
『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』
シリーズ刊行10周年記念企画
エピソード無料公開 第11弾
公開期間:11月28日~12月26日
「夢追い人と自動手記人形」
おそらくは、どこの大陸にも一つはそういう街があるだろう。
行き場のない孤独な少女が。
大きな夢だけを持つ少年が。
少しの荷物と路銀を持って、家を飛び出した先に向かう街。
夜行列車に乗り込んで、自分の人生を賭けた戦いを挑む場所。
実際にその地を知る者も、知らない者も、夢を叶えたいならそこへ行けと言う。
夢追い人は、『アルフィーネ』に行けと。
大陸の西側に位置するその街は、綺羅びやかに存在する。
西側にありながらも、大陸戦争には参加しない中立国であったフィーネ共和国の領地であり、首都でもある。アルフィーネは元は職人の都であり、共和制以前の時代にフィーネの王族が抱え込んだ技術者を住まわせた場所だった。工芸から武器までありとあらゆる職人を揃えたその街は大陸でも異彩を放ち、古来より『それが成し得ないかどうかはアルフィーネに聞け』ということわざすら存在した。
これがアルフィーネの起源である。
職人の都は時代と共に商人の都へと移り変わっていった。
腕の立つ職人と、その職人の品を高く売りさばく商人は切っても切り離せない仲だ。
才ある者が居たとして、それを活かすのはその人自身とは限らない。
自分のことを何から何まで出来る人というのは少ないからだ。
また、人を活かすということも一つの才能であり、商人というのはその分野に長けている。アルフィーネは職人と商人が手を組むことで、他の何処でも叶わない品揃えを誇る商業大都市へ発展することに成功した。中心部で毎日開かれる市場は、古来より変わらない活気に満ち溢れている。
大きな爪痕を大陸に残した大陸戦争、その終焉の後に、更に発展した分野がアルフィーネには出来た。戦後、傷ついた人々が新しい時代を求めた結果、今まで以上に注目されることとなったのは大きく括りをするのなら『表現』という分野だ。
それは演劇に、小説、絵画、音楽。ありとあらゆる『表現』を商人の力も借りて世界中に名を轟かすということ。ただの娯楽ということなかれ、それは人を動かす力がある。
夢の街『アルフィーネ』、正にいまが華とも言える街だ。
だが、陽の当たる場所があれば、陰る場所もある。夢の街だからこそ明確に夢を掴んだ者とそうでない者の格差が目に見えてわかってしまうものだ。
アルフィーネの街はぐるりと高い塀に囲まれた円形の都市だ。
一番街、二番街、三番街と大きく三つに区画が分かれている。
一番街はわかりやすくいえば金持ちの街だ。
庭付きの戸建てが密集している地帯。羽振りがよい者しか住めない。だが、頻繁に空き家にもなるのでアルフィーネの盛者必衰の理がわかりやすい場所だ。常に栄光を勝ち取れるものなど実はそう居ない。
二番街は商店が立ち並ぶ街の中心だ。ずらりと立ち並ぶ職人の専門店、朝五時から始まる市場、劇場、本屋、服屋、飲食店。この街に観光で来るならぜひ立ち寄りたい。駅が面している区画であることからアルフィーネの玄関とも言える。
そして三番街。一番街と二番街は陽の当たる場所であれば、三番街は陰る場所だ。
街の玄関である駅からもっとも遠い場所。それぞれの区画は明確に分かれているわけではないが、建物を見ていくと自分がいま何番街に入ったかわかるようにはなっている。
三番街に近づけば近づくほど美しい外観の建物は一つ、また一つと消えていき、築何年かわからない古い家が多くなる。一戸建ては少なく、集合住宅が猛威を振るうように隣接し、生活感のある人々の風景が見られる。
アルフィーネは街の至る所で増築や改築、工事が繰り広げられ、一つの迷宮都市のように入り組んだ作りをしているので、たとえ街の中をただ移動するだけでもすぐ迷子になってしまうような街だ。この複雑な都市で、こんなにもごった煮のような建築をしているのは三番街だけ。素敵な庭も、優雅な喫茶店も、ドアマンが迎えてくれるホテルすらない。
今日の夕飯の香りがそこかしこで香る場所。猫のあくびも犬の遠吠えも、子どもたちの笑い声も、すべてが筒抜け。それが三番街。
そんな街の、とあるアパルトマンから一人の娘が歩いて出てきた。
ノーブルな青いケープを羽織った品の良い少女だ。背筋がピンと伸びた歩き方をしている。アパルトマンは枯れた蔓草が壁面を覆う古い建物だ。住民のマナーが悪いのか、出た瞬間から少女は誰かが外通路に置いた物につまずいて転びそうになる。
先住の人々が置いていった謎の壺や観葉植物、かつては何処かの赤ん坊が乗っていたおもちゃの木馬を避けて、黒のアイアンの階段をヒールのカツカツという音を鳴らしながら下りる。外は初冬を迎えていたが、今年は暖冬の為、まだ雪も降っていなかった。家を追い出されたのか、家に居たくないのか、ぼうっと煙草を吸っている人や、誰かが作ったベンチに座って鳥に餌をやっている人達がまばらに居た。少女は元気に挨拶をしていく。
「レディ、今から仕事なの? こっちはこれから寝るところだよ。仕事頑張って」
恐らくは夜の仕事であろう艶やかな女性には笑顔で手を振って返事をし。
「レディ、今晩こそ一緒に過ごさないか。俺、今日は隣に寝る女がいないんだ」
いつも女性を切らしたことのないジゴロの脇に肘鉄をして走る。
走ると長いダークブロンドの髪が波打つように揺れる。年は十六歳くらいだろう。こんな大都会で、アパルトマンから一人で出て行き、仕事をしにいく。自立した女性が台頭してきた昨今、そう珍しくはないが、幼さがまだ残る顔立ちをしているのでつい心配で声をかけてしまう。 レディと呼ばれた少女はそういう少女だった。
垂れ目の大きな瞳、小さな鼻が可愛らしい。それくらいが特徴といえば特徴。大人から見れば、何処にでも居る女の子。とても特別な何かを持つようには見えない、彼女が何かを頑張っても、『それよりも将来を考えろ』、『結婚でもしたらどうだ』と助言をされてしまう女の子。
そういう、ありふれた女の子だった。
レディ、というのもこのアルフィーネで親しくもない女の子を呼ぶ通称のようなものだ。
夢を見せる、夢を売るこの街では人の入れ替わりは激しい。それでも定住している人たちは新しい住人の名前を覚えようとせず、登場人物に役目を振るように通称をつける。
女の子は「レディ」、男の子は「ボーイ」、何者でもなければ「ドリーマー」と。
彼女も住民達に自己紹介はしたはずだ。けれども覚えられていない。
何度もレディと呼ばれる内に、本人もこの慣習を受け入れてアルフィーネの「レディ」の一員に甘んじることになった。
街を歩けば、有名な歌手や作家、俳優の名前がでかでかと書かれたポスターを山程見ることが出来る。此処では、名前を呼ばれる為には大成しないといけない。
ダークブロンドの髪のただの「レディ」は三番街を抜けて、二番街へと向かおうとしていた。昼間とはいえ、三番街を若い娘一人が歩くのは緊張が走るものだ。先程の軟派な男など可愛いもので、もっと恐ろしい人達は多く居る。だからレディは小走りで移動した。
助けてくれる人や声をかけて挨拶してくれる人が居る一方で、誰かを蹴落とし、悪意を持って接することに執念を燃やす人も居るのだ。特にそれは夢を叶える座を争うこの街では顕著だった。諍いはアルフィーネの街では朝の小鳥のさえずりのように当たり前にあること。
だからレディが、小走りで駆ける自分にわざとぶつかって来る男が居ても、それはアルフィーネにおいてはあまり驚くような事態ではなかった。
「……いたっ」
小太りの男の腹に弾き飛ばされて、レディはその場に尻もちをついた。
三番街から二番街へ続く最後の小道に入ろうとした時だ。男が前から来ていたことは視界に映っていたのでレディは道を譲るように横にそれた。
昨日、雨が振ったせいか小道には水たまりが出来ていて、互いに譲り合わないと靴も靴下も台無しになる。レディはおろしたばかりの靴を履いていたので、それは回避したい事態だった。男が先に通り過ぎてくれたらお互い気持ちよく道を通れる。
なのに、男は横に移動したレディに狭い道の中でわざとぶつかってきた。水たまりをばしゃんと踏んで。明確な悪意がそこにはあった。
「ぶつかってきてんじゃねえぞっ! お前、いまわざと俺にぶつかっただろ!」
その上、男はこう言い放ったのだ。レディは顔や服、そしておろしたばかりの靴に跳ねた泥水に一瞬呆然とした。
「……あなたがそうしたんでしょ! あたしはちゃんと避けたじゃない!」
「いいや、今はお前がぶつかってきたね。どうしてくれる! いまので腕をひねった! 今日の日雇い分の金、お前がいま払えよ!」
レディは腹の底から怒りがふつふつと湧いてきた。勿論、男は腕などぶつけてはいない。そもそも男の腹肉にふっ飛ばされたのだから腕はまったく関係ない。ころんと転がり、手首を痛めたのはむしろレディのほうだ。
ここは強気の姿勢で突っぱねるべきだ。啖呵を切ってやらねば。大きな声で我儘を言えば、どうにかなると思っているこの男に、屈しない姿を見せてやらなければならない。
「……あ、あた……」
そう、思ったが。
「どうするんだよ! 黙ってんじゃねえ! 金払うんだろうな! おらっ財布の中見せろ! 払わねえなら仲間呼んでお前のことどっかに売っぱらってやろうか!」
男が地団駄を踏みながら怒鳴る。その度にレディの顔に、服に、泥水は跳ねるが相手の狂気じみた怒りが凄まじく、もはやそんなことは気にしていられない。
「……あたし、あたしそんなつもりじゃ……」
レディの口から実際に漏れ出た声は、決意とは別のものだった。暴力に慣れていない人は、いざそういう場面が起きても、思い浮かべるような振る舞いは出来ない。
「あ、あたしは……!」
他者が急にぶつけてくる感情に、悪意に、自分が理不尽に打たれる暴力への恐怖に、体が蝕まれ動けなくなる。
「……お金、ありません、あたし、それに……よ、よけて……」
どんなに賢い人でも、頭の回転が停止して、うまくろれつが回らなくなる。
言ったもの勝ちという言葉があるが、今が正にそれを悪い方面で利用した状態だ。
論理などない。けれども、大きな声で言うほうが勝ってしまう。
「うるせえ黙れ! おら、いいから金を出せっ! 出さねえとその顔ボコボコにするぞ」
こうなってくると、もはや言いがかりの上の恐喝である。レディは助けを求めるように周囲を見渡した。小道の両脇の建物から野次馬がこちらを見ていたが、目が合うと窓を閉められた。後ろに人が居たが、厄介なことに巻き込まれたくないと引き返して行く。三番街の治安を守る為日夜周回している軍警察の姿もない。
「黙ってんじゃねえ! お前、払えねえなら……」
この大都会で、一人で生きるレディには、あとすることと言ったら祈ることくらいだ。
――誰か。
誰か、誰でもいい。
――神様。
どこに御座す方かもわからない。
――助けて。
もう、怖くて、足も動かないのだ。だから、お願い。
「いいから言うとおりにしろ……しねえなら……!」
――助けて!
「わからせてやる!」
男は痛いと言ったはずの腕を大きく上にあげた。それはレディの目や鼻を殴打するよう明確に振り下ろされたが、当たることはなかった。
「……っ!」
男の体は吸い込まれるように後ろに大きく下がり、気がつけば背後から足をすくわれて膝をつかされ、地面に倒れた。男が倒れていく一瞬の間、レディの目の前の視界が開けて、人が見えた。こんな場面に、助けに現れるにしてはあまりにも華奢で美しい女性。
その人の金糸の髪がゆらりと揺れ、碧い瞳が白い顔から浮かび上がるようにやけに輝いて見えた。コツンとブーツの音がして、男を倒した張本人である彼女が一歩前へ。
そして「さあ、行きましょう」と言わんばかりに手を差し出された。まるで、騎士のように、それが当然と言わんばかりに。
男はうめき声を上げ、まだ立ち上がれていない。かなり大きな一撃を喰らったのだろう。
レディの選択肢は一つしかなかった。男の背中を意趣返しで踏んで、突然の救世主の手をとること。
二人の娘は手を繋ぐと、まるで昔から知り合いのように揃って走り出した。狭い路地を駆けていくと建物に阻まれていた光が差し込む方向が見えた。小路を抜けると美女の足が止まった。
道がわからないのか、キョロキョロと左右を見渡している。
「こっち! こっちならもう人に紛れてわからない!」
今度はレディがエスコートするほうだった。金髪の美女の手を引っ張り、まだ走る。走りながらレディは、彼女の手が随分とカチコチと硬いことに気がついた。
後ろを振り返る。この街で美人を見るのは日常茶飯事だが、それにしても美しい。
今まで見てきたどの人とも毛色の違う美しさ。
それに、どうして助けてくれたのだろう。道を知らなそうだから、恐らくは観光客だ。地元民ではない。それなのに助けてくれた。どうして? 女同士だから?
