サクラの降る町
地面に落ちる前に桜の花弁が掴めたら、願い事が叶う。
そんなおまじないを、ヒヨリから教わった。
私たちはすぐに桜並木の下へと駆け出し、枝から舞い散る花弁を捕まえようと飛び跳ねた。
でも私はその日、一度だって花弁を掴むことはできなかったのだ。
くるくるとバレリーナのように回転しながら落ちてくる花弁は、腕の風圧にも敏感に反応して手の平から逃げてしまう。
儚くて美しい薄ピンク色の花弁は、強く求めて手を伸ばせば伸ばすほど、いとも簡単に指の間をすり抜けていく。
これは少しおかしな町で起きる物語。願いを叶えようと手を伸ばす、なんの変哲もない私たちの物語。
【Ⅰ】
1
乾いた匂いがする。音楽室の壁にあいた穴から、木の香りが漏れているのかもしれない。
「ツバちゃんは大人になったら、ピアニストになるの?」
「分かんないよ、そんなの」
「でも、全国ツアーとかで忙しいと、あんまり会えないってことだよね。やだなぁ、それは」
鍵盤の上で、私の指が躓いた。
「あ、間違えた」
「ヒヨリが変なこと言うからじゃん」
彼女は新品のセーラー服が皺になるのも気にせずに、グランドピアノのお尻に抱きついた。色素の薄い彼女の髪が、ピアノの上で波紋のように広がる。
「ふふ。ツバちゃんの心臓の音を聞いてるみたい」
まるで全身が鼓膜にでもなったかのように、ヒヨリはピアノの振動を受け止めている。
「私、この曲好きだなぁ」
『トビウオ二号』。踊りだしたくなるような軽快なメロディの中で、少し寂しげな恋を歌うこの曲は、少し前にヒットしたドラマの主題歌だった。
「これ、ヒヨリへの一回きりの誕生日プレゼントだったと思うんだけど」
私はドラマを観ていなかったのだが、ヒヨリが曲を気に入っていることを知ってから練習し、彼女の十歳の誕生日に演奏してみせたのだ。その時限りの演奏のつもりだったのだが、彼女はそれからもことあるごとにこの曲をリクエストしてきた。
「ツバちゃんだって、私が昔プレゼントした筆箱今も使ってるじゃん」
「なるほど。私が毎日あの筆箱を使ってるみたいに、私もこの曲は何度でも演奏しなきゃいけないわけだ」
「ふふ。そういうことー」
ヒヨリは頬をピアノに押し当てて、満足そうな顔をしている。そんな彼女を撫でるように、私は少しテンポを落として演奏を続ける。
こうやってヒヨリにピアノの演奏を聴いてもらうことが好きだった。
お泊まり会で布団に入ったあとにぽつりぽつりと交わす会話に似ている。
話したいことや用があるわけではないけれど、自然と口からこぼれ出る言葉を止めはせず、小さな相手の相槌に満足する。
でも、なんでだろう、胸の奥のほうにチリチリと痛みを感じる。
ヒヨリが音楽室の窓へと目線をやった。
「あ、降ってきた……」
窓からは暖かい日の光が差し込み続けている。降ってきたのは雨でも、雪でも、みぞれでもない。
サクラの花弁が、空から降ってきている。
「積もるかな」
その言葉には、不安も期待も込められていなかった。
「ヒヨリは好き? アマザクラ」
「どうかな。綺麗な時は好き。でも、くすんだやつは、あんまり好きじゃないかも」
私は白黒の鍵盤へ視線を向けたまま答える。
「積もるかどうかは、ヒヨリ次第だよ」
「私?」
メロディのスピードを少し抑えて、私は笑う。
「私知ってるんだ。アマザクラが、どんな時に降るのか……」
ヒヨリ自身にも内緒にしていることを、簡単に口にしてみる。
さっき感じた、胸の奥にある痛みの理由に気が付いたからだ。
目の前に広がっている中学の音楽室の光景が、夢だと気が付いたからだ。
今の私はもう高校二年生で、本物のヒヨリとこんな風に話すことはない。これは私が自分の頭の中で昔の記憶を掘り返して眺めているに過ぎない。
時々この夢を見る。決定的にヒヨリとの距離が離れてしまう直前の、もう戻れない、でも大切な、なにげない記憶に、私は今もすがりついている。
まぶたを押し上げる。
視界に自分の部屋の天井が広がる。予想通りであると同時に期待外れだった。
窓の外では夢の中と同じように、桜色の花弁がはらはらと踊っている。落下とは呼べないほど優雅だが、浮遊とも呼べないほどのぎこちなさで、花弁が次々と降ってくる。
上空には、雲も枝も、飛行機もない。町に春の気配なんて残っていない。
それでも、この町には時折、サクラが降るのだ。
原因不明の気象現象、みんなはそれを〝アマザクラ〟と呼んでいる。
朝だというのに、階段の手すりの冷たさから手を放すのが惜しまれるほど家の中の温度が高かった。夏がこの町にやってきたことを思い知らされる。
ダイニングルームへと移動してバナナを頬張ったところで、隣のリビングに弟の翔太がいることに気が付いた。毎朝の日課である体操を行っている。タンクトップ一枚でゆったりと上半身を回している姿は中学生には見えず、どうにもじじくさい。
体操しながら彼が観ているテレビでは、公共放送のニュース番組が流れていた。
『梅雨が明けて気温も高くなってきました。熱中症に注意してください。また九重町では七時頃からアマザクラが観測されていますが、気象庁によると降花量は少なく、交通機関などに影響はない模様です』
画面が県内の動物園でトラが出産したニュースに切り替わる。赤ちゃんトラは悶えたくなるほどの愛らしさだったが、ゆっくり眺めている時間はなかった。
制服に着替えてから、最後に薄手のパーカーを羽織る。
ガレージから自転車を出すと、家のすぐ隣を流れる河川が目に入った。水面にアマザクラの花弁が浮かんでいる。一つ一つは人差し指の爪ほどの大きさだが、花筏を作りながら緩やかな流れに身を任せていた。
無意識のうちに、私は視線を対岸へと伸ばしていた。川を挟んだ向かいにあるレンガ調の家。その庭に自転車はない。ヒヨリがすでに学校へ出発したことを確認してから、私はペダルをこぎ始める。
途中、中学校の校門前で赤信号に引っかかる。隣では、美化委員会の生徒が気だるそうに竹ぼうきを動かしていた。
