ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』
シリーズ刊行10周年記念企画

エピソード無料公開 第4弾

公開期間:425日~523

  • 著者:暁 佳奈
  • イラスト:高瀬亜貴子

 

「永遠と自動手記人形オート・メモリーズ・ドール

 

 

 

 

 少女は見上げる。

 

 風見鶏を冠にした赤煉瓦れんがの建物を。

 少し古めかしい外観のその郵便社は少女が道端に佇んでいる間にもひっきりなしに人が出入りしている。

 

 小包を持った青年。

 誰か愛しい相手への手紙を胸に抱く娘。

 

 窓口は既に開いているようだ。

 

 敷地内には欠伸あくびをしながら自動二輪車に跨るポストマンが。

 彼を追いかけて妖艶ようえんな美女が小走りしてくる。

 無理やり後部座席に乗る彼女に、男は舌打ちしてから見えない角度でまんざらでも無さそうな顔をする。

 

 三階のバルコニーからは陽気な笑い声が聞こえた。

 何やら怒っている女性の声も。

 やがて男性がティーカップ片手にバルコニーに出てきた。

 

 街の景観の一部分でしかない少女を見つけて、初対面であるのに気さくに手を振ってくる。

 後からきらめく銀髪の女性も顔を出す。

 

 想像していたよりもっと騒がしく、どこか懐かしくなれるところ。

 

 そこは少女にとって夢見てきた場所だった。

 

 着ていたワンピースの裾をぎゅっと握ってから一歩前に踏み出す。

 

 

 そして同時に魔法を唱えていた。

 

 

 僕が目覚める時、まず視界に入るのはゆっくりと降りてくる金のとばりだ。

「朝です、お嬢様」

 バルーンシェードのレースカーテン越しの朝日に照らされた彼女の髪は不明瞭な僕の視界でも輝いて見える。その色は月とも星とも稲穂とも例えられる。眺める瞬間によって変化する。

 とらえどころのない美しさはその人そのもの。朝はそのようにして始まる。

 僕は毛布を体からがして起き上がり、寝台横のチェストに手を伸ばす。ただの薄い硝子がらすの板でしかないそれは僕の世界を大きく広げてくれる。父と呼んでいいのかまだ分からない人から贈られた品々の中で、眼鏡は僕の味方である。そして味方はもうひとり。

「本日は全ての講義終了後に舞踏の練習を。次の段階に移る時が来ました。歩き方はほぼ修正するところがございません。自信をお持ち下さい。その後にいつも通り文字の書き取りの勉強を致しましょう」

 稀有けうな程、容姿端麗な碧い瞳の侍女。いや本当は違う。僕の為に派遣された自動手記人形オート・メモリーズ・ドールというのが真実。でもそれは他人に知られてはいけなくて。学園の誰をもあざむかなくてはならない。

 僕はイザベラ・ヨーク。共に生活を始めて半月が経つけれど、いつも僕より遅く寝て早く起きているから自動手記人形オート・メモリーズ・ドールの寝顔は見たことがない。

 

 僕が身を置く学園の成り立ちは遥か昔に存在していた亡国所有の薔薇ばら園だと聞く。

 四百種類の薔薇が植えられた学園は花開く暖かな時期にはむせ返るほどの香りに包まれる。

 山嶺さんれいに存在する隠された学び舎は中からは地上を見下ろすことが出来るが、外からはけして覗くことが出来ない。滞在を許されているのは深窓の令嬢と一定期間だけ付き添いを許可された侍女のみだ。乙女達を守るのは騎士の如く外界との空気を遮断する高い塀。それがぐるりと校舎を囲んでいる。入ることを許される者は血縁者と後の婚約者たる存在、そして教師陣だけ。教師に男性は居ない。正に女の園だ。一度入学してしまうと長期休暇以外は家に帰ることは許されない完全箱詰め生活。生徒の事情は様々だがいずれ地位ある身分になるべき者、もしくはそういう身分の者にとつぐことが決まっている者で構成されている。

 僕はというと、恐らくは後者なのだろう。僕は父と一つ契約をしていて残りの人生すべてを売り渡す話がついている。こんな学園に放り込まれたのも、良い商品として磨かれるのを望まれた結果に違いない。

「リボンは何色にしましょうか」

 僕のワインレッドの髪はいま着々ときっちりとした三つ編みにされようとしている。鏡台に映るのは同じ制服を着ている僕と彼女。純白のケープがついた濃紺のワンピースに白靴下、赤い靴。学園指定の装飾品は身に付けると質の良さが分かる物ばかりだ。

「赤で……」

 常に長い白手袋に包まれている指先がリボンを結んでくれる。

 たまにギイギイと機械音がする。僕と彼女は同じ部屋で寝台を隣り合わせに寝ているから、その音の原因が義手のせいであることも知っている。僕は結構この音が好きだ。無機質な彼女の、機械だけど人間味がある部分だと思う。言っている意味が矛盾しているが、そうなのだ。

 二つの三つ編みが出来上がると後ろを振り向いて言った。

「君は、いつもその髪型だね」

 彼女は鏡の中の僕を見ながらこくりと頷く。僕では到底出来なさそうな複雑な編みこみだ。

 一日中どれほど動きまわっても乱れることが無いので考えられた髪型なのだろう。しかしほどいている姿の方が魅力的なのだ。寝る前の彼女のしどけなさといったら……。

 僕はちらりと部屋の窓の外を見た。寮から校舎へ向かう生徒の姿はまだ少ない。腰掛けていた椅子から立ち上がり彼女の後ろへと回った。背後を警戒する彼女を笑いながら『まあまあ』となだめて座らせる。そして完璧に作られた彼女の編みこみをゆっくりと崩していった。

「……あの、お嬢様。困ります。朝の教義の時間に間に合いません」

「大丈夫。妹のね……髪を結ぶの得意だったんだ。すぐ出来る。君の髪の毛ってビロードみたいな手触り……高く売れそう」

 つい、卑しい考えが口から出る。彼女はされるがままになりながら眉をひそめた。

「売るんですか」

「ふふ……売らない」

 無表情が常態な彼女の表情が曇ることに少しだけ快感を覚えた。

「長いままにしなさいと職場の者に言われております」

「そうだね、僕もそう思う。ほらそんなこと話している間に出来た」

 とても簡単な二つ結びだ。両耳の少し上あたりの高い位置に結ばれた髪は編みこみのあとを残して波打ち垂らされている。大人っぽい印象が随分と薄れた。

「どう?」

「…………幼く見える気がします」

「そうかな。僕は可愛いと思うけど……じゃあこれをお団子にして……ほら、羊の角の髪型」

「制服と噛み合っておりません」

「確かにこの貞淑そうなワンピースに陽気な頭すぎるかも。どうしよう」

「お嬢様……私で遊んでいますね」

「ばれたか」

「お戯れはお止め下さい。それと何度もお伝えしていますが『わたくし』と言うようにご自分に義務付けください。よろしいですね?」

 無表情で読み取りにくいけど怒らせてしまったようだ。僕はその時ばかりはしおらしく「はい」と言ったが二人の時以外は直すつもりはなかった。だって息が詰まってしまう。

 結局、時間が足りなくなって彼女は髪をおろしたまま登校するはめになった。

 後で聞いたところ、髪をおろすのはあまり好きではないらしい。本人曰く風が吹いて視界を邪魔すれば何かをしている時に大きな過失をおかしかねないとのこと。

 その理論でいけば長い髪を保っていること自体がよろしくない気がするが、似合っているから仕方ない。職場の人間の意見ももっともだ。長いままにしなさいと僕だって言いたくなる。

 不思議なもので本人は他人なんて必要としていなさそうな人なのに、他者には自分を放っておけない気にさせるのが彼女。少し羨ましい。

「お嬢様、ヨーク家のご息女が遅刻する訳には参りません。お急ぎ下さい」

 校舎へ急ぐ生徒達に混じって煉瓦道を歩く。寮から校舎は遠い。でもその道は木々と花に囲まれてとても綺麗。緑の土地で育たなかった僕は立ち止まってゆっくりと眺めたくなる。

「走ったらシスターにしかられるよ」

「では競歩で」

「あははっなにそれ」

 僕の手を引いて小走りする彼女。僕は彼女を見ながら思う。

――この世界で僕のことをどうでもいいと思わないでくれる人は何人いるんだろう?

