ロボット・ハート・アップデート Ver.3.0 〜見上げた先にあるものは〜
序幕、「青の思い出」
窓の向こうに、晴れた空と入道雲が見える。
蝉の鳴き声が聞こえる。
だけど、今が夏だと精一杯に知らせてくるそんな蝉たちの大合唱も、閉め切られた部屋の窓ガラス越しでは遠く霞んでいるように感じた。
それに、一階のここからでは海は見えないらしい。
「――というわけで、白鳥くん。終業式では私と一緒に壇上へ来てもらっていいね?」
代わりに聞こえてくるのは空調の音と、そして目の前にいる校長先生の声だ。
ここは夏休みを数日後に控えた、小学校の校長室。
教室に戻ればクラスメイトたちが賑やかに夏休みの計画を話し合っているのだろうが、ふたりきりの校長室は静かなものだった。
僕は、この静けさが好きだ。いつか辞書で意味を知った「秩序」というものを感じる。
「はい、わかりました」
そう返事をした僕は、大人が小学六年生の子供に期待するであろう素直さで頷いてみせる。
「すべての生徒がきみのような子だったらいいんだがねえ」
そう笑った校長先生は、僕の態度に満足げな様子だった。薄茶色のスラックスと水色のシャツを着た彼の風貌に威厳はなく、どこにでもいる普通のおじさん、といった雰囲気だ。
校長先生が休み時間に僕をここへ呼び出したのは、模範的な生徒の代表として、終業式の全校集会で校庭の壇上に立ってほしいという話をするためだった。僕を引き合いに出しながら正しい休日の過ごし方を説くことで、夏休みを前にして浮ついた生徒たちの気分を引き締める狙いがあるらしい。
「僕は、壇上でなにかを話す必要があるんでしょうか?」
初めて入った校長室をなんとなく観察しながら、僕は尋ねる。校長先生と僕を隔てているのは、立派な木製のデスク。窓の両脇には、落ち着いた色合いのカーテン。床に敷かれているのは、渋すぎて茶色か赤色か見分けがつかない絨毯。僕の背後に向かい合って並べられた黒革のソファーは、来客への応対用だろうか。
壁際の本棚には学校史や教育関連の本がぎっしりと並べられていたが、棚のうちの中段あたりに一つだけ、灰色で薄型の小さな金庫が収められているのが目を引いた。
「……いや、きみは何も心配しなくていいよ。話をするのは私の役目だ」
僕の視線の動きを不安や緊張の表れと受け取ったのか、校長先生はそう答える。
つまり僕はただ、品行方正な生徒の見本品として、終業式にスピーチをする校長の小道具に徹していればいいらしかった。
そんなのただの道化じゃないか、と不満を感じる人もいるだろう。だけど、僕は悪い気はしなかった。その理由はいくつかあって、自分が模範的な生徒なのだと大人から認められたことだったり、自分が校内の空気を引き締める役割を任されたことに対する満足だったりするのだけれど、一番の理由は、校長先生が事あるごとに集会で行う講話が好きだからだった。
僕たちの通う小学校の校長は、抜群にスピーチがうまいことで有名だった。無駄に長くて眠くなるような話ではなく、簡潔でありながら道徳的かつ興味深い話の数々を聞くたびに、さすが大人の代表たる校長先生だ、と僕は思っていた。だから、そんな彼のお話の小道具として使われるのならば、なんの不満もない。
「白鳥くん、他にもなにか質問はあるかね?」
「いえ、ありません」
では結構、と頷く校長先生に、僕は一礼して校長室を出た。
廊下に出ると、途端に蝉の声が大きくなった。僕のいる小学校は廊下に空調がないせいで、窓が開け放たれているのだ。小高い山に面する北側の窓から、わしゃわしゃと蝉の鳴き声が暴力的な密度で耳に飛び込んでくる。
その窓から、かすかに湿度を帯びた外気がゆるく吹いてきた。一瞬遅れて、夏の暑さを肌が実感し始める。
汗ばむ前に早く自分の教室へ戻ろうと、僕は廊下を突き当たりまで進む。皆は冷房の効いた部屋に篭っているらしく、周囲に人の姿はなかった。
一階の廊下を突き当たりまで歩いて左に曲がると、階段にさしかかる。