様々な謎が浮かんでくる。レディと美女は、やがては誰かを探す場合、よほど目立つことをしないと見分けられないであろう二番街の混雑した市場に入り、ようやく速度を緩めた。
ぜえはあと息を吐きながら、市場で買ったものを人々が穏やかに食べたり飲んだりしている噴水広場の方へ行く。もう大丈夫そうだ、とレディは足を止め救世主と向かい合った。
「……はあ、はあ」
相手は息一つ乱していない。
「……あの、あたし……」
レディは、そう言えば自分の名前を相手に言うのは久しぶりだな、とふと思った。
何だかこの街で名前を名乗ることは、すごく気恥ずかしい。だって、まだ何者に成れるかわからないのに。けれども、此処で名乗りもせずきちんと礼を言わない人間には成りたくなかった。
「あたし、レティシア……レティシア・アスター……助けてくれてありがとう。良ければ……お礼をさせてください。貴方のお名前は……?」
その時、ちょうど噴水が水のアートを行う時間だったせいか、人々が歓声を上げた。大勢の人が居る広場で、ほとんどの人は水が優雅に舞う様に目を奪われている。
けれども「レディ」は、いや、レティシアは目の前の人に釘付けだった。
「ヴァイオレット……ヴァイオレット・エヴァーガーデンです」
声も姿も玲瓏なその美女は、とても不思議な魅力を持った人だった。
歌劇から飛び出てきたような美しい装い。人形のように端正な姿形。古今東西の美男美女が集まるこの街でも、異彩を放つ存在感のヴァイオレット・エヴァーガーデン。
とある陸軍大佐が返ってこない手紙の返事を待っている間、彼女はこの街に住まう依頼人から、長期の仕事を受けて滞在していた。
依頼人は名うての男性作曲家。勉強熱心な彼女が最近習得した楽譜書きの仕事の依頼だ。
作曲家と共に生活し、彼が歌いだせばどんな時であろうとその旋律を書き記し譜面に清書するという内容である。本来ならこの作曲家の弟子ないし身内の者が担っていた役目だったが、作曲家の癖のある性格のせいか誰も彼もが見放した。
仕事でとある作品の劇伴を任されていた作曲家はついには人を雇わずにはいられなくなり、とある小説家の紹介でこの仕事が契約されたのである。任務は忍耐を要するものだったが、ヴァイオレット・エヴァーガーデンには心配無用なことだった。
忍耐強さという試験が人々に課せられたら、彼女は満点をとれる性分なのである。
この仕事の遂行の為、ヴァイオレットはしばらくライデンシャフトリヒのC・H郵便社に戻れてはいない。当然、ギルベルトからの手紙も受け取ってはおらず二人はどちらも傷ついたまま、すれ違いの生活をしていた。ようやく迎えた仕事の最終日、作曲家に別れを惜しまれながら見送られた彼女は帰路につくところだった。アルフィーネから交通機関の乗り換えを数度経ていけばライデンシャフトリヒに帰ることが出来る。
だが、そこで事件が起こったのだった。
「という事情でこちらに居たのですが……今しがた所持金をほとんど失ってしまいましたので、助かりました」
喫茶店で、レティシアに助けてもらったお礼として奢ってもらったパンと紅茶を行儀よく食べながら、ヴァイオレットは言った。
レティシアは目をぱちくりと瞬いてから言う。
「貴方は、自動手記人形の仕事をしていて、仕事帰り……」
「はい」
「そして二番街を歩いていたら三番街に迷い込んで、あたしが襲われかけている場面に出くわし助けてくれた」
「はい」
「そしてお金がない」
「はい、ありません」
「え、お財布落としちゃったの? あ、それともスリ? ここらへん多いから……」
「後者の方です。財布が失くなったことにはすぐ気が付きましたので、追跡し、犯人を特定、捕捉したのですが……」
「したのですが……?」
ヴァイオレットは無表情を少しだけ崩して、眉を下げた。
「相手は……年端も行かぬ子どもで……捕捉した場所は彼の住処だったのですが、同じく子どもしかおらず……どうやら孤児のみで暮らしていることがわかり……」
レティシアはまさか、という顔をしてから言う。
「……もしかして、それで同情してお金あげちゃったの?」
「いえ。全ては差し出していません……中には明らかに病気を放置している者もおり、病院に連れていき、処置してもらう必要がありました……それで所持金の半額は消えました」
「うわ……お人好しだぁ……」
「孤児院に当てがあるので、そこへの最低限の交通費を彼らに渡したら、財布の重みはほとんどなくなってしまいました」
レティシアは自分の為に買ったパンをぱくりと食べながらこの美女をじっと見つめた。
彼女ならこの街でも誰かに『レディ』と言われず、名前で呼んでもらえるようになりそうな人だ。けれども、圧倒的にこの街に向いていないとも思う。
「……ヴァイオレット、さん……わからないけど、あの……意地悪で言うとかじゃないんだけど……それ、さぁ……もしかしたら騙されているかもよ」
ヴァイオレットのパンを食べる動作が停止した。
「この街で孤児の子たちが寄り添って生きてるのは知ってる。けど、あの子たち、何というか街に育てられてるというか……誰かが引き取るとかはしてないけど、その日の糧は大人の手伝いとかで手に入れてるみたいだし、スリで狙うのは観光客だけみたい」
「……」
「あたしも最初にこの街に来た時、子どもに盗まれちゃった」
ヴァイオレットの行為を否定するわけではないのだが、レティシアは自分の経験も踏まえて一応忠告したかった。
「今からでも、取り返しにいったら、お財布に少しは厚みが……」
けれども、ヴァイオレットは静かに首を横に振った。
「もしかしたら、以前までは、そうかもしれません。皆で寄り添い、なんとかしていたのかもしれません。ですが……本当に病に臥せっていました。周囲の大人は……薬まで用意してくれるのでしょうか。薬は高いです」
「……それは、確かに……薬まで用意してくれる善人はいないかも……奇特なお金持ちとかに頼るしか……一番街にそんな優しい人いるかな……」
レティシアは、言ってから後悔した。
此処は勝ち負けがはっきりする場所で、住む人々もそれをわかっている。
「あたしも助けを求められても……叶えてあげられるかわからない。朝食を奢るのとは額が違うもの……」
良い待遇を、良い生活を求めるなら戦うしかない。それが強いられる街だ。
全ては成功者の為の街。誰も彼もに優しい街ではない。此処で生まれ、他を知らず、どう生きればいいかわからない孤児には特に優しくない街だ。
「もし、レティシアさんの言う通りであっても、よいのです」
自分ではどうしようも出来なかったことで戦うのは、苦しいことだ。救いがない。
「あれが、仮病であったとしても……本当に困った時に、行ってもよい場所を知るのは……悪いことではないかと……」
ヴァイオレットは、金糸の睫毛を伏せ、胸元のブローチをひと撫でして囁く。
「獣さえ、群れを求めるものです。助けを求めること、求めて……拒絶されないことは……庇護を知らない者にこそ必要なことだと……私は思います。そこから開ける道も……あるのです」
「……そっか」
「はい、私の意見でしかありません。レティシアさんの言う通り私は……」
「いや、それは……」
レティシアは、何だか言葉が出なくなってしまい彼女から視線をそらし、陶器のカップに揺れる紅茶を見つめた。
「ごめん……それは、さっき言ったことは忘れて……」
澄んだ紅茶の色。まるでヴァイオレットの言葉のようだ。自分もつい先程まで、誰かに庇護を求めていた。絶体絶命だと言えた。助けを求めたかったが、誰も彼もが見捨てるように無視をした。多分、自分も同じ場面に遭遇したら、そうしただろう。
しかし目の前の彼女は『助けて』という声すら聞いていないのに助けてくれた。
そんな人に、推測でも騙されたかもよと言ったのは。
――良くない。
良くない発言だった。
無表情で、あまり気持ちを推し量ることが出来ないが、自分が同じことをして、同じことを言われたらきっと傷つく。レティシアは、無欲の庇護を受けたからこそ、更にヴァイオレットの今の言葉に重みを感じていた。
「…………ヴァイオレットさんは、いま、助けを求めてる?」
だから、レティシアは勇気を出して言ってみた。
「……どうでしょうか。小銭はありますがライデンシャフトリヒ……私の帰りたい場所までは足りませんので、全面的な助けというより職を求めています。今まで経験した職種は二つしかありませんので、似たような仕事があればいいのですが……」
レティシアの顔がぱあっと笑顔になり。
「じゃあ、じゃあ、あたしが紹介してあげる!」
ヴァイオレットの方へ机越しに前のめりに顔を近づけた。
「紹介……代筆ですか? それか……護衛職などがあれば……」
「最初の方は話を聞いたから良いとして、最後のおかしくない? そういうお仕事じゃないよ。けど、日雇いだからすぐお金がもらえるよ! これ食べ終えたら行こうよ。人はいつも足りないから大丈夫。すぐ採用してくれる。仕事内容は雑用って感じかな。給仕に犬の散歩に……」
「犬の散歩」
「お金持ちって犬の散歩も人に任せちゃうんだ。変だよね。でも楽しいよ。お金貯まるまでうちに泊まりなよ! ご飯も作ってあげる! ライデンシャフトリヒってここからだと鉄道を利用しても三日はかかるよね。一週間くらい働けば帰りの旅費くらい稼げるよ」
「……庇護、ですね」
「だめ……かな? あたしも助けてもらったから、その恩返しとして……」
「……私は、庇護を受けてもいいのでしょうか」
レティシアはその答えは既にもらっていたからこそこう答えた。
「本当に困った時に、行っても良い場所を知るのは悪いことじゃない……でしょ?」
ヴァイオレットが瞳をぱちくりと瞬き、それから少しの沈黙の後に貴方の庇護を受けますと言ったので、二人の娘は大都会でしばらく身を寄せ合うことになった。
時間軸はヴァイオレットとレティシアが出会った時から少し移動する。
物語の舞台は南の国、ライデンシャフトリヒへ。首都ライデンのC・H郵便社に一人の男が冬だというのに汗だくになりながら到着していた。
大陸横断鉄道から長い時間をかけて到着した彼の顔には、苦悩の色が浮かんでいる。憂い気な顔の陸軍大佐、ギルベルト・ブーゲンビリアである。
来訪者を告げるベルが大きく鳴るほど乱暴にギルベルトは扉を開けた。彼に似合わない粗野な仕草。今の心理状況を大きく表していた。
「郵便の受付でしたらこちらで……」
係員が少々驚きながらも声をかけると、自分の行動にようやく落ち着きがないことを悟ったのか咳払いをしてから社長を呼んで欲しいと頼んだ。幸いなことに、係員から怪訝な顔をして引き継ぎを受けたのは交流のある社長秘書のラックス・シビュラで、すぐさま駆けつけて取り次いでくれた。ギルベルトはあまり待たされることもなく親友と再会を果たした。
「ギルベルト! お前、生きてたのか!」
この台詞をどこかで聞いたような気がするなと思いつつも、ギルベルトは片手をあげて挨拶した。通された応接室ではラックスが甲斐甲斐しくお茶とお菓子を用意している。何をしていてもどこか品のあるギルベルトは、人に尽くされる何かを持っているところがある。
「社長、良いお菓子があまりなくて……私、今から買いに……」
ラックスが慌ててホッジンズに駆け寄った。身長差があるので父娘のようだ。
「え、いいよ。ギルベルトだもん」
「ギルベルトさんだから良いお菓子にしたいんじゃないですか! 社長は前の事件の時にお世話になってるの忘れたんですか!」
部下が見せる親友への激しい傾倒ぶりにホッジンズは少々気圧される。
「す、すみません……でも、こいつもゆっくりお茶って場合じゃないと思うよ」
「でも……」
「いいからいいから、さて……ギルベルト」
ホッジンズは久しぶりに会うこの年下の親友を面白がるように笑って視線を送った。
実際、面白かった。彼がこんな風になることは珍しいからだ。
「お前、いつもびしっと前髪あげてんのに下がってるぞ」
からかうように言うと、ギルベルトはバツが悪い顔で前髪を手でかきあげた。こういう顔をするのは友人の前ならではだろう。
「……馬車が捕まらなくて、走ってここまで来た。ホッジンズ……」
「ヴァイオレットちゃんのことだろ」
「……まだ何も言ってないが……そうだ」
「それ以外ないでしょ。お前が体裁かなぐり捨てて行動する時って……何でもわかってますよ、ギルベルト坊や。ラックスちゃん、ヴァイオレットちゃんの予定表は?」
言われてラックスは慌てて手帳を取り出した。いつも手に持っている手帳にはびっしりとメモが記入がされている。ラックスは視力が下がっているのか、眼鏡をかけているのに顔をじっと手帳に近づけて読んだ。
「アルフィーネへ出張代筆……ええと……本来でしたらもう本社に帰還してる旅程ですが、まだですね。あちらで依頼期間の延長を受けている可能性があります」
「アルフィーネの後の予定は?」
「社長が休養をあげたいと仰ったのでしばらく休みです。数ヶ月ぶりですね」
「じゃあ他のお客さんに迷惑かかるわけじゃないから延長受けてるかもな……ヴァイオレットちゃんくらいになると、本人に延長とかの裁量は任せてるから……本当は帰還予定はいつだったの?」
「五日前ですね」
「……連絡があってもおかしくないな。ラックスちゃん、速達手紙の社内便確認してきて、それか電報か……最近、社内便の処理、皆溜め込んでるからそこに連絡来ててもおかしくないよ」
「すぐ見てきます!」
ラックスはホッジンズの方ではなく、ギルベルトの方に宣言するように言い、小さい体を素早く動かして部屋から退出した。ギルベルトは自分のせいで事態が大きくなっている気がして申し訳なさそうにラックスの居なくなった方向を見る。
「……私はついていかなくてよかったのだろうか。急に来て、彼女に迷惑をかけてばかりなのだが……他の業務もあるだろうに」
ホッジンズはギルベルトに座るように応接椅子を指差して、それから自分も腰を掛けた。ギルベルトが座ったのを確認してから喋る。
「いいのいいの。お前さ、前にラックスちゃん怪我した時に病院やら宿泊施設やら手配してくれたでしょ。あれすごい感謝してたから、役に立ちたいって思ってるんだよ。良い子なんだ、うちの秘書。本人の好きにさせてあげて」
「あれは……しかし普段ヴァイオレットが世話になってるので……礼に礼を返しただけだ。これだと更に返される形になる……」
「そういうのが、縁とか、厚意ってやつでしょ……にしてもお前、予定より早い帰還だけどこれ一時的なやつ?」
「そうだ」
「ヴァイオレットちゃんの為に」
「……まあ、二人の為に……だ」
「俺の為には戻らないくせにさ……」
ホッジンズが拗ねるように言うと、ギルベルトは呆れて返した。
「お前の為に、私がしてきたことを数えて確認してみろ。それを他の奴が出来ると思うか?」
「……」
すぐ思いつくことだと、競合他社により暴力的に書かされた書類を権力の力でもみ消してもらった。学生時代からの付き合いなので、それを言われると何も言えなくなる。ホッジンズは色艶の綺麗な唇で口笛を吹いてごまかした。
「……お前が私にしてくれたことも、誰もがしてくれることではない。私はそれをわかっている。言葉がないと不安なら、愛しているとでも言えばいいのか?」
危うく手に持ったティーカップを床に落とすところだった。ホッジンズの体に動揺が走る。それを解消するように怒鳴った。
「ギルベルト! お前……お前な……! そういうのはヴァイオレットちゃんだけに言え!」
動揺させた当の本人は涼しい顔をしている。
「……私も言いたくはない。じゃあもう拗ねるな」
