序章
塾帰り、友だちと話してくるから遅くなると母に告げて立ち寄ったのは、市営の体育館だった。
聞こえてきたのは美しい
上級の
老いた射手にあいさつをし、ひと通りの準備を済ませると
湊の後ろには、もう一人の少年がいた。彫りの深い顔立ちと、色素の薄いまつ毛が
湊は手にした弓矢をゆっくりと上へあげた。弓を引き絞り、矢先を的中心へと近づけていく。だが、満を持して放たれた矢は
弓道は喜怒哀楽の感情を表に出してはいけないと教わるのだが、幼い彼らでは隠しとおすことはできず、口をへの字にしていた。それを見た西園寺は
「二人とも縮こまっていますね。今日は矢声を出してみましょう。最近は的前で声を発すると
湊は首をかしげた。
「ヤゴエってなんですか?」
「矢を発したとき、射手があげる気合いの声のことです。卓球やテニスの選手がここぞというときに、
「おれ、動画でなら見たことある。
「巻藁
そう言うと、西園寺は自身の弓矢を手に的前へ入った。
少年たちとまったく同じ手順で弓を引いているのに、それは明らかに別物だった。真夏の夜、打ちあげ花火の速度で捧げられた弓は、大きく、気高く、花びらを広げていく。老いてなお枯れることない魂はどこから来るのだろうか。日々の鍛錬から生まれた肉体と
解き放たれた声は、地を
「さあ、やってみましょう」
湊と愁は矢を放ち、声を振り絞った。
ヤァ――ッ。
おれよりいい声を出してみろ。
おれを
稽古を終えてからも、二人の興奮は冷めやらなかった。全身の血がふつふつと煮えたぎり、どうやって静めたらいいのかわからない。
湊は愁の腕を小刻みに叩いた。
「西園寺先生ってほんとすごいな! 普段は物静かな感じなのに、どこからあんな声が出るんだろう」
「そりゃ、俺の父が探してきた
「おれ、いろんな弓道場へ行ったんだけど、小学生は指導できる人がいないって断られてさ。中学生になるまで待つしかないとあきらめてたから、すっごくうれしい。ああ、早く上手くなりたい。上手くなって母さんにおれの射を見てもらうんだ。もちろん、そのときの相手は愁だからな」
「受けてたつよ。ただし、先に抜くのは湊だから」
「なんだよ、おれだって詰めるから」
「抜く」ははずれで、「詰める」はあたりのことだ。
愁はバス停へ向かった。
自転車にまたがった湊の背中を見送ると、夜空を見上げた。いつもこの瞬間がひどくもどかしかった。夏休みを祖父母の家で過ごした帰り道によく似ている。
この日は隣町で花火大会が催されており、バスのダイヤが乱れていた。
ふと人の気配に気づき目をやると、そこには白パーカーを着た少年がいた。親しげな笑みを浮かべている。
「バス、まだ来ないみたいだね。お友だちは自転車? 遠くから来ているの?」
「さあ、詳しくは知らない」
「そうなんだ」
少年は白パーカーのフードをかぶった。
「西園寺先生が小学生に指導しているという噂は本当だったんだね。個人レッスンって聞いてたんだけど」
「……どこでその話を」
「内緒にしたいなら、こんなところで引いてちゃダメだよ。いいな、俺も西園寺先生に習ってみたかったなあ。俺はキミより一つ上だし、資格があると思うんだ」
ドン、ドン。
姿の見えない花火の音がした。
白パーカーの少年の言葉を信用するならば、目の前にいる人物は小学六年生ということになる。愛想がよく、黒々とした大きな瞳の少年。だが、何か引っかかる。
かかわらないほうがいい――。そう判断した愁がその場を離れようとすると、白パーカーの少年が愁の行く手を遮った。
「キミは運転手がつけられるご身分なのに、わざわざ公共のバスを使ってるんだね。庶民生活を体験させようっていう教育方針なのかな」
「おまえは誰だ?」
「キミのお父さんは一人増えてるってことを知っているのかな? まあ、小学生を二人も弟子にするなんて、西園寺先生の気まぐれなんだろうけど。愁くんは親切なんだねえ。西園寺先生を独り占めできる機会をみすみす手放すなんてさ」
その言葉に、愁はふっと微笑んだ。
「俺が親切? 俺は自分の手でライバルを育てているんだ」
俺のはじめての
たった一人の。
俺から湊を奪うやつは、誰であろうと許さない――。
「クク……。おもしれえ……」
白パーカーの少年は愁の肩先をかすめ、バスの進行方向とは反対へと立ち去った。
花火の音はまだ響いていた。
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