
『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』
シリーズ刊行10周年記念企画
公開期間:3月27日~12月25日
「ローラと自動手記人形」
「ツーファルで降りるんだぞ。いいか、ツーファルだ」
あの駅でのお別れをいつまでも覚えている。
「ツーファルに降りたら、アガサおばさんが待っていてくれる。父さんの姉さんだ」
どうして自分だけ遠い土地に住んでいる親戚の家に行かなくてはいけないのか。
どうして父は一緒に来てくれないのか、わたしは幼すぎてよくわかっていなかった。
「おとうさんはいつくるの?」
父はいつものようにむすっとするばかりで答えてはくれず。
「おとうさん、わたしがおうちにいるとじゃまだった?」
この質問にも、首を横に振るばかり。
姉が生きていた頃は、もう少し父もお喋りが上手だったはずなのだけれど。
「お前は余計なことを考えなくていい。とにかく、おばさんに失礼がないようにな」
うちは母が早くに亡くなって、お父さんとわたしとお姉ちゃんの三人家族。
年の離れた姉がわたしにとっては母代わり。
三人の会話も姉ありき。だから、わたしと父の組み合わせでは会話もうまく成り立たず、わたし達家族は終わってしまったようなものだった。
父は基本無口だし、わたしは昔気質で威圧的な父が怖くてうまく話せない。
「おとうさんは、だいじょうぶなの……? ルーイヒにひとりでのこって……」
わたしは怯えつつもなんとか尋ねた。確か、この頃から戦争は激化の一途をたどる。
「子どもが心配することじゃない。お父さんは大丈夫だ。はやく行け」
突き放すように言われてわたしは下を向く。こんな時、姉がいたらと思わずにはいられない。
――もしお姉ちゃんがいたら。
『お父さんどうしてそんな言い方するの? 娘のこと愛してるくせに』と怒ってくれた。
そういうことを父に言っても許される人だった。
――お姉ちゃんがいたら。
囃し立てるように父に抱擁を要求し、根負けした父が嫌そうに娘二人を抱きしめて、棒読みで『愛してる』と言うまでがわたし達家族のお馴染みの流れだった。
「わたしものこりたい。おとうさんのじゃまをしないから……」
でも、もう彼女はいない。いるのはあまり可愛くないほうの妹だけ。
わたしだって自分が生きていて申し訳ないと思う。どう考えても、世界に必要とされていたのは姉のほうだったのに。恐らく神様が采配をまちがってしまったのだ。
「お前なんかいても何も役に立たない。いいからはやく列車に乗りなさい、ほら、行け」
乞い願っても、父には通用しない。きっとこの場面も、姉がいればまた違ったはず。
わたしは悲しくて、悔しくて、涙が溢れる。
犬の子を追い払うようにするのだから自分は本当に父に嫌われているのだ。
――こんな気持ち、感じるくらいなら。
生まれてきたくなかった。
――どうしてわたしをつくったの。要らなかったじゃない。
そううらめしく思いながら列車に乗り込む。さっさと消えてしまいたい。
この世界から、いいや、父の視界から。
「…………ローラ、あのな」
けれども、父との別れはそれで終わりではなかった。
普段の彼ならけして言わないようなことを彼は口走り始めた。
「…………いままで本当に悪かった」
わたしは驚いて息を呑んだ。慌てて振り返り父の顔を見る。
「悪い父親だった。でも、これからは違う。お前の為に頑張るから。だから……お前も……」
何に対して謝っているかは理解していた。
姉を喪ってから、父は以前にも増してわたしを放置していた。十歳にも満たない子どもを見捨てて、彼なりに罪の意識があったのだろう。
でも、わたしは父のことを、人に謝るくらいなら死ぬような男のひとだと思っていた。
「いい子にするんだぞ。いい子でいたら、必ず迎えにいく……」
そういう、昔気質の男のひとだった。
――なんで。
一生わかりあえないと思っていた。なのに、なぜいまさら。
「おとうさん」
思わず汽車を降りようとしたけど、父がわたしの身体を押し返した。
「駄目だ。ローラ、言うことを聞け……」
「やだ、おとうさん、いっしょにいようよ!」
――ずるいよ。
「駄目だ、ローラ。身体に気をつけるんだぞ。いいか、元気でな」
――いまさらだよ。
「おとうさん! やだ!」
――どうして最後に優しくするの。
「おとうさあぁんっ!」
お姉ちゃんが死んだ時に、その優しさの一片でもくれたらよかったのに。