「……」

 走りながら考えた。妹くらいしか思い当たらなかった。けれど、彼女はまだ三歳児だ。

 僕の名前だってちゃんと言えずに「ねぇね」と呼ぶ。

 あの子のことで思考を満たしたくなくて、僕は目の前の彼女に言う。

「ねー! 授業にいかないでどこか別の場所に行かない?」

 いまどうしているんだろう。お腹を空かせていないだろうか。

何処どこへですか?」

 僕の可愛い妹。甘ったるい声が時に苛ついて、時に愛おしかった。

「どこでもいいよ! 二人でさぁ……こんなに天気良いんだし」

 マリーゴールド色のふわふわした天使の巻き毛。ぷっくりとした頬の柔らかさ。

「どこかへ行きたいな。君と二人なら心強いし」

 そういうことすべて、懐かしい。

「この学園から出ることは出来ませんよ、お嬢様」

 そういうことすべて、懐かしい。

「何処にも行けません」

 僕はその言葉に心が凍りついて、立ち止まってしまった。

 彼女は単なる事実を言っているだけなので悪くない。悪くはないけれど。

「………………そういう時は嘘をつかなきゃ駄目だよ。優しくしてよ」

 僕はついつい刺のある口調で言ってしまう。彼女はすぐに『申し訳ありません』と深々と頭を垂れた。僕は嫌な気持ちになる。違う、僕はそういうことを求めたのではないのだ。

 こんな風に、自分の立場を利用して上に立ちたい訳ではない。

「……ううん、今のは僕がいけなかった。ごめん」

 ただ、友達みたいにして欲しかっただけなのだ。

 彼女の手をたぐり寄せて肩に頭を乗せた。無言で、撫でて欲しいと要求する。いや、僕は彼女に恋人みたいなものを望んでいるのかも。彼女はもう慣れきったのか何も言わなくても機械の手で頭を撫でてくれた。過ぎ去っていく生徒達がそんな僕達を見てる。また噂をされてしまうだろう。ヨーク家の娘とその侍女はただならぬ仲だと。

 どうでもいい。僕にはいま、彼女しか味方がいない。

 

「ミス・ヨーク。たまには私達と一緒に食事をしませんか?」

 家の名前が自分の名前であるこの学園で僕はミス・ヨークとして名が通っている。

 ヨーク家はさかのぼればどこぞの王家の血筋にもぶつかるらしい。確かドロッセルだとかなんだか。 僕の侍女役として派遣されている彼女もまたドロッセル王国からの紹介だと初対面の時に説明された。初めて出会った時の彼女はなんだかいけすかない美人だと思ったものだ。今はこんなに愛しいのだから人間の感情というものは信じられない。話を戻すがヨーク家が王族関係者であることは栄えある事実らしく、そんな僕と関わることも誉れ高いことなのだとか。そのせいか僕は大して知りもしない同級生からちょくちょく声をかけられる。

 サロンに所属しないかとか。友達になりたいとか。自分の父親が僕の父に世話になっているだとか。一方的に情報をこちらに与える。僕は教えてくれとは一言も頼んでいないのに。

 僕と繋がることは、同級生達の経歴に箔がつくということなのだ。

――やれやれ、身分が変わっても人の本質ってもんは同じなんだな。

 僕は彼女を見て頷いた。微笑むだけで何もしない。というかあまり喋ってはいけないことになっている。

「申し訳ありません、お嬢様は今回はご遠慮したいようです」

 下手に喋れば僕の粗野な部分が露呈してしまうからだ。『教育』が終わるまで、彼女があらゆることの代理をしてくれる。侍女を連れていいのは学園に入学してから三ヶ月と決まっているので、そこからは全て自分でやらなくてはいけない。

「……前にもそう言われて断られたわ」

 だから僕はこういう時の対応を、先生である彼女から盗んで学ぶ。

「お嬢様はお身体が丈夫でなく、一人で過ごされることが多い少女時代を送られてきています。団体生活に慣れておりません。見知らぬ方と話されるとすぐに熱を出してしまいます。お嬢様が学園生活に馴染むまで、今しばらくお待ち頂ければ……お声かけして下さった方のお名前、お家柄は存じ上げております。いずれこちらからお誘いするでしょう」

「そ、そうですか……なら良いのです。それではミス・ヨーク、御機嫌よう」

 相手の顔もこちらの顔も潰さない完璧な淑女のお断りの仕方だ。断られた同級生も悪い気はしていなさそうだ。他のお友達とさっさと行ってしまった。

「……私達も移動しましょうか」

 食事は全校生徒、カフェテリアですることに決まっている。テラス席もあるカフェテリアは開放的な雰囲気の吹き抜け構造。全校生徒三百名と学園関係者全員が同時に食事をしても十分に対応できる席数を保有している。時期によっては此処ここで季節折々の催しをしたりもする。これから控えているのは舞踏会だ。僕はそれに備えなくてはならない。嫌だけど。

「お嬢様は何を召し上がりますか?」

「……悩むなぁ。今日は麺類な気分」

 食事は各々が決められたメニューの中から職員に注文する。僕は毎回違う物を注文して楽しんでいるのだが、結局、彼女が薦めてくれた海産物がたっぷり入った濃厚スープの麺食にした。自動手記人形オート・メモリーズ・ドールは世界中を旅するからその地方の名産品や珍味に詳しい。麺食は賞賛に値する味わいだった。彼女はというと決まって薔薇の花弁が茶葉に入った紅茶をポットで貰い、固形物は食べないか、もしくはパンひとつだけ。

「それでお腹減らない?」

「携帯食を持っていますから」

 数秒で食べ終えて、その後は僕の様子や周囲の動向を紅茶を飲みながら伺っている。経歴は聞いていないが、父の周りにいた護衛達と行動がそっくりだ。彼らも食事はすごく早かった。食べているとすぐに武器を握れないからそうするんだ。僕も食べるのは早い。僕の場合は、その場で食べてしまわないと次にいつご飯にありつけるか分からない環境下にいたせいである。

 最後の締めのスープを器を持ってごくごく飲んでしまいたいところを我慢してさじですくう。食べながら彼女が一点をずっと見つめているのに気づいた。食後のケーキと紅茶を盆に載せておぼつかない足取りでこちらの進行方向に進んでいる娘がいる。

――うわ、落としそう。

 そう思った瞬間、娘は何もないところでつまずいた。それはもう爽快といえる転びっぷりでこんなきれいに転ぶ娘がいるのかと驚くくらいだ。引き起こされる惨事が容易に想像出来た。僕は自分に三種類のケーキが飛んでくるのを覚悟してぎゅっと目をつむったのだが。

 現実を何秒拒んでも予測した未来は来なかった。

「……」

 固く瞑った目を恐る恐る開くと、片手で娘の腰を抱き、もう片手で盆を持った彼女の姿があった。宙に放り投げられた品々は多少崩れつつも確保されている。

「ご無事ですか……?」

 経歴不明、学園では僕の侍女役で通っている彼女が素晴らしい騎士ぶりを発揮していた。

「は、はい……」

 ケーキと一緒に無事に確保された娘が頬を桃色に染めている。至近距離であの碧の瞳に見つめられひばりの声でささやかれるなんて羨ましい。同じ思いの者は多いようでどこからか黄色い声が上がった。