六年生の教室は、三階建ての校舎の最上階だ。階段は廊下や教室よりも少しだけ薄暗く、踊り場にあるスライド式のガラス窓も閉め切られている。おそらく安全面に配慮してあるのだろうから、蒸し暑くても文句はない。むしろ、適切な措置だと思えた。
ただ、先日の台風の影響なのか窓が汚れているのが少しだけ気になった。汚れがガラスを曇らせているせいで、周囲は普段よりもいっそう薄暗い気がする。
一階から二階へ上り、そして二階から三階へ続く階段の踊り場に差し掛かったところで、誰かが窓のそばに立っていることに気付いた。
それが自分と同じくらいの背丈の子供だと気付いた瞬間、その少年は言った。
「お前が白鳥正鷹だな?」
階段の途中で立ち止まった僕に、その声はさらに続ける。
「さっき校内放送で校長室に呼び出されてた、六年一組の」
張りのある声だったが、どうやら知り合いではないようだ。
見上げる形になった僕は、頷いて答える。
「うん、そうだよ。僕が白鳥だ」
「そっか! じゃあさっきまで校長室にいたってことだよな⁉」
少年の表情は、逆光になっていてはっきりとは見ることができない。僕は光の角度を変えようと思い、踊り場までそのまま上って少年の目の前に立った。
「うん……確かに校長室にいたけど、それがどうかしたの?」
ようやく、少年の表情が見えるようになった。
窓から差し込む陽光に照らされた少年の顔は、大きな目がきらきらと輝いていて、今まさに宝物を見つけたというような表情をしていた。
「じゃあお前、校長室であれを見たんだろ⁉」
――あれ?
ひどく説明不足の言葉に、僕は眉をひそめる。それに、目の前の少年はまだ名前すら名乗っていない。三階に続く踊り場にいたことや、僕への言葉遣いから推測すると、おそらく僕と同じ六年生なのだろう。最上学年生に必要な分別として、初対面の人間への挨拶くらいはわきまえて欲しかった。
「あれ、って何?」
それに君は誰、と尋ねる前に、少年はこちらへ身を乗り出して答える。
「あれっていうのはな、何を隠そう、『校長スリーハンドレッド』のことだよ!」
――校長三百。
「なにそれ」
僕としたことが、つい考えていたことがそのまま口に出てしまった。
「おっと、名乗るのが遅れたな」
会話を成立させる気がないのか、校長三百の説明もせずに少年は窓際へと一歩近づくと、せっかく安全のために閉められていた窓の錠前をジャンプしつつ勝手に解除してしまった。危険だからやめなよ、と言おうとしたが、その前に少年はスライド式のガラス窓を片手で勢いよく開け放った。ガラス窓のフレームが窓枠にぶつかって大きな音を立てたが、少年は気にも留めない様子だった。
開いた窓から、夏の風がいきなり吹き込んできた。
外界と踊り場を隔てていたガラス窓がなくなり、眩しい太陽の光が周囲に溢れる。
窓の外には、青い空が見えた。
入道雲が見えた。
その下に、さっきは見えなかった青い海も見えた。
それらすべてが、夏の日差しの下で輝いていた。
その光にも負けないほどの笑顔を輝かせて、少年は名乗る。
「俺は、六年二組の空羽翔吾だ。よろしくな!」
それが、僕と翔吾の出会いだった。
*
下校する時間になり、僕は空羽翔吾と一緒に海沿いの堤防脇の道を歩いていた。
偶然にも家が同じ方向だと知った翔吾は、じゃあ一緒に帰ろうぜ、と僕の手を半ば無理やり引っ張ってここまで連れてきたのだ。
僕たちが住んでいる場所は、首都から電車で一時間ほど南に下った場所にある海沿いの小さな田舎町だ。地図で見る限りは大きな湾の中央あたりに位置しているはずなのだけど、実際に暮らしている分には海岸線のカーブが大きすぎて湾だとは実感できない。
背後を振り返ると小さな山がいくつも連なっていて、そこにうっそうと茂る木々からは蝉の鳴き声が聞こえてくる。
海と山に挟まれた、小さな町。
そこが、僕たちの暮らす場所だった。
「……だから、校長スリーハンドレッドが本当に実在するのか、俺は確かめたいんだよ!」