汽車が出発すると、わたしは馬鹿の一つ覚えみたいに名前だけ繰り返して手を振った。
父も手を振り返してくれたけど、すぐに見えなくなった。
「……おとうさん」
少ない荷物を抱きながらぐしゃぐしゃに泣いて、声も枯れた頃にわたしは気づく。
「…………」
自分は何の言葉も返さなかったことに。
――ちがう。
いままでの腹いせで何も言わなかったわけではないの。
だってわたしは要らないほうの子どもだったから。
あんな風に送り出してもらえると思ってなかったから。
だから、言葉を用意してなかっただけで。
『どうしてそんなことするの? お父さんのこと愛してるくせに』
お姉ちゃんの声がする。違うのお姉ちゃん。お姉ちゃんがいなくなったから、うまくいかなくなっただけで。
『抱きしめて、愛してるって言って。ほら。お父さんもローラも恥ずかしがらないで』
そんなこと言えないよ。わたしが言ったってお父さんは喜ぶはずない。
お願い、責めないで。わたしはお姉ちゃんみたくなんでもうまく出来ないんだよ。
育ててもらった感謝すらろくに言えない娘。
お父さんにとって、わたしはいい娘ではなかった。
生き残ったの、わたしじゃなければよかったね。
叶うのなら、全部最初からやり直したい。
あの日、父と姉を引き止められていたら。
あの日、父に抱きついて『もう許している』と言えたら。
あの日、あの日、あの日。
こんな時、特別な人なら奇跡が神様から与えられるけれど。
神様はわたしのことなど見ていないのです。
その小さな滝壺に手紙が届いたのは冬が明けた頃だった。
寒気の帳と雪花の抱擁で凍てついた大地が雪解けして花開く時。
誰かが願いを込めて手紙を出す。
とはいっても、紙の手紙が春の川の水面を漂い、滝壺に落ちたのではない。
それは通称【ボトルメール】と呼ばれるもので、小瓶の中に手紙が入っている代物だった。
流れに流れ、誰かの手に届いたならば、その人が返事をくれるかもしれない。
まるで祈りそのもの。それがボトルメール。
水を汚す行為ではあるのだが、人によっては浪漫を感じる類のものだ。
いままさに、一通のボトルメールがとある人物により投函され、水の世界に旅立った。
ゆらりゆらり、その身を任せて漂い続ける。
ボトルメールの流れを見ていくと、この土地の地形がよくわかる。
ツーファルは、一帯を深緑の王国と称えられるほどに自然資源に恵まれている山岳地帯だ。
山の峰近くに水源があり、それが長い時間をかけて小川となり、いたるところに水の手が伸びていた。
春になるとボトルメールがこの滝壺に落ちてくるという仕掛けは、冬季期間は水流も滞り、人々も寒さに耐えるばかりで外に出ず、発見者が現れないからだろう。
故に、この祈りの差出人は春に便りを出していた。
「あった……」
ちょうどブルーベルの花が滝壺の周りに咲き始めた頃。
一人の少女がそのボトルメールを拾った。年の頃は十歳から十二歳くらいだろうか。非常に小柄な娘だ。豊かな黒髪をスカーフで飾り、エプロンドレスを纏っている。手には春の恵みである森の山菜がたっぷり入った籠を持っている。
「どこにもいかないで……そこにいて……」
青く美しい花が春風にそよがれ咲き乱れる中で、そのような格好の娘が水辺のほとりに立つ姿は、傍から見れば童話の一場面のようだった。
少女は籠を一旦地面に置くと、首を左右に動かし木の棒を探した。好奇心溢れる顔つき、高揚した様子が見て取れる赤い頬。栗鼠などの小動物を想起させる少女は、ちょうど良い具合の長さの棒を見つけると喜びの声を上げた。
「やった……!」
ついつい、独り言をつぶやいてしまうくらいには、はしゃいだ。
名工の剣を手に入れた勇者の如く木の棒を握ると、また水辺に立つ。そして、棒を駆使してボトルメールをたぐり寄せた。
「あ、や、うう」
危うく、水の中に足を踏み外しかけたがなんとか踏みとどまる。少女はえいやとボトルメールを掴むと、勢いあまって後ろに倒れ込み、尻もちをついた。
「……」
数秒、自分が倒れたことに驚いて呆けてしまったが、やがてくすくすと笑った。
まだ冷たい春の水に浸かった指先をエプロンで拭うと、ボトルメールの開封に取り掛かった。少女はエプロンドレスのポケットから栓抜きを取り出す。
ガラス瓶の栓は固く、中々抜けない。
「……う、くうう」
小さな体を駆使して、力を全身で込める。
「わっ」
すると、勢いよくコルクの栓が抜けた。
ぽん、と小気味の良い音が辺りに響く。そしてまた少女は後ろにひっくり返った。勢いよく転がりすぎて、危うく後転しそうになる。
