ヴァイオレット・エヴァーガーデン エバー・アフター

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』
シリーズ刊行10周年記念企画

エピソード無料公開 第9弾

公開期間:926日~1024

  • 著者:暁 佳奈
  • イラスト:高瀬亜貴子

 

 獣の瞳から涙がこぼれた。

 大粒の涙の雫を流して泣いた。

 どうしてこんなことを、いま、この瞬間言うのか。

 獣は理解出来なかった。

 その言葉の意味も、彼がそれを言う理由もわからない。

 遅効性の毒。毎日少しずつ与えられてきたそれがいま体中を巡り効果を現していた。

 獣が泣いているのはその証拠だ。こんなに切ない涙を獣は知らなかった。

 彼が繰り返しささやいている。聞いたこともない言葉を、言い聞かせようとしている。

 それがとても大切なことだということだけは伝わるが、受け取れない。

 今はわかりたくもない。それはきっと、獣の存在意義にも反していて。

 受け取ればエメラルドグリーンの瞳の為の獣ではなくなってしまう。

 貴方を守れない自分は嫌だ。貴方をただ守っていたい。それしか返せない。

 今はそんなことを言わないで、命令して欲しい。

だから獣は泣きながら吠えた。

 

 世界で唯一。何よりも代え難い主に向かって吠えた。

 

 

 

 

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――碧の瞳が開いた。

 

 金色のたてがみを持つ美しい獣がいま目覚めた。

 朝の光を浴びて、躊躇ためらいなく起き上がる。

 小さな体を動かして、するすると樹の上から降りて大地に足をつけた。

 葉に溜まった朝露を飲んで、果樹から実をむしり取り食べる。

 一つ食べて、一つはしばらくじっと見つめてからそのまま持って歩いた。

 朝だ。心地よい朝だ。獣が生きるこの環境は、良くもなく悪くもなかった。

 此処ここに居たらそのうち死ぬかもしれない。食料が乏しい。

 此処に居ればいつまでも生きられるかもしれない。外敵の察知は早く、処理しやすい。

 獣には朝が来たことへの絶望も、今日という日の希望も無い。

 そういったことを獣は知らなかった。教えられていないので、抱きもしない。

 ある点では非常に優れていて、ある点では目も当てられないほど劣っている。

 世にも恐ろしい牙を持ち、稀有けうなほどに美しい。

 それはそういう獣だった。『まだ』、そういう獣だったのだ。

「……」

 獣は耳をすました。

 海岸から波の音が聞こえる。そして悪態をついているとおぼしき男性の声も。

 獣は海へと向かった。まだ空は暁と夜陰やいんの混ざりあった色をしている。気温は暖かで活動するにはもってこいだ。砂浜に座り込んでいる男の背中が見えて、獣はそろりと近づいた。

 魚をとろうとしたのだろうか。折られた長い木の枝が苛立ちへの犠牲として放られている。

「……」

 小さな魚が一匹、努力の証として葉の上に置かれている。男はこの場面に至るまでに心が折れることがあったのだろう。調理する気力も食べる気力もなさそうだ。獣は男の前に立って、果物を置いた。これは先日獣の『主人』として登録された男だった。獣は大人を必要としていた。何か指示をしてくれる大人を。獣は一人でも生きていけるが指示してくれる大人が必要だった。死なれては困る。

「……」

 果物を置いてから、少し離れて砂浜に座った。指示を待っている。

 すると、頭に何かがぶつけられた。

「化物」

 果物だ。獣がせっかく与えた果物を男は投げつけたようだ。腹が減っているくせに。

男がこちらをちらりと見る。朝焼けの中で翠の瞳と濡鴉ぬれがらすの髪が光っている。美しい男だった。

「お前を殺したい」

 本心であろうと思われる声音で男はささやいた。

 酷い台詞だったが獣は何の反応も示さない。二人の間でざざんと波の音が流れる。

 獣が話さず、男も話さなければ此処ここは静かだ。一人と一匹の島。死体は山程あったがとうに埋めた。男は、後にディートフリート・ブーゲンビリアと名乗る男は。

「だが、お前が間違っているかと言われればわからない」

 疲れ切った顔でただ語りかける。

「俺がお前の立場なら、突然やってきた男達に、男に……危険を感じたらああしただろう」

 獣は男の声にただ耳を傾ける。

 理解出来ているわけではない。これは獣で、男は人なのだ。

 意思疎通は出来ていない。だが、獣は人に問いかけられればそのくもりない眼で見つめ返す。

「それと許せるかどうかはまた別だ。許せない。やはり殺したい」

 最悪な出会いを果たした彼らは、まだ何も始めてはいなかったが出会いこそが始まりだった。

「しかし同情の余地もある……お前は何だ。捨てられたのか。何でこんなところに独りで……」

 これから何かが起こる化学反応の前触れ。

「いや、俺の部下を殺した。やはり同情の余地はない……いいんだ、黙って聞いてろ」

 大いなる運命の始まり。

「俺は俺の中でお前をどうすればいいか考えている。扱いかねている。俺はお前が怖い」

 そのいしずえとなる出会い。

「とりあえずお前は俺が生きるのに必要だ。この島を知っているし、食料も確保出来る。脱出の準備……この孤島からライデンシャフトリヒに戻る為の道具として。そして俺はやはりお前に激しい怒りを感じているから罰したい。だが、俺は義理堅いから此処からもし無事に帰れたとしたら。弟の顔をもう一度でも見られる機会があるのなら。お前に何かしてやってもいい気になるかもしれない。俺はしない。俺自体はしない。俺は複雑なんだ。複雑な男だ。お前には扱いきれんし、俺もお前を扱いきれない。きっと俺はお前を使い続けることに嫌気が差して、やはり殺したくなるだろうし実際そうするだろうがたぶん無理だろう。お前は強い。俺は負ける。お前はどうやら俺は殺さないらしい。何でそうなのかは知らんが、お前に俺が必要なんだろう。お前は俺を生かそうとするし、俺の為に何かを殺す。お前は役立ちそうだ。なにせ戦争中だからな。お前のようなやつはボロ雑巾ぞうきんになるまで使って使って使って使って使って使って使い倒して捨てるのがいいだろう。そうだろうな、お前にとってもきっとそれがいい……」

 男は、酷い台詞を長々と吐き続ける。獣は投げつけられた果物をまた拾って男の前に置いた。

「俺を救ってみせろ、化物」

 男は果物を一口かじり、うんざりした顔をしてから投げつけた。獣は今度は避けた。それは放物線を描き、日の出の光と重なった。

 獣は眼が焼かれそうなほど眩しくなって、とばりを下ろすように瞳を閉じた。

 

――碧の瞳が開いた。

 

 獣は大きな袋の中に居た。

 どれくらい居るのかわからない。最後に用を足せと便所に連れていかれてから大分経つ。

 喉も渇いていたし、度重なる戦闘で疲労もしていた。

 袋の中でうとうととまぶたを閉じては開けてを繰り返し、そして今また開いた。

 自分の主人である男の声がする。主人とその取り巻きである者達がよく口にしている何か焦げ臭い食べ物の匂いも。獣はこの匂いを好まなかった。鼻が鈍るのだ。

 何時になったら主人は自分を使用するのだろう。使われなくては意味がない。

 獣は使われることを欲していた。それ以外に自分を証明する術がないのだ。

 変に思う者も居るだろう。何の感情も浮かべないこの人形のような獣がどうしてそんなにまで道具であることに拘るのか。

 それはとても単純なことなのだ。

 馬鹿らしいほどに簡単で、愚かしいほどに健気。

「……」

 獣は人と居たいのだ。

 一人で生きられる。獣にはその力がある。誰かと居なくても良い。

 だが、人と居たい。独りは嫌なのだ。

 当たり前のことだ。独りで居たいものなど居ない。本当の、完全な孤独。

 それは人と関わって疲れ切った者が望む境地で真に独りの者はそうではない。

 誰かと居たいから、しかしその為の方法が自分を提供する以外に思いつかない。だから獣はそうしている。獣は親の顔も、とある時期からそれ以前の記憶も、何もかも失っていたが隷属れいぞくと暴力が生み出すうねりだけは知っていた。

 獣のわずかな生命稼働の歴史で、それだけは刻まれていた。刻まれてしまったとも言える。

 他に何か違う方法を教えられていたら、こうはなっていなかっただろう。

 獣はまだ知らない。

「名前はつけていない。『お前』で呼んでいた」

 これから何と出会うのか。

 開かれていく袋の中で、久しぶりに接する外界の光が眼を刺す。

 獣は一度眼を閉じた。

 

 そして命令が与えられればいいな、と願った。

 

――碧の瞳が開いた。

 

 真暗闇だ。視界は暗く、空気は冷たい。

 しかし獣の体は燃えるように熱かった。どろりとした熱が体中を覆って、大きな鉛と化しているような心地。

「ヴァイオレット」

 突然、暗闇の中で光が灯った。

 それは声をかけた人物がランプを点けたせいでもあったし、獣にとってその人が唯一の光の為、そう見えたせいでもあった。大きな手が獣の額に触れて、それから汗ばんだ髪をとかすようにでてくれた。獣の胸のあたりで、じりりと焦がれる音がした。

「少佐」

 獣は名前を与えられ、庇護ひごを知り、言葉を覚え。

「熱は……下がっていないな。水を飲めるか?」

 執着を生んでいた。

「申し訳ありません」

 新しい主から吸収するものは多く、それが獣の価値観を築いていた。

「君が謝ることはない。前線に出しすぎた……私の過ちだ」

 獣はもはや主なしでは呼吸することも難しく。

「私は道具ですので」

 彼の為に生き。

「壊れるまで、使って、使って、使って」

 彼の為に死にたい。

「使い倒すのが良いかと。なので修理は不要です」

 そういう激しい依存が体を蝕んでいた。

「……君は人間だ。熱を出せば休息が必要だし、看病する者も要る。君の監督は私がしている。出逢った時からずっとそうだ。だから私が看病するのが当たり前なんだよ」

 何もかもこの主のせいだ。

 この金糸のたてがみを持つ、碧の瞳の獣を彼はまず『少女』だと認めた。

「何かお望みはありませんか。今の私に出来ることで」

 守るべき対象、監督すべき獣、武器。その両方とわかりながら獣を使用し。

「……君が元気になることだ、ヴァイオレット」

 

 よりによって、愛した。

 

――碧の瞳が開いた。

 

 獣の瞳から涙があふれていた。

 視界がゆがむ。まぶたを閉じ、閉じては開き、生まれてくるこの塩辛い海を追い出そうとするが、うまくいかない。

「ヴァイオレット、やめてくれ」

 獣は泣いた。

 獣は大粒の涙の雫を流して泣いた。

 泣いたことなどなかったのに、泣いた。

「……してるんだ」

 主が大怪我を負った。守りきれなかった。

 命令を遂行したがそのせいで守りきれなかった。

 獣にとってこの任務より主が大事だった。

「……してるんだ、君を」

 主が大事にしているから任務を成功させたかった。

 主の命だから任務を優先させた。

 だがこれでは意味がない。

 

「……君を愛してるんだっ! ……死なせたくない! ヴァイオレット! 生きてくれっ!!