「俺ネットで見た。アマザクラって、宇宙生物の鱗が落ちてきてるらしいぜ?」
「宇宙生物なんているわけねーだろ。これはな、アメリカ軍の人工衛星に搭載された極秘兵器が降らせてるんだよ。政府の陰謀だ」
「ヒラヒラ花びら降らす兵器なんて、なんの役に立つんだよ」
「そりゃお前、宇宙生物には効くんだよ」
九重町は海に面している小さな町だ。だが、私の家と高校は海や駅から離れた山側にある。
アップダウンの激しい地形は決して住みやすいとは言えず、私の通う九重高校までの道に並ぶのは、民家や小さな個人商店ばかりだ。
二十分ほどかかる道のりの間にコンビニがたった一つだけあり、十秒間だけ遠くに海が見える道がある。そんな地味な通学路を走り抜けて、私は九重高校に到着する。
自転車を押して駐輪場に入ると、談笑している男子生徒が行く先をふさいでいた。数秒してからようやく私の存在に気が付く。
「わっ! す、すみませんでした……!」
ネクタイの色を見る限り彼らは三年生のはずだが、二年の私に敬語で謝りながら道を空けた。
「ども……」
会釈しながら通り過ぎると、後ろから「めちゃ睨まれてたな」と話すのが聞こえた。
もともとそういう目つきなのです。と言い訳することもできず、申し訳ない気持ちになる。
目つきも悪くて人付き合いも悪い私に、毎朝挨拶を交わすような相手はいない。去年少しだけ仲良くなったクラスメイトもクラス替えで離れてしまった。
このミディアムヘアーを腰まで伸ばせば、もっとかわいい印象を周りに与えて友達もできるのだろうか。だが、この無愛想な顔にロングヘアーが似合うとも思えないし、手入れも面倒だ。
「おはようございます!」
昇降口の前で《風紀委員》と刺繍された腕章を巻いた女生徒に挨拶された。私に挨拶してくれる数少ない相手ではあるが、その目的はコミュニケーションではない。
「今週は服装強化週間です。制服を正しく着用しましょう!」
アナウンサーのようにはきはきとしゃべる彼女は、私の短いスカートを親の仇のように睨み付けていた。
「はは、すみません」
折り曲げたスカートを直すそぶりだけしながら、苦笑いでその場を離れる。
風紀委員は他の生徒にも同じように声かけを続けていたのだが、ふと、声がやんだ。
振り返ると、風紀委員だけでなくあたりの生徒全員が、一人の少女に目を奪われていた。
その少女が着ているのは、この学校のブレザーではなくセーラー服だった。
スカーフは紫色で袖には校章が刺繍されている。この近辺では見かけたこともない、上品なデザインの制服だ。
しかし、みんなはただ珍しい服装に圧倒されているわけではない。
彼女の端麗な容姿がそうさせているのだ。
白い肌に、通った鼻筋、彼女が学生服を着ていなかったら、もっと大人びて見えるだろう。
女生徒は、風紀委員の前で立ち止まる。
「職員室に行きたいのだけど、どちらに行けばいいのかしら?」
先ほどまで毅然とした態度をとっていた風紀委員が慌てた様子で「あっちです」と来客用の出入り口を指差した。
「そう、ありがとう」
女生徒は、去り際に風紀委員の肩にのっていたアマザクラの花弁をつまみあげる。
誰もがその気遣いに感嘆の吐息を漏らした瞬間──。
彼女はその花弁を口の中に放り込んだ。
「お、おおお、お腹壊しますよ!」
風紀委員の忠告も気にせず、彼女はしばらく口の中で花弁を転がしたあと、脇の側溝へと吐き出した。「大きさは標準。色は薄いグレー」と呟きながら、スマホになにかをメモし始める。
「なんなんだ、あの子……」
隣の男子が漏らさなければ、同じ感想を私が呟いていたと思う。
*
『今年の九重祭は、去年よりもグッとエキサイティングで、グッと派手な、グッドな催しにしたいと思っております!』
生徒会長が演台で熱弁をふるっている。しかし、体育館にずらりと並んだ九重高校の生徒たちにとって夏休み後に控える文化祭はまだまだ未来の話だ。真剣に耳を傾けている人は少数のようだった。
かくいう私も、ステージではなくその下に待機している生徒会役員たちを眺めていた。いや、正確にはそこに立つ、環木ヒヨリのことを見ていた。
ふんわりとふくらみをもつ長い栗色の髪、穏やかで柔らかな目。小柄で童顔な顔立ちをしている彼女は、凛々しい生徒会役員の列の中では少し頼りなく、実際に落ち着かない様子で生徒集会の進行表をめくっていた。
「あ」
私が思わず漏らした声に隣の列の男子生徒が反応したが、彼はすぐに視線をステージに戻した。ヒヨリが手に持っていた進行表を床に落としたことに、他の生徒は気が付いていないらしい。
そわそわしながらヒヨリを見ていたが、彼女の隣にいた生徒会役員がすぐに進行表を拾い集めてヒヨリに手渡した。彼女は申し訳なさそうに頭を下げていたが、手伝った女生徒は笑顔でヒヨリの肩を叩いた。
ヒヨリが生徒会に入るという噂を母から聞いたのは、約一年前のことだ。その時は抜けているところのある彼女を心配したのだが、どうやら取り越し苦労だったらしい。ヒヨリの周りには、彼女の苦手なところを補う仲間がいる。そのことに私はひそかに安心していたし、彼女のよさが周りに認められていることが素直に嬉しかった。
『会長、話、長いです』
司会の副生徒会長から指摘が入り、体育館に笑いが生まれる。会長は苦笑いしながら『とにかくいい九重祭にしましょう!』と言い残しステージを降りた。
それを見届けると、副生徒会長はヒヨリへとマイクを手渡した。今度は彼女がなにかをしゃべる番らしい。
『では、続いて出店などに参加される……、あ、間違えた』
ヒヨリは小さく謝ってから、本来読むべき原稿の内容へと戻る。
しかし、私の頭に、そこから先の話は入ってこなかった。
――あ、間違えた。
その一言が、私に今朝見た夢のことを思い出させたからだ。
演奏のミスを彼女が指摘し二人で笑う。私が奏でる音楽にくるまって内緒話をするようなひと時。あの記憶と、こうして体育館の端から彼女を眺めていることしかできない今との差が、胸を締め付ける。
