典薬寮の魔女
前章
「まずい状況になりましたね」
最低限の灯りしかない暗い一室で、壮年の男性官吏は口を開いた。叱責するような口調だった。
それに対し、真向かいに座る女性官吏が謝意を表すように頭を垂れる。
「再三警告したはずですが……いったいどうして、あなたは貴人を敵に回してしまうのでしょうか」
「ご心配をおかけして申し訳ありません、木暮様」
「心配をかけているのではなく、迷惑をかけているのですよ、雪代殿」
呆れるような溜息が暗闇にこぼれる。
「よもや、薬殺阻止に挑むとは……」
「致し方ありません。わたしの職掌に関わることですから」
「呪殺ならまだしも、薬殺の企てを阻止しようとするなんて。いや、呪いの方がまだ都合が良かった。あれはただ信じるか、信じないかによって実害が変わりますからな。ところが薬殺は違う。これは呪いで片づく話ではない。ヒトの忌まわしい業――欲望に忠実な行いです。呪いであれば下手人につながる糸を手繰るのは難しいが、薬殺となれば必ず仕掛けた本人に行き着く。あなたは進んで虎穴に近づいているのです。そこがどれほど危険な場所かを理解せずに」
「虎穴に入らずんば虎子を得ず。正しいことをするためには多少の危険を覚悟しなければ」
「命を落とすほどの危険であることを認識して頂きたい」
「……しかし」
「確かにヒトの業は呪いよりマシです。あやふやなものではなく、意図や感情という明確な形がありますから、捉えることも正すこともできるでしょう。ただ、命が危うくなる状況であれば、そこから身を退き、安全な場所に逃げることが定石。あなたは定石を無謀にも捨てたのです」
ふたたび溜息。木暮という男は言葉を続ける。
「予定をはやめます。あなたの命を守るためにも、早急に随身(護衛)を手配しなければ」
「……しかし、木暮様から随身をお借りするわけにはいきません。木暮様の随身を侍らすとなればいたずらに注目を集めてしまいます」
「そう思うのなら、もっと慎重に動いて貰いたいですね」
木暮はわずかに笑いを含んだ口調で続ける。
「ご安心ください、雪代殿。わたしの随身をお貸しするのではない。あなたが雇う随身を用意すると言ったのです。古い伝手があります。腕が立つ武官を育てている所に急使を遣わして、有望な若者を出仕させましょう」
「……わたしが、随身を雇うんですか」
雪代の声には、困惑する響きがあった。
「自分の随身を持つことで、すこしは責任感も芽生えるのでは」
木暮の声には悪戯っぽい響きがある。
しばし迷うような沈黙を経て、雪代は声を絞り出す。
「随身の件ですが……わたしが、会いに行かなくてもいいんでしょうか」
「そこは限られた者しか立ち入ることを許されない。秘密の場所ですから、あなたをお連れすることはできません。わたし自ら現地に赴くので、ご安心ください」
「木暮様が直々に赴くなんて……何者なんですか、そこで訓練されている武官たちは」
「多くのことを語れませんが、朝廷に優秀な武官を献上する役目を担う秘密の集落です。実際に当人の働きを見れば分かるでしょう。彼らがどれだけ優秀なのかを。腕ばかりではなく観察力や思考にも磨きがかけられた逸材を――」
木暮はわずかに間を置いた。
「その名は、――『飛廉』といいます」
第一章、飛廉推参
一、出仕
夜明けが訪れたばかりの山のなかは薄暗く、空気は肌を削ぐように冷たい。河原を渡り、苔生した岩場を慎重に歩く少年の姿があった。粗末な小袖(着物)に直垂(上着)、小袴の出で立ちで旅用の手甲と脛巾を着けている。時折、足を滑らせそうになりながらも、少年は一度も転ぶことなく薄暗い山路を先へと急いだ。やがて開けた場所に出た。そこは尾根の切っ先であり、山脈や山麓、さらには平原を見渡せる素晴らしい展望だった。
ここは父親から教えてもらった場所で、滅多に人は来ない。少年は肌寒さに身を震わせながらも、次第に空気が暖かくなるのを感じた。東側の山脈が明るくなり、太陽が顔を出し始める。風に促されて、森がざわめきをあげる。静寂のなか、かすかにホトトギスが鳴いた。
少年は、目を細める。その目が捉えているのは南方に築かれた平地の町。
王都――一之宮である。
仲間の話によると、そこには世界のすべてが掻き集められるという。王都を支配する帝に献上されるあらゆる農作物、工芸品、貴重な書物や薬品や鉱石、さらには武勇に秀でた人間が。
少年は両手で自分の膝を抱えた。
山の達者(狩人)として腕を磨いてきた自分も、今日、あそこへ送り込まれるのだ。
山間を流れる渓流の上手にその集落はあった。家屋を建てるに必要な広さだけ山を切り開き、横並びに棟が連なるその集落は炊事の煙が上がらなければ誰もそこにあるとは気づけないほど、巧みに森に隠されていた。陽の光は暖かく降り注ぐが、山の空気はしんと冷えている。だから集落の者は必ず袖の長い服を着ている。この集落に呼び名はなく、ここに出入りする商人などは便宜上、『無名』と呼んでいた。