 

 意味がない。

 まったく意味がない。

 自分の存在意義も無い。

「愛してる」

 それに、どうして。

 どうしてこんなことを。

 どうしてこんなことを、いま、この瞬間言うのだろう。

「愛してる、ヴァイオレット」

 主が今しがたささやいた言葉を獣は噛み砕こうとする。

 わからない。

「ヴァイオレット……」

 獣は理解出来なかった。

 その言葉の意味も、彼がそれを言う理由もわからない。

「聞いて、いるか、ヴァイオレット」

 それは、恐らく、とても特別なことなのではないのか。

 それは、恐らく、自分などが貰う言葉ではない。

 それは、恐らく、貴方が『私』に言う言葉ではない。

 それを言うなら、何故。

「君が、好きだ」

 何故、自分は、使われているのか。

 何故、助けさせてくれないのか。

「……愛してる」

 何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故。

 

「愛してる、ヴァイオレット」

 

 わからない。なにもかも、わからない。

 主も、この世界も、吐かれた言葉も。

 だから獣は泣きながら吠えた。

 世界で唯一、何よりも代え難い主に向かって吠えた。

 

 

 

 

「あいって、なんですか」と。

 

 皮肉なことに、そこで初めて獣は愛を受けて人と成った。

 

 

 

 

 物語とは。

 始まればいつかは終わる。

 そう考えると自分や他人、世界の何もかも。

 それらに固執することが少しだけ馬鹿らしく思える。

 いまこれほど心を燃やしていることも。

 貴方のことで泣いていることも。

 いずれは夢のように消える。

 頑張ることすら無意味に思える。

 だが始まってしまったのだ。

 

 何かのきっかけで生まれ。

 呼吸をし。

 目を開き。

 声を出すことを覚え。

 歩くことを知った。

 いずれかの者は恋を理解し。

 愛を受け。

 それが病だとわかり、やめるか続ける。

 治し方は誰にも教わらない。

 一度とて他人からそれを受け取らない者もいる。

 

 何であれ、この物語に、世界に参加している間は立ち止まることは許されない。

 生きている間、死をはらみ続けてはいるが。

 朝が来れば夜も巡るし。

 腹は減り、睡魔が床に誘う。愛を失っても愛を乞う。

 世界は喪失に目を落としている間にどんどん新しいきらめきを発し。

 美しさの発露と醜悪な崩壊を同時に進める。

 永遠は無いが、物事は続く。物語は続くのだ。

 世界は回る。いつかは終焉しゅうえんを迎えるとしても。

 

 

 貴方が居なくなっても、朝は来る。

 

 

 

――碧の瞳が開いた。

 

 紫の花弁が目の前をふわりと浮かんで過ぎ去った。

 くすぐるように触れていき、見えなくなる。

 浮かんでいた過去の幻想はゆっくりと霧散していった。

 獣であった自分も、名前をつけられた自分も。

 過去はすべて現実へと溶け込み、そして現在に引き戻される。

 此処ここに獣は居らず、少佐と呼ばれた男も居ない。

 自動手記人形オート・メモリーズ・ドールの少女を乗せて、大河の中を舟がゆっくりと進んでいる。

 大きな帽子を被った船頭のかいさばきはなかなかのものだ。

 思わず過去を追想するほどには、うまいものだった。

「……」

 少女は。

 ヴァイオレットは。

 ヴァイオレット・エヴァーガーデンは。

 誰かを探した。

 目を開けるといつもそうしてしまう。

 与えるだけ与えてくれて、消えてしまった人を探した。

 傷つけるだけ傷つけて、守れなかった人を探した。

 勿論、見当たらない。

 こんな所に居るはずがない。

 わかっている。

 だが探してしまうのだ。

 最愛の主はとうに死んだはずだが探してしまう。

 亡霊でも良いからもう一目だけでも、と。

 彼が消えた世界は、新しく活気づいて、色鮮やか。

 ヴァイオレットはこの世界で生きなくてはならない。

 この新しい地獄で生きなくてはならない。

 もう命令は貰えない。

 背中を追うことも出来ない。

 出来ることは限られている。

 前に進めと人は簡単に言う。だが大いなる困難だ。

 ヴァイオレットは、生きろと言われた。命令通り、死なずに、困難を抱えて生きている。

 

 

 

 

「お客さん、お探しものはなんですか」

 

 

 

 この頃のヴァイオレット・エヴァーガーデンは、まだ人間に成りたてだった。

 

 

 

 

薔薇ばら自動手記人形オート・メモリーズ・ドール

 

 

 

 

 待って。

 そう、祈りました。

 

 

 金色の髪にダークレッドのリボン。

 白のリボンタイワンピースのプリーツ。

 水色のフリル傘。遊ぶように風にそよがれているそれらすべてを探して。

 

――待って。

 

 息が苦しい。紫雲木しうんぼくの花が視界を阻んでいる。

 見えるものすべてを消してゆく美しさ。

 今はただ邪魔でしかない。欲しいのはそれじゃない。

 

 お願い、待って。

 

 涙がにじんだ。

 悲しい涙なのか、安堵しているのか、悔しいのか。

 わからない。もう、何もかも、わからないのです。

 何をしているんだろう。わからない。

 きっと、ずっとわからなかった。

 傷ついていたことすらわからなかったのです。

 

――待って。

 

 俺が、わかることと言えば。

 

 

「ヴァイオレット、待って!」

 

 

 此処ここから、俺を連れ出して欲しい。ただそれだけなのです。

 

 だから、待って、お願い置いていかないで。

 

 春です。やはり何と言っても四季といえば春でしょう。

 

 紫の桜が咲く頃に、俺は彼女と出会いました。

 ひらり、ひらり。はら、はら、と。

 紫の花弁が空を舞う季節。春。芽吹きの季節です。

 春といえば、何の色を思い浮かべるでしょうか。住まう土地によって違うことでしょう。

 とある地域では桃色の桜が散るでしょうし。

 とある地域では真白のブーゲンビリアの花が世界を彩ると聞きます。

 雪解けの中から首を伸ばす緑の姿が春だという所もあるそうです。

 俺に関しては、春といえば紫雲木しうんぼくです。

 大陸の南西に位置するダーツー地方の山中に位置するジャカランダ河。

 巨人のようにそびえ立つ、切り立った山々に囲まれた大河です。その名を冠したジャカランダ=紫雲木は河を囲むように植えられていまして、花開く季節になると河は水面をすみれ色に変えてしまいます。

 普通の木々なら下へ下へと枝や実や葉が行くところですが、紫雲木はまるで花をつけた手を上へ上へと伸ばすように生えるのです。一本でも見応えのある花樹ですが数を揃えればそれはもう豪華絢爛ごうかけんらんです。空は青、地上は紫雲。神様だってきっとこの景色を天から見下ろせば感嘆の吐息を漏らすことでしょう。ジャカランダ河付近には小さな集落が幾つもありまして、外から集落のある陸に行くには基本的に移動は舟となります。なので船乗りはこの近辺に住まう者がよく就きやすい職業です。大して良い稼ぎではありませんが食いっぱぐれることはありません。春の時期にはよそから来る人々が紫雲木を見にごった返しますし、繁忙期以外も地元民から需要はあります。だから俺の仕事は、永遠に失われることなく、此処ここで続きます。

 そんな世界で、そんな俺の小さな物語の中で。

 俺は彼女と出会いました。

「失礼、この先に集落があるとお伺いしたのですが。川渡りは可能でしょうか」

 俺の、このちっぽけな世界に現れた異物。

「…………こんにちは。はい、よく行きますよ。これくらいかかりますけど、前金で」

 いずれは業界で名をとどろかせるが、その時は世界を旅し始めたばかりの代筆屋の少女。

「かまいません。どうぞよろしくお願い致します」

 俺と彼女は。

「乗ったお客さんの名前を帳簿ちょうぼがわりにつけてます。お名前を伺ってもいいですか?」

 そのようにして出会いました。

 

「ヴァイオレット・エヴァーガーデンです」

「……」

 正直なところ、少し自分の時間を止めて魅入ってしまうほどの人でした。

 春の季節のこの船渡し場は混雑しています。他にも人はたくさんいて、もちろん観光を目当てに現れる美男美女は多く目にするのですが、彼女はその誰とも違いました。

 何を背景にしていても、彼女だけが異物になる。

 雨の日も、晴れの日も、冬の日も、春の日も。世界が何をまとおうと彼女に目が行ってしまう。

 美しさだけが理由ではない。生物として他と匂いが違う。

――山で、鹿を見た時と……気持ちが似てる。

 そう、獣。美しい獣みたいな。

 自分の眼の前に突然見目麗しい獣が現れれば、誰だってじっと見るでしょう。

 この獣は瞳が碧でたてがみは金糸。

「よろしくお願いします」

「あ、はい」

 声は玲瓏れいろう、仕草は優雅。

「……何か、私の姿におかしなところがありますか」

「いえいえ、まったく。まったくありません」

 やすやすと人に触れさせない神秘が詰まっています。

 服装のせいもあるかもしれません。ここらへんの地域では見ない着こなしです。プルシアンブルーのジャケット、白のリボンタイワンピース、新品と思われるココアブラウンのブーツ姿。リボンタイにはエメラルドのブローチが燦然さんぜんと輝いています。幼い頃こういう人形を一つだけ持っていました。まさに人形のような女性。おまけに尋ねた名前すら可憐な容姿に似合いで思わず口ずさみたくなるほど。

「ヴァイオレット・エヴァーガーデンさん。はい……っと。ではどうぞ」

 いい名前です。役者っぽい。舞台とか見たことないけど。

「本日はご指名ありがとうございます。安全運航第一。船頭のヴァレンタインです」

さて、名簿に書いて運賃を貰ったら俺の仕事の始まりです。

 お客さんは男でも女でも乗る時はこわごわと舟に乗るものなのですが、ヴァイオレットは違いました。音もなく乗り込んで、素早く着座し俺が漕ぎ出すのを待つ態勢に入るのです。

 彼女は何か考えにふけっているのか、紫雲木しうんぼくの花が舞い散る様を一瞥いちべつしてから静かに眼を閉じてしまいました。日差しは暖かく、風も気持ち良い日なので眠たくなってしまったのかもしれません。しばらくの間、心地よい静寂が続きました。俺もそっとしてあげようと思いましたが、風に乗って飛んでいた花弁が頬をくすぐったせいか、彼女は碧の瞳を開きました。先程までと景色は変わらないはずですが、誰かを探すように左右を見ます。