なんとか弱い腹筋の力を発揮し体勢を直した。今度は前転しそうになるのだが、また耐えた。鳥や小動物達は、この少女が織りなす物語をじっと見つめている。
「はあ、はあ」
少女は荒い息をしながらやっとのことでボトルメールの中から手紙を取り出す。
そこにはそれほど長くはない文章が書かれていた。
お世辞にもうまいとは言えないような筆跡だ。
「……」
少女はそれを、じっと、じっと眺める。
恋い焦がれるように。思いつめているかのように。
その瞳は真剣そのもの。重大事件の真相を探る探偵の如き眼差しだ。
だが、彼女は探偵にはなり得なかった。
「なんて書いてあるんだろう……」
ぽつりとそうつぶやく。
奇しくも、時は世界を分断した【大陸戦争】が終結してから数年後。
長らく続いた戦争の影響により、人々の識字率が著しく低下した頃だった。
大陸戦争とは、簡単に説明すると大きな大陸の中にある東西南北の国々が様々な目的で他国を攻撃しあったというものである。宗教的摩擦、自然資源の略奪、領土の侵略。理由は多岐にわたるので一概に何が原因だとは言えない。
一つ、この戦争について明確に言えることがあるとすれば、頭に血が上った一部の大人達が始めたことが、何の罪もない人々を何年も苦しめたということくらいだろう。
戦後の地域復興はどこも人が足らず、あらゆる後始末が若い世代に押し付けられている。
「ローラ、家の仕事さぼってどこに行ってたの」
ボトルメールを受け取った少女、ローラはまさに戦後の後始末をしている世代だった。
村の入り口に入るや否や、声をかけられる。ローラはぎくりとしながら声の主を見た。
「アガサおばさん」
彼女の視線の先にはがっしりとした体つきの農婦と思しき女性がいた。四十代くらいだろう。背には生まれて数ヶ月程度であろう赤子の姿が。
「……」
小さな命を背負いながらそれでも働いている人の姿を見て、ローラの心はすっかり晴天から曇天に様変わりした。
「さ、さぼってないよ……朝ご飯の支度はしたし」
おずおずとそう言う。
『見つかった』と恐れる気持ち。『さぼってごめんなさい』という申し訳ない気持ち。
その二つが身体を支配する。
「じゃあ何してたのさ」
ローラは話をはぐらかしたがアガサはごまかされない。
「つぎは昼ご飯の準備だから、森でこれを探してたの」
持っていた籠にかけられていた布をめくると山菜が出てきた。ボトルメールは籠の奥深くに隠れている。幸いなことに、アガサはボトルメールの存在には気づかず、山菜の量を見て嬉しそうな顔をした。
「おや、あたしが好きなやつ。結構見つけたね。取り過ぎなかったかい」
「うん、おばさんが好きなやつ。昼ご飯の足しになると思って……。でもちょっとしか取ってないよ。ベリーもあればよかったんだけど、そっちはまだ小ぶりだったから……」
「時期が早すぎる。あと一ヶ月くらいしないと収穫は無理だろうね。それにしても……勝手にどっか行かないでおくれ。行くなら声をかけなさい。言われたこと以外しないの」
「はい……」
どうやらアガサは少々支配的、いや過保護だ。
「何度も言ってるだろ。あっちのほうは危険なんだよ。戦争終わってから変なやつが出るようになってるんだから。で、鶏小屋の餌やりは?」
「あ」
忘れていたことが丸わかりの反応を見て、アガサは呆れた顔つきになる。
「……また忘れたのかい」
「えっと……」
アガサは頭痛をこらえるような顔つきになった。
「これで今週三回目……」
「ご、ごめんなさい、いまやる!」
ローラが走りだそうとすると、アガサが肩を掴んで止める。
「いや待ちなさい。ここでしっかりと聞きたい。あんた、何ですぐ忘れるんだい?」
何故、と問われてローラは呆けた。
――そんなの、わたしが知りたい。
それは『人』に『なぜ人なんだ』と尋ねるようなものだと、ローラは思った。
――わたしはなぜ駄目なんだろう。
ローラという娘は元からそんなに要領がいい子どもではなかった。一生懸命ではあるのだが、それが実を結ばない。いまは注意散漫という特性も加わっている。
ボトルメールは拾ったが、あくまで山菜採りのついでだった。
アガサを喜ばせたくて、彼女が好きな山菜を探しに行ったのだ。褒められたかった。
しかし、滝壺でボトルメールが浮かんでいるのを見たら大目的を忘れた。
差出人のことを考え、夢中になって読めない文字を解読しようとして、時間も食った。
