試し読み

 獣道を下っている途中、ふと、飛廉は振り返った。父親が足並みを揃えるように調整して動いているのが見え、何故か無性に腹が立って、一緒に歩きたいと思わなくなり、飛廉は歩幅を上げて山を下ることにした。父親は急いで追いかけようとしなかった。やがて姿が見えなくなった。
 山を下りる途中、何人かの狩人とすれ違った。
 集落に戻る者、山にのぼる者。誰もが、飛廉の顔を見て今日が出立の日だと思い出す。
 そして、黙って見送る。
 誰も声をかけてくれない。
 息苦しさ、居心地の悪さを感じながら飛廉は集落に近づく。そして、走り出した。長老に呼ばれて急いでいる様子を装って。そうでなければ、集落のなかでありとあらゆる人が視線を向けてくるだろう。それは、いまの飛廉には痛すぎる。飛廉は誰とも目を合わせず、渓谷のなだらかな坂道を駆け下りながら、沢の下手に立つ長老たちの姿を認め、そこへ走っていった。
 この集落は山中で自己完結している。つまりふもとからここへ至る道はない。あるのは狩人が使う獣道くらいだ。だから飛廉を迎えに来る官吏たちは必ず川に沿ってここへ辿り着くのだ。山に慣れない人間でも、川沿いの道を歩けばやがて里に辿り着く。
 沢にて長老は飛廉を官吏に引き渡し、見送ることになっている。
「――ああ、来たか」
 静かにたたずむ長老に、飛廉は駆け寄る。
「お待たせしました……」
「慌てる必要はなかったが。まあいい。こちらがおまえを迎えに来た御方だ」
 長老がうやうやしく示したのは山を歩くのに相応しくない恰好をした男たちの姿だった。
 一目見て王都からやってきたと分かる、召具装束めしぐしょうぞく公家くげの追従者の官服)を着た一団だ。
 随身たちがまとう褐衣かちえ姿の狩衣かりぎぬは泥や水で汚れている。確かに狩衣は動きやすい服だが、道のない山中を動くのに相応しい恰好ではない。狩衣といえども簡易礼装。きれいな着物をこんなことで汚すなんてもったいない、と飛廉は思った。
 褐衣の男たちは、露骨に驚いた顔でこちらを見ている。こんな少年を差し出されたことに戸惑っているのだろう。
 そんななかで、穏やかな面持ちで佇む男がいた。
 よわいはおそらく四十に届くか届かないかとおぼしき男性。紋付きの狩衣かりぎぬに上質な革製の手甲と脛巾はばきを着けている。飛廉は緊張する。紋付の衣は貴人のものだ。だが、相手には山育ちを卑下ひげする空気はまったくなかった。疲れた面持ちを浮かべているが、飛廉を見つめる眼差しは柔らかい。
 何も尋ねないところを見ると、どうやらこの人が飛廉を迎える官吏のようだった。
「お目にかかれて光栄です。木暮こぐれと申します」
「飛廉です。お見知りおき頂ければ幸いです」
 飛廉は深く頭を下げる。
 木暮、か。都の官吏にしては山の民に相応しい名だった。木暮、あるいは木のれ。茂る木の下の薄暗さを差すこの言葉は姓氏みょうじとして広く用いられているとは聞く。つまりこれは字ではないのだろう。姓氏を持つ人間であれば貴人と見るべきだ。
「では……わたしがご奉公するのは木暮様で」
「いえ、わたしではありません。あなたを一之宮に案内する役を買って出たに過ぎませんから」
 穏やかに微笑み、木暮はゆっくりと首を振った。その返答に飛廉は眉根を寄せて長老を仰ぐ。どういうことなのか。低い位の官吏が迎えに来るとばかり思っていたが。姓氏持ちとなれば一之宮でそれなりの地位と権力を有する身分だ。山育ちの飛廉を迎えにくる理由が分からなかった。
「木暮様、わたしは誰にご奉公すればよいのでしょうか」
 飛廉は緊張と不安を覚える。王都、一之宮で自分を待つ主はいったい何者なのか。姓氏持ちの貴人を遣いに出しているのだから、さらにその上の御方と見るべきか。貴人の上に立てる御方は山育ちでも知っている。帝室ていしつ。いや、まさか。