「お気をつけて……テーブルまでご一緒しましょう。お嬢様、少しお傍を離れます」

 僕はお上品に頷き、よきにはからえと小さく手を振る。しとやかに歩く彼女にエスコートされる娘の緊張ぶりといったら失礼ながら笑ってしまうほど。致し方ない。入学から一ヶ月、僕と同じく彼女は時の人扱い。その容姿、声、身のこなしに付け加え徹底した紳士ぶりに傾倒する生徒が後を絶たない。何というか、女性だけの花園で愛でられる存在……になりやすい人なのかもしれない。見た目は至極美女なのだけれど、中身は男らしいというか。いや、少し違うか。

 芯があって、頼りがいがある。冷たく見えて優しい。絶対的な安心感。僕の傍でいつも付かず離れず控えてくれている姿はまるで騎士。

 そう。皆、守ってもらいたいのだ。具体的な外敵じゃない。僕らが抱える様々な不安から。

 そんなわけで彼女が影で『騎士姫さま』と呼ばれているのを僕はとっくに知っている。

 

「今日の一日の授業の復習はここまでで……それでは舞踏の練習を始めたいと思います」

 一日の授業は大体夕方くらいには終了する。その後の僕らは決まってすぐに部屋に戻り授業の内容をやり直す。何せ僕は教育という教育は受けてきていない。知らないことばかりなのだ。

 彼女が派遣されているのも秘密裏に最高の教師から授業を受け、他の生徒達との差を埋めるため。期間は三ヶ月。残りの日数はあと二十日ほど。それ以降は独学で乗り切らなくてはならない。勉強は独学でも何とかなるかもしれないが、会話術や身のこなし、舞踏はそうはいかない。彼女に白羽の矢が立ったのはドロッセル王家との縁があったことが一因だが他にも理由がある。紹介した人が王家の乳母うば役というか世話係の人で、以前に自動手記人形オート・メモリーズ・ドールとして彼女を雇った時に教育者の才能を見出していたらしい。こんなに手が掛かる娘を隠れて誰に教育させようかと父が思案していたところ良い人材がいると斡旋してくれたとか。その人が僕の本当の事情まで知っていたかは分からないが素晴らしい判断だったと思う。自動手記人形オート・メモリーズ・ドールならば淑女教育を受けていて尚且つ年若い娘が多い。侍女として潜入させるのも容易だ。

 大学出の家庭教師などでは年齢が高過ぎる可能性があるし、何より幅広い教養があるわけではない。こう考えると、自動手記人形オート・メモリーズ・ドールという存在は何処に出しても恥ずかしくない淑女の見本と言えるのかもしれない。人によるだろうけど。少なくとも彼女は適任だ。自分で言うのもなんだが彼女は面倒な人物の対処に慣れている気がする。僕は重い溜息を吐いた。

「……本当にやるの? 僕……絶対君の足を踏んじゃうけど」

「やる、やらないの問題ではなく、しなくてはいけない必須項目です」

 口を尖らせて不服を表現する僕に彼女はきっぱりと言う。

「……騎士姫さまこわい」

「……いま何かおっしゃいましたか?」

 氷の視線を向けられて僕は首を高速で左右に振った。

「いいえ……言ってませんよ、言ってませんよ。制服のままでいいの?」

「本当ならドレスで……しかしお嬢様のドレスはまだ出来上がっておりませんので到着するまではこのままでやりましょう。私が男性役をやります。右手を……」

 僕は手を握るのだけは嬉々としてやった。彼女に言われるがままに姿勢を正す。

「今度の催しは舞踏会と名はついておりますがダンスパーティーです。ワルツの最低限のステップさえ覚えておけば問題ありません。あまり格式張らなくてもよいかと。ご学友とお喋りをしながら楽しむのが目的です。お嬢様はお誘いがあった時に困らぬよう男性役と女性役どちらも習得して頂きます」

 背中に手が回されてぐっと体が近づく。さして山を作らない僕の胸と彼女の着せしている胸が触れ合い僕は思わず頬を染めた。そして瞳を閉じる。

「……何をなさっているのですか?」

「口づけされるかなって思って」

「どうしてそう思われたのかお聞きしてもいいですか?」

「何となく……これだけ体が密着すればそういう気にならない?」

「なりません。しません」

 性欲が一切なさそうな人に言われるとこちらの気も萎えるものである。僕は渋々真面目に舞踏の授業を受けることにした。

「真正面に立つのではなく半身をもう少し横に……はい、私の手がお嬢様の肩甲骨あたりに触れるのが自然な位置で。肘はふらつかない。動くとどうしても揺れがちですが水平を意識して」

 真っ直ぐを意識するというのは中々難しい。普段、自分の体がどれだけ緩んだ姿勢をしているか思い知らされる。ただ姿勢を保つというだけで体が震えてきた。

「……きついよこれ」

 僕の吐息も苦しみでつやっぽくなるほどにはきつい。

「慣れです。一度同じ動きを繰り返しやりましょう。……お嬢様、進行は男性役に任せてください。他の方も踊る会場では貴女をお守りするのは男性役です。私に体を預けて……そうしてくださらないとどなたかにぶつかりそうな時にお守り出来ません」

「もっと……なんかぐいぐい動きたいよ」

「駄目です、私の動きを感じて下さい……息を合わせて」

「呼吸、止まっちゃいそう。やっぱり苦しい、体硬いみたい」

「じきに柔らかくなります。焦らず……ゆっくり……」

 彼女の教育は例えるなら飴と鞭の『鞭』の部分だけ抽出されたようなものだった。

 数十分やっただけで疲労困憊。首をのけぞり続けたせいか早くも筋肉痛を発症した。

 僕は休憩時間の頃にはすっかり舞踏が嫌になっていた。部屋の寝台に転がり枕を抱いて叫ぶ。

「……もっと楽しいのがやりたい!」

 足をバタバタさせて不満を表現したら、すかさず彼女に「下着が見えます」と押さえつけられた。どうも僕にダンスは合わないようだ。ちらりと顔を上げると、彼女が明らかに『困った御方ですね』と言いたげな視線を寄越している。僕は反抗的に怒鳴った。

「君みたいになんでも上手に出来ないよ! 僕は君とは違うもの!」

「……違う?」

「そうだよ、何もかも違う……ずるいよ君はさ……」

 この違いは嫉妬を覚えるのを通り越して諦めの境地に至らせるほど。

「とても恵まれてるじゃない」

 綺麗で頭が良くてどこへでも行けて、誇り高い職業婦人。これから『女』という商品に磨き上げられて売られていくだけの僕とは違う。僕はいずれ歳がいくつ離れているかわからない爺さんか誰かにリボンを巻かれて贈られる為に生きている。彼女は……なんの為に生きているのかは知らないけれど自分で色んなことが選択出来る。

 僕はもう自分で何も選べない。一度大きな選択をしてしまったから。

「……お嬢様」

 彼女は寝台に腰掛けて僕に寄り添う。口にかかった髪のひと房を機械の指先ですっと避けてくれた。いつだって無表情なのにこんな時だけ柔らかい目線をくれるようになったのは僕らが数ヶ月一緒に過ごしてきた親密さの証か、それとも。

「少し疲れてしまいましたね……」

 これが彼女の技術なのか。彼女は本当に、本当に……時偶ときたますごく優しい。僕にこんなに優しくしてくれるのはお金を貰っているからだけれど、それでもこの優しさは癖になる。彼女が自動手記人形オート・メモリーズ・ドール業界の中で有名な理由はきっとこれなんだろうかと穿った見方をしてしまう。

