オーロラとサーモン

オーロラとサーモン

  • 著者:結城弘
  • イラスト:くっか

 

 復讐への道を、少年は進んでいく。

 

 その少年には、青空のように無限に広がる未来もなく。

 救済と幸福を得られる道は、たったひとつだけ。

 この世界から唯一選ぶことを許された道を、少年はまっすぐ進み続けていく。

 

 

 

 

プロローグ

 

 空がオーロラで満ちていた。

 

 いや違う。

 その光景は単に、窓そう外がいの森林の光が列車の天井に反射しているだけなのだと、うたた寝から目を覚ました老婆はすぐに気がついた。

 天井いっぱいに射し込む緑色の光の筋はカーテンのように揺らめき、あるいは、演奏中のピアノの鍵けん盤ばんのようになだらかにきらめいている。

 その無音の光のショーに、

「ララーララー……」

 老婆の正面に座る女の子が鼻歌を添そえていた。

 歳は十代後半あたり。すらっとした体をスノーホワイト色のワンピースで包み、ショートヘアと同じ銀ぎん白はく色しょくの瞳は、彼女の膝ひざを枕に眠る男の子に優しく注がれている。

 女の子の服とは対照的に、少年の小さな体を包むコートはみすぼらしくてぶかぶか。顔つきは青年にはまだ遠く、思春期に少し手が届かないくらいだろうか。

「ラーラーラー……」

 澄すみきった鼻歌を歌う彼女は、くたびれた木造客車の中ではひどく現実離れしている。まるでおとぎ話から出てきた妖精みたいだ。

 そんな神秘的な光景にうっとりとしていた老婆は、

「――へっくしゅ」

 ガクンと、列車の揺れに合わせてずっこけそうになった。

 少女がくしゃみをした。それだけなら何も問題はないのだが、

「ラーラーラー……へっくしゅ」

 彼女は歌を繰り返すたびに、同じ箇所で必ずくしゃみをするのだ。そうして何度目かの「へっくしゅ」を口にしたところで、これはわざとだな、と老婆は確信した。

「それはいらない」

「え?」

「この地方の民謡よね? そこに『へっくしゅ』はいらないわ」

「……そうだったんですね!」

 老婆の指摘にぽかんとしていた少女は、ぱぁっと顔を輝かせた。

「ある方からこのように教わったもので。ご指摘、ありがとうございます」

 ぺこりと頭を下げ、少女は再び歌いだした。その人間はいったいどんなつもりで「へっくしゅ」などと教えたのか不思議に思いつつ、老婆は窓外に目をやった。

 列車は白しら樺かばなどがまばらに自生する山林を走り続けている。

 この辺りは標高が高いため、林の奥に連なる山さん稜りょうに樹木の姿はない。そんな北欧ならではの山の風景を、汽車は力強いアルピニストのように進んでいく。

 この山々を抜けると、もうすぐ入り江フィヨルドが見えてくる。

 老婆が子どもの頃――まだ石油が潤じゅん沢たくに溢あふれ、世界がそれなりに平和だった頃――は、アジアや北米からの観光客をわんさか乗せた豪ごう華か客船が毎日のようにやってきていた。

 街がまるごと入り江に引っ越してきたかのような、大きくて賑やかな船にワクワクしたものだが、それももう半世紀ほど前の話で、今はたまに小さな蒸気船が行き来するくらいだ。