尾根に座り込んだままの少年は自分の故郷がある渓谷に視線を向ける。そこにしばらくの間、視線を落としていた。村ではそろそろ朝餉の準備が始まったのだろう。森の中に立ち上り始めた霧に交じって、色濃い炊煙がもくもくと上がり始めていた。
今日で、この山とはお別れなのだ……。
寂しく思いながら、少年は後ろを振り返り、自分を見下ろす雄大な山脈を見上げた。
少年の字は飛廉という。歳は十五で、先日、元服を済ませたばかりである。ここ無名という集落において、元服を済ませた男の何人かは、古い仕来りで、遠く離れた王都、一之宮に遣わすことになっている。この仕来りがどのような経緯で成立したのか正確には誰も知らないが、ここ一帯を治める豪族あるいは国司が、この集落から租税を徴収することは難しいと判断し、代わりに屈強な男たちを警護の士官とするように命令したのが始まりだと伝えられている。山に生きる狩人はすでに兵としての下地が完成しているから重宝されているのだろう。ゆえに、この仕来りは長く続き、集落は官吏が税を取り立てる代わりに、定期的に、兵として有望な若者を迎えにくる。
王都に遣わされる有望な若者に与えられる二つ名が「飛廉」だ。これは風神や風を司る怪鳥の呼び名として知られるが、この集落においては山を知り尽くした狩人に与えられる誉れある名称である。だが、同時にこれは王都に生きることを縛り付ける呪いでもあった。
数年に一度、この里では優秀な狩人が篩いにかけられる。技術だけでなく、読み書きなどに精通した者が選別され、基準を満たせば王都に遣わされるのだ。
つい最近、達者の選別は行われたばかりだった。当分の間は選ばれないだろうと思っていたが、予想外にも自分が突然、「飛廉」に選ばれてしまった。
自分だけは選ばれないと思っていたのに。
飛廉は溜息を吐いた。
どう足掻いても自分は王都に行かなければいけない。ここに別れを告げるということは、もう戻ってこられないということだ。戻れば、集落の身内が罰せられる。そんなことをすれば自分の居場所を失うだけでなく、身内の居場所まで奪ってしまう。沢で笑い声をあげながら走り回る子供たちを苦しませることになり、さらには恨まれることになるのだ。家族のために自分を犠牲にし、あの子たちがここで幸せに生きていくためにも自分は出ていかなければいけないのだ。言葉ではうまく言い表せない不快感が体の内側で暴れまわる。先人の飛廉もこんな不快感を抱いたのだろうか。
「飛廉」として王都に遣わされた人間が、どうやって生きているのか自分は知らない。
知らない。分からない。怖い――だから行きたくない。ここに残りたい。
けれども自分の意思とは関係なく、王都へ行くことは決定している。
――己の意思に反して出仕しなければならないのだ。
何度も何度も、この里に残る理由を探そうとする自分に、飛廉はそう言い聞かせた。
その時、枯れ葉が踏まれる柔らかな音が、小さく耳に届いた。顔をあげて確認するまでもない。飛廉がここにいることを知っているのはただひとり。
背後から、そっと声が掛けられた。
「――飛廉」
「もう、迎えが来たのですか、父さん」
振り返る気にはなれず、王都を見つめたまま飛廉は尋ねた。
父親が実の息子を字で呼ぶなんて……。
字とは、真の名(本名)とは異なる愛称のことだ。地域によっては、人物や生まれ故郷にゆかりのある名を字にする。
ただし、無名においてこの字は、王都に出仕する若者に贈られるものであるから、名ではなく記号の意味合いが強い。
元服し、飛廉の二つ名を与えられてから、誰もがよそよそしくその名を口にした。実の父ですら、母ですら。生まれ持った名を誰もが忘れてしまったように、長老から与えられた字で呼んでくる。
まるで「飛廉」以外の名を持っていないように。
先日まで呼んでくれた名を口にすることはなかった。
真の名は身内だけに明かし、それ以外の者には字を告げ、魔物に連れ去られないための護符とする。
かつてそれを父が教えてくれた。
だというのに、家族は字で飛廉を呼び、ほんとうの名を呼んでくれることはもう二度となかった。
決して人が太刀打ちできないような魔物が連れ去ったのは自分自身ではない。自分が大事にしていた真の名だ。それは奪われた。いま残されたのは字のみ。
家族はすでに自分と別れを告げていたのだ。
そして、迎えが来るまでの間、責任者として飛廉と一緒にいるだけに過ぎない。
もう家族ではないのだ。
「……沢で都の役人様がお待ちだ。支度なさい」
「支度ならできています。大した持ち物なんてないんですから」