彼女と最後に言葉を交わしたのはいつだろうか。
同じ学校にいるので、月に一度くらいはすれ違うこともある。その際に挨拶だけは交わすが、どこか互いにぎこちない笑顔を浮かべたまま、すぐに離れる。
そのたびに遭遇してしまってごめん、なんて思って、そんな卑屈な自分が嫌になる。
すれ違うくらいでは、なにも感じない。それくらい楽な気持ちでいてほしい一方で、私の抱える気まずさのうちの何パーセントかでもいいから、彼女の心の中にも残っていてほしいなんて自意識過剰なことも考える。
こうなる前は、近所のおばさんに「ほんとの姉妹みたいだね」なんて笑われるくらい一緒にいた。
登下校も放課後も、休日のお出かけもほとんど一緒だった。小学校の修学旅行ではくじ引きで違う班になってしまったけれど、旅行用の洋服は一緒に買いにいった。
シャープペンの芯を買いにいくだけの用事にだってついていって、そのたびに一緒に文房具を選んだ。でも今は、彼女のブレザーの胸ポケットに入っているペンがどこのメーカーのものなのかさえも知らない。
唯一分かるのは――。
体育館の窓から空を眺める。そうしているうちに集会は終わり、私は他の生徒と一緒に教室へと戻った。
ヒヨリとの距離が離れた三年前のことを思い出すと、右手首につけたリストバンドの内側がかゆくなった。三年という月日が二人の間の思い出と関係を希薄にする一方で、胸にこびりついた後悔だけは固く重くなっていくばかりだ。
*
チャイムが鳴ると、担任教師であり一時間目の教科担当でもある足立が教室に入ってきた。扉のすぐ近くの席で肘をつく私を見て、彼はこれ見よがしにため息をつく。
「おい、神屋敷、背筋を伸ばせ」
足立自身も猫背だ。そのうえ無精ひげまで生やしている中年男性からの指摘に辟易とするが、逆らうのも面倒なので素直に従った。
そんな彼の後ろから、フルートの音色にも似た美しい声が教室へと飛び込んでくる。
「今、神屋敷、とおっしゃいました?」
足立は廊下を振り返り、声の主を歓迎するように扉を全開にした。
「あぁ。こいつ、珍しい苗字してるだろ?」
「そうですね。とても、驚きました」
廊下に立っていたのは、さっき昇降口の前で見かけたセーラー服の女生徒だった。
「でも、親近感が湧きます」
彼女が教室へと入ってきて、私に向かって右手を差し出した。
「はじめまして。紫々吹ルカです。私も、割と珍しい苗字をしているでしょ?」
彼女の手を握り返す。その手は七月の暑さの中にあるとは思えないほど冷たくて、まるでマネキンと握手をしているような気分になった。
「あなた、名前は?」
「ツバサ……」
「そう。珍しい苗字の者同士、よろしくね。神屋敷ツバサさん」
切り揃えられた前髪の向こうに浮かぶ瞳は、暗闇が奥へずっと続いているかのように錯覚するほど、深い黒色だった。
一時間目は始まっていたが、集会で潰れた朝のホームルームの代わりに、彼女の自己紹介タイムが設けられた。
「紫々吹ルカといいます。親の都合でこんな中途半端な時期の転校になりましたが、溶け込めるように頑張ります。よろしくお願いします」
「スーパー美人じゃん……」「あの制服知ってる。峰上学園だよ」「え、それ京都の偏差値高いとこ?」
転校生という非日常な出来事にクラス全体が浮き足立つ。教室のあちこちから質問が投げかけられたが、紫々吹ルカは微笑を保ったまま足立の後ろへ下がった。
「授業の邪魔はしたくないので。なにか質問があれば、また個別に」
毅然とした態度でお辞儀をした彼女に、さらに質問を重ねる生徒はいなかった。
「じゃあ、紫々吹の机はそこだからな」
足立が、私の列の一番後方に新しく置かれた机を指差す。
机へと向かう際、私と目を合わせた彼女がわずかに笑った気がした。
休み時間のたびに、紫々吹ルカの周りには数名の女子が集まった。周りの生徒も、そこで交わされる会話に耳を澄ませているのが丸分かりだった。
午後になると、意外なところから新しい情報がもたらされた。五時間目の地学室で待っていた教師がカメラ専門誌を持参していたのだ。
「あの、紫々吹さんのお父様というのは、もしかして……」
ルカは地学教師が胸に抱えていた雑誌に気が付き、恐縮しながら微笑んだ。
「はい。おそらく、その通りです。その雑誌にもコラムを書いているはずです」
定年間近の地学教師が「やっぱり……」と無邪気に手を叩いた。
「えぇ、なになに、先生ー。紫々吹さんのお父さんって有名人なのー?」
「有名人というほどじゃ……」と恐縮するルカの代わりに、地学教師が説明を始めた。
「紫々吹さんのお父様は、写真家なんですよ。アマザクラをモチーフに様々な作品を発表されていて、賞もとってらっしゃる方なんです」
期待とは違う形の有名人だったようだが、周りの女子はそれなりに感心してみせる。
「そういえば、京都の峰上って、確かアマザクラ降るとこだったね」
「でも、確か今年に入ってから一回も降ってないんでしょ? まさか、それで九重に引っ越してきたの?」
「えぇ、父にとってアマザクラは商売道具みたいなものだから」
ルカは「でも、生活能力がなくて心配だから、私だけ単身赴任についてきたの」と補足する。
「ルカっち知ってる? うちのアマザクラって今、二色咲きしてるんだよ。ピンクのやつと、グレーのやつが一緒に降るの」
その時、一瞬だけルカの視線が私へと向けられた。ぶつかった視線に戸惑う私をよそに、彼女はクラスメイトとの会話に戻る。
「二色咲きは、降りやむ前の峰上でも何度か観測されていたから知ってるわ」
そこでようやく地学教師が無駄話を切り上げた。
五分遅れで再開された授業は、この町で育った人間なら耳にタコができるほど聞かされた、アマザクラに関する説明だった。
