
『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』
シリーズ刊行10周年記念企画
エピソード無料公開 第10弾
公開期間:10月24日~11月28日
その一滴が大きな始まりになるとは誰しも思わない。
だが後になって、大いなる意味を持つものだ。
降り続ければ、大いなる恵みと災いも呼び寄せる。
愛は、まるで、雨のように。
「旅と自動手記人形」
それは、裏切りの雨だった。
穏やかな朝に始まり、暗雲が立ち込める様子など見せずに空は展開されていた。だが天が齎した気まぐれな夕立が転じて近年稀に見る大雨へと変化するのにそう時間はかからなかった。
街を歩く紳士の黒ハットの上に。
日向でまどろんでいる猫の背中に。
口を開けて大笑いしていた子どもの頬に。
優しい天からのくちづけを授けたような降り始めの雨の姿はもうない。季節は夏の終わり、夏は快晴が続くライデンシャフトリヒにおいて、久方ぶりの慈雨だったが天候を司る神が手元を狂わせたのか。街は時間経過と共にバケツを引っくり返したような水害に見舞われた。
この物語は、とある郵便社で働く人々の、ただ過ぎ去るだけの平凡な一日である。
雨風が体当たりするように建物全体を攻撃していた。
そのせいで鳴り響く玄関ベルを立ったまま不安そうに眺める男が居る。
バタン、バタン、と扉が動く。リリン、リリン、と玄関ベルが鳴る。
客は居ないのに鳴るものだから、彼は気になって最上階の自室からつい降りてきてしまった。去年の秋に噴進砲が打ち込まれて大穴が空いていた上に火事まで起きた建物なのだが、今は職人の早業で穴は塞がれ壁も綺麗に塗り直されている。
「……」
赤髪の伊達男。この郵便社に自らの名前を冠した社長。
「…………」
クラウディア・ホッジンズは誰も居ない郵便社に一人取り残されていた。
とは言っても、此処は彼の自宅兼職場なので彼が居るのは普通だ。ただ、本来ならまだ営業している時間帯にこうして一人で居るものだからどうしても取り残されたように見える。
この大雨のせいで郵便社は大混乱していた。他の同業者もきっとそうだろう。物流は滞り、客から苦情が来る。だが輸送というのは感情を持たない機械が行っているのではない。家に帰れば家族が居る、誰かから生まれた人間がしていることだ。
未曾有の災害に、社長として彼は本日の営業中止を全社員に通達した。
そもそも途中から客が来なかった。当たり前といえば当たり前かもしれない。こんな強風豪雨の中でわざわざ外出するなど狂気の沙汰だ。
「………………」
ホッジンズはつい外が気になって、玄関の方まで近づいた。大きな扉を少しだけ開けてみようか、そんな気持ちになる。地面はどういう状態まで浸水したのだろうか見てみたい。彼がそろりと扉に手を伸ばしたその時、何もしていないのに勢いよく扉の方から開いた。
「痛っ……!」
「お、悪い。それよりやばいぞ、これ無理だぞおっさん!」
自慢の鼻が扉にぶつかりホッジンズは涙目になった。痛さで一瞬くらりとしたが、すぐに正気になる。ずぶ濡れの社員が帰ってきたからだ。ホッジンズは全身を防雨着に包まれた彼の腕を引っ張り招き入れ、扉を閉めた。開いた時間は数秒だったのに玄関はもう水浸しだ。訪問者は被っていたフードを外して顔を覗かせた。スカイブルーの瞳とサンディブロンドの髪をした水も滴る良い男だ。
「ベネディクト……!」
ベネディクト・ブルー。郵便社のポストマン、会社創設時から働いている一員だ。
「無理、つーか無茶! この中で仕事は無茶だ! もう風呂入ってるみたいだよ。濡れてねえとこねえもん俺……社員引き上げさせて正解だ」
怒鳴るように言いながらベネディクトは犬猫がするように顔を振って水飛沫をホッジンズに飛ばした。ホッジンズのシャツや顔は大いに濡れたが外で奮闘した社員を責めることは出来ない。甘んじて受け入れ、シャツの袖で顔を拭いてやる。
「はい、大人しくして」
「うお、何だよやめろっ」
「おかえり。心配したぞ。無事でよかった」
「お、おう。……何だ、その……ただいま……心配したのか?」
当たり前だろう、とホッジンズが言うとベネディクトは困惑した後に明らかに照れた様子でそっぽを向いた。先程から外では誰かの家の軒先にあったのであろう、壺やプランター、商店の看板が凶器と化して風と共に街を舞っている。何が飛んでくるか分からないこの天候の中、怪我もせず無事に帰還出来たことは喜ばしいことだった。
「別に大丈夫だよ。銃の撃ち合いしてる中走り回るより楽な仕事だ。とりあえず無茶して二輪乗って転んだ奴の手紙と荷物預かって俺だけ戻ってきた。それでよかったんだろ?」
「ああ、というか誰か怪我したのか?」
「新入りのクラーク。つっても膝擦りむいただけだけどよ。自動二輪車習い始めた時に何度も転ばせたんだけど、やっぱ練習の時以外でこけると落ち込むんだよな。あいつ泣いてさ」
「ああ~」
話題の人がわかってホッジンズは可哀想に思った。最近入社した最年少のポストマンだ。ポストマンはすぐ辞めてしまうので人材探しが難しい。
「あの子、若いからなあ……」
「若いって言ってもよお……もう男だろ。あいつ年ごまかしてねえかな……赤子かと思ったわ」
「お前みたいな戦場帰りとシティボーイを一緒にしちゃ駄目だよ。いま拭くものと、俺の着替え持ってくるからそこ動くなよ」
「何で」
「床濡れるだろ。お前が歩いた先から俺に拭いて回れとか言うなよ」
「拭いて回れよ」
ベネディクトが笑って言うのでホッジンズは肩をすくめた。頼りになる仲間だが、年上の敬い方を知らない青年だ。
――まあ、そこが可愛くは思えるから俺も名付け親馬鹿、いや社長馬鹿。
とりあえず、タオルが必要だとホッジンズはまた自室へ戻った。クローゼットの中から大判のタオルを数枚引っつかみ、ベネディクトが着られそうなズボンとシャツを適当に小脇に抱えた。また一階に戻る。すると、先程より人数が増えていた。
「うわ……すげえ、雑巾絞った時みたいになるな」
ベネディクトの他に、三名増えている。
種類別で分けると、仕事の報告がてら避難してきた者と、仕事が終わり避難してきた者と、退勤を命じられたものの、あまりの雨風に途中で自分の身体が飛ばされそうになって出戻ってきてしまった者である。
「やめてください」
ベネディクトに金糸の髪を掴まれているヴァイオレット・エヴァーガーデンと。
「何でだよ。髪の毛濡れたって言ったから」
「ヴァイオレットの髪をさわりたいのよ、ベネディクトは。そうでしょう?」
眼鏡を拭くことを諦め、裸眼で虚空を睨んでいるラックス・シビュラ。
「違う。変なこと言うなラックス」
「あたしの髪もさー、ヴァイオレットに負けず劣らず長いんですけど」
