第一章試し読み
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『自動手記人形(オート・メモリーズ・ドール)』。
その名が騒がれたのはもう随分前のことだ。製作者は機械人形の権威であるオーランド博士。
彼の妻であるモリーが小説家で、後天的に視力を失ったのがそもそもの始まりである。
盲目の女になったモリーはその人生の大半で行ってきた小説活動が出来なくなったことにひどく落胆し、日に日に衰弱していった。
そんな妻を見かねてオーランド博士が作ったのが自動手記人形である。
肉声の言葉を書き記すという、いわゆる「代筆」をこなしてくれる機械だ。
当初は愛する妻の為だけに作られたが、後に多くの人々の支えとなり、普及した。
今現在では、自動手記人形を安価で貸し出し、提供する機関も出来ている。
「小説家と自動手記人形」
ロズウェルは緑に囲まれた美しい自然の都だ。
標高の高い山々、麓の街。そこ一帯を示す。しかし資産に余裕がある者達の中でなら、ロズウェルは避暑地、または別荘地として名を知られている。
春は花溢れる山河が人々の目を楽しませ、夏は名所として歴史深い大滝に憩いを求め、秋は落葉の雨に心打たれ、冬は世界全てがしんとした静寂を与えてくれる。四季の移ろいがとてもわかりやすく、観光で季節の折に訪れるには充分目を楽しませてくれる土地だ。
別荘は麓の街に連なって作られている。色とりどりのペンキで塗られた木造小屋。大きなものから小さなものまで。土地代はかなり高額なのでそこに別荘を作れること自体が富裕層であることの証だ。
街には観光客向けの商店が溢れている。休息日には店が連なるメインストリートに人がごった返し、心地よい喧騒の音楽を織りなす。その品揃えは田舎だからと言って馬鹿には出来ない。
大抵の者は利便性を求めて街中に別荘を建てるので、それ以外の場所に家を建築するものは変わり者とされている。
現在のロズウェルの季節は天高くうろこ雲が漂う秋。麓から離れて、この街の観光地の中ではさほど重要視されていない小さな湖の近くにひっそりと建つ小屋が一軒。
良い方に表現すれば趣深い顔立ちに味がある古民家。悪い方に言えば人に見捨てられたかのような有り様のうらぶれた家だ。色褪せた白で塗られたアーチの門をくぐり、雑草や名も無き花に埋もれた庭を進むと全景が見える。
修繕をする気がなさそうな朽ちた赤煉瓦の壁。屋根瓦はあちこち割れ、かつては整然としていたのであろうそれは無残に削がれている。
家の玄関のすぐ横には蔦が絡まり、もはや誰も動かすことが出来ないブランコが。それはこの家にかつては小さな子どもがいた証拠でもあり、もういないという証拠でもあった。
家の持ち主は壮年の男性でオスカーという。
その名前のまま、執筆業をしている脚本家だ。くせのある赤毛の持ち主で、レンズの分厚い黒縁の眼鏡をかけている。実年齢よりは若く見えがちな童顔で少し猫背。寒がりの為にいつもセーターを着ている。何かの話の主人公には成れそうにない、まったくの普通の男だ。
家はオスカーの別荘としてではなく、純粋にこの地に住むために建設された。
彼一人ではなく妻と幼い娘も住めるようにと。三人家族が住むには充分すぎる間取りであったが、今はオスカーしか住んでいない。どちらも既に他界している。
オスカーの妻が死んだ原因は病気だった。名前は長ったらしすぎて、言えないほど。
簡単に言えば血液が血管の中で凝固し、詰まって死ぬ。しかも遺伝性があり、彼の妻は父親からそれを受け継いでいた。
早死にが多い家系だからみなしごなのだと、寂しく言っていた身寄りのない妻のその真意を知ったのは彼女が死んでから。
『知られれば、病気持ちの女と結婚してくれないかもしれないと、怯えていたから秘密にしていたんだよ』
そう教えてくれたのは彼女の親友だった。オスカーは葬式でその事実を親友に伝えられた時に「なんで」という思いがいつまでも頭にこだました。
『なんで、なんで、なんで』
そんなの、言ってくれれば、いくらだって。
一緒に、治す方法を探したりとか、無駄に余っているお金をそれにつぎ込むとか、いくらだって、できたのに。
妻が金目当てでオスカーと結婚したわけではないことは明らかだった。彼女と出会ったのは彼が脚本家として大成する前であったし、出会いの場も彼が良く利用する図書館で、図書司書だった彼女を見初めたのもオスカーの方だった。
――綺麗な人だと、思った。
――彼女が担当する新書のコーナーはいつも面白くて。
――本に恋をしながら、彼女にも恋をした。
「なんで」が数億回。頭の中で巡っては消えた。
妻の親友はできた人で、彼が妻の死で心を喪失している間、精力的に動いて彼と残された幼い娘の世話をしてくれた。放っておけば一日中食べることすらしなくなるオスカーに暖かい食事を、髪の毛を編んでくれた母の不在を泣いて嘆く娘に三つ編みを。
もしかしたら、少しの横恋慕があったのかもしれない。ある時、熱を出して寝込み、突然嘔吐を繰り返すようになった娘を病院に連れて行ったのも彼女だった。
娘が妻と同じ病を持っていると知らされたのは、実の父親よりも親友が先だった。
