ヴァイオレット・エヴァーガーデン 下巻

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』
シリーズ刊行10周年記念企画

エピソード無料公開 第7弾

公開期間:725日~822

  • 著者:暁 佳奈
  • イラスト:高瀬亜貴子

 戦場は、蝶々のようだ。

 揺れて、揺れて、宛てもなく何処どこまでも命は浮遊する。

 

「前衛、一斉射撃後に私が崩しにかかります」

 

 戦いは商売のようだ。

 嘘と真実、駆け引き、騙し合い。収益と損失で事は進む。

「……援護する。だがヴァイオレット、君一人の戦いではない。それを忘れるな」

 事が大きくなればなるほど、戦いを始めた者は大抵その場には居ない。盤上の駒たる兵士達が燃え盛った炎の中に投げ込まれる。

「理解しています。ですが、斬り込みは私一人で十分です。他の者は必要ないかと」

 兵士達と一くくりにしても、その実態は個人の集まりである。

「戦争は君個人の物ではない。勝利はすべての兵が協力して勝ち取るものだ」

 多くの人がいれば、その中で良き隣人となれる者同士も必ずいるだろう。

「わかっています。一兵士として少佐に勝利を捧げます。そしてお守りします。その為の私なのですから」

 たとえ肌の色が、唇が紡ぐ言語が、まとうものすべてたがえていたとしても始まりは皆同じ。

 分解してしまえば血と肉と骨。構成物質に変わりはない。

 だが雪国の青年も、南国の少年も故郷ではない大地にその身を沈め合う。

「……私のことはいい。自分の身を最優先にしなさい」

 生死のやりとりは大義の存在であたかも当然のように行われる。

「少佐、私は貴方の道具です、貴方の武器です。武器は……主を守る為に存在します。私にそんなことを仰らないでください。ご命令はいつも通り、ただ一言で良いのです。言ってください。殺せ、と」

 

 では、大義を失った場合は?

 

 エメラルドグリーンの瞳が陰る。草原が燃え砂埃舞う戦場の中で主と下僕は見つめ合う。

 主が飼う下僕は美しい怪物である。

 この怪物は戦いにおいて最強を誇り、無知にして無垢。

 その瞳が永遠に閉じてしまうその時まで、我が身が燃えていることを知らない。

 断罪はあれど救済はない。その手には何も掴まれておらず、恐らくはそのまま生きていく。

「……ヴァイオレット」

 きっと、そうなる運命だった。

 

 

 

 

「殺せ」

 

 

 

 

「少女兵と彼女のすべて」

 

 

 

 

 永きに渡り続いた東西南北を絡めた諸国連合同士の戦いは通称大陸戦争と呼ばれている。

 北と南の燃料戦争。東と西の宗教戦争。利害が一致した北東と南西がそれぞれ同盟を組み、複雑に絡みあった争いの糸はもつれにもつれ、やがて突如切れた。

 敗者となったのは北東。勝者となったのは南西。元は南が北にいていた不平等貿易が発端の戦いである。その勝利への批判の声は今回の戦争に関与しなかった国々から少なくなかった。

 戦争につきものなのは戦後賠償だ。

 諸外国からの批判故か、南側は戦後賠償を武器・弾薬の製造や保管を主とする軍需工場の撤去を求めるに留めた。北側諸国は自然資源には乏しいが機械産業は南より優れている部分がある。その技術の押収と武力解除を賠償とした。他の制裁がないことで一見穏便に見えるが、実質的には目に見えぬ統治をしたと言っても過言ではない。

 東西の戦争の決着は表面的にはそう和解となった。戦勝国である西側は東側の信仰形態を没収することはせず、共存を提示した。だが東側の各教会に一定額の税金を西側に納めることを条件とした為、真の意味での相互和解ではない。また最終決戦の地とされた東西の宗教の最高巡礼地であるインテンスへの巡礼も東側は禁止された。大陸の面積は広く、形成された国家は数多い。この大陸戦争というくくりはあくまで限定された大国間が起こした戦争の一つである。とはいえ当事者であった国々には一時の平和がもたらされた。

 戦後賠償と共に、今後残される課題の中にしょう軍人が挙げられるだろう。

 兵士という存在は戦争が無くなれば国防に備える存在となる。今回の戦いで負傷した軍人達は治療に専念することが求められていた。

 

 戦勝国の一つであるライデンシャフトリヒ、その陸軍病院は国内の小高い丘の上にある。

 丘の名はアンシェネ。生い茂る木々を切り崩して作られた車道は狭く、馬車も車もすれ違う際に慎重さと運転技術を求められる厄介な場所だ。本来は陸軍所有の保養所であったのが病院不足の改善の為、急遽きゅうきょ医療施設へと変貌を遂げた。病院の数が足りないほど傷痍軍人が増えたのは戦争がもたらした結果の一つだ。道を進む時には途中で栗鼠りすや兎などの小動物の通行に注意しなくてはいけない。小動物注意の看板を三つほど過ぎると病院は見えてくる。

 贅沢ぜいたくな広い庭を所有している建物だ。野外球技を行う場所、森林浴を堪能できる散歩道。いまは誰も使用していないそれらはこれから日の目を見ることだろう。傷痍軍人の家族の見舞いが増えたせいか最近では定期運行の乗合馬車が出来た。連れてこられた子ども達はよく見知らぬ者同士で遊んでいる。乗合馬車を降りる者の中に、人目を引く男が居た。

 トーン・オン・トーンチェックのベストに白シャツ、ボルドー色の生地きじにスウェード編み紐が施されたワイドパンツ。腰ベルトから揺らめくグラフチェックの飾り布。長い真紅の髪を後ろで括った伊達だて男。病院に知り合いが多いのか、看護師のみならず入院患者やその家族ともすれ違う度に気持ちのよい挨拶あいさつを返している。

 彼の足取りは迷いがなかった。階段を上り続け廊下を歩く。窓から見える風景はアンシェネの丘がくれる最高の景色だ。山林を越えた先、港街の首都ライデン。遠くからかもめが飛んできては去っていく。

 季節は初夏だ。開け放たれた窓が運ぶ風の香りは瑞々みずみずしく咲き誇る花の匂いがする。男がノックをしてから入室した部屋は複数人が利用する病室だった。女性兵士と男性兵士で区別しているのだろう。カーテンで仕切られ姿が見えない患者もいるがすべて女性である。

「ホッジンズさん、彼女目覚められましたよ……ほんと、大変だったんですから」

 呼ばれた男、ホッジンズは患者の一人に付き添っていた看護師に疲労にじむ声で言われほうける。

『嘘だ、本当に?』と病室に響く声。裏返っていた声音には驚きと歓喜と、少しの焦燥が含まれていた。緊張した面持ちで部屋の最奥を見る。彼の尋ね人はそこに居た。

 びついた白のパイプで出来た寝台で、自分の手を見つめている。肩から取って付けたように施された義手を不思議そうに眺める瞳は澄んだ色の碧。髪は不揃いに伸びているが豊かな稲穂の海の如く流れる金髪。一べつされただけで、こちらの息も止まるような美貌の少女だ。

 傍まで来て、かける言葉を探していたホッジンズに気付くと彼女から口を開いた。

「……少佐は、ギル、ベルト少佐は……何処どこですか」

 唇は乾いてひび割れ、血が滲んでいた。

「ヴァイオレットちゃん……随分と眠り姫だったね」

 少女は他の患者と同じくしょう軍人だった。ライデンシャフトリヒ陸軍の影の立役者であり登録のない兵士。とある男にだけ仕える兵器、ヴァイオレット。

「俺のこと、わかる? ホッジンズだ。ライデンシャフトリヒの、インテンスの部隊で指揮してた。ほら、最終決戦の夜さ。挨拶あいさつしただろ。ずっと目覚めなくて心配していたんだよ」

 だがホッジンズにとっては、親友の育てた兵士という部分が大きい。

 他の患者がひそひそと小声で何か話しだしたので、ホッジンズは仕切りカーテンを閉めて傍の椅子に腰掛けた。ヴァイオレットはカーテンの隙間に目をやる。

「少佐は……」

 そこから誰か入ってくるのを期待しているのだろう。ホッジンズは首を横に振る。

「来てないよ。戦後処理で……忙しいからね。来られる状況じゃない」

「では、では、生きているんですね……!」

 必死の剣幕で問われ、ホッジンズは答えあぐねる。

「……そう、だね」

「お怪我は? お怪我の具合は?」

「怪我という点で言えば君よりは。それより自分の心配をしたほうがいい」

「私のことなど、どうでも……」

 しばし疑うようにヴァイオレットはホッジンズの瞳を覗き込む。

「その情報は、本当なのですか?」

 冷え冷えとした瞳だ。美しいからこそ増す外面の凄みというものがある。だがホッジンズはひるむことなく彼女の碧眼を見つめ返した。それどころか朗らかな笑顔を浮かべる。

「安心してよ、ヴァイオレットちゃん。俺はあいつから君を頼まれて見舞いにきてるんだ」

 努めて優しい声音といつくしみ溢れる雰囲気を作り出す。

 こういうことはホッジンズの得意分野だった。上司を持ち上げることから女性の寝室にたどり着くことまで。過程は違えど手法は同じだ。

「少佐……に?」

 まずは相手に自分が味方だと思わせること。

「そう。俺とあいつは陸軍の士官学校時代からの親友だから。お互い、何かあった時は助け合うようにしてる。親より互いのことにゃ詳しいかもね。だから君のことも頼まれた。ギルベルトは君を案じている。その証拠が俺だよ。君は俺のこと忘れちゃったかもしれないけど……」