「何なの……お前、普段俺に冷たいくせに偶にすごいこと言ってくるよね……そういうのさ、冷遇に慣れてるほうだと心臓に悪いんだよ? 陸軍時代……冷たい川に浸かりながら進軍した時のこと思い出したわ……あれくらい心臓がぎゅってした」
「……本当に我儘だな……かまって欲しいのか、欲しくないのかどっちなんだ……」
「適度にかまって欲しい、わかれよ」
「ホッジンズ……人のことを坊やと言うなら、年上らしい振る舞いをしてくれないか? それより……戻ってきたぞ」
言いながら、ギルベルトは小走りのラックスの後ろに別の人物の存在を確認した。
ヴァイオレットと似た、しかし色合いの違う金髪の美青年が居る。
配達員から系列会社の社長へと華麗に転身したベネディクト・ブルーだ。
以前とは雰囲気や装いが少し違っている。
本人が好きで履いているヒールはそのままに、細身のジャケットと揃いのズボンを着こなし髪が短くなり、片耳ピアスが追加された。中性的な美しさは元よりだが、役職にふさわしい滲み出る大人の色気が出ている。
「ベネディクト、どうしたのお前」
ベネディクトはちらりとギルベルトの方を見たが、何も言わずホッジンズの方を見直す。
「近く来たから寄った。次の定例会議前に話したいことあったしな。つーか社内便溜めんなよ。何で俺がやらなくなったら他の奴がその穴塞がないんだよ」
「いや~面目ない……まだお前がやってくれてたこと埋める連携が機能してないんだよね。いずれは第二、第三のお前が生まれるから」
「何かそれ気持ち悪いからやめろ。俺は俺だけだ……。それと、これだろ……?」
つっけんどんに差し出された手紙は、ヴァイオレット・エヴァーガーデンの差出人名が書かれていた。社内の人事異動により、滞っていた社内間郵便物から彼が発掘してきてくれたらしい。大方、郵便袋の中に落ちそうになっている小柄なラックスを見かねて助けたのだろう。
ちょうどホッジンズとギルベルトの中間にあったベネディクトの手紙を持つ手は、ギルベルトが手を伸ばした瞬間大きく横にそらされた。
「……」
ギルベルトの無言の苛立ちを嘲笑うようにベネディクトは言う。
「軍人さん、これ、社内便なんで。わかるか? 社外秘」
「君はよほど私のことが嫌いらしいな」
「嫌いとか好きとかじゃねえから。ヴィーと付き合ってようがなかろうが、ヴィーを落ち込ませる奴ぁ許せねぇだけだ。あんた、ヴィーより随分と年上なのに包容力が無いんじゃないのか?」
無言でラックスがベネディクトの脇腹を叩くが、ベネディクトはそのまま喋り続ける。
「あんたのしてきたことも、これからすることも、多分一生気に食わねぇわ。ヴィーがあんたに振り回されてるの見てきてるからな」
ラックスの攻撃はもはや両腕を使っての拳の殴打の連続になっていたが、いかんせん体重も軽く華奢な為、ベネディクトは効いていない。
「……私とヴァイオレットは誰かを満足させる為に居るわけではない。私達だけの問題だ」
「いーや、あいつはもうあんただけの少女兵じゃないんでね。部下だったんだってな。それならあいつは俺の妹分で、おっさんにとっては娘同然で、ラックスにとっちゃ親友だ。あいつが出会った客達にとってはすげえ自動手記人形。もうあんただけのもんじゃない」
ホッジンズは、不思議なことに少し穏やかな目つきでベネディクトを見ていた。
最初は止めようとする気配があったが、今はもうそれはない。彼が本気で攻撃的になる時は、こんなものでは済まされないとわかっているからだ。
「……だが、ヴィーはあんたが好きだ」
これは、ベネディクトなりの牽制と。
「俺達から……盗るなら……」
最大限の譲歩。
「あいつを悲しませるな」
そして、ゆるし、なのだろう。
「……それは手紙を見せてくれる条件か?」
「そうだ。社外秘だからな。恋人だろうがなんだろうが、うちの社員がいまどこで何してるのかあんたに知らせる義務はねえ。だがあいつは最近悲しんでる……」
「……」
「それも多分あんたのせいなんだろう」
「……私は」
「いいか、自分のやったことは自分で始末つけろ。次に俺がヴィーに会う時は笑えるくらいの状態にしろよ」
ギルベルトは少し逸らしていた視線を、ようやくベネディクトにちゃんと向けた。
よく見れば、ヴァイオレットに少し似ている。金糸の髪に美しい瞳。
この彼が自分の愛する女性を、妹のように慈しんでいるという事実が瞳から伝わる。
「あいつ滅多に笑わねえからな。すげえ難しい……これを渡す代わりに、必ずそれをしろ」
ぶっきらぼうな態度だが、その慈しみに嘘偽りはない。
「……了解した。ミスター・ブルー。だが、ヴァイオレットは私の前で微笑うことは増えた」
「あんたな! それ言わなくてよくないか? もっと俺にもう少し歩み寄りとかないのかよ!」
ホッジンズは思わず吹き出してしまった。ベネディクトとギルベルトの会話は、まるで若い頃の自分たちのようだ。ホッジンズとギルベルトも最初は反発しあっていた。
一人の女性を巡って小競り合いをしている男二人にホッジンズは割り込む。
「……言い争いはそれくらいにして、とりあえず手紙を開けて中身を見てみようか。俺も気になる……ラックスちゃん、ペーパーナイフ貸して」
ラックスはホッジンズに言われる前に既にそれを握っていた。C・H郵便社特製のペーパーナイフだ。手紙を丁寧に開ける。ヴァイオレットからC・H郵便社宛の連絡文書が入っていた。
端正な文字で、簡素な言葉が数行だけ書いてある。
「……ええと……読むよ。所持金を失ってしまった為、現状帰還する目処が立っておりません。幸いにも支援者を得て、交通費を確保する職を紹介して頂けました。帰還予定日より過ぎておりますが、当座の予約は先ですので、休日扱いにして頂けましたら幸いです……一応、滞在先の住所は記載しておきます。ヴァイオレット・エヴァーガーデン……」
「……」
「……」
「……」
集まった四人の中でしばしの重い沈黙が流れた。
それぞれ抱いた気持ちに多少の違いはあれど、共通しているものはあった。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンは、こういう時に自分たちに助けを求めない。
そのことへの諦めである。皆がため息を吐いた後に、ラックスが口を開いた。
「……すごく……ヴァイオレットらしいですね」
ラックスなりに、気を遣った発言ではあった。ギルベルトが居なければ、『ヴァイオレットの馬鹿! どうして助けを呼ばないのよ!』くらいは言っていた。
「財布落としたのか……何か事情があったのか……どっちにしろよ……迎えに来いとか書いてるならいいけど、戻れない日々を予定された休日扱いで処理しろっていうのがよお……」
ベネディクトはもはや呆れていた。可愛がっている妹分ではあるが、こういうところは好きなところではない。本人が居たなら頭に手刀を入れるくらいはしていた。
「本当に……何でそういう決断をしちゃったんだろ……誰か迎えに来て下さいって手紙ならまだわかるのに」
「変なところで図々しいのにこういう時は謙虚なんだよな」
「……」
ヴァイオレットと四年間生活を共にし、教育をしてきたギルベルトは二人の会話を耳が痛い思いで聞いていた。
――私のせいだろうな。
そういう性格にしてしまったのは自分と彼女の関係性、彼女が武器であったことが大きいのではと思わずにはいられなかった。
「あー、あのさ……」
ホッジンズはギルベルトが何を考えているのか察しがついたのか、話題を変えるように言う。
「まあ、そこもヴァイオレットちゃんの愛すべきところだから。それより、本当に本人の帰還を待つ方向にすべきか検討しないと。多分、心配しなくても戻ってくるだろうけど……」
「……そうですね。ヴァイオレットなら、手段を問わず絶対帰ってくると思いますが……」
「帰還は待たない。私は迎えに行く」
一石を投じるようなギルベルトの発言に、ホッジンズは怪訝な声を上げる。
「……ギルベルト、お前、仕事大丈夫なのか。ヴァイオレットちゃんが行ってるとこアルフィーネだぞ。鉄道と車と……最短の道を知ってる郵便屋の俺が飛ばしても一日半はかかる」
「元々、そういう話の流れだった。仕事は育てた部下に任せてきているし、一週間の滞在ということで休みをとってきた」
「行ってもすれ違うんじゃないかな……」
「それでも良い。それでも……私は行く」
ホッジンズは、『ギルベルト・ブーゲンビリアと親友である自分』と『ヴァイオレット・エヴァーガーデンの後見人である自分』という二つの感情がせめぎ合い、もはや何もかもが心配になってきた。
――何で、俺の好きな人は全員放っておけない危なっかしい奴なんだ!
ギルベルトがわざわざ仕事を休んでこちらに来たということは、二人の関係が直接修繕しなくてはならないほど崩壊しかけているのではとホッジンズは推測していた。
――もっと、幸せに生きる方向性に行ってくれよ。俺の心臓が持たない。
世話焼きの彼は他人のことを自分の問題のように考えてしまう。
「じゃあな、ホッジンズ」
「いや、待て」
「行ってくる」
「……待て、俺がいま出来ることないか確認するから」
「世話になった」
「だから待てって、待てわからず屋! 俺の人脈でなんとかする、アルフィーネでヴァイオレットちゃんを探してくれる人を手配するから!」
ギルベルトは頷いたが、羽織り直した外套をまた脱ぐことはしなかった。
「そうか、では並行して私は移動しよう」
頑としてでも迎えに行くという選択は曲げないつもりらしい。
「もーっ! その結果を待ってから出かけたらいいんじゃないか? ヴァイオレットちゃんがもし明日帰ってきたらどうするんだ!」
「……」
ギルベルトは少し黙り込んだ。彼とてホッジンズの心配はわかっていた。子どもではない。立場のある大人の男性だ。闇雲に探すより、行動するより確実性のあるものをとるべきだ。
それが理想的な大人の行動であることは間違いない。
「なら彼女は無事ということで安心だ。すれ違いがあっても、彼女の安全が確保されたならそれでいい」
けれども理想のまま、いかないのが感情というものであり。
「ホッジンズ……確かに彼女は大丈夫だろう。私もそう思う」
恋と呼ばれるものであり。
「だが、それと……私が愛する人を探しに行くことはまた別の話だ。彼女が大丈夫であろうと、なかろうと、私は彼女を守りに行く。彼女に関して、手を抜くことはない」
愛、と呼ばれるものの作用である。
ギルベルトの言葉に、ラックスは自然と両の手を胸元で重ね、ベネディクトは引きつった顔をしながら耳まで赤くなった。
「……大佐、私……他の人が二人のことを反対しても、私は絶対に応援します」
「あんた、よく、人前で、そんなこと……言えるな?」
二人のそれぞれの反応に、言われた本人は平気な顔をして言う。
「なんとでも言えばいい。君が思うより、私は彼女を愛している。それに前に牽制させてもらったはずだが……番犬気取りなら私の方が上だぞと」
ベネディクトは、その一言に次に言いたかった悪口が喉に引っ込んだ。
「……本気なのか?」
「何を指しているかわからないが、ヴァイオレットのことであれば私はいつも本気だ」
「……そうかよ」
本気なのか、という問いかけを、ベネディクトはヴァイオレットと自分の為にしていた。
恐らく、これからもベネディクトのように疑いの目で彼を見る者は多いだろう。
「ホッジンズ、何度引き止められても、私は行く」
そして、ギルベルト・ブーゲンビリアは、それをはねのけてもヴァイオレット・エヴァーガーデンを愛すのだろう。
「……」
そういう男なのだと、ベネディクトにも、いまようやく理解出来た。
「嗚呼、もう……! ギルベルト、せっかちな奴だな! わかったよ、わかった! 電話線、通じてるところにどんどんかけていってアルフィーネまで繋げてみせるから、着いたら……ええと……ラックスちゃん、書くものちょうだい!」
ホッジンズは慌ててラックスの手帳に、自分の実家である商家が取引のあるアルフィーネの酒屋の名前を記入した。ギルベルトはそれを丁寧に畳んで上着のポケットに入れる。それじゃあ、と今度こそ立ち去ろうとすると、ギルベルトの腕が引っ張られた。ベネディクト・ブルーが唇を噛み、何かを我慢するような表情を浮かべながら無言で『待て』と言っている。
「……何か」
「…………アルフィーネはな……ライデンシャフトリヒの駅からでも行けるけど、車で橋越えた先の街の駅から乗った方が早い。地形的にな……。俺は元ポストマンだから、わかってる」
「そうか、良い情報をありがとう。ミスター・ブルー」
「……話はまだだ。んで……俺は、社長になったので、新車に乗って此処にきた……自慢じゃないが、速い車だ」
「…………」
「あんた坊っちゃんだからまた人に馬車とか車を頼むんだろ。一刻も早く行きたいなら俺の愛車に乗れ。今から飛ばせば、乗れる列車はある。どうするよ……」
つっけんどんな態度、お世辞にも友好的とは言えない言い方。
「……俺の車なんてごめんだって言うなら、勝手にしろ」
それでも、これが彼なりの精一杯の厚意だということくらい、親しくもないギルベルトにも理解出来る。彼の照れくさそうな、何かを我慢しているような表情を見れば誰だって。
「……感謝する、ミスター・ブルー」
「……その呼び方はやめろ」
「ミスター・ベネディクト」
「やめろやめろ、ベネディクトでいい。俺も……あんたに敬称とかつけないからな」
「……本当に感謝する、ベネディクト」
「……」
ベネディクトが舌打ちをして、『貸しが一つだぞ、ブーゲンビリア』と言ったので、ギルベルトは初めて彼の前で笑った。
アルフィーネの舞台では身を寄せ合う二人の娘の物語が紡がれていた。
レティシア・アスターが本来ならいつも一人で行っていた日課はこういうものだ。
朝、目覚めたら昨日パン屋で売ってもらった固くなったパンをスープにつけて食べる。それからまずは給仕の仕事へ。三時間ほどしか入らない短時間の仕事だ。朝から昼にかけての忙しい時間が終われば賄いを食べさせてもらってから次の場所へ。二番街から一番街へ移動して売れっ子俳優が溺愛している白く大きな犬の散歩に出かける。全部で三頭居るので、引っ張られながら登る坂道は正に地獄への道だ。犬を家に戻したら、夜の仕事までしばしの休憩時間。憧れの服屋のショーウインドウに並ぶ素敵なドレスを眺める。絶対に買えないであろう金額なので、本当に見ることしか出来ない。大忙しの一日は、いつもならたった一人での戦いだった。
「このドレスが好きなのですか」
「このドレスが好きなの」
今は、傍に友人とも知り合いとも言えない、期間限定の同居人が居る。
この同居人はとても風変わりな娘で、一見どこかのお嬢様のように大人しく繊細そうで重いものなど持ったことのないような雰囲気を醸し出しているのだが、実際はそんなことはなかった。とにかくよく動きよく働く。
レティシアが皿を三枚洗っていたら、ヴァイオレットは二十枚を洗い、レティシアが犬一匹にぐるぐると引っ張られて息を切らしていると、ヴァイオレットは歩くのに飽きた犬を小脇に抱えて歩いていたりする(それは散歩にならないからやめようとレティシアは苦言した)。
何事もそつなく、無表情で人の倍をこなす姿はまるで機械人形。レティシアは自動手記人形には初めて会ったのでわからないが、すべてがヴァイオレットのような働き方をするわけではないはず。単純に働き者な気質なのだろう。彼女のほうが仕事を始めたばかりなのに、レティシアは見習うことが多くて感心してばかりだ。そんなヴァイオレットの碧い瞳には、レティシアが好きだと言った百合の花びらを散りばめて作ったような真白のドレスが映っていた。
「ヴァイオレットのほうが似合いそう」
レティシアは本心で言った。しかし、ヴァイオレットはすぐに否定し首を横に振った。
