special

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 ヴァイオレットと過ごすところあと三日になって、ようやくオスカーは重い腰を上げた。
 煮詰まっていたのはとあるシーンのせいだった。
 オスカーがヴァイオレットに書かせていた物語は一人の少女の冒険奇譚。家出をした少女が様々な土地で、色んな人々や出来事に遭遇し、成長していく。
 少女のモチーフは、彼の亡き娘だった。娘は最後に家出した家に戻ってくるのだ。
 そこには老いた父親が待っていて、彼女のあまりの成長ぶりに本人かどうかがわからない。
 悲しんだ娘は思い出してよ、と昔交わした約束を持ち出す。
 いつか湖の上の落ち葉を渡って見せてあげるよと話したことを。
「人間は水中を渡ることなどできませんよ」
「イメージが欲しいんだ。話の中では冒険の最中に加護を得た水の精霊に助けてもらうことにする」
「そうであっても……私などでは合わないでしょう。あの話の少女は快活で愛嬌があって無邪気です。私とは何もかもが違います」
 小説家と自動手記人形は押し問答をしていた。
 オスカーがヴァイオレットに主人公に模した格好をして、湖畔で水遊びをしてくれないかと頼んだからだ。掃除、洗濯、と家事手伝いまでさせておいて、あげくにこの依頼。まるで何でも屋扱いだ。
 理性のある職業婦人然としていたヴァイオレットも「困った御方ですね」と呆れている。
「君の髪色、少し違うけれど娘と同じ金髪なんだ。髪をほどいて、ワンピースでも着ればきっと……」
「旦那様……私はあくまで代筆屋。自動手記人形でございます。旦那様の妻でも妾でもありません。代わりを務めることは出来ません」
「わ、わかってるそんなこと。君みたいな娘さんにそんな気起こさないよ。……君のさ……見た目が、……娘が生きていればきっと君くらいになってるって……思うと」
 頑なに拒絶していたヴァイオレットの無表情がそこで揺らいだ。
「……こだわりが強いとは思っていましたが、お嬢様は亡くなられていたのですか」
 ヴァイオレットは唇を小さく噛む。
 良心と葛藤しているような顔。
 この数日間でオスカーは彼女のことで分かったことがある。それは、ヴァイオレットが善と悪ならば善の側にいる存在だということだ。
「私は自動手記人形……お客様が望むことは叶えて差し上げたい……けれどこれは職務規程に違反しているのでは……」
 ぶつぶつと自問自答するその様子にオスカーは申し訳ないと思いつつも更に一押しする。
「娘が大きくなって、帰ってきて、約束を果たしてくれる姿をイメージできれば、それですぐ書ける気がするんだ。本当だ。お礼ならいくらでもする。提示された料金の倍を払うよ。この話は僕にとってとても大切な話なんだ。書くことで、人生の節目にしたい。お願いだよ」
「しかし……私は……着せ替え人形では……」
「なら写真とかは撮らないから」
「撮るつもりだったんですか」
「僕の脳裏に焼きつけて、それで話を書く。お願いだ」
 ヴァイオレットはその後も渋い顔をして考えこんでいたが、結局はオスカーの熱意に根負けして承諾した。押されると、弱いタイプなのかもしれない。
 オスカーは、この時ばかりは引きこもり生活から脱し、自分から外に出てヴァイオレットの為に品の良い服と傘を買い求めた。
 服は白の総レースのトップスに切り返しでリボンベルトがついた青色のワンピース。傘は水色に白のストライプ、フリルがついたものを購入した。ヴァイオレットは傘が気に入った様子で渡すと開いては閉じ、開いては閉じてくるくると回していた。
「傘が珍しいのかい?」
「こんなに可愛らしい傘は初めて見ました」
「君は可愛らしい格好をしているじゃないか。趣味じゃないのか?」
「会社の上役の方に薦められるがままに着ておりますので。自分で服屋等にはあまり行かないのです」
 母親に言われるがままに着飾る子どもみたいだ。