「お客さん、お探しものはなんですか」

 俺が尋ねると、ヴァイオレットが小動物のようにぴくりと首を動かしてこちらを見ました。

 少しの間を置いてから、『何でもありません』と小さな声で返事があります。

 少し気落ちしているように見えました。

 寡黙かもくそうな人なので、船頭のおしゃべりになんて付き合ってくれないかもと思いましたが気分を変えてあげたくて俺は話し続けます。

「お客さん幸運ですよ。今が見頃なんです。紫雲木しうんぼく

「そうなのですか」

 何だか変な女の子。感情が薄い喋り方。

「俺にとっては稼ぎ時。この時期が過ぎるとこんな辺境には人が来なくなる。俺は専業ですが、兼業の人も多いんですよ船頭って。春が過ぎると農家やってたりするんです。お客さんは……観光じゃなさそうですね。お仕事ですか」

「はい」

「船に関わる仕事してました?」

「いえ」

「あら、外れた。揺れを怖がらないから、慣れてるのかなって思ったんですが」

「そう見えますか」

 そこまで話して、ヴァイオレットはようやく何かを探すのをやめて俺に視線を移しました。

「見えます。貴方、恐れがないって感じだ」

 沈黙が流れました。無視されたというよりは言葉を決めかねているようです。

 俺はこのミステリアス美女が話し出すまでかいでなめらかに水面を切ります。荷物が重いせいか、思ったよりも遅い漕ぎです。

 彼女はどう見ても華奢きゃしゃな女性なので漕ぎの流れが悪いのは荷物のせいでしょうか。そういえば彼女が動く度に小さくキイキイと音が鳴る。何か、工業品でも持っているのかもしれません。

「そうですね。海軍の方に居たこともありますので……」

 おっと、会話再開。

「ご家族が軍人さんですか?」

「いいえ、私が。……最終的な軍歴は陸軍なのですが。陸軍の前に……お仕えしていた方が、海軍将校でしたので」

 謎かけのような回答。冷たい横顔。ミステリアスな美女にぴったりな話し方。

 俺はこの変なお客さんを少しだけ怖く思い、そして少しだけ好奇心を抱きました。俺はこの地域から出たことがないので外のお客さんの話は大好きです。

「信じられないな。貴方みたいな人が元軍人さんなんて……」

 貴方みたいな、という形容が何を示しているのかわからない。

 そんな雰囲気が少しだけ彼女の顔ににじみ出ました。

 俺はたくさんの人を乗せるので、何となく持論があります。

 学、というとお偉い学校を出ている学士さんには笑われそうなものですが……人は目の瞬きや口の開き方、声の高低、そういったもので如実に感情を語るものです。

 この子はそれが極端に少ないけれど、でも、俺はわかります。本当です。人を『見る』のは得意なのです。

「口説かれて困っちゃう、とかありますか?」

 好奇心で尋ねたら、ヴァイオレットはまた疑問符を顔に浮かべてからしばらくして『質問の回答に至った』と言わんばかりに目を瞬き、斜め向こうの返事をくれました。

『道中、人助けなどをした際に護衛をしないかと誘われることはあります。……しかし私は既に自動手記人形オート・メモリーズ・ドールですので丁寧にお断りしています』と。

 俺は恋愛的な意味で聞いたので質問の答えとは言えないものでした。

 不思議な人形。風変わりな女の子。

――こんな見た目で生まれたら人生は素晴らしいものになるだろうな。

 初対面はとにかく風貌ふうぼうに目が行きました。誰だって好みの顔があるでしょ。

 俺は自分とつい比べてしまいました。日焼けで肌を傷めないように大きな麦わら帽子をいつも被っているせいか髪はぺちゃんこ。帽子を脱いだって、白髪の爺さんに間違えられるプラチナブロンド。同世代の女の子がこんなに光り輝いているのに俺は何なんでしょう。同じ空間に居るのが恥ずかしい……。いや、見た目のことはもうよしましょう。接客、接客。

「ここ、綺麗でしょう。あれ紫雲木しうんぼくの花」

「紫雲木……」

「あ、あそこの船頭は舟の上で果物売ってるんですよ。買います?」

「いえ」

「俺うるさいです? あ、見て! あの鳥すごく珍しいんですよ。エメラルドの色してるのわかります? 宝石鳥って言われてるの。あいつの落とした羽、俺の宝物」

「……うつくしい、ですね」

「俺もそう思います! 貴方と気が合うかも。普段何して過ごしてるんですか?」

 少しの船旅の間、俺が聞けたことはこうです。

 

・ライデンシャフトリヒという南最大の軍事国家のとある郵便社に所属している。

・彼女はそこの新人自動手記人形オート・メモリーズ・ドール

・今回の依頼でこの地域に来るのは初めて。

此処ここに来るまでに山賊を二組ほど撃退した。

・社長にこの地域の名産をお土産に買ってきてと言われている。

 以上でした。社長の話が多かった。

「社長さんと社員の距離が近い会社なんですね」

「そうなのでしょうか……いえ、そうですね。弊社はまだ発足したばかりで社員も少ないですし。部隊の構成人数が小規模だと司令官との距離は自然と近くなります。そうでなくても……どこの馬の骨とも知らぬ私にとても慈悲深い方なのです」

「自分のことそんな風に言わなくても……」

「本当にそうなのです。私は生まれがわからない孤児なので」

 俺の中のヴァイオレットの情報に『孤児』が付け足されました。

 その人の身に起きたことは、その人の雰囲気をどこか決定づけるものがあると俺は思っています。彼女が何となく寂しげなのはそのせいでしょうか。

「しかし今は見守って下さる方々がいます」

「社長さん」

「はい。それに親切なご夫妻も」

「嗚呼、そりゃよかった。独りは寂しいですからね。誰か居てくれるなら、その方が良い。じゃあ貴方は元軍人だったけど戦争が終わって今は兵士じゃなくなった。新しい仕事や家族も出来た、と」

「はい」

順風満帆じゅんぷうまんぱんだ!」

「いいえ」

 せっかく良い感じに締めようとしたのに否定されました。

「私は問題が多いのです」

 ヴァイオレットの眉間に少しだけしわが寄ります。

自動手記人形オート・メモリーズ・ドールとして適性があるかもまだわからない……淑女しゅくじょ教育や語学、その他諸々を学習しましたが、うまく運用しているとは言い難いのです。戦力は保持していますが……使い方を心得ていない状態です」

 最後の方は、少し消えかかったような声量でした。

「それ、いまどうやって仕事してるんですか?」

 俺は純粋に気になって質問しました。だって自動手記人形オート・メモリーズ・ドールです。

色んなお客さんに出会いますが、自動手記人形オート・メモリーズ・ドールのお客さんは初めてです。代筆を武器に、世界中を駆け巡るお仕事。女性が多い職業と聞きますが、それをこんな同年代の女の子がやってるだなんて。俺が此処ここで舟を漕いでいる時に、彼女はもしかしたら某国のお姫様の代筆をしているかもしれないんです。

「手紙には定型文があります。大抵のことならば暗記したそれらの定型文に希望の内容を添えれば形にはなります」

「ふんふん、なるほど」

「ですが、それでは自動手記人形オート・メモリーズ・ドールに頼んでまで願うほどの手紙の実現に至っているとは言えません。期待に応えることが出来なければ道具として破綻はたんしています。なので、一度依頼内容を預かり、数種類の内容を提示し、一番良いものを選んで頂き、更にご要望があれば承る……を繰り返しています。時には私では力不足な場合もあります」

「書けない内容ってことですか?」

「時間さえあればどの手紙もある程度の形には出来ます。組み合わせですので。ただ、私は人を楽しませるといった話術に長けていません。『つまらない』、『無愛想』と言われ、しばしばお役御免ごめんになることもあります」

 何だか納得してしまいました。申し訳ないことですが。確かに彼女と楽しく手紙を作りたい、というのは難しいかもしれません。真剣な内容で依頼するなら別ですが。

「……また、本来ならお客様の置かれた状況を理解して………………そう、たとえば、怪我をしている者に寄り添うような。そんな手紙を書くべきなのですが、私には良い手紙、というものがまだわかっていません。それが出来ているとは言い難く……やはり自動手記人形オート・メモリーズ・ドールとして適性があるかわかりません。そんな状態で仕事をしてよいのか、いつも自問しています」

 ヴァイオレットはよほど思いつめているのか、『弊社の社長が自動手記人形オート・メモリーズ・ドールになったほうがよほど有能』と意味のわからないことを言いました。社長さんがするべきなのは経営なのでは。 でも、きっと……ヴァイオレットにそう言わせるほど気遣きづかいに長けた人なんでしょうね。

 俺は一番気になっていたことを話の流れで聞いてみました。

「こ、恋文とかはどうしてるんですかっ」

「恋文ですか」

「はいっ」

 生まれてこの方そういうことに縁がない者としては大変気になる分野です。

「それも組み合わせです。著名な詩や歌の一節を落とし込んだり……古典の恋愛小説などは美辞麗句びじれいくが多いので重要な参考資料です」

 思ったよりあっさりした、まるで素材の味だけ生かした温野菜のような返事をもらって俺は肩を落としました。自分の恋愛経験を参考に、などの回答を期待したのですがヴァイオレットは大変真面目な勉強家でした。ちょっと自分が恥ずかしい。俺は話を仕切り直します。

「なんだか初めての仕事なのに苦手なことばかりでつらいですね」

 俺がそう言うと、ヴァイオレットは視線を落として言います。

「いえ……弊社には私と正反対の明るい女性の自動手記人形オート・メモリーズ・ドールがいますので先程のような場合は彼女が担当になります。逆に、手紙ではなく請求書や契約文書作成、速筆が必要な膨大ぼうだいな書き写し案件は私に回ってきます。見たものを正確に記述するのは得意分野なのです」

「なるほど適材適所。社長さんの采配がいいんだ。それで今まではなんとかやってきたと」

「はい、ですが今回は私にとって初めての出張代筆なのです」

「は、はじめて!」

 つい、大きな声が出ました。

「はい、初めてです」

 この娘が初めての出張代筆をする。俺が彼女をその為に舟で送り届けている。

 何だかすごく壮大な物語に巻き込まれた気がしてどきどきしてしまったのです。

「緊張しますね」

 同意を求めましたが勝手に緊張しているのは俺です。

「大丈夫そうですか?」

 しかしヴァイオレットもどうやら大丈夫ではなさそうでした。

「……出張代筆とは、その場で仕上げることが課題となり、即座に対応せねばなりません。時間を頂きこもって書く、寝食を削り時間を確保する、という今までの手段がとれません……」

 物憂げな様子はこのせいもあったのかもしれません。けれども、俺は吃驚びっくりしました。俺達船頭は舟を出したくない時は客が居ても断ります。お客さん相手の仕事ですが仕事の裁量は自分で決めます。態度が悪い奴は頼まれたって二度と乗せません。それに何よりご飯を食べないなんてありえません。腹が減っては舟を漕げませんし、眠くても舟を漕げません。