「アマザクラ現象はこの地球上において、約三十年前に観測され始めました。今でこそ環境や人体への悪影響はないものと証明されましたが、当時は大変な騒ぎでしたね。公害による汚染物質じゃないかとか、新種の微生物なんじゃないかとか。中には滅亡の前兆だ、なんて言い出す宗教家もいましたねぇ」
「私らその時、まだ生まれてませんけど」
「はは、そうでしたね。でも、この九重町で降り出したのは確か、十年前でしたよね?」
「小二ん時な」「俺そん時テレビに取材されたぜ」とクラスメイトが振り返る。
「今現在、アマザクラが観測されているのは、東アジア圏内にある数十カ所の特定地域のみですから、そんな町に生まれたみなさんは幸運です。なぜ特定の地域でしか降らないのか、空気中で桜の花弁そっくりの物質が形成されるのか、まだはっきりとはしていませんが――」
教師が続ける話にクラスメイトが時折ちゃちゃを入れながら授業は進んだ。しかし、その間、ルカの表情はどこか硬く、まったく別のなにかを考えているようにも見えた。
2
転校生が来たことによる浮ついた雰囲気も数日で落ち着いた。
今日のトピックといえば、梅雨明け後、初めての真夏日になったことくらいだろうか。
「あっ……つ……」
太陽の本体が山の陰に沈んだ今も、熱気だけはこんもりと通学路に残っている。
暑さに耐えかねた私は、潰れたスーパーマーケットの駐車場に入り自転車を停めた。店の前でけなげに稼働している自動販売機が目当てだ。レモンティーを購入し、食道から火照った体を冷やす。
――こっから九重湖まで競争ね!
ふいに幼いヒヨリの声が頭に響いて、私は店の前の交差点をぼんやりと眺める。
山へと通じるルートを進んだ先にあるのが九重湖だ。私とヒヨリは特にやることがない日、その湖のほとりにある九重公園で遊んだ。
紅葉の季節こそ、湖の周囲を回る三キロほどのハイキングコースにやってくる人が増えたが、それ以外の時期は比較的静かだった。湖の水面は木々の生えた斜面に囲まれていて、まるで世界に私たちしかいないような気分になれたのを思い出す。
「我ながらよく飽きなかったなぁ」
今思うと、刺激的な遊具もない公園によく何度も通い詰めたものだと感心してしまう。
私はあと一年半すれば、大学もショッピングモールもないこの町を出ていくことになるだろう。もちろん受験に失敗しなければ、という条件付きではあるが、私は身の丈に合わないレベルの進路を目指すことはないからきっと大丈夫だ。
私の中に、強い情熱も、大きな夢もない。だから強いてあげるとするなら、やっぱりこの町から出ていくことが今の私の目標になるのかもしれない。
別に九重町が嫌いなわけじゃない。ただ、早くこの町を思い出の場所にしてしまいたいのだ。
「ん?」
ぼんやりとしていた私の思考に、バイクのエンジン音が割り込んできた。カーブの向こう側で響いていた音はどんどんと大きくなり、やがてバイクとライダーが姿を現す。
エンジン部分が露出しているネイキッドタイプのバイクで、ガソリンタンクはメタリックレッドだった。普段このあたりでは見かけないバイクだ。
またがる運転手が減速と同時に体を傾ける。それに呼応してバイクは進行方向を変え、私のいる駐車場へと入ってきて停車した。
ヌーの大群の足音のような断続的なエンジン音だけが、しばらく私たちの間に響く。
運転手は上下一体型のバイクスーツを着ている。胸のふくらみから女性であることが分かるが、顔はフルフェイスのヘルメットで見えない。
ツーリングに来て道に迷った観光客だと予想したが、そのあては早々に、大幅に、そして、予期しない方向へ外れる。
「神屋敷ツバサだな?」
ヘルメットのシールド越しに女の鋭い目が見えた。睨むようにして私に視線を向けている。
「どちらさま、ですか?」
無言のまま彼女が近付いてきたので、私は思わず後ずさった。自分の自転車にお尻をぶつけ、その場に転倒してしまう。
バイクスーツの女は、手袋をした手をこちらに差し出した。私を起き上がらせようとしているのだろうか。
「あ、ありがとうございます……」
差し出された手を握り返す。すると、彼女のヘルメットの中でくぐもった声がした。
「アマザクラの秘密を知ってるな?」
彼女は指に力を入れて私の手を締め付けた。皮の手袋がくしゃりと歪む。
彼女は同じ言葉を、先ほどよりもゆっくり繰り返した。
「アマザクラの秘密を、知ってるな?」
「なんで――」
アマザクラの秘密。
一斉に記憶の断片が頭をよぎる。
湖のほとりで見つけた光る花弁――。
私たちが包まれた、桜色の光――。
そして、私の幼馴染の環木ヒヨリ――。
なにがどうなっているのだ。あの秘密を知っている人間は世界中で私だけのはずなのに。
「な、なにを言ってるんですか? それより、手、離してくださいよ」
とぼけてみるが、彼女の手に込められた力は緩まない。痛みはないが、引き剥がすこともできない。
「ツバサさん⁉」
駐車場の入り口からセーラー服姿の女の子が走ってくる。うちのクラスの転校生、紫々吹ルカだ。
「なにかあったの? もしかして熱中症?」
ルカが鞄からスマホを取り出すのを見て、バイクスーツの女は私から離れた。素早くバイクにまたがり、エンジンをうならせながら道路へと飛び出していく。ルカが私の元にたどり着いた時にはもう、バイクの姿もエンジン音も、工場の陰に消えてしまった。
「大丈夫? ツバサさん?」
ルカが伸ばした手を掴み立ち上がる。倒れた際に肘に小さな擦り傷ができていたが、怪我という怪我はそれだけだった。
体のどこにも痛みはない。問題は突然の出来事で混乱している気持ちのほうだった。
「うん。多分……」
「ツバサさんがすごく不安そうな顔をしてたから声をかけちゃったんだけど、今の人、知り合い?」
彼女はただならぬ雰囲気を感じ取って助けに入ってくれたのだ。スマホを取り出してみせたのには威嚇の意味もあったのだろう。彼女の機転に私は救われた。
「ううん。知らない人、急に声をかけられて……困ってたから助かった。ありがとう」
「なんて言われたの?」
――アマザクラの秘密を知ってるな?