コンビニで買ったソーダ味のアイスキャンディーを片手に、空羽翔吾は熱弁を振るう。学校にいたときよりもさらに声が大きいのは、浜辺に寄せる波の音に負けないためだろうか。下校時刻を過ぎたとはいえ、日没までにはまだまだ時間がある。昼間に聞こえた蝉のうるさい声も衰える気配はなかった。
「それはもう聞いたよ、空羽くん」
並んで歩きながら答える僕も、彼と同じソーダ味のアイスを片手に持っている。なぜ同じアイスかというと、彼が「これは俺のおごりだ」といって、二つに割れるタイプのアイスの片方を僕に差し出してきたからだ。
なぜ彼が僕におごろうとするのか分からなかったし、借りを作るのも嫌だったので、僕は半額の五十円を彼に渡してからアイスを受け取り、今こうして食べながら歩いている。
下校途中の買い食いなんて、初めての経験だった。
品行方正な僕としては、本当は彼がコンビニに入ろうとした時点で止めるべきだったのかもしれない。不覚にもそのタイミングを逃してしまったのは、彼が語った「校長スリーハンドレッド」に思考のほとんどを割いてしまっていたせいだ。
「……問題は、その実在をどうやって確認するかという点だよ」
空羽翔吾が語ったのは、校長先生が校長室に秘蔵しているという極秘のスピーチ用資料についての噂だった。
噂によると、その資料は十数年前に退任した先代の校長が「同じ内容の話をうっかり二度繰り返さないように」と自分用の備忘録として書き残したノートらしい。驚くべきことに、今の校長はそこに書かれた内容をそのまま自分用として拝借しているという話だった。書き残された講話の数が三百以上あるため、そのノートの名前は噂話の中で「校長三百」と呼ばれているらしかった。
こうちょうさんびゃく、が正しい呼称らしい。
それでも空羽翔吾がなぜか英語読みにこだわるのは、本人いわく、
「そのほうがかっこいいから!」
とのことだった。ひょっとしたら彼は馬鹿なのかもしれない。そもそも僕を階段の踊り場で待っていた理由だって、これも本人いわく「校長室に入ったなら校長について詳しいだろうから」という短絡的な発想だったらしい。
その空羽翔吾が、僕の言葉に首を傾げる。
「どうやって確かめるか? そんなの、校長先生に直接聞いてみればいいじゃん」
「やっぱりきみは馬鹿なんだね」
つい、また本音が口をついて出てしまった。
「なんだよ、『やっぱり』って」
空羽翔吾が口を尖らせる。
「ごめん、言い過ぎたね。『おそらく』に訂正する」
そう答えつつ、仕方がないので「……考えてもみなよ」と僕は説明を付け加える。
僕たちが通う小学校が掲げているのは、「生徒たちの自主性を重んじる」という校風だ。それは例えば、学芸会の脚本を生徒たち自身に作らせてみたり、宿題の提出期限を日刻みではなく月単位で区切って各人のペースに任せてみたり、夏休みの自由研究のテーマを理科科目に限らず社会的なテーマでの提出も認めていたりする点に表れている。
実際に、僕は去年の自由研究のテーマを「この町の防災対策をより良くするための方法」と名付けて研究発表を行った。この小さな町に津波が押し寄せた場合の避難経路は、本当にいま町が定めているルートが最善なのか。僕は避難経路の道幅や普段の交通量を調査し、海抜の高さを考慮しながら経路の再検討と最適化を行ったのだ。それを色付きの地図にまとめた僕の自由研究は学校だけでなく町役場からも表彰され、この町の避難経路はそれを踏まえて今年の春から少しだけ変更がなされている。
それは僕にとって大いに誇らしいことだったけれど、町役場で行われた表彰式のとき、役場の防災課で働く大人たちが僕を冷たい目で見下ろしていたことは印象に残っている。
大人の面子を子供が潰すと睨まれる、ということを僕はその一件で学んでいた。
「きみはさ……自主性の尊重を掲げる学校の校長が、自分の演説はじつは他人のコピーでした、なんて素直に教えてくれると思うの?」
「えっ、教えてくれないのか?」
どうやら、目の前の少年は大人についてよく知らないらしい。