「ご飯は食べないと……一番大事じゃないですか。あと寝ないと駄目ですよ!」

「一番大事なのは任務を達成することです」

 俺は社長さんとやらがこの娘を気にかけているというのが何だか理解出来てしまいました。

 この娘は元軍人で、穏やかな生活には慣れず、手にした仕事は彼女に不似合いな喜怒哀楽が必要で、それを補う為に知識と労力で勝負しているのです。危なっかしいったらない。

「でも、体調管理も仕事の内ですよ」

 ヴァイオレットは金色の睫毛まつげを伏せます。俺の言ったことで少し考えてしまったのでしょう。

「………………私はやはり、軍人でいた方がよかったのです」

 突然、ぽつりとそうつぶやきました。

 胸元のエメラルドのブローチを撫でながら、焦げてしまいそうなほどの視線を注いでいます。

「どうしてですか?」

「軍に居た頃は……ただ一人の方を追いかけ、お守りすればそれで良かった。私はいつも、追っても良い大人を探して生きていました」

 この娘のことを、なんと形容すれば一番ふさわしいのでしょう。

「最良の主人を見つけ、従い生きました」

 素直というか率直すぎる。それはええ、まるで、何も知らない子どものように。

「ずっとそれで良かったのです」

 だから、たぶん。

「大事な人だったんだ」

 きっと本当に、そう思っていたのでしょう。

「何よりも」

 その言葉に嘘はなかったのでしょう。

「それで良かった」

 本当に大事な人からいま離れてしまい、彼女は心細いのです。

「しかし戦争が終わり、すべて変わりました。今は違います。私は主人とは離れ、世界で一人、言葉と筆を武器に旅をせねばなりません」

 俺の国は大陸戦争とは関わり合いにならなかった幸福な土地です。

 生まれてこの方徴兵もされたことがありません。

 俺は彼女の吐露に応えてあげられる何かを持ち合わせていませんでした。

 根掘り葉掘り聞いた癖に、なんて奴でしょう。

「……えっと……その、俺なんて言ったらいいか」

 元気づけてあげたい。

 でもそのすべがわかりません。

 俺が口ごもっていると、ヴァイオレットは首を振りました。

「すみません……」

 何故か彼女の方が突然謝りだして、俺は更に困惑します。

「話しすぎました。お耳汚しを……申し訳ありません」

「どうして、そんなことないですよ」

「自分の素性を、あまり詳しく話さないよう言われております」

「い、いいじゃないですか」

「言いつけは守らなくては」

「でも」

「申し訳ありませんでした。仕事中の貴方の手をさえぎるような話を」

「で、でも」

「申し訳ありません」

「いいじゃないですか! 俺と貴方、此処ここでしか会わないただの客と船乗りだ!」

 また、つい大きな声を出してしまいました。俺はちょっと必死になっていました。

 だって、この娘が謝るんです。俺がしつこく聞いたから答えてくれただけなのに。

 俺のような赤の他人につい漏らしてしまうほど抱え込んでいただけなのに。

「舟を降りたらお互いのその後なんて知れない。だから、気にしないで下さいよ」

 俺がしつこく聞いたからあふれてしまったんです。抱え込んでいるものが。

「いいんです」

 俺みたいな、辺境の船乗りにだからこそ言えることってあります。

「いいんですよ」

 揺れる瞳を、不安の色を、どうにかしたくて強めに肯定してしまいました。鼻息が荒かったかもしれません。

「……」

 ヴァイオレットは、夢からめたようなまなざしを俺に向けました。

そして神妙な顔で『はい』と頷きます。

 一度頷いたのに、なぜかその数十秒後にもまた『はい』と頷きながら言っていました。

 俺達はそれからあまり話さず、やがて岸に着いてしまいました。

 ヴァイオレットの依頼人は聞いたところ集落の中でも富豪で有名なロックハート様というご老人です。もうかなりの高齢で、あまり長くないのではと言われている人でした。

「道、まっすぐですからね。しばらくしたら集落が見えますから、ロックハート様のお屋敷は一番高台にありますから。白い屋根ですよ。その隣の屋敷も豪華だから間違えないで」

「はい」

「帰り! 帰りもよかったら俺を探して!」

「はい、ヴァレンタインさん」

 俺がお願いしたせいか、ヴァイオレットは帰りの舟もちゃんと俺を探して声をかけてくれました。身の上話を聞いたせいか、何だかもう他人の気がしません。

 俺は他の船頭が彼女を客引きしようとするのを威嚇いかくして散らしてから話をまた聞きました。

「依頼、どうでした? うまくいきましたか?」

「……わかりません」

「…………」

「最初は怒鳴られ、書く手紙、書く手紙を丸めて投げられました」

「……ひどい」

「ですが二十三回改善案を提示した時点で、『根負けした』と言って代筆を受け取って下さいました」

「ヴァイオレットさん、実は負けん気強いですよね」

 後で近所の人に聞いたところによると、ロックハート様は闘病で神経が参っているそうで、誰か人を雇ってはいじめて辞めさせる意地悪爺さんだそうです。

 なんてことでしょう。一回でも関わるのが嫌な類の人ですが、ヴァイオレットがその一回でもう彼とは関わらなくなったのは不幸中の幸いでしょうか。

 けれども、数ヶ月後。

 

「数ヶ月ごとに、ロックハート様のお孫さん宛の手紙を代筆することになりました」

 

 また、旅行鞄を片手に現れた彼女と俺は再会するのでした。

 俺と彼女の交流はそれからも続きました。

 ヴァイオレットと俺の交流はなんと名前をつけてよいものかわかりません。

 友達、とは違います。お互い仕事の関係で会うだけですし、ヴァイオレットが依頼に来なければ会うこともありません。

「その後どうですか。商売繁盛してます? 俺はいま閑散期だから暇で暇で」

「郵便業務の方は同業者と仕事の取り合いにならないよう模索しているようです。私達自動手記人形オート・メモリーズ・ドールは、基本的には会社の周辺の仕事を受けていますが出張業務も増えています。ですが、軌道に乗ったとは言い難いです。社長は毎日帳簿ちょうぼを睨んでいます」

 お互い接客業だから、悩みとか共通しているのです。

 だから俺も嬉しくて。

「俺も閑散期は本当財布が寂しいですよ。まあ、春に貯め込んだ分で細々と生きられるんですけど……何か高い物とか欲しいなら別の仕事も貰ってやらないとなあ」

「別の仕事。ヴァレンタインさんは船頭をされて何年目なのでしょうか」

 俺は自分の大したことのない人生の年数と職歴を頭の中で思い浮かべました。

「ええと、船頭は二年ですね。でもその前は果樹園で働いたり、誰かの赤ん坊の面倒みたり、掃除洗濯、お使い、料亭の厨房見習い、と何でも屋みたいに働いていました」

「多種多様ですね」

「うち貧乏なんですよ。父さんも母さんも賭博癖があって……皆で働かないとやっていけないくらい貧乏で。家計が回らないから働けって言われて俺も八歳から」

「お若いのに、ご立派です」

「いや、ヴァイオレットさん多分、俺と年は変わらないですよね、え、何歳ですか?」

 

 俺達、本当に縁があるのか彼女がこの土地に来る時は必ず俺が働いていて。

 

「ヴァイオレットさん! ヴァイオレットさんじゃないですか……!」

「ヴァレンタインさん。探していました」

「お、俺を?」

「はい、初回に指名をと仰っていました。前回もそうしました。今日は舟を出されていますか」

「……勿論ですよ! も、もう一度聞いていいですか? 俺を探してた?」

「はい」

「嬉しい! 俺もさーそろそろ来る頃かなあとか毎日思っちゃって……ささ、お客様! 舟に乗って下さい! どうぞどうぞ。話したいこと溜まってたんですよ! そうか~! 俺を探してくれてたんだ~!」

「はい、探しました」

 

 ぴんと張り詰めた糸のような、そんな雰囲気をまとっていた彼女も月日が経つにつれ違う表情を見せてくれるようになり。

 

「笑顔が出来ない……?」

「はい。苦情とまではいきませんが……そういった意見をよくお客様から頂戴します。とりあえず、物理的に試しています。ロックハート様によく頬を持ち上げられるのです。練習しろと。ですが……うまくいきません」

「あの爺さん変なこと教えて……頬、両手で持ち上げて笑顔作る人初めて見ました」

「ヴァレンタインさんは……笑顔がお上手です。秘訣はありますか」

「えー俺なんてへらへらしてるだけですよ」

「それが私には難しいのです」

「うーん、でもこれは処世術だからなあ」

「処世術……」

「ここ船着き場ですからね。男の中で働くには俺みたいな子どもは愛想だけはよくしないと生きられないんですよ」

「……そうなのですか」

「はい。だからこれは染み付いたものなんです。ヴァイオレットさんは元軍人なんでしょう。戦場でへらへら出来ないでしょうし仕方ないんじゃないですか」

「ですが……それはお客様には関係ありません」

「ん~良くなるに越したことないですが、同じ接客業の立場として必ずしも重要とは思いませんよ。俺達はお客の求めるものを出す、お客は対価を払う。本来そうした対等な関係です。必要以上にへりくだる必要はないはずです。無愛想でもいい仕事をする人のところには自然とお客さんが集まりますし」

「そうでしょうか……」

「そうですよ。逆に愛想だけよくて任せた仕事はまったく駄目っていうのは困り者ですよね。ロックハート様の御用達になったってことは貴方が良い手紙を書くってことですよ。あの人、自分の身の回りの物すごくこだわるらしいですよ。ね、そういう人には貴方が向いてる」

……そうなら良いのですが」

「そんな顔しないで。俺が頬持ち上げますか?」

 

 お互い、遠くに居るからこそ会えた時に話せることが増えて。

 

「そういえば、探してる人いるんですよね。今回は手がかりありましたか?」

 それぞれの事情も見え隠れしてくる。

「いえ……」

「でも、自動手記人形オート・メモリーズ・ドールなら色んな場所に行くから、まだまだ希望はありますよ」

「はい。私も、それが自動手記人形オート・メモリーズ・ドールのよいところだと思います」

「そっか……ヴァイオレットさんは誰かを探す為に自動手記人形オート・メモリーズ・ドールを選んだんですか」

「いえ、希望的観測といいますか。本当に見つけられるとは思っていません。ですが……」

 この時にはそのブローチが何なのか俺、気づいていました。

「もしかしたら、と思って生きられる。そういう仕事なのです」

 彼女の言う大切な人に関わる物なのだと。

「そっかあ……」

 のんきな声を出しながら、俺は俺にとってのそういうものをふと考えました。

 こんなにも焦がれるほどに執着するものとは。

「俺と反対ですね。俺は此処ここで家族を待っているんですよ」

――あるとすれば、父さんが乗っていた舟。

「離れて暮らされているのですか」

――皆で住んでいた家。

「……うーん……なんというか、俺、八歳の時に別の街に奉公に出されて……てっきり両親と、それに兄は此処ここで暮らしているもんだと思ったんですけど」

――兄ちゃんとかけっこした、この土地の野原。

「……」

 俺が執着するもの、それらすべては手に残るものじゃない。この土地そのもの。

 