バイクスーツの女の、かすれた声が頭に響く。思い出すと、また背筋がぞくりとした。
「それって、重要?」
「重要だと思うわ。内容によっては、危険人物として警察に連絡するべきだし」
正論だ。とはいえ、誰にも言えない秘密について尋ねられた。なんて答えるわけにもいかない。
「と、突然のことでよく聞き取れなかった。ただ道に迷っただけだったのかも。でも、ありがとう紫々吹さん。助かったよ」
「私、あなたの恩人?」
ルカが大人っぽく、でも、同時にいたずらっぽく笑う。こちらの緊張をほどこうとしているのかもしれない。
「えっと、そうなる、のかな」
*
ひぐらしの声と、押している自転車の車輪から鳴る音が不思議とマッチしていた。そこに、ルカのパンプスが鳴らす足音も混ざる。
高校までの通学路をこうして誰かと歩くのは初めてだった。
「紫々吹さんも家、こっちのほうなんだ」
ルカは、自分の家の場所を説明してくれた。彼女の家は私の家よりも、駅寄りに位置していた。
「学校までは歩き?」
「実家から自転車は持ってきてるわ。さすがにないと不便そうだし。でも、体力には自信があるから、運動がてら、まずは歩きで通ってみようかなって」
有名進学校出身で体力にも自信があるとなると文武両道ということだろうか。そのうえ上品さまで兼ね備えているのだから、神様は不公平だ。
「でも、京都の一キロと、この町の一キロは違うわね。特に高低差が」
川沿いへ出ると、ルカはコンクリートの堤防へと飛び乗った。ふわりとスカートをふくらませながら、軽やかに着地する。
「危ないよ。紫々吹さん」
「あら、見えてた?」
ルカは、余裕たっぷりにスカートを押さえる。
「そっちじゃなくて、落ちるよって意味」
彼女は「知ってる」と笑うだけで、堤防から降りようとはしなかった。子供のような無邪気な行動は、私にとって意外なものだった。
「あと、ルカでいいわよ? 私の苗字呼びにくいでしょ? 私も、もうすでにあなたを名前で呼んでいるし」
社交性のある人なら簡単に対応するのだろうが、私には難易度が高かった。むずがゆさを感じながら答える。
「じゃ、じゃあ、よろしく。ルカ……」
ルカは満足そうに笑った。なんだか、手玉にとられているような気がしないでもない。
「アマザクラが降ったら、この川にも花弁が流れるのよね」
「花弁がくすんでる時には、あんまり綺麗なもんじゃないけど」
「あら、私は好きよ。黒色までいくと不気味だけど、灰色くらいなら白黒映画の中に入ったような気分が味わえるし」
「ルカって、意外とロマンチスト?」
お互いの小さな笑いが重なる。
「私も、降花地域に住んでいたの。京都の峰上」
「うん。知ってる」
私は正直に、地学の授業での会話が漏れ聞こえていたことを伝えた。
「有名な降花地域だよね。京都プラス、アマザクラ」
古風な街並みに降るアマザクラの写真は、海外向けの観光案内サイトにも使われている。
降花量によっては電車が止まったり、ビニールハウスが潰れたり、アマザクラには厄介な部分も多い。しかし、その物珍しさから観光資源にもなっている。特定の地域でしか観測されない人を呼び込める自然現象、という点では〝雨〟よりも〝オーロラ〟に近い。
「まぁ、去年から、降らなくなってしまったけどね」
わずかにルカの声が沈んだ気がしたが、少し前を歩く彼女の表情は見ることはできなかった。
「もともと有名な観光地なんだから平気でしょ。ここみたいに、アマザクラ以外取り柄のないところじゃ、死活問題だけど」
「峰上みたいに、この町でアマザクラが降らなくなったら、ツバサさんは困る?」
ルカが堤防の上でわざわざ立ち止まり尋ねる。私が曖昧に「どうかな、多分」とだけ答えると彼女はまた前を向いて歩き始めた。
「でも、父はこの町に来ることになって喜んでたわ。九重のアマザクラは活きがいいからって」
「活き?」
「そう。九重のアマザクラは、国内で一番、降る頻度が高くて降花量も多い、でしょ?」
平均的に月二、三回しか降らないアマザクラだが、この九重ではその倍ほどのペースで降る。
オーロラと違って原理も分からず充分な予報もできないアマザクラだが、九重町の観賞ツアーは、その中でも打率が高く人気らしい。
「紫々吹さ……、じゃなくて、ルカは、アマザクラに詳しいんだね。お父さんの影響?」
彼女は笑みを浮かべながら否定した。
「いいえ。多少はあるだろうけど、父は被写体としてしかアマザクラを見ていないから」
「あなたは違うの?」
「ええ。私はね、いつか気象学者になってもいいかなって思ったりするわ。不思議なアマザクラをちゃんと理解するのも楽しそうだから」
気象学者。という響きに軽いジャブをくらったような感覚がした。すでに今、彼女がその肩書きを持っているわけでもないのに。
「じゃあ、もしかして、朝、アマザクラ食べてたのって……」
「あらやだ。見てたの?」
形だけ照れるが、彼女の表情は変わらない。
「あれは花弁の色の違いによって、味に変化があるのか気になって。でも、食べてないわよ。舐めただけ」
ルカが舌を出してみせる。行儀がいいとは言えないが、彼女がやると、モデルがあえてそんな表情を作っているようで絵になる。
「観察の一環、ってことね」
「意味があるのかはまったく分からないけれど。ほら、人生で一回くらい、ノーベル賞ってやつをとってみるのも悪くないかな、なんて」
本気なのかどうか測りかねる。夢を語るには、あまりに軽薄な態度だった。
十歩ほど無言が続いたところで小さな橋に差し掛かる。そこで、ルカが堤防を飛び降りた。軽やかに着地し、こちらを振り向く。