そうしていま怒られている。
――わたしってなんでこうなんだろう。
アガサがローラの答えを待っているので、仕方なくローラは回答を出した。
「ばかだからです……」
自分で言っていて悲しくなってくる。うっすらだが、涙の膜が瞳に張られた。
もう少し未来であれば、彼女のいまの状態が精神不安ないし、そこから生じる注意欠陥ではないかとケアされるだろうが、いまはそんな診断をされる時代ではない。
「馬鹿ねえ……」
アガサは腕を組んでローラをねめつける。
「あたしはあんたを馬鹿だとは思わないけど……」
温情のある言葉が出たが。
「ただ愚図なだけだ。愚図でも仕事の順番覚えるくらいは出来るだろ」
次の瞬間には更なる鉄槌が下された。
「……わたしはアガサおばさんとは出来が違うから」
「んなわけないさね。伯母と姪だよ。血筋は繋がってる。あんたの親父のフィンと同じく、フォーサイスの名字を名乗る一員じゃないか」
「でもわたしはアガサおばさんみたいになんでもすぐ出来ないから……」
ローラ・フォーサイスを要領の悪い人間だとするのなら、アガサ・フォーサイスはその逆だった。生粋の仕事人。すべてが的確で抜けがない。管理職の適性もあり、他の人員の動きを把握する危機管理能力もばっちりだ。だから、姪の姿が見えないと気づいてすぐ探しにきてくれた。ローラからすると、あまりにも遠い世界に住んでいるような人間だ。
「出来ないじゃない。努力しなって言ってるの」
故に、二人の相性はあまりよくない。
「がんばろうとはしてて……」
「でも出来てないじゃないか。あんたそんなんで将来どうやって生きていくんだい?」
「……それは」
「大人になったら困るのはあんたなんだよ。しっかりおし! 役立たずは食っていけないよ!」
持つ者からすると、持たざる者の気持ちは理解しにくい。
強い口調で言われて、ローラは自然と目線を地面に落とす。
――しっかり、したい。
その気持ちは確かにある。むしろ人より強いほうだ。
何せローラはたった一人の家族からとある魔法をかけられているのだから。
『いい子にするんだぞ。いい子でいたら、必ず迎えにいく……』
父の言葉が思い出される。
――いい子でいたいよ。
いい子でいれば父がツーファルに迎えに来てくれる。
逆に言うと、いい子でなければ迎えに来てくれないかもしれない。
「ごめんなさい……」
現状、いい子でいるかの採点は、一番身近な伯母のアガサしかいないので、ローラの世界はすべて彼女の言動で決められていた。
「役立たずでごめんなさい……」
そしてアガサの採点は厳しい。
「……ほんとうに、ごめんなさい」
必要以上に謝ってしまう。アガサはその姿勢が気に食わない。
ローラがうなだれているのを見て、腕を組む。
「……そこまで落ち込むことないだろ! あんたはすぐそうやってあたしを悪者にする」
「そんなつもりじゃ……」
「いいやしてるね。あたしが悪いんじゃないだろ? あんたが悪いっ」
「はい……」
「気が小さすぎるんだよ。ちょっと怒られたくらいでそんなにへこむんじゃないよ!」
「……」
「ほらまたそうやって……まったく」
アガサは盛大に嘆息する。ローラは下を向いてしまったので、アガサが『どうすればいいかわからない』と悩む表情を浮かべたことに気づかなかった。ローラはこの伯母に思うところがあるだろうが、アガサとてそうだった。
「……」
落ち込んだ姪を見て、早くも叱責を後悔し始めているのだが、それは本人に伝わらない。
――フィンの娘なら、もっと負けん気が強くていいはずなんだけど……。
おまけに、互いの持つ気質の違いのせいか、何を言ってもいじめているように見えやすいのも悩みどころだった。
――姉のほうはもっと活発だったんだけどねえ。
気が強く、怒りっぽいアガサ。
大人しく、泣き虫なローラ。端的に言って相性が合わない。
「はあ……」
思わずため息をついてしまうほどには、アガサは姪への接し方に難儀していた。
そしてローラはそのため息を、自分の不甲斐なさのせいだと誤解してもっとうなだれる。
すれ違う二人。如何ともしがたい空気が流れる。
「ローラ。そんなに落ち込むんじゃないよ。もういいよ……」
アガサが許しの雰囲気を出してくれたので、ローラはおずおずと顔を上げた。
もうこの時点で涙目なのだが、なんとか泣かずに頑張った。
「でもね、餌やりは忘れないでほしいんだよ。鶏も腹を空かして可哀想だろう」
やわらげられた声音で言われてローラは頷く。それはその通りではある。