「帰ってみたら、家だけあって。家族が居なかったんですよね」

 

 持って、歩けるものじゃないんです。

「此処での暮らしを嫌って……他の土地に移ったのかも」

 ヴァイオレットは、眉をひそめたり怪訝けげんな顔をしたりはしませんでした。

「……」

 ただ静かに耳を傾けてくれました。

「俺が奉公先から逃げたもんだから、連絡が行き違いになったんだと思うんです。今頃困ってると思います。俺を探してると思う。俺も迎えに来て欲しいんですけど、来なくて……」

 俺だってわかってます。

 俺が言っていることおかしいですよね。変ですよね。わかってます。

 頭がちょっとおかしいと言われても仕方ないかも。

「ヴァレンタインさんが、探しに行かなくていいのですか」

 その質問は少しだけ、俺の心のやわらかい部分をえぐりました。ええ、少しだけ。

 苦難から立ち上がり走っている人に言われるからこそ、刺さる。

「…………俺が此処を出ていったら、万が一……」

 けど、ヴァイオレットはけしてそれは違うと言いませんでした。

「万が一……兄さんが、いや、父さんか母さんが戻ってきたくなった時に困るし……」

 ヴァイオレットはただ一言、わかりますとささやいてくれました。

 

 俺は気がつけば彼女を船着き場で探すようになりました。

 今日は来るかな、まだ来ないかな。

 明日は来るかもしれない。

 

「お久しぶりです……! 何か変わったことありました? ロックハートの爺さんが生きてくれてるおかげでまた会えましたね」

「お久しぶりです。職場に、また人が増えたことくらいでしょうか。ロックハート様は確かにご病気があるとは思えないほど怒声はお元気です。ヴァレンタインさんは……」

「俺はね、最近手習いに行くようになりました! ヴァイオレットさんに感化されて。俺、簡単な文字なら読めるけど、学校とか行かなかったから書くのは苦手なんですよ」

「私も書けませんでした。ですが、練習すれば大丈夫です」

「書く練習するのに紙が足りなくて、最近じゃ地面に棒で書いてますからね、俺」

「もしよろしければ、こちらをお使い下さい」

「え、なんですかこれ。た、高そう。駄目ですよ」

「筆記帳と万年筆です。仕事柄、よく使うので予備があります」

「駄目です駄目です!」

「私も最初、人からこうして紙と筆を貰い勉強を始めました。駄目ではありません」

「だ、だめですよ! お客さんからそんな……!」

「駄目ではありません」

 

 季節をまたぐごとに、月日が経つごとに、最初出会った時の彼女の不安気な様子は薄れていきました。自動手記人形オート・メモリーズ・ドールとしての実績を着々と積んでいったのです。

 

「その傘、可愛いですね。服装に似合ってます」

「頂きものなのです。私も……可愛らしいと思います」

「やはりお客さんから熱烈な交際の申し込みですか?」

「いえ違います。こちらは小説家のオスカー様からお仕事のお礼にと……」

 俺が想像するより遥かに速く、しかし確実に華やかな階段を優雅に。

「へえ~小説家さん。俺よく知らないけどすごいですね。その内、王宮とかのお仕事もしちゃったりして!」

「しました」

「え」

「しました。ドロッセルという国の姫君の恋文を」

 

 いつの間にか彼女はその界隈かいわいでは名を馳せる人となりました。

 

 彼女の勢いは何と言ったらいいんでしょう。飛ぶ鳥を落とすが如く、だとおかしいでしょうか。破竹の勢い、草木もなびく。とにかく瞬く間に大いなる飛躍を成し遂げていました。

 評判が評判を呼ぶ、自分の仕事がそこまで発展するというのはすごいことです。船着き場にもそうした人が居ますが、努力なしには出来ません。けれどもヴァイオレットのその努力は野望や夢があるといった、そういうものには見えませんでした。夢追い人は、普通の人と目が違います。彼女は……彼女の碧い瞳はどの季節に覗き込んでも真冬の海のように静かでした。

 別の世界からこちらを見ているようなまなざし。

 海底からすべてを見上げているような。そう、そんな瞳。

 此処ここに居るけど、此処に居ない。俺が見ているはずなのに、いつの間にか見られているような気がする写し鏡の碧眼。本人もまたそういう人で、いつも何処どこか心ここにあらずな様子。

 ヴァイオレットは。彼女の名声は……例えるならば、壊れた人形がひたすら稼働を繰り返した結果、評価された。そんな風に俺の目には映りました。

 酷い言い方かな。でも、俺が出会った頃のヴァイオレット・エヴァーガーデンは傷ついていました。ただ、傷ついた女の子だったんです。

 だから正直、驚きました。だって最初の彼女は、とてもじゃないけれどこれから自動手記人形オート・メモリーズ・ドールのスターダムを駆け上がる少女には見えなかった。ええ、見えませんでした。

 出会い方のせいかもしれません。きっと現在のヴァイオレットに出会ったならば、何て完成された自動手記人形オート・メモリーズ・ドールだろうと思ったことでしょう。でも、確かに一風変わった少女でしたが俺にはそう見えなかった。俺には……俺には、放り投げだされた世界に戸惑っている、同世代の女の子にしか見えませんでした。

 仕事を始めたばかりの、不安気な女の子。きっと世界中何処にでも居る。

 俺も似たようなものでした。あの日、あの時。

 

『お父さん、お母さん、兄ちゃん、どこ』

 

 一人で生きていくと決めたあの時、途方に暮れていた俺と似ていた。

 

 年月を重ねたヴァイオレット・エヴァーガーデンはいつの間にか立派なレディとして世に咲くようになりました。その名前の如く、美しく咲く女の子。

 俺はどうしても、自分と比べてしまって……久方ぶりの再会をしても、嬉しいのになんだか眩しすぎて情けないことばかり言ってしまいます。

「ヴァイオレットさんは……なんか急に遠い人になっちゃいましたね」

 彼女が駆け抜けた四季を、時間を、同じように過ごしたはずなのに俺はいまだにしがない船頭のままだからです。

「……弊社は依然としてライデンシャフトリヒに拠点を」

「いや、物理的な距離じゃなくて。こう……精神的なね」

「……」

「本当、偉いですよ。俺がさ、此処でぼうっと舟を漕いでる間にもすごい仕事をしてるんだと思うと……ね」

「ヴァレンタインさんも毎日仕事をしてらっしゃいます」

「べつに、船頭の仕事が駄目とかじゃないんですよ」

 職業に貴賎きせんありだなんて、俺も思わないけど。でも比べてしまいます。

「好きですよ、割と。舟を漕ぐの。でも何か……こう……ヴァイオレットさんを見てるとね、自分はってなるんですよ。俺はこれでいいのかなって。俺はきっと、他にやりたいことがあるはずなのにって」

「……」

「俺も自分を変えられたらなあ……」

「ヴァレンタインさん」

「はい」

「……私は、出会った頃より距離が近くなったと感じていました」

「……え」

 俺は驚きました。彼女はそんなこと言わない人だと思っていたからです。

 なんていうんですか、こういうの。

「私は此処ここで、貴方をすぐ探せるようになりました」

 こういう、まるで、誰かに寄り添うような言葉。

「何度も乗せて頂き、私の中で貴方が登録されたからです」

 いや、違う。言わない人じゃなくて、言えない人だった。だってヴァイオレットは出会った頃に俺に話してくれました。怪我をした人に寄り添うような、そんな手紙書けないと。

「……うん」

 他の人に任せたほうがいい、不適格だと、悩んでいたのに。

「遠く、なりましたか」

 でも、出来るようになったんです。たくさん、練習して。人と関わって。

「ヴァレンタインさんも、私を何時も見つけてくれます。此処に来たら、すぐに」

 この娘は一番苦手なことが、出来るようになった。

「…………うん」

 いまだに、不安気な時にエメラルドのブローチに触れるのは変わらないけれど。

「遠く……」

「なってない……! ごめん。俺、きっと違う街ですれ違っても君のこと見つけられるよ……ごめんね、なんか……違うんだ。俺、違う……」

 ヴァイオレットは成長したんです。

「……ごめんね……」

 あの日、出会った頃の彼女は誰かに寄り添うような手紙を書けたらと悩んでいた。

 たくさんの人と、たくさんの時間をかけて自分の心を育てて、今はもうそれが口に出して言えるようにすらなっている。この娘は与えられた運命とちゃんと戦っている。

 

 嗚呼、俺は、ヴァイオレット・エヴァーガーデンのようになりたかった。

 

 俺はこの娘のようになりたかった。

 本当に、そうなりたかった。

 俺だってまだ若い。いくらでも他の土地でやり直せます。

 でも俺はそれをしません。

 俺は家族を捨てきれない。捨てきれないんです。

 家族を捨てるって考えたこと、ありますか。

 俺は……俺は、ありませんでした。

 だって家族ですよ。血を分けた存在ですよ。一緒にいるべき、なんですよね?

 親は子を守って、子は親を慕って、それが普通なんですよね?

 周りを見ていたらそうしていますよ。あれはみんな嘘なんですか。

 どうして、どうして、うちの家族は普通が出来なかったんだろう。

 どうして俺には普通が難しかったんだろう。俺が馬鹿だからでしょうか。

 俺、八歳の時に親に言われて知らない人について行きました。

 お手伝いの為について行きなさい、お駄賃を貰えるからと親に言われてついて行きました。父と母は笑っていたような気がします。兄だけは真顔で、いいえ泣きそうな顔で何度も何度も俺の服の袖を引っ張っていました。すぐ俺の頭を叩いて叱る怖い兄さんでしたが、あの時だけは泣いて弱りきっていました。

『駄目だ、なあ、兄ちゃんのいうことを聞け、いったら駄目だ』と。

 俺はすごく驚いたのを覚えています。兄はいつも怒っていて、お腹が空いている人という印象しかありませんでした。俺を大事に思ってくれているとか、そういう素振りはありませんでした。正直、嫌いでした。

『でも、いうことをきかないとおこられるよ』

 だから、掴まれた服の袖を俺は振り払いました。

 その時の兄の表情。眼の前の何もかもが瓦礫がれきと化したかのようなあの瞳。

 兄は最後にもう一度だけ、涙まじりの声で言いました。

『なあ、駄目なんだ、お願いだよ……いくな、もう叩かないから、なあ、なあ』

 それでも俺は、うんとは言いませんでした。

 親が怒り出すのが怖かったからです。

 兄ともそれきりです。今にして思えば、本当は可愛く思ってくれていたのかもしれません。

 両親に関しては、やむにやまれずしたことなのか。そうではないのかわからないまま。しかし端的にいうと俺は身売りされたのでした。

 そんなに珍しいことではありません。この土地は辺境で、田舎で、まだそういう風習が根付いている土地でした。今もそうなのかもしれません。俺は一度離れた土地に、誰にも元の俺だとわからないよう変装して生きています。また誰かに売られたら大変です。だから自分を作りました。ふらりと現れた見知らぬ少年。いつの間にか居着いたよそ者。それが俺。