腕を組んでベネディクトを睨むカトレア・ボードレールである。
C・H郵便社の中で創設時からのメンバーなのはヴァイオレットとカトレア、ベネディクトになるが途中入社のラックスは今では社員と社長のスケジュールを網羅しチェスのように動かしていく敏腕秘書だ。年が近い四人は会えば自然と会話が弾んだ。
「お前、お前はあれだよ。こんな所で触るとあれだろ。職場だから色々とあれだろう。風紀的にあれだよ」
「風紀的にあれって何よ!」
「そういうこと、思ってても口にしないで欲しいと私は思う。ね、ヴァイオレット」
「風紀的に……? ベネディクトの観点からすれば、私は何なのでしょう」
「ヴィー、お前は妹みたいなもんだからだ……ああ、おっさん、タオル追加頼む」
社内の若きエース達が無事会社に戻ってくれたことは大変喜ばしいことなのだが。
「……皆、絶対にそこから動かないでね。こら、カトレア! 動かない!」
四人分の身体から出る水分をすべて拭き取るのは骨の折れる作業となった。
郵便社に集まった四人は、ホッジンズの厚意で彼の自室である最上階に招かれた。
ワンフロア丸々彼の部屋に当たるので、それなりに広い。家族五人くらいは余裕で住めるだろう。調度品はダークブラウンとグリーンの落ち着いた色合いと木製品でまとめられている。特にこれといった面白いものはなく、ゆったりとした大人の雰囲気だ。ほのかにホッジンズがいつもつけている香水の匂いがする。
招かれた四人はほっと息をついた。これがホッジンズの部屋だからというのもあるが、一番はあの最悪な外の状況から抜け出せたからだろう。
ラックスを除く三名は他社の郵便社を物理的に潰す行為に加担するほどの荒くれ者な一面を持っているが、人間は天災には敵わない。
「ねえ、どうしようか。あたし達、もう帰れないね」
「どうしようもねえだろ。おっさんのとこでこのまま避難してるしかねえ」
「こんなこと初めてね。でも皆と一緒だから、その……こういうこと言ったら不謹慎なのかもしれないけれど……ちょっと楽しい。ヴァイオレットは、家が心配?」
「そうですね、花壇が」
「そこは家の人って言っとけ、ヴィー」
「ご夫妻は旅行に出かけておりますので不在です。留守中は私が預かるお約束でしたので……花壇が心配なのです。それに、あの邸宅がこの暴風雨で壊滅するなら此処の方が先に終わりを迎えるでしょう……我々の命もあとわずかです」
「仮定の話で会社を壊滅させないでね、ヴァイオレットちゃん。ほらほら皆、風邪引いちゃうからまずは着替えて。タオルは洗濯籠に入れるんだよ。ベネディクト、そこらへんにタオルを放り投げるな!」
ホッジンズに言われ、従業員達はまずは服を着替えることにした。
ヴァイオレットとカトレアは一泊二日の仕事帰りで旅行鞄に夜着の着替えはあったがラックスとベネディクトはない。身長差があるとはいえ、男であるベネディクトに服を貸すことに抵抗はないがラックスに関しては吟味しなくてはいけない。
「シャツ……、シャツ、シャツ、俺ってシャツばかりだ……」
「あの、社長。私はなんでもいいです」
「ええ……大丈夫かな」
結果、ぶかぶかの服を着ている青年と少女が爆誕してしまった。
ベネディクトは、まるで初めてホッジンズと出会った時のようだった。真っ裸で砂漠に放置されていた時の彼も、今と同じようにシャツとズボンを借りたものだ。彼のことは微笑ましく見られたが……。
「なんか……背徳感がある」
問題は、ラックスだった。
「ベネディクトはいいけどラックスちゃんはだめじゃないか? これいいのかな?」
ホッジンズは神妙な顔で皆に問いかけた。
ようやく一段落して、各々好きな場所に腰をかけて紅茶を飲んでいる。
従業員達は実家のようにくつろいでいた。中の平和な様子と相反して、外は変わらず雨が窓に当たる音と、何かが家屋にぶつかる物騒な音がしている。
「……いいのかな、とは」
長椅子に腰掛けていたヴァイオレットは首を傾げた。ゆったりとしたヴェールピンクの夜着姿は普段のきっちりとした印象の彼女を少し柔らかく優しげな雰囲気にしている。
「ヴァイオレットちゃん」
「はい」
「夜着、可愛いね」
「家の方が買って下さいました。それで、いいのかなとは。何か問題がありましたか」
「ラックスちゃんの格好だよ」
何故か話題の人は部屋の真ん中に立たされていた。皆に視線を注がれ、居心地が悪そうだ。
「あの……何で、私、中央に立たされているんですか?」
「ラックスちゃんは動かないでそのままでいて」
「……はい」
「ラックスの格好が何か。着飾りが足りないというご意見ですか?」
「何でそうなるのヴァイオレットちゃん」
「社長は我々ドールの服装もお決めになる方ですし、服飾にこだわりがあるので……簡素なシャツ姿では物足りないのかと」
違う違う、とホッジンズは両の手を横に振った。ホッジンズの言っていることは倫理観というか、これが低俗な服装をさせているのではという危惧だった。
ベネディクトはズボンをベルトで締めて対応していたが、ラックスは細すぎる腰でベルトも落ちる始末。つまり、ズボンをはいていない。必然的にシャツだけになっている。
だが、低身長が幸いしてシャツドレスに近い格好だった。
ホッジンズの危惧の説明で、皆「なるほど」となった。
益々ラックスに視線が注がれ、ラックスは赤面し始めた。
「はいてないって思うと、危ない気がするがよく考えたらスカートもそうだろ? 実際は空間が空いてるわけだが見えないから服として成り立ってる。別にいいだろ」
ベネディクトは先程まで壁際に背もたれをしながら立っていたのに、急に近寄ってジロジロと観察し始める。
「はいてないって言わないで!」
「いや、だってお前、はいてないははいてないだし……でも大丈夫だ。ぴくりとも来ねえ。おっさんもお前は対象外だろうから安心しろ。な?」
「そういうの失礼よ!」
「だから、そういう心配しなくていいって言いたかったんだよ……じゃあ俺が脱げばいいのか。そうか、俺は別にいいぞ。お前と同じ格好してやろう。いいんだな。脱ぐぞ」
「やめてやめてやめて!」
ベネディクトが笑いながらベルトに手をかけるのをラックスが拳でポカポカと胸板を叩いて止める。ラックスは耳まで赤くなってしまった。
「もうやだ! ヴァイオレット! ベネディクトそっちにやって!」
「了解しました」
「いででで、ヴィー、痛い、違う、おっさんが最初に変なこと言い出したんだろ。仲間だからそういう意識しなくていいって俺は……」
ヴァイオレットの義手に掴まれたベネディクトは、おとなしく長椅子に座らされた。
ヴァイオレットは逃げることも許さないのか、そのまま手を掴んで隣に腰掛ける。
沈黙を貫いていたカトレアはというと。
「紅茶美味しい~」