「いいえ……ホッジンズ少佐。覚えています。二回です。お会いしたのは」

「え、一回目覚えてたの? 君、あの決戦前夜の時何も言わなかったじゃない」

 ホッジンズは二回目の出会いの時に言ったのだ。

『やあ、俺は初めてではないんだが……覚えていないよね? 君を一方的に知っている。ホッジンズ少佐と呼んでくれ』と。

 それに対してヴァイオレットは敬礼しただけだった。

「発言を求められているとは思いませんでした」

「訓練場でのこと、本当に覚えてるの?」

「あの時は言葉を学んでいなかったので、何を言われていたかは不明ですが。ホッジンズ少佐は……少佐と、ギルベルト少佐と親しげにされていました」

 眼中になど無いと思われていた分、嬉しさより驚きが大きい。二人を取り巻いていた緊張感が少しだけ薄れた。ヴァイオレットはホッジンズを認識し、ホッジンズはヴァイオレットに認識された。

「そうですか、ご無事ですか……」

 ヴァイオレットは目を閉じてあんの吐息を漏らす。看護師が大変だったというのは恐らくこれだろう。こちらが何を言おうとギルベルトのことしか聞いてこない相手は確かに大変だ。

「君達の部隊の功績が非常に大きかったよ。その分、死傷者も多数出てしまったけれど……それはどこの隊も同じだ。作戦通り撹乱かくらんで北の構えが崩れて、そこを突くことが出来た」

「大戦は勝ったと、医者には教えてもらいました。けれど私は、最後の……記憶がありません」

「君とギルベルトは折り重なるように倒れてた。そして応援を呼んできた仲間に助けられた。よくもまあ死ななかった。特に君は、出血量が酷かったから」

――人間離れしてる回復力だよ。

 その言葉はのど元まで上がってきていたが唇から発せられることはなかった。

「少佐はいま、どんな任務に? 私はいつ合流すればよろしいでしょうか。身体が……動かないのですが、数日中には元の状態に戻します。少佐も重傷を負ったはずです。目が……」

 ヴァイオレットの声は途中でしぼんでいく。

「……お守り出来ませんでした。せめてお傍で目の代わりをします」

 先程からこの娘は自分の腕のことは嘆かず、この場に居ない男の心配をしている。

――あんまりよくないな。何かを、信じすぎているのは。

 ホッジンズはこの盲目的な献身を、素直に賛美出来なかった。

――信頼と、信仰は違う。

 ヴァイオレットの姿勢は信仰に近い。ホッジンズの考えは、彼らしく損得勘定に基づいていた。商品であれ恋人であれ、過信はよくない。突然の裏切りや消失に耐えられない場合がある。彼は至極人付き合いがうまく情に厚い人間だが、思考は冷めていた。

「それは無理だよ、ヴァイオレットちゃん……身体の心配なら君の方だろう。腕が……もうわかっているだろうけどどうしようもなかった。もうちょっと、繊細な造りの奴をつけて欲しかったんだけど。陸軍病院だしね。戦闘特化の物になってしまった。ごめんね」

「強いのはよいことです。どうしてホッジンズ少佐が謝られるのですか?」

 問われて、ホッジンズは肩をすくめた。彼自身もそれについて答える言葉を持たなかった。

「何でだろうね」

 ホッジンズは困ったように眉を下げた。それで話題が途切れ、二人の間に沈黙のとばりが降りる。

「……」

 病室が静かなせいか、沈黙が痛いくらい際立ってしまう。

「ヴァイオレットちゃん何か食べたい物ある?」

 病室の壁にかけられた時計の秒針の音。

「いいえ、ホッジンズ少佐」

 看護師と患者の小さなささやき声。

「……お水とか、飲みたくない?」

 二人の息遣い。

「不要です」

 それが嫌に響く。ヴァイオレットに投げた会話の弾が、すべて彼女の武器の戦斧ウィッチクラフトで切り落とされる映像がホッジンズの脳内に浮かんだ。それくらい、会話が続かない。

――困った。この俺が女の子との会話に困るなんて。

 ライデンシャフトリヒの戦乙女いくさおとめの気難しさは相当だとホッジンズは心中でうなる。共通点といえば、やはりギルベルト・ブーゲンビリアしかない。だが目覚めて開口一番に安否確認するほど、その身を捧げている主の話をするのは彼女をやたら寂しがらせるだけなのではないか。

――いや、寂しいとか思うのかな。執着、はしているようだけど。

 無機質でせいな美術品のような少女は同じ生き物とは中々思えない。生きているのか死んでいるのか。生きているにしても、何が楽しくて生きているのか。

――嗚呼ああ……ギルベルト、とんだ面倒を頼んでくれたな。

 人を二種類に分けることは難しいが、沈黙に耐えられる人間とそうでない人間は居る。ホッジンズはどちらかと言えば後者だった。自然と目線が足元に下がり履いている靴を意味なく揺らす。ホッジンズのブルーグレーの垂れ目が床に転がる何かを見つけた。そこで彼はこの窮地を脱する物の存在を思い出した。

「そうだ、お見舞いの品があるんだ! 看護の邪魔になるからって、よけられてたんだけど実はいままでにも色々持ってきてたんだよ。ほら」

 寝台の下から紙袋を取り出す。起き上がれないヴァイオレットに向けて、ホッジンズは黒猫のぬいぐるみを見せた。ヴァイオレットの反応は薄い。次に虎柄の猫のぬいぐるみを。最後に子犬のぬいぐるみを見せる。三匹揃って『どうも』とおじぎをしてみせる。

「……」

 反応はやはり薄い。

「……駄目、かな」

「何がでしょうか」

「君への贈り物として、不合格だった?」

 ヴァイオレットは大きな瞳をまばたかせた。金糸のまつも揺れる。

「私に……?」

 本当に疑問に思ったのだろう。『どうして私に』とヴァイオレットは言葉を付け足す。

「怪我して入院してるんだから、お見舞いの品を貰うのは当たり前だよ。そうか、入院したことないか。早く元気になってねって……俺からの気持ちさ。君の荷物、戦後のどさくさで消えてしまってさ。いま何も持ち物がないんだ。だから、部屋が寂しくないようにと……」

 そこでホッジンズはびくりと身体を震わせた。悲鳴を呑み込むような息遣いがヴァイオレットから漏れたからだ。

「だ、大丈夫? ヴァイオレットちゃん」

「ブローチ……」

「ヴァイオレットちゃん?」

「ブローチは……エメラルドのブローチ……少佐に頂いた物なのです。失くしたのなら探さなくては。頂いた物なんです……!」

 ヴァイオレットは無理やり起きようと首を動かした。ホッジンズは慌ててそれを止めようとする。だが制止せずとも問題はなかった。

 ヴァイオレットはまったく起き上がれなかった。

「どうして、どうして……」

 数ヶ月も寝ていた人間、それも、腕を切り落とし機械仕掛けになってしまった者がすぐに歩き回れるはずがない。

 寝台がギシギシと音を立てる。落ちそうになる彼女の肩を押さえた。

 はたから見れば乱暴しているようだ。

――勘弁してくれ。

 親友から預かった少女兵、それも腕を落として弱った女を押さえつける真似などホッジンズの中の紳士が許さなかった。

「エメラルドがいいの? 俺が代わりのを買ってあげるよ、ね?」

 ヴァイオレットは首を小さく振る。

「代わりは、無いのです」

 目を伏せて、何かをこらえるような仕草。

 相当大事な物だったのだとホッジンズは察した。

「わかった。俺が買い戻す、だから安静にしてヴァイオレットちゃん」

 後先考えずに宣言した。

「出来るのですか……?」

 ヴァイオレットの抵抗がぴたりと止んだ。すかさずホッジンズは自慢の笑顔をたずさうなずく。

「たぶん。闇市場に流されてると思うんだ。知り合いの商人をあたってみる。頼むからこんな状態でどこかに行こうなんて思わないでくれ。それまでこいつらで我慢してくれないかな。ぬいぐるみとブローチで……まったく違うけど。可愛くない? 俺が昔飼っていた奴らにそっくりなんだ。ヴァイオレットちゃんはうさぎとかくまのぬいぐるみの方が良かったかな」