「う……うん」

 膝枕で眠っていた少年が身じろぎした。

 最初は薄目でぼんやりしていたが、

「……っ⁉」

 その目が完全に見開かれ、少女の膝ひざから跳ね起きた。

「おはようございます、リク」

「子ども扱いするなと言っただろ、フィーレ!」

「わかっています。しかし今回はリクの体調が最優先と考えました」

 ジロリと睨にらむ少年の赤面顔を少女は両手で包み、ずいっと瞳を覗き込む。 

「事実、先日までのキャラバン列車での睡眠時よりも疲労回復効果が見られます。フィーレの膝枕が快適であった何よりの証拠です」

 フィーレはにこりと微笑ほほえんだ。

「このスケベめ」

「ひどい冤えん罪ざいじゃないか」

 リクがフィーレの手を邪険に振り払った。

 大人びたことを言うその声は、まだ声変わりを迎えていない。背伸びをしたがる少年期特有の初うい々ういしさが微笑ましく、老婆はついクスリとしてしまった。

「あ、ごめんなさい。騒がしかったですか?」

「逆よ。長い汽車旅で退屈してたから賑やかで楽しいわ。あなたたちはご姉弟きょうだい?」

 姉、という言葉にフィーレは口元の笑みを深め、「ハイ!」とリクの腕に抱き着いた。

「その通りです。フィーレはリクのお姉ちゃんなんです!」

「離せ。姉ならこんな真似をするな」

 リクはフィーレを押しのけ、ぷいっとそっぽを向いてしまった。

「あなたたちはこれからどちらまで?」

「国境を越える予定です」

「国境? でも共和国は連合国と戦争中……ああ、この先のお隣は中立国だから越えられるわね。ずいぶんと遠くに行くのね」

「ええ、『落とし物』を取りにいくのです」

「落とし物? 外国まで、どうして?」

「別に。あんたには関係ないだろ」

 リクがつっけんどんな態度で言った。

 ま、生意気だこと。少しムッとした老婆の気持ちに呼応するかのように、『ガ……ガガ……』と雑音が鳴った。

「あらごめんなさい。電源を切っていなかったわ」

 老婆は脇わきに置いていたラジオを手に取った。

「それはラジオですか?」

「孫が持っていたものなの。でも故障かしら、まともに音が出なくて……あら?」

 ボタンを押しても電源が切れなかった。

 故障かといじくりまわしている老婆にリクがしびれを切らしたのか、「貸せ」とラジオを取り上げると、手際よく電池カバーを開けた。

「こういうのは電池を引っこ抜くのが手っ取り早――」

 中身を確認したリクははたと言葉を止めた。

「……『HLエイチエル』か」

 それは乾電池――ではなく、HLと呼ばれる人差し指ほどの大きさの蛍光管だった。

 HLが放つ水色の光は弱弱しく明めい滅めつしていて、今にも消えてしまいそうだ。

「HLの輝き度どが足りてないな。これだとキッチンタイマーだってまともに動かない」

「そうなの……。これ一本で『時計から戦艦まで動く』て聞いてたけど、そんなにおいしい話はないものね」

 石油は北欧においてはすでに枯こ渇かつし、世界でもほとんどとれなくなったと噂される今、この共和国の首都では発電も家電もHLを用いるのが当たり前になっている。

「発電や兵器に使えるのはもっと輝度が高いHLだ。そういうのは首都から持ち出せないし、地方にはこういう規格落ちの品しか出回らない」

「……規格落ち、ね」

「それでもラジオを聞きたいなら別の、」

「別のHLを使えというの?」

 老婆の語気が少し強くなった。

「そのHLは首都から送られてきたの。孫の遺体の代わりに」

「……」

「孫の体にあの『つきものヽヽヽヽ』ができちゃってね。……死に目にも会えなかった。だからこのラジオとHLはね、孫の遺品なの」

 孫の名はウォルフ。心優しい青年で、足腰が悪い老婆のことをその大樹のような立派な体と大きな手で支えてくれていた。

「ラジオなんか聞けなくても構わない。今ではこの小さな光が私の心の支えなの」

「だけど、かわいそうだ」

 リクがぽつりと漏もらした言葉に老婆は驚いた。

 愛想の悪い少年にも悼いたむ心があるのだ――

「死んでも役立たずだなんて」

 感心しかけた老婆の背筋がぞっとした。

 何の感かん慨がいもなくそう言い放った少年に対しても。

「かわいそうですね、リク」

 その隣で笑みを湛たたえているフィーレの目に、何の感情の色もないことにも。

 彼女がどこか浮世離れしてみえた理由がわかった気がした。

 微笑ほほえみこそ絶やさないものの、その笑みは妙に型にはまっているような違和感があるのだ。

 姉弟きょうだいとの間に、何か決して埋められない価値観の隔へだたりを覚えたその直後――

 キキィィィッ、と車輪が悲鳴を上げた。

 突然の非常ブレーキに老婆の体が座席に押しつけられた。前のめりにすっ飛びかけたリクの首根っこをフィーレが素早く摑つかむ。

 けたたましい音を立てながら、やがて列車が停止した。

 乗客たちが何事かとざわめき始めた中、体幹を一切崩さず座っていたフィーレが、

「……! リク、こっちへ」

「何を――」

 首根っこを摑んだままだったリクを、自身のスカートの中へと放り込んだ。

 白昼堂々と行われるスケベな行為に老婆が目を白黒させる。

『乗客の皆様、お騒がせして申し訳ございません』

 スピーカー越しに抑よく揚ようのない声が響き、外を見た老婆は小さく悲鳴を上げた。

『我々は共和国軍です』

 窓の外から、巨人の笑顔ヽヽヽヽヽが覗き込んでいたのだ。

 SN(スレイブニール)。

 無む尽じん蔵ぞうのエネルギーを持つHLを動力源とし、現在も継続中である戦争の初期において、敵対する連合軍の旧式兵器を圧倒してみせた共和国の人型兵器だ。

 人型ではあるが、列車とそう変わらない背丈の体には頭部に当たるパーツはなく、流線形に統一された体たい躯くは繭まゆかさなぎに手足をくっつけたような見た目だ。

 最新型の機体の名は『ムヒト』といったか。

 頭はないが、胴どう体たい上部に並ぶ二つの縦長スリットと、その下にある弓なりのバイザーとの位置関係のせいで感情のない目で微笑ほほえんでいるように見え、不気味な威圧感があった。

『あー、こちらは国際鉄道連合だ。共和国軍のスレイブニールに告ぐ』

 国鉄職員が外部スピーカーで呼びかけた。

『たとえ共和国領内の線路上であっても、国鉄所属列車の運行を妨げる行為は「国際鉄道連合憲章」によって禁止されている。目的は何か』

 ムヒトは紫色の光を漏らすバイザーを明めい滅めつさせながら答えた。

『我々共和国は国鉄の非加盟国である。よって国鉄法に従う義務はない』

『目的は何かと訊きいている。貴国と国鉄の間では特別協定が結ばれているはずだが?』

『重要指名手配犯が当該列車に乗車しているとの情報を得た。特別協定では、共和国内の路線であれば捜査権の行使が認められている。よって――』

 間かん髪はつ入れず、ムヒトの鉄腕がふるわれた。

 壁から天井にかけて車体が鉄腕に引き裂かれ、乗客たちが一斉に悲鳴を上げた。

『これより強制捜査を執とり行う』

 車内を覗き込んだムヒトに、国鉄職員が低い声で答えた。

『……承知した。では我々は国鉄憲章の「抵抗権」に則り、適切な処置に移る。国鉄所有の車両をむざむざ破壊されるわけにはいかんのでな。悪く思うなよ』

 不穏な気配を感じた乗客たちは、次に起こりうる事態を薄々と察し始めていた。

『……えー、六号車にご乗車中の皆様、大変ご不便をおかけいたします。ただいまより車外清掃ヽヽヽヽを行いますので、その場にお伏せになるかお近くの座席の下にお隠れください』

