試し読み

 やがて無事に山を下り終えた一行は、麓で馬にまたがり南方の一之宮を目指して疾駆しっくした。すでに日は傾き、空は茜色に染まっている。先導する一行の背中を必死に追いかけながらふと飛廉は背後を振り返った。燃えるような夕暮の色に染まった山々が遠ざかっていく。そして近づいてくるのが、一之宮と王都の中央に盛り上がる巨大な山だ。
 天王山てんのうざんです、と木暮が指差しながら叫んだ。
 それは古くからある山だったというが、現人神あらひとがみが降り立ってからは宮城へ姿を変えた。頂に雲上殿うんじょうでんが建てられ、帝はそこでまつりごと勅命ちょくめいを発する。その勅命に従うのが、中腹と麓に設けられた律令官衙かんがの官吏たちである。
 律令制において政府機能は徹底した細分化が図られ、神祇官じんぎかん太政官だいじょうかんによる二官八省一台五衛府の制度が取られている。
 神祇官と太政官が税金や司法などの行政分野を管轄する八省を治め、この下にさらに細かく組織が組み込まれている。たとえば工芸の職人集団や天文観測の専門家集団などなど。大学寮が施行する官人試験を受けた者はその成績や能力、推薦や希望などに従ってそれぞれの部署に配属されるという。これから飛廉が仕えることになる雪代は典薬寮に所属しているという。
 典薬寮の官衙は天王山の中腹に設けられていると聞く。
 通常、官人として宮城に迎えられた者は官舎という寝食の場を提供されるが、雪代は仕事の効率化を図って典薬寮の建屋たてやを仕事と寝食の拠点としているらしい。それまで聞いたことのない話であり、いったいどうしてそんな運びになったのかと誰もが首を傾げた。一部の者は典薬頭てんやくのかみと何かの密約を結んでいるのではないかと噂しているという。あるいは宮城の毒牙が自分に及ぶことを予期し、自らの砦を必要としていたのではあるまいかとささやいていた。
 ……ともかく飛廉が向かうのは噂話が絶えない場所であり、これから暮らすのが典薬寮の薬殿――薬師となる道を選んだ雪代の住まいにして砦であった。
 馬たちは日頃から鍛えられているのか、水や休息を求めず長い道のりをひたすら走り続けた。さすがに無理をさせないために一行は三回の休憩を設けたが、馬は疲労を見せずに道中を疾走する。
 起伏や変化に富んだ山や森のなかとは異なり、地上はただ平坦な世界が広がっていた。地平線の彼方、あるいはその向こうまで同じ風景が続いているように見える。延々と広がる田園のなかに集落は点在し、灯りが寂しく闇夜に沈んでいる。当然ながら人気はない。辛うじて耳に捉えられるのが虫の鳴き声くらいか。山のなかとは大違いだ。夜、まどろむさなかによく耳にした狼の遠吠えはもう聞こえなくなるのか。そう思ってようやく、飛廉は自分が山を出たことと、この世界が慣れ親しんだ山と違いすぎることを実感するのだった。
 すでに空の色は真っ黒に染まっている。
 人気のない道を走り続けると、ようやく王都、一之宮の街並みが見えてきた。郊外の集落とは高さが異なる建物の影がある。見張りのためか各所に篝火かがりびかれ、暗闇のなかでも王都がどれだけ広いかは認められた。
 吹き荒ぶ冷たい夜風に身を震わせて、飛廉は目を凝らした。
 一之宮は天王山を中心に四方へと不規則に拡大した王都らしい。川に沿って道に沿って家屋は建ち並び、人が集まり賑わいを呼ぶ。やがて職人たちの工房や商人の建屋も姿を見せた。王都建都の際にようやく中心街の整備が行われたらしいが、一之宮の大半は雑然と家屋と建屋とあらゆる人で無秩序に構成されている。