 俺は、自分が捨てられた癖に家族を捨てられない大馬鹿野郎なんです。

 売られた俺は奉公先を三日と経たず逃げ出して、家に帰る為に物乞いから始めて金を貯めました。果樹園で働いたり、誰かの赤ん坊の面倒みたり、掃除洗濯、お使い、料亭の厨房見習い、と何でもやりました。お金を貰えるなら何だって。

随分ずいぶん遠いところに売り飛ばされたので、帰るのは一年がかりでした。

 俺、帰る時浮かれていました。これで元通りだって。俺の人生は少しねじ曲がったけれど元通りだって。お母さんもきっと喜んでくれる。よく帰ったねって言ってくれる。

 だから、だから。

 家の扉を開けて伽藍堂がらんどうだった時の、あの時の呆然とした気持ちは今でも鮮明に覚えています。

『お父さん』

『お母さん』

『兄ちゃん』と。

 誰も居ない家の中でぽつりとつぶやきました。

 返事はありませんでした。

 嗚呼、人が住まなくなると家も死ぬんだなって、俺は思って。

 

 俺は、今でも、あの日立ち尽くした子どものままなのです。

 

「大陸横断蒸気機関車乗っ取り事件……この写真、あの娘に似てるけど違うよな」

 いつものようにお客さんが置いていった新聞を読みながら船着き場でぼうっとしています。季節がまた巡り、秋が終わろうとしていました。ヴァイオレットと初めて出会った春から年月は経過しているのに、何一つ変わっていません。

「すいません、舟出してますか?」

「あ、はい。本日はご指名ありがとうございます。安全運航第一。船頭のヴァレンタインです」

 今日も今日とて舟を漕ぐ。それだけです。

 朝起きて、ご飯を食べて、舟を出して、お客さんを乗せて、仕事して、家に帰り、寝る。

 それの繰り返しです。特別なことは起こらず、素敵な出会いや機会もなく、自分の食い扶持を稼いで家を守るだけ。たまに、こんな生活をしているのは俺だけなのかなと思ってしまいます。小さい頃から働いてたので遊びもよく知りませんし、ヴァイオレットほど親しい人もいません。

 ヴァイオレットは俺の友達じゃないのに。

「船頭さん。ここらへんで食事出来るところってあるんでしょうか」

「陸にあがればありますよ。お客さんみたいな都会から来た人が食べるようなものと違うかもしれませんが……それではお気をつけて」

 そうです。俺が彼女に言った通り俺達はただの船頭と客という間柄で、彼女が此処ここに代筆に来なければ会うこともありません。世界中を飛び回るすごい人で、俺なんかとは住む世界が違うんです。俺は、お客さんを送り届けてまた元の岸へ戻りながら頭の中で考えました。俺の人生これでいいんでしょうか。俺は親しくなりたい人の側に行くこともせずに今日も此処にいます。俺はヴァイオレットに貰った筆記帳をすべて使い切ってもそれを彼女に報告出来ません。俺が故郷を離れないから。

 

「ヴァレンタインさん。こんにちは、お久しぶりです」

 

 その日は、とても美しい朝でした。

 昨夜に降った雨の雫が、雲間から顔を出した太陽に照らされて透明なきらめきを放っています。

 その美しい世界の中で、姿を現したその人はやはり異物でした。

 冬に差しかかる前の秋。ヴァイオレット・エヴァーガーデンはいつものドール衣装ではなく、黒をまとっていました。黒い帽子、黒いケープ付きワンピース、いつもの鞄と傘、エメラルドのブローチは一緒でしたがそれ以外はからすのように真っ黒。黒衣の自動手記人形オート・メモリーズ・ドールです。

 風が吹いて、彼女の服の左腕が不自然にはためくのが見えました。腕がありません。

 片方だけ腕がない。義手であることは途中で教えられましたが、こうして腕がない姿を見ると他人なのに喪失を感じました。

「こん、にちは……あれ、どうしたんですか……その、腕、とか格好とか」

 それじゃあ、まるで、あれです。

「この前、来たばかりでしたよね。間隔、すごく、近い……」

 まるで誰かのお葬式。俺、お葬式は行ったことがないけれど、外から眺めたことはあります。

「……」

 俺の質問は彼女を戸惑わせたようです。ヴァイオレットは、何から話そうかと少し考えた様子を見せてから荷物を地面に置き、右手で左腕を指さしました。

「腕は、壊れました。修理中です」

 いつの間にか好きになった彼女の機械仕掛けの人形のような動作。玲瓏れいろうな声。でもそれが今は俺の心をざわざわとさせる要因となっています。

「右は問題なく使えます。不便ですが、いずれ解消されます」

 俺は尋ねました。何故なのか、事故にでも巻き込まれたのかと。ヴァイオレットは詳しい事情は語りませんでした。珍しく、困ったように薄く笑いました。

「お会いしない間に、本当にたくさんのことが起きて……しかし今日は私のことより別の方のことなのです。この辺では、名士とお聞きしましたがお耳にしませんでしたでしょうか。亡くなられたのです、あの方が」

 ヴァイオレットがこの土地に来て、喪服で葬式に向かう相手なんて一人しかいません。

 代筆の依頼主のロックハート様です。亡くなる、亡くなる、と言われていつまでも生きていたあの爺さんです。

「お、俺……あんまり、地域の人と交流がないし……ここ数日は大雨で……無理して舟出したら風邪引いちゃって……家にこもってて……船頭仲間と会ってなかったし……」

 俺は言い訳のように理由を並べます。別に何も悪くないのに。

「もう葬儀は済んでいるそうです。屋敷の方からご連絡を頂き、急ぎこちらに参りました」

「墓参り……に?」

「それもありますが、私は御本人の希望で遺言書の代筆もしておりまして……遺言書が開けられたところ親族の中で言い争いが起こったそうです。本当にこの内容で間違いないのか、説明をして欲しいと……」

 物議を醸した遺言書とは何だったのでしょう。契約相手の手紙の内容は言えないらしく、ヴァイオレットは教えてくれませんでしたが金持ちの爺さんが死んで、その後起きる問題といえば遺産相続くらいでしょう。

「……ロックハート様らしい遺言書だということだけです。私の口から言えることは」

 意地悪爺さんは、最後まで意地悪をしてってしまったということでしょうか。

「じゃ、じゃあ今からヴァイオレットさんは、そのすごい争議に巻き込まれに行くってことですか?」

「はい」

「……もしかして、この舟が最後になるってこと……?」

「ヴァレンタインさんがまだいらっしゃったら、帰りも乗せて頂きます」

「い、いる。俺、今日他の客とらないで向こう側で待つ!」

「すごく遅くなると思います」

「いいよ、そんなの……だって!」

 

 もう君と会えなくなるんだろう?

 

 俺は、悲しみで喉が詰まってその言葉は言えませんでした。でもヴァイオレットには伝わったと思います。少し間をおいてから『はい』と言ってくれました。

 それから俺はヴァイオレットを屋敷側の岸まで送り届けました。宣言通り他の客はとらず、ただひたすらヴァイオレットを待ちます。

「……」

 色々あったと言っていましたが、そんなことで表現出来る内容の経験で腕がなくなるなんてことあるでしょうか? きっと今も身辺が慌ただしいはずです。ヴァイオレットが可哀想です。まったく、ロックハート様という人は最初から最後までヴァイオレットに迷惑をかける客です。

「…………」

 でも、その迷惑な客がいなければ俺とヴァイオレットの出会いはなかったわけで。

 俺達が季節ごとに交流した時間の積み重ねもなかったわけで。

「………………もっと長生きしてくれよ」

 俺は自分勝手にそう独り言をつぶやきました。泣き声混じりで情けない声。

 酷い奴です、俺は。

 たいして知りもしない人の死ぬ時期に文句をつけるなんて。

 でも、いま、俺は心が折れそうなんです。余裕がない。だから口が悪くなっています。こんな風にいつか会えなくなることは予想していました。していましたが、もっと穏やかな終わりだと思っていました。もっと違う、もっと……。

 そう、いつか。いつか俺が両親や兄とぱったりと会えなくなったみたいにヴァイオレットが此処ここに来なくなって。

 でも俺は此処を離れないからいつか来る日があるかもと船着き場に立ち続けて。

 そんな、そんな、人から見れば寂しいと思われるだろうけど、俺にとってはまだ救いがある、希望のある終わり方だと……。

 まさか本人から、もう最後になるだろうと言われるなんて。

 それに、ただたまに会う客にもう会えなくなるだけでこんなにも胸が苦しくなるなんて。

「……」

 俺、馬鹿なんです。

 ええ、頭は良いほうじゃない。人の感情の機微にはさといけど、それが生かせることもしていない。でも自分のことには鈍感で、こうして痛みだしてからようやく気づく。

「…………お、れ」

 きっと、こんなに馬鹿だから俺はひとりぼっちなんです。

「独りになる……」

 自然と言葉があふれてしまいました。黙って泣くんじゃなくて、小さい頃の泣き方みたい。

「……っ……う……ふ、う……」

 俺、嬉しかったんです。

 ヴァイオレットが俺を指名して、舟に乗りに来てくれること。

「……嫌だ……また、俺……うっ……うう……」

 俺は此処で待っているんです。誰か俺のことを思い出して会いに来てくれるのを。

 探して欲しかったんです。

 ただそれだけを期待して生きている奴なんです。

 ヴァイオレットもそうでした。同世代の女の子で、突然世の中に放り出されて。大切な人を探したい、見つけてほしい、そんな女の子で。でも頑張って生きていて。人生の理不尽に負けずに、本当に頑張っていて……。

 俺、彼女が成長していくのを、自動手記人形オート・メモリーズ・ドールとして輝いていくのをまるで違う自分がそうなっているみたいに見ていました。

 あの娘が頑張っているのが励みだった。仲間みたいに思えた。

 友達じゃないのに、友達みたいに感じていた。

「……兄ちゃん……いつ、かえってくるの……」

 俺、此処ここで独りだから。

だからあの娘との出逢いが、俺の人生でいつしか救いになっていたんです。

 同じだったから。ヴァイオレットも、同じだったから。

 帰らない人を待っていたから。

 そんな娘が、一年の中で数回でも良い。

 俺を思い出して探してくれることが。

 俺には、俺にはそれが。ただそれだけのことが、嗚呼、とても。

 

「……大変、遅くなり申し訳ありませんでした」

 朝に舟を出し、それから黒衣の自動手記人形オート・メモリーズ・ドールが戻ってきたのは夕方過ぎでした。疲れた様子は見えませんでしたが、声がかすれ気味だったのでかなり喋っていたのではないでしょうか。