 車内は一気にパニックに陥おちいり、老婆は慌あわてて床へと伏せた。

 ある者は別車両に逃げ、ある者は座席の下に潜る中、フィーレは毅き然ぜんと座り続けている。

「あなたも早く――」

 伏せなさい、と老婆が忠告する前にムヒトの体から激しく火花が飛び散った。

 客車の後方に連結されている武装貨車のガトリング砲が火を噴ふいたのだ。

 装甲車程度ならば一瞬で紙かみ屑くずのごとく引き裂かれる弾幕を浴びたムヒトだったが、

『敵勢力からの攻撃を確認』

 火花が消えた後の白いボディーについたのは擦さっ過か痕こんのみで、ダメージは一切なかった。

 続いてムヒトの反撃。左腕をガトリング砲に向けたかと思うと内腕の装甲がスライド、中から出現した銃口が閃せん光こうを発した。

 放たれたレーザーが空を一いっ閃せん。

 炸さく裂れつ音おんが轟とどろき、ガトリング砲と思しき鉄片が頭上を飛んでいった。

「ちくしょうが! この『脳なし』野郎め!」

 武装貨車との貫通扉が開き、もあっと吹き込んできた黒煙とともに、顔や体が真っ黒こげになった国鉄職員たちが飛び出してきた。

「退避だ、退避ー‼」

 車内は騒そう然ぜんとなり、職員に続き乗客たちが隣の無事な車両へと殺到していく。混乱の中で老婆も逃げようとしたが、足腰の悪さが祟たたり、うまく立ち上がれなかった。

 レーザー銃を収めたムヒトは逃げ惑う人々に視線を走らせ、紫色のバイザーを明めい滅めつさせる。

『顔認証――該当者なし。その他熱源――』

 その顔が未いまだ毅き然ぜんと座り続けるフィーレにも向けられたが、

『――反応なし』

 なぜかスカートの中のリクが発見されることはなかった。

『ご協力感謝します。それでは皆様、よい旅を』

 最大級の皮肉を言い残し、ムヒトが捜査の目を別の車両に向けようとした時、

『ラーラーラー』

 場違いに明るい声が響き渡った。

 雑音まじりのラジオから流れたのは、老婆が先ほど間違いを指摘した民謡だった。

「あら。本当に『へっくしゅ』は余計だったのですね!」

 音の出所であるフィーレのスカートに、じろりとムヒトのバイザーが向けられる。

『そこのご令れい嬢じょう、お立ちください』

「……あらー?」

 しばらく目を泳がせていたフィーレだったが、『お立ちください』と催さい促そくされ、スカートを気にしつつ渋々と立ち上がった。

『失礼ですが――スカートをめくっても?』

「このスケベめ」

 轟ごう音おん。

 フィーレに向けてムヒトの鉄拳が振り下ろされた。

 辺り一面が衝撃でぐちゃぐちゃになり、粉ふん塵じんが舞った。

「あ……」

 何の躊ちゅう躇ちょも猶ゆう予よもなかった。

 目の前で突如もたらされた死に、老婆は床に伏せたまま愕がく然ぜんとするしかなかった。

 無事かどうかなど、確かめなくてもわかる――

「フィーレ!」

 ……はずだったが、粉塵の中から少年の甲高い声がした。

「人前でスカートにぶち込むとはどこまで僕を辱はずかしめるつもりだ⁉」

 呆あっ気けに取られる老婆の目の前で、粉塵が晴れていく。

 そこにはスカートの下から頭を出しているリクと、

「リク。フィーレの衣装には対赤外線コーティングが施ほどこされているのをご存じでは?」

 ムヒトの巨大な拳を頭にのせたヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽフィーレが立っていた。

「そもそも見つかったのは、リクのせいですよ?」

「うるさい、勝手に音を出したラジオが悪いんだ!」

 キュイイ、とムヒトの紫色のバイザーが光る。

『声紋および顔認証完了。重要指名手配犯リク・アイナル・ナンセンを発見』

「指名手配……? あ、あなた、いったい何をしたの」

『国家反逆罪および逃走罪、危険物等所持違反』

 冗談みたいな罪状をつらつら答えるムヒトを、「だってさ」とリクがくいっと親指でさす。

 そんなスカートから顔を覗かせるリクを見み据すえてムヒトが言った。

『そして公然わいせつ罪』

「それは濡ぬれ衣ぎぬだ」

「ですって、リク」

「危険物は黙ってろ」

「誰が危険物――」

 言い返そうとしたフィーレの頭に再び鉄拳が振り下ろされた。

 が、強烈な金属音とともにフィーレの頭に弾かれた。

『……?』 

 理解不能、と言いたげにムヒトは拳をゆっくり上げてから、もう一撃。さらにもう一撃。

「――誰が危険物ですか! こら、まだスカートの中から出てはいけません」

 拳が下ろされるたびに巻き込まれた車両の窓枠がひしゃげ、座席は砕け、天井が崩れる。客車はほぼ床が残るだけの半壊状態になっている。

「やめろ、足で挟むな!」

 ムヒトの鉄拳が何度も振り下ろされても、彼女は傷ひとつなく平然と立ち続けている。

 逆に殴るたびにムヒトの機械の手がボロボロと砕けていき、まるで地面に刺さる釘を人間が素手で叩いているみたいで痛々しい。

 やがてムヒトはしびれを切らしたのか、背面ラックからやや乱暴にSNスレイブニール用のアサルトライフルを引き抜き、銃口をフィーレに突きつけた。

「お静かに願います」

 発砲。そして今まさに銃口から放たれた弾を――少女が拳で殴り返したヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ。