「私は、この手のものは不似合いです。義手がありますし」
既にヴァイオレットと数日間生活を共にしているレティシアは、カチカチの手のひらの正体を知っていた。それがどれほど、冷たく、硬質な手触りなのかも。
「……長袖でロンググローブのドレスも素敵なのあるよ。あれなんかどうかな」
アルフィーネであっても四肢欠損の人を見るのはそんなに珍しいことではない。大戦が終わったといっても、大戦を生き抜いた人達の時代が終わったわけではないのだ。今も、皆、終わったはずの戦争の後遺症と戦っている。
「ケープがついているのも可愛いよね」
レティシアはまだ少女なので、自分が知らない物語を持っている人と出会うと、どうしたらいいかわからなくもなるのだが。
「そうですね。あれなら着られそうです」
ヴァイオレットがあるがままで接してくれるので、レティシアもありがたくそうしている。
「……レティシア、よく見たら値札が……安くなってますよ」
「嘘! 本当だ……そっか。きっとこのショーウインドウの中を変える予定なんだ。ええ、でも安くなっても高い……こんなドレスがあったら……あたしも……」
「私のお金を足しましょうか。足したら買えるのでは」
「そしたらヴァイオレットが帰れなくなっちゃうでしょ。本末転倒だよ……でもありがとう」
ヴァイオレットは少しだけ残念そうな表情を見せた。
「……もっと、良い仕事があればよいのですが……」
「本当にね……生きるのには足りるけど、欲しいものを買うには足らないよね」
恐らくは世界中に住む人々が一度は思うことだろう。貨幣というものが出来てから、人は金に振り回されてばかりだ。
「……自分のお父さん、お母さんたちがどうしてあんなにお金持ちだったのか……今のあたしには謎でしかないや」
「ご実家は裕福なのですか」
「うん……でも家を出たし、もう関係ないから」
レティシアが名残惜しそうにドレスから目を離し歩き出したので、ヴァイオレットも遅れて後を追う。二人は夕方の仕事まで間が空いたので、二番街で何をするでもなくぶらついていた。目的がない行動が不得意なヴァイオレットはただついていくだけだ。しばらく無言で歩いていると、一番街の街中に立つ時計塔が大きく鐘を鳴らした。思わず二人共立ち止まる。時計塔は時刻を知らせる役目を果たすと音楽を奏でだした。オルゴールの音色のような、甘く優しい音。
「今日は『明けの明星』だ」
先程までの憂鬱げな様子はどこかに吹き飛ばし、レティシアは笑顔でヴァイオレットに振り返る。振り返られたほうは首を傾げた。
「『明けの明星』とは……」
「知らない? 小さい頃とか歌わなかった?」
「……その歌は、教えていただいた記憶がありません……幼少期の私に多くの歌を教えても、無駄なことだったと思いますので、その判断を支持します」
「そ、そうなの……これはわりと有名な童謡だけど……この時計塔、時刻を知らせた後に毎回違う音楽を鳴らしてくれるの。『明けの明星』はね……」
一呼吸置いて、レティシアは彼女の見た目から想像出来ないような高く響く美しい歌声で唄い出した。
「東の空を見て 夜明け前の空に 輝く明けの明星
泣いているのなら見て 美しいものは 涙をとめてくれるよ
母の腕の中に居たあなたも いま立ち上がれないと泣いているあなたも
ずっと続いて同じものを見ている
東の空を見て 夜明け前の空に 輝く明けの明星
ずっとあなたを見てる
あなたの続いていくいのちも 明けの明星は見ている
東の空を見て あなたが目を閉じてしまっても
明けの明星は 世界を照らしているよ
東の空を見て
あなたが居なくなってしまうとしても 瞳を閉じる前に見て
東の空を見て
明けの明星は輝いているよ」
音楽の終わりと共に、レティシアはまだ幼さの残る顔立ちのままに笑顔で「こういう曲だよ」と言った。
「……」
ヴァイオレットは唖然とした様子から、まるで操られたように手を動かし自然と拍手をした。レティシアはヴァイオレットの為に曲を紡いだのだが、周囲の人も小さな拍手をしてくれた。
「あ、あ、ありがとう……ございます」
二番街は街中でも大道芸人がよく芸で小銭を稼いでいるので、そのように思われたのかもしれない。『良い声だよ』と褒めてくれた通りすがりの人に照れながらもお礼を返す。
「……歌が、上手なのですね」
感心したようにヴァイオレットに言われて、レティシアは胸の奥から更なるじんわりとした喜びと照れが湧き出た。
――今なら。
レティシアは、ヴァイオレットの瞳を見る。
――今なら、言えるかも。
その碧い瞳は、硝子のように透き通って、相対する者を映す。
「……あたし、歌手志望なの」
声に出してから、レティシアは『言ってしまった』とすぐに後悔した。
歌手志望だというと、返ってくる反応は大体決まっていて、おざなりに頑張れと言われるかまっとうに生きろと諭されるかだ。これは別に歌手志望だけに限らない。
夢を語るということは、本当はとても簡単なことなのに時々まるで問題のように扱われる。
その経験がレティシアの口を重くする原因となっていた。
その上レティシアはこの街でただの『レディ』だ。何もない、『レディ』のレティシアなのに夢を語ること。それはレティシアの中ではもう恥ずかしい行為として定義されていた。
「歌手」
ヴァイオレットは言われたことを再確認するようにつぶやく。
「うん……歌手」
レティシアも同じようにつぶやいた。
言うと、やはり自分でもそれが事実だと突きつけられた。
とても、鋭く、胸に突きつけられた。人に言ってしまうと、言霊が力を持ってしまうのだ。
――嗚呼、あたしは。
それまでも、そうだったのだが。
――あたしは、あたしは。
この同世代の女の子に夢を語るという行為が決定づける。
――あたしは、やっぱり、歌手になりたいんだ。
自分は夢追い人なのだと。
「…………笑う?」
そして、この告白を笑って欲しくない、『まだ』、ただの夢追い人なのだ。
「……」
ヴァイオレット・エヴァーガーデンは、その問いに対しどう答えるのか少し時間を要した。
子どもたちが冬の街を走り回る軽快な足音。今にも足を挫いてしまいそうなほど高いヒールでコツコツと歩く人の靴音。一羽の鳩が街路樹から街路樹へと飛び立つ羽音。
二人が作る静寂の中で、それらを実に明確に聞き届けるほどの時間が流れる。
そんなに難しい質問だっただろうか。レティシアは段々と耐えきれなくなり地面を見るように項垂れた。レティシアが目を伏せていると、いつもより凛とした響きが無く、戸惑いを感じられる声がようやく降ってきた。
「馬鹿にしません」
ヴァイオレットは、とても誠実な回答をくれた。
あまりにも普通に言うので、ただの日常会話になってしまった。
レティシアとしては、人生の重要な話ではあったのだが。
――まあ、ヴァイオレットにとっては関係のない話だし、仕方ないか。
しかし、ヴァイオレットも何かひっかかるところがあるのか続けて質問してきた。
「……答えるのが遅くなり申し訳ありません。考えていました……レティシアはどうして笑われる前提で言ったのだろうと……」
「……」
「これは、とても大切な質問なのではと感じました。なので、時間をいただき、考え、私は本心で回答しましたが、貴方を傷つけましたか」
「……ううん」
「よかった」
「……」
「しかし、どうしてレティシアは笑われると思ったのかはわかりませんでした」
「…………えっと……それは……」
――この娘は、暴く人だ。
レティシアはその時、何故かそう思った。ヴァイオレットと居ると、偶にそんな心地になる。覗き込んだ水面に映る自分のような、鏡に映し出した鏡を持った自分を見るような、そして自ら、自分の墓を暴くような。そんな心地にさせられるのだ。
「それは……ほら、さ、」
けれどもそれは嫌な暴かれ方ではなかった。
だって、暴かれたくない墓を掘り返してみて嫌な現実と直面しても、この同居人は逃げないでそこに居てくれるのだ。そうして、静かに、問いかけてくれる。自分なんかのことを考えてちゃんと聞いてくれるのだ。そうされると、恥ずかしくても、照れていても、レティシアは喋りたくなってしまう。震える唇で言ってしまう。
「だって……恥ずかしいじゃない?」
嗚呼、こういうことは、詳しく説明すればするほど、何だかやっぱり恥ずかしいものだ。
「ただでさえ、戦後にわっと伸びてきた産業だし……」
だって、まだ何も成し遂げていないのに。
「表現だってこっちが言っても、大半の大人はただの娯楽だって言うよ」
色々、理由を並べて自分を守ろうとしてしまう。
「こういうの……若者が現実を見ないではしゃいで……とか……さ」
もっと、自信を持って言えたらいいのに。
「人の役に立つ仕事をしなさい、とか、言って、揶揄される……」
ただ、唄うことが好きで。
好きで、好きで、人にも聞いてもらいたいだけなのだと。
人生でやりたいことがそれなんだと、もっと自信を持って言えたらいいのに。
「……あたしがすごい人間でもないのにそんなことを言うから、熱を醒ますように、皆言うの……そういうの繰り返されると、言えなく、なるんだ……自信持って……歌手志望ですって」
「言われたことがあるのですか?」
「……もう、百回は言われたよ……」
「百人に聞いたのですか」
「いや、そんなには……あ、あのね……だから、ヴァイオレットにも……ヴァイオレット、でも……こんなあたしが……歌手目指してること、馬鹿にする……かなって聞きたかった。ただ、それだけなんだ……ごめんね、何かややこしい質問をしたよね、あたし……」
少しの間があった。ヴァイオレットはレティシアの答えに疑問の妥協点を見つけることが出来たのだろう。
「レティシア」
ヴァイオレットは、自分の手袋をした義手を片方の手で叩いてみせた。
「私は元軍人です。これは負傷した末に私の体に取り付けられました」
「うん……」
「私が軍人をしていた時は、それが必要とされていたのです」
「……うん」
「戦後、私は兵士の職を追われ、自動手記人形へと転職しました。その時はまだわからなかったのですが、弊社の社長は大変先見の明があり、郵便会社というものは、自動手記人形というものは……戦後こそ必要とされました。様々な人が、様々な理由で文字を綴れず、それでも届けたいと思える余裕がやっと生まれたからです。戦時中も勿論必要とされていましたが……満足に出来ませんでしたから……」
ヴァイオレットは先程よりもっと意志のある瞳でレティシアを見つめ返している。
「戦後に伸びた産業ということはいま必要とされているからです。私の代筆業もそうです。いま、必要とされています」
煌めく瞳に、まだ何者でもないレティシアを肯定しながら映している。
「だから……恥ずかしくありません。たとえいつか……兵士であった私のように、必要とされなくなっても……」
ヴァイオレットのその言葉は、まるで自分に言い聞かせているようだった。
「……そっか」
言ってから、また『それでも、恥ずかしく、ありません』とつぶやいて頷いた。
「ヴァイオレットも、自分のこと恥ずかしいと思うことある……?」
「……」
「ごめん、嫌だったら答えなくていいよ」
ヴァイオレットは胸元のブローチを触ろうとして手を動かした。しかし途中でやめて、その手は宙をさまよい、ただぎゅっと拳が握られるだけになった。
そして、それから、レティシアが予想もしていなかった返事をくれた。
「……好きな、方を……思うと、自分が恥ずかしく思います」
レティシアは度肝を抜かれた。
春夏秋冬、今年も歌手を目指して生きてきて色々あったが、この冬で、今年一番驚いたことを言われた。目の前の人形のような娘が恋をしていることが、だ。
「…………恋人、いる、の?」
馬鹿みたいだが、手も声も震えた。
「……はい」
ヴァイオレットを見る印象が、一秒前とがらりと変わった。
「え、嘘、そうなんだ……ええ……そうなんだ……お、大人だ……」
先程までは、若干人間らしさがない、だが精巧に動く人形のような娘という印象だったのだが、人間味が百倍くらい増した。
「……」
「ヴァイオレット、おとな……」
「……いま、わかりました」
「何を……?」
「私は、自信がないのです……好きな方のことになると、自信がなくなるのです。レティシアの言うことを、私は気にしなくてもいいのではと思いました。しかし、私は同じことを言われても、この気持ちは解消できそうにありません……。夢も、自信がないと、恥ずかしくなってしまうのです……」
ヴァイオレットは、それからぽつりとつぶやいた。
恥ずかしいは、自信が無いにもつながるのですね、と。
「私は、好きな方と居ると、自分が、自分という存在が、あまりにも、その方にふさわしくなく……恥ずかしい、の、です……自信がないのです」
その声は、ひどく寂しげだった。
「ヴァイオレット、大丈夫だよ」
何に対してかはわからない。けれどもレティシアは言った。ヴァイオレットの硬い義手に手を伸ばしてあたためるように握る。
「大丈夫、だからね」
言っていて、自分でも何と無責任で意味のない言葉だろうと思った。ただ、この娘があんまりにも純粋に答えてくれるから。共感してくれるから。
自分達、二人を襲う漠然とした「怖いもの」を退けるような何かを言いたかった。
レティシアは神様を持たなかったが、彼女の為に祈りたいと思った。
「……大丈夫、です……? 生命活動に影響はありません」
ヴァイオレットは斜め上の回答をして小首をかしげている。
レティシアはそんな彼女を安心させるように、また「大丈夫だよ」と言った。
――ヴァイオレットも、そうなんだ。
彼女には申し訳ないと思いつつ、レティシアは何だか勇気づけられてしまった。
――自分が恥ずかしいって、誰しも持っているものなんだ。
この孤独や羞恥心、苦しみは、一人だけのものではなく、目の前の人も持っているものだとあらためて気づかされたから。
心の中の、ひどくやわらかい部分というものを、皆、見せなくても、持っているのだ。
「そうだよね、歌手になりたいって、夢を持つことは恥ずかしくないよね」
それを突かれると、痛いと感じ、するりと涙が出てしまうのだ。
あたためてもらえると、嬉しくて、やはり涙が出てしまう。
そういうところは、どんなに強い人でも、あるものなのだ。
「はい、レティシアの夢は、恥ずかしくないのです」
だから、夢を追うことは、語ることは恥ずかしくない。
「はい」
「ありがと……でも……恥ずかしいと思うのは別のこともあって……これくらい、うまいなんて言わないんだよ。もっとうまい人はたくさんいるの」
「……そう、なのですか」
ヴァイオレットは無垢だ。だからこそ、レティシアも無垢に言う。
「うん、あたしはね、才能はないの」
言いながら胸がチクチクと痛くても言う。
「……あたしくらい歌える人はたくさんいて、この街はそんな人に溢れていて、だからちょっとうまく唄えるくらいじゃ……才能あるとは言えないんだぁ」
レティシアの瞳には、二番街で同じように夢を追いかけてこの街に住む人々がたくさん映し出されていた。
その日はそれから小劇場兼食事処の手伝いをした。
他の所では珍しい形態の店だが、アルフィーネにはいくつもある。人々が食事やお喋りを楽しみながらショーを楽しむというものだ。歌謡劇や舞踊が主な演目で、ヴァイオレットとレティシアはショーに出演する人々の小物の用意や着替えの手伝いをした。
レティシアが自分は才能はないと言い切ってしまうのも致し方ないのかもしれない。アルフィーネは何もかも基準が高い。ショーに出演する人々は誰も彼もがその芸事を突き詰めていて、それらを不得手としている人々から見ると称賛に値する芸を軽々と披露する。