「……理由の説明は省くけど、教えてくれないよ。それに、噂が本当かどうかまったく分からないのにそんなことを直接尋ねるなんて、校長先生に失礼だよ」
本心を言えば、もしその噂が本当なら僕だってショックだ。いつもためになる話をしてくれていた校長先生が実はカンニングをしていただなんて、できれば信じたくない。学校のトップに立つ人間が自主性も正当性も持っていなかったなんてことになれば、学校の存在意義そのものだって脅かされかねない。
とはいえ、以前から校長先生の演説に定評があった理由は、彼が数多くのストックの中からよくできた話だけを選んで使用していたからだと考えれば納得がいく。
それに、自分はつい数時間前に校長室で見たのだ。
意味ありげに本棚に置かれた、灰色の小さな金庫を。
――と、そんなことを空羽翔吾に話すと、彼の目の輝きはみるみる増していった。
「それ、ぜったい怪しいじゃん!」
僕は首を横に振った。
「単なる僕の思い込みかもしれない。話を考えるのが本当に上手い人なのかもしれないし、金庫はただの書類保管用だと考えるのが普通だ。こんなのは状況証拠とすら呼べないよ」
「じゃあ、どうすれば怪しいかどうか分かるんだよ」
彼の問いに、僕は足を止めてしばらく考える。
僕の思考を、彼も黙って待ってくれているようだった。
二人の沈黙を待っていたかのように、波の音が聞こえてくる。
ふと堤防の向こう、砂浜へと目を向けると、その先に青い海が見えた。
少しだけ傾いた太陽の光が、きらきらと海面に反射している。
「……空羽くん、僕にいい考えがあるよ」
「どんな?」
「まだ秘密。あと数日、終業式まで待ってて」
*
それから数日が経ち、終業式の日になった。
校長先生が予想していた通り、生徒たちは夏休みを翌日に控えて完全に浮足立っていた。朝のホームルームが始まる前からクラスメイトたちはいくつものグループを作って固まり、明日からの予定話に花を咲かせている。
その中で、僕ひとりだけが全く別のことを考えていた。
きっと隣のクラスでは今ごろ、空羽翔吾が僕の動向についてそわそわしているところだろう。
やがてホームルームが終わり、校庭での全校集会の時間になった。
「ねえ、白鳥くん。中村校長先生からのお話、覚えてるわよね?」
若い女性の担任教師が、全校集会での段取りについて確認してきた。
僕は「もちろんです」とだけ答えて、他の生徒たちと一緒に昇降口で上履きを脱いで靴をはき、校庭に出る。そして、いつもクラスメイトたちと一緒に整列している場所ではなく、朝礼台のすぐ後ろに向かった。
そこには校長先生が既に待っていて、僕を見るなり笑顔を向けてきた。
僕は小さく会釈すると、校長先生の隣に立って同じように待機する。
全校生徒が少しずつ校庭に集まり、お互いにつつきあったり騒いだりしながらのろのろと整列し、ようやく静かになった。
「えー、皆さんが静かになるまで、二分かかりました」
僕達のすぐ横で無線式のマイクを持っていた教頭先生が、少し不機嫌そうに言った。しかし、いつものことなので誰も気にしない。教頭先生はいったんマイクのスイッチを切ると、
「では校長、どうぞ」
と言って、マイクを校長先生に手渡した。
校長先生は、変にかしこまった声で「うむ」と頷いてからマイクを受け取る。
今だ、と僕は思った。
「……校長先生、今日も先代のノートを覚えてきたんですか?」
用意していた台詞を、僕は校長先生にだけ聞こえる声の大きさで言った。
校長先生の目と僕の目が合って、そのまま数秒間の沈黙が流れた。
校長はその場を動かず、マイクのスイッチも入れ直さないまま、ゆっくりと言った。
「……白鳥くん、やはり朝礼台に二人で上るのは狭くて危ないから、私が一人で話すよ。きみはクラスの列に戻りなさい」
そして校長先生はひとりで朝礼台に上るとスイッチを入れ直し、いつも通りに演説を始めた。