 飛廉たちが入城したのは一之宮の東端の街路であり、守衛である検非違使けびいし誰何すいかを受けたあと、川に沿って道を進んでいった。
「いかがですか、一之宮は」
「驚きました……夜でも人の気配が絶えないなんて」
 飛廉は正直に口にした。山だけに留まらず平地でも人は闇夜に潜む魔を怖れると聞く。故に家に籠もり、戸を塞ぐのだが、ここ一之宮では王都を巡回する検非違使の姿が圧倒的に多かった。
「人が集まる町には夜盗が多いですからね。山なら怖れるものは獣ですが、一之宮では人を怖れなければいけないのです」
 木暮が説明する。
「山と違って、一之宮には人を食らう獣は姿を現しません。一之宮の者は夜盗に迷惑していますからね。盗まれた、殺された、あるいは火をつけられた。山で培った術は平地では通用しないかもしれません。山を忘れて生きていく必要がありますね」
「しかし、あそこに山はあります」
 飛廉は天王山を示す。
 そういえば、と飛廉は闇夜に浮かぶ山の姿に目を向ける。それは山と呼ぶにはきれいすぎる形をしている。
「あれは山の形をしていますが、あなたが知る山とは異なります。まず獣がいない。口伝によるとなんでも古い氏族の斎庭ゆにわだったと聞きます。何かの生贄いけにえを捧げていたのか、あるいは審神者さにわが神託を受け取る場だったのか。ともかく天意を知るため、あるいは受け取るため。いまはもういない人たちが斎庭に土を盛り上げていったと聞きます。長い年月をかけて、斎庭はあのような姿に変えたのだとか」
「……途方もない話ですね、それは」
「ええ、まったくです」
 やがて飛廉たちの前に姿を現したのは青龍せいりゅう門である。見張りに立つ検非違使が鋭い声で誰何する。木暮の随身が馬上から静かに答えると、彼らは慌てたように道を開ける。
 飛廉はその間に門に施された匠の技巧を観察していた。
「宮城に至る門の一つ目です。北を玄武げんぶ、東を青龍、西を白虎びゃっこ、南を朱雀すざく。それぞれの聖獣をかたどった門が宮城の守りのひとつなのです。南に伸びる朱雀門とその大路はこの時間閉鎖されていますが、ほかの三門は常に門扉を開いています」
「……何故、朱雀門だけが閉ざされているのですか」
「長い間守られてきた慣習でしてね。朱雀大路と朱雀門を過ぎれば御前に一直線ですから。魔と敵を易々と招かないための措置だそうですよ。ほかの三つの門を開けているのにおかしなことですよね」
 木暮は笑った。
 門をくぐれば、その前の町並みとは異なり、整然と家屋や建屋が並ぶ町並みが目の前に広がっていた。広く取られた道、左手に家屋が狭く立ち並んでいるのに対して、右手には塀に囲まれた立派な屋敷がある。貴人の屋敷だ、と飛廉はすぐに気づいた。
 木暮に促されるまま歩を進めた一行はやがて宮城の入り口に辿り着いた。ここから先は馬で進むことはできないらしい。木暮とその随身たちが下馬するのを見て、飛廉も慌てて鞍から飛び降りた。
「もう夜遅くですが……ご迷惑にならないでしょうか」
「ご安心を。帰還は夜になると事前に話し合っていますから」
 木暮は説明する。
「夜を選んだのは人目をはばかるためです。公然と随身を出仕させると、注目を集めてしまいますからね。雪代殿は注目されるのが嫌いなんですよ。それに、表向きは雑務をする直丁じきちょうなので典薬寮の建屋で宿直とのいすることは当然」
「ご配慮くださりありがとうございます」
 飛廉の言葉に木暮は「いえ」と、首を振った。
「果たして満足に奉公できるでしょうか」
「ご心配なく。飛廉殿なら雪代殿も満足するでしょう」