「わかりません」

「この中ならどれが可愛い? 絶対選ばないといけないとしたらどれか教えて?」

 そのような質問をされたことがないのだろう。

 ヴァイオレットは三匹のぬいぐるみを右から左へと眺め押し黙る。

「言わないと世界が終わると仮定したら? はい、三・二・一! 答えて!」

「そんな……。子犬……でしょうか」

「ミッキーね! あ、ミッキーって俺の飼ってた犬の名前。じゃあこいつは君のすぐ傍に置こう。良かったなミッキー。お前は選ばれたぞ」

 ミッキーと名付けられた子犬のぬいぐるみはヴァイオレットの顔横に添えられる。ようやく大人しくなったヴァイオレットを見てホッジンズは胸をなでおろした。

 背中からじっとりと冷や汗が出ている。ヴァイオレットは、最初は興味がなさそうにしていたが、やがてはぬいぐるみに顔を近付けて頬で触れた。

 しばらくそうしているのを何気なく見つめながらホッジンズは言う。

「ヴァイオレットちゃん。此処ここは少し人が多いから個室が空いたら移してもらおうか。手続きはしてあるんだ。もう、あの最終決戦が終わってから数ヶ月も経ってるんだよ。最初は病室も一杯で、寝台も足らなくてさ。でもようやく人が減ったっていうか……ほとんど担ぎ込まれた奴らは死んじゃっただけなんだけど。……個室、だから空きそうなんだ。そしたらそいつらも並べられるし……」

 ぬいぐるみ自体、珍しいのか。感触が柔らかくて気持ちがいいのか、ヴァイオレットは目を閉じて子犬の腹あたりに鼻をうずめている。目覚めたばかりで訓練なしに義手は動かせない。

 顔で触れるしかないのだ。押しすぎて遠ざかると、首を動かしてまた頬を寄せた。

「あと、他に……」

 その姿に、ホッジンズは言おうとしていたことが頭から飛んだ。

「ええと……」

 彼女の仕草はいとけなく、とても自然だった。

「……ぬいぐるみ、触るの、楽しい?」

「たのしい、はわかりません。でも、ふれていたいと思います」

 一時でも緊張や不安が収まったせいか、最初より声音も柔らかかった。鼻先で押されて離れていくぬいぐるみを、手でよせてやると素直に礼を言う。

――こんな、子だったのか?

 ホッジンズの心の奥に、いままでただよっていたのとは違う感情が芽生え始めていた。

 怖さや、面倒臭さ、支配欲ではない。もっと体温のあるもの。

「そう……うん、俺も昔はそうだったな。小さい子……あ、いやこれは悪気はないんだけど。小さい子ってよくそうするよね。いつも、親が構ってくれるわけじゃないし……」

「親はしりません」

「ああ、そうだよね……」

 子は庇護ひごを求めて、人型や獣の玩具に触れる。不安や境遇から本当に守ってくれるわけではない。あくまでそれは代わりでしかない。子どもの時でいえば、庇護者の代わりだ。

――こんなこと、する子だったのか?

 表情では何も窺えない。

――いや、こんなこと、しないと保てないのか。

 いま、彼女は正真正銘、孤独なのだ。

「……ええと、なんだっけ……そう、他に、他に……して欲しいことがあれば言ってくれ。ギルベルトから君のことを頼まれている。不自由なことがあれば出来る限り改善するよ……何か俺言っていることまとまってないな。君が目覚めたの、驚いて、ちょっと……喋りすぎている」

 ヴァイオレットはそれに対し、ありがとうございますと短く答える。ポーカーフェイスが得意なホッジンズは微笑みを絶やさずにいたが笑顔の仮面の下では違う感情を抱いていた。

――そうか、そうだったのか。

 ホッジンズがヴァイオレットのことを知る機会はそれほど多くは無かった。昇格の際に久しぶりにギルベルトに会った時に見せられたあの訓練場での凄惨せいさんな出来事から数日と、最終決戦前夜の日だけ。大戦後、見舞いは何度も来ていた。ヴァイオレットは親も兄妹もいない。友人もいない。いつも、ホッジンズが唯一の見舞客だった。

――どれだけ強いか、どんな殺しが出来るか、知っているのに。

 武器を取り上げ、狂気を取り除けばどうだ。

――嗚呼ああ、これは。

 ただ普通に話して、動くのを見ればわかる。

――これは駄目だ。こんなの、だって。ギルベルト、お前。

「ホッジンズ少佐?」

 

 こんなの、ただの女の子じゃないか。

 

 ホッジンズは心の何処どこか柔らかい部分をさじえぐられたような心地になる。

 鬼神めいた戦いぶりに、忘れていた。見ない振りをしていた。

 おそらくはライデンシャフトリヒの陸軍で彼女を見かけたことがある者なら皆そうしていた。

「これは……私が扱って、壊さないでしょうか」

 ヴァイオレットは、戦っていない時は何も知らない子どもなのだ。

 人間として登録されず、戦場での生き方しか知らずに育った。彼女は美しい器をした武器で、商品で、物だった。戦闘能力を買われて生かされている少女兵に余計な知恵はいらない。

 戦いぶりを見ていれば恐ろしくて声をかけたいとも思わない。大人びた容姿は男達から父性ではなく色めいた気持ちを抱かせる。子どもとして、扱われない。

――だが、いま俺の眼下に居るのは。

「好きにしていいんだよ。もう君の物だ」

「はい」

 ホッジンズの眼下に居るのはギルベルト・ブーゲンビリアが『人』にした少女だった。

 言葉を教え、規律を覚えさせたのはギルベルトだ。戦時下に、軍を率いながらそれをすることがどれほど大変だっただろう。ホッジンズはヴァイオレットの最初の状態を知っている。

「ホッジンズ少佐、どうかされましたか……」

「いや、なんでもない。他に、何かないかな」

 袋を漁りながらホッジンズは身体全体が腐っていくような異様な感覚に陥った。

 思い返してみたのだ。自分がいままでヴァイオレットをどう定義していたのか。

――俺、あの時。君で賭けごとをした。

 儲けた煙草たばこで、何を買ったか覚えていない。

 ギルベルトは頑として取り分を受け取らなかった。

――君はきっと、軍の役に立つだろうと思った。

 予想通り、ヴァイオレットはめざましい働きをした。最終決戦では作戦の要である撹乱かくらんを見事に成功させた。それは大きな出来事のたった一部分でしかないが、同じことを同じ状況下でやれと言われて出来る兵士が他にいたかはわからない。

 彼女が戦わなければ、味方の被害はもっとじんだいだっただろう。逆に言えば、彼女が居なければ死なずに済んだ人間も多い。そういう存在だ。

――使える、と思った。

 ライデンシャフトリヒの訓練場で、男達を次々と殺して最後に生き残った少女。忠誠を誓うのはギルベルトのみ。残虐性を隠しきれない冷徹な殺戮さつりく人形。

 化物だから、そのままでもいいと、何処どこか思っていたのだ。

――そんなわけ。

 ヴァイオレットと名付けられた少女は、諦めきれない期待でカーテンに視線をそそいでいる。

 その姿は親鳥を探すひなだ。

――ない、よな。

「ヴァイオレットちゃん、ごめん」

「何がでしょうか」

「………………あまり素敵なお見舞いの品がないや。次は色々、君を驚かせられる物を用意するよ。進軍ばかりで街で買い物なんてしたことないだろう」

「一度だけ」

「そっか。次からはもっと頑張るから。期待していてね。もし気に入らなくて、駄目でも、見放さないでくれると助かるな」

「よくわかりませんが、そのようなことはしません」

「……うん、ありがとう」

 ホッジンズはその後、会話が続かなくとも日暮れまでヴァイオレットの傍に付き添った。

 ヴァイオレットは途中寝たり目覚めたりと意識が長く保てなかったのでほとんど話すことは出来なかった。病院は夕方頃になると見舞い時間の終わりを知らせるベルが鳴る。それに合わせて看護師が各部屋に残っている見舞客に帰宅を促し始めた。