講話の内容は、ゾウとネズミの一生における体感時間の長さの違いがどうとか、そういう話だった。その話を通じて、夏休みはいつまでも続くように思えるかもしれないけど錯覚なんだよ、だから計画的に過ごしなさい、と校長先生は説いていた。
なかなか興味深い話だった。
品行方正のお手本だと言っていた僕については、一切触れなかった。
僕はクラスの列に戻り、そんな校長先生の表情をじっと眺めていた。
*
「……それ、完全に黒じゃん」
「うん、僕もそう思う」
終業式が半日で終わったので、僕と空羽翔吾は数日前と同じように海沿いの堤防を歩きながらアイスキャンディーをかじっていた。今日も空が青く、海も青く、蝉がうるさい。
七月もいよいよ下旬に差し掛かり、暑さは最高潮だった。うっかりすると手元のアイスキャンディーがすぐに溶けてなくなってしまいそうだ。
「噂はやっぱり本当だったんじゃないか?」
「……そうかも」
彼の言う通り、数時間前の校長の振る舞いは明らかに妙だった。数秒間の硬直も、僕が壇上に立つのを直前になってやめさせたのも、なにかやましいことがあるに違いないと思えるような不審さだった。僕が壇上で「校長三百」の存在を暴露したらまずい、とでも思ったのだろうか。
「じゃあ、あとは証拠を手に入れるだけだな」
「証拠?」
「校長スリーハンドレッドの、実物」
彼の言葉に、僕はさっきの校長先生みたいに固まってしまった。
だって、実物っていうことは――、
「――それってつまり、僕たちで校長室に忍び込んで、あの金庫を開けて、ノートを手に入れるってこと?」
「それ以外になにがある?」
「なにが、って……」
まごつく僕を尻目に、彼はなぜか何かを閃いたような顔になる。
そして、ぽんと手を打って立ち止まり、言った。
「いいことを思いついたぞ、正鷹。俺たちのこの夏のテーマだ」
「……なんの話?」
尋ね返す僕だったが、それと同時に、空羽翔吾がいきなり僕を名前で呼び捨てにしてきたことに驚いていた。つくづく小学六年生としての分別がないやつだな、と思ったが、僕のほうからも彼のことを呼び捨てにすれば問題ないか、とすぐに考え直す。相手が僕を正鷹と呼ぶのに、こちらがいつまでも「空羽くん」では、いかにも不平等だ。
翔吾、翔吾、しょうご……と、頭の中で何度か呼びかける練習をする。思えば、人をそんな風に名前で、しかも呼び捨てで呼んだことなんて、今まで一度もないかもしれない。
よし、もう言えるぞ――僕がそう思ったところで、目の前の彼は「俺たちのこの夏のテーマ」についてはっきりと宣言した。
「この夏の自由研究のテーマが決まったっていう意味だよ。校長先生にまつわる噂話の真相を二人で暴こうぜ!」
確かにそれは、この小さな海辺の町にとってこの上なく社会的なテーマであり、真実を探求する価値のある謎だった。
僕は少しの間、思考する。
確かに、去年の自由研究を上回るためには新たな挑戦をしなければならないとは思っていたのだ。
一人ではなく二人での研究発表。
学校のトップの人間に関する不正疑惑の調査という、文字通り挑戦的な内容。
それに、もし校長が不正をしているのならば、それを正して秩序を取り戻す作業は僕自身の性格にも合っているように感じた。
大人の面子を子供が潰すと睨まれる、ということを僕は去年の件で既に学んでいる。
学んではいるが、それを気にして自分の探究心を萎縮させるような性格でもないのだ。
「確かに面白そうかもしれない……うん、わかった」
僕はそう言って頷き、彼の顔を正面から見た。
そのとき初めて、僕よりも彼のほうが少しだけ身長が高いことに気付く。
僕が空羽翔吾の笑顔を見上げたとき、その背後には、青い空と入道雲が輝いていた。
なんだか、まぶしかった。
「……よろしくね。翔吾」
僕は彼の名前を呼んだ。
翔吾はそれを聞くと、にかっと嬉しそうに笑みを深めてから「おう!」と答える。
そして、少し日焼けした右手を僕に向かって差し出しつつ、言った。
「楽しい自由研究になりそうだな、正鷹!」
こうして、僕と翔吾の夏休みが始まった。