 何を根拠にそう言っているのか飛廉には分からなかったが、随身に推挙された以上、引き返すわけにはいかない。飛廉は木暮のあとに続いて宮城へと入っていった。麓から頂まで、およそ五間(約十メートル)の広さに切り拓かれた大階段が続いている。天王山の中腹に建つ典薬寮はこの階段をのぼらなければいけないらしい。警邏けいらする宿直とのい直衣のうし姿の武官の誰何を受けながら、一行は百以上の段数をのぼっていき、ようやく辿り着いた一つ目の踊り場で右に曲がった。
 そこから先、暗くそびえる木々の向こう側に灯のついた建物の群れが佇んでいる。
 あれが、典薬寮か。
 さらに先に進めば道が二手に分かれていた。
「上手が圖書ずしょ寮で下手が典薬寮の建屋です」
 木暮が説明する。
「圖書と薬は政の要となりますから、宮城でもっとも警備の固い場所にふたつの官衙は建てられています。典薬寮の者が圖書寮の資料を頼ることも多々ありまして、効率を図ってふたつの官衙の建屋は渡殿(渡り廊下)でつながっているのです」
「薬殿はどこに?」
「一番奥です。参りましょう」
 山に抱かれた中腹に建つ官衙は、やはり冷えた空気に包まれていた。周囲を観察しながら飛廉は理解する。確かにこれは山ではない。すべての木が整然と並べられている。森が抱える冷気は確かにあるが、ほんものの山に比べればまったく動かず、そこに漂っているだけだ。根元に落ち葉の陰はなく、雑草の姿もない。枝葉は刈り込まれたのかすべてが均等な在り様を保っている。まさかとは思うが、これをすべて人の手で管理しているのか。なるほど、ここは山ではない。人がつくった、山に似せた庭だ。
「山育ちの者から見れば不憫ふびんな眺めですね」
 山が可哀想だ。思わずこぼれた呟きを聞いて、木暮はくすりと笑った。
「それを、雪代殿も呟きましたね」
「……植樹をしているようですが、人工の山であるなら、水はどう確保しているのですか?」
「それは主水司もんどのつかさという官衙が担当しております。山麓に水路や人工池を用意して、人夫を動員して水を運んでいると。また清水が湧く泉から貴重な水も取り寄せていると聞いております。詳細は……部署が違うので分かりませんが」
 まあともかく、と木暮は説明する。
「この山において、水はとにかく貴重なんです。無駄遣いは厳禁。水路や貯水池はあるにはあるのですが、最近は主水司の施設が老朽化しているため、無駄遣いを減らす取り組みが天王山全域で盛んです。大きな水甕みずがめで運ぶ姿を一度ご覧ください。無駄遣いしようなんて思えなくなりますよ」
 この世界は何もかもが予想外で、規格外だと飛廉は驚くしかなかった。
 典薬寮と圖書寮は経国の要であるため、ほかの官衙とは異なり余分な敷地が与えられているという。上手に圖書寮の官衙が置かれたのは、単に延焼を防ぐための措置だという。典薬寮は森のなかに佇むように官衙を建てているが、圖書寮は延焼を防ぐために、すべての建屋を独立させるように、そして山火事になった際に備えて森とも十分な距離を取って建築されている。
 だが、典薬寮にも孤立するように周囲の建物から切り離された建屋がある。
 それが典薬寮の雪代が用いる薬殿である。
 もともと薬殿とは侍医じいが控える建屋であり、これは雲上殿のひとつとして組み込まれている安福殿あんぷくでんの別称である。木暮の話によると、そこは典薬寮の組織拡大を担う建屋として建設されたというが、典薬頭のもとに弟子入りした雪代が優秀であったため、彼女のための宿直とのい室が設けられたという。やがて雪代の働きは周囲の人間に高く評価され、彼女が自らの伝手を頼ってき集めた薬種や薬師書が薬殿に蓄積されるようになった。その結果、第二の安福殿、第二の典薬寮ともいえる建屋が、典薬寮の奥地に佇んでいるのである。
