夢……?」

 私は路地で風に吹かれて転倒し、意識を失ったのだろうか。

「でも、じゃあ、ここは一体……」

 近くにいた小学生の体操着には《蕾ヶ丘つぼみがおか小》と刺繍がされている。峰上市の反対側にそういった名前の地域があることは聞いていたが、私は一度も訪れたことはなかったはずだ。

 自分の記憶にはない場所に、今私は立っている。

 ふと、小さな女の子の声が耳に飛び込んできた。

「ダメだよアカリンゴ! 戻って戻って!」

 声がしたのは校舎の角だった。そこでは一匹のウサギがたたずんでいる。さっき私が追っていたウサギと同じ白い毛並みをしていたが、その目は色のないこの世界の法則にのっとっている。花壇に咲くバラの花と同じように、赤い瞳は濃いグレーになっていた。

「もー元気過ぎだよ」

 校舎の陰から一人の小学生が現れた。彼女を見た瞬間、全身に鳥肌が立つ。

「愛里、ちゃん……?」

 白い肌に、長い黒髪。身につけた色の濃いワンピース。彼女がしゃがみ込んでウサギを捕まえる際、彼女の三つ編みがゆらゆら揺れた。

 そこにいたのは、小学生時代の愛里だった。

 状況を理解する前に体が動く。

「愛里ちゃん!」

 駆け寄ってみるが、彼女はなんの反応も示さない。肩を掴もうとしたが、私の手は彼女の体をすり抜けた。

 愛里はくるりと向きを変え、校舎裏へと歩いていく。

 彼女が歩いていった先には飼育小屋があった。木材とトタンで作られた小屋は二つに仕切られていて、それぞれのスペースで小鳥とウサギが飼育されていた。

 愛里が飼育小屋の扉に手をかけた時、サッカーボールが私の横を抜けて、コロコロと彼女の元に転がった。それを追いかけるようにして一人の男子児童が現れる。

あいりあ。お前らまたウサギの世話してんのかよ。ウサギくさくなるぞー!」

「なんだとぉ!」

 男子に言い返したのは、ウサギを抱いた愛里ではなかった。飼育小屋の中から飛び出してきた、短髪の女の子だ。

「面倒見るのは三年三組の仕事なのに、お前らがサボるからあたしらがやってんじゃん!」

 短髪の女の子がサッカーボールを蹴飛ばす。まっすぐに飛んだボールは男子の顔面に命中した。

「いってぇ! なにすんだよ!」

「ボール返してやっただけだっての! ちゃんと受け止めろ!」

 時間差で痛みを認識したのか、男子は頬を押さえながら走り去っていった。そんな男子の背中に、短髪の女の子はあっかんべーをしてみせた。

 彼女の肌は日に焼けていて、目の上に絆創膏が貼ってあった。体操着にジーンズという活動的な恰好と、男の子のような短い髪型をしている。

 だが彼女の目鼻立ちは、ウサギを抱いたまま戸惑っている愛里とまったく同じだった。

 先ほどの男子が叫んでいた〝あいりあ〟とは、今私の目の前にいる二人の女の子の名前をくっつけた呼び方なのだろう。

「先生に言いつけるかもね」

「あいつが先に変なこと言ってきたのが悪いんだ!」

 ワンピースの女の子は私と出会う前の〝愛里〟で――

 彼女と話している短髪の女の子はその双子の妹〝莉亜〟――

「まさか、ここは……」

 私の記憶にはない場所。時間。そして、小学校時代の愛里と、その妹の莉亜。

 頭でなく、心で私は理解する。

 ここは夢の中で再現された、愛里の記憶の世界なのだ。

 