レティシアの声は特別なものだと聞いた人ならわかるが、それでも抜きん出ているかと問われれば、わからない。
此処は宝石の原石などいくらでも存在する街なのだ。
ヴァイオレットは最初、挨拶が元気がないことを叱責され、この食事処の店主に『使えない子が来た』とがっかりされたが、時間の経過と共にそれは解消された。
愛想はないが、言われたことは一度で覚えるし、覚えたら誰かが何か言う前に何でもしてしまう。帳簿付けも出来るし、礼儀正しい。やはり愛想はないが、段々とそこも可愛らしく思えてくる。ショーに出演している歌手や踊り子からはレディでもドリーマーでもなく『ドールちゃん』と呼ばれ重宝された。嫌な客の話などを延々と聞いてくれるし、楽屋に酔っ払った男が乱入してくればガードマンが来る前に腕をひねって外に出してしまう。
「ドールちゃん、レディ、またね。あげたお菓子、日持ちしないから今日食べなさい」
「はい、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
レティシアがこの夜の仕事で好きなところは、大きな劇場の出演者という形で夢を叶えた人々が、まだ夢を見ているだけの若者に時に厳しく、しかしやはり優しくしてくれるところだ。 夢追い人は自分達が生活の基盤を芸事で手に入れるまで大抵は清貧な生活を経験しているので食べ物をよく持たせてくれる。ヴァイオレットも通うようになったので収穫は二倍に増えた。
「何のお菓子もらった?」
「……何でしょう? 飴と……焼き菓子ですね」
「あたしはクッキーの詰め合わせ。すごい、二人でお茶会が出来ちゃうね」
「紅茶、切らしていませんでしたか」
「うふふ……劇場からくすねてきたからあるんです。夜のお茶会しよう、ヴァイオレット」
「くすねてはいけないのでは……」
「いつか出世払いで返す」
レティシアの家に帰ると、二人は小さなお茶会を開いた。お世辞にも良い部屋とは言えないアパルトマンは寒風こそ吹いてはいないが全体的に寒い。湯を沸かして、毛布を被り、二人はお茶とお菓子をつまみながらカーテンを少しだけ開けて三番街から一番街へ続く夜景を見た。
地形が一番街から三番街へ進めば進むほど小高くなっているので自然と見下ろせる。
「ごめんね、こんな部屋で。寒いよね」
「秘境などに代筆に行く際はよく野営しますから、平気です」
「自動手記人形ってヴァイオレットくらいたくましくないと出来ない職業なの?」
二人は夢の話をした後ということもあり、以前よりも話が弾んだ。
とは言っても、ヴァイオレットは放っておけば静かになるのでレティシアが主に喋る。
仕事では人の命令や指示を聞き、愚痴を聞かされる役回りばかりなので、自分の話を聞いてくれる人の存在は、レティシアを饒舌にさせた。
「そっか……ヴァイオレットは孤児で、でもいま引き取ってくれたお家があるんだ……」
「はい。淑女の嗜みはすべてそこで教えていただいたと言っても過言ではありません」
「……そういうの、教えられるってことは、そこって結構裕福なんだろうね。ヴァイオレットは働かなくていいんじゃないの?」
「……ご夫妻はよくそういう話をされますが、私はこの仕事をする意義をたくさんの方々に教えていただきました。仕事をやめる選択肢はありません。それに、私はもう子どもではないので、自分で自分を養えます。……私にとっては、何処へ行っても帰ってきて迎えてくださる方々が居る……それだけで十分です」
「……」
その言葉は、レティシアには刺さる言葉だった。羽織っていた毛布の前をたぐり合わせ、どくどくと波打つ心臓を優しくあたためてみる。
「……あたしは」
この痛みは、きっと。
「あたしはね、何の不自由もないのに家を出たんだ」
話すことでしか解消出来ない。
レティシア・アスターは元は良家の子女だった。
都会ではなく、牧歌的な風景が似合う辺境の豪農の家に生まれた娘だった。
農家だからと侮ることなかれ。その土地一帯の有力者として着実に土台作りをしてきた父に育てられたレティシアは小さな頃から周りの人全てに『お嬢さん、お嬢さん』と扱われてきた正真正銘のお嬢様だった。本人もその状況をごく自然と受け入れていた。
ヴァイオレットがエヴァーガーデン家で習わされたような礼儀作法は、レティシアはもっと子どもの頃か ら教えられていた。人がレティシアを定義するのなら、彼女は至極恵まれた環境に生まれた人であった。
将来においても、何不自由なく生きられるよう親が決めていた。
レティシアが八歳の頃には既に婚約者と何歳に結婚するか、式の会場は何処にするかが本人達抜きで話し合われていた。相手はかねてより父が経営の中に加えたかった商家の長男。
ちょうど揃いの年で生まれた二人を、友人同士の父親たちが勝手に決めてしまったのだ。
それでもレティシアは、その状況をごく自然と受け入れていた。
自分はその人と結婚して子どもを産んで、そしてその子どもに囲まれて老後を過ごすんだろうなと、楽しみにしてもいた。
相手は両親の手前、いつも優しくしてくれたし、周囲は自分に『お嬢さん』の役割を期待しているので、応えることこそ自分の成すべきこと。周囲の為に出来ること。そう思っていた。
「……でもね、びっくりしちゃった。ある日ね、あの人……あたしに言ったんだ。あたしのことなんてまったく好きじゃないんだって」
それはある日突然起こった。
二人の結婚はまだ先だったのだが、親族の集まりがあれば問答無用で二人で一つの扱いをされていた。その日もいつものように親族の集まりでレティシアと婚約者は一緒に居た。
そうすると、大人達から「ありがたいお言葉」の話をされる。
結婚したら子どもは男女一人ずつ居たほうがよいとか、経営者の一員に加わったらこういう仕事もやらせてあげようだとか。
レティシアはにこにこと聞いていたが、婚約者が突如怒鳴り声を上げた。
『うるさい……っ!』
彼はたぶん、人生で怒鳴ったことがなかったのだろう。明らかにやりすぎて、人を傷つけていて、また彼自身も傷つけるような悲鳴に近かった。
そして、彼はぽかんとしている人達を残してその場を走り去った。
「あたし、追いかけた。追いかけてどうしてあんなことしたのって聞いた」
レティシアは、婚約者というものはいつもにこにこと優しい人だと認識していた。
レティシアの帽子が飛んだら、膝が濡れるのも構わず池に入って取ってくれる人。
近くで祭りがあれば友達との遊びよりレティシアを優先してエスコートしてくれる人。
誰にも彼との結婚を羨ましがられる、そんな人だと思っていた。
「聞いたの。そしたらね、あの人…………あたしに、怒鳴った」
彼が自分に怒鳴ることがあるなんて、そんな未来、予想すらしていなかった。
「……お前が、お前が馬鹿だからだって……」
追いかけた先に居たのはレティシアの知る婚約者ではなかった。
ひどくぼろぼろに傷ついて泣き喚いているただの少年だった。
彼は傍目から見ても混乱していて、正気ではなかったし、その時言ったことは感情に任せて言った悪口のようなものだったが、レティシアは今でも一言一句覚えている。
「女性として好きだと思ったこともないし、結婚なんてしたくもない。どうしてお前は言いなりになったままなんだ。あんなこと言われ続けて何故黙っていられるんだ。何故考えないんだ。頭がおかしい。お前も、皆も馬鹿だ。考えることをやめた馬鹿ばっかりだって」
田舎の風車の影で、のどかな風景とは反対に激情にかられた様子でレティシアは怒鳴られた。
「あの人、何度も言った。絶対に嫌なはずだって。他にやりたいことがあるはずだって。人生は一回きりなんだ、皆も、お前も、わかってない。人生は一度きりなのにどうして親の言いなりにならなきゃいけないんだ。皆もお前も頭がおかしいんだって、何度も、何度も……」
あの時は、自分が傷つけられたことより、相手が泣いていたことのほうが衝撃だった気がする。それくらい、彼はいつも優しくて、笑顔だった。
「あたしは、おろしたてのワンピースの裾をぎゅって握って震えることしか出来なかった」
悲しいことに、レティシア・アスターは、本当に彼との結婚が嫌だと思ったことがなかった。
「人生って、平穏って、あんな風に誰かの我慢で成り立ってるんだって、その時わかったよ」
運命を受け入れていたレティシアは、何も考えずに済む人生を彼女なりに愛していた。
辺境の田舎のお嬢さんとして生まれたレティシアは恵まれていたからこそ多くを必要とせず、『考える』という訓練をしてこなかった。
本当に嫌だと思ったことがなかったのだ。疑問にも思ったことがなかった。
でも、彼はずっと考えていたのだ。
この世界の果てみたいな優しい土地で、ずっと、心の中を燻ぶらせて考えていた。
そうして、その末に、自分を取り巻くもの何もかもと、調停役の自分さえも嫌になり壊してしまった。レティシア・アスターという『お嬢さん』の心と一緒に。
「あたしね、言われてさ、泣きながら帰ったんだ。すっごく泣いた。ああ、あたしが信じてきたものは全部全部嘘だったんだって。あの人が親切にしてくれていたことも、あたしの誕生日を欠かさず祝ってくれていたことも、あの人にとっては義務だったし嫌なことだったんだって。すごく悲しかったぁ……あれがね、初めての失恋だったよ……。でもね、たくさん泣いた後に気付いたの。あの人は自分の人生を選びたくて勇気を出してああしたんだなあって」
そうして、今現在の『レディ』であるレティシア・アスターに話は還ってくる。
花嫁がヴェールを被るみたいに毛布を被っているヴァイオレットがこちらを見ている。どこか心配そうな瞳だ。今も吹っ切れたとは言えないが、喋れるくらいには立ち直ったのだ。だから、安心してと言うようにレティシアは笑って見せる。
「それでね、あたし、自分の人生についてそこで初めて考えたんだ。あの人繰り返し言ってた。人生は一回だけなんだぞって。皆も、お前もわかってないって。人生は一度きりなのに、どうして言いなりにならなきゃいけないんだって……あたし、傷ついたけど、それがすごく響いて……それでね……あたしは、許嫁だとか、そういうことを親に言われるまでは、歌を唄うのが好きな子どもだったことを思い出したんだぁ……。忘れてたというか……大陸戦争もあったしね、あたしの故郷は戦火から程遠いところだったけれど、やっぱり歌を唄うのなんて不謹慎だって言われたりしたからずっと唄ってなかったの。でもね、それから誰も居ない夜空の下で唄うようにした。そしたらどんどん唄うってことが自分の中で大きくなってきて……あの人の代わりじゃないんだけど、そんな風に、まるで恋するみたいに歌うことにはまっちゃった。それで気がついたら家を出て此処にたどり着いてた。来たらね、もう笑っちゃう。あたしと同じような女の子たくさんいるの。夢を見てる女の子……ううん、女の子だけじゃない、男の子もこの世界にはたっくさんいるんだ…………なんだ~あたしってすごく激動の人生かと思ったら、ありふれた、ただの女の子だった……」
それは少し寂しげな言い方だったが、ヴァイオレットの瞳に映るレティシアはどこかきらきらと煌めいていた。大都会のすみっこで、満足に灯りもない部屋で夢を語る彼女。力が足りなくても、それでも生きる夢追い人の姿は暗闇の中でも輝いて見える。
「でもね、いいんだ……あたしの人生は一度きりで、あたしが主役で、あたしにとっては……あたしは特別なんだから……だからいいんだ……」
「……」
「ごめんね、なんかずっと一人で暮らしてたから……誰かに聞いて欲しいこと実はすごくあったみたい。紅茶……冷めちゃったね」
レティシアがそう言うと、つい聞き惚れてしまったとヴァイオレットは返した。レティシアは人にそんなことを言われたのは初めてだったので、大いに照れてしまった。
「……照れるよ。あたしなんて何処にでも居る夢追い人だよ」
「夢を、追いかける人を、夢追い人というのですか」
「そう。この街はそういう人でいっぱいなの。そうじゃない人のほうが珍しいよ」
「私はそうじゃない人です……」
「ヴァイオレットに夢はないの? 将来したいこととか……」
「……」
「恋人が居るんだから、その人といつかは一緒に……とか……それも夢だよ。あたしはさ……恋人、だと思ってた人と結婚する夢は破れたし……最後も散々だったから……ヴァイオレットには幸せになって欲しいなぁ……」
「……考えます。しばしお待ちください」
「ふふ……」
「レティシア」
「考えついた?」
「いいえ、その彼は……レティシアが夢を追うと知ったら喜ぶのではないのですか? もう一度、話し合う……もしくは、手紙でいまの状況を伝えるなど出来るのでは……」
どうやらヴァイオレットは自分の夢を検討しながら、レティシアのことも考えてくれていたらしい。レティシアは微笑みながら、胸がちくりと痛んだ。
「それは……ない、かな。あたしより前に、彼は故郷から出ていったんだけど……行ってしまう前にね、あたしもやりたいことをやってみるって言ったの。そしたらね……『お前なんて何者にも成れない』って言われちゃった」
「……」
「全部親の言いなりで、なんにも一人で決めたことのないあたしじゃ、大きな決断は出来ないって……そうやって、人に守ってもらって、安心に暮らせって」
もしかしたら、それは彼なりの優しさだったのかもしれない。ただ、それはレティシアの脳裏に深く刻まれてしまった。非凡な声があるのにも関わらず、積極的に人に披露していかない行動原理は、レティシアの気づいていないところで築かれてしまっている。
「あたし、それにむかっときて、反抗するように家を出たから……まあ、言われてよかったのかも……」
「よくはないと思われます」
ヴァイオレットの冷静な突っ込みに、レティシアは今度は吹き出すように笑った。
「でも、あの言葉がなかったらたぶん家を出なかったから……」
「……言葉は、力があります」
「うん……?」
「そういった、人を抑制する言葉は、呪いの……ようなものにすら、なるかと」
「……ヴァイオレットからそんな言葉が出るなんて……」
「長年、自動手記人形をしていますので。言葉が人を縛り、時には輝かせ、力を与えたり奪う様を見てきました」
そうかもしれない、とレティシアは思った。きっと、この先何か大きな決断をする度に彼の言葉を思い出してしまう気がする。お前なんて、何者にも成れない、と。
レティシアは怖くなって、そのことについて考えるのをやめるように首をぶんぶんと振った。
「ヴァイオレットは、考えついた?」
「……考えがまとまっていないまま、お話ししますと……私と一緒に居ても、あの方には利益がなく……私はあの方の幸せを願うのですが、私の幸せというものがあるとすればあの方のお傍に居ることで……しかし、あの方の幸せを願うなら私は離れたほうがよく……」
「待って、難しい」
「……難しいのです。夢追い人は、夢を追いかけることを諦めたりはしないのですか。または、そうなりそうな時はどうするのでしょう」
「夢追い人は夢に生きて、夢に走るの。夢を追わずにはいられない。どれだけ踏みにじられても、馬鹿にされても、それでも夢を追うの……」
「……それでも、夢を追う」
「うん。途中でやっぱり恥ずかしくなったり、やめようとするんだけど……気がつくとやっぱり夢を追いかけてるんだ。今日は……ヴァイオレットに聞いてもらえたから、夢を追う元気をたくさん貰えたよ」
「聞いていただけです」
「聞いてくれること。馬鹿にしないでくれること。それって……当たり前じゃないよ。それは、それだけですごく素敵な才能だよ」
「……素敵な才能ですか」