後の物事はゆっくりと、しかしオスカーの目には早く進んだ。
妻の二の舞にはさせまいとあらゆる高名な医師を頼った。大きな病院からまた大きな病院へ。様々な人に頭を下げ、頼み、情報を集めては新薬を試した。
薬と副作用は切り離せない関係だ。娘は薬を飲む度に泣き喚く。愛する人が苦しむ姿から目をそらすことが出来ない看護の日々は近しい者の心を蝕む。
どれだけ新しい薬を試しても娘の病状は良くならなかった。やがて頼るところすら尽きて、医者にも見放され、治す手立てがないと途方にくれる。
妻が寂しさで黄泉に手招きをしているのではと、後で思い返せば馬鹿らしいことを何度も考えた。連れて行かないでくれと、墓に向かって懇願しても死者が語る口は無い。
精神的に追い込まれていたオスカーだったが、それまで病院に通ってくれていた妻の親友の方が心折れるのが早かった。不安定な娘を見守ることに疲れ果て、いつしか病院から足も遠のき、やがてオスカーと娘は本当に二人きりになった。娘は薬漬けの生活のせいでかつては白いミルクに浮かんだ薔薇の花弁のようだった頬も黄色くにごって醜くやせ衰えた。
甘い匂いがした蜂蜜色の髪も、どんどん抜け落ちていく。
見るに、耐えない。本当に見るに耐えない姿だった。
最終的にオスカーは医者との不毛な押し問答を繰り返した末、娘に鎮静剤の投与だけすることにした。彼女の、ただでさえ短い人生を苦痛だけで埋めてしまいたくなかったのだ。
それからは少しの平和。優しい日々。久しぶりに見る娘の笑顔。
後残りわずかの幸せな毎日が続いた。
彼女が死んだ日はとても天気が良かった。
世界の色を刻々と失わせていく秋。空は快晴。病院の窓からも赤や黄色に染まった木々が見えた。病院の敷地内には憩いの場として設けられた噴水が在り、その水面には落ち葉が浮かび、静かに漂っていた。
落ちては、漂い、水に浮遊し、磁石に引き寄せられるように集まる落ち葉たち。その生命を失っても尚美しい残骸。
娘はそれを見て「きれい」と言った。
「水の青と、落ち葉の色が混ざってとてもきれい。ねえ、あの落ち葉の上なら落ちずに噴水を歩けるかなあ」
子どもらしい発想。実際は重力と体重に負けて体はすぐに水の中へ沈むだろう。オスカーはそれを否定することはせず。
「傘を持って、風を利用すれば更に可能かもね」
と冗談めかして答えた。もう助からない子どもを少しでも甘やかしたかった。
娘はそれを聞いて、瞳を輝かせて笑った。
「いつか見せてあげるね」
私たちのあの家の、湖で。
秋に落ち葉が水面をたゆたう頃。
いつか。
いつか見せてあげる。
娘はその後、こほんこほんと咳を何回かした後に、突然死んだ。
まだ九歳だった。
死んだ骸は抱き上げると軽くて。魂一個分無いにしろ、あまりにも軽すぎて。
本当に生きてくれていたのだろうか、自分は長い夢でも見ていたんだじゃないだろうかと、オスカーは涙した。
彼は娘を妻と同じ墓地に葬り、それから三人の家だった場所に戻って人生を沈黙させた。
オスカーには何もせずに生きられる程の経済力があったし、彼の書いた脚本はあらゆる場所で使われ、その度に彼のもとに金が振り込まれていく給与体制だったので貯金が底を尽きかけて餓死することもなかった。妻と娘の喪に服した数年後、オスカーはかつての仕事仲間の男からまた脚本を書かないかと持ちかけられる。
それは演劇をする者なら誰しも憧れるトップ演劇集団からの依頼であり、もはや業界から名前だけ残して存在が消えようとしていたオスカーにとって名誉ある仕事だった。
ただ怠惰に、自堕落に、悲しみにふける毎日。
人間は飽きる生き物で、悲しむことも、嬉しがることも、ずっとは続けられない。
そういう風に、出来ている。
オスカーは二つ返事でそれを承諾し、もう一度筆を持つことを決めた。
しかし、困ったのはそれからだった。
オスカーは辛い現実から逃れるためにかなりの酒飲みになっていた。吸えば幸福な夢を見る薬も少々。酒と薬はなんとか医者のおかげで克服することが出来たが手の震えが残った。
紙に書くにしろ、タイプするにしろ、これではうまく執筆が進まない。
書きたいことだけは、胸にちゃんとあった。
あとはそれを言葉にするだけ。
執筆の依頼をもちかけた仕事仲間に相談すると、「良い物がある」と教えてくれた。
「自動手記人形を使えばいい」
「なんだい、それは」
「君の世間知らず……というか世俗離れは心配になるレベルだな。有名だぞ。今は割りと安価で借り出し出来るんだ。そうだな、試しにそちらに派遣してやろう」
「人形……が手伝ってくれるのかい?」
「スペシャルな奴がね」
オスカーは名前だけ耳にしたことのある道具を使うことにした。
それが『自動手記人形』。彼と彼女の出会いはここから始まる。
女が山道を登っていた。
やわらかな編みこみがされた髪型はダークレッドのリボンで飾られ、細い体はスノーホワイトのリボンタイワンピース・ドレスに包まれている。
シルクのプリーツが入ったスカートは歩くごとに清楚に揺れ、胸元につけられたエメラルドのブローチが煌めき輝く。
ドレスの上に着込んだジャケットは白を引き締めるプルシアンブルー。