――もしかしたら、自分が思うより遥かに彼女は幼い年齢なのかもしれない。
 そうしていると、大人びた彼女も少しだけ少女じみて見えた。
 ヴァイオレットの気が変わらない内にと、オスカーは買い物を終えるとすぐに彼女に着替えをお願いした。
 昼下がりの午後、外は少し曇り。雨が降る様子はないが、雰囲気はある。
 秋の到来を感じさせる冷ややかな風はまだ肌を突き刺す寒さでは無い。
 オスカーは先に外で待つことにした。湖のすぐ傍に木椅子を置いてパイプをふかす。
 彼女が来てから何となく気を遣ってしばらく吸っていなかったから、腹に煙が染み込んでいく感覚が行き渡る。ぷかりぷかりと煙の楕円を宙に浮かせて数分。ガタツキが悪くなってキイと音を立てる玄関の扉が開いた。
「お待たせいたしました」
 凜とした声に首だけねじって振り返る。
「待って……」
 などいないよと言おうとしたが、少し息が止まってしまい言葉は出なかった。
 はっと飲み込んだ吐息。まるでヴァイオレットを初めて見た時のようにオスカーは惚けた。
 髪の毛をほどいた彼女はあまりにも魅力的で、見る者の時間を奪う美しさだった。
 編み込んでいた髪が緩やかに広がり描くなめらかな曲線。想像していたよりかなり長い。
 そして、何より。
――もし、あのまま娘が成長したら、こんな風に。
 着飾ってお澄ましした姿を見せてくれたんだろうか。などと考えて、胸からぐっと熱いものが込みあげてきた。
「旦那様、頂いた召し物を着た感じはいかがでしょうか?」
 秋の色彩の世界に現れた、人間離れした美貌の少女はスカートの裾を持ってくるりとその場で回ってみせる。
「このまま、あの湖を渡る姿をお見せすればよろしいのですね。……え、けれど旦那様はそれが本当に書きたい情景なのではないのですか? こんな格好でただ歩きまわるよりは、数秒でも湖を駆ける姿をお見せしたほうがいいでしょう。旦那様、お任せ下さい。運動は得意なので、少しばかりならご期待に沿うことができます」
 色んな感情に支配されて『ああ』や『うう』としか答えられないオスカーを気にせずヴァイオレットはいつも通り無表情で淡々と語りかける。
 そこにいるのは娘とは違う少女。同じ金糸の髪を持っていても、瞳に甘い輝きは無い。
 ヴァイオレットは閉じたままの傘を片手でしっかりと握りながら肩に乗せた。湖まで広く距離をとって吟味するように水面を見つめる。
 秋の彩りは枯れ落ちて、その枯れ葉が水面に浮かんでいる。風は止んでは吹き、止んでは吹きと不安定だ。舌先で機械の指を舐めて風の向きを確認する彼女をオスカーが心配そうに見守る。じゃりっと地面を強く踏んでからヴァイオレットはオスカーを見て薄く微笑んだ。
「ご心配なく。すべて、旦那様のお望みのままに」
 玲瓏とした声音でそう言い放ってから、ヴァイオレットは大きな一歩を踏み出した。
 助走距離はかなりあったが一瞬で彼女はオスカーの目の前を過ぎ去っていく。その速さたるやまさに風が如く。俊足の自動手記人形は湖に足を入れ込む一歩手前で大きく大地を蹴った。
 土がえぐれるほどの衝撃。強靭な脚力は驚くほどの高さの跳躍を可能にさせた。
 天国の階段を登ってしまいそうな、そんな飛び方。オスカーは常人離れしたその行動にあんぐりと口を開ける。そこからは全てスローモーションで見えた。
 臨界点まで跳躍したヴァイオレットは傘を持っていた片手を大きく掲げ、ばっとそれを開く。まるで花でも咲いたようだ。フリルの傘がゆらりと美しく揺れ、タイミングを見計らったように風が彼女の足元をさらった。
 スカートと傘がふんわりと空気に膨らみ、白のペチコートがひらひらと覗く。自前の編み上げブーツがそっと水面の落ち葉を踏んだ。
 その瞬間。
 その一瞬。
 その一枚絵。
 写真を撮ったように鮮明な映像がオスカーの目に焼きついた。
 傘を浮かせ、スカートをなびかせ、湖の水面を踏む少女。
 さながら、それは魔法使い。
 心音を刻むことを止めてしまったあの日の娘の言葉が思い出される。
 