 銃口へと帰っていった弾丸が、銃を内側から一瞬で破壊してみせると、衝撃でムヒトは仰のけ反ぞり、弾だん倉そうの銃弾が宙へとばらまかれた。

 降り注ぐ銃弾の中で、フィーレは「デコピン」の構えで手を伸ばすと――目の前に落下してきた弾丸の尻を中指で弾いてみせた。

 雷管に衝撃が走り、薬きょう内が発火。

 空中で放たれた弾はムヒトのスリットを精確に撃うち抜き、巨人の体が内部から爆発した。

 火柱と黒煙を激しく噴き上げながらムヒトが崩れ落ちていく。

 ……自分は夢でも見ているのだろうか。

 少女が、それも生身で人型兵器を倒してみせるなんて。

 フィーレの目が、スカートから出ようともがくリクに再び向けられた。

「まだ中にいてください! 周囲の安全が確認できていま」

 直後、その側頭部を外から高速で飛来した何かがぶっ叩いた。

 遅れて響く発砲音。

 列車を見下ろせる山さん稜りょうに、膝ひざ立だちでスナイパーライフルを構えるムヒトの姿があった。

 そのバイザーは殺意を示すように、禍まが々まがしい赤に光っている。

 一方、人体など容易に引き裂くライフル弾が頭に直撃したというのに、

「……腕のいいスナイパーですね」

 フィーレは傾げていた首をコキンと鳴らして戻しただけで、その顔には傷一つない。

 ムヒトのライフルがまた光った。

「さて困りました」

 少女はさして困った風もなく、飛来した弾を平手で払いのけた。

「フィーレにはあの敵への対抗手段がありません」

「ならできることは一つだ。さっさと逃げるぞ」

 スカートから這はい出したリクは、埃ほこりと塵ちりにまみれた服を払いながら言った。

「わかりました」と付き従おうとしたフィーレだったが、 

『……ラーラーラー……』

 ふとその目が、リクが手元に抱えたままだったラジオへと吸い寄せられた。

「――そうでした。ここにはあなたがいましたねヽヽヽヽヽヽヽヽ」

「フィーレ?」

「リク。突破口を見つけました」

「おい、まさか……」

 リクからラジオをひょいと摘つまみ上げ、中からHLを引き抜いた。

「心優しい『彼』がフィーレに伝えているのです。ここにいる人を見捨てるな、と」

 弱々しかった水色のHLの光が、パチッと明めい滅めつする。

「そんなものに構うな、ただのノイズだといつも言ってるだろ!」

「おばあさん」

 未いまだ状況を飲み込めていない老婆にフィーレは微笑ほほえんだ。

「な、なにかしら?」

「少しの間、お孫さんの手をお借りします」

「……え?」

 言うなり、フィーレは自身のうなじの辺りにHLをあてがった。

 ――そこからの光景は、やはり老婆にとって現実離れしたものだった。

 フィーレの銀ぎん白はく色しょくだった瞳が水色に輝き、その全身から閃せん光こうが迸ほとばしったのだ。

「一期一会は紙一重」

 彼女のショートヘアだった髪は、腰まで届く水色のおさげ髪に変へん貌ぼうし、

「あなたが想像する大きく優しさに満ち溢あふれた御手おてを創造します――ウォルフ!」

 バックオープンのワンピースで剥むき出しだった背中から生えたヽヽヽものに、老婆は目を奪われた。

 それは上等なカーテンのように。

 それは舞踏会で揺れるドレスのように。

 空にたゆたう、水色の光の翼だった。

「オーロラ……?」

 フィーレの背から一対のオーロラの翼が生まれ、辺りを水色の光で満たしていた。

 そこに再びムヒトが発砲。

 フィーレのオーロラの翼が揺らぎ、形状が変わる。

「《フェンリルの孫の手》」

 凶悪な速度で飛来した弾丸は、フィーレに到達することなく弾かれてしまった。

 弾を防いだのは、大樹のような腕であった。

 あるいは金属のシェルター。

 あるいは誰かを守るための盾。

 オーロラの翼は巨大な一対の機械腕に化け、乗客ごと客車を守っていたのだ。

 ムヒトの射撃の間かん隙げきを縫ぬい、フィーレは防御の姿勢から機械腕を展開。

 途と端たん、金属がひしゃげる音と大きな振動。

 機械腕が青天井に掲げてみせたのは、連結されていたはずの武装貨車。パンでもちぎるかのように軽々と列車から引きちぎったそれを、ムヒトめがけてぶん投げた。

 弾丸列車と化した貨車は一瞬で目標に到達し、巨大な質量がまともに直撃したムヒトは貨車ごと山の向こうへとふっ飛んでいった。

「おばあさん、立てますか?」

 ムヒトが轟ごう音おんとともに消えていくのを唖あ然ぜんと見ていた老婆は、フィーレの声に我に返った。

 老婆に手を添えて立ち上がらせた彼女の体には、オーロラの翼も機械の腕もなく。

 髪は元のショートヘアに、瞳は銀白色にそれぞれ戻っていた。

「……さっき『さっさと逃げるぞ』と言ったよな?」 

 そのフィーレの背後に、リクが恨みがましい目で立っていた。

「誰が列車をぶん投げろと言った」

「ごめんなさい。他に投げるものといったらリクの石頭ぐらいしかなかったので」

「なんだと⁉」

「とにもかくにも、逃げ遅れた乗客たちの安全が守られたのは事実です。無関係な人々が巻き込まれるのはリクにとっても本意ではないでしょう?」

 リクは「ふん」と鼻はな白じろみながら、床に転がっていたバックパックを拾った。

「なら他のお客様のご迷惑にならないように今度こそ逃げるぞ。これだけ騒いだんだ、『アトランティス級』がやってきてもおかしくない」

 リクが歩き出すと、フィーレは手の平にのせていた水色のHLを老婆に差し出した。

「こちらをお返しします。大事なお孫さんの、ですよね?」

 半なかば放心したまま老婆はHLに手を伸ばそうとしたが、

「あの……さっきの大きな腕は、このHLのおかげなの?」

 自分を包み込んでくれたあの腕が頭をよぎった。

 妙なことを訊きいていると自分でも思ったが、「その通りです」とフィーレは笑顔で頷うなずいた。

「あの《フェンリルの孫の手》はこのHLから生まれた力です」

「……」

 正直、目の前で何が起こったのか理解が追いついていないし、軍から追われているというこの姉弟きょうだいは胡う散さん臭くさくて仕方ない。

「なら連れていってあげて」

 だけど、思わず老婆はそう言っていた。

「あの腕がこれからも誰かを守る力になるのなら、ね」

 フィーレから生えたオーロラの翼が、たとえ老婆が見た幻覚であっても。

 自分を包み込んでくれた時の手の温もりは本物だと思ったから。

「あなたや誰かの役に立てるのなら、連れていってあげて」

「ですが、このHLはお孫さんの……」

「だからよ。田舎で老い先短い私に付き合わせるのはかわいそう」

 老婆は目を丸くしていたフィーレの手を包み、HLを握らせた。

「きっと、あなたたちと一緒に旅をしたほうが楽しいわ」

 しばしためらっていたフィーレだったが、

「――ありがとうございます」

 相変わらずの型にはまったような笑顔を浮かべながら、丁てい寧ねいにお辞儀をした。

 だが気のせいだろうか。

 その笑みは先ほどまでの無機的なものではなく、どこか優しいものに感じられたのは。

「ばあさん」

 突然目の前に飛んできたものを老婆は慌ててキャッチした。

 リクが持っていたラジオだ。

「それ、返すの忘れてた」

「でもHLがないし、これもあなたたちが持っていって」

「いらないよ、そんな手回しハンドルが付いているような安物ラジオ。荷物になる」

「ハンドル?」

 リクはそれ以上何も言わず列車から線路に飛び降りると、フィーレとともに去っていった。

 手元のラジオを見ると、確かに小さなハンドルが本体に収納されていた。

 それを引き出し、試しにぐるぐると回し始めると、

『……さて続いてのリクエスト曲は……』

 ラジオが再び口を開いた。

 こうしてハンドルを回すことで電気が流れてラジオが聞けるらしい。リクの一言がなければ、ハンドルの存在に気づかなかっただろう。

 綺き麗れいなピアノ曲が流れ出したが、老婆の弱い力ではすぐに電気がなくなってしまう。

 老婆は微笑ほほえみ、手を止めた。

 これはいつか天国に行った時に、孫の手で回してもらうとしよう。 

「あら、そういえば」

 老婆はふと疑問に思った。

 さっきフィーレが口にした名――『ウォルフ』

 自分は一度でも彼らに、孫の名前を教えたことがあったろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

一章 星空の食卓

 

 かつて一度だけ、首都の高級ホテルに宿泊したことがあった。

 ホテルのロビーに足を踏み入れた瞬間、「上品さ」というものを凝ぎょう縮しゅくした香りがさわやかに鼻を駆け抜け、肺を心地よく満たしてくれたのを覚えている。

 ハーブか、それとも柑かん橘きつ類るいだったのか。

 匂いの正体は今でもわかっていない。

 