使い込まれて深い色合いを出している革のロングブーツはココアブラウン。手には重たそうなトロリーバックを持ち、オスカーの家の白いアーチをくぐって進む。
ちょうど女が家の庭に足を踏み入れた所で一陣の秋風がごおと音を立てて吹いた。
赤、黄、茶の朽ちた葉が踊るように浮遊し女の周りを旋回する。
紅葉の残骸が目の前に帳を下ろしたせいか、見失う視界。女は胸につけていたブローチを一度手でぎゅっと握りしめる。小さく何か呟いたが、それは枯葉のざわめきよりも大人しい声だったので響くことは無く誰にも聞かれず空気に溶けた。
悪戯な風が止むと女は先程の危うげな雰囲気をどこかに置き忘れ、特に迷う様子もなく、玄関にたどり着くと家のブザーを黒手袋で包まれた指で押した。
地獄の叫びのようなきしんだブザー音が鳴り響き、しばらくすると扉が開かれた。家の持ち主である赤毛の男、オスカーが顔を出す。寝起きだったのか寝ていないのか、どちらにしても客人を迎えるにはだらしない服装と顔立ちをした彼。オスカーは女を見ると、少し驚いた表情をした。彼女があまりにも、風変わりな格好をしていたからか。
それともあまりにも美しかったからか。どちにせよ、一瞬息を呑んだ。
「……君が、自動手記人形?」
「そうです。お客様がお望みならどこでも駆けつけます。自動手記人形サービス、ヴァイオレット・エヴァーガーデンです」
物語から飛び出てきたような美しさの金髪碧眼の女は、愛想笑いを浮かべることもなく玲瓏な声で言った。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンという女はまさに人形の如く美しく静かな佇まいをしていた。金糸の睫毛に覆われた青い瞳は海の底の輝き、乳白色の肌に浮かぶ桜色の頬、艶やかにルージュがひかれた唇。
どこをとっても欠けることのない、満月のような美を持つ女。
瞬きさえしなければ、ただの鑑賞物になるだろう。
オスカーは自動手記人形については全く詳しくなく、仕事の依頼をしてきた友人に頼んで彼女を手配してもらった。
「数日で届くから」と言われて待ったあげく訪れた彼女。
――てっきり、郵送屋が小包で小さな機械の人形を運んでくれるのかと思ったのに。
まさかこれほどまでに人間に似せた機械人形(アンドロイド)のことだったとは。
――文明は僕が引きこもっている間にどれだけ進化したのか。
オスカーは世俗全般に疎いタチだった。新聞も雑誌も読まず、人付き合いも少ない。気にかけくれる友人がいなければ会う相手は食料品店から配達をしてくれる配達員に限られるだろう。
もっとちゃんと調べてから手配を頼めばよかったと早くも後悔する。
この三人の家に、自分以外の人間……に似た者がいることにひどい違和感と、何だか後味の悪いものを覚える。
――家族に悪いことをしているような気分だ。
ヴァイオレットはそんなオスカーの考えも露知らず、案内されたリビングの長椅子に腰掛けている。紅茶を薦めたら、きちんと飲んだので最近の機械人形はかなり発達しているらしい。
「飲んだ紅茶はどうなるんだい?」
疑問に感じて聞いたら、ヴァイオレットは首を少し傾げながら、
「いずれは体内から排出されて、大地に還りますが?」
と答えた。機械人形らしい答えだ。
「正直……僕は戸惑っている。その、想像と……ちょっと違ったから」
ヴァイオレットは自分の身なりをちらりと確認し、共に椅子に座ろうともせず立ってこちらを眺めるオスカーを見つめ返す。
「何かご希望に添えぬ点がありましたか?」
「いや、希望というか……」
「旦那様がお待ち頂けるようでしたら。私ではない弊社の別のドールを手配させて頂きます」
「いや……僕が言いたいのはそうじゃなくて……いや、まあいいか……。仕事が出来ればそれでいいんだ。君はうるさくなさそうだし」
「命じられればなるべく呼吸も浅くいたします」
「そこまでは……しなくていいよ」
「私は旦那様に代筆を求められてここに来ました。ご満足頂けるよう自動手記人形の名に恥じぬ働きを致します。使う道具はペンと紙でもタイプライターでも構いません。どうぞ、計画的にご利用ください」
大きな宝石のような碧眼にじっと見つめられながら言われて、オスカーは少々どきどきしながらも「うん」と頷いた。
彼女の貸し出し期間は二週間。その間に、一つの話を完成させなければいけない。
オスカーは気持ちを入れ替えて、彼女を書斎へ案内し早速作業を始めた。
とは言ったものの、まずヴァイオレットがすることは代筆ではなく彼の書斎の片づけになってしまった。
書斎と寝室を兼ねたオスカーの部屋は脱いだ服や食べかけの飯がこびりついた鍋が床に直置きしてある惨状だった。要するに、足の踏み場がない。
ヴァイオレットは無言で彼を青の瞳で見た。
『呼んでおいてこの有り様はなんだ』と目が言っている。
「……ごめんなさい」
仕事をする人間の部屋ではないのは確かだ。一人になってからはほとんどリビングは使用していなかったので綺麗だったが、頻繁に出入りする部屋、洗面所や台所、風呂場はどこも見るも無残な状況に陥っていた。