 愛里は抱いていた白いウサギを飼育小屋の中に戻した。ウサギはぴょんぴょんと彼女の足元を跳ねまわる。彼女に懐いているようだった。

「そういや、なんでそいつアカリンゴなんだっけ?」

 莉亜がキャベツをちぎった手を体操着で拭く。

「六年生がつけた名前だよ。最初は目が赤いからアカちゃんだったんだけど、それだと人間の赤ちゃんみたいだからって、好物の果物を後ろにくっつけたんだって」

 いつを聞いた莉亜がけたけたと笑う。私にはなにが面白いのか分からなかったが、彼女は笑いのツボを刺激されたらしい。

 しばらくすると小学校の敷地内にチャイムが響いた。同時に愛里が慌て出す。

「あ、そろそろ行かないと塾遅れちゃうよ」

 愛里が飼育小屋を施錠する。きびきびと行動する愛里の後ろでは、莉亜がむすっとした表情を浮かべていた。短髪の頭をぽりぽりときながら不満を漏らす。

「あーめんどくさー」

「でも塾行かないと。またお父さんに怒られるよ?」

「あたしは行ってもどうせ怒られるもん。お父さんは百点じゃないと許してくんないから」

「そうかもしれないけど……」

 莉亜が足元にあった小石を蹴飛ばす。先ほどのサッカーボールとは違い、小石は斜めに飛んでいって校舎の壁にぶつかった。すると近くにあった窓から五、六十代くらいの女性が顔を出した。

「こら、石蹴らないよ」

「あ、茂草しげくさ先生!」

 茂草先生と呼ばれた女性は白衣を着ていて、窓の奥には白いシーツのかかったベッドがあった。どうやら彼女はこの学校の養護教諭のようだ。

 莉亜が、愛里から飼育小屋の鍵を受け取って窓際に走り寄る。

「先生、これ職員室に返してくんない?」

 目じりのしわを深くし、いたずらっぽく笑いながら茂草先生はふいとそっぽを向いた。

「やーだよ。ちゃんと自分で返してきなさい」

「ちぇーケチー」

 唇を尖らせる莉亜に、茂草先生は優しい声で尋ねた。

「ところで、話が聞こえちゃったんだけど、二人はお父さんによく怒られるの?」

 莉亜はうつむきながら質問に答えた。

「怒鳴ったりはしないけど、お父さんいつも怖い顔してる。そんなんじゃ、まともな大人になれないぞ、とか、もっと女の子らしくしろー、とか。多分、お父さんはあんまりあたしのこと好きじゃないんだ……。いい子じゃないから」

「そんな風に感じるの……?」

「双子なのになんでこんなに出来が違うんだとか、完璧じゃないと意味がないんだぞ、って言うし。昨日も学校で喧嘩したこと怒られて、あたしだけ夜ご飯抜きだった」

 しつけだと済ますには厳しい話にぞくりとする。もちろんこの会話だけですべてを決めることはできない。だが私は以前に愛里が漏らした言葉を思い出した。

 ――私もお父さんの夢見たら、嫌な気持ちになります。

 茂草先生が窓枠に体重を預けながら身を乗り出す。

「食べれなかったの? お腹空かなかった?」

 答えたのは、莉亜と茂草先生の会話を横で聞いていた愛里だった。

「大丈夫だよ。お母さんがおにぎり作ってくれて、私がこっそり持っていったから」

「ツナマヨちょー美味しかった!」

「ね!」

 顔を見合わせて笑い合う二人を見ながら、茂草先生はどこか不安そうな表情を浮かべた。

「もしおうちのことで困ったことがあったら教えてね。力になるから」

「はーい」

 二人は呑気な挨拶をして、また昇降口へと歩き出した。

「茂草先生優しーね」

 莉亜が自分のおでこに貼られた絆創膏をぽりぽりと掻く。

「あたしが絆創膏もらいにいくと、まーたあんたかい! って言うけど」

「それ茂草先生の真似? 似てる!」

 けたけたと笑いながら、二人は昇降口へとたどり着く。

 そこには背の低い下駄箱がずらりと並んでいた。色のないこの世界では濃淡しか分からないが、学年ごとにペンキで色分けされているようだった。二人は《三年三組》と貼り紙のされた下駄箱へと近づいていく。

 二人が下駄箱へ手を伸ばした、その時だった。

 愛里と莉亜が、ぴたりと動きを止めた。二人だけではない。壁掛け時計の秒針も止まっている。動画を一時停止したかのように、世界が静止していた。

「愛里ちゃん!?

 彼女に駆け寄ろうとしたが、踏み出した足が昇降口の床に沈み込んだ。