『ツルネ ―風舞高校弓道部―』第2巻 試し読み
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 序章  矢声やごえ

 塾帰り、友だちと話してくるから遅くなると母に告げて立ち寄ったのは、市営の体育館だった。みなとは受付で子ども料金を払うと、脇目も振らず歩きだした。こんなところにこんなものがあったのかと思うほどにひっそりと、そこへ行くという目的を持っていなければたどり着けないような場所にある施設、それは弓道場だった。
 聞こえてきたのは美しい弦音つるねだ。矢を発したときに鳴るつるの音。
 上級の射手いての奏でる弦音は単音で、濁らず、混ざらず、清らかな音を響かせる。手にした弓は背の高さを優に超える竹製で、飴色の光沢が弓と人とのつきあいの長さを物語っている。
 老いた射手にあいさつをし、ひと通りの準備を済ませると的前まとまえに立った。的の先、視界遠くでは、夕映えの空に丸い月が浮かぶ。
 湊の後ろには、もう一人の少年がいた。彫りの深い顔立ちと、色素の薄いまつ毛がうれいを帯びる。純然たる和テイストな湊とは対照的なその姿に、人々は見果てぬ夢を追い求める異邦人を重ねる。
 鳴宮なるみや湊と藤原ふじわらしゅうは小学五年生、西園寺さいおんじ知良かずよしの唯一の愛弟子まなでしだ。下稽古したげいこを積み、二人が的に向かって矢を放てるようになったのは、つい最近のことだ。
 湊は手にした弓矢をゆっくりと上へあげた。弓を引き絞り、矢先を的中心へと近づけていく。だが、満を持して放たれた矢はあずちにすら届かず、的手前で鈍い音をたてた。続けて放たれた愁の矢も、的の下へと抜けた。彼らはまだ小学生なので、標準より短く、とても力の弱い弓を使用していた。弱弓は矢飛びが悪く、腕のいい射手でも扱いが難しい。
 弓道は喜怒哀楽の感情を表に出してはいけないと教わるのだが、幼い彼らでは隠しとおすことはできず、口をへの字にしていた。それを見た西園寺はほおをゆるませた。
「二人とも縮こまっていますね。今日は矢声を出してみましょう。最近は的前で声を発するとしかられたりしますが、昔はよくそうやって稽古したものです」
 湊は首をかしげた。
「ヤゴエってなんですか?」
「矢を発したとき、射手があげる気合いの声のことです。卓球やテニスの選手がここぞというときに、雄叫おたけびをあげながらスマッシュを決めたりするでしょう? あれと同じです」
「おれ、動画でなら見たことある。巻藁まきわらに向かって叫んでました」
「巻藁射礼しゃれいでしょう。最近は大学生などが、的中したときにかける声援のことを矢声と呼んでいるそうですね。言葉は時代や場所によって変化する。じつにおもしろい」
 そう言うと、西園寺は自身の弓矢を手に的前へ入った。
 少年たちとまったく同じ手順で弓を引いているのに、それは明らかに別物だった。真夏の夜、打ちあげ花火の速度で捧げられた弓は、大きく、気高く、花びらを広げていく。老いてなお枯れることない魂はどこから来るのだろうか。日々の鍛錬から生まれた肉体と智慧ちえのコラボレーション。ほとばしる情熱は尽きることを知らない。
 解き放たれた声は、地をい足元にまとわりつき、湊たちを連れ去った。
「さあ、やってみましょう」
 湊と愁は矢を放ち、声を振り絞った。
 ヤァ――ッ。
 おれよりいい声を出してみろ。
 おれを射貫いぬけ。
 矢声やごえ弦音つるねが絶妙なハーモニーを奏でたとき、トンと的音まとおとが響いた。
 稽古を終えてからも、二人の興奮は冷めやらなかった。全身の血がふつふつと煮えたぎり、どうやって静めたらいいのかわからない。
 湊は愁の腕を小刻みに叩いた。
「西園寺先生ってほんとすごいな! 普段は物静かな感じなのに、どこからあんな声が出るんだろう」
「そりゃ、俺の父が探してきた名射手めいいてだから」
「おれ、いろんな弓道場へ行ったんだけど、小学生は指導できる人がいないって断られてさ。中学生になるまで待つしかないとあきらめてたから、すっごくうれしい。ああ、早く上手くなりたい。上手くなって母さんにおれの射を見てもらうんだ。もちろん、そのときの相手は愁だからな」
「受けてたつよ。ただし、先に抜くのは湊だから」
「なんだよ、おれだって詰めるから」
「抜く」ははずれで、「詰める」はあたりのことだ。
 愁はバス停へ向かった。
 自転車にまたがった湊の背中を見送ると、夜空を見上げた。いつもこの瞬間がひどくもどかしかった。夏休みを祖父母の家で過ごした帰り道によく似ている。
 この日は隣町で花火大会が催されており、バスのダイヤが乱れていた。
 ふと人の気配に気づき目をやると、そこには白パーカーを着た少年がいた。親しげな笑みを浮かべている。
「バス、まだ来ないみたいだね。お友だちは自転車? 遠くから来ているの?」
「さあ、詳しくは知らない」
「そうなんだ」
 少年は白パーカーのフードをかぶった。
「西園寺先生が小学生に指導しているという噂は本当だったんだね。個人レッスンって聞いてたんだけど」
「……どこでその話を」
「内緒にしたいなら、こんなところで引いてちゃダメだよ。いいな、俺も西園寺先生に習ってみたかったなあ。俺はキミより一つ上だし、資格があると思うんだ」
 ドン、ドン。
 姿の見えない花火の音がした。
 白パーカーの少年の言葉を信用するならば、目の前にいる人物は小学六年生ということになる。愛想がよく、黒々とした大きな瞳の少年。だが、何か引っかかる。
 かかわらないほうがいい――。そう判断した愁がその場を離れようとすると、白パーカーの少年が愁の行く手を遮った。
「キミは運転手がつけられるご身分なのに、わざわざ公共のバスを使ってるんだね。庶民生活を体験させようっていう教育方針なのかな」
「おまえは誰だ?」
「キミのお父さんは一人増えてるってことを知っているのかな? まあ、小学生を二人も弟子にするなんて、西園寺先生の気まぐれなんだろうけど。愁くんは親切なんだねえ。西園寺先生を独り占めできる機会をみすみす手放すなんてさ」
 その言葉に、愁はふっと微笑んだ。
「俺が親切? 俺は自分の手でライバルを育てているんだ」
 俺のはじめての弓友きゅうゆうだ。
 たった一人の。
 俺から湊を奪うやつは、誰であろうと許さない――。
「クク……。おもしれえ……」
 白パーカーの少年は愁の肩先をかすめ、バスの進行方向とは反対へと立ち去った。
 花火の音はまだ響いていた。

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