「無理をさせすぎました、申し訳ございません」

 まるで自分が、誰よりも特別な存在だと勘違いさせてくれるのだ。こんな僕にさえ。

「お湯をもらってきます。入浴で疲れを癒してください」

 我儘わがままな主から理不尽なことを言われているのに、ちっとも怒った様子はなかった。彼女が激怒する姿なんて想像もつかないけど、これはこれで堪えるものがある。

 僕は見放されたような気がして、あきれられてしまったような気がして、不安になった。

「ね、ねえ……」

 機械仕掛けみたいに、自動で手が伸びた。

「ぼ、僕も行く」

 彼女の制服のスカートの裾を掴んで起き上がる。

「……お嬢様。重たいですよ、桶を持つの」

「君だけに持たせるのなんて嫌だ」

「お嬢様はお嬢様らしくして頂ければそれで良いのです」

「するよ、する。皆の前では君が望むお嬢様になる。でも、二人きりの時は……」

 僕があまりにも必死な顔で言ったせいか、彼女は少し目を細めた。

「分かりました」

 金の猫足の陶器風呂には沸かした熱湯をくれる湯場を三往復ぐらいしてようやくお湯が溜まった。寮には皆で入れる大きな湯殿もあるが僕達はそれを好まない。彼女は両腕が義手だし、僕も彼女の裸体を他の人にさらさせたくなかった。

 それではごゆっくりどうぞと言われて浴室から出ていこうとする彼女を僕は引き留める。

「一緒に入ろうよ」

「結構です」

「僕が入った後だと湯が冷めてるよ」

「構いません」

「一緒に入ると僕が喜ぶよ」

「お嬢様を喜ばせる為に私がここにいるのではありません」

「この問答いつも繰り返してるけど、結局根負けしてくれるんだから潔く頷こうよ」

「…………」

 彼女が押しに弱いのは把握済みである。

 何か言いたそうにしながらも仕方ないですね、と言ってくれた。

「ただし、服を脱ぐ時にじっと見つめるのはお止め下さい。みだりに触れようともしないでください。不適切な行動があった瞬間からこの仕事を降ります」

 下心が隠しきれていなかったことを僕は反省した。

 僕と彼女は揃って浴槽に浸かる。広めの浴槽とはいえど人が二人も入れば狭い。彼女は極力義手を湯にふれないように縁に腰掛け、僕は浴槽の中で膝を折る。お湯に浸した布で体を拭く彼女をじろじろ見つめないようにするのは中々難しい。運動をしてこなかった僕とは違う引き締まった肢体。肌の色艶いろつやは真珠の輝き。絵画の中の天女の写しそのもの。そんな裸体の美女がいたら性別など関係なく人は注目せずにはいられないと思う。

 僕はなるべく自然にしようと話題を振る。

「そういえば、君さ。授業が終わった後、校舎の入り口であの子に呼び止められていたね。ほら、お昼休みの時に盛大に転んでいた……」

「ああ……。あの時はお傍を離れてしまい申し訳ありませんでした」

「それはいいのだけれど。変なことされてない?」

「お嬢様のように口づけをねだるような方ではありませんでした」

 彼女の認識では僕が一番危険人物なのだろうか。

「そうそう……あの時のお礼ですと何か包み物を頂きました。爪に色をつける……爪紅というのですか? それが何種類か……しかし私の手は義手ですからどう扱おうか思案しています」

 彼女の義手は見事にどちらも両肩あたりから始まっている。とってつけたような印象だ。

 そのせいか人間らしさが薄い。本当に、機械の人形みたいだ。もちろん生身の部分は非常に肉感的で魅力に溢れているんだけれど。

 どういった経緯でそうなったのだろう。切り落とされたのか、腐り落ちたのか。目に見える傷はそこだけではない。首筋からつま先までも大小の傷がうっすらと見受けられる。

「そっか……」

 大陸は数年前に戦争が終わったばかりだ。過去は聞かずとも何となく察しはつく。

 本当だったら、他の部位と同じように白くて滑らかな肌質の手がそこには存在していたのだ。等身大の女の子とはいえない彼女でも、自分の腕が機械になってしまったことは嫌なはず。

 なので僕は殊更明るく言った。

「足に塗ってあげるよ。お風呂から上がったら。せっかく貰ったのだし……あの子の為にも使ってあげたほうがいい。受け取ってくれただけでも嬉しかったかもしれないけれど」

「お嬢様……」

 彼女は長い金髪をぎゅっと絞って水滴を垂らした。

「……お嬢様は私の手のことを一度もお尋ねになりませんね」

 ぽたぽたと落ちる水滴は砂時計の砂みたい。

 僕と彼女の残り時間を意識させる。僕は彼女の傍に寄って微笑んだ。両手を一度挙げて君に触れませんと意思表示をする。その上で頬を彼女の膝に乗せた。生暖かい人の感触だ。女の子の柔らかい肌を想像したが、そうでもなかった。

「君だって僕が大富豪の娘になる前、どこでどんな暮らしをしていたか聞かないじゃない」

 彼女のことが好きだから、未来も過去も現在も独り占めしたくなるけれど。人には言いたいことと言いたくないことがあるものだ。僕はあまり賢くはないがそれくらい知っている。

 僕だってそうなんだから。

 どんなことがあっても、僕は彼女に自分の過去を言いたくない。

 

 その日の夜、僕らはお揃いの色の爪紅を足の爪に塗って寝た。僕は夢を見た。妹の夢だ。

 妹とパンケーキを食べていた。どこか知らない場所で。木造建築の素朴な……人が幸せな家庭を表現するならそんな家だろうというところで。

 パンケーキなんて、僕達が一緒に暮らしていた時は食べたことがなかったから願望のあらわれなのかもしれない。妹とただ幸せに美味しいものを食べたかった願望。

 夢の中の僕達はパンケーキに蜂蜜とクリームをたっぷりかけて、さくらんぼを冠に飾った。あの子はまだうまく匙が持てないから、僕が食べさせてあげていた。

 美味しいかと聞くと、破顔して頷いた。僕はその笑顔がすごくすごく嬉しくて……。

 そこで目覚めた。

 どんな快楽や薬にもまさる多幸感に満ちあふれていたのに涙と咳が止まらなくなっていた。

 ネグリジェの袖で鼻水と涙を拭う。泣きたい訳じゃない。

 なのに、なんていらない機能なんだ。涙なんて何の役にも立たない。

 泣いたって誰も助けてなんてくれないのを僕は身を持って知っている。

 僕は横になっているのが耐え切れず起き上がった。この病は仰向けでいるほうが辛い。

 ぜえぜえとする胸を撫でて必死に咳を抑えようとする。僕は父と出会ってからこの病が発病するようになってしまったのだが別に命に別状は無い。ただ、咳が出て苦しいだけ。

 どうしてなんだろう。僕はいま幸せであるべきなのに。体は不幸だ辛いんだと訴えてくる。

 僕は選択をした。あの子の為ならなんだって頑張れる。なんだって耐えられると本当に思っていて。その気持ちはどれだけ冷たい夜を過ごしても色褪せないだろうと確信出来ていて。

 それは状況が変わった現在だって変わりないのに。

――なのにどうして僕はこんなにも苦しいのだろう。

「……お嬢様」

 夜に包まれた室内に涼やかな声が響いた。僕は肩を震わせて隣の寝台へ顔を向ける。いつから起きていたのか、彼女はこちらを見ていた。薄暗い部屋の中で碧い瞳が蝋燭ろうそくの光みたい。

「咳が……」

「お水をお持ちします」

「いい、いらない。意味がない……」

「ではそちらに行きます」

 こちらが望む前に彼女は僕の方に来てくれた。自分の枕と部屋の長椅子のクッションをかき集めてたくさん重ねる。それを背にすると座ったままでもゆったりとした姿勢が出来た。彼女も僕の隣に腰掛け、二人で一つの毛布を共有する。手を差し出したら、握ってくれた。