「じゃあ、私はこっちだから」
「うん。今日はありがとね」
「ありがとう?」
「さっき、助けてくれたこと」
「あぁ……、そうだった。私はあなたの恩人だったんだわ」
ルカは私の自転車の前から動くことなく、はにかんだ。
「ねぇ、ツバサさん。もしよかったら一つ恩返ししてくれない?」
恩返しをはっきりとねだられる。挑発するような口調だったが、内容は小学生が口にするようなかわいらしいものだった。
「私と友達になってほしいの」
「と、友達……?」
友達とは、時間を重ねるうちにいつの間にかできるものなのだと思っていた。こうしてはっきりとお願いされると、なんだか照れてしまう。
「転校したばかりでいろいろ不安で。ほら、私ちょっと浮いてるし」
確かにこの田舎町で彼女は浮いている。私から見たら、それは一つ上のステージに立っているからこそなのだが。
「周りにいっぱい人いるじゃん」
クラスの中でも明るく社交的なグループが、ここ数日ルカへ頻繁に話しかけていた。
「うーん、彼女たちとは、少し話が合わなくて」
「だからって私っていうのはどうだろう……。自分で言うのもなんだけど、あんまりおすすめしないよ。かなりつまらない人間だし」
ここ数日間、ルカに話しかけていたクラスメイトのほうがよっぽど人気者なのだと説明する。目つきが悪く近寄りがたいと思われている自分と一緒にいると、ルカにも悪い噂が広がるかもしれない、とも付け加えた。
「そう? この町に来てから、ツバサさんと話した今の時間が一番楽しかったのだけれど」
「えっ! ま、またまたー」
滅多に向けられることのない自分への褒め言葉に、心臓が跳ねる。
「もし嫌ならいいわ。恩につけ込むつもりはないもの」
「いや! 嫌じゃない。その、もし私でよければ」
きっとそのうち退屈になって別の友人を見つけるだろう、なんて薄情なことを考えながらではあったが、私はルカの申し出を受け入れた。
「じゃあ、よろしく」
外交をする政治家さながらに、私たちはがっちりと握手をする。
片手で支えた自転車が倒れそうになったところで、ルカはようやく私の手を離してくれた。
「じゃあ、また明日。学校でね」
長い髪を揺らしてルカが歩いていく。姿勢とスタイルのよい後ろ姿を、私はぼんやりと見つめてしまった。
「友達、か」
一人になったので自転車に乗ってもよかったのだが、私はルカとの会話を反芻しながら歩き続けた。
――この町に来てから、ツバサさんと話した今の時間が一番楽しかったのだけれど。
周りから一目置かれているクラスメイトに友達になりたいと言われたことは素直に嬉しかった。明日から悪目立ちしないか心配になる一方で、優越感もないわけではない。
その時、正面からバイクのエンジン音が近付いてきた。通り過ぎたのは新聞配達のカブだったが、私は先ほど出会ったバイクスーツの女を思い出す。ルカとのやりとりでのぼせていた頭が、一気に冷たくなるのが分かった。
――アマザクラの秘密を知ってるな?
かすれた女の声が頭に響く。
急に、一人でいることが心細くなった。
なぜ、彼女は私がアマザクラの秘密を知っていることを知っていたのだろうか。
一枚のアマザクラが自転車のカゴに落ちてきた。二つ、三つと別の花弁があたりに降ってくる。花弁の色は温かみのあるピンク色だ。
「なにかいいことでもあったの?」
私は花弁が舞う宙に語りかけながら、ヒヨリを想う。
あの女の言う通り、私はアマザクラの秘密を知っている。
橋の途中で立ち止まり、上流を眺める。この川は私たちが遊び場にしていた九重湖へ繋がっている。
十年前のあの日、私とヒヨリはそこで、光る花弁を見つけた。
おそらくそれは、この町で一番最初に空から降ってきたアマザクラだ。
3
九重公園のベンチにランドセルを下ろす。お互い一年しか使っていないので、まだ新品同様だ。
「ママに聞いたんだけどさ、ツバちゃんピアノ始めるんだって?」
「お母さんが習い事一個選べっていうからさー」
習字や新体操のパンフレットも用意されていたが、その中から私が選んだのは《三ツ沢ピアノ教室》と書かれたものだった。赤ちゃんの頃から隣の家のおばさんが趣味で弾くピアノを聴いていたので、他の選択肢よりも親しみやすかったのだ。
母親からは、チームスポーツでもやればヒヨリ以外にも友達ができるかもしれないよ、なんて助言されたが、その必要性も私は特に感じなかった。
「ヒヨリも一緒にやる?」
「私は無理だよ。ドジだし、絶対音符とか間違えちゃう!」
確かに彼女は学校からここに来るまでの間も、何度か躓いて転びそうになっていた。私がそのたびに支えていなかったら、擦り傷だらけだっただろう。
「ツバちゃん、ピアノ似合う」
「えー、どこが? 男子には今日からかわれたよ。ああいうのはお嬢様がやるもんだって」
「絶対似合うよ。だって、ピアノもツバちゃんもビシッって感じがする」
「ビシッってなにそれ」
「自分でもよく分かんないけど」
ヒヨリがくすくすと笑って、公園の隅に植えられた桜の木へと視線を逸らす。半分くらいの花が散った木を見て、彼女は思い出したように話題を変えた。
「そういえば、昨日パパが教えてくれたんだ。地面に落ちる前にサクラの花びらを掴めたら、なんでも願い事が叶うんだって」
「なにそれ、すごい。流れ星みたいじゃん」
最初に頭に思い浮かんだのは、明日の算数のテストがなくなってほしい、だった。二年生になって習ったひっ算が少し苦手だった。