 そのホテルの香りがリクの体を優しく包み込んでいた。

 眠りから醒さめたものの体がだるく、すぐにはまぶたを開けられない。

 なぜか全身がずぶ濡ぬれだ。寒さで凍える体を誰かが抱きしめてくれている。

 ゆっくりと目を開く。すると、

「――⁉」

 瞳を閉じたフィーレの顔が迫っていた。

 慌あわてて互いの顔の間に手を滑すべり込ませ、唇同士の衝突を回避する。

「あら。起きましたか、リク」

「何をするつもりだった」

「目覚めのキスをぶちかましてやるつもりでした」

「本当に何をするつもりだった」

「これはれっきとした人命救助です。列車から逃げた後のことを覚えていますか?」

 よく思い出せない。線路に沿って歩いていたと思うが。

「鉄橋を渡ろうとした際、リクが足を滑らせて川へと落下しました。そこでこのフィーレが着水寸前にリクを華か麗れいにキャッチし、衝撃からお守りしたわけです」

 首を巡らすと確かに傍そばを川が流れていた。

 山の急斜面に沿って流れるその川はほとんど滝に近く、上流の様子は窺うかがえない。

 ……徐々にだが気を失う前の記憶が戻ってきた。

 鉄橋から足を滑らせたことも。そもそもの原因が、「橋の上は危険」とお姫様だっこを強行しようとしたフィーレから逃れようとしたせいだったことも。

「それで一緒に流されている間に、僕は溺おぼれかけたわけか」

「ええ。よってキスです」

「さっきから何を言ってるんだ」

「要救助者が昏こん睡すい状態の場合に有効な手段です。過去にも、りんごの毒にあたって顔面が雪のように蒼そう白はくになった姫を王子がキスで蘇そ生せいさせた事例がございます」

「絵本を参考文ぶん献けんにするな。溺れた人間にするのはキスじゃなくて人工呼吸だ」

「すばらしい。リクは医い療りょうについても博識なのですね」

 この程度で賞賛されるのは何だか癪しゃくに障さわるが、内心少し得意気になる。

「ああ。僕はハイムリック法や間接圧迫止血法についても知見があるからな。いいか、人工呼吸の時は相手の顎あごをくいっと上げて、まずは気道を確保してから口をつけるんだ」

 だからこれはただのハレンチ未み遂すいだ、と伝えようとしたのだが、

「なるほど。以前、街中で美男子が女性に『顎をくいっ』としているのを見かけました。白昼堂々、粋いきな野郎どもだと思いましたが、あれも人命救助だったのですね」

「それは愛に溺おぼれてるだけだ。わかったならさっさと」

 どけ、と言う間もなくフィーレはニコリと笑い、

「さっさと実践してみますね」

 ためらうことなく唇を重ねてきた。

「~~~~⁉」

 小さなリップ音を立て、口を離す。

「こうでしょうか?」

「ち、違……」

「失礼しました、気道確保が先でしたね」

 顎をくいっとされ、再び口が塞ふさがれる。味気のない冷たい唇の感触にぞっとする。

「むぐぐぐ」

 しかも気道確保から先を教えてないので、単に息の根を止めてくるだけの行為に命の危機を感じたリクは、火事場の馬鹿力でどうにか彼女の唇を引き剥はがした。

 よく晴れた秋の空を背景に、フィーレが見下ろしてくる。

「いかがでしたか?」

「僕に何の恨みがあるんだ」

「恨みだなんて。フィーレはただリクへの愛に溺れているだけです」

「勝手に一人で溺れてろ。いいからどけ、さっきから重いんだよ!」

「フィーレの愛がですか⁉ いやぁ、参りましたねぇ」

 照れた隙にリクは拘束から這はい出した。

 どこかの山中か、川の周りは森に囲まれ、辺りの様子もよくわからない。どこまで流されてしまったのだろう。あまり線路から離れてなければいいが。

 憔しょう悴すいして座り込んでいると、肩をトントンと小こ突づかれた。

「今度は何の用……っ?」

 ぶちゅううう。

 振り返った途と端たん、また一段と激しく唇を奪われた。

 しかし今度の相手はフィーレではなかった。

「メェェ」

 ヤギ、だった。

 強烈な獣臭さに鼻を突き刺され、リクは涙まじりの目をひん剥むいた。

 黒目が「-」の形をした瞳に灰色の毛並みのヤギは、蛇に睨にらまれた蛙状態で固まっているリクの頬ほおをしきりに舐めている。

 そんな珍客を「あらあら」とフィーレは興味津々に眺めている。

「こらー戻ってきなさい! エリザベス!」

 少女の声がした。

 少し離れた所に、赤髪を二本のおさげに結ゆった女の子が立っていた。

 リクより少し年上に見えるその少女は、白のブラウスに赤のコルセット、そしてスカートを組み合わせた格好をしていた。恐らくこの地域の装しょう束ぞくなのだろう。 

 リクと目が合うと、少女のそばかすが目立つ頬がぼっと赤くなった。

「ご、ごごめんなさい! お楽しみのところ、お邪魔しましたぁっ!」

 呼び寄せたヤギを引き連れ、少女は何度も頭を下げながら山林の中へと消えていった。

 ……お楽しみ?

 まさか、今の誤解しか生まれないやりとりをずっと見られていたというのか⁉

「フィーレ、あの女を追うぞ」

「目撃者は生かしておけないというわけですね」

「そうだ――いや違う。ついていけば、村か街にでも出られるかもしれないだろ」

「さすがリク。名案です」

 すっかりずぶ濡ぬれになったバックパックを急いで背負い、後を追って山林の中に入っていくと、やがて小しょう径けいに出た。

 むせるような濃い緑の匂いにまじり、かすかに煮に炊たきの匂いがどこからか漂ただよってくる。

「リク、蒸気の音が聞こえます」

「汽車か? もしかしたら駅があるかもしれない」

 よかった、それほど線路から離れていなかったようだ。弾む足で小径を駆けていく。

 開けた場所に出ると、簡易的ではあったが確かに駅があった。

 ただ掘ほっ立たて小屋みたいな詰め所があるほかは、駅舎どころかホームもない。本線と、行き違い用の線路が敷しかれていて、そのうちの一本には列車が停車していた。

 その列車もさっきまで乗っていた国鉄正規列車とは違い、連結されている客車は高さも長さもバラバラで、車体のあちこちが黒ずんだり塗と装そうがひび割れたりしていた。

 乗客たちも負けず劣らずくたびれていて、ある者はガラスがない窓から虚こ空くうを眺め、ある者は連結された無む蓋がい貨か車しゃの上でテントを張って煮炊きをしていた。

 詰め所に行くと、窓口では駅係員が退屈そうに座っていた。

「あそこのキャラバン列車はどこに向かうんだ?」

「ああ? あれは首都方面行きだよ」

 係員がめんどくさそうに答える。

「国境方面に向かう列車は?」

「当分ねぇよ。さっき指名手配犯の捜査やらで、スレイブニールがあちこちでめちゃくちゃしやがってな。車両や線路が復旧せんかぎり、国境行きも首都方面行きの列車も動かねぇよ」

 最悪だ。別の列車に乗り換えるべく、どこか駅にたどり着くまで線路に沿って歩いていたのだが、まさか路線まるごと運行休止になっていたとは。

「ま、半月か一ヶ月もありゃあ動くんじゃねぇのか」

「そんな……」

 半月? 一ヶ月? 