ヴァイオレットが機械人形で良かったとオスカーは思った。
彼女の身体年齢は見たところ十代後半から二十代前半くらいだが、そんな若い娘にこんな恥ずかしいところを見せたくはない。老いてきてはいても、男として情けない。
「旦那様、私は代筆屋であってメイドではないのですよ」
とは言いつつも彼女は持ってきた鞄の中から白いフリルエプロンを取り出し、意欲的に片づけをしてくれた。一日目はそれで終わってしまった。
二日目からなんとか二人共書斎に腰を据えて仕事を始めた。
オスカーは寝台に寝転がり、ヴァイオレットは椅子に座り、机の上のタイプライターに手を置く。
「彼女は……言った」
オスカーが喋りだすと恐ろしいほど速いブラインドタッチで文字を静かに打ち出した。
それに目を剥いて彼が驚く。
「……すごく、早いね」
賛辞を送ると、ヴァイオレットは服の袖をまくり黒手袋を脱いで、片方の腕を見せた。機械の腕だ。指先は他の部分より硬質で機械的な作りになっている。指と指の関節の塗装も甘い。
「実用性を兼ねたブランドを使用しています。これはエスターク社製なのですが耐久レベルも高く、人体には成し得ない動きや力を出すことも可能で、大変な優れものです。旦那様のお言葉を漏れなく書き記します」
「そうなの……あ、って今の言葉は書かなくていいから。脚本の言葉だけでいいから」
オスカーは喋り続ける。途中、何度も休憩したが初日としてはうまくいった。
もともと話の構想は自分の中にあったのだ。あまり文章に詰まることはなかった。
ヴァイオレットは話の聞き手、代筆屋としてはとても良い相手だと喋りながらオスカーは気づいた。彼女は最初から物静かな印象であるし、仕事に入るとそれが如実に現れる。命じたわけでもないのに、本当に呼吸の音も聞こえない。聞こえるのはただカチカチとなるタイプ音だけ。目を瞑れば、タイプライターを自分が打っているような気にすらなる。どこまで書いたか、読みあげてもらうにしても声が涼やかで朗読も上手いから聞いていて楽しい。
彼女が語れば、どんな文章も荘厳な物語みたいだ。
――なるほど、これは確かに普及するわけだ。
オスカーはしみじみと自動手記人形の良さを知ることが出来た。
しかし順調なのも三日目までで、四日目以降は書けない日が続いた。物書きにはよくあることだ。書く内容は決まっていても、うまく言葉が紡げない時がある。
オスカーは自分が書けない時の対処法を長年の経験からもう分かっていた。
それは書かないこと。無理に書いて出来たもので素晴らしいものなどひとつもないという法則が彼の中にはあった。
ヴァイオレットには申し訳ないが待機をしてもらう形になる。
手持ち無沙汰になった彼女は頼むと無表情で掃除や料理をしてくれた。元来、働き者な性質が搭載されているのだろう。誰かが作ったご飯、それも暖かく湯気が出ている物を家で食べたのは久し振りだった。出前を頼んだり、外食をしたりはしたが、素人が手間暇かけて作った料理とそれらは違う。
とろりと卵が口の中で蕩けるオムライス。東洋のレシピだという豆腐のハンバーグ。色彩豊かな野菜達をピリ辛のソースでライスと共に炒めた極上のピラフ。山々に囲まれた土地では摂取しにくい魚介類が入ったグラタン。副菜もサラダやスープなど何かしら毎回ついてくる。それに対する、ちょっとした感動。
オスカーが食べる時、彼女はそれを眺めているだけで物を口にしない。
食事を勧めても、「後で一人で食べますから」と言って譲らない。液体を飲めることは確認したが、もしかしたら固形物は食べられないのかもしれない。だとしたら、彼女は自分の知らないところで油でも飲んでいるのだろうか。
想像すると、シュールな図が頭に浮かんだ。
――一緒に、食べてくれればいいのに。
思うだけで、口には出さないがそう願ってしまう。
妻とはまったく違うが、どこか似ているような気がする料理をする彼女の後姿。見つめているとなぜだか、無性に切なさがこみ上げてきて目頭が熱くなる。こうして他者を生活の中に入れたことでとても良くわかってしまった。
――僕がいま、とても寂しい生活をしているっていうこと。
おつかいから帰ってきたヴァイオレットを玄関で迎える時の高揚感。
夜、眠る時に感じる、いま自分は独りではないという安心。
何もしていなくても、目を開けばそこに彼女がいるという事実。
それらすべてが、オスカーに自分がいかに孤独な人間であるかを実感させた。
金はあるし、生活に困ってもいない。だがそれが人生を潤してくれるかというと、これ以上心が荒れない防護策にしかならない。
決定的に傷を癒してはくれないのだ。
気心がそれほど知れていない相手だとしても傍に誰かが、誰かがいて、同じように目覚めて起きてすぐ隣にいてくれるということ。
それが、ずっと独りで心を閉ざしてきたオスカーの心に染みる。
ヴァイオレットはオスカーの生活に現れた波紋だった。波風をたてない湖に訪れた小さな変化。投げ込まれたのは無機質な小石だったが、それが彼の無味な生活、風のない湖に変化をもたらした。良い変化か、悪い変化か。どちらかと言えばきっと良いほうなのだろう。
少なくとも彼女がいることで感じる切なさで溢れた涙は、今まで流したものより温かだった。