「ヴァイオレットも、不安なら……恋人にちゃんと話を聞いてもらったほうがいいんじゃないかなあ……聞いてもらうって、すごく大切なんだって、あたし、いま実感してるよ」
「……レティシアを見ていると、私も、何か夢があったらと……思ってしまいます……吸引力……のようなものが、夢追い人にはあります」
「そうかな……えへへ。なりたいものじゃなくても、行きたい所とか、食べたい物とかでもいいかも」
レティシアがそう言うと、ヴァイオレットは思い至ったように唇を開いた。
「…………ロズウェルの紅葉は美しく、ドロッセルの町並みは花に溢れています」
「うん?」
「天文の都、ユースティティアの夜はまるで宝石を散りばめたような空で、ダーツー地方のジャカランダ河の自然の恵みは目を見張るものがあります」
「……う、うん?」
「私は、それを、私の好きな方にもいつかお見せしたい。きっと、あの方は、目を細めてご覧になると思うのです。休みの日は、馬に乗る方で、自然が好きなのです」
嗚呼、とようやくそこでレティシアもヴァイオレットの発言を理解した。
「もし、夢を見ることが許されるのならば、私はあの方に、私が見た美しい景色を、共有……したいです」
これが彼女の夢なのだ。
なんとまあささやかな夢だろう。だが、彼女の瞳も口調も真剣そのもので。
「素敵だよ」
レティシアは何だかとても嬉しくなって、揶揄することなんて考えつきもしなかった。
「とても素敵」
レティシアは、満面の笑みでヴァイオレットの夢を肯定した。それから二人は眠る前に少しだけ一緒に歌を唄ってみた。内緒話をするように、小さな声で。レティシアはヴァイオレットの為に恋の歌も唄った。二匹の雲雀が寄り添うように、二人は互いを理解して、夜を明かした。
夢を語った夜は、レティシアにとって小さな転機となった。
人に話を聞いてもらったおかげで夢を追うことに更に熱意を抱いたレティシアは、劇場などのオーディションに行く他に、路上でも唄うことを決意した。
観客が誰も居ないと辛いが、ヴァイオレットが付き添いで居てくれると勇気が出るからだ。夢追い人のレティシアは時間の融通だけは利くので日に何度も、決まった場所で唄うことにした。レティシアの声はその小さな体から発せられるとは信じられないほど強く響く。
声をかけてくれる人、オーディションに誘ってくれる人はいたが、ほいほいと誘いに乗ると怪しい商品の説明会だったり、歌手としてのレティシアは不要で、絵のモデルになって欲しいと言われたりと理不尽な目にもあった。モデルの件は待ち合わせた場所で怪しげな男性に多額の金額を提示され、レティシアの思考の及ばないことすら提示された。
「ヴァイオレットー!」
その時は外で待っていたヴァイオレットを叫ぶように呼んだ。
「ヴァイオレットが居てくれてよかった! ヴァイオレットが居てくれてよかった!」
泣きながら言うレティシアの肩をさすることくらいしかヴァイオレットには出来なかった。
「……あたし、人を見る目がないし……運もないんだ……」
此処はアルフィーネ。夢追い人の街。たくさんの若者が夢を追って集まるが、それだけではない。その若者を食い物にする大人もまた同じくらい存在するのである。
それでも、夢追い人ゆえに、騙された次の日もレティシアは路上で唄った。
ヴァイオレットはヴァイオレットで、とある考えが浮かび、一番街の作曲家の家を訪問した。作曲家は面食らった。もはや街から出ていったと思っていたはずの依頼相手が訪れれば驚くものだ。だが、ヴァイオレットの現在の身の上話を聞くとすぐに協力を申し出てくれた。
ついでに追加で仕事も頼みたかったという作曲家なりの思惑もあった。
この訪問が後に大きな縁を呼ぶことになる。
ヴァイオレットのアルフィーネの日常が慌ただしく過ぎていく間、ギルベルトはベネディクトと車内で自分と相手、どちらがホッジンズとより親しいか言い争いをするなどしていた。
別れ際には照れ臭そうに握手をしてくれたベネディクトに見送られ、ギルベルトは寝台列車に乗り込む。後はひたすらヴァイオレットの身を案じるしかない。その静かな苦痛はギルベルトの精神や身体を蝕み、三十代になっても尚健康で若々しいギルベルトの身体の胃腸だけを弱くした。
こうしてそれぞれの動きを見ていくと、人というものは何とまあ忙しい生き物だと言わざるを得ない。誰かが、誰かを思い。その人物は他の人を気にかけ、縁が縁を呼び、予測していない方向へ運命が動いたりもする。何にせよ、それは行動する者に与えられた試練と福音だろう。
試練を受けている間は、福音とはわからないものだが。
いざ福音が訪れると、視界を阻む霧が晴れたように、何もかも開ける時がある。
運命の神様が居るとすれば、悪戯が好きに違いない。
とある街で、不慮の事態で滞在していた名うての自動手記人形が。
「ヴァイオレット……?」
遠い日に、秋の紅葉が湖の水面に浮かぶ頃、出会った人気小説家と再会するとしたら。
この小説家なら、運命の神様の悪戯だと本に記すだろう。
「旦那様……」
ヴァイオレットにとって、もうたくさんの旦那様の一人ではあるが、彼にとってはそうではない。くせのある赤毛、レンズの分厚い黒縁眼鏡、服装は少し洗練された気がするが、寒がりは変わらない。
「ヴァイオレット、本当にまだこの街に居たなんて……聞いたよ。クロウリーにこき使われているんだろう? あいつには君を困らせるなと釘を刺していたんだけど……あ、ちょっと待ってくれ、僕のことがわからないだろう……君に依頼したのは随分前だし……僕は……」
「ロズウェルにお住まいのオスカー様です」
はっきりと、返されて、今や劇作家として再人気を果たしているオスカーは。
「……」
ゆっくりと相好を崩した。
「……うん」
何処かで、ヴァイオレットならば覚えていてくれるのではという期待がオスカーにはあった。
彼女はそれを、見事に叶えてくれた。
「……そうだ。オスカーだ。ヴァイオレット、元気そうで何よりだよ」
再会は彼にとって本当に嬉しいものとなった。ヴァイオレットは、オスカーの笑顔に目を細める。
「笑った」
オスカーが驚いてつぶやく。
「笑う、という機能です」
「……君が言うと洒落にならない。元気そうで何よりだよ……本当に、会えて嬉しい」
「はい、私も……また、お会い出来る日が来たらと思っていました。オスカー様……」
ヴァイオレットは、珍しく少しそわそわとした様子を見せてからまた口を開いた。
「傘を」
「うん?」
「頂いた傘をいつも持ち歩いているのです」
「ああ……嬉しいよ。ありがとう」
「今は、自動手記人形ではないので持ち歩いていませんが……いつも……持っています。とても良い品で、何処に行っても活躍してくれるのです」
「うん……良い品なんだ。君にふさわしい」
「次にお会いする時は、持っているところをちゃんとお見せするつもりだったのですが……」
「え、待って。さらっと聞き逃したけど……君、自動手記人形を辞めてしまったのか? また、何で?」
ヴァイオレットはちらりと人だかりの中で唄っているレティシアを見る。今日も彼女は唄っていた。彼女はヴァイオレットが自分を見てくれていないことに気がついていたのか、『その人だれ?』という視線を唄いながら送っている。
「話すと……少し……長くなるのです」
「いいよ、気になって仕方なくて生きられなくなる。話して」
「それは大仰では……。辞めてはいないのですが、今はお金が必要で違う仕事もしております……内緒ですが……買いたいものもあるので、作曲家のクロウリー様から追加のお仕事も頂きました。オスカー様は、クロウリー様に会いに?」
「次の仕事がクロウリーに依頼するもので、打ち合わせに来たんだ。出不精だった僕がロズウェルからアルフィーネに来るようになるなんて、君と居た時は思いもしなかったよ……あの、さ……良かったらもっと話をしないかい。あの偏屈なクロウリーに君を紹介したことも謝りたいし、簡単な食事とか……それに、君のいまの状況がどんなものか教えてくれたら、力になれることもあるかもしれないし……あ、これは変な意味じゃない。断じて違う」
オスカーの言葉は、はたから聞けば女性を口説いているように聞こえただろう。
だが、彼の心情としては久しぶりに出会った亡き娘との約束を果たしてくれた人との邂逅を喜びたいだけだった。久しぶりに見ても、やはりあの娘が生きていればこんな女性になったのだろうかと思う気持ちは変わらない。
これくらいまで、生きて欲しかったという気持ちも。
「はい、今日は仕事がありませんので」
ヴァイオレットがあっさりと承諾してくれたので、オスカーは胸を撫で下ろした。彼は基本的に明るい性格ではないのだが、自然と朗らかな笑みが浮かんだ。
「ああ、でも少し待って。あの娘の名前を聞いてからでもいいかな。次の作品も劇の脚本で、役者は決まっているんだけれど主題歌を作ってそれを売り出すことになってるんだ。あの子はいい声をしているから、どこにも所属していなければ一度話を聞いてもらいたい」
「……あの娘、とは、いま我々の周囲にある人だかりの中心に居る……彼女でしょうか」
「うん。もう何処かに所属してるかな……いや、してるよなあ……」
「していません」
「どうしてヴァイオレットが知っているんだい」
「オスカー様、彼女は夢追い人で、夢を追っている最中です」
「ヴァイオレット、な、何でそんなにぐいぐい来るんだ……」
「双方にとってとても有益な情報を私は所有しています。ぜひ、唄い終わるまでお待ち下さい」
「わかった。待つから。ヴァイオレット……その、嬉しいんだけど腕を握られると結構痛いんだけど……」
人と人とがもたらす縁という奇妙なものに、ヴァイオレットは珍しく感情的になったようで、オスカーとレティシアを互いに紹介し終えるまで彼の手を離さなかった。
歌が終わると、ヴァイオレットは急ぎ二人を引き合わせた。
ヴァイオレットが誰かと手を繋いでこちらに向かってくることにレティシアは驚いた。
――え、あの人が恋人?
盛大に勘違いをしたが、挨拶が終わると誤解は解けた。
そして再びヴァイオレットから今年一番の驚きを貰うことになった。
劇作家のオスカーをアルフィーネで知らない者はいない。
「レティシア、歌を、見込まれています」
「いい声だと思う。レティシア、レティシアで良いのかな?」
話せただけでも舞い上がってしまう大物だ。
かなり気難しい人だと噂で聞いたが、ヴァイオレットと居る彼は気の優しい大人の男性に見える。
「い、いえ……あたしなんか」
「良かったら、公にはしていないオーディションに参加しないだろうか。関係者で参加者を各自探しているのだが、あまり見つかっていない。僕から君を推そうかと思う」
急な展開にレティシアは顔がひきつった。
嬉しい。嬉しくてたまらないのに心臓が棒で叩かれているように痛い。
耳に入ってくる音がぼんやりとして聞こえる。
喉がからからで、目も見開き過ぎて痛い。
「何が歌えるのかな。もっと高い声もいける? それとも低い声が得意?」
ヴァイオレットが珍しく嬉しそうにしている。
この出会いをもたらしてくれた彼女に感謝しないと。
だが、声が出ない。
「レティシアは、何でも上手です」
そんなこと言わないで。上手じゃない。だって、まだ。
まだ、自分は。
「それで、どうかな。レティシア」
まだ、『レディ』のレティシアなのに。
――嗚呼。
そこでレティシアはハッとした。
理解してしまった。
自分はきっと、もう一度満足していたのだ。
夢を追いかけて、この街に来た。現実を知って、それでも負けずに頑張った。
でも何処かで、いつかは故郷に帰ってしまえばいいという気持ちもあった。
だって、もし、本当に夢が叶ってしまったら。
『レディ』ではない、名前のついた存在になってしまったら。
――もう誰のせいにも出来ない。
ふと、婚約者の顔が浮かんだ。
今まで、自分を傷つけた婚約者のことを多少なりとも恨んでいた。
なのに、こんな言葉が脳裏によぎるだなんて、どれだけ甘えていたのだろう。
――これ、あたしの人生なんだ。
歯車が動き出した途端、怖くて放り出したい。
だって、逃げてしまったほうが、絶対に楽だ。
諦めるのは簡単で、挑む方が大変だ。
決断することは、人によっては大きな負担となる。
そして、こういう時にこそ、その人が受けたトラウマは容赦なく攻撃してくる。
『お前なんて、何者にも成れない』と。
「ごめんなさい……あたしには荷が重いです」
レティシアは気がつけば自分の気持ちとはまったく違う言葉をオスカーに吐いてしまった。
その後、レティシアの記憶は途切れた。
確か、自分で家に歩いて帰った気がする。
後ろからヴァイオレットが何度も名前を呼んでいたが、返事もしなかった。
レティシアは自分がしたことを振り返って、羞恥に顔を焼いた後、青ざめた。
――謝らなきゃ。
ヴァイオレットにも、オスカーにも。両方にだ。世話してくれようとしたのに失礼なことをしてしまった。慌てて立ち上がるが、足に力が入らず部屋の中で一度転んだ。
自分の部屋に居ることは確認出来たが、ヴァイオレットは居なかった。
羽織物を着て、アパルトマンの外通路に出てみると、住民仲間の女性と鉢合わせた。
時刻は夕方、彼女はこれから夜の世界に稼ぎに行くのだ。
「ああ、レディ」
レディ、といつものように呼ばれた。
もしかしたら何者かになれたかもしれないのに、自ら放り投げたのだ。
あれだけ夢追い人は、とヴァイオレットに語った癖に、いざ目の前に好機が訪れると逃げてしまった。所詮、それまでの人間だったのだ。どうせ、何者にも成れない。
「ようやく起きた……良かった。もう仕事行く時間だよ。あんたと最近住んでた、金髪の子さ」
「ヴァイオレット……?」
「そう、その子。あんたがもし目覚めたら、自分を探しに行かず、夜まで家に居ろって言ってたよ」
「……」
「あんたの代わりに、仕事してくるって。あと……ちょっと待ってな。オスカー!」
本日何度目かわからない度肝を抜かれる出来事。
何と、住民の女性が階下から呼んだ相手は、レティシアが逃げて置いてきてしまった張本人。
「レティシア起きたよ! こっち来な!」
オスカーは片手を上げて階段を上ってくる。レティシアは驚きを超えて恐怖した。
「え、な、何で!」
「オスカーのこと? 知らないけど。さっき知り合いになったばかりだもん。女性の部屋に無断で入るのが気が引けるから、起きたら呼んで欲しいって言われてて。煙草吸う間ならいいけどって了承してたの。あの人、紳士だねえ。普通、煙草吸うわけでもないのに外で待つ? あんた、家に帰るなり気絶したってヴァイオレットも言ってたし、なんか……とんでもないことでもあったの?」
「……」
「言いたくないならいいけどさあ。あんた、礼を言いなさいよ」
そう言うと、女性は仕事に行くと言ってヒールを鳴らし颯爽と去っていった。
残されたレティシアは、寒そうに肩をすくめているオスカーと対面する。
「……」
何か言わなきゃ。そう思ったが、言葉がひねり出せない。
「……レティシア」
「は、はい!」
素っ頓狂な声が出た。
――もう嫌だ。あたしはみじめな馬鹿だ。此処で死んでしまいたい。
泣きそうになっているレティシアに、オスカーは距離を保ったまま言う。
「僕は、寒がりなんだけど、君はどう?」
「……え、え……?」
「あと、好きな食べ物はスープ。作るのが楽だから」
オスカーは、突然、滔々と自分のことについて語りだした。それは概ね大した情報ではなかった。全て聞くと、彼が若干破綻している生活をした表現者だということがわかる。
「あとは……あとは、そうだな。僕は、残りの人生を……亡くなった家族が喜ぶような作品を作ることに邁進してる。それくらいかな……。後は君のことを教えて」