 冗談じゃない。

 ようやく在あり処かがわかった『落とし物』が、いつまでも同じ場所にあり続けるとは限らない。

 少しでも早く向かわなければ永遠に回収できないかもしれないのに、そんな状況でのんびり一ヶ月も待っていられるか。

 詰め所を出たリクに、列車の破壊活動に一役買ったフィーレが声を掛けた。

「元気出してください」

「忌いま々いましい女め」

「褒ほめ言葉だと受け取っておきます」

「受け取るな。反省しろ。……まったく、これからどうすればいいんだ」

「それよりもまずは濡ぬれた服を乾かしましょう」

 ここで寝泊まりして列車が奇跡的に復旧するのを待つか、別の駅を自力で目指すか。

 しかし話を聞く限り、線路沿いを進むと捜査中の共和国軍に鉢合わせする危険がある。

「リク、聞いていますか? そのままでは風邪を引きます」

 もしくは列車以外の手段……

「リク――危ないですよ」

「メェー」

 ドゴォッ、と何かが脇わき腹ばらに突っ込み、「なにごとぉ」とリクは地面に転がった。

 地面に倒れたリクの髪を、灰色のヤギがむしゃむしゃ噛かんでいる。

 ……見覚えがある。さっきのエリザベスとかいうヤギだ。

「ご、ごめんなさい! おケガは……あれ?」

 パタパタと駆け寄ってきた赤髪の少女にもやはり見覚えがあった。

「あなたたちはさっき、情熱的に愛し合っていた……」

 考えうる限り最悪な覚え方をされていた。

 フィーレがぺこりとお辞儀をする。

「こんにちは、もしかしてこの辺りにお住いの方ですか?」

「あ、はい。この近くの『ヨルンヘイム』ていう村に住んでいます。私、ヤギを飼っていて、駅に生えている草を時々食べさせてあげているんです」

 よく見ると駅の周りにはヤギが数頭たむろしていて、思い思いに草を食はんでいた。

「ああすると駅の草刈りにもなるんですよ。お二人はどちらから来られたんですか?」

「首都です。国境方面に向かっている最中だったのですが」

「首都。……首都って、あの『星の街』から来られたんですか⁉」

 少女は途と端たんに顔を輝かせた。

「あ、ごめんなさい! 私、『星の街』の人に会うの初めてで、つい興奮しちゃって……あの、私、カリナって言います」

「フィーレです。よろしくお願いします、カリナ」

「フィーレ……さん? 珍しい名前ですね」

「よく言われます。こちらは弟のリク」

「二人は姉弟きょうだいだったんですか⁉ す、すごい、都会の姉弟ってキスするのが普通なんだ!」

「違う! あれは川で溺おぼれかけて介抱されてただけだ」

 リクはエリザベスに舐められながら抗議する。

「へ? そうだったの? そういえば二人ともずぶ濡ぬれだね」

「ええ。リクが風邪を引くといけないので、どこかで焚たき火びでもしようかと」

「――あ、じゃあ私の家に来なよ!」

 思わぬ提案に、リクとフィーレは目をパチパチさせた。

「そんなに大したおもてなしはできないけど、ほら、暖だん炉ろもあるし。服を乾かす間、よかったら『星の街』のお話をいっぱい聞かせてもらえたらなぁって」

「遠えん慮りょす――」

「よろしいのですか⁉」

 即答しようとしたリクに代わり、フィーレが答えた。

「うん。私、一人暮らしだから気兼ねしないで」

「ありがとうございます。それではお言葉に甘えさせてもらいますね」

「フィーレ!」

「どーぞどーぞ。ヤギたちを呼んでくるから、ちょっと待っててね」

 カリナは駆け出し、パチン、パチンと指を鳴らしてヤギたちを集め始めた。

 リクはエリザベスにかじられながらジロリとフィーレを睨にらみ上げる。

「勝手に話を進めるな」

「水に濡れて体力が弱った今、体を休めるのが最優先です。どのみち焦っても列車は動きませんし、たまには遠回りも必要なんです」

 前触れもなくフィーレはその場で手足をウネウネしだした。

「何のつもりだ」

「『急がば踊れ』です。遠回りの徳を説といた極東の格言だと聞いています。その民族には、生きた魚を踊りながら食べる『踊り食い』という習慣もあるとか」

 フィーレのおぞましい姿に、遠回りしても絶対に極東には行くものかと心に決めた。

「お待たせー。……あははっ、フィーレさん、何してるの!」

「急がばダンスです」

「へぇ! 都会の人って、奇きっ怪かいな踊りを嗜たしなむんだね!」

 私もー、と踊る二人の周りをヤギたちがメェメェぐるぐる歩いている。

「踊ってないで、飼い主ならさっさとこいつを何とかしろ!」

 地面に突つっ伏ぷしたままのリクの背中に、エリザベスが座ってくつろいでいる。

「ああ、ごめんごめん! 珍しいねぇ、エリザベスは普段人見知りするのに」

 憤ふん慨がいするリクを、エリザベスが感情の読めない目で肩越しに覗き込んでくる。その威圧感に、リクは地面に突っ伏したまま腰が引けてしまう。

「うーん。この調子だとリクにくっついて離れないかもだね」

 リクの顔から血の気が引いた。

 ヤギは写真でしか見たことがなかったがこんなに大きいとは思わなかった。そんな図体で、しかもいつ頭突きをかましてくるかもしれない生物が野放しでついてくるだと?

 そんな胸きょう中ちゅうを見み透すかしたように、カリナは言った。

「リクが家までついてきてくれたら、エリザベスを小屋に入れられるんだけどね」

 