ベッドに転がりまったりとしていた。
ドールの出張帰りで疲れてもいるのだろう。目が伏し目がちだ。眠たいのかもしれない。
「カトレアは意見はないのかい。おじさん、たくさんの意見を聞いてみたいよ」
「えー、あたし?」
カトレアは面倒臭そうにこのくだらない会議に参戦した。
「うーん……これが誰かの趣味でさせられてることなら気持ち悪いって言うけど他に服がないし……タオル巻けっていうのもひどいからありだと思う。というか社長」
「ん?」
「あたしには胸が開いてる服をドールの服に指定してるのにそれ言うの? あたしのドールの衣装決める時もさ~ああでもないこうでもないってオーダーメイド店の人と言い合ってたけどそんな気遣いはしてくれなかったよね……」
少し棘のある言い方だったがホッジンズは物ともしなかった。
「カトレアはそれが似合うから」
それどころか、真剣なまなざしで、やけに自信を持って言い切る。
「カトレアは、それが似合うから。俺の見立て間違ってる?」
あまりにも堂々と言い返されて。
「え、え?」
カトレアは自分の方が間違っているのではと思考が混乱してたじろく。
カトレアが普段着ているドールの衣装は真紅のコートドレスが主体で、よほどスタイルが良くないと着こなせないのは間違いない。加えて扇情的であることも間違いないだろう。誰が見ても視線は一度彼女の胸部に行く。だが、誰が見ても一度でカトレア・ボードレールという女性を覚えられる。
「いや……見立て、間違ってなくはないけど……でも、社長だから許してるんだからね。あの衣装見せられた時びっくりしたんだから! あたし、前はああいう格好してなかったんだよ」
「いやけどね、実際、砂時計体型の人って鎖骨あたりから露出したほうが仕舞い込むより細く見えるし、綺麗だよ」
聞き覚えがない単語にヴァイオレットが明らかに疑問符を浮かべた。
ベネディクトが近くの卓に置かれていた紅茶セットを指差す。そこには茶葉を蒸らす時間を計る為の砂時計があった。豊満な胸と華奢な腰という一致を発見したのか、納得したようにヴァイオレットは頷く。
「カトレアは腰が細い砂時計体型だからそれを見せられるコートドレスにしたわけ。リボンでウエストも調整出来るから苦しくないだろう? 計算上素晴らしいラインになっているんだよ? しかもカトレア本人の陽気な素質もあっていやらしくない。此処が大事。着てる人物の人格まで配慮した衣装なわけよあれは。オーダーメイド店の店長も国内どころか、国外でも有名な人に頼んだんだよ。うちのドールの衣装、他の会社と段違いだろう?」
「う、うん」
「こういうことは言いたくないが、すごく高いんだよ」
「え、ごめんなさい。は、払う? それか、お給料から天引き……」
「いや、俺の道楽だから。花に水を与えて、花から金を貰う人間なんて居ないだろう? いいんだよカトレア。綺麗でいてくれ。俺は自分が服にこだわりがあるからこそ、女の子を低俗に仕立て上げたくないんだ。女の子が好きだからこそ、その子を素敵に輝かせたいんだ。だからラックスちゃんの普段の地味な服はちょっと不満でもあるんだよね……」
「何で社長が郵便屋になったかわからないけど、その情熱は受け入れるわ。あたし、あの服大事に着るね。でも社長、あたし頑張ってるから新しい衣装が欲しい。可愛いやつ」
二人の会話を黙って聞いていたラックスは段々上司に付き合うことに疲れたのか、無言で助けを求める視線でヴァイオレットとベネディクトの方を見た。長椅子はあと一人くらいなら座れそうな隙間がある。目が合ったヴァイオレットは、少し間を置いた後にベネディクトに席を詰めるように言うと空いた場所をぽんぽんと叩いた。ラックスは嬉しそうに隣に座る。
「ヴァイオレットは何飲んでるの?」
ラックスはヴァイオレットの持っているティーカップを覗き込んだ。
「何でしょう。台所にあった茶葉を頂きました。紅茶の種類はわかりません」
「ダージリン」
「ベネディクトは何でわかったの?」
「あいつ、ダージリン好きだから。揃えてる紅茶缶そればっか」
「私もそれ飲もうかな、長雨で体が冷えちゃった」
「ちょっとー、いつの間にかこの話終了させているそこの三人! 俺の話、聞いて」
ホッジンズが腰に手を当てて怒る素振りを見せたが。
「本題からそれていました。重要な話し合いではないと判断し、ラックスの静養を第一に考え行動しました」とヴァイオレットが正論をぶつけ。
「そしてこれは部屋着の話だよな」とベネディクトが二重の突っ込みを入れた。
兄妹のような二人の金髪碧眼は疑問の目でホッジンズを眺める。
「……う、君達二人に同時に見られると何言われても応じそうになるからやめて。でも俺は譲らないよ。あともう一品、何か必要だと思う」
「あの……社長、私はこれでいいです。服貸してもらえるだけありがたいですし。というかそんな風に大騒ぎするといやらしくないものもいやらしくなるというか」
一刻も早くこの話題を終わらせて欲しいラックスはそう言うが。
「解決法が閃きました。私がシャツとズボンを拝借し、ラックスにこの夜着を着せればいいのでは」
ヴァイオレットが巻き戻してしまった。
――ヴァイオレット!
ラックスは心の中でヴァイオレットをポカポカ叩いた。
「あ~そうよね。それならあたしも出来るわ。でもあたしの夜着だと大きすぎるかな? ヴァイオレットと同じようなネグリジェだし。今度は肩幅が問題になるかも……」
「おっさん、着るもんにこだわらないと死ぬのか? 死なねえだろ。諦めろよ」
「嫌だ。こんな日ってないじゃないか。五人で会社に閉じ込められて、出られない。これはもううちに泊まるしかないだろ? 最高のナイトパーティー、パジャマパーティーだ。良いものにしたい。ラックスちゃんの格好が気になってたら俺が楽しめないし」
ベネディクトは数秒ホッジンズの言葉に対し返答を考えたが、すぐに止めてしまった。飽きたのだろう。ヴァイオレットの方を見て尋ねる。
「なあ、腹減ってこないか? 台所見てくるわ」
「おい、無視するな」
ベネディクトが立ち上がり、ホッジンズが後をついていく。
「ベネディクト何か作ってくれるのー? やったー! 皆知らないでしょ、あいつ料理うまいんだよ」
それにカトレアが連なった。
「作るって言ってねえけど……まあ、お前が腹減ってるなら作るよ」
「私も手伝います」
ヴァイオレットが腰を上げ、腕まくりをする。義手がキイと鳴いた。
「ヴィー、お前料理出来るの?」
「多少は。軍でも料理の下拵えはしていましたし。エヴァーガーデンの奥様に……ティファニー様にも仕込まれました」
「わ、私も……じゃがいもとか、剥けるよ」
ラックスは慌てて皆を追いかけた。ぞろぞろと台所へ大移動が始まる。
「ラックス。お前、普段料理しないだろ。もうその発言でわかるよ。教えてやる」