元服前とは違いすぎる父の態度に、飛廉は苛立ちを込めて返す。真正面で向き合った日々を懐かしく思うことはできなかった。そうだ、自分は死んだも同然だ。残されているのは、飛廉という字。それにすがり、これからひとりで生きていかなければいけない。
家族でない以上、視線を合わせることもしなかった。不当と怒ることもできない。
父親に背を向けて、飛廉は別の道を歩き出す。父は声を掛けなかった。振り返らなくても分かる。まるで吹き去る風を見送るように自分を傍観しているのだろう。実の息子だというのに。あなたの子供なのに。名が変わっただけで家族でなくなるなんて。
ゆえに、飛廉はこの字が嫌いだった。
名は呪いだと、以前、長老が語っていたような気がする。記憶は定かではないが。
でも、実際そのとおりだった。
名は呪いだ。そしてそれを背負って飛廉は孤独に生きていくしかないのだ。
これが呪いでなければ何だというのか。
獣道を下っている途中、ふと、飛廉は振り返った。父親が足並みを揃えるように調整して動いているのが見え、何故か無性に腹が立って、一緒に歩きたいと思わなくなり、飛廉は歩幅を上げて山を下ることにした。父親は急いで追いかけようとしなかった。やがて姿が見えなくなった。
山を下りる途中、何人かの狩人とすれ違った。
集落に戻る者、山にのぼる者。誰もが、飛廉の顔を見て今日が出立の日だと思い出す。
そして、黙って見送る。
誰も声をかけてくれない。
息苦しさ、居心地の悪さを感じながら飛廉は集落に近づく。そして、走り出した。長老に呼ばれて急いでいる様子を装って。そうでなければ、集落のなかでありとあらゆる人が視線を向けてくるだろう。それは、いまの飛廉には痛すぎる。飛廉は誰とも目を合わせず、渓谷のなだらかな坂道を駆け下りながら、沢の下手に立つ長老たちの姿を認め、そこへ走っていった。
この集落は山中で自己完結している。つまり麓からここへ至る道はない。あるのは狩人が使う獣道くらいだ。だから飛廉を迎えに来る官吏たちは必ず川に沿ってここへ辿り着くのだ。山に慣れない人間でも、川沿いの道を歩けばやがて里に辿り着く。
沢にて長老は飛廉を官吏に引き渡し、見送ることになっている。
「――ああ、来たか」
静かに佇む長老に、飛廉は駆け寄る。
「お待たせしました……」
「慌てる必要はなかったが。まあいい。こちらがおまえを迎えに来た御方だ」
長老が恭しく示したのは山を歩くのに相応しくない恰好をした男たちの姿だった。
一目見て王都からやってきたと分かる、召具装束(公家の追従者の官服)を着た一団だ。
随身たちがまとう褐衣姿の狩衣は泥や水で汚れている。確かに狩衣は動きやすい服だが、道のない山中を動くのに相応しい恰好ではない。狩衣といえども簡易礼装。きれいな着物をこんなことで汚すなんてもったいない、と飛廉は思った。
褐衣の男たちは、露骨に驚いた顔でこちらを見ている。こんな少年を差し出されたことに戸惑っているのだろう。
そんななかで、穏やかな面持ちで佇む男がいた。
齢はおそらく四十に届くか届かないかと思しき男性。紋付きの狩衣に上質な革製の手甲と脛巾を着けている。飛廉は緊張する。紋付の衣は貴人のものだ。だが、相手には山育ちを卑下する空気はまったくなかった。疲れた面持ちを浮かべているが、飛廉を見つめる眼差しは柔らかい。
何も尋ねないところを見ると、どうやらこの人が飛廉を迎える官吏のようだった。
「お目にかかれて光栄です。木暮と申します」
「飛廉です。お見知りおき頂ければ幸いです」
飛廉は深く頭を下げる。
木暮、か。都の官吏にしては山の民に相応しい名だった。木暮、あるいは木の暗れ。茂る木の下の薄暗さを差すこの言葉は姓氏として広く用いられているとは聞く。つまりこれは字ではないのだろう。姓氏を持つ人間であれば貴人と見るべきだ。
「では……わたしがご奉公するのは木暮様で」
「いえ、わたしではありません。あなたを一之宮に案内する役を買って出たに過ぎませんから」
穏やかに微笑み、木暮はゆっくりと首を振った。その返答に飛廉は眉根を寄せて長老を仰ぐ。どういうことなのか。低い位の官吏が迎えに来るとばかり思っていたが。姓氏持ちとなれば一之宮でそれなりの地位と権力を有する身分だ。山育ちの飛廉を迎えにくる理由が分からなかった。
「木暮様、わたしは誰にご奉公すればよいのでしょうか」
飛廉は緊張と不安を覚える。王都、一之宮で自分を待つ主はいったい何者なのか。姓氏持ちの貴人を遣いに出しているのだから、さらにその上の御方と見るべきか。貴人の上に立てる御方は山育ちでも知っている。帝室。いや、まさか。
混乱する飛廉に木暮は詳細を告げずに催促する。
「王都でお待ちです。用意がよろしければすぐにでも出立しますが、いかがなされます?」