「へぇ、リクは十二歳なんだ。私の二つ下だね」

 ヤギを引き連れながら、カリナは小枝に串刺しにしたラズベリーをかじっていた。

 ベリーは道みち端ばたに自生していたものだ。リクも勧すすめられたが見た目が野や蛮ばんすぎて断った。そんなものを欲しがるのは周りを歩くヤギたちとフィーレくらいだ。

 カリナはおしゃべりしながらしきりに隣に並ぼうとしてくるが、自分より頭一つ分高い位置から見下ろされたくなくて、リクはそのたびに足を遅めた。

 途中、文字通り道草を食うヤギもいたが、パチン、とカリナが指を鳴らすと素直に群れに戻ってくる様子にフィーレが感心して言った。

「この地域ではそうしてヤギを飼っているんですねぇ」

「あー、これは多分私だけ。こうして指を鳴らすと、言う事聞いてくれやすいんだ」

 パチン、パチンと乾いた音が響く。指鳴らしは親指と中指を弾いて鳴らすものだが、カリナのは中指の代わりに薬指を使って鳴らす、ちょっと変わったスタイルだった。

 その指先をぼんやり眺めていると、腹が盛大に鳴り、慌あわてて押さえた。

「あはは、お腹空いたねー」

「違う。これは持病の発ほっ作さだ」

「人間みんな持ってるやつだよ」

「恥ずかしがることはないですよ、リク。お腹が減ることは料理がおいしくなる秘ひ訣けつです。ほら、『空腹は負のスパイラル』と言うでしょう」

「悪いことしかないじゃないか」

「フィーレさんは『空腹はスパイス』て言いたいの?」

「そうとも言うかもしれません」

「あはは。晩ご飯が楽しみだねぇ。運がよければサーモンやエビが食べられるかも」

 サーモン? こんな山のどこで海産物が獲れるというんだ。遠く離れた海から生鮮食品を運んでこられるような物流システムはほとんど崩壊しているのに。

 リクが訝いぶかしんでいると、「見えてきたよ」とカリナが前方を指さした。

 森が開けた先には湖があった――と最初は思った。

 だがその正体は、U字になった谷間を流れる巨大な川だった。

 ぐねぐねと曲がりくねった川の幅は数百メートル、いや、数キロはあるだろうか。

「大きい川ですね!」

「川に見えるでしょ。でもこれはフィヨルド。じつは海なんだよ」

 カリナは誇ほこらしげに言った。

 フィヨルドとは北欧の言葉で「入り江」という意味だ。

 入り江を形成する山々は緩ゆるやかな斜面もあれば、場所によっては垂直に削り取られて崖がけのようにせりたっている所もある。標高も高く、麓ふもとは緑豊かだが頂上付近に木々の類たぐいはない。まるで緑のスカートを穿はいたような岩山と青い空を、入り江の水が鏡映しにしている。

「大昔に氷河が大地を削って生まれた景色らしくて、このフィヨルドはずーっと先の外洋までつながってるんだよ」

「外洋まで……」

「ほら、あそこに見えるのがヨルンヘイムの村」

 その入り江の末まっ端たんともいえる場所をカリナが指さした。

 海沿いの平地や山沿いの斜面に小さな家屋がちらほらと建っていて、村の中心部と思われる辺りに鉄筋コンクリート製の建物が一軒あった。

「あそこは村役場。国鉄の運行情報が気になるなら、村で唯一のラジオがあるから行ってみるといいよ。村長の許可さえもらえたら聞かせてもらえると思うし」

 村役場以外は木造の民家ばかりだった。外がい壁へきは赤や黄といったファンシーな色で塗ぬり分けられていて、今にも家の中から妖精でもひょっこり現れてきそうだ。

 カリナの家は村外れにあり、緩ゆるやかな山の斜面に沿って建っていた。

 カリナは隣の小屋にヤギたちを帰すと、二人を家の中に案内した。

 家のどこにも電灯がないのを見て、リクは文明の利器に期待するのを早々に諦めた。

 少し大きな街なら、国から配給されたHLによって最低限電気が灯る暮らしは保障されていたが、地方の村ではそのHLの恩恵に与あずかかれないのも珍しい話ではない。

 カリナはリビングの暖だん炉ろに小さめの薪まきを手際よく並べ、そこに衣類の切れ端を炭たん化かさせたチャークロスを置き、火ひ打うち石いしをカツカツ叩いた。

 やがて火花がチャークロスに引火すると、木くずから小さな薪へと燃え移っていき、「パチ、パチ」と乾いた音がする頃には部屋が暖まり始めていた。

 リクが火に手をかざしていると、フィーレが暖炉の光を爛らん々らんと見つめながら言った。

「暖炉ですね、リク」

「見ればわかるだろ。暖炉があるだけこの家は上等な部類だ」

「すばらしい。以前までのリクなら『電気がない!』、『シャワーからお湯も出ないのかこの宿は!』と人前でわめいていたのに」

「そんな子どもじみたことしてないだろ。僕は感想を率直に言っただけだ」

「とにかくご厚意に与ったのです。カリナに失礼な物言いはいけませんよ」

 リクはフィーレの物言いに顔をしかめた。

「……? ここに来るまでに何か悪いものでも食ったか?」

「いえ?」

「お前、そんな面倒なことを言うやつじゃなかっただろ」

 リクが今までに「率直な感想」を言った時も、フィーレは「ええ」だとか「その通りです」と頷うなずくだけだった。この違和感はなんというか、

「面倒とはなんですか! 互いに気遣い、感謝しあうことは人として当然なのですよ?」

 なんというか、口うるさくなった。

「これこそが『優しさ』……フィーレは列車でのおばあさんとの交流で学んだのです。だからリクも自分勝手に物を申してはいけませんよ?」

「うるさいな。だいたい電気や温水がないくらいでわめくなんて子どもかよ」

 リクが鼻はな白じろむと、台所からカリナが顔を覗かせた。

「裏のタライにお湯ためといたよー。ちょっと寒いけど、体はそのお湯使って拭ふいてね」

「ありがとうございます。ささ、お湯で体を清めましょう……リク?」

 リクは唇をわななかせ、言った。

「この家にはシャワーもないのか!」

 

