ヴァイオレット・エヴァーガーデン 上巻

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』
シリーズ刊行10周年記念企画

エピソード無料公開 第5弾

公開期間:523日~627

  • 著者:暁 佳奈
  • イラスト:高瀬亜貴子

 

「少佐と自動殺人人形」

 

 

 

 

 ライデンシャフトリヒ、と聞けば人は軍事国家だと連想する。

 彼の国は人々にそういった印象を与える国である。国の位置は大陸の南側。海沿いに主要都市を構える海洋国家。気温は年間を通して暖かく、冬は雪が降ることがあまりない。

 国益の主たる物は海から取れる海産物や周辺の天然資源。またそれを利用しての貿易が挙げられる。他の大陸から上陸する際の窓口となる首都のライデンは貿易港として名を馳せている。ライデンシャフトリヒから貿易を絶たれれば途端に経済が立ちゆかなくなる国も多い。

 だからこそ、彼の国が外敵に狙われる脅威も多いのである。

 国の歴史を紐解けば侵略者との戦いばかり列挙される。海から、または地続きの大陸からも押し寄せる敵国の兵士達は、幾人もこの軍事国家の砦の前で客死かくしを遂げた。

 歴史の中では何度か他国の支配を受けていた時期もある。その度に国民全員で奮起し、侵略者達を追い返し自分達の国を取り戻してきた。それがライデンシャフトリヒという国に住まう人々の資質とも魂とも言えよう。

 あまりにも度重なる戦いの連続の為、彼らは自己防衛に磨きをかけることが必然となった。貿易により得た他国の文化や武器を柔軟に取り入れそれを自国に活かし改良を続ける。これらの経験がライデンシャフトリヒを大陸に名高い軍事国家に育て上げた。

 そのライデンシャフトリヒには建国当時から長く続く由緒正しき家が存在する。

 ブーゲンビリア。国の英雄と崇められる祖先を持つ一家である。

 そもそもは一代目当主、ラチェット・ブーゲンビリアが押し寄せる侵略者の数々をその剣技と軍事戦略で追い返し何度も救国の人となったことがこの家の始まりである。生まれた子供達は祖先の栄光の元、当然のように軍隊入りすることがブーゲンビリア家の慣例であり、それは時を経て二十六代目当主が家を治めているこの時でも変わらない。

 この話は二十六代目当主、ギルベルト・ブーゲンビリアのとある人生の転機から始まる。

 

 ギルベルト・ブーゲンビリアが「それ」を見たのは、首都ライデンで最も格式高い宿で兄のディートフリートと数年ぶりの邂逅を果たした時だった。

 ブーゲンビリアの血を引く者に受け継がれるのは漆黒の髪に翠の瞳、長い手足、細い腰、広い肩幅だ。ディートフリートは髪を女のように長く伸ばし、それをリボンでくくっていた。服装も海軍指定の白の詰襟制服をだらしなく開襟し、首から金の首飾りを下げている。

「よう、ギル。元気にしてたか? 相変わらず辛気くさい顔だな。父さんにそっくりだ」

 一方、ギルベルトは軟派な印象を受ける兄と正反対で同じ血の要素を受けながらも容姿は異なっていた。宵闇よいやみ色の髪は丁寧に額から頭になでつけられており、兄の深緑寄りの瞳よりは淡く、本当に宝石のエメラルドのような輝きを纏った瞳をしている。中性的な顔立ちの兄に対し、

弟は精悍せいかんな顔つきだ。彫刻像のように整っている目鼻立ち。伏せがちで影が出来る長い睫毛。憂い顔の麗人と言えば彼を客観的に見る者達の評価に沿っているだろうか。

 海軍制服姿の兄と相反するように、キルティングの詰襟制服をきっちり首元までボタンを閉めて着ている。紫黒色の生地、臙脂えんじのラインの肩章、腰からアコーディオンプリーツの飾り布がひらめく。ストイックな色はギルベルトの雰囲気に良く似合っていた。

 十二階建ての宿の最上階、一晩の宿泊費が庶民の一ヶ月ほどの給与に値する部屋で兄と弟はおざなりに抱きしめ合い、その場にあった長椅子に腰掛けた。 

 二人以外にもその場には人が居た。今回、兄のディートフリートがライデンに立ち寄る際に連れてきた仲間達だ。彼らは各々部屋に設置されたバーカウンターで酒を飲み、煙草たばこを吹かしていた。室内にはもくもくと白い煙が天井に渦巻いている。

「兄さんは、相変わらずだ」

 兄の軍人らしからぬ姿と、彼が率いる仲間達の似たような装いを見てギルベルトは言う。この空間では彼の方が異質な存在だった。

「休暇中だぞ? 海軍は陸軍と違って陸に上がれば開放的になるのが常なんだよ」

「兄さんは、陸じゃなくても海でもそういう格好だろう。その髪……父上が見たらきっと許しはしなかった。軍刀で斬られていただろうに」

「そりゃごめんだ。死んでいてくれて良かったよ」

「…………」

 ディートフリートは軽口のつもりだったが弟にはそれは通用しなかった。軽蔑と悲しみが込められたまなざしで一瞥される。弟のその瞳に弱いのか、ディートフリートは嘆息した。