 混乱する飛廉に木暮は詳細を告げずに催促する。
「王都でお待ちです。用意がよろしければすぐにでも出立しますが、いかがなされます?」
「支度は済んでいます」
「おや……荷物は? 水と糧食は持たれないのですか」
「……すでに、持っていますが」
 飛廉の返答に木暮が戸惑ったように頷く。
 妙だな、と飛廉はいぶかしむ。すでに自分は弓箭きゅうせんえびら、さらには最低限の糧食、空の竹筒を持っているというのに。山育ちは基本的に荷物を多く持たない。腹を空かせば木の実をかじり、喉が渇けば小川に降りる。狩りに慣れた大人は最低限の糧食しか持たないのだ。無駄な荷物は疲労に拍車をかけるし、山をのぼるにせよ降りるにせよ、時間が掛かりすぎてしまう。
 木暮がそのことを知らないと見ると、どうやらこの集落には初めて訪れたらしい。
 本来は、飛廉を迎える役人は別にいるようだ。
「山の達者は身軽を好みますので」
 長老の言葉に木暮は納得したように頷いた。
「飛廉、この方々に迷惑はかけぬように。足労を重ねぬように案内して差し上げなさい」
「承知しました」
 山をのぼることは誰にでもできる。だが、肝心なのは帰り道だ。達者は山を己の庭とするが、そうでないものからすれば異界だ。ゆえに、下手に踏み込めば帰り道が分からなくなり、山を彷徨さまよう羽目になる。山を知らぬものは道を迷い、命を落としてしまう。その結果、魔が潜む異界といたずらに怖れられ、無駄な疑念を生み出す。山を異界と怖れるならば、山に暮らす者は魔と通じている、あるいは交わっていると誰もが噂する。それを鵜呑うのみにした人間は山の民を卑下ひげし、嫌悪し、排斥はいせきしようとする。
 恐怖や疑念に囚われた人間がまともな判断を下せるわけがない。
 飛廉の集落が山奥にひっそりと佇むのは徒な迫害を怖れてのことであることは誰もが知っている話だ。
 山を降りる飛廉はまず信用を獲得しなければいけない。木暮は飛廉に対して信頼を置いているようだが、ほかの者は見るからに、胡散うさん臭そうに自分を観察している。わざわざ出迎えてまで仕官させるのが、こんな子供なのかと言いたげな様子だった。言葉には出さないが、すでに態度には表れている。この者たちを信用させなければいけないのだ。自分が真っ当な人間であることを。それを証明できなければ一之宮で暮らすことはできない、と長老から以前言い渡されていた。
「急ぎのご様子でしたが……」
「長く一之宮を留守にする訳にはいかないので」
 休息をとらず山下りをするのは体にさわるが、おそらく木暮は重職に就いているのだろう。こちらの意見は聞き入れられないようで、随身たちは飛廉を促すように見つめている。すぐに出立するつもりなのだ。
「山を下りたら一気に一之宮に向かいます。馬には乗れますか」
玄人くろうとではありませんが、たしなむ程度には」
「それなら大丈夫です。申し訳ない。一之宮には急いで戻らなければいけないことになっておりまして」
 こうして、飛廉は半ば急かされるように一行とともに山下りをすることになった。渓谷に沿って緩やかな斜面を下っていく。森のなかを通ればすぐに山を下ることはできたが、この山行さんこうで彼らは汗をいて体を冷やしているようだった。顔には出さないが体の動きから無理をしているのは分かる。できるかぎり急ぎ、そして無理をさせないように飛廉は下山の道を先導した。
 その道中、木暮はこれから飛廉が仕えることになる人物について話した。
「飛廉殿、あなたがご奉公する御方は帝室でも貴人でもありません。王都出身の典全てんぜんの称号を手にした官人です」