その名が騒がれたのはもう随分前のことだ。製作者は機械人形の権威であるオーランド博士。
彼の妻であるモリーが小説家で、後天的に視力を失ったのがそもそもの始まりである。
盲目の女になったモリーはその人生の大半で行ってきた小説活動が出来なくなったことにひどく落胆し、日に日に衰弱していった。
そんな妻を見かねてオーランド博士が作ったのが自動手記人形である。
肉声の言葉を書き記すという、いわゆる「代筆」をこなしてくれる機械だ。
当初は愛する妻の為だけに作られたが、後に多くの人々の支えとなり、普及した。
今現在では、自動手記人形を安価で貸し出し、提供する機関も出来ている。
「小説家と自動手記人形」
ロズウェルは緑に囲まれた美しい自然の都だ。
標高の高い山々、麓の街。そこ一帯を示す。しかし資産に余裕がある者達の中でなら、ロズウェルは避暑地、または別荘地として名を知られている。
春は花溢れる山河が人々の目を楽しませ、夏は名所として歴史深い大滝に憩いを求め、秋は落葉の雨に心打たれ、冬は世界全てがしんとした静寂を与えてくれる。四季の移ろいがとてもわかりやすく、観光で季節の折に訪れるには充分目を楽しませてくれる土地だ。
別荘は麓の街に連なって作られている。色とりどりのペンキで塗られた木造小屋。大きなものから小さなものまで。土地代はかなり高額なのでそこに別荘を作れること自体が富裕層であることの証だ。
街には観光客向けの商店が溢れている。休息日には店が連なるメインストリートに人がごった返し、心地よい喧騒の音楽を織りなす。その品揃えは田舎だからと言って馬鹿には出来ない。
大抵の者は利便性を求めて街中に別荘を建てるので、それ以外の場所に家を建築するものは変わり者とされている。
現在のロズウェルの季節は天高くうろこ雲が漂う秋。麓から離れて、この街の観光地の中ではさほど重要視されていない小さな湖の近くにひっそりと建つ小屋が一軒。
良い方に表現すれば趣深い顔立ちに味がある古民家。悪い方に言えば人に見捨てられたかのような有り様のうらぶれた家だ。色褪せた白で塗られたアーチの門をくぐり、雑草や名も無き花に埋もれた庭を進むと全景が見える。
修繕をする気がなさそうな朽ちた赤煉瓦の壁。屋根瓦はあちこち割れ、かつては整然としていたのであろうそれは無残に削がれている。
家の玄関のすぐ横には蔦が絡まり、もはや誰も動かすことが出来ないブランコが。それはこの家にかつては小さな子どもがいた証拠でもあり、もういないという証拠でもあった。
家の持ち主は壮年の男性でオスカーという。
その名前のまま、執筆業をしている脚本家だ。くせのある赤毛の持ち主で、レンズの分厚い黒縁の眼鏡をかけている。実年齢よりは若く見えがちな童顔で少し猫背。寒がりの為にいつもセーターを着ている。何かの話の主人公には成れそうにない、まったくの普通の男だ。
家はオスカーの別荘としてではなく、純粋にこの地に住むために建設された。
彼一人ではなく妻と幼い娘も住めるようにと。三人家族が住むには充分すぎる間取りであったが、今はオスカーしか住んでいない。どちらも既に他界している。
オスカーの妻が死んだ原因は病気だった。名前は長ったらしすぎて、言えないほど。
簡単に言えば血液が血管の中で凝固し、詰まって死ぬ。しかも遺伝性があり、彼の妻は父親からそれを受け継いでいた。
早死にが多い家系だからみなしごなのだと、寂しく言っていた身寄りのない妻のその真意を知ったのは彼女が死んでから。
『知られれば、病気持ちの女と結婚してくれないかもしれないと、怯えていたから秘密にしていたんだよ』
そう教えてくれたのは彼女の親友だった。オスカーは葬式でその事実を親友に伝えられた時に「なんで」という思いがいつまでも頭にこだました。
『なんで、なんで、なんで』
そんなの、言ってくれれば、いくらだって。
一緒に、治す方法を探したりとか、無駄に余っているお金をそれにつぎ込むとか、いくらだって、できたのに。
妻が金目当てでオスカーと結婚したわけではないことは明らかだった。彼女と出会ったのは彼が脚本家として大成する前であったし、出会いの場も彼が良く利用する図書館で、図書司書だった彼女を見初めたのもオスカーの方だった。
――綺麗な人だと、思った。
――彼女が担当する新書のコーナーはいつも面白くて。
――本に恋をしながら、彼女にも恋をした。
「なんで」が数億回。頭の中で巡っては消えた。
妻の親友はできた人で、彼が妻の死で心を喪失している間、精力的に動いて彼と残された幼い娘の世話をしてくれた。放っておけば一日中食べることすらしなくなるオスカーに暖かい食事を、髪の毛を編んでくれた母の不在を泣いて嘆く娘に三つ編みを。
もしかしたら、少しの横恋慕があったのかもしれない。ある時、熱を出して寝込み、突然嘔吐を繰り返すようになった娘を病院に連れて行ったのも彼女だった。
娘が妻と同じ病を持っていると知らされたのは、実の父親よりも親友が先だった。
後の物事はゆっくりと、しかしオスカーの目には早く進んだ。