「あんたがやってくれなきゃ、あたしもあんたを養う為に働けない。これもわかるね」
この指摘も妥当だ。
――わたしのせいで、お金がかかっているもんね。
「なにより、戦争で男共がごっそりいなくなった。人手不足なんだよ。うちの村を見てみな。おんな子どもと老人ばっかり。あたしの旦那も死んじまった」
言われて、ローラは村の中を見渡す。
時刻は朝で、既に活動を開始している人達がいたがほとんどが女性だった。
男性は大陸戦争の兵士として召集され、ほとんど帰ってこなかったのだろう。
いざ戦になれば農民は鍬ではなく武器を持つようになる。だが、国としては食糧自給率を下げるわけにはいかないので農業は推奨される。
非常に矛盾した状況の結果、女性だらけの農業地域が誕生していた。
「うん……」
アガサが居候のローラに家事を手伝ってくれと頼むことは、道理の通ったものだった。
「ごめんなさい、アガサおばさん……わたし、ほんとうにだめな姪で……」
申し訳なさで、ローラは瞳から涙がこぼれそうになる。
「……また泣きべそかきはじめて! あんたほんと泣き虫! それ直しな!」
互いに嫌い合っているわけではないのだが、どうにもうまくいかない。
第三者がいて間に入ってくれたらいいのかもしれないが、その場には赤子しかいなかった。
「あう」
赤子は空中に漂う蝶々を目で追いかけており、二人に興味がない。
「もういいって。とにかく、一つのことに夢中になりすぎないこと。仕事はたくさんあるんだからね」
「はい……」
「今日は餌やりと、いつもの家事をしたら、ライラの子守りをしながらクラークさんの屋敷まで行って御用聞きだよ。また駄賃をもらえる仕事をくれるかもしれない。とりあえず、この子を背負うの代わっとくれ」
「……はい。おいで、ライラちゃん」
「あ、う」
ローラは言われるがまま赤子を紐で身体に括り付けた。
彼女自身が小柄なので、重力がついつい後ろに持っていかれるのだが、踏ん張る。
赤子はローラに背負われると、はしゃぐように声を上げた。
「ライラはあんたのことが好きだから、そこは本当に助かってるよ……」
「ほんとう……?」
「ああ、ほんとだ。乳飲み子抱えながら農作業はきついからね」
少し落ち着いて話していると、遠くから声が響いた。
「アガサさぁん! 先に畑戻ってるよぉ」
他の農婦がアガサに声をかけたのだ。
「悪いね! この子の面倒見終わったらすぐ行くから!」
「まーたローラちゃんがやらかしたのかい! あんまりアガサさん困らせちゃ駄目だよぉ!」
農婦は笑いながら去っていく。ローラの顔が羞恥でぱあっと赤くなった。
田舎は大体の家の情報が共有されている。思春期には辛い場所だ。
「あの人、悪気はないよ。あんた可愛がられてるし、近所の人からも心配されてんだよ」
アガサは農婦の発言を擁護するように言う。
「黙ったまま宙を見てる時が結構あるし。今日みたいにふらっとどっか行っちまう時もあるだろ。あの姪っ子大丈夫かね、魂抜けてるよ、とよく言われてるよ」
ローラはただ小さな声で『ごめんなさい』と繰り返すことしか出来ない。
「だからね、お嬢さんのまんまじゃ駄目ってことさ」
「お嬢さん……?」
自分は良家の子女でもなんでもないので、ローラは首をひねった。
「あんたはルーイヒ生まれだろ? あたしらからすりゃ都会のお嬢さんだよ」
ルーイヒはローラがかつて住んでいた国の名前だ。見渡す限り山々と畑しかない、ここツーファルより都会であることは間違いない。
「……おばさん、わたし、ツーファルに馴染めていない……?」
「そういうわけじゃないけどさ……」
じゃあ、どうして、という表情で尋ねるローラにアガサは言う。
「ただ、あんた……心の中でいつかは街に帰るって思ってるだろ?」
あまりにも鋭い一言に、ローラは一瞬心臓が止まるかと思った。
「ここに骨を埋める気がない」
図星をつかれた。
「ないから、何してても真剣味がない」
ぐざり、ぐさり。言葉が刃となって胸に刺さってくる。
「別に必死で頑張らなきゃいけないこと頼んでないけどさ。いまの生活を頑張ろうとか、どうにかしようとか、そういう気持ちがあんたからは見えてこない」
鋭い指摘に、ローラは目眩がしてふらつきそうになる。
「それが忘れん坊の原因になってるんじゃないのかい?」
だがライラを背負っているので倒れることは許されない。
ローラにとって、アガサは正しさの具現化のような存在だった。
「……でも」