『いつか』

 いつか見せてあげるね
 私たちのあの家の、湖で。
 秋に落ち葉が水面をたゆたう頃。

『いつか』

 いつか見せてあげるよ。

『お父さん』

 声が。
 もう、忘れてしまっていたあの娘の声が脳裏に響いた。
 君は知らないだろう。あと何千回だって僕は君に呼ばれたかったんだよ。

『いつか、見せてあげるね』

 お父さん、と。
 舌っ足らずな甘い声で。

『いつか見せてあげる、お父さん』

 どんな音楽よりも君の声は心地良かったんだ。

『いつか見せてあげる』



tameshiyomi




――嗚呼、そうだったね。
 君はそんな、声で。
 無邪気に、僕を楽しませようと。
 言ってくれたね。
 約束してくれた。忘れていた。忘れていたよ。
 随分、久しく、君を思い出せなかったから会えて嬉しい。
 まぼろしでも、会えて嬉しいよ。
 僕の可愛い、お嬢さん。
 僕の、僕の。
――僕のたった一人の、あの人との宝物。
 叶わないってきっと、知っていたのに。約束してくれた。
 その約束が、君の死が。僕をここまで駄目にして、同時に生かして。
 ここまで、命を引き伸ばした。
 君の面影を探し続けてだらだらと生きたこと。後悔していたけれど。
 この一瞬。君ではないけれど、僕には君に見えた彼女の一瞬。
 一瞬の、邂逅、再会、抱擁。
 この一瞬が見たくて、まだ生きていたのかもしれない。
 名前すら悲しくて囁けない君。ずっと、会いたかった。もう一度、可愛い君に。
 僕に残されてた最後の家族に。ずっと。ずっと。
 ずっと会いたかったよ。
――愛してた。
 嬉しくて、微笑みたいのに。
「……ふ……う……う」
 嗚咽しか、でない。
 涙は凍って停止していたオスカーの時を動かし始めるように、流れ落ちる。
「……ああ……もう……」
 時計の針がちくたくと動くのが聞こえる。冷たかった心臓が、どくんどくんと音をたてる。
「……本当に、本当に……」
 顔を手で覆うが、自分の手が嫌に皺が増えていることに気づいた。自分はどれだけ、二人がいなくなったあの頃から時を止めていたのか。
「死なないで、ほしかった、なぁ……」
 涙まじりの声で、顔をくしゃくしゃに歪ませて囁く。
「生きて、生きて、大きく、育って……」
 美しくなった姿を見せて欲しかった。
 そんな君が見たかった。そんな君を見届けて僕が先に死にたかった。
 君より先に。
 君に看取られて。
 そうやって死にたかった。
 僕が君を、看取るんじゃ、なくて。
 そうじゃなくて。
「会いたいよ……っ」
 オスカーの瞳から涙が溢れては頬を流れ、地面に滴り落ちる。
 ざぼんとヴァイオレットが湖に沈む音が涙まみれの世界に響いた。
 一瞬の煌きは失われて、思い出した娘の声もすぐにまた忘れた。
 笑顔のまぼろしもシャボン玉みたいに消える。
 オスカーは手のひらに覆われた視界を、目を閉じることで更に拒絶した。彼女が失われた世界を遮断する。
――嗚呼、いま死んでしまえたらいいのに。
 どれだけ長い時間悲しんでいても、彼女達は戻らない。
――心臓よ、息よ、止まってしまえ。
 妻と娘が死んでから、僕も死んでいたと同じなのだ。
 ならばいま。今この瞬間。弾丸に撃ちぬかれて死にたい。
――花みたいに、花弁を落としても尚生きられない。
 けれども、そんな願いは数億回祈ったって叶わないのだ。
 数億回祈った後の彼はそれを知っている。
――死なせて死なせて死なせて、一人になるくらいなら一緒に死なせて。
 祈るだけで叶うことなんて、何一つ無かった。無かったけれど。
「旦那様っ」
 遮断した世界の向こうで、いま自分と同じ時を刻んでいる者の声が聞こえる。
 息を切らして、こちらにやって来る。
――僕は、生きているんだ。
 まだ生きている。そして、生きて、今は亡き愛する人を何かの形で残そうと、足掻いてる。
 祈ることで叶う夢などないけれど、オスカーは陽光も届かない暗闇の視界でやはり祈る。
「……神様、どうか」
 いま死んでしまえぬのならどうか、せめて物語の中だけでもあの娘が幸せでありますように。
 それをあの娘が喜んでくれていますように。そして僕の傍に。
 傍に、永遠にいてくれますように。物語の中だけでも。空想の娘だとしても。
――傍にいてくれますように。
 そう、願わずにはいられなかった。

 だって自分の命は続いていくのだから。

 年甲斐もなくぼろぼろと泣いているオスカーの前に、ずぶ濡れになって湖からはい出たヴァイオレットがやってきた。滴る水滴。めかしこんだ服装も台無しだ。
 しかし本人は今までで一番楽しそうな、笑顏と言っていいものを浮かべていた。
「ご覧になられましたか? 三歩は歩いていたでしょう」
 涙で見えなくなってしまったんだよ、とは言えず。
 オスカーは鼻水をすすりあげながら「うん」と答えた。
「うん、見たよ。ありがとうヴァイオレット・エヴァーガーデン」
 心から敬意と感謝を込めて、そう言った。
 叶えてくれてありがとう、ありがとう。本当に奇跡みたいだった。
 神様なんていないと思っているけれど、いるなら君のことだろうと返したら。
 ヴァイオレットは「私は自動手記人形ですよ、旦那様」と。
 神の存在を否定も肯定せずにただそう答えた。