「お疲れ様です……どうでした」

 俺は泣いていたことを悟られないようにしたかったのですが、俺の声は鼻声で明らかに泣いた後でした。ヴァイオレットは夕焼けの眩しさの中、俺を真っ直ぐに見つめてきます。

「大丈夫です。ヴァレンタインさんは、大丈夫ですか」

「……」

 俺は、わからなかったので黙り込みました。

 君をこれから乗せる。それで最後になる。もう君は会いに来てくれない。

 それが大丈夫か、俺にとって大丈夫か、俺にはわからない。

「…………手を、気をつけて乗って。夕焼けと宵が交じる時間帯だから」

 俺は取りつくろうように、ただ仕事人として振る舞います。ヴァイオレットは右腕だけのせいか平衡感覚が少し狂っています。座るまで介助して、それから舟を漕ぎ始めました。

「……この時間の風景は、初めてです」

 ヴァイオレットのつぶやきに俺は頷きました。

 ジャカランダ河の夕方は水面に橙色の太陽が飛び込んだような光景になります。空も河も橙色に染まっていって、いつしか暗闇に染まります。もう帰る時間だよ、と誰かに知らせるように鳥達が鳴いて、船頭達も仕事を引き上げて家に帰る。そんな時間、そんな風景です。

 冬が始まろうとしていたのでもう木々は裸で、水面の落ち葉も色すら朽ちたものばかり。別れの日としてはこれほどにふさわしいものもない物寂しさです。

「ヴァレンタインさん、今日は待っていて下さってありがとうございました」

 ヴァイオレットの声が普段より和らいで聞こえます。そういえば、雰囲気がどこか変わったように感じました。喪服だからかとも思いましたが、今こうして改めて見ると違います。

 き物が落ちたような、というと言い過ぎですが。前とは違う。

「……最初も、今も、いつも……ありがとうございました」

 嗚呼、あの頃。初めて会った頃のヴァイオレット・エヴァーガーデンは世界に放り出された美しい獣でした。緊張感があって、何に対しても警戒していて、不安定で、どこか冷え冷えとしていた。

「こうして、此処ここでしか会わない方に言うのは、おかしいのかもしれませんが。私は、ヴァレンタインさんがいつ来ても私を舟に乗せて下さるのを……………………」

 けれども長い時間をかけて温度を持つようになり、獣のような少女から美しい女性へと変貌へんぼうしていった。

「私は………………きっと、ええ、『嬉しく』思っていました。今ようやくそうだと言えます。貴方にとっては何気ないことでも。私は……貴方が、此処でしか会わない関係だから、話しても良いと言って下さったことを『嬉しく』思っていました」

――終わりなんだ。

 あまりにも寂しい景色。その中で語られる彼女の言葉に、俺は胸がつまりました。

「私、自動手記人形オート・メモリーズ・ドールにきっと向いていませんでした。貴方のように、思わず胸の内を吐露してしまうような、優しさを持っていなかった。けれども、貴方はこのままの私の、良いところを肯定してくれました」

――もう、本当に終わりだ。

「否定ばかりの世界で、肯定は難しい」

――終わりだ。

「私はそう思います。世界は否定が多い。肯定が難しい。ですが貴方はそれをしてくれました」

――お願いだ、もうそんな、別れの言葉を言わないで。

「ありがとうございます」

――言わないで。

「貴方にもう一つお伝えしたいことが」

――もう、聞いていたくない。

「ヴァレンタインさん、私、探していた人に会えました」

――やめてくれ。

「会えました。世の中には、たくさん、会えない人を探している人が居るとも知りました。ヴァレンタインさん」

――君が喋る度に、俺と君との時間が進む。

「待つのは愚かだとたくさんの人に言われました」

――君との時間が溶けていく。

「しかし、私は自分の、あるかもわからない心に従いました」

――溶けていく、水面の泡のように。

「ヴァレンタインさんがずっと此処ここで誰かをこれからも待つこと、私はそれを肯定します。貴方がもし、待つのをやめて、外に出ることがあっても私はそれを肯定します」

――俺は君の、相手を映し出すような純真さが好きだった。

「私は貴方の優しさを、肯定します。貴方が肯定してくれたから」

――俺は君を肯定することで、自分を肯定していたんだ。

 

 俺は嗚咽が漏れました。ええ、泣いていました。漕ぎながら泣くなんて船頭失格です。

 でもヴァイオレットは責めません。俺は何度も服の袖で涙を拭いながらまた漕ぎます。人生の中で、泣きながら何かをするなんて子どもの時以来だ。

 お父さん、お母さん、お兄ちゃん、と。

 それぞれを呼びながらこのジャカランダ河の故郷を探した時がつい数日前のように思える。

「…………ヴァイオレット、俺のこと忘れないで」

 俺はばかみたいに、泣きながら言いました。

「はい。最後と、ヴァレンタインさんは仰いましたが、近くで依頼があれば立ち寄らせて頂きます」

「……そんなの、嘘だよ……! たくさんのお客さんに俺、それ言われたよ……でも、誰も、誰も、誰も、俺のことなんて……」

「私は貴方を肯定します。嘘をつきません」

「嘘だよ……おべんちゃらだよ……俺、俺、君が……忘れないでいてくれること、嬉しかったんだよ……でも、もう忘れるんだろ……」

 船着き場にぶつかるように舟が到着します。衝撃で涙が雨のように瞳から落ちました。

「…………………ごめん、もう行って」

 俺は舟の上でうずくまりました。嗚呼、ヴァイオレットを降ろしてあげなくてはいけません。もう夜が来る。こんなところで立ち往生させられません。

 俺はただの船頭で、この娘はただのお客さん。俺達はこれで終わり。これで終わりなんです。

「何時も会っていなくても」

 俺は、涙を拭いてこの娘を見送らなくては。

「自分を肯定してくれる誰かが居ることは、大事なのだと私は学びました。ヴァレンタインさん……もし、ご迷惑でなければ、知っていて下さい」

背中に、ヴァイオレットの今は一本しかない腕が触れる感触がしました。

俺は振り向きます。俺達、この厳しい世界の中で出会いました。

俺は世界が嫌いです。人生も嫌いだ。

でも、嗚呼、神様。こんな風に残酷な悲しさが襲う時ほど。

 

「世界の何処どこかで、貴方を肯定する自動手記人形オート・メモリーズ・ドールが居る。それを、知っていて下さい」

 

――世界は美しい。

 

 嘘じゃありません。

 そう付け加えられて、俺はこの一言でまた何年も待ってしまいそうで笑いました。

 自分の愚かしさと、ヴァイオレットの優しさ。

 そのふたつが俺を、泣かせて、そして微笑ませてくれました。

 俺達は最後に、小さな子どもみたいに互いに手を繋ぎました。

 舟を降りる彼女を手助けして、俺がそのまま離さなかったのです。

 

「……嘘じゃない? 俺を忘れない?」

「嘘じゃありません。私は忘れません。記憶力は良いのです」

「…………いつか、いつかさ」

「はい」

「いつか俺が君に会いに行く俺になっても、肯定してくれる? 迷惑じゃないかな……俺、お、俺さ……本当は君と友達になりたかったんだ。ただの、船頭と、客じゃなくて……」

「はい、肯定します」

「でもすぐには無理だ。俺、家族がいる……いないけど、いる」

「はい」

「でも、いつか、いつかね」

「はい、いつか」

「きっと……すごく、再会するのに良い日にさ」

「……はい、その日はきっと良い日です」

 

 

 

 

いつか、また会おうね。ヴァイオレット・エヴァーガーデン。

 

 

 

 

 それから、それから。ヴァイオレットが何処どこか変わったように俺も変わりました。

 秋の大地が雪に包まれ、いつしか白銀の化粧が溶け落ちて、若葉が芽吹くように。

 俺も変わっていきました。

 決定的になったのは春です。

 やはり、何かが始まるのは春なのでしょう。

 紫の花びらが舞い散るジャカランダ河。俺はただ舟の上でぼうっと景色を見ていました。

 お客さんで賑わう船着き場。俺は船頭で、乗りたい客は大勢居るというのに誰も乗せずに自分だけの為に舟を出していました。そんな俺を奇異の目で見る船頭仲間達のことなど眼中にはなく、俺はただこの風景全体を目に焼き付けるように眺めます。

 美しい故郷。胸を貫かれるような悲しい思い出しかない故郷。

 もう誰も俺を探してくれることもない故郷。きっと誰も帰ってこない故郷。

 ヴァイオレットが今年は来ないという事実が俺に夢からめるような心地を与えていました。

 霞がかっていた頭が晴れていくような、そんな変化が俺に訪れていました。

 

――捨てよう。

 

 その時、ようやくそう思いました。

――家族を捨てよう。

 そう思いました。

 俺が此処ここに固執していたのは、家族がいつか戻ってくるかもしれないからです。

 俺が戻らないと、俺が此処に居ないと、きっと誰かが帰ってきたら困る。

 だって俺が困った。俺は泣いた。だから此処に居ようと思いました。

 愛をくれなくても、俺は家族を愛していた。

 

――でも、俺は捨てよう。

 

 ようやくそう思えました。思いながら涙が流れました。

 俺はこの決断に至るまですごく時間がかかって、そしてこれは酷い決断で、俺は酷い奴で、きっとロクな死に方はしないし、やっぱり誰にも愛されないでこのまま生きていくでしょう。

 でも俺は捨てます。俺は家族を捨てます。俺は、だって。

 愛してくれるべき人に愛されなくても。俺の世界には居るから。

 世界の何処どこかで、俺を肯定してくれている自動手記人形オート・メモリーズ・ドールが居るから。

 だから俺は此処で帰ってこない誰かを待たないで、飛び出すべきなんです。

 俺はもう八歳の子どもじゃないし、何処へでも行けるんだから。

 俺は舟を漕ぎます。誰の為でもない。俺の新しい旅出たびでの為に。

 何をしよう。まず何をしようと考えて、やはりあの女の子が心の中に浮かび上がりました。待って。そう、祈って見送ったあの碧い瞳の女の子。

 金色の髪にダークレッドのリボン。

 白のリボンタイワンピースのプリーツ。

 水色のフリル傘。遊ぶように風にそよがれているそれらすべてを。

 俺はこれから探しにいってもいい。いいんです。

――待って。

 胸が震えました。人生を新しくやり直すだなんて、よくある話だけれどいざ自分がそうなると震えます。怖さと期待で息が苦しい。紫雲木しうんぼくの花が視界を阻んでいて、見えるものすべて消してゆく美しさですが今はただ邪魔でしかありません。欲しいのはそれじゃないんです。

 俺が見たいのは、俺がまた会いたい紫は、もうこれじゃない。

――お願い、待っていて。

 涙がにじみました。

 悲しい涙なのか、安堵しているのか、悔しいのかわかりません。こんなにも人生を無駄にしてきたんだなという気持ちと。ようやくこうなれたという気持ちがせめぎ合っています。