「支度は済んでいます」
「おや……荷物は? 水と糧食は持たれないのですか」
「……すでに、持っていますが」
飛廉の返答に木暮が戸惑ったように頷く。
妙だな、と飛廉は訝しむ。すでに自分は弓箭と箙、さらには最低限の糧食、空の竹筒を持っているというのに。山育ちは基本的に荷物を多く持たない。腹を空かせば木の実を齧り、喉が渇けば小川に降りる。狩りに慣れた大人は最低限の糧食しか持たないのだ。無駄な荷物は疲労に拍車をかけるし、山をのぼるにせよ降りるにせよ、時間が掛かりすぎてしまう。
木暮がそのことを知らないと見ると、どうやらこの集落には初めて訪れたらしい。
本来は、飛廉を迎える役人は別にいるようだ。
「山の達者は身軽を好みますので」
長老の言葉に木暮は納得したように頷いた。
「飛廉、この方々に迷惑はかけぬように。足労を重ねぬように案内して差し上げなさい」
「承知しました」
山をのぼることは誰にでもできる。だが、肝心なのは帰り道だ。達者は山を己の庭とするが、そうでないものからすれば異界だ。ゆえに、下手に踏み込めば帰り道が分からなくなり、山を彷徨う羽目になる。山を知らぬものは道を迷い、命を落としてしまう。その結果、魔が潜む異界と徒に怖れられ、無駄な疑念を生み出す。山を異界と怖れるならば、山に暮らす者は魔と通じている、あるいは交わっていると誰もが噂する。それを鵜呑みにした人間は山の民を卑下し、嫌悪し、排斥しようとする。
恐怖や疑念に囚われた人間がまともな判断を下せるわけがない。
飛廉の集落が山奥にひっそりと佇むのは徒な迫害を怖れてのことであることは誰もが知っている話だ。
山を降りる飛廉はまず信用を獲得しなければいけない。木暮は飛廉に対して信頼を置いているようだが、ほかの者は見るからに、胡散臭そうに自分を観察している。わざわざ出迎えてまで仕官させるのが、こんな子供なのかと言いたげな様子だった。言葉には出さないが、すでに態度には表れている。この者たちを信用させなければいけないのだ。自分が真っ当な人間であることを。それを証明できなければ一之宮で暮らすことはできない、と長老から以前言い渡されていた。
「急ぎのご様子でしたが……」
「長く一之宮を留守にする訳にはいかないので」
休息をとらず山下りをするのは体に障るが、おそらく木暮は重職に就いているのだろう。こちらの意見は聞き入れられないようで、随身たちは飛廉を促すように見つめている。すぐに出立するつもりなのだ。
「山を下りたら一気に一之宮に向かいます。馬には乗れますか」
「玄人ではありませんが、たしなむ程度には」
「それなら大丈夫です。申し訳ない。一之宮には急いで戻らなければいけないことになっておりまして」
こうして、飛廉は半ば急かされるように一行とともに山下りをすることになった。渓谷に沿って緩やかな斜面を下っていく。森のなかを通ればすぐに山を下ることはできたが、この山行で彼らは汗を掻いて体を冷やしているようだった。顔には出さないが体の動きから無理をしているのは分かる。できるかぎり急ぎ、そして無理をさせないように飛廉は下山の道を先導した。
その道中、木暮はこれから飛廉が仕えることになる人物について話した。
「飛廉殿、あなたがご奉公する御方は帝室でも貴人でもありません。王都出身の典全の称号を手にした官人です」
「……典全、とは?」
知らない言葉に、飛廉は聞き返す。
木暮の説明によると典全とは「全てを司る」を意味するという。山育ちといってもある程度の言葉は知っている。だが、聞き覚えのない言葉に飛廉は困惑した。
どういうことだろうと思っていると、木暮は飛廉の掌に、典という文字を書いてみせた。
この言葉には複数の意味があるという。一に書を表し、二に掟を意味する。三が示すのは礼儀作法であり、まるでそれらの意味を統括するように、四番目に司るという意味が備えられている。漢字一文字が内包する意義深さに驚きを隠せない飛廉に対して、木暮は穏やかに説明を続ける。
曰く、典全とは大学寮が用意する官人試験で最も優れた成績を示した者に与えられる栄誉の称号である。
その資格を満たす条件は知識と技量を等しく極め完成させること。
簡単なように見えて、これを実際に取ることができた人間はいなかったという。これまでに行われた官人試験で優れた成績を示す者はいるが、単に秀でているだけではこれを手にすることはできないらしい。
現今の帝が践祚してから典全という称号は設けられたというが、十数年もの時が経過しながらも、これを手にすることができる者はいなかったという。
今年も現れぬか、と誰もがそう思っていると、それを手にする者が現れたという。
当時その者、齢十四。
「いまは十六歳になっています」
「……若いお方なんですね」