「仰向けにならないと寝づらくない?」

「私はどんな場所でも寝られます」

「君も、とんだ仕事だね。ただの自動手記人形オート・メモリーズ・ドールなのに……僕みたいなのと三ヶ月もさ」

 でもあと少しだ。

「仕事に、良いも悪いもございません。それに、いま私がお嬢様の手を握っているのは仕事ではありません」

 僕の嘘ばかりの学園生活で唯一味方でいてくれる人との時間はあと少し。

「………………………………うん」

 僕は頭を彼女の肩にのせる。

「ねぇ、優しいね……どうして」

「何がでしょうか」

「君さ、普段は厳しいのに……こういう時すごく優しいでしょう。どうして? 僕は結構嫌な奴だったのに。最初からずっとさ……」

「嫌な……?」

 何を言われているのか分からないのか、彼女は疑問符を浮かべる。

「最初に出会った時にさ、僕は君に言ったじゃない。『慣れ合うつもりないから。教育に関わる必要最低限以外のことは話しかけないで』って」

 あの時の僕は、知らない世界に放り込まれて目にする人すべてが敵に見えていた。お高くとまった冷たい横顔の美人なんて内心では自分をさげすんでいるに違いないと決めつけていた。

「確かに言われました。途中まではご命令通りそうしていましたね」

「はは、僕がその命令を取り消したからね……僕は……ひどい。君は…………優しい……」

 

 入学して一週間くらい経った頃の真夜中。

 ちょうど今のように僕は心のめまいで発作を起こした。彼女はすぐに反応して身体を起こしたのを記憶している。咳き込む僕を彼女は隣の寝台からしばらく見守っていた。

 ただ見ているだけの彼女を、何てひどい人だと憎んだものだ。

――味方なんて一人も居ないんだ。

 悲劇に酔っていた訳じゃないのだけれど。そうとしか思えなかった。

 涙をぐっと堪えてうずくまる。

――負けない、こんな弱いままじゃ駄目だ。気持ちが弱いからこんな咳が出るんだ。

 叱咤しったしても、咳はひどくなるばかりで良くならない。

 喘息という病気らしいのだがこれに特効薬は無い。ただ過ぎ去るのを待つばかりだ。

――息が苦しくてどうしようもない。

 もう頭がおかしくなりそうだった。

――眠りたいのに、眠れない。

 まぶたを閉じてうとうとしても咳が眠りを妨げる。その悪循環に叫びだしそうになった時、僕は背中に人肌を感じた。びくっと身体が痙攣けいれんした。そんなことを誰かにしてもらった経験がなかったのだ。首を曲げて後ろを見ると、彼女が無言で背中をさすっていた。

 何も言わないけど、心配そうな目で。背中をさすり続けている。闇の中で目が合って、彼女は一度口を開いたけれど閉じてしまう。どうしてなのか。そこでやっと気づく。

――嗚呼ああ、僕が……。

 僕が喋るなと言ったから。

 彼女は機械のように僕に言われたことを忠実に守っていた。だから『大丈夫ですか』とも問えなかったのだろう……僕は自分で命令しておいて。酷い人だと。

――酷いのは、僕だ。

 僕は顔を伏せて、涙を隠しながらされるがままになる。

――僕は、自分ばかりで、この人は。

 彼女の手は止まらない。世界を酷くしているのは、実は自分なんじゃないのか。

 ふと、そんな考えが浮かんだ。だって、ほら。彼女からしてみれば嫌な主人であるはずなのに心配してくれている。彼女も眠たいはずだ。生意気で教養も無い小娘の傍で三ヶ月も暮らすなんて何かの罰だと言われても冗談にならない。でも、彼女は優しい。

――優しいんだ。

 彼女の傍に居る時だけは、少しだけ世界が優しく思える。大事にしてもらっていると、感じられる。自分という存在が、ほんの少し光り輝く。否定ばかりの世界で、初めてまともに息が出来た。その夜をまたいでから、僕は彼女にお願いし直した。 

 出来るのであれば、年の近い女の子同士として、普通に話したいと。

 

「優しいですか……?」

 彼女はやはり不思議そうな表情のままだ。そうしているつもりはないらしい。

 僕は毛布から顔を出している二人の足のお揃いの爪を見て笑う。

「……やさしいよぉ」

「そうですか。私は……ただ真似ているだけです。怪我をした時、一緒に居た方が怪我の部分が痛まないようにとこうしてクッションを置いてくれました。おかげでその日はよく寝られました。疲労で熱を出してしまった時、夜中に何度も起きて水を与えて頂いたこともあります」

 優しくされたことがあるから、同じような場面にそれを真似しているのだと彼女は言う。

「……そう」

 この地上に居る何人がそれを出来ているのだろう。

 それをする価値を本当の意味で分かっている者はどれだけ居るのだろう。

「お嬢様、眠れないのであれば星座の話でも致しましょうか。ずっと、勉強しているのです」

 人は自分のことばかり。

「うん」

 誰かをいつくしむことにすら計算や利潤が絡む。

「ではこの時期に夜空にまたたく双子の星の逸話を」

 当たり前の優しさの素晴らしさを、ちゃんと理解出来るのはたくさん傷ついてから。

「うん」

 僕は、強くなりたいと思った。

 どんな波風が来ても立っていられる魂を持ちたい。悲しみや孤独がどれほど僕を殺そうとしても、びくとも動かない鋼鉄の心を持ちたい。そうして、たくさんの事柄を受け止めて人に優しくしたい。彼女の優しさがこんなにも骨身に沁みるのは、きっとその分だけ彼女が傷ついてきたからだと思う。体に刻まれた傷の数々。それがそのまま彼女の心の傷なのでは。傷ついてきた人だからこそ、その優しさが他の人のものとは違うんだと。そう感じられた。

 この時の気持ちを僕は永遠に忘れたくない。

 

 クイッククイックターン。

 何度も舞踏の練習を繰り返し迎えた舞踏会の日。僕の元に荷物が届いた。

 父名義の郵便。大きな箱がいくつも部屋の床に重ねられた。可愛らしい包装を解いていくと姿を見せた宝石やドレス、ヒールの高い靴。彼女の分もあった。

「……」

 彼女は荷物に付いていた郵便局の送付状を見てくしゃみを我慢するような顔をした。

「どうしたの?」

「……私のドレスの方は弊社の社長からでして……恐らく学園の門まで配達したのは私の知るポストマンだったのでしょう。落書きがされています」

 送付状には届けたポストマンの名前と、その横に子どもが描いたような笑顔のマークがあった。落書きには吹き出しがついていて、『遊んでんのか?』と言葉が。

「どういう意味?」

「早く帰って来いと言いたいのかと」

「……そう」

「本来の仕事は代筆屋ですから。今回依頼をお引き受けしたのはヨーク家とも縁深いドロッセル王国からご紹介状を頂いたからです。お嬢様とは関係の無いお話なのですが、以前にあちらで依頼をお引き受けしてからお仕事を色々と紹介して頂いておりまして……弊社としましてはお話をお断りするのが難しい案件でした。社長からも頼まれましてこうしていま此処におりますが、私自身がこれほど長く会社を離れることはあまりないのです。ここは外部との連絡も取りにくいですし、定期報告も出来ていません。この手紙は、彼なりの心配の仕方なのでしょう」

 話す声は普段より優しい響きだ。先程の表情は、笑みを噛み殺していたのかもしれない。

――そうか、外にそういう人がいるのか。

 今までの僕だったら、きっと嫉妬で頭がいっぱいになってた。

 でも三ヶ月経って、彼女という人を知って、彼女を通して自分を知って。僕という人間は少しだけ価値観が変わっていた。

 あまり表情の変化は無いけれど、嬉しそうで僕も嬉しい。勿論寂しさもあるけれど。

「ねえ、帰るのは今日だよね」

「はい。舞踏会を終えましたら契約は終了とさせて頂きます。本日の夜にはここを発ちます」

「……じゃあ、たくさん、一緒に楽しもうね……舞踏会」

 僕は無理して笑う。あとわずか。君の中に残される僕の姿を楽しいものにしたい。

「それじゃあ」

 君のことが好きだから。僕のこと、良い思い出の中に入れて欲しい。

 君の人生の一部にならなくても。君が僕を忘れてしまっても。僕だけが覚えていても。

 少しだけ努力したい。僕の好きな女の子と、僕の愛してる妹。

 両方に、僕が良いものであって欲しい。良いものでありたい。

「エスコートして頂けますか?」

 冗談めかして手を差し出して言ったら、彼女は生真面目に頷き片足立ちでその場にひざまずいた。

「喜んでお嬢様」

 騎士姫さまって呼ばれても仕方ない格好良さだった。

 