「じゃがいも剥けたら大体のことは解決するもん……ベネディクト馬鹿にしてるでしょ」
「してねえよ、じゃがいも半神」
「ヴァイオレット! ベネディクトが私のこと侮辱した!」
「……ベネディクト」
「いででで! ヴィー! 脇腹をつつくな! お前のそのすげえ義手の一撃って可愛いつつき方にならねえからな! 普通に痛えから!」
結局ラックスはクローゼットの中から羽根が描かれた薄手の羽織をホッジンズが見つけてそれを与えられた。背の低い彼女が纏うとロングカーディガンの長さになったのでホッジンズは可愛く出来たと大変満足した。

夕方に茜色の空が見えることもなく、変わらず雨天のまま外は夜へと変貌していく。
ベネディクトがやたらと調味料が多いホッジンズの台所で有り合わせの野菜スープを作り、ヴァイオレットとカトレアが出張代筆の土産として持ち帰っていたクッキーを提供した。ラックスは会社の机の中に貯蔵していた小さな飴玉を持って来て、ホッジンズはベネディクトに言われて渋々、自室の酒棚に隠していた高い酒を出した。
「なあ、会社の連中の机漁ろうぜ。他にも食料出てくるだろ」
「アンソニーさんの机なら絶対何か入ってると思う。アンソニーさん、いつも私にお菓子くれるの……緊急時だからきっと許してくれるはず」
「受付の奴らの机の中に菓子あった。あいつら盗ったら怒るかな?」
「絶対怒りそう。でもこのお菓子……美味しいやつよ……食べたい」
育ち盛りのラックスと、昼を食べ損ねて野菜スープだけでは足りないベネディクトが更に食料を調達した。腹ペコ窃盗団が社内の従業員の机からくすねてきたお菓子は大漁と言える収獲となり、奇しくも雨の日に閉じ込められた者達による夜会が開催されることとなった。
年齢も性別も立場も違う五人は、くぐり抜けた事件の数々や過ごした時間によりもはや一つの家族とも言える状態なのだろう。よく笑い、よく喋った。
「覚えてるか、ヴィーがラックス連れてきた時。こいつ『子犬拾いました。此処で育てます。許可を下さい。さあ早く』くらいな勢いでおっさんに直談判したの。手を繋いでラックス離さないでさ、許可くれるまで動きませんみたいにつらつらと事情説明してさ。あん時のおっさんの挙動不審ぶりは本当笑った」
「覚えてる~! 『え、半神? え、拉致監禁? 軍警察に言ったのそれ?』とか言って……社長、二人の周りぐるぐる歩いて困ってた。あれ、あの年で一番面白かったわ」
「その……すいません」
「いやいや、謝らないでラックスちゃん。今はうちの主力選手になってくれてるんだからこうなるべくしてなったんだよ。ラックスちゃんは慣れない土地で本当に頑張ったよね。いつまでもうちで働いてね。というか俺のもとでね。ヴァイオレットちゃんは偶にすごいことするけど大抵間違ったことはしないし、あの時は人生経験豊富な俺でも初体験な出来事でどうしようっておろおろしちゃったんだよ。断ろうとかは頭になかったよ」
「ホッジンズ社長なら寛大な処置をして下さるとわかっていました。そう判断していないと、あんなことはしません。あの時はありがとうございました、社長」
「ヴァイオレットちゃん……ヴァイオレットちゃんも大人になったね、素敵なレディだよ……」
「まあ、保護の観点でいえばお前という実例があるからな」
「ベネディクトもホッジンズ社長に育てられました。実例です」
「え、じゃあ俺はおっさんの息子になるのか……? 会社全部くれよ」
「やだよ! というかさ、お前は今後一部は会社を担うんだからそれでいいだろう」
「……あのお話は、本当だったのですか? 分社すると……」
「おう、俺は支社長になるぞ。ヴィー、ベネディクト支社長と呼べ」
「……ベネディクトが、支社長」
「ヴァイオレット、代筆であまり会社に居なかったものね。私はホッジンズ社長のほうの秘書を継続するけど、社員の数人は、ベネディクトの方に行っちゃうのよ。すごく寂しい……と言っても国内に支社は建つから距離的には近いんだけど。でももう同じ社屋じゃないのよ」
「他の皆も……居なくなる」
「あたしも役どころ変わるって言ったっけ?」
「聞いていません」
「新人ちゃん達の教育に回されるのよ。ヴァイオレット、あんたはそのまま。まあ、あんたとあたし、どっちが教育係になるかって言ったらあたしよね。あたし面倒見いいし」
「カトレアが……教育係……」
「俺は変わらず此処に居るよ。ヴァイオレットちゃん達ドール部門は本社のままになるし、君がうちのドール部門の数字を大きく担っているから役どころは変わらない」
「それだとあたしが稼いでないみたいなんですけど」
「いや、そういうわけじゃ……俺は昔から適材適所にしてきたでしょう。カトレアなら皆のお姉さんになれると思ったからお願いしたんだよ。それに教育係になるとお給料増えるって言ったらやるって即答したのカトレアじゃないか」
「そりゃあね、いつまでドールやれるかわからないもの。年とっても出来る仕事だけど、最近山歩き辛いのよ。たぶんヒールのせい」
本当に、よく笑い、よく喋った。
くつろいだ姿でカードゲームをし、旅先の思い出を話し合い、くだらない話で腹を抱えて笑い合う。夜はどんどん更けていき、次第に外の豪雨も収まってきたが、誰も『じゃあ家に帰ろう』とは言い出さなかった。こんな日は滅多にない。皆、それが分かっていた。
「あたし、今日すごい楽しい。いつもこうならいいのに」
カトレアが満面の笑みでつぶやいた言葉が皆の気持ちを代弁していた。
楽しい宴というのは、それが最高潮に達すれば頭の隅では終わることへの寂しさがよぎる。それはこうした神様が齎した一日だけでなく、長い目で見た事柄でも通ずるものだ。
このC・H郵便社という会社そのものが、此処に居る者達にとっては宴とも言えるかもしれない。いつまでもこの夢を、楽しいひとときを、と。
夢のはじまりは、クラウディア・ホッジンズだった。彼がカトレア・ボードレールと、ベネディクト・ブルー、そしてヴァイオレット・エヴァーガーデンを拾ってきた。
「舌でなめるだけにしなさいよ。ね、どう?」
ライデンシャフトリヒに社屋を建てて、皆で会社を始めた。郵便業は民営化で競合他社も多く、最初はいつまでこの会社が続くのか誰も予想出来なかった。
「これはピリピリします」
地元客がついて、配達業で大型の契約を貰った。
「えー、大丈夫なのヴァイオレット。お酒を飲めないヴァイオレットのままがいい……」
自動手記人形の活躍が目立つようになり。
「……ですが、皆、変わっています」
「そことお酒飲めるかは関係なくない? あたしは好きで飲んでんのよ。嫌ならやめなさい」
「そうよ、ヴァイオレット」