 ホッジンズはすぐに動けないでいた。

「ホッジンズ少佐、面会時間が終わります」

「うん」

「帰られなくていいのですか」

 最初は、会話が続かず早く帰りたいくらいだったがいまは無性に傍に居たかった。

 こんな状態の彼女を置いていくのかと、良心が痛む。その痛みの発生が今更遅すぎると、自分で自分の心を刺してまた痛みを感じてしまう。

「看護師さんがにらんでるから、よくはないね。帰るかな……。ああ、そういえば俺言い忘れてた。もう少佐じゃないんだよ。軍は辞めたんだ」

「そうなのですか」

「うん」

「軍人は……軍を辞めたら何をするのですか?」

「何でも出来るよ。人生は一つの道だけじゃない。俺に関しちゃいまはちょっとした事業を立ち上げようとしている商人。俺が社長の会社を作るんだ。今度はその話をするよ」

「はい、ホッジンズ…………しょ……」

 何と呼べばいいのか困ったのだろう。ホッジンズはくすくすと笑う。

「ホッジンズ社長って呼んでよ。まだ誰も社員がいないから、そう呼ばれたいのに呼んでもらえないんだ」

「ホッジンズ社長」

「……悪くない響きだ。ヴァイオレットちゃんに社長って言われるとぞくぞくする」

「寒いのですか」

「うーん、今度くる時は冗談について話すね」

 夏の夜とはいえ寒くないように、肩口まで布団をかけ直してやり、子犬のぬいぐるみを再度顔横に置いた。ヴァイオレットはまっすぐにホッジンズを見る。ホッジンズは、最初と違い今度は耐え切れず視線を逸らした。逸らした先は窓だった。

 病室から見える外の風景は夕焼けのだいだい色で染まりつつある。昼と夜の境界線が交じり合う姿は何処どこ何時いつ、何をしていてもふと見入ってしまう風景だ。

 空の雲、海、大地、街、人、すべてに等しくあかねの光が降りそそぐ。その恩寵おんちょうを受ける者達が本当は平等でないとしても。いまは等しく浴びて、やがては夜に抱かれようとしている。

 ホッジンズが『綺麗だね』と言うとヴァイオレットは『美しいですね』と返した。

 それじゃあ、とホッジンズは椅子から立ち上がる。

「さよなら」

「さよならじゃないよ。また来るよ」

――君は、俺なんかに興味ないかもしれないけれど。

 だがヴァイオレットは予想に反して、無表情のままつぶやいた。

「また……」

『さよなら』を『また』に言い換えた。

「うん、またねヴァイオレットちゃん」

 ヴァイオレットは、少し考えるように黙りこんでから小さく頷いた。

 

 短い命を世界に知らしめるように虫が鳴いていた。ライデンシャフトリヒ陸軍病院の周囲は緑生い茂る森がある。最近、有志の軍人の力により車椅子も走行出来るよう整備された散歩道は入院患者のいこいの場となりつつあった。散歩道の道沿いには木で作られた卓や椅子が転々とし、昼ご飯を広げる病院職員の姿も少なくない。その中に一人の男と一人の少女も居た。

「ヴァイオレットちゃん、疲れてない?」

 切り株の椅子に腰掛け、二人横に並んでいる。季節は二人が再会した初夏から少しだけ時が経ち、太陽の最盛期も静まりかけていた。今日は風もあり涼しく過ごしやすい夏の日だ。

「ホッジンズ社長、問題ありません。あと十往復くらいは」

 ヴァイオレットはゆったりとした綿のワンピースを着ていた。何の変哲もない簡素な服だが、胸元にはエメラルドのブローチが輝いている。たまに、ちらりと視線を落として所在を確認していた。それを見てホッジンズは何も言わず微笑む。

「駄目だよ。お医者さんに行って帰ってくるだけって言われただろう。見てるこっちも不安だし……帰りは俺が押すから」

「ですが」

「駄目」

「……ですが」

「駄目だから。無理してもすぐわかるからね」

「……はい」

「さあ汗拭いて、風邪ひくから」

 ホッジンズはハンカチを渡した。ヴァイオレットはそれを掴むもうまく額が拭けない。

「俺が拭いたら駄目?」

「駄目です。練習になりません」

「でも、ほら、髪も乱れちゃうしさ」

「駄目です。まず腕を動かせるようになれと仰ったのはホッジンズしょ……社長です。確かに……この状態では少佐のお助けにはなりません。むしろ役立たずです」

 ホッジンズは苦笑いとも苦渋の表情とも似つかぬ顔をした。このヴァイオレットという少女兵が目覚めてから見舞いを重ねて早二月ほど。会う度に開口一番ギルベルト・ブーゲンビリアの来訪を問われるのがこたえていた。彼は未だ姿を現さない。それはホッジンズにはどうしようもないことだが『今日は来ないよ』と言う時に見るヴァイオレットの切なそうな顔。それがたまらないのだ。なのでホッジンズはヴァイオレットを諭した。

『ギルベルトが来ない間に、君がやるべきことは奴の不在を嘆くことじゃなくて自分に出来ることをすることじゃないかな。つまり安静にしつつ、回復に向かうことだよ。会えた時に自慢出来るくらい腕を使えるようにするのがいまの任務だよ』

 これはヴァイオレットにはてきめんに効果があった。

「私は必ず生身の時以上にこの腕を使いこなします。エスターク社の義手は戦闘特化……私の技量が追いつけば、もっとお役に立てる存在になれるはずです」

 彼女は、任務や命令があるほうが輝ける人なのだ。そういう特性を持っている。

「……いや、そんなことないけど。女の子って存在だけでさんれいの川から流れたれいげんあらたかな清水みたいにありがたく素晴らしいものだよ。野郎は汚水だ」

「その例えは理解しかねますが、少佐のご命令をお伺い出来ない以上、自主的に鍛錬すべきだと私は考えます」

「……はい」

 なんだか妙な会話だが、険悪な雰囲気ではない。それどころか、この気の合わなそうな組み合わせの二人は意外や意外に馴染むようになっていた。彼の交友関係を思い起こせばそれほど不思議なことではないのかもしれない。ホッジンズとギルベルトは親友だが、ギルベルトの対応は基本的に冷ややかだ。ホッジンズは何というか、口では女好きを公言しながらも男女問わず美人に振り回されるのが好きな難儀な特性を持っていた。

「難儀な性格だね、ヴァイオレットちゃん」

 自分にも突き刺さるはずの言葉を他人事のようにホッジンズは言う。ヴァイオレットはハンカチを膝に落としては拾いを繰り返し、やっとのことで汗を拭くことが出来た。完全に使えない状態からは脱することが出来たヴァイオレットだったがまだまだ一人で生活することは許可される状態ではない。

「偉いよ」

 曲がった前髪を指先で直してやってから、ホッジンズはヴァイオレットを車椅子に乗せる。

「もう帰るのですか」

「風冷たくなってきたしね」

「……汗を、かかないようにします」

「出来るのなら教えて欲しいよその技。何を言っても駄目です。病室に戻ろう」

 のんびりと車椅子を押しながらホッジンズは考えた。

――無理しすぎる子だからこういう運動療法はあまりやらせたくないな。

 ヴァイオレットの表情は相変わらず無表情だが、どことなくうつむいて落ち込んでいる様子に見える。あくまでホッジンズの想像でしかないが、彼にはそう見えた。

――とはいえ、やれることを取り上げるのは良くない。何か良い訓練方法はないだろうか。

 沈黙も慣れてきた二人は黙って病室まで戻る。それほど広い部屋ではないが、他人を遮断するには十分だった。知る人ぞ知る両腕義手の少女兵にはぶしつけな視線も多い。個室の病室に移ったおかげでホッジンズは様々な見舞いの品を持ち込み放題だった。部屋に入ると漂うのは生花いけばなの香り、出迎えてくれるのはぬいぐるみの数々。

 まだ着ていない服や靴がリボンのついた箱に収められて積まれている。至極少女らしい部屋だ。その中でぽつんと寝台に座るヴァイオレットの姿はさながらドールだ。

「ヴァイオレットちゃん。俺、君に贈り物があるよ」

「……もう十分頂いています。お返し出来るものがありません。お断りします」

 孫を溺愛する祖父の如く、見舞いの度に何かしら持ってくるホッジンズにさすがのヴァイオレットもふるふると首を横に振り拒否を示した。

「いやそんな高いもんじゃないから。というか使いかけなんだけど俺の筆記帳。万年筆もね、インクは変えたばかりだからすぐに切れることはないと思う」

 ホッジンズは個室に設備されていた書斎机にそれらを広げた。堅表紙の書物風の筆記帳、金色に光る万年筆。ヴァイオレットはされるがままに書斎机前に座らされ、それらを手に取るよう促される。筆記帳は数ページしか使われていなかった。ホッジンズはその部分を破り捨てる。

「手の練習、これにしよう。文字を書くんだよ。確か、名前は書けるんだよね?」

「はい……ですが、言葉は……書けません」

「いいじゃないか。入院生活は退屈なんだからこの時期に覚える運命だったんだよ。目標を立てた方がいいね。どれくらいまで出来るように目指そうかな?」

「て、がみを」

 ヴァイオレットは咳き込むように言った。

「手紙を、書けるようになりたいです」

 切実さを含んだ声だった。

 ホッジンズの目も口も驚きで見開かれる。それはホッジンズにとってこの上ない申し出だった。実のところ、彼の都合でそのような方向性に持っていこうとしていた。

「どうして、そう思ったの? ヴァイオレットちゃんが何かをしたいって珍しいよね。ほら、訓練とか以外で……」

「手紙は遠いところに居る人に言葉を届けることが出来ます。此処ここでは通信も出来ません。ですが、もし手紙を書けたら……お返事を頂けたら、肉声でなくとも話しているのと同じです。少佐はそのようなお時間が無いかもしれません。ですが、私は……私という道具が、居ることを……少佐に……」