正しい言葉は、正しくいられない人に、時に残酷に斬りかかる。
「でも……」
――わたしは、わたしだけは。
信じていたい。
「…………さんが」
――お父さんが言ったんだもん。
馬鹿だと罵られてもいい。そう言いたい。
――わたしを迎えにくるって、お父さん、言ったんだもん。
故郷に心を置いてきたから、此処にないのだと。
「お、とうさんは、生きてるから……」
ローラは勇気を振り絞った。なんとかそう言い返すと、アガサはローラを哀れむような表情になった。
「……そうかもしれないけどさ」
彼女はとても現実的だ。
「そうじゃない時のことを考えてみなさいって言ってるんだ」
そして姪の将来を心配している。
「あんたここに来てもう四年も経つんだからね」
――四年。
数字というのは時にどんな言葉より残酷に事実を突きつける。
――でも、お父さんは、それでも。
ローラの頭の中でまた父の台詞が浮かぶ。処理しきれない感情が涙と共に溢れる。
「え、ちょっと、ローラ」
――生きてるもん。
ただ、ローラが【いい子】の定義と外れているから迎えに来ないだけ。
少なくともローラはそう思っている。
いや、願っていると言ってもいいのかもしれない。
「あんた、また……もう、それずるいんだよ、わかってるかい! 泣くのはずるいよ!」
――わたしが馬鹿で愚図だから、お父さんが帰ってこないだけ。
そう思っているほうが、ローラの精神衛生上良いのだ。だから、必要以上に自分を卑下してしまっていることに気づいていない。
「……あたしゃあどうしたらいいんだよ。あたしだって泣きたいよ……」
アガサの声が悲痛に響く。
彼女だって何も悪くない。夫を亡くしたのに頑張って娘と姪を育てている。
「そんなにあたしのことが嫌いかい!」
本当は誰も悪くない。
「……いまのあんたの家族はあたしなんだよ……」
そのうちアガサも泣いている姪の姿に耐えきれなくなった。
「もう勝手におし!」
怒鳴って畑に行ってしまう。残されてうなだれるローラの髪の毛をライラが引っ張る。
「……うっ……うう……」
引っ張られた髪の毛より、心のほうが痛かった。
泣いた後というのは気恥ずかしいものだ。
その後、ローラはアガサからの信頼を挽回すべく働いた。
滝壺からボトルメールを拾ったことなど忘れてしまったくらいだ。無心で鶏小屋の餌やりをし、何枚もの洗濯物を洗って干し、昼食の準備もした。
自分とライラだけ先に昼飯を済ませ、太陽の下で白玉の汗をかきながら農作業をしているアガサと農婦達に声をかけた。この後は、村で一番大きなお屋敷に向かわねばならない。
「アガサおばさん……あの……いってくるね……」
「……」
「ご飯、アガサおばさんの好きな山菜、料理しておいたから」
アガサは先程のこともあってか返事をしてくれなかった。無視して仕事をしている。
「おばさん……ごめんなさい。泣いてごめんなさい」
互いにきちんと話せばアガサもローラの扱いに困っているだけだとわかるのだが、圧倒的に言葉が足りない伯母と姪はやはりすれ違いを継続していた。
ローラもすぐ泣くのがよくないのだが、アガサも大人気がなさすぎる。
「……いって、きます、おばさん」
いや、余裕がないのだ。大人とて生活が豊かでなければ手本のようには振る舞えない。
――しっかりしなきゃ、しっかりしなきゃ。
返事をもらえなかったローラはまた泣きたくなるのをぐっとこらえて歩いた。
――しっかりしなきゃ。
良い働きをしたら、夜にはアガサも喋ってくれるようになるかもしれない。
そうなるように頑張るべきだろう。子どもは大人から無視をされることほど辛いことはない。
――しゃべってもらえなくなったら。
喋ってもらえなくなったら、終わりだ。
自分に言い聞かせつつ、ローラはとぼとぼと歩きだした。
歩いていると、やがて目当ての屋敷が視界に入ってきた。
鬱蒼とした木々の中にひっそりと存在している。そこは住居と医院が合体した建物だった。正面入り口の門には病院を示す旗が掲げられており、建物を出入りする人々の姿もちらほら見かける。玄関には【クラーク医院】と表札が書かれていた。
この田舎で、地域の医療を一手に任されている存在、それがクラーク医院だ。
とはいっても、それほど大きな医院ではない。クラークを姓に持つ一族が、代々家業を受け継ぎその地に根ざしている。医院も例に漏れず、子どもを戦争に取られ、そして残された女達で病院を回していた。農家と同じく忙しい。