「……あたしのこと、ですか」
「そう。言っておくけど、僕はあれくらいじゃ諦めない。君達みたいな表現者は、大抵が繊細過ぎて、扱いにくく、尊大で、好きなこと以外は無知で、臆病な癖に勝負に挑みたがる。僕を含めてね。だから、誘ったら逃げられるのは別に君が初めてじゃない」
「そう……なんですか」
不思議だ。彼の人となりを教えてもらったせいだろうか。最初に出会った時のような恐れが、少しではあるが薄れていた。馬鹿みたいだが、ようやく血肉がある人間に見える。
「僕が怖くないということを、まず知ってもらいたい。それから、必要な事態になれば、君のご両親に説明に行ってもいいし、君が不安なら不安じゃなくなるまで大丈夫だと言い続けることくらいはする」
「……」
「僕らみたいな夢を追って生きる変わり者はさ、恥ずかしい奴かもしれないけど、そういう奴らしか出来ないことを見せて、世の中を楽しませたいと思わないかい?」
「ヴァイオレットに何か……聞きましたか?」
「いいや、聞いちゃいない。でも君は典型的な人だから」
「……」
「ありふれてて、典型的な夢追い人で、怖くなったら逃げる女の子だけど」
「…………」
「でも、歌はすごいよ」
レティシア・アスターは、その時。
――嫌だ。やっぱり夢を追いたい。逃げたくない。
その言葉で『レディ』で居たくないと思った。
――怖い。
――自分で人生を決めてきてないつけが今来てる。
――でも、でも。
――この人、あたしの歌を、褒めてくれた。
なんて簡単な奴だろうと自分でも思った。無責任で人騒がせな奴だとも。
だが、勇気づけられる。
この小説家も、まだ夢追い人なのだ。
大人で、大成していても、自分を恥ずかしいと、思う人なのだ。
「……本当にあたしでいいんですか?」
やっと、まともな言葉が出た。
「あたし、その、今まで……ちゃんとした実績がなくて……」
「今回はそういう人を対象にしているから大丈夫。有名な人ではなく、まだ雑踏の中に居る君のような原石を磨いていこうという企画も兼ねているから」
「……あ、あたし、どういう格好していけばいいですか? 必要なことありますか? いまやっておけばいいこととか」
「何もないよ。好きな服を着ておいで。一応、劇場で映えるかも確認するからドレスのほうがいいけれど、なければ普段着で大丈夫」
「……どうしてあたしでいいんですか? ヴァイオレットの知り合いだから?」
「順番が違う。君を見て、ヴァイオレットを見つけたんだ。知り合いだとわかったので……まあ、贔屓はしてしまうかもしれないが、決めるのは僕だけじゃない。期待も、気負いもせず、挑んで欲しい」
「……はい」
「でも少しは期待しているよ」
「はい……ありがとう、ございます。逃げてごめんなさい……」
「言っただろ。慣れてる。でもその繊細さも、たぶん……君らみたいな舞台に立つ人には必要なんだろう……」
その日の夜、帰宅したヴァイオレットをレティシアは抱擁と謝罪で迎えた。
「ヴァイオレット、ヴァイオレット、あたし、話したいこと……ある」
「私もあります」
「人生のね、転機がね……」
「順番に話しましょう」
オスカーとの再会はヴァイオレットの転機にもなった。
事情を聞いたオスカーが金銭の援助を申し出たのである。ヴァイオレットは断ったが、ならばと代筆の仕事を即金で頼んでくれた。ファンレターの返事の宛名書きだ。この街に滞在しながら、仕事の空いた時にやっていこうと持ってきていたらしい。
仕事は三十分もかからず終わってしまったが、料金はどう考えても通常料金より多く見積もられていた。
「受け取れません」
「君を題材にした劇が当たって、仕事も途切れないんだ。これくらいさせてくれ」
「受け取れません」
「いつか、君にまた代筆を頼む時……その時に、ご飯を作ってくれたらいい。僕は後から知ったんだけど、あんなことは自動手記人形の仕事じゃないらしいじゃないか」
「旦那様は、困った御方でしたので……」
「また、そう言って叱ってくれよ……ヴァイオレット・エヴァーガーデン」
ヴァイオレットも、期せずして帰りの旅費を余裕でまかなえる賃金を手に入れることが出来たのだ。
誰かと誰かが出会うことは、非常に大きなうねりを持って瞬く間に世紀の瞬間とも言える何かを作り出していくこともある。
今回はそれぞれの人生においてささやかな変化ではあったが、それでもそれぞれが努力して生きていないと起こり得ないものだった。
そして、何かが始まるということは、何かが終わることでもある。
ヴァイオレットとレティシアは、様々なことが決まってしまった。
もうお互い、一緒に居る理由がない。
レティシアは、ヴァイオレットから翌日の朝に発つと言われたが、あえて大仰な反応はしなかった。何となく、それをしてしまったら、もう本当にお別れだと意識してしまいそうで、そうすると、大泣きしてしまいそうで怖かった。
「ヴァイオレット、ごめんね」
「それはもう、何度も言って頂きました」
「でも何度も言いたい。今日、すごく良くしてくれたのに逃げてごめんね。あたし……怖くって……目指している癖に、怖くて逃げて、馬鹿だよね……」
「……私も、好きな方が良くしてくださるのに……逃げてしまっているので……馬鹿です」
「ヴァイオレットは馬鹿じゃないよ! あたしが馬鹿なの! ごめんね……」
レティシアにはその日、選択することがたくさんあった。
最後の選択がいま訪れている。
このまま、穏やかにヴァイオレットと別れるか、それとも思っていることを告げてみるかだ。実は、出会って一夜を過ごしてから、ずっとそうなったらいいのにと思っていた。
そんなことは夢物語なのだが、それでも、夢を抱くことだけは、罪じゃない。
だから、最後の夜のお茶会で、レティシアは思い切って言ってみた。
「……ねえ、あのさ……ヴァイオレットさえ、よければ……いつまでも一緒に暮らさない?」
叶わないと知りながら言ってみた。
「彼と結婚がまだなら……此処で自動手記人形をやるとか……そうだよ……あたし達ならさ、きっと楽しくやれる気がしない? おばあちゃんになってもさ、きっと仲良くやれると思う。ね、ヴァイオレット」
こんなことは叶うわけがない。それでも言ってみたかった。
自分がそれくらい、彼女のことが好きだと意思表明をしたい思いもあった。
「……いいえ」
ヴァイオレットは首を振った。
当然だ。彼女には故郷があり、好きな人も居て、やるべき仕事もある。
こんな願いを言ったところでどうにもならないのに、何故言ってしまうのか。
それでも、レティシアはみっともなくすがるように続けた。
「…………あたし、あのね、本当にね」
何だか、うまく言葉にならない。
感謝したいことが山程あるのに。
――ヴァイオレット。
「いつまでも、いつまでも、貴方と、この小さな部屋で暮らしてもいいなって」
――ありがとう。
「いいなって、そう想うくらいね」
――最初に、助けてと言ってもいないのに助けてくれてありがとう。
「好きよ」
――夢を教えても、笑わないでいてくれてありがとう。
「ヴァイオレットが、好き」
――夢を、応援するように、縁を結んでくれてありがとう。
今も、一緒に、居てくれてありがとう。
「好きになったんだよ」
夜の闇の中で。
二人の息が白い。
本格的に冬が訪れようとしているのだ。
二人が互いを見つめ合っている間に、空からはひとひらの雪が舞い降りていた。
ひとつ、またひとつ、地上に落ちていく。
きっと明日には地面を白く染めることだろう。
今日と明日は同じではない。
単調な毎日を繰り返していても同じ日というものはけして訪れない。
出会いも、別れも、世界中、毎秒、何処かである。
それが自分のところに来ると、驚いてしまうけれど。
時間は確実に過ぎていくのだ。
それに怯えているようでは、夢追い人には向かない。レティシアも、わかってはいる。
わかってはいるのだ。
「レティシア」
「……ヴァイオレット……」
わかっていても、泣いてしまうくらい別れが辛くなる出会いというものはある。
人生にそう何度も訪れるものではない。
今回、レティシア・アスターは運がよかった。
こうなることが必然のように、ヴァイオレット・エヴァーガーデンを自分の人生で引き当てたのだから。この先どうなるにせよ、運が良かった。
「……レティシア、貴方は夢追い人です」
レティシアは鼻をすすった。もう、何度も顔を拭わないといけないほど涙が出ていた。
「うん」
「私は、此処に居ることは出来ません。私はこの街の住人には、なりません」
その言葉は、雪のように冷たく、しかしはっきりとした現実。
「さみしいよ……」
「夢追い人は、それでも夢を追うのでしょう」
「……さみしいよ……離れ、たく……ないよ……」
「……この部屋で……私も夢を見ました。私はその日々を、きっと、『おばあちゃん』になっても、思い出します」
どうして、こんな風に胸を刺すことを言うのだろう。
別れが辛くなるばかりだ。
けれども、こんな風に、率直な人だからこそ。
「……あたし……きっと、次だって失敗するよ……泣いて帰るあたしを……誰がなぐさめてくれるの……貴方はもう居なくなるのに」
レティシアも夢を語れた。恥ずかしくないと、背中を押してもらえた。
「……私は、わかっています。貴方は、そう言っても、私と別れたらきっと涙を拭って貴方の戦いを始める」
もうそれで十分じゃないか。そう思いたい。
良い子であるのは慣れたものだ。我儘を言ってはいけない。
「貴方はそういう人です。夢を追わずにはいられない。どれだけ踏みにじられても、馬鹿にされても、それでも夢を追う。それが、夢追い人なのでしょう……?」
「でも、ヴァイオレット」
言ってはいけない。
「ヴァイオレット、あたし、怖い」
言ってはいけないのに、止められない。
急に動き出した未来が、怖くて、怖くて、たまらないのだ。
――まだ『レディ』で居たい。でも居たくない。
――まだ見ぬ未来を見てみたい。自分で未来を切り開くのが怖い。
どちらも真実で、だからこそ震えるほど怖い。
「……見せてください。この部屋で話した夢を、私にきっと見せてください」
レティシアは、たまらずヴァイオレットの膝になだれ込むようにすがりついた。誰かにすがるという行為とは、なんと情けなく恥ずかしいものなのだろう。けれども、そうしてしまう。
この人だからこそ、拒絶されても、すがりたい。
「ヴァイオレット……あたし、あたし……出来るか、わからない」
嗚咽を漏らしながら、ヴァイオレットに言う。
「いいえ、貴方は戦える人です。レティシア」
「どうしてそう思うの……あたし、特別じゃない」
「特別になろうとしている最中です……怖くていいのです。けれど、戦うことをやめないで」
「……うん……あたし、頑張る、戦う……」
「はい、負けないで……下さい」
「あたし、負けないよ……ヴァイオレット……ねえ、遠くでもいい。見ていてね……」
――あたし、この人を誰かの代わりにしている。
お母さんか、お父さんか、それか。
本当だったら自分の人生を支えてくれていた彼の代わり。
それでもヴァイオレットが膝を貸してくれるから。今日限りで、この優しさからは卒業するから。だから、レティシアは泣いて、泣いて、泣いて、逃げないと誓った。
翌日、レティシアが起きると手紙と大きな箱が置かれていた。
さよならは昨日したようなものだが、黙って出ていくなんて。そう寂しく思ったが、手紙を読んだらその気持ちはなぐさめられた。手紙はこう書かれていた。
『レティシアへ
これは、贈り物です。私は最近、人間になってしまっているのです。ですから、別れが辛くなって、泣いてしまう気がしました。手紙でさよならを告げることをお許し下さい。
ヴァイオレット・エヴァーガーデン』
言っていることはよくわからなかったが、あのヴァイオレットが泣きたくないからと逃げたのなら、それだけ思ってもらえたということだ。レティシアは、こんなに凪のような気持ちでいられる自分が不思議で仕方がなかった。もうヴァイオレットとは会えない。だが、何だかまた会える気がして仕方がないのだ。約束を守る人だとも思う。あの娘が『見せてくれ』と言うのだから、自分が本当に歌手としての姿を『見せられる』ように成れたら。
――『お前なんて何者にも成れない』。
何者かに、成れたら、きっと見に来てくれる気がする。
レティシアは手紙を丁寧に封筒に戻してから、次に大きな箱に目を向けた。冬の日の、朝日差し込む部屋の中、しゅるしゅるとリボンを紐解く音が響く。開けた置き土産の箱の中には、白いドレスが入っていた。二人で眺めたショーウインドウのドレスだ。
高くて買えないと、諦めたドレス。これ以上の激励があるだろうか。あの娘は戦えと言った。
そうして置き土産には、この世界に咲く花としてふさわしく立ち振る舞える戦装束を選んでくれたのだ。働いたお金をまたほとんどこれに使ってしまったのではないだろうか。
お腹をすかせて帰りの汽車賃だけ持っていくヴァイオレットは想像に容易い。
「……見せられるようにしなきゃ、だなぁ……」
夢追い人は、どんなことがあっても夢を追う。
独りぼっちでも、夢が叶わなくても、諦めず、あがいて、あがいて、生きなければならない。
ドレスを抱えて泣きながら、レティシアは一つ誓いを立てた。
夢を叶えるまで、泣くのはこれを最後にしよう、と。
散らばっていた舞台は、やがてひとつの場所へ収束していく。
ギルベルトがベネディクトの車に揺られ、機関車に乗り換え、アルフィーネにたどり着くと彼はホッジンズに記してもらった縁のある商家へ訪れた。
電話線リレーはうまく行ったようで、商家の店主には既に話が通じており、ヴァイオレットらしき人物は郵便物の送り先の人物と街で働いているらしいということがわかった。
まずは住所に行くのが妥当だろうと思い出向いたが、あいにくの所誰も居なかった。
その頃、家主のレティシア・アスターはオーディションを受けていた。
仕方なく、ヴァイオレットの足取りを辿るようにギルベルトはヴァイオレットが働いた場所へ足を運んだ。
配膳で駆けずり回った飲食店、大きな犬を飼っている富豪の家、夜の夢をふりまく小劇場のある酒場、様々な場所へ訪ねて回ったが、あの娘はもう街を出ると言っていたと聞かされる。
――一足遅かったか。
必死になって、北の大地からライデンシャフトリヒに来て、それからここまで大移動。ホッジンズが愚かだと止めたことが今になって身に染みてきた。
「……」
無事なら良い。それで良い。
そう思って自嘲の笑みを浮かべることしか出来ない。
他人から見れば、何と無駄な行為だと笑われることだろう。
実際そうだ。ギルベルトもこれが他人だったらそう思った。だが、止められないのだ。
ヴァイオレットと出会ってから。
彼女が「しょうさ」と言ってくれた時から。
愛していると伝えた時から。
傍に居たいと許しを乞うた時から。
ギルベルトはゆっくりと変わっていき、もはやギルベルト・ブーゲンビリアとして家名の為だけに生きていた少年時代からは大きく乖離してしまった。
たった一人の少女が、これだけ一人の男を変えた。
それはギルベルトも同じことだ。
たった一人の青年が、獣を少女に変えた。
だが、その行為の大きさを互いに確認し合うことが出来ず、相手の方ばかり輝いて見える。
相手が大切すぎて、自分が居ないほうがいいのではないだろうかと思ってしまう。
けれどもやはり一緒に居たい。
それは、何も特別なことではなく、遥か昔から、東西南北、何処でも恋人達が抱いてきたありふれた感情なのだ。
何度か経験していけば慣れていく。二人は、これが初めてで、だからこそ苦しい。
「……」
帰るか、と雑踏を見ながらギルベルトは思った。