「……嗚呼……もう悪かったよ。お前にゃ良い親父だったかもしれないが俺には最悪だった。ただそれだけだっ」

「それが葬式にも出ず、私に家督までなすり付けた理由のすべてか」

「お前の方が合ってるだろ? 俺にはあの家は向かないし当主なんかする柄じゃない。不出来な兄のせいで優秀な一族の名誉が傷つくくらいなら、相応しい奴にやってもらうのが幸いだ。子孫にとってもな。……なあギル。もう随分前のことじゃないか。いい加減許してくれよ。再会の度に責められちゃたまったもんじゃない。俺はブーゲンビリアの家は捨てたけど、お前とは兄弟でいたいんだ。楽しい話をしよう」

 たしなように言われてギルベルトは黙りこむ。

 ブーゲンビリア家は代々陸軍に士官するのが習わしとなっている。軍は軍でも陸軍と海軍では同じ国の国防組織と言えど別個の存在である。それぞれがそれぞれを意識し合い、敵対しあう部分も多い。ライデンシャフトリヒの軍事予算を海軍と陸軍で分けあっていることがその理由の大部分ではある。金と利権は、いかなる時代いかなる場所であろうと火種の元だ。

 一家で海軍に入隊したのはブーゲンビリアの歴史上、ディートフリートが初めてだった。

 そして彼はただ入隊しただけではなく、着々と出世街道を突き進んでいる。堂々と会いに来るのも、親の栄光を受けずに彼が自らの努力と才能で勝ち得た功績に自信を持っているからだ。

 ギルベルトもそれは認めてはいる。だからこそ、思わずにはいられない。

――本当は貴方が継ぐべきだった。

「せっかく寄港してるんだ……母さんに、顔くらい見せてあげたらどうだ。両者に挟まれている私の身になってくれ」

 兄が真実不出来であれば、こんな複雑な胸中になることは無かっただろう。

「うちは家族が多いから、母さんに会ったら妹達や婆様、親戚の爺どもにも挨拶せにゃならんだろ。ゴメンだね。やかましいことを言われて俺が怒鳴り散らしてしまうのが目に見えてる」

 ふんぞり返って足を組み悪態をつくディートフリートにギルベルトは呆れた様子を見せる。

「……家族じゃないか、たまにくらい仲良くしようと努力出来ないのか」

「家族だからこそ、俺は適切な距離を保ちたいんだよ。…………お前とはさ……お前とはちゃんと距離がとれるんだけどな。他は難しいんだ。ギルベルト、感謝しているよ。俺が海軍に入ったせいで親の期待はお前に注がれちまって、しかもちゃんとそれに応えてる。帰って来い帰って来いってあまり言われないのはお前が俺の代わりをしてくれてるからだって分かってるんだよ……俺だって。だからさ、こうしてお前の昇格祝いに駆けつけたんだ……兄弟だからな」

 片目を茶目っ気たっぷりに閉じて見せる姿は弟から見ても魅力的だった。ディートフリートは自己中心的で横暴な性格であるのに、どこか人を惹きつける素養があった。たくさんの人に囲まれ、慕われ、そうされることに物怖じもしない性格をしている。

 真面目すぎる故に人好きしないギルベルトにとって、同じ人間として羨望して止まない部分を兄は持っていた。

「そうだ、お前の昇格祝いに良い物を持ってきたんだよ」

 ディートフリートはおもむろに片手を挙げてその場に居た仲間に合図をした。すると、動いた男が別の部屋から麻袋に包まれた何かを横抱きにして持ってきた。

「最近まで俺が使っていた武器なんだが譲ってやる。これでお前も更なる昇格間違いなしだ」

 二人を挟んだ楕円形の卓にどんと麻袋が乱暴に置かれた。びくっと中に入っている何かが動いたのを見てギルベルトは一瞬長椅子から腰を浮かせてベルトに差し込んでいた軍刀に触れる。

 その様子にディートフリートは苦笑した。

「大丈夫だ、大丈夫だギル……落ち着け。おかしなもんじゃない。いや、狂ってはいるか? ……ははっ。少々扱いが難しく危険な奴だが、命令しない限り大人しい。だが変なことをしようとは考えるな。見た目は悪くないからな……俺の知る限り八人はこいつの寝床に忍び込もうとして首と胴体が離れちまっている。気性の荒さには困ったもんだ。慰み者にするのは向かない」

「……中に何が入っているんだ」

「あくまで、武器として使え。それ以外の何にも思うな。情もかけるな。『武器』だ。いいな?」

「……だから、中に何が入っているんだと聞いている」

「開けてみろ」

 ディートフリートのその言葉は、悪魔の誘いに聞こえた。ギルベルトは一度痙攣したきり動かないその麻袋に手をかけ、ぎゅっと縛られていた紐を解く。

 現れた存在は、麻袋が胴回りで止まって一瞬人魚姫に見えた。

「名前はつけてない。『お前』で呼んでいた」

『それ』は少女だった。

 煤けた色の粗末な革と毛皮で出来た襤褸ぼろ切れの服。首には何かの隷属を匂わせる首輪。身体からは獣と血と雨の香りが混ざったような異臭。纏うすべてがけがらわしい。だが、ただの小汚い子どもとして片付けてしまうにはあまりにも。