「いいえ……少佐が、食事の席で嗜まれるので、私もいつかは覚えようと思案していました。私が瞬きをしている間に、皆どんどん変わっていきます。仕事で会食をすることも多くなりました。私も、適応します……」
途中で後に敏腕秘書となる少女が加わった。
「そっか……じゃあ私も飲んでみたい。秘書だし。会食あるし。それはたとえるならどんな味?」
それぞれの私生活で大きな変化がありつつも、こうして皆が皆、日々忙しく過ごすまでに会社の発展に貢献してきた。
「泥水に近いです。飲みにくい、という観点で」
もっと、もっと、変化はあるだろう。
「ちょっとその感想許せないわ。お姉さんが美味しいお酒を教えてあげる! 男に教わるよりあたしに習ったほうがいいもの。ラックスはまだ駄目よ」
きっと、もっと、運命は曲がっていくだろう。
「えーっ!」
「ベネディクト、違うの持ってきて。あと何か割るやつ」
人が集まるというのは、出会いがあったというのは。そういうことなのだ。
「へいへい……」
ベネディクトは長椅子から腰を上げた。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンに酒を飲ませてみようという悪巧みを考えたカトレアの企みに、当の本人が乗ってきたせいでとばっちりだ。
「お、おわ。おっさん。こんな所に居たのか」
「居たのかって……此処、俺の家」
台所で出くわして、ベネディクトは思わず素っ頓狂な声を出してしまった。にやにや笑いながら歩いてきたのを見られたのが原因かもしれない。ニヒルな態度をとってはいても、仲間と過ごす時間が嬉しいのだ。
「……わ、わかってるよ。便所長いなと思ってたんだよ……」
「葉巻」
ホッジンズは台所の小窓を開けて、葉巻を吸っていた。女性陣は軒並みこの匂いを嫌うので彼が吸う姿を見せることはほとんどない。急に立ち上がって居なくなったと思ったら、隠れるように喫煙とは。
――こいつが吸ってる時って、落ち着かない時なんだけどな。
今日ほど、仲間内でくつろげる日は無いだろうに。
「ほら、外見てみろ。嵐の後は静かなもんだな……凪のようだな。あんなに煩かったのに」
ホッジンズは少し酔っ払っているのか、顔が赤かった。
「そうだな……なあ、酒追加。もっと飲みやすいのないのか」
「え、何で。ラックスちゃんに飲ませたら駄目だよ」
「ヴィーに飲ませたいんだと、カトレアが。まあ、良いんじゃねえの。そろそろ覚えてもいい頃だと思うし。あいつと酒飲む席とか、今度いつあるかわかんねえし……仲良い奴が教えた方がいいだろ、こういうのは」
「ええ……早いだろ。どうしてもって言うなら紅茶にラム酒一滴でいいんじゃないの」
「それ酒って言えるのか? もう少し度数高いのにしようぜ」
ホッジンズは苦笑いをした。
「おいおい、兄貴分のお前がそんな……」
「兄貴分だからだよ。だって、後輩だって増えてる。うちのドール部門の看板はあいつになるだろうし。でけえ仕事に会食はつきものだ。飲ませたがる奴に絡まれる前には……」
「……それ、お前に支店長やれって言ったことと関係してるの?」
少し、冷え冷えとした声が社長の口から漏れたのが聞こえて、ベネディクトは目を瞬く。
「いや……まあ」
「あの子はまだ子どもだし、そんな場所には俺が必ずついていくから大丈夫だよ。酒を教えるなんてまだ早い。駄目駄目」
「あいつが子どもって……いやそういう部分もあるけど、もう違うだろ」
「子どもだよ、お前もカトレアもラックスちゃんも俺にとっては皆子ども。俺が目を配っていないとすぐこういうことするんだから……」
やれやれ、とホッジンズが紫煙を吐く。その、大人のような様にとてもちぐはぐなことだが少しの幼稚さが垣間見えて。
「それ、これからもやろうとしてんのか? 無理だろ、現実見ろよ」
ベネディクトはつい噛み付いた。
「……」
ベネディクトの言葉は、間違ってはいなかった。
C・H郵便社は企業として急成長していた。
昨年にサルヴァトーレ・リナウド率いる郵便社が郵便事業から撤退したことが大きい。
既にライデンシャフトリヒで郵便事業の要として君臨している。
此処ライデンシャフトリヒに住む人達はC・H郵便社を指名する人がほとんどを占めるようになるだろう。業務の多忙化、従業員の確保による控室や休憩所の問題もあり本社を移転する話も出ている。
「だって俺もお前もすげえ忙しくなるんだぞ。本店は自動手記人形の部門が主幹機関で、俺のとこが通常郵便だろう。人教えたり、俺も配達に出たりしてさ。お前なんて一番忙しい役どころだよ。何もかも、全部お前のとこに回される。そんな中で、今までみたいに近い距離で従業員と、なんて……」
巨大化した企業が分社され、此処に居る誰かがその支社の切り盛りをするのは自然な流れだ。ベネディクトはまだ若いが人を集める力はある。補うべきところは本社のベテランを回してやれば、出来なくはないだろう。出来る、と判断したからホッジンズからこの話が出た。
「俺を交えての定例会議とかは本社でやるし……そんな、会わなくなるなんてことはない」
「皆それぞれ役職も立場も違う。会わなくなる。それはおっさんもだろ」
「……仕事くらい調整出来るよ。偶にはこうして社員同士でくつろいだ時間が持てるように俺も全体の運営頑張るし……」
「おっさんが頑張ってもヴィーはあのいけすかねえ軍人とできてんだし、そのうち結婚とかしちまうんじゃねえの? 知らねえけど……だからいつも見てやるなんてそもそも……」
「……」
「なあ、黙り込むなよ」
いま、突きつけられている事柄は、ホッジンズが考え、準備をしているにも関わらず直視したくないことだった。それを彼に言われた。
「ホッジンズ、なあ、おっさん」
何もかも、最初から一緒にやってきたベネディクト・ブルーだからこそ、言えることだった。
「あのな、変に受け取るなよ。これ意地悪で言ってんじゃないんだぞ。おっさんが自動手記人形部門を本社に置いたのはヴィーを見ていてやりたいって気持ちが大きいんだろ。わかってるよ。お前にとってあいつは特別だもんな」
「……違うよ、俺は」
「でもよ、あいつもいつまでも子どもじゃない。お前に何もかも教えてもらって働きだした頃とは違う。いつかは手から離れる存在なんだから。本当の娘でもねえ、恋人でもねえ。じゃあ何だっていったらやっぱ社員だ。いつかは別れる。それを今の内から覚悟しとかねえと、軍人野郎に嫁いで会社辞めさせられたりとかしたら立ち直れんのか?」
――立ち直れんのか?
その問いを、ホッジンズは心の中で反芻してみた。
ベネディクトは痛いところを容赦なく撃ってきた。銃の名手だ。狙いが的確で、出血は胸を押さえたくなるものだった。ホッジンズはその問いに。
――ヴァイオレット・エヴァーガーデンと離れることになって、立ち直れるのか?