故に、尊敬される地域の医者の為にアガサがローラを御用聞きに伺わせていた。
ついでに御駄賃もいただける、というのが大きな理由ではあるのだが、田舎で助け合いの精神はとても重要なことだ。
ローラは敷地内に入ってすぐ見える正面玄関に向かわず、ぐるりと屋敷の裏に回ったところにある勝手口のほうに行った。餌付けされているのか、野良犬が勝手口前で寝ている。ローラは犬をひと撫でしてから戸を叩いた。
「御用聞きにきました」
しばらく待っていると、戸が開かれた。
台所に直結している戸口は開かれた瞬間にスープの香りを漂わせる。
「あらローラちゃん」
戸を開けてくれたのは、はつらつとした様子の女性だった。白髪が少し目立つ年齢ではあるが、持って生まれた陽気さが彼女を若く見せている。
料理の最中だったのか、エプロン姿で汗を額に浮かべていた。
「ナンシーおばさん……こんにちは。御用聞きにきました」
ローラはぺこりと頭を下げた。背負われているライラも、共に挨拶するかのように可愛らしい声を上げる。ナンシーと呼ばれた女性はにっこりと微笑みを返してくれた。
「いつもありがとうね。でも今日はお願いしたいことが何もないかもしれないねえ」
「おつかいとかもないですか?」
「うーん……あ、大奥様はあるかもね。すっごいお客さんを招いているんだよ」
「すっごいお客さん? キャロルさんのお客様?」
「うん。ローラちゃんどんなお客さんか知りたい?」
好奇心をくすぐるような質問の仕方をされて、ローラはまごつきながらも頷く。
すると、ナンシーは該当人物が居るであろう上階のほうへ視線を向けた。
「実はね、都会から自動手記人形が来ているんだ」
まるで我が事のように誇らしく言う。
それは、ローラにとっては初めて聞く単語だった。
「自動手記人形は、代筆屋のことだね」
ローラはナンシーに連れられて屋敷の中を歩く。
手には大奥様と呼ばれる人物の部屋に持っていく水差しを抱いていた。ナンシーは料理が載せられた盆を。この屋敷を切り盛りする彼女が、お手伝いついでに【都会から来た自動手記人形】とやらを見せてあげると言ってローラを招き入れてくれた。
屋敷の構造は一階が病院。二階と三階は住居の階だ。ローラ達は三階に向かおうとしていた。廊下には至る所に骨董品と生花が飾られている。
「代筆屋」
ローラはナンシーが話した言葉をなぞるように言う。
あどけない表情で自分が言った言葉を反芻するローラを見て、ナンシーは相好を崩す。
「文字を代わりに書いてくれる人」
「知らない仕事です……」
「あら、本当に? ローラちゃんが住んでた街は都会だから、同じようなことをしている会社があると思うけど……。まあ、子どもには縁がないか」
ローラはこくりと頷くが、思うところがあった。
――わたしが物心ついた時はみんな戦争しかしてなかったけど。
ナンシーの若い頃は、きっといまより文化的な活動があったのだろう。
――街の劇場とか、本屋さんも閉鎖されていたし。
本来なら、若い世代のほうが文明の発展の恩恵を多く享受するのだが、ローラの世代は娯楽や文芸方面の伝統が一度壊されていた。
戦争の被害に遭わなかった国や都市なら話は変わってくるだろうが、ローラの故郷は見事に戦禍をこうむった。必然的に彼女の娯楽方面の知識は乏しい。
こういうことも世代間格差と言えるだろう。
「昔はもう少し俗っぽい存在だったんだけど……最近はなんだか別嬪さんがやる特別なお仕事って感じになってるわね」
「ぺっぴんさんですか」
「大奥様が依頼したドール、昨日の夜に着いたばかりだからまだみんな噂してないでしょうけど、すぐにあの子の話ばかりになるよ。なんてったって……ああ、いや、感想はもう見てからのほうがいいね。とにかく、楽しみにしてて」
「……はい」
ローラは不思議に思う。そこまでして見せたい人物とはどんなものかと。
――自動手記人形、ドール。
ナンシーがその後も軽く説明をしてくれたが、自動手記人形は依頼を受ければどこでも向かい、依頼主が望む文章を紡ぐらしい。
今回はこのクラーク家の大奥様、キャロル・クラークの依頼でやって来た。
「キャロルさんはわたしと違って読み書きが出来るのに、なんでドールを呼んだんですか?」
「なんでも、大奥様はご自分の詩集を作りたいんだと。それが子どもの頃からの夢だったんだとさ。いまからでも詩人を目指すんだって。ドールはその手伝い要員」
ローラは目をぱちくりさせた。
――夢って、何歳でも持っていていいんだ。