 薬殿は豪奢ごうしゃではないが、頑健に、そして広く造られていた。
 広さはおそらく四十間。奥行きは分からないが、建築物で洞窟をかたどればこのようになるのではないか、と飛廉は思った。雷が落ちても、大地が揺れても、悪鬼の炎が押し寄せたとしてもこの建屋は崩れまいと思わせる。ほら、いや砦か。唯一外に開かれているのは入り口のみで、それ以外は部材を横に積み上げた壁である。校倉造あぜくらづくりです、と木暮が説明する。
 あたりを見渡して、飛廉はそっと木暮に問いかけた。
「……失礼。見張りは」
「近衛府の信頼できる舎人を配しておいたのですが、どうやら勝手に下がらせたようですな……」
 命を狙われながらなんと不用心――唖然とする飛廉の隣で木暮は溜息を吐く。
「雪代殿、ただいま戻りましたぞ」
 お待ちしておりました、と小さな声が聞こえた。
 木暮と飛廉だけが板張りに続く階段を静かにあがって、薬殿のなかへと足を踏み入れた。右手には細かな抽斗ひきだしが並ぶ箪笥たんす、左手にはちつ(書を保護する覆い)に包まれた稿本、巻物、竹簡、木簡などで埋め尽くされた書架が並び、見知らぬ世界が飛廉を威嚇する。
 右手の箪笥には薬の原料が、左手の書架には雪代殿が必要とした書物がすべて収められています。そしてこの奥が薬室――雪代殿が薬師として仕事をする要の一室です、と説明しながら木暮は先導する。
 薄暗い廊下を歩いていると、奥の部屋から人の気配が感じられた。
 その部屋の戸を開きながら、木暮は親し気に声を掛けた。
「今夜は月明りが悪うございますな」
「お蔭で何もかもはかどりません」
 溜息交じりの女性の返答。
 この声の主が、雪代という名の女性官吏だろう。
 部屋に入って飛廉は困惑する。部屋にいるのはひとりではない。三人だ。
 誰だろう。
 慌てて一礼し、飛廉は室内にいる三人の人物を観察する。
 ひとりは壁際に寄りかかる長身の女性。男物の水干を着ているため、初め、女であることに気づけなかった。故郷の男の達者に並ぶほど背が高く、美男にも見える面持ちは力強い意思がにじんでいる。男のように見えるのは髪を驚くほど短く切っているからだろう。
 もうひとりはその隣で座って瞑目している女性だった。白と赤があざやかな衣袴きぬはかま姿(貴人の日常着)で、一目で公家くげだと分かる。長い髪を複雑に結い、銀細工の釵子さいし(髪飾り)でまとめている。彫像のように微動だにしない佇まいは、自分と違う世界で生きてきたのだと直感する。木暮と飛廉が入室したときは目を開けたが、またすぐに目を閉じたので、近寄りがたい気配を感じた。
 そして、おそらく。
 中央の机を前に座しているのが、典薬寮の雪代だろう――と、飛廉は考える。
 先のふたりに比べると平凡な官服を着ているが、毅然とした表情や凛とした佇まいには人を圧倒する何かがある。女性にしては珍しく髪を短く切り、揺らぐ灯りで顔に陰影が踊り、ある時は柔らかく、ある時は強く見えた。寒さに堪えるように宿直とのい衣を何枚も重ねている。
 どこか不思議な人だな、と飛廉は思った。
 木暮と飛廉が入室すると、すっと三人の女官は立ち上がり一礼する。
「木暮様……」
 感謝を伝えるように深く頭を下げて、雪代は口を開いた。
「彼が、わたしの随身ですね」

典薬寮の魔女

てんやくりょうのまじょ

  • 著者:橘 悠馬
  • イラスト:遠田志帆
  • 発売日:2020年4月24日
  • 価格:760円(税込)
  • ISBNコード:978-4-910052-07-6
  • 発行元:京都アニメーション