妻の二の舞にはさせまいとあらゆる高名な医師を頼った。大きな病院からまた大きな病院へ。様々な人に頭を下げ、頼み、情報を集めては新薬を試した。
薬と副作用は切り離せない関係だ。娘は薬を飲む度に泣き喚く。愛する人が苦しむ姿から目をそらすことが出来ない看護の日々は近しい者の心を蝕む。
どれだけ新しい薬を試しても娘の病状は良くならなかった。やがて頼るところすら尽きて、医者にも見放され、治す手立てがないと途方にくれる。
妻が寂しさで黄泉に手招きをしているのではと、後で思い返せば馬鹿らしいことを何度も考えた。連れて行かないでくれと、墓に向かって懇願しても死者が語る口は無い。
精神的に追い込まれていたオスカーだったが、それまで病院に通ってくれていた妻の親友の方が心折れるのが早かった。不安定な娘を見守ることに疲れ果て、いつしか病院から足も遠のき、やがてオスカーと娘は本当に二人きりになった。娘は薬漬けの生活のせいでかつては白いミルクに浮かんだ薔薇の花弁のようだった頬も黄色くにごって醜くやせ衰えた。
甘い匂いがした蜂蜜色の髪も、どんどん抜け落ちていく。
見るに、耐えない。本当に見るに耐えない姿だった。
最終的にオスカーは医者との不毛な押し問答を繰り返した末、娘に鎮静剤の投与だけすることにした。彼女の、ただでさえ短い人生を苦痛だけで埋めてしまいたくなかったのだ。
それからは少しの平和。優しい日々。久しぶりに見る娘の笑顔。
後残りわずかの幸せな毎日が続いた。
彼女が死んだ日はとても天気が良かった。
世界の色を刻々と失わせていく秋。空は快晴。病院の窓からも赤や黄色に染まった木々が見えた。病院の敷地内には憩いの場として設けられた噴水が在り、その水面には落ち葉が浮かび、静かに漂っていた。
落ちては、漂い、水に浮遊し、磁石に引き寄せられるように集まる落ち葉たち。その生命を失っても尚美しい残骸。
娘はそれを見て「きれい」と言った。
「水の青と、落ち葉の色が混ざってとてもきれい。ねえ、あの落ち葉の上なら落ちずに噴水を歩けるかなあ」
子どもらしい発想。実際は重力と体重に負けて体はすぐに水の中へ沈むだろう。オスカーはそれを否定することはせず。
「傘を持って、風を利用すれば更に可能かもね」
と冗談めかして答えた。もう助からない子どもを少しでも甘やかしたかった。
娘はそれを聞いて、瞳を輝かせて笑った。
「いつか見せてあげるね」
私たちのあの家の、湖で。
秋に落ち葉が水面をたゆたう頃。
いつか。
いつか見せてあげる。
娘はその後、こほんこほんと咳を何回かした後に、突然死んだ。
まだ九歳だった。
死んだ骸は抱き上げると軽くて。魂一個分無いにしろ、あまりにも軽すぎて。
本当に生きてくれていたのだろうか、自分は長い夢でも見ていたんだじゃないだろうかと、オスカーは涙した。
彼は娘を妻と同じ墓地に葬り、それから三人の家だった場所に戻って人生を沈黙させた。
オスカーには何もせずに生きられる程の経済力があったし、彼の書いた脚本はあらゆる場所で使われ、その度に彼のもとに金が振り込まれていく給与体制だったので貯金が底を尽きかけて餓死することもなかった。妻と娘の喪に服した数年後、オスカーはかつての仕事仲間の男からまた脚本を書かないかと持ちかけられる。
それは演劇をする者なら誰しも憧れるトップ演劇集団からの依頼であり、もはや業界から名前だけ残して存在が消えようとしていたオスカーにとって名誉ある仕事だった。
ただ怠惰に、自堕落に、悲しみにふける毎日。
人間は飽きる生き物で、悲しむことも、嬉しがることも、ずっとは続けられない。
そういう風に、出来ている。
オスカーは二つ返事でそれを承諾し、もう一度筆を持つことを決めた。
しかし、困ったのはそれからだった。
オスカーは辛い現実から逃れるためにかなりの酒飲みになっていた。吸えば幸福な夢を見る薬も少々。酒と薬はなんとか医者のおかげで克服することが出来たが手の震えが残った。
紙に書くにしろ、タイプするにしろ、これではうまく執筆が進まない。
書きたいことだけは、胸にちゃんとあった。
あとはそれを言葉にするだけ。
執筆の依頼をもちかけた仕事仲間に相談すると、「良い物がある」と教えてくれた。
「自動手記人形を使えばいい」
「なんだい、それは」
「君の世間知らず……というか世俗離れは心配になるレベルだな。有名だぞ。今は割りと安価で借り出し出来るんだ。そうだな、試しにそちらに派遣してやろう」
「人形……が手伝ってくれるのかい?」
「スペシャルな奴がね」
オスカーは名前だけ耳にしたことのある道具を使うことにした。
それが『自動手記人形』。彼と彼女の出会いはここから始まる。
女が山道を登っていた。
やわらかな編みこみがされた髪型はダークレッドのリボンで飾られ、細い体はスノーホワイトのリボンタイワンピース・ドレスに包まれている。
シルクのプリーツが入ったスカートは歩くごとに清楚に揺れ、胸元につけられたエメラルドのブローチが煌めき輝く。
ドレスの上に着込んだジャケットは白を引き締めるプルシアンブルー。
使い込まれて深い色合いを出している革のロングブーツはココアブラウン。手には重たそうなトロリーバックを持ち、オスカーの家の白いアーチをくぐって進む。