素直に思った。
――わからない。
本当にわからなかった。
縁というものは一度繋がれば、中々途切れないものだが、現実の時間や忙しさは容赦なく『友人』という存在を遠くさせる。
――わからない、くらい、俺は。
きっと五年後は、こんな日は存在しない。
雨の中、帰る場所は他の所に変化してしまっているだろう。
――あの子だけじゃない、お前のことだって、皆が。
そもそも会社そのものに所属していないかもしれない。
誰かと恋をして、愛を育み、人生の場所を『家』へと移す者も増えるはずだ。
二十年、三十年後、その時は働くことすら困難となっているかもしれない。生きていない、そんな可能性もある。
それが誰よりもわかっているのは年長のホッジンズだった。
――俺の方が、先に逝く。
だからこそ。
「わからないよ」
わからない。
見たくもない。
考えたくない。
「俺……大切なものが多すぎて、もう身動きとれないんだよ。あのな、お前……お前笑うかもしれないけど……若い頃より、年を重ねてからの方が傷つくのが怖くなるんだ。頑張って、治す元気とかなくなってくるんだよ。しんどいんだ。でも」
日々、自分のことを『おっさん』と言う目の前の若者は笑うだろうかとホッジンズは思ったが、ベネディクトは無表情だった。
「……でも」
ただ、聞いている。こういう時に、ちゃんと聞く姿勢はどこか。
――ヴァイオレットちゃんみたいだ。
「……でも俺が一番動かなきゃいけないのはわかってるよ。俺がやりたいことに皆を巻き込んでるんだ。だから、やることはやるよ。お前にも頼んだ、信頼してるよ。お前に任せた。でも……それと、あの子への、お前達への気持ちはさ」
「……わかった」
「また別だろ? お前、さ……意地悪いよな。俺は育ての親みたいなもんなのに……この寂しさとかわかってくれてもさ……」
堰を切ったように話すホッジンズに、ベネディクトは。
「わかった」
止めるようにホッジンズの口元に手を当てた。
「……」
ぴたり、と時が止まる。
彼が、親のような彼が狼狽える姿が堪えたのか。
「悪かった」
彼がいつの間にか、自分が守ってやらねばならないほど、荷物を抱えていて。
それを自分が「彼だから」と放置していたことに気付いたからか。
「悪かった。今のは、俺が悪かった」
「……」
「言うにしても今日じゃなかった。そうだろ?」
「……お前、いま俺のことかっこ悪いと思ってるだろ」
「いや、お前は元々そんなにかっこ良くはないから」
「嘘だろ、俺は自他ともに認める美青年……いや美中年だぞ」
「かっこ良くはないけど、まあ、そこが良いんだよ。そうだろ?」
「……」
「俺のクラウディア・ホッジンズは、かっこ悪いところが、かっけえんだ」
ベネディクトが子どもをあやすように言うので、ホッジンズは少し腹立たしく思いながらも『うるさいよ』と言って、くしゃりと笑った。
雨は様々なものを降らせる。
空から滴る雫が自分を溺れさせていく様が、否応なしに何かを考えさせるのだ。
一晩明けて、あまり睡眠がとれなかったクラウディア・ホッジンズは重たい身体を起こした。
私室のベッドを覗くと、ヴァイオレットとカトレアが同じ毛布にくるまって寝ていた。
長椅子ではベネディクトが笑ってしまいたくなるようないびきをかいて転がっている。
ラックス・シビュラは何処だろうとホッジンズは探した。
三階から二階へ、二階から一階へと降りていく。
「……」
何処にも見つからない。まさかとは思いつつ、玄関の扉を開くと通りからこちらに歩いてくる少女の姿が見えた。
昨日乾かした服は生乾きだろうに。そうまでして外に出て何をしたかったのか。腕に抱えているものでわかった。
「あ、社長」
ラックスは、たくさんのパンが入った紙袋を持っていた。小さな彼女の顔が見えなくなっているほどの量だ。
「ラックスちゃん……もしかしなくてもそれ、朝ごはん買ってきてくれたの?」
思えば、この娘はいつも誰かの為に何かをしようとすぐ動いてくれる人だった。
気遣いが出来ると言ってしまえばそれだけだが、本人の心根の優しさがなければこうはならない。ホッジンズが秘書に指名したのも、何も仕事が出来るからという理由だけではなかった。
「……優しいね」
「はい、すごい優しいですよねパン屋さん。ちょっと早起きしすぎたので外の様子を見がてら散歩してたらちょうど開店前のパン屋さんが準備してて……美味しそうだなあって見ていたら入りなよって」
「あ、うん……」
「朝お腹空いてる人の為に焼いたんだよって……もう感動して、売ってくれてありがとうございますって言ってたくさん買ってきちゃいました。角曲がった通りのとこのパン屋さんです」
「……さすが、俺の秘書。領収書ちゃんと貰った?」
その言葉に、ラックスは花がほころぶような笑顔を見せた。
「ふふ、当然です」
色々考え込んでしまった夜を過ごしたホッジンズにとって、それは染み入るような笑顔だった。喉の渇きを覚えた人が飲む、泉の水のように。
「……」
ホッジンズはラックスの荷物を何も言わず全部持った。
「……俺、ラックスちゃんがうちに来てくれて、しみじみ良かったと思うよ」
「こういう時だけですよね」
「いつもだよ。いつも。ラックスちゃんはまだまだ若いし、うちで働いてくれるだろうし……こんなにも良い秘書だし……俺ってライデンシャフトリヒいち幸せな社長だ」
「終身雇用してくれますか」
「え」
「駄目ですか」
「いや、いいけど。それ俺と一生働くことになるよ?」
「……いけないことですか? 私、他に行く当てありませんし」
無垢な瞳で尋ねられて、ホッジンズはたじろぐ。
「ベネディクトみたいに会社欲しいとか言いませんよ」
「いや、それ……ラックスちゃんに言われたら俺あげちゃうかもしれないから言わないで。ははっ……勿論……いつまでも、いつまでもうちで働いて下さいよ、俺のところで。あれ、これなんか結婚の誓いっぽいなあ……この際、将来俺と結婚する? なんて……」
つい、ぽろりと出た軽口に、言ってからまずいと思ってラックスの反応を見たがきょとんとしてこちらを見返していた。少女を困らせるおじさんの図になっている。
「いや、冗談! でもほら。俺と、付き合いきれるの、ラックスちゃんくらいかもだからこういう軽口がね……け、汚らわしい目で見てないよ本当に! 年が違いすぎるからね! こういう冗談も言い合えるくらいには、な、なってるよね?」
「……」
ラックスはほんの数秒だけ、考えてみせた。
「ふふ、わかってますよ。冗談ってことくらい。でもないです。結婚はないです」
そしてはっきりと断った。
「あ、はい」
受け入れられても戸惑っただろうが、ホッジンズは心なしか肩を落とす。
「でも、社長が働けなくなったら私は介護をする覚悟でいますよ」
「すごく……辛い現実をいきなり突きつけないで」
「え、そうですか? 私からすると……これ、かなりの愛の深さなんですが。社長は私を受け入れてくれた、初めてのまっとうな大人ですから。一生尽くしますよ」
「……ラックスちゃん俺のこと結構好きだよね。やっぱり俺と結婚する?」
今度は、ちゃんとにっこり笑ってラックスも言い返した。
「持ち帰って検討しますね」
「すごい、会社の商談みたいな返事」
「だってからかうから……私がまだ、恋も知らないって知ってるくせに」
――まだ恋も知らない。
その言葉の破壊力に、ホッジンズは軽々しくプロポーズしたことを少し反省した。
「じゃ、あと五年後くらいにもう一回言うね。俺は更にナイスミドルになってるはず」
「そう言って社長は来週には美女と旅行に行くんですよ。私、知ってます」
なんだかんだと、長い付き合いになりそうな二人はおしゃべりが弾んだまま社屋に戻った。
二人で皆の朝食を用意してあげようと、ラックスとホッジンズはそのまま一緒に台所に立った。調理されたパンの他に、飲み物やサラダは必要だろう。ただの簡単な下拵えだが、一人でする作業と違ってそれだけでも何だか楽しいとホッジンズは感じた。