護衛対象の予想外の人物像に、飛廉は戸惑う。
「失礼ながら、木暮様の御身内ですか」
「長い付き合いの友人、と申しておきましょうか。訳あって、あなたをお連れすることになりました」
訳あって。
――その言い方に飛廉は引っ掛かりを覚えた。
長老や周りの大人たちからは何も説明されていないが、武官として「飛廉」の字を与えられた達者が王都へ送られているのは分かっている。これから自分に課せられるのが、武を用いた務めだということは漠然と理解できる。
つまり、荒事だ。
「何か危険なことに巻き込まれたのでしょうか」
「まあ、そんなところですね」
木暮は苦笑いを浮かべている。
「彼女の能力は宮廷で花開くことになるだろう。そう予感して、わたしは朝廷の官吏として働くことを薦めました。登用試験を優秀な成績で合格し、典薬寮に入ってからも目覚ましい成果を出していたのですが……熱心さが高じたのか、それとも生来の正義感が災いしたのか、貴人官人の悪だくみを度々妨害するようになりまして」
予想外の内容に飛廉は言葉を失う。平民の出か。めでたく官人になったのはいいものの、貴人官人の悪だくみを阻止するようになったとはどういうことなのか。
奇妙な話、奇妙な為人である。
「……それは、なんと、まあ」
肝が据わっているといえば、肝が据わっているが。
相槌に困っていると、苦笑いを浮かべたまま木暮も頷いた。
「頭がいいのか、悪いのか。よく分からなくなりますよ。大胆に命を狙われることはないでしょうが、危険であることは変わりない。どうしても随身が必要でした。そこで、古い伝手を使って、ここを頼らせていただきました。多少時間がかかりましたが」
飛廉は頷きながら、ふと思い出す。
――先ほど、木暮は『彼女』と言及した。
「では、わたしが奉公することになるのは、女性の官吏ですね」
「左様。書賈の娘であり、字を雪代と言います」
雪代――雪解け水のことか。風致を字に選ばれるとは恵まれている人だ。飛廉という字とは違って、それは呪いにならない名だ。
どんな人だろうかと、飛廉は考える。
「女に仕えることに、抵抗を抱かれますか」
じっと飛廉の顔を見つめて、木暮が問いかける。
「いえ。これがわたしの務めですから。性別身分に関係なく、お守りするよう命じられれば、誠意、尽くす覚悟でございます」
「よい覚悟です。あなたを頼ることができたのは、雪代殿にとっても幸運でしょう」
ほう、と安堵の息を漏らして、木暮は疲れたような笑みを浮かべた。
「宮城に着き次第、雪代殿と会うことになっています。その際、彼女から詳細を聞くとよいでしょう」
「命を狙われるような事態になっているということは、雪代様は八虐と向き合っているのですか」
飛廉は気になって、そう質問した。
八虐とは、国の秩序を乱す罪の呼称である。
具体的に言えば……
謀叛、謀大逆、謀反……これらの三つは国家転覆をはかる罪。
悪逆は君父を殺す罪。
不道は大量殺人、あるいは肢体を切断する罪。
大不敬は帝室に対する罪。
不孝は親に仕える道を取らぬ罪。
不義は師あるいは長官を弑する罪。
これらはどれも国の大本を揺るがす咎であり、犯した場合は重罰に処されることになっている。僻地で暮らしている飛廉でも、朝廷がそれを厳しく律していることは知っていた。
「そうですね。八虐に関わっているといえば、確かに関わっています」
木暮は溜息を吐いて頷く。
「齢十六で虎穴に挑むとは、分不相応な度胸ですよ」
「正しい行いをしている自負があるからこそ、怯まないのでしょう」
「ただし、それが宮城において正しいとは限らないのですよ」
木暮は溜息を吐いた。
「不義を働く輩はある程度処断されたといっても、雪代殿は多くの貴人を敵に回しました。彼女は不義不道を一掃しようとし、多くの貴人は密かに排除しようとする。公然と実行するわけにはいきません。何しろ、彼女の知名度はゆっくりとあがり、帝もその活躍を耳にするようになりましたから。ゆえに……病や事故などを装って宮城から抹殺しようと画策しているのです」
「だからわたしが呼ばれたのですね」
思えば急な話ではあった、と飛廉は思い出す。一家が長老の呼び出しを受け、元服に合わせて飛廉という字を授けると言われたのはほんの数日前だった。飛廉の字を授けるに足る器量を持っていると長老は認めていたが、自分は何を言われたのか分からず、両親も共に茫然としていた。何故、と父はかすれた声で問うたが、長老や控えの者は何も答えてくれなかった。
はやすぎる、と父親は困惑気味に声に出して呟いた。
はやすぎる、と自分は声にも出せず心のなかで呟いた。
だが、いまは理解できる。
元服前に飛廉の字を授けると宣言されたのは、早々に飛廉を欲する人間が一之宮にいたということなのだ。