「……典全、とは?」
 知らない言葉に、飛廉は聞き返す。
 木暮の説明によると典全とは「全てを司る」を意味するという。山育ちといってもある程度の言葉は知っている。だが、聞き覚えのない言葉に飛廉は困惑した。
 どういうことだろうと思っていると、木暮は飛廉の掌に、典という文字を書いてみせた。
 この言葉には複数の意味があるという。一に書を表し、二におきてを意味する。三が示すのは礼儀作法であり、まるでそれらの意味を統括するように、四番目に司るという意味が備えられている。漢字一文字が内包する意義深さに驚きを隠せない飛廉に対して、木暮は穏やかに説明を続ける。
 曰く、典全とは大学寮が用意する官人試験で最も優れた成績を示した者に与えられる栄誉の称号である。
 その資格を満たす条件は知識と技量を等しく極め完成させること。
 簡単なように見えて、これを実際に取ることができた人間はいなかったという。これまでに行われた官人試験で優れた成績を示す者はいるが、単に秀でているだけではこれを手にすることはできないらしい。
 現今の帝が践祚せんそしてから典全という称号は設けられたというが、十数年もの時が経過しながらも、これを手にすることができる者はいなかったという。
 今年も現れぬか、と誰もがそう思っていると、それを手にする者が現れたという。
 当時その者、齢十四。
「いまは十六歳になっています」
「……若いお方なんですね」
 護衛対象の予想外の人物像に、飛廉は戸惑う。
「失礼ながら、木暮様の御身内ですか」
「長い付き合いの友人、と申しておきましょうか。訳あって、あなたをお連れすることになりました」
 訳あって。
 ――その言い方に飛廉は引っ掛かりを覚えた。
 長老や周りの大人たちからは何も説明されていないが、武官として「飛廉」の字を与えられた達者が王都へ送られているのは分かっている。これから自分に課せられるのが、武を用いた務めだということは漠然と理解できる。
 つまり、荒事あらごとだ。
「何か危険なことに巻き込まれたのでしょうか」
「まあ、そんなところですね」
 木暮は苦笑いを浮かべている。
「彼女の能力は宮廷で花開くことになるだろう。そう予感して、わたしは朝廷の官吏として働くことを薦めました。登用試験を優秀な成績で合格し、典薬寮てんやくりょうに入ってからも目覚ましい成果を出していたのですが……熱心さが高じたのか、それとも生来の正義感が災いしたのか、貴人官人の悪だくみを度々妨害するようになりまして」
 予想外の内容に飛廉は言葉を失う。平民の出か。めでたく官人になったのはいいものの、貴人官人の悪だくみを阻止するようになったとはどういうことなのか。
 奇妙な話、奇妙な為人ひととなりである。
「……それは、なんと、まあ」
 肝がわっているといえば、肝が据わっているが。
 相槌に困っていると、苦笑いを浮かべたまま木暮も頷いた。
「頭がいいのか、悪いのか。よく分からなくなりますよ。大胆に命を狙われることはないでしょうが、危険であることは変わりない。どうしても随身が必要でした。そこで、古い伝手を使って、ここを頼らせていただきました。多少時間がかかりましたが」
 飛廉は頷きながら、ふと思い出す。
 ――先ほど、木暮は『彼女』と言及した。
「では、わたしが奉公することになるのは、女性の官吏ですね」
「左様。書賈しょこの娘であり、字を雪代ゆきしろと言います」
 雪代――雪解け水のことか。風致ふうちを字に選ばれるとは恵まれている人だ。飛廉という字とは違って、それは呪いにならない名だ。
 どんな人だろうかと、飛廉は考える。
「女に仕えることに、抵抗を抱かれますか」
 じっと飛廉の顔を見つめて、木暮が問いかける。