 フィンガーレスグローブは黒のレース刺繍で作られた物。

 ビジューのストラップで止める華奢なヒール靴。

 眼鏡はいらない。エスコートがあるから。

 生花で編んだ花冠を丹念にといた髪の上に乗せる。

 愛らしさを求められているみたいで笑える薄桃色のスクエアネックサテンドレスは羽のように軽い。アンクル丈の裾から薔薇の花弁が積み重なったような赤のパニエが見える。

 この学園では大人しい格好しかしてこなかったから、僕のもたらす印象の違いに通りすがる同級生が何か囁いてる。いや、僕のことではないか。噂されるべきはもっと別の人だ。

「みんな君を見てる」

 首元まできっちりと隠されたハイネックのドレスはみだりな露出を許さない。長袖にロンググローブという完全なる防御。選んだ人のセンスに感服したい。機械仕掛けの腕を見事エレガントに隠している。

「おかしいところがありますか」

「違うよ。綺麗だってこと」

「皆様着飾っておられますが」

「君が一番綺麗なんだよ」

 彼女は長い長い金糸の髪に編みこみを施しながら顔横に流している。

 後ろから見る姿が最高に魅力的だ。髪にも、ドレスにも薔薇の花の飾りが点々とした星のようについていた。本人は小首を傾げているが永遠に眺めていられる美しさだ。

 カフェテリアは装いを変えて舞踏会場になっていた。

 白と青のグリッター幕で覆われた会場は夜空の世界のよう。吹き抜けの天井には銀色のバルーンが飛ばされて敷き詰められている。いくつも繋がる長机には学園の料理人達が腕をふるった料理の品々が。

 肉料理から魚料理、色彩豊かな逸品をビュッフェ形式で食べることが出来る。中でもアイシングが施されたカップケーキやクッキーがずらりと並び圧倒的な存在感を放っていた。

 テーブルコーディネイトも趣向を凝らしているようだ。ティーカップに飾られた花々、硝子のボウルの中で揺らめく蝋燭、グラスには全てシフォンのリボンが巻いてある。

「…………壮絶に金がかかってるね。まるで結婚式だ。行ったことないけど」

 夢の国があるならこんな感じだろうか。

 こういう場が初めてで緊張している僕と違い彼女は堂々としたものだった。

 というか、普段と変わらない。

「何かとってきましょうか……ご希望はございますか?」

 僕はお腹に手を当てて呻く。

「コルセットきつくてあんまり食べられなさそう……ねぇ、傍を離れないでね。視界が割りとぼんやりなんだ。見えなくはないんだけれど……」

「お約束します。御身のお傍を離れません」

 宣言通り彼女はたくさんの人に声をかけられたけど僕から離れなかった。

 宴もたけなわになると有志の生徒達が楽器を持ち寄り音楽を奏で出した。

 皆がそわそわし始め、旋律の調べに乗じてパートナーとダンスホールに出る。

 僕はついにこの時が来てしまったかと胃が痛くなってきた。

――失敗したら、僕が本当はお嬢様じゃないってことがばれちゃう。

 それはヨーク家の威信を汚す行為。後継者の務めを果たすことと引き換えに提示された条件が守られなくなるかもしれない。嫌だ嫌だと言いながらも、頑張ってこられたのはその為だ。

「お嬢様」

 耳元で囁かれて、ぞくりと鳥肌が立った。

 緊張でかちこちになった体ごと彼女の方に向ける。横に立つのは僕の。

「ご安心下さい。お嬢様の舞踏習得は完璧な領域です。私が保証致します」

 僕の唯一の味方。

「慣れない靴はつまずきやすいかもしれません。ですが転ぶことを懸念されているのでしたらそれは絶対に有り得ませんよ」

 僕の事情を知るただ一人の女の子。

「何故なら私がお守りするからです」

 騎士のような、僕の彼女。君がそう言うなら、失敗は起こらない。

 だって知っているんだ。

 君は嘘を吐かないし、約束は必ず守る。

 数ヶ月しか一緒に過ごしてない癖にこんなに信用して僕は馬鹿なのかもしれない。

 本来の僕ならこんな油断はけしてしない。でも。

――でも、君だから。

「うん、信じてる」

――君だから。

「そして今までありがとう、最後の仕事だ」

――君だから。

「男性役は任せるけど、どうか言わせて」

――君だから、好きになったし、付いてきた。

 

 

「ヴァイオレット、お手をどうぞ」

 

 

 金髪碧眼の自動手記人形オート・メモリーズ・ドールは。

 僕が出会ってきた人々の中で一番美しく誇り高い彼女は。

 ヴァイオレット・エヴァーガーデンは。

「喜んで、お嬢様」

 そう言って少し微笑った。

 

 舞踏会の後、僕らはいつものように二人で入浴して、互いの髪を乾かして櫛ですいた。

 ヴァイオレットは初めて対面した時と同じ、ジャケットにリボンタイワンピース、エメラルドのブローチ、ココアブラウンのブーツ姿に戻り、真夜中過ぎに学園から出て行った。

 明日からきっと、僕は質問攻めにあうだろう。

 騎士姫さまは何処に行ってしまわれたのかと。

 別れ際、僕はひとつだけお願いをした。

「お金はいつか払うから、僕自身はいま何も無くてあげられないけど、必ず恩返しするから。友達として、ひとつ頼んでもいい……?」

 ヴァイオレット・エヴァーガーデンは玲瓏れいろうな声で返した。

「エイミー・バートレット様。友人からお金は頂きません」

 僕はその答えを聞いて、息が止まりそうになるくらい切なくなった。

 

 

 僕と彼女はそれっきり会っていない。ただ手紙の交換だけは、いつまでも続いている。

 

 

 イザベラ・ヨークがまだエイミー・バートレットという名前だった頃、彼女が小さな女の子を拾ったのは明け方近くの娼婦街だった。

『今度はもう少しマシなもん盗んで来いよ』

 盗品も扱う換金屋から出てきたのはハンチング帽子に首元まで隠れるボレロを着た少年。

 よくよく見ると男装した少女であることは明白なのだが未発達な身体が性別を隠している。女が趣味でもなく男装をしているのならば理由はほぼ貞操を守る為に限られるだろう。

 ここは、そういう街だった。換金屋のあこぎな商売に舌打ちと悪態を吐きながらエイミーが店から外に出ると地面に座り込んだ少女が居た。

――ああ、この子。

 少女というよりは赤子に近い。馴染みの商売仲間の子どもだった。とは言ってもその子どもの親もエイミーと同じ年端もいかぬ子どもである。

 エイミーの住む街一帯は娼婦街で大きな街と街を繋ぐ中間地点に存在する。ちょうど補給が切れる旅人や移動中の軍人達をもてなすのが街の経済の仕組みだ。

 この街で一番多い職業は娼婦の次に盗人となっている。娼婦が盗人を兼ねている場合もある。盗んだ物は換金屋に持ち込まれ、それを探しに持ち主が現れ、換金屋は倍の値段で取引をする。盗む物と売る物が共謀して行われる商売の悪循環。エイミーはその子どもを出てきたばかりの換金屋でよく見かけていた。母親とも何度か世間話をしたことがある。