その御方こそが、いま命を狙われているという典薬寮の雪代。
なるほど、選別の試験を行わずに急ぐわけだ。木暮にとって雪代なる人物が大事であるならば、一刻もはやく信頼できる随身を連れておきたいのだ。一之宮を留守にした間に凶刃に倒れることがあってはならないのだから。
「雪代殿の周辺にはすでに近衛府の舎人が配されていますが、わたしが随身の件を申し入れたのですよ。わたしは飛廉をよく知っていましたからね。信頼できると」
「……では、以前随身に飛廉を求められたのですか」
「わたしではありませんが、ね」
木暮は首を振った。
やがて無事に山を下り終えた一行は、麓で馬に跨り南方の一之宮を目指して疾駆した。すでに日は傾き、空は茜色に染まっている。先導する一行の背中を必死に追いかけながらふと飛廉は背後を振り返った。燃えるような夕暮の色に染まった山々が遠ざかっていく。そして近づいてくるのが、一之宮と王都の中央に盛り上がる巨大な山だ。
天王山です、と木暮が指差しながら叫んだ。
それは古くからある山だったというが、現人神が降り立ってからは宮城へ姿を変えた。頂に雲上殿が建てられ、帝はそこで政の勅命を発する。その勅命に従うのが、中腹と麓に設けられた律令官衙の官吏たちである。
律令制において政府機能は徹底した細分化が図られ、神祇官と太政官による二官八省一台五衛府の制度が取られている。
神祇官と太政官が税金や司法などの行政分野を管轄する八省を治め、この下にさらに細かく組織が組み込まれている。たとえば工芸の職人集団や天文観測の専門家集団などなど。大学寮が施行する官人試験を受けた者はその成績や能力、推薦や希望などに従ってそれぞれの部署に配属されるという。これから飛廉が仕えることになる雪代は典薬寮に所属しているという。
典薬寮の官衙は天王山の中腹に設けられていると聞く。
通常、官人として宮城に迎えられた者は官舎という寝食の場を提供されるが、雪代は仕事の効率化を図って典薬寮の建屋を仕事と寝食の拠点としているらしい。それまで聞いたことのない話であり、いったいどうしてそんな運びになったのかと誰もが首を傾げた。一部の者は典薬頭と何かの密約を結んでいるのではないかと噂しているという。あるいは宮城の毒牙が自分に及ぶことを予期し、自らの砦を必要としていたのではあるまいかと囁いていた。
……ともかく飛廉が向かうのは噂話が絶えない場所であり、これから暮らすのが典薬寮の薬殿――薬師となる道を選んだ雪代の住まいにして砦であった。
馬たちは日頃から鍛えられているのか、水や休息を求めず長い道のりをひたすら走り続けた。さすがに無理をさせないために一行は三回の休憩を設けたが、馬は疲労を見せずに道中を疾走する。
起伏や変化に富んだ山や森のなかとは異なり、地上はただ平坦な世界が広がっていた。地平線の彼方、あるいはその向こうまで同じ風景が続いているように見える。延々と広がる田園のなかに集落は点在し、灯りが寂しく闇夜に沈んでいる。当然ながら人気はない。辛うじて耳に捉えられるのが虫の鳴き声くらいか。山のなかとは大違いだ。夜、まどろむさなかによく耳にした狼の遠吠えはもう聞こえなくなるのか。そう思ってようやく、飛廉は自分が山を出たことと、この世界が慣れ親しんだ山と違いすぎることを実感するのだった。
すでに空の色は真っ黒に染まっている。
人気のない道を走り続けると、ようやく王都、一之宮の街並みが見えてきた。郊外の集落とは高さが異なる建物の影がある。見張りのためか各所に篝火が焚かれ、暗闇のなかでも王都がどれだけ広いかは認められた。
吹き荒ぶ冷たい夜風に身を震わせて、飛廉は目を凝らした。
一之宮は天王山を中心に四方へと不規則に拡大した王都らしい。川に沿って道に沿って家屋は建ち並び、人が集まり賑わいを呼ぶ。やがて職人たちの工房や商人の建屋も姿を見せた。王都建都の際にようやく中心街の整備が行われたらしいが、一之宮の大半は雑然と家屋と建屋とあらゆる人で無秩序に構成されている。
飛廉たちが入城したのは一之宮の東端の街路であり、守衛である検非違使の誰何を受けたあと、川に沿って道を進んでいった。
「いかがですか、一之宮は」
「驚きました……夜でも人の気配が絶えないなんて」
飛廉は正直に口にした。山だけに留まらず平地でも人は闇夜に潜む魔を怖れると聞く。故に家に籠もり、戸を塞ぐのだが、ここ一之宮では王都を巡回する検非違使の姿が圧倒的に多かった。
「人が集まる町には夜盗が多いですからね。山なら怖れるものは獣ですが、一之宮では人を怖れなければいけないのです」
木暮が説明する。
「山と違って、一之宮には人を食らう獣は姿を現しません。一之宮の者は夜盗に迷惑していますからね。盗まれた、殺された、あるいは火をつけられた。山で培った術は平地では通用しないかもしれません。山を忘れて生きていく必要がありますね」