ヴァイオレットが居ないのであればもはやこの街に用はない。今から帰れば、少しだけでもライデンシャフトリヒでヴァイオレットと会えるかもしれない。
もし、会えたら、不安にさせたことを謝って。
それを受け入れてもらえたら、そうしたら。
そうしたら、今度こそ二人でこれからどうしていくか話そう。
離れることがあっても、きっと大丈夫だと思えるように、お互いが納得するまで。
そこまで考えてギルベルトは、ふと、ある音が近づいてくることに気づいた。
もう何度も聞いた音だ。
再会してから、会う度に、その音が近づいてくると笑顔になれた。
ブーツのコツコツという音。
彼女特有の、生真面目な性格が見える規則性のある足音。
それと、何処に行っても、どんな場所でも、恐らくは聞き漏らすことがない言葉。
「しょうさ」
彼女が彼に、初めて喋りかけた言葉。
ただの階級名で、今では大佐となった彼に不似合いであるのに、彼女にだけは呼ばれる度に愛おしさが増す魔法の言葉。
ギルベルトは息を呑んで振り返った。
揺れるダークレッドのリボン。
プルシアンブルーのジャケット、スノーホワイトのリボンタイワンピース。
ココアブラウンのロングブーツとトロリーバッグ。
そして胸元に輝くのは二人を繋ぐエメラルドのブローチ。
もう少女兵ではない、ただのヴァイオレットではない。
彼の道具でもなく、獣でもなく。
自動手記人形として今を生きる、女性。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンがギルベルトに手を伸ばしていた。
「ヴァイオレット」
「少佐」
急に振り返られて、少し驚いたのか、ヴァイオレットは伸ばした手を胸元に引き寄せ、そのまま下に落とした。自分の方に再度向けられることのない手を、ギルベルトは逃さなかった。
手首を掴んで、ヴァイオレットを引き寄せる。
「しょ、う、さ」
もう片方の手を頬に添えて、間近で彼女を見た。
碧い瞳に金糸の髪、端正な顔立ちは人形の如く。正真正銘の彼のヴァイオレットだ。
「ヴァイオレットか……?」
その不可解な問いかけに、ヴァイオレットはそれでも生真面目に返事をした。
「はい、ヴァイオレットです。少佐」
彼から至近距離で受ける視線に耐えられないのか、頬は紅潮し始めている。
ギルベルトは深く息を吐くと、そのままヴァイオレットを腕の中に放り込むようにして抱きしめた。紳士な彼にしては少々乱暴な抱擁だったが、どれだけ彼が再会を熱望していたかはヴァイオレットにもよく伝わった。
「……あの、偶然かと思ったのですが、もしや、私を探されていましたか……私はつい先程までお世話になった方々に街を離れるご挨拶をしていまして……」
「……探した。君を探していない日は、恐らく私には無いが……そうではなく、本当に探した」
「少佐は、北の駐屯地にいらっしゃったのでは……」
「休暇をとった。君からの返事がないから」
ヴァイオレットは身動きが出来ない状態から何とか顔をずらしてギルベルトの顔を見ようとするが、がっちりと大きな体に隙間なく抱きしめられてそれが叶わない。
抱きしめてもらったことは一度ある。再会した時だ。
あの時は会えたことが嬉しくて、すがるように泣いて、ただそれだけだった。
こんな風に、抱擁されたことは初めてで。
「しょ……うさ……」
自分を抱きしめたまま離れようとしない年上の恋人に、どうしていいかわからず声が上擦っている。まるでただの乙女のように。
「わ、たしに、返事を……?」
頬が、熱い。薔薇色に染まる。
「……君がこちらに長期出張していた間のことだ。受け取れないのは仕方がない……事情は把握したが、どうしても、君がしている誤解を解きたくて……此処まで来てしまった」
ヴァイオレットは、こわごわと尋ねた。
「私の手紙が、少佐を、傷つけましたか」
「……それは私の台詞だ」
「私は、少佐に傷つけられていません」
その言葉はギルベルトの胸を刺した。
どうしてこの娘は、自分を疑わないのだろう。
せめて此処でなじってくれたら、まだ気持ちが楽になれた。
そうはしてくれない人だから、ひどく辛い。
「いいや……」
ギルベルトはようやくゆっくりと体を離し、ヴァイオレットの顔を見下ろした。
「私が、君を傷つけたんだ。ヴァイオレット」
今度はヴァイオレットが息を呑む番だった。見つめる先の顔に輝くエメラルドの宝石は潤んでいて、彼の顔に悲しみが深く刻まれていたからだ。
その瞳に、見つめられると、もう、ヴァイオレットの機能は停止してしまう。
どうしようもないのだ。止められない。自動的なことだ。
「ヴァイオレット、君を恥ずかしいと思ったことは一度もない」
その宝石は、出会った時から「美しい」で。
彼女を魅了してやまず。
「……君が居なくては、生きていけない」
誰かにどれだけ非難されようと、咎められようと。
「君以外、何も欲しくない」
諦めることが出来ず。
追いかけて、追いかけて。
「お願いだ。私から離れようとしないでくれ」
追いかけて、追いかけて、追いかけて、追いかけて、追いかけて。
やっと傍にいることが許された、最愛の人の瞳。
想う気持ちが、止められない。
止められないのだ。
もはや、ヴァイオレットの『故障』は直りそうもなかった。
きっと生涯直らないだろう。
「しょう、さ」
だが、それでもいいのだと。
「少佐、少佐、少佐……わたし」
ようやく思い至ることが出来たなら。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンはギルベルト・ブーゲンビリアによって完成される。
愛が、獣をここまで変えた。
恋が人形を人にした。
だから獣は、その宝石の瞳を人生の喜びと痛みと美しさに輝かせ。
世界で唯一。
何よりも代え難い主に向かって吠えた。
「……私、少佐を、愛しているのです。生涯、お傍を離れません」
――あいって、なんですか。
ギルベルトの瞳に、何故か昔の彼女が重なって見えた。
自分の告白がわからないと言った時の彼女だ。だがその少女はいま、成長し、まるで自分を守るように愛を宣言してくれた。
エメラルドの瞳から、涙が雨のように落ちる。
ヴァイオレットは、今度こそちゃんとギルベルトに手を伸ばした。
伸ばして、手袋越しに彼の頬を撫でた。機械の手がギイと鳴く。
「……」
もっと、やわらかい手のひらだったらどんなに良かっただろう。
泣いている愛しい人を包むのに、あまりにも呪われていて。
あまりにも、冷たく硬質だ。
「この手で、少佐を、守ります」
けれども、この腕は強い。
彼を守ると言えるほどの、自信をくれる。
ギルベルトは、自分でも溢れる涙をどうにかしようと目尻を押さえながら言う。
「ヴァイオレット」
「はい」
「……守らなくていい」
「いいえ、守ります」
「違う。私が君を守るんだ」
「違いません。私がお守りします。生涯かけてお守りします」
頑固者の二人は、対立すると互いに引くことがないのだが、大抵はヴァイオレットが勝つ。
先に惚れた弱みかもしれない。それとも普段、彼女があまりにも従順がゆえに、強気にこられるとどきりとしてしまうからか。
「……ヴァイオレット……」
「少佐……いま、わかりました。私が何であろうと、そしりを受けようと、貴方が私を求めてくださるのなら、私はそれで良いのです」
そうして、ヴァイオレット・エヴァーガーデンは言う。
かつて彼に告げた台詞を。
「貴方を守る」
同じように、しかし違う温度で囁く。
「けしてお疑いにならないでください。私は貴方のものです」
恋の温度で、宣言する。
「私は、少佐を、愛しているのです」
彼を守る。ただその一心で。
ギルベルトは、少し唖然とした様子で言った。
「……君に、ちゃんと言われたのは……今回が初めてだったような気がする」
実際、驚いていた。近いことは言われていたが、こうもはっきりと彼女の口から愛の告白が出たことはなかった。
――いま、ようやく。
ギルベルトは、胸の中で、何か、たとえようもない感情が自分を感極まらせていることに気づいた。
――いまようやく、普通の恋人達のように、なれた気がする。
二人は、思えばずっと後ろをついていったり、背中を探したりと、一方通行だった。
互いに『愛している』と言ったことで、やっと二人で同じ地点に立てたのだ。
ヴァイオレットは深々と謝罪した。
「申し訳ありません。もう、言うことを覚えました。必要とあれば、何度でも言います」
命じて下さいと、言わんばかりな態度だ。こういうところが変わっていくのは、まだまだ時間がかかることだろう。ギルベルトは、彼がヴァイオレットにしか向けない、優しいまなざしを注いで囁く。
「……私の心臓が持たないかもしれないから、訓練が必要だな」
「少佐の、心臓が……」
「いまのは比喩だ。心臓は実際には大丈夫だよ」
「……安心しました」
「ヴァイオレット……私が、君を愛していることは……君は理解してくれているか?」
「はい、少佐は私を愛してくださっています」
「君が最愛だということも?」
「……私も、少佐が、さ、い……あい、です」
「……すまない。言わせてしまっただろうか」
「いいえ。私の、心臓も……きっと……少佐の仰るように、もたないのです……その、少佐に見つめられると……途中で言葉が、出なくなるのです……」
「私もそうなるよ」
「……少佐もそうなりますか?」
「ああ」
ギルベルトは、もう何もかもがたまらなく愛おしくなった。
ヴァイオレットを見つめると、ギルベルトは笑顔が浮かんでくる。
すると、涙がこぼれてしまうのだが、ヴァイオレットが手を伸ばして拭いてくれた。
拭いている内に、ヴァイオレットも涙をこぼす。
「……故障です、少佐」
「涙は、故障じゃない。泣いていいんだ。ヴァイオレット」
「…………はい」
二人は、自然と手を絡めた。そして歩幅を合わせて歩き出す。
両腕が義手の娘。片腕が義手。片目を失った男。一風変わった二人だ。だが雑踏の中に紛れてしまえば、関係ない。何処へでも行ける。誰に咎められても。けして許されなくても。
ヴァイオレットは最愛の人に、少し弾む声で囁いた。
「少佐、私……お会いしない間に、ご報告することが増えました」
「ああ……ぜひ、たくさん聞かせてくれ。君の冒険は、私の楽しみだ」
「はい。今回は夢追い人に夢を教えて頂いたのです」
「夢追い人?」
「はい。夢を見る人です。私も少佐と、いつか……行きたい場所がたくさんあるのです」
「ひとつずつ、行こう」
「行けるでしょうか」
「生涯かけて守ってくれると先程言ってくれただろう。私のほうが年上なので……杖をつく前に、実行していこう。大丈夫だ、ヴァイオレット。時間はある……」
「少佐に夢はありますか」
「…………人に聞かせたことはないが、ある」
「私が聞いてもよろしい夢でしょうか」
「君にしか恐らく言えないだろう」
何でしょう、とヴァイオレットが尋ねると。
ギルベルトは、月並みだが自分の家庭が欲しいと囁いた。
「少佐、それは私でも……よいのでしょうか」
ギルベルトは、その言葉でまたエメラルドの視界がかすんだ。
――どうして、君は。
この自動手記人形の恋人は、的確に心臓を打つ言葉を告げてくるのだろう。
ギルベルトのヴァイオレットの手を掴む力がぎゅっと強まる。
『君しかいない、ヴァイオレット』
そう返すのは簡単だ。
随分前から彼女への愛を隠すことは止めた。
息を吐くように、言うことが出来るだろう。
だが、今回の台詞は今までとは重みが違う。彼女の人生を拘束する誓いの台詞だ。
もしそれを告げるなら、ふさわしい行為をしてから言いたいとギルベルトは思った。
「……ヴァイオレット」
ずっとためらっていたことがある。
それは、普通の恋人達なら何てことはない愛を示す行為だ。
二人にとっては、これが初めてで、やるなら今しかない。
ギルベルトは不思議なことに、あまり緊張しなかった。
もはや何も怖くないと思えるほど、幸せで満ち足りている。
彼女が拒絶しないでくれるだろうとわかってもいた。
今なら、わかる。彼女は自分だけの女性だ。だからギルベルトは、足を止め。
きょとんとこちらを見上げたヴァイオレットの方へ突然向きを変えた。
人混みの中で、凶行とも言える口づけをした。
「……しょ……う、さ」
顔を離すと、そこには、かくも愛らしく戸惑う恋人の姿が。
「……しょう、さ……あの、わたし……あ、の……」
「すまない」
ギルベルトは悪びれなく言った。
「いえ……その……いいのです、その……わたし……あの……」
ヴァイオレットは驚いてふらついている。
「……私は……少佐を…………お慕い、しています……ですから、いいの、です……はい……」
頬が薔薇色。瞳には淡い涙の海。こんな風に、ヴァイオレット・エヴァーガーデンを変えてしまうのは世界でただ一人、ギルベルト・ブーゲンビリアだけ。
――私はきっと、この時の為に、生まれた。
ギルベルトは、もう何も怖くなかった。
小さな頃から抱えていた孤独は消えた。
だからやっと、彼もまた道具から人になり、少年のように微笑うことが出来た。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンが彼を人にしたのだ。
「……ヴァイオレット、君しかいない。私と生涯、離れないと……誓ってくれるだろうか」
二人でなら、きっと、何処ででも、生きていける。
さて、物語のその後は、ここまでだ。
ギルベルトとヴァイオレット。彼と彼女を取り巻く問題は、まだ何も解決してはいない。どうなるかも、明確に決まった未来があるわけでもない。だが、もしかしたら、この二人の物語を見届けてきた人々には、一つ想像出来る結末があるかもしれない。
少し、思い浮かべてみよう。
それほど難しいことではない。
声や匂い、色や動きは、言葉が届けてくれる。どうか想像力の翼を広げてみて。
それは何処か、静かな場所で。花々と木々に彩られた森の中で、二人だけで。
……いや、訂正しよう。きっとそれは許されないだろう。
共通の恩人である真紅の髪の男が許さない。
彼と彼女の困難を乗り越えた姿を祝福する限られた人々だけが招待されるに違いない。
その中には、同じ金糸の髪の青年も。黒髪の美女も。ヘテロクロミアの瞳の少女も居る。
さあ、また翼を広げて。想像し直して。
笑い声に包まれた森で。夕暮れを灯すランタン。
柔らかな光の中。芳しいすみれの香りに包まれ。
ライデンシャフトリヒ陸軍の礼服に身を包んだ花婿と。
郵便会社社長が特別にあつらえさせたウェディングドレスを着た花嫁が。
静かに愛を誓う未来。そういう結末も、きっと何処かにはある。
獣から少女へ。少女から、愛を知った人間へ変化した。
この少女の物語もようやくここで終わる。
物悲しさがあるだろうか。どんな物語も始まれば終わるものだ。
だが、貴方はもう、思い浮かべることでこの物語を永遠にすることが出来る。
彼女は、いつでも、貴方が呼べば来てくれるだろう。
何せ、彼女自身が古今東西何処でも訪れる。
お客様がお望みなら、どこでも駆けつける。寂しくなったら、どうか名前を呼んで欲しい。
貴方が此処まで見届けた、一風変わったその少女の名は。
「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」

ぜひこの機会に『ヴァイオレット』を読んでみてくださいね!
KAエスマ文庫『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』シリーズ刊行10周年記念企画特設ページ
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