私は休憩所を飛び出して、公園の隅に並ぶ桜並木へと走る。
先週の日曜日はお花見をしに来ている人がいたが、今日は周りに誰もいない。落ちてくる花びらを掴むチャンスは独り占めできた。
「ほっ! はっ!」
空中できりもみ状態になりながら落ちてくる花びらの動きは一枚一枚バラバラで、まったく掴むことができなかった。
遅れてきたヒヨリも両手を振りながら挑戦していたが、一枚もキャッチできずにいた。
日が落ち、花びらを目で追うことも難しくなったところで私はその場に倒れ込む。芝の上には、私をあざ笑うかのように着地した花弁が散らばっていた。
「ダメだー!」
「難しいねー」
花びらを掴もうとすること自体が楽しかったのか、ヒヨリはあまり残念そうにはしていなかった。
「ねぇ、もし花びらを掴めてたら、ツバちゃんはどんなお願いをしてた?」
「百個くらいあった。だから、百枚くらい掴むつもりだったんだけどなー」
呼吸を整えながら二人で会話していると、太陽が山の陰に隠れてしまった。上へと伸びる光のトゲだけが、空に残る。
「ヒヨリのお父さんはキャッチしたことあるの?」
「あるって言ってた」
「どんな願い事をしたの?」
「私が元気に生まれてきますように、ってお願いしたんだって」
ヒヨリが生まれてくる前、もしかしたら、病院に生えている桜の木で挑戦したのだろうか。
そんなことをぼんやりと想像していると、空で光が瞬いた。
ヒヨリも同じものを見つけたらしく、目を凝らしている。
「星?」
それにしては明るい。
「飛行機?」
それにしては揺れているだけで、どこかに飛んでいく様子もない。
小刻みに収縮を繰り返す光の粒は、ちょっとずつ明かりの強さを増しながらこちらに近付いてきた。
「花びらだ……」
光の粒が桜の木のてっぺんに差し掛かったところで、はっきりと気が付く。光りながら落ちてきているのは桜の花びらだった。その光も桜と同じ薄いピンク色だ。
先ほどまでさんざん追いかけた花びらとまったく同じ動きをしている。
「綺麗……」
ヒヨリが腕を伸ばすと、花びらは風もないのにコースを変えて、その指先へと寄っていった。得体のしれないその動きに驚き、私は思わず体を起こす。
「ヒヨリ、触っちゃ……」
私が伸ばした手がヒヨリを止めるよりも一瞬早く、光る花びらが彼女の手の平に吸い込まれた。
次の瞬間。ヒヨリの手が輝き始める。まるでそこにピンク色の太陽が生まれたみたいで、目を開いていられなかった。
まぶたを開くと、あたりは完全な夜になっていた。
「ヒヨリ⁉」
隣で寝転がるヒヨリの肩を揺らすと、彼女はゆっくりと体を起こした。
「あれ、ツバちゃん。私寝ちゃってたの……?」
ヒヨリは手首につけたキャラクターものの腕時計を確認してから、慌てて立ち上がった。
「わわわ。もうこんな時間! 早く帰らないと!」
「待って、ヒヨリ、大丈夫なの?」
「大丈夫って?」
きょとんと首を傾げるヒヨリに、空から降ってきた光る花びらのことを尋ねるが、彼女はなにも覚えていない様子だった。
「夢でも見てたんじゃない?」
「そう、なのかな……」
ヒヨリの言葉にうなずく一方で、目の奥にピンク色の光が焼き付いているのを感じていた。でも、あたりを見回しても、光る花びらは見当たらなかった。
家に帰って、遅くなったことを怒られて、ベッドに入り、その日は眠った。
次の日、私は翔太のはしゃぎ声で起こされた。
「姉ちゃん! サクラ! サクラが降ってる!」
彼が両親を起こすのを横目に見ながら、私はリビングのカーテンを開けた。
九重町に、サクラが降っていた。
映像では見たことはあったし、そういう天気があることは生活科の授業で習ったこともあったので、これが、アマザクラ現象と呼ばれるものだとはすぐに分かった。
家族も同じはずだった。だがまさか自分の住む町で降り出すとは思っていなかったらしく、お母さんと翔太は口をあんぐりと開けて空を眺め、お父さんはビデオカメラを引っ張り出して撮影を始めていた。
『えーただ今、この九重町で初のアマザクラが観測されています。幻想的な景色です! 日本国内では、六カ所目の観測地域になります!』
テレビでは速報として九重町が取り上げられ、町内放送でもアマザクラに健康被害はないことやその対応が繰り返し広報されていた。
小学校へ登校しても、教室には誰もいなかった。
みんな運動場で駆け回り、空から落ちる花弁を浴びていた。はしゃぎすぎて怪我をしないようにと注意して回る先生も、時々空を見上げて歩き躓いていた。
やがて、教室にヒヨリがやってきた。彼女もすぐに窓際に駆け寄って、降ってくる花弁をキャッチしようと窓から身を乗り出した。
「ツバちゃん! すごいね! これ積もったら、雪ダルマとかできるのかな。かまくらとか作れたらすごいよね」
「ヒヨリは、やっぱり覚えてないんだ?」
「ん? なにが?」
ヒヨリは私の質問を深く受け取ろうともせずに、ランドセルを机に置いて運動場へと走っていった。
私は少し遅れて彼女のあとを追った。小さな戸惑いが心の中にあったからだ。
空から落ちてきた、不思議な光る花びらをヒヨリが掴んだ次の日に、突然アマザクラが降り始めた。
「なんだったんだろ、あれ……」
*
光る花弁をヒヨリが掴んだから、この町でアマザクラが降り始めた。
今思えばバカみたいな想像だけど、それをすっかり忘れられるほど、私は賢くて現実的な子供ではなかった。
それからアマザクラが降るたびに、九重公園に落ちてきた光る花弁を思い出した。
そして、それを掴んだヒヨリのことを心配した。