 その後、すっかりずぶ濡れになってしまった彼女のためにオスカーは風呂を沸かしてやった。
 食事の姿は見せない。だが浴室は毎日使い、恐らくは与えた寝室で身体を休めている。
 随分とまあ、人間じみた機械人形だ。
――ほんと、最近の文明はすごい。科学の発達はめざましいな。
 機械の女の子でも濡れた服を着せておくわけにはいかない。着替えが必要だろうと、比較的綺麗なはずの自分のバスローブをとりあえず持って浴室に向かう。他人が風呂場にいることなどしばらくなかったものだから、失念してノックもせずに入ったら、まだ着替えてもいない彼女を見てしまった。
「あ、ごめ……ん…………えっ?」
 あまりのことに息を呑む。
「…………えええっ!?」
 オスカーの瞳に映るのはどんな裸婦像よりも美しく艶かしい裸の女。
 金糸の髪を滴るしずく。絵の具でも表しきれない美しい青の瞳。
 その下に続く形の良い唇。華奢な首、浮き出た鎖骨、ふくよかな胸、女性らしい曲線を描いた体。両肩から指先に至るまで取ってつけたように体の一部になっている義手。
 しかしそれ以外は。
 傷が多いが、明らかに腕以外は生身の素肌。
 柔らかそうな体のふくらみのいずれも、彼女が機械人形などではなく人間だということを物語っていた。今まで信じていたことが覆された衝撃で目は何度も裸を確認してしまう。
「……旦那様」
 驚き過ぎてその場で固まり注視し続けるオスカーにヴァイオレットは咎めるような声をかける。そこでようやく、すべての過ちにオスカーは気づいた。
「うああああああっ! うあああああっ! うあああああっああああ!」
 悲鳴を上げたのはオスカーの方だったというのがこの話のオチでもある。
 散々叫んだ後に、真っ赤な顔で半泣きになりながら君は人間なのかいと尋ねたオスカー。
 ヴァイオレットはタオルを巻きつけながら答えた。
「旦那様は、本当に、困った御方ですね」
 少し顔を俯きながら囁いた彼女の頬は、ほんのりと薔薇色に染まっていた。

『自動手記人形(オート・メモリーズ・ドール)』。
 その名が騒がれたのはもう随分前のこと。
 製作者は機械人形の権威であるオーランド博士。彼の妻であるモリーが小説家で、後天的に視力を失ったことがそもそもの始まりである。盲目の女になったモリーは自分の人生の意味ともしてきた創作が出来なくなったことにひどく落胆し、日に日に衰弱していった。
 それを見かねてオーランド博士が作ったのが自動手記人形。人の肉声の言葉を書き記すという、いわゆる「代筆」をこなしてくれる機械だ。
 その後のモリーの著作は世界的に有名な文学賞を受賞したこともあり、オーランド博士の発明はまさに歴史に必要な流れであったと言われている。当初は愛する妻の為だけに作られたが、後に多くの人々の支えとなり普及した。
 今現在では自動手記人形を安価で貸し出し、提供する機関も出来ている。
 それにつけ加えてもうひとつ。
 自動手記人形のように代筆屋をこなす者のことも、今では同じ呼び名で親しまれている。
『自動手記人形(オート・メモリーズ・ドール)』と。
 オスカーはヴァイオレットが去った後に友人から聞いたのだが、彼女は代筆屋業界では有名な人らしい。その人物を機械人形だと勘違いしていたと話した時には大笑いされた末に「君は本当に世間知らずだな」と呆れられた。
 あんな美人な機械がいてたまるか、と。
「だって機械人形だなんて言うから」
「人類の機械文明はそこまで到達しちゃいないよ。ただ本当に機械人形の方の奴もある。もっと可愛らしい奴だがね。でも、それじゃあ……引きこもりで人と関わらない君にはあまり良い薬にならないかと思って。彼女、無口だけれど人を良くする力がある。良かっただろ」
「……うん」
 無口だけれど、そう、とても、良い娘だった。
「ヴァイオレット・エヴァーガーデンには敵わないが、当分の執筆の手助けの為に人間じゃないほうの代筆屋を今度こそ贈ってやるよ」
 やがて湖畔の家に届けられた小包。それはヴァイオレット・エヴァーガーデンとはまったく異なる小さな人形だった。
 愛らしいドレスを着て、机の上にちょこんと座り、あらゆる肉声を記録し文書化してくれるタイプライターの機械人形。なるほど、確かにこれは優れものだ。
「でも、彼女には敵わないな」
 もういなくなってしまった、彼女の面影を部屋に見ながらオスカーは苦笑した。
 寂しいよ、と言ったら。きっと彼女はこう言ってくれるだろう。
「旦那様は、困った御方ですね」と。
 玲瓏とした、声で。
 無表情に唇だけ少し微笑ませながら。
 傍にいなくても、その声が聞こえる気がした。