 後は言わなくてもわかった。

「少佐に……」

 ヴァイオレットは忘れて欲しくないのだ。

 ギルベルト・ブーゲンビリアに自分の存在を。自分という彼の為の武器を。

「思いを届けたいんだね」

「……はい、いいえ……いえ恐らくは……はい……」

 どっちつかずの返事。自分でもうまく抱いている気持ちを言い表せないのだろう。

 ホッジンズはよくわかっている。この病室の扉を開ける度に、期待してしぼむヴァイオレットの表情を見てきている。

――嗚呼ああ、駄目だ。本当にこういうのは駄目だ。

 ホッジンズはまぶたを片手で押さえて息を吐いた。

「……ホッジンズ社長?」

「うん、ごめん、ちょっと待って。すぐ復活するから」

 手をひらひらと振って顔をそむける。目頭が熱かった。胸が痛い。唇を噛んで、どうにか心の痛みを肉体の痛みで相殺そうさいさせようとするがうまくいかない。

――俺も年なのかな。

 この自動殺人人形が見せるふとした『人間』の表情に触れると、どうしてだか泣きたくなってしまうのだ。

――切なくて苦しい。

 ずずっと、鼻をすする音がヴァイオレットの耳に届いた。

 ヴァイオレットは小動物が危険を察知した時のように一度びくりと肩を震わせる。ホッジンズの体感だが『どう対処していいかわからない』という雰囲気が彼女からかもしだされた。

「あと三十秒待って……」

 ヴァイオレットは周囲を見渡した。碧眼が注意深く室内の中でいまこの場に必要だと思われるものを検索している。床頭台からハンカチを、寝台から黒猫のぬいぐるみをつまんだ。ホッジンズの元へ持っていく途中で握力が続かずそれらは床に落ちる。しゃがみこんで、拾おうとした時にはもうホッジンズは元の彼に戻っていた。彼もしゃがんで拾うのを手伝う。

「もしかして慰めようとしてくれてた?」

 不器用な優しさに、苦しく締め付けられていた心がほころんだ。ホッジンズの胸の奥に、恋とは違う愛おしさが花開く。

「……ホッジンズ社長は幼少期、ご両親に構ってもらえず涙した時、よくこの黒猫に似たぬいぐるみを抱いて寂しさをごまかしていたと……」

 だが次の瞬間にはその感情は吹っ飛んだ。

「俺、そんなことまで君に話してた!?

「一度、商談帰りに泥酔して来られた時に二時間ほどご自分の半生を語られていました」

 ホッジンズは今度は違う意味で泣きたくなった。

「ヴァイオレットちゃん、もし今後酔っ払った俺が現れたらまじめに話に付き合わないでいいから。殴っていいから。ほんと……酒控えよう……。これからは紅茶を飲む。紅茶で生きていく。嗚呼、恥ずかしい……後は何て言ってた?」

「クラウディアというお名前が、ご両親が生まれてくるのが女児だと予想して用意されていたもので、しかしそのまま名付けられた為に生きづらいと」

「よし、手紙書く作業に戻ろうヴァイオレットちゃん」

 クラウディア・ホッジンズは色々と限界だった。

 二人の新しい試みは、まずは万年筆を持つことから始まった。一文字書いては万年筆が転がり、また握り締める。床に落ちたそれを拾う姿はまたもホッジンズの心を切なくさせた。

「ゆっくりでいいんだよ」

 陸軍士官学校しか出ていないホッジンズにとって、教師役をするのは中々大変だった。

 それはヴァイオレットも同じだ。銃の解体は出来ても、文字は書けない。

 つたない教師、拙い生徒同士、お互いがお互いの拙さを補い合っていくしかない。

 いまの段階では彼女が手紙を書けるようになるなど途方も無い未来に思えた。

「……ギルベルト少佐の、お名前を書けるようになりたいです」

 文字の上達と共に窓の外の景色は段々と色せていく。

 

 紅葉の枯れ葉が大地に色彩の絨毯じゅうたんを築いていた。

 ライデンシャフトリヒ陸軍病院の正面玄関は枯れ葉の掃除が間に合わないようだ。山道からこの病院前までため息ものの自然の美しさに彩られていた。世界は秋一色だ。

 正面玄関の前ではトランクケースやトロリーバックを地面に置き、誰か人を待っている娘が居る。荷物が多いのか、バッグからはぬいぐるみが顔を出していた。

 待ちぼうけの状態なのだろう。何処どこということもなく虚空を眺めている。絵になる美少女だ。

 ウィステリアミストのノーカラーコート、ハイネックのブラックニット。ライラックのオーガンジー素材スカートは風が吹くごとにさらさらと音を立てる。

 少女兵ヴァイオレットの金糸の髪は随分と長く伸びていた。それがこの病院で過ごした月日を物語っている。山道から小さな馬車がやって来るのを見ると、ぎしりと音を立てる義手で荷物を掴んだ。何の不自由もなく両手で持ち馬車の停車位置に向かう。

 同じように、ヴァイオレットの元へ向かってくる男がいる。

「ごめんごめん、仕事で色々あって遅れた」

 寒風が身に染みる秋だというのに汗をかきながら走ってきたホッジンズは見違えるように普通の女の子の格好をしたヴァイオレットを見て驚き笑顔になる。

「ヴァイオレットちゃん可愛いよ、俺の見立ては素晴らしい! 才能がありすぎるのも困りものだな……服飾業界に進んでも良かったかもしれない。ブローチは?」

「持っています。移動中に失くしたらと思うと……」

「そんなにすぐ落ちないよ。つけたほうがいい。貸して」

 ホッジンズはエメラルドのブローチをしっかりとヴァイオレットの胸元につけてやった。距離が近いのにヴァイオレットが警戒する様子はない。

「できた、似合うよヴァイオレットちゃん」

 頭をでられても手を払うこともせず大人しい。

 長い間、面倒を見てくれたホッジンズのことを彼女なりに受け入れているようだった。

「ホッジンズ少佐」

「社長」

「ホッジンズ社長、私は退院して何処どこに行くのでしょう。次の任地は? 少佐から手紙の返事はありません。もう何通も出しています」

 ホッジンズに手をひかれ、ヴァイオレットは馬車に乗り込む。

「君はこれからとある高貴な血筋の一家の養女になる。息子さんが大戦で亡くなられてね。養子を探してた。ギルベルトの親戚にあたるお家だよ。そこで淑女の教育を受ける」

 客が乗車するのを確認すると御者は馬車を走らせた。一度大きく馬車が揺れる。

 ヴァイオレットは真顔で固まっていた。何も、揺れに驚いたのではない。

「……それは戦いに必要な学習なのですか」

 これからようやく自分の能力を発揮出来る場所へ戻れると思っていた矢先に突拍子もないことを言われたのだ。ヴァイオレットの反応は控え目なくらいだった。

 ホッジンズは腰を曲げて、ヴァイオレットの瞳と目線を合わせて言う。

「戦争は終わったから、君はもう兵士ではなくなるんだよ。だからこれからは兵士じゃない生き方をするのに必要なことを学ぶんだ」

「戦争は、また起きます」

 断定的な言い方だった。美しい碧の瞳には、いままで駆け抜けてきた戦場で見た記憶が宿されている。ホッジンズは馬車の外をちらりと見た。外の景色は刻々と変わっている。

「そうかもね。でもいまは無い」

 ヴァイオレットに負けじと、ホッジンズは強い口調で返した。

「戦争でなくとも、私は、武器さえあれば、いくらでも活躍を……」

「殺し屋の真似事を? ヴァイオレットちゃん、それはただの人殺しだよ」

 何を、言っているのかと碧い瞳の眼光が鋭くホッジンズを刺した。

 言葉より先にホッジンズに投げかけられたその視線。その中には戦場でいくにんもの命を手に掛けた少女兵ヴァイオレットの幻影が見える。

「私は人殺しです」

 まだ戦場から、その心は帰っていない。

 ホッジンズは一度目を伏せて、息を深く吸ってからまた口を開いた。

「ヴァイオレットちゃん」

 どこまで理解してくれるかはわからないが、ホッジンズは伝えたい思いがあった。

「君はいままで大義があった。襲われたり、命令されたから殺していた。戦争も国の為という大義だ。大義がないのに、それをしちゃあ、駄目だ」

「わかりません……」

 予想していた反応にホッジンズはうなずく。

「そうだね。すごく難しい問題だし、俺も君に自分の価値観を押し付けてる」

「難しい、問題。ホッジンズ社長でも……ですか? 簡単ではないのですか」

「ヴァイオレットちゃんは、どうして人を殺してきたの」

「……その能力がありましたし、必要に迫られました。簡単です」

「そうだね。生きる為に、身を守るために君は殺してきたんだよね……。きっと、ギルベルトに会う前もそうで、誰かが君にそうさせていたんだろうね。障害を取り除く為の作業みたいなものだ…………そこに感情は無い」