「社長は砂糖一個、レモン輪切り一枚ですよね」
「ラックスちゃんは砂糖二個、ミルクを添えてでしょ。俺も知ってるよ」
パンを皿に並べながら、紅茶も茶葉を淹れて蒸す。台所の小窓から見える風景が雲ひとつ無い青空のせいかいやに眩しかった。
「おはようございます」
朝日の中で次に現れたのはヴァイオレットだった。柔らかな金糸の髪が少しだけ乱れている。ホッジンズは自然と手が伸びた。
「おはよう……寝癖ついてるよ。ヴァイオレットちゃん」
「失礼致しました……」
自分の頭を撫でるホッジンズを、ヴァイオレットは少しだけ眩しそうに見返す。目が少しだけ充血している。あまり寝られなかったのかもしれない。
「おはようヴァイオレット。カトレアとベネディクトも起きた?」
「先程まではベネディクトも起きていたのですが、私が寝台から起き上がるとカトレアの隣で二度寝を開始していました」
「それは風紀的にあれね。注意してきます」
ラックスが小さな肩をいからせながら歩いていくのをホッジンズは少し笑って見送る。
それからヴァイオレットに視線を戻した。撫でて直したはずの寝癖はまた戻っている。
朝の煌めきを浴びた台所に、二人でこうして居ることが何だかとても不思議に思えた。
この優しい時間に、ふたりきり。
あと、何回あることだろう。
「……」
せっかくだ。何か、話そう。そう思ったが、ホッジンズは言葉が出なかった。話題がないわけではない。食卓に飾る花が欲しいだとか、今日はきっと昨日来店出来なかったお客様が多いなど、話すことはいくらでも用意出来る。
「…………」
ただ、この朝を壊したくなかった。
一声発しただけでも壊れてしまいそうな気がした。
ヴァイオレットがそこに居る。碧い瞳をこちらに向けて、見ている。
もうお互い黙っていても苦痛ではない。そういう仲だ。
まだ少し眠たいのか、ぼんやりとしている彼女。
この優しい時間の中に居る彼女をもう少し見ていたい。いつもなら常に覚醒状態のような彼女が此処までゆったりとしているのは、彼女が心から落ち着ける人達と居たからだとホッジンズは信じた。自分も、その安心感の一役を買えたと。
――君は、いつか忘れるのかな。
いつかは、ヴァイオレット・エヴァーガーデンの人生の中でクラウディア・ホッジンズが占める位置は小さくなっていくだろう。
――俺は、大きくなるばかりなのにね。
何度も病院に行ったこと。車椅子を押したこと。筆記帳をあげて文字を教えたこと。
――きっと俺は忘れられない。君とのこういう時間、日々、すべて。
戦争で戦うのを止めなかったこと。使える、と思ったこと。
――俺は忘れられない。
ヴァイオレットの義手を隠せるような、それでいて、彼女が一番美しく見える衣装を贈ったこと。
――この朝のことも、きっと俺は忘れないだろう。
大きな嵐に、皆を巻き込んで飛び込む前の、静かなこの朝のことを。
ホッジンズはまたヴァイオレットの髪に触れた。
ベネディクトには触るなと言うのに、ホッジンズには、まるで猫がするように少しだけ手に頭を任せてもたれた。
――嗚呼、抱きしめてしまいたい。
恋慕ではない。けして違う。
ただ、もし、もし自分の娘だったら。
こんな日の、こんな朝。おはよう愛しい人と、簡単に抱きしめられた。
「……夢を見ました、ホッジンズ社長」
寝起きの、少しかすれた声でヴァイオレットは突然つぶやいた。
「夢……?」
もう少女ではなくなってしまった、美しい女性が子どものように夢を紡ぐ。
「はい、夢の中で……社長は服屋を営んでいました」
「ふふ、そうなんだ」
「私は服を作れません。服を作れないならいらないと、ホッジンズ社長に言われて……」
「俺、ひどいな」
「靴磨きでも、塵掃除でもなんでもします、働かせて下さいと言っても聞いて下さらず……」
夢の中のホッジンズは現実と違い、ヴァイオレットとの別離を選んだらしい。
「……ヴァイオレットちゃんは、それでどうしたの」
「何度も頼みました。ですが、何度も断られました。お店の前で許して下さるまで立っていようと思いましたが、昨日のような雨が降って」
「うん……、それから?」
「ギルベルト少佐が……迎えに来て下さって、もう帰ろうと仰るのですが」
「……うん」
「私は明かりも消えてしまったお店の前で社長が出てきて下さるのを待ちました」
「うん」
「待てども待てどもホッジンズ社長は出て来て下さらず、途中で通行人の方が『この店は移転した』と言うのです」
「さっきまで開店してたのに」
「夢ですから……それで、それで私は場所を聞いて追いかけました。途中でベネディクトとカトレアも出てきましたが、二人は他に用があるらしく、後で追いかけると言い……ラックスは、ラックスだけはホッジンズ社長に最初から雇われていたので、私を再雇用してもらえるようラックスも頼んでくれるのですが、社長はやはり駄目だと言いました」
「うん……」
ホッジンズは、急に何もかも、息苦しいくらい切なくなった。
「………それで、ヴァイオレットちゃんは……?」
手を。ヴァイオレットの方に伸ばす。
「私は、店外からショーケースの向こうに見える店の中を見つめ続けました」
頭ではなく、金糸の睫毛を妖精の羽根のように震わせている瞳へ。
「その中には、私の知らない方や、知っている方、様々な方が現れては消えていき……お店は賑わいを見せていくのです」
そこには静かに、薄く海が出来ていて、ホッジンズの人差し指が触れると海はとけて消える。
「少佐が、何度目かのお迎えをして下さって、言いました。そこに居られると困ると社長が仰っていると。けれど、一度でも離れてしまったら私はこの中には入れて頂けないことだけはなぜかわかっていて……頷くことが出来ないのです。ですが社長を困らせたくはなく、判断がつかず……少佐にご指示を頂こうとするのですが、いつの間にか少佐も消えてしまいました」
海は、雫は、真珠の珠となり頬を滑り落ちる。
「私は、私は、泣いてしまいました」
ヴァイオレットは、まるで夢の光景がいまそこにあるかのような視線で空を見つめた。
「こんな風に泣くようになってしまったと、私は……」
「…………うん」
「だからホッジンズ社長は雇って下さらないんだと……少佐も、呆れて消えてしまったのだと」
「……うん」
「すると見かねて、社長は外に出てきて下さいました。社長が病院にお見舞いに来て下さった、戦後のあの日と似ていました。私は泥や雨で汚れていて、あまりの姿に驚いていらっしゃいました。そして言って下さいました。『まずは針を持つことから始めようか』と。その手ではきっと大変だろうから、だから新しい仕事には誘わなかったと聞かされて、私はとても安心しました……では、では……」
ヴァイオレットは言葉を一度途切れさせた。
ホッジンズが、たまらなくなり、彼女の小さな頭を胸に押し込めるように抱擁したのだ。
抱きしめられながら、まだ夢を見ている瞳でヴァイオレットは言う。
「私が努力すればきっとまたお役に立てる。そう、確信したからです」
腕の中で、ほっと息をつく吐息が聞こえてホッジンズは自分の立場も、ヴァイオレットの立場も忘れて強く、強く掻き抱いた。
「役に、立ってるよ……俺の、何かが、君を不安にさせた?」
自分の声が涙声になっていることに気づき、ホッジンズはその事実に涙を溢れさせる。
――嗚呼、俺は、馬鹿だ。つられて泣いてしまった。
いい大人なのに、娘のように思っている女の子が泣いたからつられて泣いた。まるで子どものように。此処は、年上らしく振る舞うべきところなのに。
「わかりません」
「でも、今までそんなこと、あったかい……? そんな夢……不安だから見たんだよ」
「不安……そうなのかもしれません。昨夜、私が居ない間に色んなことが進んでいたことを知り、私は少なからず、動揺をした気がします」