 裏口から出ると、もうもうと湯気を上げる大きなタライがあった。

 ここは建物の陰かげになっているので、人目に触れることもなさそうだ。

 濡ぬれた服を脱いでハーフパンツ一丁になる。外気にぶるりと震えつつ、お湯に浸ひたしたタオルで体を拭ふこうとしたところで、「りーく」と肌着姿のフィーレが現れた。

「お背中流しますよ」

「そのくらい自分でやる。中で待ってろ」

「遠えん慮りょなさらず」

「遠慮しろと言ってるんだ。前の宿ではヤスリがけみたいにゴシゴシやりやがって。あれからしばらく服を着るのが地獄だったぞ」

「いけなかったんですか⁉ 人の成長には『一皮剥むける』必要があると聞いていたので、脱皮のお手伝いをしようと試みたのですが……」

「本気で皮を剥くつもりだったのか!」

 こんな危険物と一緒でよく今まで命が無事だったものだ。首都を脱出する前に危険物取扱いの資格をきちんと取っておくべきだった。

「リクー。濡れた服、暖だん炉ろで乾かそうと思うから――」

 唐突に裏口からカリナが現れ、リクは反射的に前かがみになり上半身を隠した。

「わ、わわ! ごめん、もうお湯浴びてると思ってなくて!」

 慌てたのはカリナも同じらしく、その声は上ずっていた。

「な、何の用だ⁉」

「え、えと、今のうちに濡れた服、預かるよ。暖炉で乾かすから」

「服ならそこに置いてある」

 目を逸そらしたまま濡れた服を指さすと、「あ、あはは、ごめんね。着替え置いとくからー」とカリナはリクの服を回収し、家の中へと引っ込んでいった。

 どぎまぎしつつ、リクは濡れタオルで体を拭こうとしたが、

「やはりお背中流します!」とフィーレがタオルを奪い取った。

「何のつもりだ。寒いんだからさっさと拭いて中に戻りたいんだよ」

「今のカリナみたいにフィーレも世話を焼きたいのです」

「は?」

「弟に世話を焼くのは『お姉ちゃん』の役目ですから!」

 ムフー、と得意気に胸を張るフィーレ。

「そもそもリクはいつになったら、フィーレを『お姉ちゃん』て呼んでくれるんですか?」

「フィーレはフィーレだろ」

 タオルを奪い返しながら言ったリクに、フィーレは「むぅ」と頬ほおを膨ふくらませた。

 またこれか、とリクは呆あきれた。

 人前では品行方正なフィーレだが、なぜか『姉』であることに強いこだわりを持ち、リクの世話ができるとなると急に人が変わるのだ。不具合の多い危険物だな。

 呆あきれるリクの背中に、冷たい肌とクッションのように柔らかいものが二つ押しつけられた。

 高級ホテルの香りが強くなる。

 フィーレの細い指先が、リクの心臓辺りにある傷跡を撫なでた。

 ズキリとした。

「……ッ」

「胸の傷、まだ痛みますか」

「……少し」

「早く治るといいですね」

「一生治らないさ」

「いいえ、きっと治ります」

「もし治るとしたら」と、リクは暗い気持ちで言った。

「『落とし物』を取り返して、すべてを終わらせてからだ」

「ならそれまできちんとお供します。そのためのフィーレですから」

 ぎゅううと抱きしめる力が強くなった。

「……ところでリク。フィーレはスタイルがそれなりに良いほうだと自じ負ふしています。少なくとも、十六~十八歳の女性の平均値よりは上回っているはずです」

「だから?」

「こうしてくっついて、リクは興奮とかしてくれないんですか?」

「するわけないだろ」

「さっきはカリナに裸を見られて興奮していたじゃないですか」

「は⁉ そ、そんなわけないだろ!」

「してました! 何でカリナよりもスタイル抜群なフィーレには興奮しないんですかー?」

「……フィーレはお姉ちゃんなんだろ」

「へ? ……は、はい! フィーレはリクのお姉ちゃんです!」

 歓喜するフィーレに、リクは勝ち誇ほこった顔を向けた。

「ならあいにく、身内には興奮しない」

 ぶぅ、とフィーレは再び頬ほおを膨ふくらませ、ようやく体を離してくれた。

 すっきりした気分で体を拭ふいていると、玄げん関かんからしわがれた声が聞こえてきた。

「カリナ。帰っているのか」

「あ、ヨハンおじさん! こんな時間にどうしたの?」

「いきなりで悪い。すまんが、今夜から明日まで孫を預かってくれないか?」

「いいけど、どこかに出かけるの?」

「列車がしばらく運休になると聞いた。復旧がいつになるかわからんから、今夜のうちに街まで船で買い出しにいっておきたくてな」

「そうなんだ……気をつけてね」

「礼といっては何だが。お前の大好きなサーモン、養殖場からとってきてやる」

「いいの⁉ ありがとう! ちょうどお客さんが二人来ててさ、助かるよ。……その、育ち盛りの、お、男の子もいるし」

「……風邪でも引いたのか? さっきから顔が赤いぞ」

「え⁉ あはは、なんでだろうね、あはは!」

「? じゃあ行ってくる。……ああそうだ、カリナも注意しておけ。さっきこの辺りで、ビョルネが出たと聞いた」

「え、お父さんが⁉」

「……『熊ビョルネ』だ。お前の父なら真っ先に家に帰ってくるだろ。戸締りには用心しておけ」

「わ、わかった。じゃあ気をつけていってきてね」

 物もの陰かげから覗くと初老の男が去っていくのが見えた。

 それを確認したリクは着替えを取り、体もろくに拭ふかないうちに袖そでを通していく。

「何をするつもりです、リク!」

「街に行くと言っていた。あの人の船に乗せてもらう」

「無茶ですよ。ちゃんと体を拭かないと湯冷めします」

 通せんぼするフィーレに、「お前は僕のお母さんか」と言いかけたリクはピンと閃ひらめいた。

「なぁ頼むよ」

「いいえ。何を言われようとフィーレは」

「……お姉ちゃん」

 ずがーん、と雷のような衝撃がフィーレに走ったようだった。

「おねえ……ちゃん? あのリクが、とうとうフィーレを『お姉ちゃん』と⁉」

 両りょう頬ほおに手をあて、くねくねと身をよじらせる。

「うへへぇ、そうです、そうなのです。フィーレはリクのお姉ちゃんなのですぅ」

 フィーレが悶もん絶ぜつしている間、リクはとっくに駆け出していた。

 アホだあいつは。有史以来の大アホだ。

 カリナの家を飛び出し、おじさんの後を追うリクの足は軽快だった。

 行先は知らないが、少しでも早く目的地に近づけるなら何でもいいし、休むにしても、こんなシャワーすらない村からさっさと出ていけるならそれに越したことはない。

 交渉次第では外洋まで船を出してもらい、大きな街まで運んでもらえる可能性もある。

 あれこれ先のことを考え、しばらくリクは意い気き揚よう々ようと駆けていた。

 だが、徐々にその足から勢いが抜けていった。

 外は真っ暗だった。

 この辺りは高い山々に囲まれているため、日の入りも他の地域に比べて早かった。カリナの家に着いた頃には夕焼けだった空も、今はすっかり星々が満ちている。

 リクが生まれ育った『星の街』は一晩中電気の明かりに満ちていたが、それでも「夜は暗い」と思っていた。

 しかし正しょう真しん正しょう銘めいの夜の暗さというのは、自分の足元すら満足に見えなくなるのだ。

 辺りにはもちろん外灯はなく、遠くに見える家々の明かりもマッチの火より頼りない。

 足が完全に止まってしまった。

 自分は今、村のどこにいるんだ?

 フィヨルドの山と山の間から覗く夜空の星々が、無音できらめいている姿がいやに不気味だった。

 一旦、カリナの家に戻ることも考えたが、その家がどこにあるのかももうわからない。

 焦りと不安が荒い息となってどっと溢あふれ出てきた。

 夜風がザァザァと草むらを吹き抜けていくが、その風音に交じり、

 ガサッ――

 と明確に「何か」が動き、リクの体が緊張でこわばった。

 そいつはガサ、ガサ、と草をかきわけながらこっちに近づいてきている。

 誰だ、と誰すい何かしようとした口がこわばって動かない。

『熊が出たと聞いた』

 さっきのヨハンおじさんの言葉が頭をよぎり総毛そうけ立だった。

 リクが固まっている間にもそいつは、草をかきわけながら着実にリクに近づいてくる。

 そして、

「う、」

 一気に飛びかかってきた。

「うわあぁぁぁ‼」