 俺は家族を捨てたくなかった。捨てたくなかったんです。

 でも、本当はずっと捨てたかった。嗚呼、馬鹿でしょう、意味がわからないでしょう。

 いいんです。俺も自分がよくわからない。

 わからない。もう、何もかも、わからないのです。

 何をしているんだろう。わからない。

 きっと、ずっとわからなかった。

 傷ついていたことすらわからなかったのです。

 でも、一つだけあります。

――待って。

 俺がわかること。

 俺が、わかることといえば一つだけ。

 俺は、最高に気分が清々しかったので、誰のことも気にせず世界に向かって叫びました。

 

「ヴァイオレット、待っていて!」

 

 会いに行くから、忘れないでいて欲しい。ただそれだけ。

 ただ、それだけなのです。

 

 

 

 

――碧の瞳が開いた。

 

 蒸気機関車が街に辿り着いた。乗客が慌ただしく降りていく中で、碧眼の娘はリボンタイワンピースのしわを綺麗に整えてから優雅にホームへと降り立つ。

 誰かを探す素振りはなく、道に迷う様子もない。目的の場所へとただひたすら正確に歩こうとする姿は機械仕掛けの人形のようだ。きっと何かに驚いたり、誰かを見つけて走り寄ったり、そういうことはしないのだろう。そんな風に、見える。

 完璧な淑女しゅくじょ然としたその娘は、だが混雑したホームの中でぴたりと立ち止まった。

 碧い瞳が、何かを検知したのだ。

 彼女は、その人を見つけると驚いたように目を瞬いて、それから走り出した。

 スカートのすそが広がり乱れる。金糸の髪をまとめたリボンが揺れる。

 彼女が走り出したので、相手も人混みをかき分けて近寄った。

 三歩、五歩、十歩。走り出した彼女はきちんと目の前で停止したが、相手は止まらなかった。

 

「ヴァイオレット、おかえり」

 

 そのまま抱擁ほうようして肩に顔をうずめた。

 久しぶりの、愛しい人、彼女の髪の香りが鼻をくすぐる。長いこと、このホームで立っていたのだろう。冷え切っている衣服と体温がそれでも逢いたかったという思いを伝えていた。

「……少佐、ただいま戻りました。お迎えに来て頂いているとは存じませんでした」

 ヴァイオレットは、自分を獣から人に、人から少女に、そして最愛の人に変えてくれた相手の抱擁を拒むことなく受け止めた。

「……嬉しいです」

 何かがじんわりと彼女の体の中を駆け巡った。『喜び』、『恋』、そういったものに付属する感情が光となってつま先から頭の天辺まで走る感覚。

 感情を知らなかった娘は、いま恋をしていた。

 微笑ましい恋人達の姿はちらほらと他にも見える。

 だから、この国ライデンシャフトリヒの陸軍大佐と自動手記人形オート・メモリーズ・ドールが抱擁していても誰も気にも留めなかった。よくある風景だ。この二人も、恋人達の仲睦まじい姿も。歴史を紐解けば紆余曲折を経て生まれた奇異なつがいだったが、日常の中ではただの風景の一部だった。

「……ヴァイオレット。すまない、聞こえなかった。何か言ったか」

 ギルベルトがきつく抱きしめたせいで、ヴァイオレットの発言はただもごもごと言われた何かとして処理されていたが彼女は気にしなかった。

「いいえ、たいしたことではありません。ただいま帰還しました。少佐」

「すまない。ああ、おかえりヴァイオレット……逢いたかったと言っただろうか」

「はい、いま仰いました」

「君が帰る予定の時間を、ホッジンズから聞いていて……疲れただろう。すぐに家に帰れるよう馬車を待たせている」

「少佐は、お仕事は……」

「片付けてきた。無理やりだったが君より大事な予定はない」

「では馬車で移動する間、少しご一緒できますか」

「君さえよければ、食事をした後にエヴァーガーデン邸に送る」

 ヴァイオレットが、瞳を弧に描いたのでギルベルトは了承と受け取った。ヴァイオレットの旅行鞄を代わりに持ち、空いた手を自然と捕まえてしまう。手を握られると、ヴァイオレットはちらりと視線を動かした。二人の手が繋がれた様子を見てまた目を瞬く。

「少佐、少佐」

 二人は大陸横断蒸気機関車乗っ取り事件での再会を経て、C・H郵便社襲撃事件後に気持ちを確かめあい、ぎこちなくではあるが新しい関係を始めていた。

「……どうした」

「少佐、私、まるで子どものようです」

 それは本当に、恋をしたての子どものようで。

「手を繋いでいるからか?」

「はい、此処ここライデンシャフトリヒでは迷うところがありません。昔は、少佐に手を引かれましたが……もう……」

 三十歳を超えた陸軍大佐には少し物足りないが、控えめな二人らしいといえばらしい。

「覚えていて欲しいが、恋人とも手を繋ぐものなんだ、ヴァイオレット」

「……そうなのですか……確かに、目を向ければそうした者達が多くいます」

「君が、わかったと返事をくれたので……私と君は恋人になったと認識しているんだが違っただろうか?」

「そ、相違ありません」

「では、認識を強くしてもらう為に……繋ぎ方を変えよう」

 ただ連行される娘となっていたヴァイオレットは、指を絡め取るような手の繋ぎ方になったことでエスコートされるレディとなった。ヴァイオレットはまた目を瞬く。恋が実ってからというもの、ヴァイオレットの反応がいちいち面白いギルベルトはこらえきれず笑みを漏らす。

「いつか、私が腕を差し出したら、君が何も言わず手を取ってくれるようになったら嬉しい」

「……訓練が必要です、少佐」

「くくっ……そうか。じゃあ、そうしようヴァイオレット」

 初々しい恋人達が去っていくホームでは、また違う蒸気機関車が到着していた。

 ヴァイオレットとギルベルトが人混みを歩いていく中、違う男女がすぐ側を通り過ぎる。

 女性はいかにも高貴な生まれだとわかるあでやかな美女だった。彼女を人混みから守るように肩に手を置き歩いている人物は、中性的な麗人で珍しい銀髪をしていた。

 短く切りそろえられたプラチナブロンドの髪は、歩くごとにしゃらりと音が鳴りそうな美しさだ。仕立ての良いジャケットにタイ、シャツ、革靴。もうあの頃舟を漕いでいた船頭にはまったく見えない。

「……」

 ヴァレンタインは、誰か旧知の人が通りすがった気がして一度立ち止まった。

「どうしたの、ローズ」

 ローズ、と呼ばれたヴァレンタインは『いいえ』と言ってからすぐにまた歩き出す。人がごった返す乗車口周辺で立ち止まることは許されない。

「奥様……俺が探していた女の子が居た気がしたんです」

 誰かを探していた独りぼっち。その共通点を持つ二人は。

「まあ、ヴァイオレット・エヴァーガーデン? そうね、同じ街に住む自動手記人形オート・メモリーズ・ドールになるんですもの。すれ違ってもおかしくないわ。いつかその娘にも会える。そしていつか、いつか、貴方が話していたお兄さんにも会えるかもよ。だって世界は毎日奇跡が起きているんですもの」

 だがまだ運命の歯車が噛み合わず互いに気がつくことはなかった。

 ローズ・ヴァレンタインは『はい、奥様』と親愛を込めて笑みを浮かべる。

「俺にとっての奥様が奇跡ですしね」

「やだ、私の薔薇ばらは言うことが違うわね」

 脇腹をかなり強く叩かれて、ローズは本気で痛かったが笑顔は崩さなかった。これも処世術の一つである。

「それにしても、自動手記人形オート・メモリーズ・ドールの学校とやらは本当に大変でした。送り出して下さった奥様には感謝しますが……」

「あら、でもこうして自然にエスコートしてくれる紳士となって戻ってきてくれたんだからその成果はあったわ」

 ローズの銀の睫毛まつげの下に見開かれていた琥珀の瞳。それに悪戯いたずらっ子のような表情をした奥様が映る。ローズの笑みは多少崩れて引きつり笑いになった。

「……奥様、俺、昔は帽子を被って顔を隠していたからだませてましたけど……本当に出来ますかね。それに他の従業員の皆さんやお客様を騙すことになりませんか?」

 ローズ・ヴァレンタインはヴァイオレット・エヴァーガーデンに言っていないことがあった。

 ヴァイオレット・エヴァーガーデンもまたローズ・ヴァレンタインにとってミステリアスな娘だったが、そう大差はない。

「本当の自分の人生を始めたくて故郷を離れたのにこれじゃあ……」

 彼、いや彼女は今日からこの街で新しい人生を始める。

 ただのヴァレンタインではなく、ローズ・ヴァレンタインとして。

「あら、人聞きの悪い」

 後に、ライデンシャフトリヒに男性自動手記人形オート・メモリーズ・ドールばかり在籍させている異色の郵便社として名を馳せるS・W(スカーレット・ウインター)手紙専門店の奥様は蠱惑こわく的に笑みを返す。

 別れがあれば、出会いがあるものだ。

 そして終わりもあれば、始まりもある。

だまさないわよ。ちゃんと最初から男装の麗人ローズ・ヴァレンタインとして売り出すもの。うちの売りは百種類もの手紙、便箋びんせん封蝋ふうろう。そして光り輝く何かを持つ魅力的な男性による丁寧な接客よ。それは美酒のように癖になること間違いなし。女の子ばかりの業界だからこそ、男性ばかりの店が輝くのよ。差別化、差別化よローズ!」

 良い終わり、悪い終わり、どれも含めて人生は続いていく。

「はあ……でも俺、女ですけど。いや、人生のほとんど性別ごまかして生きてましたからほぼ男かもしれませんが……」

「それがいいのよ!」

「はあ……」

 それは永遠のように見えて、けれどそうではなく、だが続くもの。

「貴方の少年のようなところ、本来の少女であるところ。そこを見込んで拾ったのだもの。安心しなさい。貴方は売れるわ。売れるわよ。だって、他にそんな自動手記人形オート・メモリーズ・ドールいないもの」

「はあ……」

「はあ、じゃないでしょ。もう……私の可愛い薔薇ばら。心配しないの。私が嘘言ったことある?」

 物語は続くのだ。世界が残酷でも、美しい瞬間はまた訪れる。

「まだ出逢ってそんなに経ってないんで……俺、わからないです。奥様」

 

 

 

 

 貴方が居る限り朝は来る。物語は、そういう風に出来ている。

文庫『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』刊行10周年を記念し、エピソードをセレクトして期間限定で無料公開中。1月から12月にかけて、【毎月第4金曜日】に公開エピソードを切り替え! シリーズ全4巻に収録されているうちの約半分のエピソードをお楽しみいただけます。
ぜひこの機会に『ヴァイオレット』を読んでみてくださいね!

KAエスマ文庫『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』シリーズ刊行10周年記念企画特設ページ
https://www.kyotoanimation.co.jp/books/violet/special/10th/