「いえ。これがわたしの務めですから。性別身分に関係なく、お守りするよう命じられれば、誠意、尽くす覚悟でございます」
「よい覚悟です。あなたを頼ることができたのは、雪代殿にとっても幸運でしょう」
 ほう、と安堵の息を漏らして、木暮は疲れたような笑みを浮かべた。
宮城きゅうじょうに着き次第、雪代殿と会うことになっています。その際、彼女から詳細を聞くとよいでしょう」
「命を狙われるような事態になっているということは、雪代様は八虐はちぎゃくと向き合っているのですか」
 飛廉は気になって、そう質問した。
 八虐とは、国の秩序を乱す罪の呼称である。
 具体的に言えば……
 謀叛むほん謀大逆ぼうだいぎゃく謀反むへん……これらの三つは国家転覆てんぷくをはかる罪。
 悪逆あくぎゃくは君父を殺す罪。
 不道ふどうは大量殺人、あるいは肢体したいを切断する罪。
 大不敬だいふけいは帝室に対する罪。
 不孝ふこうは親に仕える道を取らぬ罪。
 不義ふぎは師あるいは長官をしいする罪。
 これらはどれも国の大本を揺るがすとがであり、犯した場合は重罰に処されることになっている。僻地へきちで暮らしている飛廉でも、朝廷がそれを厳しく律していることは知っていた。
「そうですね。八虐に関わっているといえば、確かに関わっています」
 木暮は溜息を吐いて頷く。
「齢十六で虎穴に挑むとは、分不相応な度胸ですよ」
「正しい行いをしている自負があるからこそ、ひるまないのでしょう」
「ただし、それが宮城において正しいとは限らないのですよ」
 木暮は溜息を吐いた。
「不義を働く輩はある程度処断されたといっても、雪代殿は多くの貴人を敵に回しました。彼女は不義不道を一掃しようとし、多くの貴人は密かに排除しようとする。公然と実行するわけにはいきません。何しろ、彼女の知名度はゆっくりとあがり、帝もその活躍を耳にするようになりましたから。ゆえに……病や事故などを装って宮城から抹殺まっさつしようと画策しているのです」
「だからわたしが呼ばれたのですね」
 思えば急な話ではあった、と飛廉は思い出す。一家が長老の呼び出しを受け、元服げんぷくに合わせて飛廉という字を授けると言われたのはほんの数日前だった。飛廉の字を授けるに足る器量を持っていると長老は認めていたが、自分は何を言われたのか分からず、両親も共に茫然としていた。何故、と父はかすれた声で問うたが、長老や控えの者は何も答えてくれなかった。
 はやすぎる、と父親は困惑気味に声に出して呟いた。
 はやすぎる、と自分は声にも出せず心のなかで呟いた。
 だが、いまは理解できる。
 元服前に飛廉の字を授けると宣言されたのは、早々に飛廉を欲する人間が一之宮にいたということなのだ。
 その御方こそが、いま命を狙われているという典薬寮の雪代。
 なるほど、選別の試験を行わずに急ぐわけだ。木暮にとって雪代なる人物が大事であるならば、一刻もはやく信頼できる随身を連れておきたいのだ。一之宮を留守にした間に凶刃に倒れることがあってはならないのだから。
「雪代殿の周辺にはすでに近衛府このえふ舎人とねりが配されていますが、わたしが随身の件を申し入れたのですよ。わたしは飛廉をよく知っていましたからね。信頼できると」
「……では、以前随身に飛廉を求められたのですか」
「わたしではありませんが、ね」
 木暮は首を振った。

典薬寮の魔女

てんやくりょうのまじょ

  • 著者:橘 悠馬
  • イラスト:遠田志帆
  • 発売日:2020年4月24日
  • 価格:760円(税込)
  • ISBNコード:978-4-910052-07-6
  • 発行元:京都アニメーション