『ツルネ ―風舞高校弓道部―』第3巻 試し読み
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 序章

 白い竜が大空をまたいでいる。
 日に照り映える雪には野うさぎの足跡が刻まれ、山の多くの木々が葉を落とすなか、とこしえの葉のもと南天なんてんの紅い実が揺れる。普段は静かなその場所は、鳥のさえずりとなじみの顔がゆきかう程度だが、この日ばかりは行列をなしている。
 町の小さな神社だった。中学生のみなとは節分祭に来ていた。節分は立春の前日に邪気払いをして福を迎え入れる行事だ。
 同じ桐先きりさき中学弓道部一年の、しゅう静弥せいやの姿もあった。祭りの開始を待ちわびる人々と同様に、三人も高揚が隠せない。ほどよい距離を保ちつつ進み、場所取りを済ませた。
「豆まきは家で毎年してるけど、こういうお祭りに来るのははじめてだ」
 好奇心いっぱいの幼子のような瞳に、つられて静弥の頬もゆるむ。
「そうだね。鬼は外、福は内っていう湊の大きな声が、僕の家まで聞こえてくるよ」
「あー、やっぱり聞こえてたか。クマが反応しているのは知っていたんだけど」
 クマというのは静弥の家で飼っている犬のことだ。湊の気配を察知すると、生垣の穴から顔を出して待ち構え、生垣の内側でははち切れんばかりに尻尾を振っている。一緒に遊びたくて仕方ない様子だ。どうやらクマは湊のことを、兄弟と思っているらしい。
 湊を挟んで反対側にいた愁は、オニハソト、オニハソトとつぶやいた。
 静弥は目をすがめた。
「愁、今、僕に向かって言ったよね?」
「失礼。俺としたことが心の声がれてしまった。湊を誘うともれなく静弥がついてくる」
「僕をけ者にしようとしたって無駄だからね。それに湊は抜けてるところがあるから、藤原ふじわら家のご子息にご無礼があってはいけないと思って。見守っておかないと」
竹早たけはや家ご次男のお手を煩わせるほどのことではないよ」
「いえいえ、ご遠慮なさらず」
 貴公子と騎士に挟まれて、庶民の湊はたじたじだ。二人のやりとりはいつもこんな感じだった。あまり他人に興味を示さない愁がこれだけ反応しているのは、仲がよい証拠かもしれない。
 にぎやかな気配に誘われて、鳥までも甲高い声で鳴きはじめた。目の調子が悪いのだろうか。辺りが霞んで見える。巫女が振る鈴の音が響くと、けぶるなかから人影が現れた。冠をかぶり、瑠璃や緋色など鮮やかな装束に身を包んだ神官が本殿へと向かう。本殿へあがると祝詞のりとを奏上し、周囲を取り巻いた参拝の人々にさかきを振るった。
「これから『鳴弦めいげん』を執り行います」というアナウンスが流れた。
 湊は愁に尋ねた。
「めいげんって?」
「見ていればわかる」
 弓を手にした者たちが舞台にのぼった。つるを三十センチほど引き、放す。
 ひやう、ひやう、ひやう。
 音がこだますると、さきほどまで濁っていた視界がクリアになったような気がした。琴の音にも似た波動は、体を覆うけがれを拭い去る。
鳴弦めいげんとは、矢をつがえずに、弓弦ゆづるを打ち鳴らして魔をはらう儀式のことだ。平安時代から伝わる。皇室の『読書鳴弦どくしょめいげん』では、漆を塗っていない白木弓しらきゆみに七・五・三と籐を巻いた相位弓そういきゅうを用い、古事記こじきなどを朗読しながら行うそうだ」
「弓は神事と関わりが深いんだね。破魔矢はまやとか」
「弓は神器しんきだから。走る馬上から的を射る流鏑馬やぶさめや、家を建てる際の上棟式で弓矢を北東に向けて飾る鬼門除きもんよけなどいろいろある」
「さすが愁、弓のことは詳しいな」
「俺は日本が好きなんだ」
 湊は『弓と禅』のなかで、オイゲン・ヘリゲルが阿波範士あわはんしのもとに入門時、浄めと祓いの事始めの動作として、弓弦を打ち鳴らすシーンが描かれていることを思い出した。
 この本にはドイツ人で哲学者のオイゲン・ヘリゲルと弓聖きゅうせいと謳われる阿波研造けんぞう範士の日々が記されており、二人は師弟の関係だ。ヘリゲルは神秘家になることを目指し、その入り口として弓道を選んだ。彼のいう神秘とは禅によって悟りを開くこと、解脱の体現だろう。阿波範士は「暗中の的」という、暗闇のなかで矢を二本射て、一本目は的の中心を貫き、二本目は一本目のはずを砕き、を裂きながら並んで中心に刺さるという神業で、神秘を具現化して見せた。
 ヘリゲルは豆まきも体験したのだろうか。不思議な風習ととらえたのだろうか。
 太鼓の合図とともに、本殿には年男としおとこ年女としおんなが並んだ。「鬼は外、福は内」の声に乗せて福豆を撒くと、その動きに合わせて人々の腕が波打つ。豆を撒くパラパラという音で鬼を追い払うのだ。福豆をとらえようと、湊たちも手を伸ばした。
 ふと、湊は亡くなった母の面影がよぎり、手袋をした手をそっと握った。
 ――母さん、おれの弓友きゅうゆうです。見えていますか。
 約束は果たせましたか。
 蛇腹のごとき筒状の雲は、東から西へと、はるかかなたまで続いていた。

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