ちょうど女が家の庭に足を踏み入れた所で一陣の秋風がごおと音を立てて吹いた。
赤、黄、茶の朽ちた葉が踊るように浮遊し女の周りを旋回する。
紅葉の残骸が目の前に帳を下ろしたせいか、見失う視界。女は胸につけていたブローチを一度手でぎゅっと握りしめる。小さく何か呟いたが、それは枯葉のざわめきよりも大人しい声だったので響くことは無く誰にも聞かれず空気に溶けた。
悪戯な風が止むと女は先程の危うげな雰囲気をどこかに置き忘れ、特に迷う様子もなく、玄関にたどり着くと家のブザーを黒手袋で包まれた指で押した。
地獄の叫びのようなきしんだブザー音が鳴り響き、しばらくすると扉が開かれた。家の持ち主である赤毛の男、オスカーが顔を出す。寝起きだったのか寝ていないのか、どちらにしても客人を迎えるにはだらしない服装と顔立ちをした彼。オスカーは女を見ると、少し驚いた表情をした。彼女があまりにも、風変わりな格好をしていたからか。
それともあまりにも美しかったからか。どちにせよ、一瞬息を呑んだ。
「……君が、自動手記人形?」
「そうです。お客様がお望みならどこでも駆けつけます。自動手記人形サービス、ヴァイオレット・エヴァーガーデンです」
物語から飛び出てきたような美しさの金髪碧眼の女は、愛想笑いを浮かべることもなく玲瓏な声で言った。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンという女はまさに人形の如く美しく静かな佇まいをしていた。金糸の睫毛に覆われた青い瞳は海の底の輝き、乳白色の肌に浮かぶ桜色の頬、艶やかにルージュがひかれた唇。
どこをとっても欠けることのない、満月のような美を持つ女。
瞬きさえしなければ、ただの鑑賞物になるだろう。
オスカーは自動手記人形については全く詳しくなく、仕事の依頼をしてきた友人に頼んで彼女を手配してもらった。
「数日で届くから」と言われて待ったあげく訪れた彼女。
――てっきり、郵送屋が小包で小さな機械の人形を運んでくれるのかと思ったのに。
まさかこれほどまでに人間に似せた機械人形(アンドロイド)のことだったとは。
――文明は僕が引きこもっている間にどれだけ進化したのか。
オスカーは世俗全般に疎いタチだった。新聞も雑誌も読まず、人付き合いも少ない。気にかけくれる友人がいなければ会う相手は食料品店から配達をしてくれる配達員に限られるだろう。
もっとちゃんと調べてから手配を頼めばよかったと早くも後悔する。
この三人の家に、自分以外の人間……に似た者がいることにひどい違和感と、何だか後味の悪いものを覚える。
――家族に悪いことをしているような気分だ。
ヴァイオレットはそんなオスカーの考えも露知らず、案内されたリビングの長椅子に腰掛けている。紅茶を薦めたら、きちんと飲んだので最近の機械人形はかなり発達しているらしい。
「飲んだ紅茶はどうなるんだい?」
疑問に感じて聞いたら、ヴァイオレットは首を少し傾げながら、
「いずれは体内から排出されて、大地に還りますが?」
と答えた。機械人形らしい答えだ。
「正直……僕は戸惑っている。その、想像と……ちょっと違ったから」
ヴァイオレットは自分の身なりをちらりと確認し、共に椅子に座ろうともせず立ってこちらを眺めるオスカーを見つめ返す。
「何かご希望に添えぬ点がありましたか?」
「いや、希望というか……」
「旦那様がお待ち頂けるようでしたら。私ではない弊社の別のドールを手配させて頂きます」
「いや……僕が言いたいのはそうじゃなくて……いや、まあいいか……。仕事が出来ればそれでいいんだ。君はうるさくなさそうだし」
「命じられればなるべく呼吸も浅くいたします」
「そこまでは……しなくていいよ」
「私は旦那様に代筆を求められてここに来ました。ご満足頂けるよう自動手記人形の名に恥じぬ働きを致します。使う道具はペンと紙でもタイプライターでも構いません。どうぞ、計画的にご利用ください」
大きな宝石のような碧眼にじっと見つめられながら言われて、オスカーは少々どきどきしながらも「うん」と頷いた。
彼女の貸し出し期間は二週間。その間に、一つの話を完成させなければいけない。
オスカーは気持ちを入れ替えて、彼女を書斎へ案内し早速作業を始めた。
とは言ったものの、まずヴァイオレットがすることは代筆ではなく彼の書斎の片づけになってしまった。
書斎と寝室を兼ねたオスカーの部屋は脱いだ服や食べかけの飯がこびりついた鍋が床に直置きしてある惨状だった。要するに、足の踏み場がない。
ヴァイオレットは無言で彼を青の瞳で見た。
『呼んでおいてこの有り様はなんだ』と目が言っている。
「……ごめんなさい」
仕事をする人間の部屋ではないのは確かだ。一人になってからはほとんどリビングは使用していなかったので綺麗だったが、頻繁に出入りする部屋、洗面所や台所、風呂場はどこも見るも無残な状況に陥っていた。
ヴァイオレットが機械人形で良かったとオスカーは思った。
彼女の身体年齢は見たところ十代後半から二十代前半くらいだが、そんな若い娘にこんな恥ずかしいところを見せたくはない。老いてきてはいても、男として情けない。