「しかし、あそこに山はあります」
飛廉は天王山を示す。
そういえば、と飛廉は闇夜に浮かぶ山の姿に目を向ける。それは山と呼ぶにはきれいすぎる形をしている。
「あれは山の形をしていますが、あなたが知る山とは異なります。まず獣がいない。口伝によるとなんでも古い氏族の斎庭だったと聞きます。何かの生贄を捧げていたのか、あるいは審神者が神託を受け取る場だったのか。ともかく天意を知るため、あるいは受け取るため。いまはもういない人たちが斎庭に土を盛り上げていったと聞きます。長い年月をかけて、斎庭はあのような姿に変えたのだとか」
「……途方もない話ですね、それは」
「ええ、まったくです」
やがて飛廉たちの前に姿を現したのは青龍門である。見張りに立つ検非違使が鋭い声で誰何する。木暮の随身が馬上から静かに答えると、彼らは慌てたように道を開ける。
飛廉はその間に門に施された匠の技巧を観察していた。
「宮城に至る門の一つ目です。北を玄武、東を青龍、西を白虎、南を朱雀。それぞれの聖獣を模った門が宮城の守りのひとつなのです。南に伸びる朱雀門とその大路はこの時間閉鎖されていますが、ほかの三門は常に門扉を開いています」
「……何故、朱雀門だけが閉ざされているのですか」
「長い間守られてきた慣習でしてね。朱雀大路と朱雀門を過ぎれば御前に一直線ですから。魔と敵を易々と招かないための措置だそうですよ。ほかの三つの門を開けているのにおかしなことですよね」
木暮は笑った。
門をくぐれば、その前の町並みとは異なり、整然と家屋や建屋が並ぶ町並みが目の前に広がっていた。広く取られた道、左手に家屋が狭く立ち並んでいるのに対して、右手には塀に囲まれた立派な屋敷がある。貴人の屋敷だ、と飛廉はすぐに気づいた。
木暮に促されるまま歩を進めた一行はやがて宮城の入り口に辿り着いた。ここから先は馬で進むことはできないらしい。木暮とその随身たちが下馬するのを見て、飛廉も慌てて鞍から飛び降りた。
「もう夜遅くですが……ご迷惑にならないでしょうか」
「ご安心を。帰還は夜になると事前に話し合っていますから」
木暮は説明する。
「夜を選んだのは人目を憚るためです。公然と随身を出仕させると、注目を集めてしまいますからね。雪代殿は注目されるのが嫌いなんですよ。それに、表向きは雑務をする直丁なので典薬寮の建屋で宿直することは当然」
「ご配慮くださりありがとうございます」
飛廉の言葉に木暮は「いえ」と、首を振った。
「果たして満足に奉公できるでしょうか」
「ご心配なく。飛廉殿なら雪代殿も満足するでしょう」
何を根拠にそう言っているのか飛廉には分からなかったが、随身に推挙された以上、引き返すわけにはいかない。飛廉は木暮のあとに続いて宮城へと入っていった。麓から頂まで、およそ五間(約十メートル)の広さに切り拓かれた大階段が続いている。天王山の中腹に建つ典薬寮はこの階段をのぼらなければいけないらしい。警邏する宿直直衣姿の武官の誰何を受けながら、一行は百以上の段数をのぼっていき、ようやく辿り着いた一つ目の踊り場で右に曲がった。
そこから先、暗くそびえる木々の向こう側に灯のついた建物の群れが佇んでいる。
あれが、典薬寮か。
さらに先に進めば道が二手に分かれていた。
「上手が圖書寮で下手が典薬寮の建屋です」
木暮が説明する。
「圖書と薬は政の要となりますから、宮城でもっとも警備の固い場所にふたつの官衙は建てられています。典薬寮の者が圖書寮の資料を頼ることも多々ありまして、効率を図ってふたつの官衙の建屋は渡殿(渡り廊下)でつながっているのです」
「薬殿はどこに?」
「一番奥です。参りましょう」
山に抱かれた中腹に建つ官衙は、やはり冷えた空気に包まれていた。周囲を観察しながら飛廉は理解する。確かにこれは山ではない。すべての木が整然と並べられている。森が抱える冷気は確かにあるが、ほんものの山に比べればまったく動かず、そこに漂っているだけだ。根元に落ち葉の陰はなく、雑草の姿もない。枝葉は刈り込まれたのかすべてが均等な在り様を保っている。まさかとは思うが、これをすべて人の手で管理しているのか。なるほど、ここは山ではない。人がつくった、山に似せた庭だ。
「山育ちの者から見れば不憫な眺めですね」
山が可哀想だ。思わず零れた呟きを聞いて、木暮はくすりと笑った。
「それを、雪代殿も呟きましたね」
「……植樹をしているようですが、人工の山であるなら、水はどう確保しているのですか?」
「それは主水司という官衙が担当しております。山麓に水路や人工池を用意して、人夫を動員して水を運んでいると。また清水が湧く泉から貴重な水も取り寄せていると聞いております。詳細は……部署が違うので分かりませんが」