――そうして、君は人として機能不全を起こしている。

嗚呼ああ、本当に難しいな。うん、例えば、俺が暴漢に襲われたとしよう。殺されかけてる。君は俺を助ける為に暴漢を殺した。殺さない程度に済めばよかったけど、殺した。それは大義があるよね。多分、君は罪に問われない。それどころか英雄だ」

「大義とは」

「……生きる上で守る大事なことだと思って。これを守らないと人間の世界では軍警察に捕まる。そういう観点ならわかるかな?」

「はい」

「じゃあ別の例え。俺は実は暴漢に殺されたかった。暴漢に金を積んで俺を殺してくれるよう頼んでいた。死にたかったんだね。俺達の間では損得の商談が成立していた。そこを勘違いした君が割り込んできて、ただ頼まれて殺そうとしていただけの暴漢役の人を殺害してしまった。これは大義がある殺人だと思う?」

「……」

「ね、すごく難しいよね。多分正解はない。人間が作った法の中ではどちらも裁かれるだろうけど正解は多分ないよ。一旦、いまの例えは忘れて」

 ヴァイオレットは硬く無機質な両の手を自らの頬に当てて考え込んだ。いま、ホッジンズは彼女にとっては非情な言葉を突きつけている。だがいずれはぶつかる問題なのだ。

 少女兵がいた。たくさん人を殺した。大義の為の殺人であったが人を殺した。

 

 その少女兵は、幸せになってもいいのか?

 

「ただね、俺が確実に言えることは……」

 ホッジンズは困惑するヴァイオレットに、嫌われたくないと恐れながらも言う。

「君が誰かを殺すところを俺は見たくないし、それをしなきゃいけない場所に君を行かせたくない。完璧に感情論だけど……俺の中では一番答えに近いと思っている」

 この役目を自分に背負わせたギルベルト・ブーゲンビリアを憎みそうですらある。

「殺人は悲しい人を増やすんだ。だから、しないでほしい。悲しくなりそうなことは、防ぎたい。世界全体にそんな感情は起こらない。俺は大切な人だけに、それを求めてる。ギルベルトもそうだ……。だから駄目だと俺達は言う。君に俺達の理論を押し付ける。殺す殺さないも至極自己中心的な考えでの大義だ。世界はそうなっている。みんな、すごく我侭わがままなんだよ……。ヴァイオレットちゃん、ギルベルトから最後にどんな命令を貰った?」

 問われて、ヴァイオレットは大戦の最中のことを思い出す。ギルベルトは血まみれだった。ヴァイオレットは泣いていた。恐らくは初めて流した涙だった。『愛してるんだ』という強い言葉を反芻はんすうし心臓が高鳴った。いまも、思い出すだけでどうが激しくなる。

「軍から逃げて、自由に生きろと」

「そういうこと」

 結論は出た。ヴァイオレットにとってギルベルトの命令は遂行すべき事柄だ。よほどのことがない限り拒否はしない。それでもヴァイオレットは戦場に戻らないという未来が受け入れがたいようだった。

「それは、軍にとって良いことなのですか? 私が殺さないことで、味方が死ぬ結末に導いてもですか?」

「敵も人だよ。それに……君は自分が人を殺すことで、どんどん身体に火がついて燃え上がっているのを知らないからそういうことを言えるんだよ……ヴァイオレットちゃん」

 少女兵は、いや元少女兵は自分の身体に視線を落とす。

 何も燃え上がってなどいない。美しい洋服の生地きじしか見えない。

「燃えていません」

「燃えてるよ」

「燃えていません。おかしいです」

「いいや、燃えているんだ。俺は燃え上がる君を見ていて放置した。後悔している」

 ホッジンズのいうことはすべて抽象的だった。

「君はこれからたくさんのことを学ぶよ。そしたらきっと、自分がしてきたこと、俺が放置したと言ったこと。それが何なのかわかる時が来る」

 主が飼う下僕は美しい怪物である。

「そして初めて、たくさん火傷やけどをしてることに気付くんだ」

 この怪物は戦いにおいて最強を誇り、無知にして無垢。

「まだ足元に火があるのを知る。油をそそぐ人が居ることを知る。知らないほうが楽に生きられるかもしれない。時に泣いてしまうこともあるだろう」

 その瞳が永遠に閉じてしまうその時まで、我が身が燃えていることを知らない。

 断罪はあれど救済はない。

「けれど、知ってほしい。だから軍には戻らないんだ」

 その手には何も掴まれておらず、恐らくはそのまま生きていく。

「……ヴァイオレットちゃん、運命を変えよう」

 

 きっと、そうなる運命だった。

 

 だが、燃え上がる少女の手を掴み、湖に投げ込む男が現れたのだ。

 いま、此処ここに居なくとも、その男は確かに存在した。

「これからご挨拶あいさつする方は軍上層部のお偉いさんでもおいそれと手を出せないやんごとなきお家柄なんだ。君は元々、軍に名前の登録はない。だからね、ここから新しい人生を始めなさい」

「ですが、それでは少佐のお傍に……」

「君が力になりたいギルベルトからの命令だよ。奴がそう望んだんだ。君はギルベルトの何だい? ヴァイオレットちゃん」

「……私は、少佐の……」

「ああ、着いてしまった。挨拶しないとね」

 馬車が停車した。他にどうしようもなく、ヴァイオレットはホッジンズに手を引かれ馬車から降りる。古めかしくはあるが、城と見間違えるほどに荘厳な造りの屋敷が長い道の先にそびえ立っている。屋敷の方から二人の老夫婦がやってきた。彼らがたどり着く前にホッジンズはヴァイオレットに耳打ちする。

「失礼のないように」

 ヴァイオレットは咄嗟とっさにエメラルドのブローチを握った。馬車は既に来た道を戻ろうとしている。その道の先に、いま此処に居て欲しい人物の姿は見えない。

 いくら求めても、その人は会いに来てはくれない。

「こちらがエヴァーガーデン家の当主さんとその奥方。君の親代わりになる。さあ、挨拶あいさつして」

 気品がありながらも優しげな老夫婦は、躊躇ためらいもなくヴァイオレットの機械の手を握る。

 嬉しくてたまらない、という笑顔を彼女に向ける。

「……お初にお目にかかります。ヴァイオレットです」

 こうして、ヴァイオレット・エヴァーガーデンが誕生した。

 

 夜の海に雪花が溶けている。人々の眠りを抱いた夜空よりもくらい水面。

 その中に次々と雪が吸い込まれていく様は南のライデンシャフトリヒでは珍しい風景だ。窓を開けて空からの贈り物にはしゃぐ子ども達。寒さに身を震わせる高級宿のドアマン。吹雪ふぶく前に帰られて良かったと無事に船旅を終えたことにあんしあう船乗り達。いずれも滅多にお目にかかれない風景にしみじみと冬の到来を感じている。

 南のライデンシャフトリヒでは雪は年に数回しか降らず、積もることは無い。しかしこの年は天からの気まぐれな采配で降りそそぐ雪はとどまることを知らなかった。例年であれば淡雪程度で済んだ雪が積もりに積もって成人男性の膝下まで到達した。政府お抱えの気象学者は百年に一度の異常気象だと発表し、南の国は一時混乱に陥った。外に出れば転び、馬車を走らせるにも道がない。蓄えが家に無い人が殺到し食糧品店や食事処は喜びと不安の悲鳴を上げる。物流は途絶え、街の中を歩き回る者はいなくなった。

 雪がすべての音を吸い取ってしまったかのように静寂に包まれている。その中で南国の者にしては歩き慣れた様子で雪道を進むホッジンズの姿があった。元ライデンシャフトリヒ陸軍の少佐、北の大国と渡り合ってきた彼には雪景色は戦場を想起させるものだった。引っ張り出した冬の軍靴で雪をかき分けながら一本道を無言で歩き続ける。正面にはライデンシャフトリヒの首都ライデンから離れたエヴァーガーデン邸がおぼろげながらに見えていた。ほっと漏らしたあんの息。吐息は闇の中で紫煙のようにすぐに消える。