『お母さんは』

 エイミーが尋ねたら、その子は少し離れた場所を指さした。誰かが転がっている。

 首のねじれ方がおかしいから、エイミーにはそれが死んでいるとすぐに分かった。

『うごかない』

『そうだね、死んでいる』

 痴情のもつれか、通り魔か。誰かに人が死んでいると言っても無駄だろう。犯罪が起きても九割放置されるこんな街で生きているほうが悪いと返されるのが目に見えている。

――でもこんなところしか知らなくて、他に生き方を知らない僕らしか住めない街だ。

 エイミーはまだ母親の死が理解できていない子どもを見下ろした。マリーゴールド色のふわふわとした巻毛。着ている物は粗末だが顔立ちは母親譲りの愛らしさがある。放っておけば、どこぞの女衒ぜげんさらわれてすぐ売っぱらわれるだろう。それかエイミーのように盗人稼業の歯車に取り込まれて抜け出せなくなる。もっと酷い結末を想定するとすれば、体中切り分けられて好事家の手に渡る。

『……僕、一度君のお母さんにパンを貰ったことがあるんだ』

 かつて、エイミーは同じ選択を迫られた。彼女にはその子がまるで自分のように見えた。

『ちっとも財布を盗めなくて、もう何日も食べていなかったからすごく助かった』

 本当はパンなんて貰ったことなどないのだが、ただ理由をつける為に嘘を吐いた。

『だから、埋めるの手伝ってあげるよ』

 エイミーは店に舞い戻り、換金屋の主人に事情を話して男手を借りた。子どもの母親の顔見知りも居たが誰も軍警察に報告しようという発言はせず。検討の末、近くの無縁墓地に無事葬られた。皆埋め終わると眠たそうに去っていった。

『それどうすんだ』

 墓地の前から離れようとしない子どもを換金屋の主人は物扱いする。

『ばらすか、売るか。俺に任すなら分け前やるぞ』

 その時、エイミーの手には赤ん坊と変わりないその子の運命が握られていた。

――僕の時は、この男が盗人にすることを選んだ。

 エイミーにとって盗人として生きる毎日は最悪だが、薬漬けにされていないことは感謝すべきなのかもしれない。いや、本来なら恨むべきなのか? 

 こんな世界で生きていく道を強いられたのだ。

『……僕の妹にするよ』

『はぁ?』

 エイミーは、だから。他の選択肢をこの子どもに与えようと思った。

『妹にする。ばらすのも売るのも無しだ』

 誰に利用されるでもない、誰を利用するでもない。

 此処に生まれなければ存在していたかもしれない、ただの子どもとして愛される選択肢を。

『エイミー。お前の子じゃねぇだろ。何の義理でそんなことする』

 換金屋の主人にエイミーは笑って答える。

『復讐だよ』

 自分を、この子を、この子の母親を。こんな目に遭わせている世界と運命への復讐をしたいとエイミーは思った。生まれた時からエイミーは怒っていた。

 母親が暴漢に殺された時も。男に盗みを強要された時も。朝霧に包まれた墓地の中で佇む今もエイミーはずっと怒っていた。何なんだこの世界は、と。

――僕や彼女達が何をしたんだ? どうして世界はこんなにも不平等なんだ?

 吐き気がするほど不条理で暴力的で残酷だ。毎日体か心どっちかが痛い。痛くない日はない。

――世界を作った奴も、人間に心を入れて世界に産み落とした奴も気が狂ってる。

 人が苦しむのを見るのが大好きな変態野郎だ、とエイミーは神を呪う。

『この子を幸せにする。本当は不幸になるはずだったんだ。僕がそれを変えてやる。この子で稼ぐはずだった悪人どもも運命をつづっていた神様もざまあみろ……。見てろ……僕が絶対に絶対にこの子にまっとうな生き方を与えてみせる』

 

 エイミー・バートレットがイザベラ・ヨークになるのはそれから一年後。

 

 エイミーが人を愛することを知った頃に、彼女の父親と名乗る男の使者が訪ねてきた。使者曰く、遠い昔に金を与えて始末をつけた愛人の子どもを今更欲しがっていると。

 流行病で後継者が次々と倒れた。その貧困から救い出してやる。だから身を差し出せ。

 丁寧な口調だったが要約するとそんなことを言ってきた。運命は理不尽を効果的に使う。

 世界はエイミーを利用するばかりだ。エイミーは妹のことを尋ねた。自分がヨークの家に行けば彼女はどうなる? 使者は訪問してから腕に抱いて離さないエイミーの妹を見て微笑んだ。今後会うことは叶わない。娼婦の娘など当家の人間と縁があってはならない。すべてこちらの言う通りにするのなら、孤児院か子どもを欲しがっている家に養子に出してやろう。

 その子もそのほうがいい。こんな暮らしをさせるのか?

 わらいながらそう言われた。

――こんな暮らしをさせるのか?

 問われてからエイミーは部屋を見渡した。

 一人で住むにしても狭い間取りの部屋。築何年か分からない。

 床も屋根も傾いて、一度嵐が来れば住人ごと吹き飛ばされてしまうだろう。

台所の鍋には二日前に作られたスープの残りが入っていた。今日もそれしか食べ物が無い。部屋のカーテンは片方外れたままになっている。

 床には妹の為に買った小さな人形が転がっていた。

 絵本は二冊。どちらも人からの貰い物だ。子どもの玩具はそれしかない。

 朝も夜も無い生活のせいで洗濯物は籠の中から溢れかえりそうになっている。

 汚らしい部屋だった。綺麗なものが無い。

 でもこれが今のエイミーの精一杯だ。これ以上どうしようもなかった。

 どれだけ身を粉にして働いても神様が何かお与えになることは無い。

 そんなものは居ない。少なくともエイミーの傍には現れたことが無い。

 彼女の人生に希望は無い。情熱も無い。優しさも無い。

 この、薄暗闇の世界で光り輝くものは一切無い。

 もし唯一、素晴らしいものがあるとすれば。

 

『ねぇね』

 

 腕の中で、エイミーを構成するすべての中で一番尊い者。

『ね、ぇね』

 妹が泣きそうな声を出した。庇護者の不安を体全体から感じ取ったのかぐずりだしている。

『ねぇね』

 エイミーの名前をうまく言えずに、仮の呼び名で教えた『おねえちゃん』の略称。

『ねぇね』

 この子が成長したら、やってあげたいことがたくさんあった。

『ねぇね』

 学校に行かせて、友達を作って、楽しいことをたくさん経験して欲しい。

『…………』

 復讐が始まりの関係だったけれど、今は違う。不満ばかりの最悪な人生で、生きる希望が出来た。こんな自分にしか守れない小さな命を、救うこと。

 それがエイミーの唯一、素晴らしい何か。いま戦って生きていく理由になっていた。

『さあ、答えは一つしか無いでしょう』

 薄暗闇から手を伸ばす男はたぶん天使ではなく悪魔となり得る。

 この先を進む者は一切の希望を捨てよと、頭の中で警鐘が鳴っている。

 やっと見つけた人生の価値と、別れるなど出来ない。したくない。逃げ出したい。

 

――でも。

 

 男が言うように答えは一つしかなかったのだ。

 