「……ごめんね、勝手だった。創設から……一緒だったのにね」
「いいえ、私は不在が多いですし、その中で何かが決まるのは当たり前です。私は社員です。ホッジンズ社長の判断は正しいと感じています。社員は会社の変化に対応すべきです。私の周囲が大きく変わろうとしています。変わらず置いて下さる社長に感謝しています……ですが」
「……けど?」
「ですが私はそれに対応出来るかわからないのです。ギルベルト少佐のこと、会社のこと……ベネディクトが違う社屋に行ってしまうこと。そうしたことを、考えると……」
「大丈夫だよ」
「考えると、私は、いま優先すべきものが増えすぎていることに気付いて」
「……ヴァイオレットちゃん」
「優先順位が……」
「大丈夫だ……」
「私はいかなる状況にも対応し、生きていかねばならないのに」
――ヴァイオレット・エヴァーガーデンは。きっと、そうしないと生きていけなかった。
何時も、いかなる時も。
周囲の状況に戸惑いながらも対応し、自分が出来ることを活かして居場所や庇護をしてくれる大人を探して生きてきた。迷うことは許されなかった。獣にとって、迷いは死だ。
ヴァイオレットは無償の愛を知らなかった。いまようやく、努力で得ることが出来たこのあたたかな場所は、しかし時間の流れにより急速に変化しようとしている。
走って、走って、走って。ようやく見つけた巣が壊れていく様を獣だったヴァイオレットが見ている。そうして、また走る準備をしなくてはとわかっていても。
息切れして動けない時は来る。
ヴァイオレットは獣から人になった。
人の部分と獣の部分は、それらは同居して偶に顔を出す。獣の時なら、ただ生きるだけなら場所がどう変わろうが気にしなかった。
けれど、より良く、大切なものを抱えて生きていくのは困難で。
彼女は感情が増えてしまった故に、人となったいま。
「……私は、戦えます。いつだって、お役に立ちます。ホッジンズ社長、私がいま見せた姿はお忘れになって下さい」
ほんの少しだけ、未来が怖い、ただの女の子になっている。
「お忘れになって……ください」
誰がそうさせたか。
始まりは、ギルベルトだろうが、仕上げたのはきっと此処に居る皆だ。
「……嫌だ、忘れないよ」
ホッジンズの言葉に、ヴァイオレットは困ったように眉を下げた。
「そんな顔しないで、意地悪じゃない。その心配はいらないってことを言いたかったんだ。君は確かに弱くなったかもしれないけれど。それは悪いことかな。君は俺と出会った時に何も持っていなかった。ブローチすら、ね……? でも今はたくさんの物を持っているだろう。長い間旅をして、その分だけ抱えるものが増えて、困ってしまうのは当たり前のことなんだ」
ホッジンズは、カトレアとベネディクト、ラックスが戸口の影から驚いたようにこちらを見ているのを知りつつ、そのまま続けた。
「あのね……人生は旅なんだ。ヴァイオレットちゃんは、旅をするよね」
自分の不安など、もう忘れてしまった。
もう、そうしたことで苛立ったり、誰かに無性にすがりたい気持ちは失せた。
「君は人より少し、荷物が少ないまま旅を始めたから、いま少し重くなってしまった鞄をどうしたものかと眺めてる。どれを捨てたらいいのかわからなくなってるんだ」
いつもの自分に戻れたと、心の底から思えた。
旅の中で戸惑う、やはりまだ幼い彼女を抱きしめて、ようやくそう思えた。
「服も必要だ、お金も勿論、良い靴は欠かせない。そうだ、傘もね。鞄の中を眺めて、やっぱり捨てられるものがないとわかると困るよね。重くて大変だから捨てたいのに。どうしたら良いと思う?」
まだ、役に立てる。
「……筋力を……鍛えて……いえ、義手の精度を……」
まだ、まだ、必要とされている。
「お馬鹿さんだね……どこかに預けてまた旅を続けるか、誰かに半分持ってもらいなさい」
たとえそれが、あと僅かな時間でも。
「たぶん、ギルベルトが荷物を半分は持ってくれる。持ちきれない分は、俺が此処で預かるよ。俺はライデンシャフトリヒにずっと居るから。ヴァイオレットちゃんが何処に行こうが、俺は此処に居て君の帰りを待つし、いつ来ても歓迎する。鞄の中身も喜んで預かる」
――いつか、君が、一年に数回しか俺を思い出さなくなっても。
「いいかい、何時も、困ったら俺が此処に居ることを覚えていなさい。そうしたら君は何処へだってまた旅に出られるから」
――俺は一年のいつでも、君を迎えられるようにする。
「……荷物を実際に置いていくのですか?」
――俺はそれが出来る男だし、君はきっとそれが必要だ。
「ううん、違うよ。これはね、思い出の話なんだ。ただ、知っているだけでいい。俺が、此処に居る。それが君の荷物を軽くする方法だよ。困った時に、ふと、思い出して。それできっと、今の不安は少しは減るから。あのね、結局のところ……人が帰るところは場所じゃなくて、『誰か』なんだ。君はわかっているはずだ。ギルベルトが居るところなら、どんな戦場だってついていっただろう。いつかね、そう、いつか……もしかしたら君は自動手記人形を辞めるかもしれない。ライデンシャフトリヒに帰ってこないかも」
――いつかなんて永遠に来なくていいけれど。
「でも、君のいまの思い出は俺の所にあるから。俺がその象徴になるから。だから、俺の可愛い君は……いつでも思い出を開けることが出来る。いまこの瞬間の時間が懐かしくなった時に俺に会いに来なさい。俺はいつでも此処に居る。君を待っている。君は、いま『寂しい』んだ。でも……ヴァイオレットちゃん。俺が居る。寂しくなんか、ないよ」
――君に覚えていて欲しい。
「……よく、わかりません……ですが」
――俺は君を、いつも守っている。
「貴方は、いつも私を導いてくれました」
――君の帰りを待っている。
「けして、お言葉を疑いません」
――此処で、待っている。
「…………ホッジンズ社長、ですが、一つだけお願いがあります」
――旅の終わりには、きっと顔を見せて欲しい。
戸口の陰からのすすり泣きには後で対処するとして、ホッジンズはもう少しだけこのままで居ることにした。彼女の恋人が見たら怒りそうだが、そうする権利くらい、多少はあるだろう。なにせ彼女はクラウディア・ホッジンズの可愛い社員なのだ。
殊更優しい声音でホッジンズは尋ねる。
「何だい、ヴァイオレットちゃん?」
ヴァイオレットは、瞬きをしてホッジンズを見上げた。最後の雫が、瞳から零れる。
「もし、もし……社長が郵便社を辞めてしまい、違うことをされる時があれば」
「うん」
「私を呼んでください。何処へ居ても、駆けつけます」
「……うん」
「必ずお役に立ちます……そうでなくても、社長の荷物が多くなりすぎて、荷運びが必要な時はお呼びください。馳せ参じます」
「本当?」
「はい。私も、社長の荷物を持ちます。ご存知でしょう。私は力持ちなのです」
「……ふふ、うん、きっとね。いつか荷物の意味がわかるよ。あのさ……」
その一滴が大きな始まりになるとは誰しも思わない。だが後になって、大いなる意味を持つものだ。降り続ければ、大いなる恵みと災いも呼び寄せる。
『やあ、俺はホッジンズ。君はなんて名前なのかな?』
『……』
『無口だなこの子』
『彼女は……まだ名前がない。孤児で学も無い。言葉も知らないんだ』
『お前、それは酷いだろ。こんな美人さんなんだ。ふさわしい名前をつけてやれよ』
「ヴァイオレットちゃん、俺と出逢ってくれてありがとうね」
愛は、まるで、雨のように。
ぜひこの機会に『ヴァイオレット』を読んでみてくださいね!
KAエスマ文庫『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』シリーズ刊行10周年記念企画特設ページ
https://www.kyotoanimation.co.jp/books/violet/special/10th/