 ようやくたどり着いた彼をまずはエヴァーガーデン邸の執事がねぎらい迎えてくれた。

 屋敷は広い造りのおかげで隅々まで暖かいとは言えなかったが、雪降る暗夜行路を耐えたホッジンズにとっては室内に入れただけありがたかった。

 応接の間で暖炉に当たりながら熱い紅茶を飲むこと数分。

「よくいらっしゃってくれたわホッジンズさん。今日はもう来られないかと思っていたの」

 シルクのナイトガウン姿の夫人が現れる。

「ティファニーさん、御無沙汰ごぶさたしてます。真夜中に訪問すみません」

 ホッジンズはうやうやしく礼をする。

「それはこちらの台詞せりふよ。他大陸に行ってらしたんでしょう? 帰国して早々、呼びつけて悪かったわ」

「女性の頼みを断るなんて俺がするわけないでしょう。パトリックさんは?」

「主人は私を残して遠出した街で足止め状態よ。代々この土地を守っているけれどこんな風景はきっと死ぬまでにもう二度とお目にかかれないわね……。あの人のことだからいい歳なのに外で雪遊びをしていると思うわ。風邪をひいてしまえばいい」

 ホッジンズの脳内には楽しそうに雪だるまを作る壮年男性の姿が浮かんだ。

「童心を忘れず気さくな素晴らしい方ですよ」

「いいえ。ただ子どもなだけなの。あれでもエヴァーガーデンの当主なんだけど……パトリックのことよりヴァイオレットよ。いまはあの子のことで頭がいっぱい」

 ティファニー・エヴァーガーデンは物憂げな表情で語りだした。ヴァイオレットを引き取ってからというもの、様々な新しい知識を与えてみたそうだ。教養や礼儀作法、馬術や声楽、料理に刺繍ししゅうに舞踏。だが何一つとして彼女の顔が晴れ晴れとして楽しめるものはなく、何もやることが無ければ日がな一日部屋にもって手紙を書いているという。

 しかし彼女が出した手紙に返事は一度として返ってきたことはない。

「……我が家にも大分馴染んでくれて、この前なんかパトリックの肩もみまでしてくれたの。あの人ったら泣いて喜んでいて……いえ、痛かったのかもしれないけれど。でもね、不器用だけれどいい子だと私は思うの。息子の死で自分も刺されたかのように痛かった心が段々といやされているのよ……あの子の、率直なまでの無垢さが好きよ」

「俺もです」

「……でも、私達だけ癒されているのでは彼女を預かった意味がないのよ」

 ティファニーはガウンの上から自分を寒そうに抱きしめる。

「すべての事情を聞いた上で養子にしたの。本当は私達が、そうしてあげるべきなのに……やはり、駄目なのかしら……本当に血が繋がっていないと……」

「そんなことありません」

 ホッジンズは断言したがティファニーは首を振る。

「ギルベルトの代わりには、なれないわ」

「ヴァイオレットだって息子さんの代わりにはなれません。誰かの代わりなんて誰も出来ない。存在が違うんだから。俺達が出来るのは寄り添うことだけです。あの子がどこか出かけた時にいままでは帰る家はなかった。温かな食事も待っていてくれる人もいなかった。でもいまはある。今後、あの子がどんな道を歩もうとも、それがすごく大事なことになってくる。ただそれだけでいいんです。それがすごく大事なことなんです。どうか投げ出さないでください」

「投げ出すなんて……! そんなつもりはないわ。ヴァイオレットを手放すくらいなら主人を売り払います」

 彼女の瞳に嘘はなかった。

「ティファニーさん……良い話になりかけているけど旦那さんを大切にしてください」

「正直、夫より娘の方が可愛くて……」

「未婚男性の夢を壊さないでください」

 その気があるならいくらでも紹介してあげるわとティファニーが目を輝かせたのでホッジンズは早々に話をやめて逃げるようにヴァイオレットの私室の前まで来た。エヴァーガーデン家の召使い達が不安げにそんなホッジンズを遠目で眺める。中々部屋に入る決心がつかない。ホッジンズは自分を奮い立たせる。

――誰も、代わりは出来ない。そうだろ俺。

 ホッジンズはヴァイオレットの後見人を務めてからというもの、いくと無くその気持ちを味わってきた。寂しいと思うこともある。だが、同時に嬉しいと思うこともあるのだ。

――ギルベルトがあげられなかったもの、出来なかったことを俺ならやれる。

「代わりは出来なくたって……」

 何かを確認するようにシャツの胸元を叩いた。それから咳払いをして、改めてノックをした。

「どうぞ」

 彼女のことだから侵入者の足音でそれが誰かはわかっていたのだろう。

 何度か部屋には訪れていたが、真夜中に令嬢の寝室に忍び込むのはさすがのホッジンズも緊張する。しかしその緊張は次の瞬間には違う感情に塗り替えられた。

「ホッジンズ……社長。ご無沙汰しております」

 その名を花の女神から貰い受けたヴァイオレット・エヴァーガーデンは、たった数ヶ月会わないだけでまた一段と美しくなっていた。ネグリジェ姿は清廉でいて優艶ゆうえん。金糸の髪は更に長く伸びている。神秘的なまでの姿。ギルベルトがつけた名にふさわしく、成長した。

「ヴァイオレットちゃん、何しているの」

 だが、目を奪われるのはそこではない。ホッジンズは声が裏返った。あまり動揺の表情は見せたくなかったが隠しきれなかった。部屋を訪ねたホッジンズが見たのは床に散らばる手紙の中で座り込んでいるヴァイオレットだった。その数は一通や二通ではない。数十通の手紙が死体の如く静かに積み重なっている。死んだ思いが、まるでしんしんと降り続ける雪のように溶けることなく、ただ存在しているのだ。

 ヴァイオレットはすぐに返事をしなかった。口を開く気力もないのかもしれない。

「手紙を……整理していました」

「誰からの……? 俺、はいつも葉書だろう?」

「誰からのものでも……。私が書いて、送っていないものです。もう手紙は出していません。返事は来ないと、理解しています。ただ他にすることがない時は……手紙を書いてしまうのです。意味はありません。日々あったことを、つづっただけの雑文です。処分しようかと思案していました」

 宛先不明の手紙達は、本当に死体だった。

 そしてその死体を生み出したヴァイオレットもまた、瞳に生命のきらめきは無い。戦場にいた時のほうが、まだ生き生きとしていたかもしれない。

「ヴァイオレットちゃん……」

 ホッジンズはその手紙の山と、そうではない場所の境目に座り込んだ。

 彼女と真正面から対峙する形となる。ヴァイオレットの虚ろな瞳。その目で見つめられると逸らしたくなる。しかし、逸らし続けた結果がこれなのだとホッジンズは自分を律した。

「……少佐は、もう私の元へは来てくださらないのですね」

「うん……来ない」

「私が腕を失って、兵士としての価値がなくなったからですか」

「違うよ」

「私はまだ戦えます。もっと強くなれます」

「もう俺達の戦争は終わったんだよ、ヴァイオレットちゃん」

「武器でなくともお役には立てませんか」

「君はもう、誰かの道具じゃないんだ」

「では私の存在自体が少佐の邪魔であるようでしたら、消えろと命じて貰えるようお伝え頂けませんか。何処どこへなりとも行きます。こんな、こんなままでは、何の役にも」

 ホッジンズは湧いてくる涙を必死にき止めた。

「……そんなこと、言わないでよ……俺やエヴァーガーデンさんはどうなるんだよ!」

「だから、こそ、です……だから、こそ……どうしたら、良いのか……わからない」

 ヴァイオレットもまた、その瞳を潤ませホッジンズに乞い願う。

「私は、私は道具で、不要なら、処分されるべきで、わたし、は……わたしは……こんな風に、誰かに、大事にされるべきでは……お願いです。捨ててください、どこかに捨ててください」

「君は物じゃないよ。俺は娘みたいに思ってるんだよ。ねえ、ごめん……聞いてくれ」

「どうしたら、いいか、わからないのです」

「ヴァイオレットちゃん、ごめん……本当にごめん、君を傷つけたくなかったんだ」

「少佐の元に、戻してください。お願いです」

「それだけだったんだ。ごめんね、本当にごめん」

 ホッジンズはシャツの首元に手を入れて銀色に光る物をヴァイオレットに見せた。

 ただの首飾りではない。それは認識票と呼ばれるものだった。

 戦場で戦死した場合に亡骸なきがらを個人特定するのに必要な道具だ。

 兵士達が自嘲を込めてドッグタグとも呼ぶそれは自分の物を持っている分には問題はない。

 他人が自分の物ではない認識票を持つ場合。

 そうなると話は変わってくる。

 性別や名前が書かれた認識票は兵士が戦死した場合、死体からもぎ取られ戦死者確認の為に使用される。故人の戦友が形見に持つことも多い。

 磨かれた認識票には彼女がただひたすらに追い求める人の名前が彫ってある。

 ヴァイオレットは文字を覚えた。

 ギルベルトの名前を必死に練習した。

 それが何か読める。

「ギルベルトは死んだ」

 

 

『ヴァイオレット、愛している。生きてくれ』

 

 

 

 

 ヴァイオレットの瞳から大粒の涙がこぼれた。

 

 

 

 