 緑生い茂る街道沿い。元は教会の建物を改築して作られた孤児院がある。

 ドロッセルが出資している国立のその院の周りには彼らが暮らしていく為の糧となる畑と牧場が。引き取られている子ども達は時にふざけ合いながら農作業をしていた。

 見守る職員が真面目にやりなさいとたしなめていると、遠くからここではあまり聞き慣れない自動二輪車の走行音が聞こえてきた。でこぼこした土の道を軽快に走ってくる。

 朗らかな日常の風景を切り裂くその自動二輪車は孤児院の手前で停車した。

 職員が恐る恐る訪問者を伺いにいくと、ちょうど男が自動二輪車から降りてきた。

「郵便です、だ」

 こんな農村地帯では歩くのが困難そうなヒールのブーツをいた奇妙なポストマン。

 口ぶりは乱暴だがきっちりと挨拶をしてきた。

 郵便物は手紙で、送られた相手は最近この孤児院にやって来たばかりの娘だった。

 まだ畑仕事も出来ない幼児だ。本人に直接渡すと言ってきかない彼に手を焼きながらも職員は娘が居る部屋まで案内する。

 部屋に入ると娘は教会当時のまま残されたステンドグラスから漏れる色光をぼうっと見つめていた。透けて室内に溶けた鮮やかな光に照らされている。

 部屋は子ども達共有の遊具置き場なのか、たくさんの本棚や玩具が設置されていた。

 いかにも子ども好きそうなシスター姿の娘が他の子ども共々見守っている。

「…………よぉ、お前宛てに二通の手紙だ」

 ポストマンは子どもの目線までしゃがんで手紙を差し出した。子どもは受け取ろうとしない。

 手紙を貰うのは初めてなのかもしれない。

 口にしゃぶられていた指を出して、自分に向ける。

「てぃら」

 大きな瞳には、吸い込まれてしまいそうなほどの輝きが浮かんでいる。

 彼女の生活に突然現れた妙な因子であるポストマンを歓迎しているようだった。

 男の声は自然と和らいだ音で奏でられる。

「そう、お前の」

 目を細めて、少しだけ笑みを浮かべた。

「てぃらの?」

「そうだ、テイラー・バートレットさんへの郵便が二通。お前文字読めるのか?……赤ん坊みたいなガキに聞くのも愚問か。おいそこのあんた、こいつ文字は?」

 黙っていれば眉目秀麗なポストマンに突然話しかけられてシスターの娘は顔を赤らめる。

 それから無言で首を横に振った。

「……しゃーねえな。おいテイラー、俺が代わりに開けて読むぞ。いいか?」

「てぃら」

「よしいいな」

「にぃに」

「誰がにぃにだよ。俺にはベネディクト・ブルーって言う立派な名前がだな…………いいや、聞け。この二通はそれぞれ違う差出人から来ている。一通はヴァイオレット・エヴァーガーデンから。俺の同僚だ。何か困ったことや、将来の進路で頼りたいことがあれば自分を訪ねろと書いてある。ご丁寧にC・H郵便社の地図まで……職に困ったら来いってことだな」

 ポストマン、ベネディクトは読み終えた手紙をテイラーに押し付ける。

「次、差出人不明。書いてあるのは……何だ、短いな……」

 便箋を裏返ししてみても、他に文章は無かった為ベネディクトはそのまま読んだ。

「これは貴方を守る魔法の言葉です。『エイミー』……ただそう唱えて……だとよ」

 その言葉に、テイラーはぴくりと反応した。

 目を大きく見開き、何度もまたたきをする。

 ベネディクトは言うだけ言うとシスターの方に首を曲げて文句を投げた。

「あんたこいつに文字教えてやれよ」

「……育ってきた環境のせいか、他の子より知恵の吸収が遅れているんです。他の子ども達の面倒も見なくてはいけませんし、中々付きっきりで教える時間もなくて……」

 分かるけどよ、と前置きしてからベネディクトは言う。

「こいつがでかくなった時に必要だろ。何より手紙が読めねえ……せっかく配達したのに。手紙なんてもんは読んで欲しくて書くもんだろ? 二人も居るんだ。こいつに手紙を送った奴が。時間かかってもいいから教えてやってくれ」

 自動手記人形オート・メモリーズ・ドールと違って配達が仕事のポストマン。けれども誰かが託した思いをちゃんと届けたいと思うことは彼らだって同じだ。

 自動手記人形オート・メモリーズ・ドールは依頼人の顔は見るが、依頼人が当てた手紙の相手を見ることはほとんどない。

 誰かの贈り物が届いた瞬間を見届けるのは彼らなのだから。

 ベネディクトとシスターの娘のやりとりをよそに、テイラーは口の中でいま教えられた言葉を発音しようとする。

「……え…………ねぇね」

 しようとしたが、違う言葉が出た。

 それはテイラーの始まったばかりの人生で一年ばかり一緒に居ただけの大人の呼び名だった。

 新しい寝床、見知らぬたくさんの他人。

 新鮮な毎日の中で早くもその人の記憶は薄れようとしている。

 テイラーはもう自分の母親の顔も覚えていなかった。

 きっと『ねぇね』と呼ばれる人の記憶もそのうち忘却のかまどに投げ込まれるだろう。

 

「……ねぇね」

 

 ただ、いまは違う。

 

 まだその人が与えてくれた人形や、スープの味を覚えている。

 

「ねぇね、ねぇね」

 

 抱き上げてくれた時のぬくもりと、甘く香った髪の匂いを覚えている。

 

「ねぇね」

 

 その人が、自分にとって大きな存在だったと覚えている。

 

 涙が浮かんでくる瞳に、面影を浮かべることが出来る。

 

 

 

 

「えいみ」

 

 

 

 

 それは、テイラー・バートレットにとっていつしか勇気を出す時の魔法の言葉になった。

 

 少女は見上げる。

 風見鶏を冠にした赤煉瓦の建物を。

 少し古めかしい外観のその郵便社は少女が道端に佇んでいる間にもひっきりなしに人が出入りしている。

 

 小包を持った青年。

 誰か愛しい相手への手紙を胸に抱く娘。

 

 窓口は既に開いているようだ。

 敷地内には欠伸をしながら自動二輪車に跨るポストマンが。

 彼を追いかけて妖艶な美女が小走りしてくる。

 

 無理やり後部座席に乗る彼女に、男は舌打ちしてから見えない角度でまんざらでも無さそうな顔をする。

 三階のバルコニーからは陽気な笑い声が聞こえた。

 何やら怒っている女性の声も。

 やがて男性がティーカップ片手にバルコニーに出てきた。

 

 街の景観の一部分でしか無い少女を見つけて、初対面であるのに気さくに手を振ってくる。

 後から煌めく銀髪の女性も顔を出す。

 

 想像していたよりもっと騒がしく、どこか懐かしくなれるところ。

 

 そこは少女にとって夢見てきた場所だった。

 着ていたワンピースの裾をぎゅっと握ってから一歩前に踏み出す。

 

 そして同時に魔法を唱えていた。

「エイミー」

 

 

 

 

 親愛なる僕のテイラー。

 

 

 これは出せない手紙です。

 僕は君と今後一切関わりを持てない。

 そう約束させられています。

 

 テイラー、あのね。

 

 僕、本当は、お姉ちゃんじゃなくてお母さんになりたかったのかもしれない。

 君を愛するがゆえに僕がした勝手な決断。

 それが君の人生にどう作用するのだろう。

 

 良い方向に行って欲しいと願ってやまないよ。君はきっと僕を忘れてしまうだろうね。

 家族なんて自分にはいないんだと思って育つのかな。

 

 でもねテイラー。たとえもう僕が居ないとしても。

 君の記憶から葬り去られていても。

 君が僕を呼ぶ。それだけで。

 

 僕達の絆は永遠なんだよ。

 

 僕が君の髪や瞳の色や笑顔が好きだったこと。

 僕が君を幸せにしたいと思ったこと。

 それらすべて、永遠になるんだ。

 

 『エイミー』はもう呼ばれることの無い名前だから。

 そして僕が君を愛していたから捨てた名前だから。その時間は僕の中では永遠だから。

 魔法のように、君が唱える度に続くの。

 君を好きな僕が永遠に続くの。

 

 だからね、僕のテイラー。

 

 

 

 

 寂しくなったら名前を呼んで。

文庫『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』刊行10周年を記念し、エピソードをセレクトして期間限定で無料公開中。1月から12月にかけて、【毎月第4金曜日】に公開エピソードを切り替え! シリーズ全4巻に収録されているうちの約半分のエピソードをお楽しみいただけます。
ぜひこの機会に『ヴァイオレット』を読んでみてくださいね!

KAエスマ文庫『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』シリーズ刊行10周年記念企画特設ページ
https://www.kyotoanimation.co.jp/books/violet/special/10th/