まあともかく、と木暮は説明する。
「この山において、水はとにかく貴重なんです。無駄遣いは厳禁。水路や貯水池はあるにはあるのですが、最近は主水司の施設が老朽化しているため、無駄遣いを減らす取り組みが天王山全域で盛んです。大きな水甕で運ぶ姿を一度ご覧ください。無駄遣いしようなんて思えなくなりますよ」
この世界は何もかもが予想外で、規格外だと飛廉は驚くしかなかった。
典薬寮と圖書寮は経国の要であるため、ほかの官衙とは異なり余分な敷地が与えられているという。上手に圖書寮の官衙が置かれたのは、単に延焼を防ぐための措置だという。典薬寮は森のなかに佇むように官衙を建てているが、圖書寮は延焼を防ぐために、すべての建屋を独立させるように、そして山火事になった際に備えて森とも十分な距離を取って建築されている。
だが、典薬寮にも孤立するように周囲の建物から切り離された建屋がある。
それが典薬寮の雪代が用いる薬殿である。
もともと薬殿とは侍医が控える建屋であり、これは雲上殿のひとつとして組み込まれている安福殿の別称である。木暮の話によると、そこは典薬寮の組織拡大を担う建屋として建設されたというが、典薬頭の許に弟子入りした雪代が優秀であったため、彼女のための宿直室が設けられたという。やがて雪代の働きは周囲の人間に高く評価され、彼女が自らの伝手を頼って掻き集めた薬種や薬師書が薬殿に蓄積されるようになった。その結果、第二の安福殿、第二の典薬寮ともいえる建屋が、典薬寮の奥地に佇んでいるのである。
薬殿は豪奢ではないが、頑健に、そして広く造られていた。
広さはおそらく四十間。奥行きは分からないが、建築物で洞窟を模ればこのようになるのではないか、と飛廉は思った。雷が落ちても、大地が揺れても、悪鬼の炎が押し寄せたとしてもこの建屋は崩れまいと思わせる。洞、いや砦か。唯一外に開かれているのは入り口のみで、それ以外は部材を横に積み上げた壁である。校倉造です、と木暮が説明する。
あたりを見渡して、飛廉はそっと木暮に問いかけた。
「……失礼。見張りは」
「近衛府の信頼できる舎人を配しておいたのですが、どうやら勝手に下がらせたようですな……」
命を狙われながらなんと不用心――唖然とする飛廉の隣で木暮は溜息を吐く。
「雪代殿、ただいま戻りましたぞ」
お待ちしておりました、と小さな声が聞こえた。
木暮と飛廉だけが板張りに続く階段を静かにあがって、薬殿のなかへと足を踏み入れた。右手には細かな抽斗が並ぶ箪笥、左手には帙(書を保護する覆い)に包まれた稿本、巻物、竹簡、木簡などで埋め尽くされた書架が並び、見知らぬ世界が飛廉を威嚇する。
右手の箪笥には薬の原料が、左手の書架には雪代殿が必要とした書物がすべて収められています。そしてこの奥が薬室――雪代殿が薬師として仕事をする要の一室です、と説明しながら木暮は先導する。
薄暗い廊下を歩いていると、奥の部屋から人の気配が感じられた。
その部屋の戸を開きながら、木暮は親し気に声を掛けた。
「今夜は月明りが悪うございますな」
「お蔭で何もかも捗りません」
溜息交じりの女性の返答。
この声の主が、雪代という名の女性官吏だろう。
部屋に入って飛廉は困惑する。部屋にいるのはひとりではない。三人だ。
誰だろう。
慌てて一礼し、飛廉は室内にいる三人の人物を観察する。
ひとりは壁際に寄りかかる長身の女性。男物の水干を着ているため、初め、女であることに気づけなかった。故郷の男の達者に並ぶほど背が高く、美男にも見える面持ちは力強い意思が滲んでいる。男のように見えるのは髪を驚くほど短く切っているからだろう。
もうひとりはその隣で座って瞑目している女性だった。白と赤があざやかな衣袴姿(貴人の日常着)で、一目で公家だと分かる。長い髪を複雑に結い、銀細工の釵子(髪飾り)でまとめている。彫像のように微動だにしない佇まいは、自分と違う世界で生きてきたのだと直感する。木暮と飛廉が入室したときは目を開けたが、またすぐに目を閉じたので、近寄りがたい気配を感じた。
そして、おそらく。
中央の机を前に座しているのが、典薬寮の雪代だろう――と、飛廉は考える。
先のふたりに比べると平凡な官服を着ているが、毅然とした表情や凛とした佇まいには人を圧倒する何かがある。女性にしては珍しく髪を短く切り、揺らぐ灯りで顔に陰影が踊り、ある時は柔らかく、ある時は強く見えた。寒さに堪えるように宿直衣を何枚も重ねている。
どこか不思議な人だな、と飛廉は思った。
木暮と飛廉が入室すると、すっと三人の女官は立ち上がり一礼する。
「木暮様……」
感謝を伝えるように深く頭を下げて、雪代は口を開いた。
「彼が、わたしの随身ですね」