「旦那様、私は代筆屋であってメイドではないのですよ」
とは言いつつも彼女は持ってきた鞄の中から白いフリルエプロンを取り出し、意欲的に片づけをしてくれた。一日目はそれで終わってしまった。
二日目からなんとか二人共書斎に腰を据えて仕事を始めた。
オスカーは寝台に寝転がり、ヴァイオレットは椅子に座り、机の上のタイプライターに手を置く。
「彼女は……言った」
オスカーが喋りだすと恐ろしいほど速いブラインドタッチで文字を静かに打ち出した。
それに目を剥いて彼が驚く。
「……すごく、早いね」
賛辞を送ると、ヴァイオレットは服の袖をまくり黒手袋を脱いで、片方の腕を見せた。機械の腕だ。指先は他の部分より硬質で機械的な作りになっている。指と指の関節の塗装も甘い。
「実用性を兼ねたブランドを使用しています。これはエスターク社製なのですが耐久レベルも高く、人体には成し得ない動きや力を出すことも可能で、大変な優れものです。旦那様のお言葉を漏れなく書き記します」
「そうなの……あ、って今の言葉は書かなくていいから。脚本の言葉だけでいいから」
オスカーは喋り続ける。途中、何度も休憩したが初日としてはうまくいった。
もともと話の構想は自分の中にあったのだ。あまり文章に詰まることはなかった。
ヴァイオレットは話の聞き手、代筆屋としてはとても良い相手だと喋りながらオスカーは気づいた。彼女は最初から物静かな印象であるし、仕事に入るとそれが如実に現れる。命じたわけでもないのに、本当に呼吸の音も聞こえない。聞こえるのはただカチカチとなるタイプ音だけ。目を瞑れば、タイプライターを自分が打っているような気にすらなる。どこまで書いたか、読みあげてもらうにしても声が涼やかで朗読も上手いから聞いていて楽しい。
彼女が語れば、どんな文章も荘厳な物語みたいだ。
――なるほど、これは確かに普及するわけだ。
オスカーはしみじみと自動手記人形の良さを知ることが出来た。
しかし順調なのも三日目までで、四日目以降は書けない日が続いた。物書きにはよくあることだ。書く内容は決まっていても、うまく言葉が紡げない時がある。
オスカーは自分が書けない時の対処法を長年の経験からもう分かっていた。
それは書かないこと。無理に書いて出来たもので素晴らしいものなどひとつもないという法則が彼の中にはあった。
ヴァイオレットには申し訳ないが待機をしてもらう形になる。
手持ち無沙汰になった彼女は頼むと無表情で掃除や料理をしてくれた。元来、働き者な性質が搭載されているのだろう。誰かが作ったご飯、それも暖かく湯気が出ている物を家で食べたのは久し振りだった。出前を頼んだり、外食をしたりはしたが、素人が手間暇かけて作った料理とそれらは違う。
とろりと卵が口の中で蕩けるオムライス。東洋のレシピだという豆腐のハンバーグ。色彩豊かな野菜達をピリ辛のソースでライスと共に炒めた極上のピラフ。山々に囲まれた土地では摂取しにくい魚介類が入ったグラタン。副菜もサラダやスープなど何かしら毎回ついてくる。それに対する、ちょっとした感動。
オスカーが食べる時、彼女はそれを眺めているだけで物を口にしない。
食事を勧めても、「後で一人で食べますから」と言って譲らない。液体を飲めることは確認したが、もしかしたら固形物は食べられないのかもしれない。だとしたら、彼女は自分の知らないところで油でも飲んでいるのだろうか。
想像すると、シュールな図が頭に浮かんだ。
――一緒に、食べてくれればいいのに。
思うだけで、口には出さないがそう願ってしまう。
妻とはまったく違うが、どこか似ているような気がする料理をする彼女の後姿。見つめているとなぜだか、無性に切なさがこみ上げてきて目頭が熱くなる。こうして他者を生活の中に入れたことでとても良くわかってしまった。
――僕がいま、とても寂しい生活をしているっていうこと。
おつかいから帰ってきたヴァイオレットを玄関で迎える時の高揚感。
夜、眠る時に感じる、いま自分は独りではないという安心。
何もしていなくても、目を開けばそこに彼女がいるという事実。
それらすべてが、オスカーに自分がいかに孤独な人間であるかを実感させた。
金はあるし、生活に困ってもいない。だがそれが人生を潤してくれるかというと、これ以上心が荒れない防護策にしかならない。
決定的に傷を癒してはくれないのだ。
気心がそれほど知れていない相手だとしても傍に誰かが、誰かがいて、同じように目覚めて起きてすぐ隣にいてくれるということ。
それが、ずっと独りで心を閉ざしてきたオスカーの心に染みる。
ヴァイオレットはオスカーの生活に現れた波紋だった。波風をたてない湖に訪れた小さな変化。投げ込まれたのは無機質な小石だったが、それが彼の無味な生活、風のない湖に変化をもたらした。良い変化か、悪い変化か。どちらかと言えばきっと良いほうなのだろう。
少なくとも彼女がいることで感じる切なさで溢れた涙は、今まで流したものより温かだった。
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