「気分が悪くなったりしてない?」なんて尋ねてみたりもした。
一週間、一か月、一年と経ち、その間にもまたアマザクラが降った。
地域の旅行で遊園地を満喫して帰ってくると、九重町では明るい花弁が積もった。
ヒヨリが先生に怒られた日、花弁の色はくすんで灰色だった。
私と怒鳴り合うような喧嘩をした日の夜は、もっともっと暗い灰色だった。
五年近く続いた〝もしかして〟と〝そんなバカな〟の繰り返しは、私とヒヨリが中学生になった時に終わった。
あれは、じめじめとした梅雨のことだった。
寝る前に英語の勉強をしていると、雨に濡れてふやけた窓越しに、赤いライトが点滅していることに気が付いた。嫌な予感と共に窓を開けると、ヒヨリの家の前に一台の救急車が停まっているのが見えた。
「ヒヨリ!」
私が彼女の家に駆け付けた時、救急車はすでにヒヨリを乗せて出発したところだった。
彼女のお父さんが心不全で亡くなったことを知ったのは、その次の日のことだ。
雨はやんだ。でも、その代わりに九重町には、くすんだと表現するよりも、焦げたといったほうが近いような黒い花弁が降り続いた。
彼女の家の前に張られた鯨幕。その黒い帯に花弁が消え、隣の白い帯にまた現れる。まるで古い白黒映画の中にいる気分だった。
ヒヨリの部屋のドアをノックすると、拍子抜けするほど普段通りの声が返ってきた。
「どうぞー」
私が部屋に入ってからも、彼女はお坊さんが来るから、と淡々と身支度を進めた。外には喪服姿の大人たちがいっぱいいたが、私たちはいつも着ている中学の制服姿だった。そのせいか、この部屋の中ではまるで普通の一日が始まっているような錯覚すら覚えた。
「急だったからさ。なんか頭が追いついてないんだ」
ヒヨリはどこかぼんやりとした様子で、窓の外で舞う黒い花弁を眺めていた。
そんな彼女を見ていると、冷たい水に浸した手を連想した。しびれ、麻痺し、なにも感じなくなる。それを〝大丈夫〟だなんて呼んでいいはずはない。
私はヒヨリの横へと移動し、彼女の手を握った。
「悲しいね」
ヒヨリは「うん、そだね……」と相槌を打ったあとで、声を震えさせた。
「うん。悲しい……」
ずっとため込んでいた涙を彼女はあふれさせた。嗚咽と一緒に、運命を罵倒するかのように私にすがりついて吐き出した。
「なんで……。なんで……!」
胸の中で泣きじゃくる彼女の頭を撫でながら、私も泣いた。流れる涙をぬぐうことはしなかった。彼女に触れている手を、ひと時だって離したくなかった。
窓の外では、相変わらず黒い花弁が舞っていた。
その時に確信した。
ヒヨリの心は、空と繋がっている――。
彼女の心の中の感情に反応し、この町にアマザクラを降らせている。
あの日からずっと、それが私にとってのこの世界の真実だった。
人に話して信じてもらえる確率なんてゼロパーセントだと思ってる。
ヒヨリが科学者に目をつけられて研究対象になってしまうかもとは、半分だけ思ってる。
自分の心がみんなに分かってしまう世界が、彼女にとって幸せなわけがないと確信してる。
だから、このアマザクラの秘密は、ヒヨリとアマザクラの関係は、誰にも知られてはならないのだ。内緒にすると、私は決めた。
ルカと別れてから少しして家にたどり着いた時、橋の上で降り出したアマザクラはやんでいた。自転車のカゴの中に、花弁が一枚だけ残っている。
その色がいたって普通の桜色であることに安心する。
きっと、ささやかで、でも心躍るなにかがヒヨリにあったのだろう。
先ほど遭遇したあのバイクスーツの女もどこかでこのアマザクラを見ているのだろうか。
そんなことを考えると、不安が心に広がった。
神屋敷ツバサと別れてから、十五分ほど歩いて今の住居へとたどり着いた。
まだ私は、このあたりの道を把握しきれていない。もう少しショートカットできるコースがあるのかもしれないと、向かいの畑に通る畦道を見ながら考えた。
私は玄関を通り過ぎて、アパートの裏にある駐車場へと向かう。普段、父がSUV車を停めている場所に、今はバイクが停まっていた。赤いガソリンタンクが夕日を反射している。
「お帰り、ルカ」
ヘルメットで崩れた短い金髪をかきあげてから、彼女はバイクスーツのファスナーを下ろした。
「お疲れ様、立樹」
「あんな感じでよかった?」
「あんな感じでよかったわ」
「でも、雰囲気を出すためとはいえ、この季節にこのバイクスーツはなかったなー」
立樹は自分の手の平をうちわ代わりにして、バイクスーツの中に空気を送っている。
「ねぇ、ところでルカ。本当にあの子で合ってるの? 見た感じこう、かなり普通な子だったけど」
「合ってると思うわ。あなたになにを聞かれたのか、はぐらかしていたし、警察に連絡するそぶりもなかったから」
もしアマザクラに関して世の中一般同様の知識しかないなら、彼女は立樹からの質問の意味も意図も分からなかったはずだ。
「ごめんね。立樹」
「なにが?」
「こんなことを頼んだこと」
立樹は短くため息をつく。謝られたのが不服なようだった。
「回りくどいなとは思うけど、まぁ、あんたのが私より頭いいし、これが最短ルートなんでしょ? あっしは親分にしたがいやす」
立樹が間抜けな声の調子でおどけてみせる。私のひりついた気分をなごませようとしているのだろう。
「ありがとう……」
先ほど降りやんだアマザクラの花弁が、バイクのタンデムシートの上に残っていた。つまみあげ指の間でこすると、花弁はバラバラになって地面へと落ちていった。
「彼女が知ってることを、私は知らなくちゃいけないの……」