 夏を終え、秋を迎え、冬を越し、春が来た。

 春はライデンシャフトリヒでは白い季節と呼ばれている。

 ライデンシャフトリヒ、首都ライデンの街路樹として植えられた樹は春になると白い花を芽吹かせ、花弁の雪景色を作るのだ。

 この時期はどこを歩いても花が空を舞っている。わずかな時だけ見ることが叶う風物詩だ。

 新しい一年、何かを始めるには素晴らしい季節。

 建てられて間もない郵便社がライデンの街には出来ていた。看板には『C・H郵便社』と描かれている。店はまだ営業を開始していない状態なのだが、店主は開店に向けて準備をしていた。まだ殺風景な社長室では机の上に電話だけある。

「本当にいいのか」

 開けたバルコニーの眺めは美しいというのに、この郵便社の社長、クラウディア・ホッジンズはにらむように眼を細める。電話の相手が何か気に障ることを言ったのか、大きくため息をついた。

「やってることは間違っちゃいないよ。軍から切り離すのには俺も賛成だ。あの子は、もっと他の世界を見たほうがいい……軍で飼い殺しになんてさせたくない。その為なら協力する。最初は渋ってたけどいまは違う。本当に、あの子を守りたいって思ってる。一緒に居て、そう……感じるようになったんだ。本当だ……本当だよ。大事に、したい。でもなギルベルト」

 ホッジンズは形見として嘘をつけるよう、ギルベルトに渡されたドッグタグを指に絡ませてから爪で弾く。

「予言するぞ。お前は後悔する」

 弾かれた命の証は、回転を続けやがては収束する。

「お前達って育て親と娘なのか? 上官と部下なのか? 保護者面で傍にいない方があの娘の為だって言うけど、それってお前がヴァイオレットちゃんに深く踏み入れないただの言い訳だろ? 情しか無いなら姿まで消すことない、近くで見守ってやればいい。お前の背中だけ追う人生だった子を俺なんかに任せて、それで、それで……あの子が幸せになってるって本当に思ってるのか?」

 ホッジンズの手に再び握りしめられたドッグタグは、冷たい。

「……環境はそりゃましになっただろうさ。戦争だってしなくて済む。でも、俺はいまのヴァイオレットちゃんが幸せだなんて思わない。あの子はさ、たとえ兵士のままでも……軍の道具のままだったとしても、お前の傍にいる方が嬉しいんだよ! 幸せなんだよ! お前の背中を追いかけて生きてきて、死んだって言われてんのにまだ追いかけてる。わかってんだろ、そういう子なんだよ! このままじゃ一生ああだ。来てくれない主人を待って、待って、待って、待って……!」

 ただずっと、死んでいると聞かされている男の帰還を待っている少女。

 その顔が、寂しそうな碧い瞳がホッジンズの頭の中でちらついては消える。

「あんなの可哀想だ! ギルベルト……あの子の意思を無視するな! そうやって、遠ざけて、守っているつもりなら大きな勘違いだ。俺はお前の未来が読めるね。若くて強くて、元気で、それなら離れていて大丈夫だと思ってるんだろ。自分が見守って、そうして死んでいけるって思ってるんだろ。平和ボケしてるんだよ。大馬鹿野郎! 人は突然死ぬぞ。自分も他人も過信するな。俺だって明日突然死んでるかもしれない。死因なんて予測できない。大丈夫な人なんていない。ギルベルト、お前かヴァイオレットちゃん、いつかどちらかがその時を迎えたら、お前は絶対に後悔して泣くね。俺は言ったからな。お前がどこで泣こうが、絶対に慰めてやるもんか。俺はお前の友人でもあるが、いまはヴァイオレットちゃんの親代わりなんだ。泣きわめいて、己を呪え。いいか、考え直すまで連絡してくるな! お前は大馬鹿野郎だ……!」

 ホッジンズは怒鳴り散らしてから乱暴に電話を受話器に置いた。

 怒りが収まらずドッグタグを首から外して投げる。銀色のそれは本当はこの場で殴りたかった男の代わりに床に叩きつけられ、無残に転がる。

「……馬鹿野郎」

 ホッジンズはヴァイオレットを知れば知るほど、その存在の切なさに胸が焼かれる思いをしていた。そして彼女を悲しませている原因に自分は加担しているという罪悪感に苛まれる。

「…………馬鹿野郎」

 しかし、この切なさは、ギルベルトに対しても同じだった。

 ホッジンズは感情的に投げ捨てたばかりのドッグタグを一べつし、深いため息を吐いてから膝を折り拾う。ギルベルト・ブーゲンビリアとそれには書かれている。

 厳格な家に生まれ、期待に応え続けてきた男の名前だ。他人の為に自分を殺すのが得意で、いままでどれだけ殺してきたのか知らないが、手は恐らく自らの血で染まっている。

 殺し続けた自分の死体の道の先で、ギルベルトはヴァイオレットに出会った。

 何かやりたいことがあるなどと、ホッジンズのように夢を語ることは一度としてない男だった。敷かれた細長い道を黙って、静かに、器用に歩いてきた。

 ここに来て、初めてギルベルトはその道を壊している。

 ヴァイオレットを軍から離すことは言葉で語るよりそう簡単なことではない。彼がいままでつちかった人脈や功績を尽くしても足りない。永続的にその状態を続けるのであれば、ギルベルトは更なる高みへと自分を持って行かなくてはならないだろう。三角形の階層の頂点へ、誰にも文句を言わせない頂きまで。もう無敵の道具は居ない。

 のぼりつめたとしてもその時隣には彼の愛した女性は居ない。彼が突き放した。

 愛しているから。すべてを懸けて、人生を懸けて、自分を殺し、守ろうとしている。

「馬鹿、ばっかりだ」

 ホッジンズはもう一度ドッグタグを首に下げてシャツの内側に隠す。

 親友が泣いているのを見たのは一度しかない。ヴァイオレットの腕に義手が付けられているのを彼が初めて見た時だ。彼の全部を知っている訳ではないが、少なくとも自分には一生そんな顔を見せないだろうと。そういう男なのだろうと思っていた。そのギルベルトが泣いた。

 

『ホッジンズ、頼みがある』

 

 引き受けてやるのには、十分な理由だった。

 

「……やれやれ」

 郵便社の外で二人の男女が何やら言い争いをしながら扉を叩いた。ホッジンズは一度深呼吸をしてから玄関へと向かう。扉の開閉と共にドアベルが鳴った。

「やあ、来たか」

 もう、顔は郵便社の社長、クラウディア・ホッジンズに戻っていた。

 爽やかな彼と相対して、男女二人組は双方とも不機嫌顔である。

「呼びつけた理由はなんだよ。まだ開店日じゃねえだろ。あとこの馬鹿女のしつけをしろよ」

「社長、もうこいつと二人きりにしないで。殴るの我慢するの大変なの」

「嘘言うなよお前、殴られたばかりだぞ! 我慢は何処どこに行った!」

「まあまあ、二人とも」

 互いに口を開くと会話で噛み付き合うのが常になっているのかもしれない。物騒な物言いのやりとりにホッジンズは気圧されることなく飄々ひょうひょうとしている。

「ベネディクト、カトレア。今日からこのC・H郵便社を発足するにあたって創設メンバーにもう一名加えたい」

 ホッジンズは彼らを中に迎え入れようとしたが、社員二名の背後に見える坂道からとある人物を確認してその場に留まる。

「何だよそれ聞いてねえぞ」

「社長、それ女? 可愛い? あたしより?」

 長い長い坂道を、彼女は自分の足で、自分の決断でこちらに向かって歩いて来ている。

 ホッジンズは垂れ目を下げて、微笑わらった。

「女の子だよ。最年少だ。ちょっと訳ありの子でね。いや……俺がかき集めてきた君達は全員訳ありで変な奴ばかりだけど……その最たる存在になるかもしれない。年は君達が一番近いから仲良くやって欲しい。ずっと口説いていてね。ようやく頷いてくれたんだ。自動手記人形オート・メモリーズ・ドールは世界中を歩きまわるから……彼女が求めるものが何であれいい経験になるだろう」

 ホッジンズは二人に振り返るよう、手で彼女を示した。

 彼らがその瞳に初めて映す人物は、もうかつて存在した『ヴァイオレット』ではない。

 

 

 

 

「紹介しよう、ヴァイオレット・エヴァーガーデンだ」

 ヴァイオレットは冷たい美しさを宿した相貌そうぼうで、人形のようにお辞儀をした。

文庫『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』刊行10周年を記念し、エピソードをセレクトして期間限定で無料公開中。1月から12月にかけて、【毎月第4金曜日】に公開エピソードを切り替え! シリーズ全4巻に収録されているうちの約半分のエピソードをお楽しみいただけます。
ぜひこの機会に『ヴァイオレット』を読んでみてくださいね!

KAエスマ文庫『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』シリーズ刊行10周年記念企画特設ページ
https://www.kyotoanimation.co.jp/books/violet/special/10th/