戦後ということもあり、人々は生活をすることで手一杯なことが多い。
もう少し街のほうへ行けば娯楽もあるかもしれないが、ここでは商店すら限られている。
ただただ、日々の糧を得る為に動き回る毎日。
そんな中で、詩人になりたいと願っている人が身近にいることに純粋に驚いてしまう。
――いまだからなのかも。
年を経たいまだからこそ夢を追いかける。そういうことなのかもしれない。
若い時はそれが許されなかったのだ。
――わたしも、前は生きることで精一杯だったよね。
砲撃が来ることを怯えていた日々は、まだ遠い過去になっていない。
「いまはお嬢様がうちの医院の看板を背負ってくれているけれど、あの方はずうっと働き詰めだっただろう? 手も不自由になってきているし、やりたいことをやっておきたいんだろうさ」
「……キャロルさんもお仕事以外のこと、したいですよね」
「そうさ。晩年くらい女もそういうことを許してもらわにゃ、やってらんないよ。ドールは古今東西の書物を読むそうだからね。詩集を手掛ける為の便利な字引としても使いたいらしい」
「そんなことしていいんですか?」
「ああ。もちろん、出版社に持ち込む試作版の代筆もしてもらうそうだよ。C・H郵便社ってとこは無茶な依頼でも引き受けてくれるんだと」
「へえ……」
変わった会社だなとローラは思う。そうやって喋りながら歩いていると、やがて目的の部屋の前にたどり着いた。中から話し声が聞こえる。ナンシーが恭しく扉をノックした。
「大奥様、そろそろ昼食ですよ」
すると、ぴたりと会話が止まる。ややあって声が返ってくる。
「ヴァイオレットの分も持ってきた? 一緒に食べたいの」
しわがれているが、上品な声音だ。ナンシーは『もちろんです』と返事をする。
――ヴァイオレット。
ローラの頭の中に、紫色の小さな花が浮かんだ。
花屋に並ぶような立派な花ではないが、一度目にすれば立ち止まって見てしまう、そんな求心力がある花だ。この奥に、そんな花の名を冠する人がいる。
人々が傷つき惑う戦後に、ただ言葉を紡ぐという能力一本で生きている存在が。
――どんなひとなんだろう。
すぐに『入って』と部屋の主から入室の許可が出た。ナンシーはローラのほうを見て、魅力的なウインクをしてから扉を開ける。
「失礼します」
ローラはなんとなくナンシーの背に隠れながら部屋へ入った。
広い部屋は壁一面本棚で敷き詰められており、古い書籍特有の匂いがした。
窓辺には二人で作業する分には問題ない大きさのテーブルセットが設置されている。テーブルの上にはたくさんの本と、そしてタイプライターが。
室内に居たのは二人の女性だった。どちらも窓辺の椅子に腰掛けている。一人はこの屋敷の大奥様である年配の婦人だ。
「あら、ローラちゃん。来てくれたのね」
グレイヘアが綺麗に整えられた美しい人だった。そしてもう一人は。
「……」
明らかにこの中で異質な空気を発する人物だった。彼女は無言ですっと立ち上がり、出迎えの姿勢を見せた。微笑み一つ浮かべない。だが、不遜な態度に見えないから不思議だ。
本人が持つ独特な雰囲気のせいかもしれない。
――ドール。
ローラは思わず口を開けて自動手記人形を見てしまう。
絵本の中から飛び出してきたような少女だった。プルシアンブルーのジャケットにスノーホワイトのワンピースドレス。ココアブラウンの編み上げブーツ。麗しい衣装の袖から機械の義手が見える。そして胸元にはエメラルドのブローチが。
――これが、ドール。
本当に人形のようではないか、とローラは思う。
彼女が光り輝いて見えるのは、窓辺からもたらされる陽光のせいだけではないはず。
「ヴァイオレット、その子、知り合いの娘さんなの。よかったら、カーテシーを見せてあげてくれない? 貴方のは良いお手本になるから」
依頼人から指令が飛ぶと、ヴァイオレットと呼ばれた娘はまるで軍人のようにぴしりと反応した。そして、鈴の音の声で返答する。
「かしこまりました」
その身を構成するのは金糸の髪、碧い瞳。
「お初にお目にかかります、お嬢様」
薔薇色の唇、陶器の肌。
「お客様がお望みならどこでも駆けつけます」
姫君のような立ち居振る舞い。
「自動手記人形サービス……」
物言う花が見事な礼をしてみせる。
「ヴァイオレット・エヴァーガーデンです」
一風変わった少女がそこに居た。
https://www.kyotoanimation.co.jp/books/violet/special/10th/