――この世のものとは、思えない。

 あまりにも美し過ぎた。

 ギルベルトは少女の相貌に息を呑んだ。

 腰あたりまで伸びている長い金色の髪は、どんな黄金の宝飾品よりも輝いている。顔にはあざや擦り傷が多くついていた。乱れた髪の隙間からは碧い瞳が見える。空とも海とも似つかぬ色をたたえた瞳はまっすぐにギルベルトに注がれていた。

 二人は暫し見つめ合う。互いに動かないので、まるで時が止まったようだった。

「おい、挨拶をしろよ」

 ディートフリートに無理やり頭を鷲掴みされて少女は乱暴に礼をさせられた。それを見たギルベルトはすぐさま兄の手を払い、自分の手元に少女を抱き寄せる。

 腕の中で少女がぶるりと身震いをした。

「子どもに乱暴な真似をするな! 人身売買したのかっ!?

 守るように、彼女を抱きしめるギルベルトは誰が見ても激昂していた。額に青筋を浮かべて怒る様子は、その場に居た他の男達の会話さえも静かにさせる。

 ただ一人、ディートフリートだけが驚きもせず余裕の表情で寛いでいる。

「馬鹿言うな。俺に奴隷なんて必要ない。戦士なら欲しいが」

「だったらこの子は何だ! 私にこんな小さな子どもを差し出して何が楽しいっ!」

「……だから、な。それは子どもではない。『武器』だ。言い聞かせただろう? 仕様のない弟君だな」

 ギルベルトは少女を見下ろした。見たところ、十歳くらいの年齢だ。整った顔立ちが少し大人びた印象を与えるが、それでも小さな肩や手が彼女の幼さを物語っている。

 彼女のどこが武器だと言うのか。簡単に腕の中に収めることの出来る子どもだ。ギルベルトは怒りを通り越して段々と悲しみを覚えてきた。少女を抱いたまま兄を睨んで席を立つ。

「……この子は引き取る。こんな……幼い子どもが武器だなんて……もう、二度と貴方とは会いたくない」

 その言葉にディートフリートは目頭を押さえながら笑い出した。

 つられて、仲間の男たちも笑い出す。自分の耳に響く複数の下卑な笑い声にギルベルトは吐き気と嫌悪、そして少しの恐れを抱いた。異様な雰囲気だ。疎外感とは違う、もっと別の差異を彼らから感じる。

――これではまるで、私の方が狂っているようだ。

 そう、最初からこの空間ではギルベルトだけが異質だったのだ。たとえ何かが捻れていたとしても、それが大多数を占めているのなら少数派が誤りにされる。大多数の異常さは少数の正常を段々と侵食していくのだ。

「何が……可笑しい」

 ディートフリートはゆっくり立ち上がるとギルベルトの傍まで来て肩を叩いた。

「ギル……俺の説明も悪かったな。確かにそいつをただ見ただけではそういう反応をするだろう。お前は真面目な良い奴だし。それはひと目では武器と分からない。だからな、理解しやすいように実地で教えてやるよ。来い」

 お前もだ、とディートフリートは少女に声をかける。少女はギルベルトの手の内からするりと抜けるとディートフリートの後を追ってしまった。だが一度こちらの様子を窺う素振りを見せる。動くたび残光すら残しそうな碧眼は視線ひとつで人を誘った。ギルベルトも慌てて立ち上がる。

 案内されたのは麻袋に入れられた少女が出てきた隣室だった。高級宿泊室だ。部屋が複数あるのは当然として、問題は宿泊客の部屋の使用の仕方だった。

 寝台が壁側に押し付けられて中央を広く開けている。そこに転がるのはまたも麻袋で、今度は五つあった。大きさは人間の成人男性がすっぽり入るくらいの大きさだ。こちらは少女とは違い終始動いて暴れている。恐らくは中で縛られ、猿ぐつわをされているのだろう。うまく形成されない言葉が家畜の鳴き声にも似た音として漏れ出ている。

 どんな理由があろうと、人間をこんな風に扱うのは間違っている。平然とした顔でいる他の者の方がおかしいに決まっていると、まだギルベルトは思えた。異常の感染はもはや彼のつま先から喉元まで広がっていたが、何とか声を出す。

「彼らは、誰だ。何を理由に拘束している。兄さん、どういうことか説明してくれ……」

 心臓は未来を予知するかのように嫌なざわめきを奏でている。

「ああ、まずこいつらを紹介しないとな。港に泊めてるうちの艦に侵入したこそ泥だ」

 ディートフリートは磨かれた革靴で麻袋を軽く蹴った。

「何か金目の物でも探そうとしていたんだろう。中の構造を大して調べもせずに入りやがって、厨房で料理人と出くわして口封じに三人殺しやがった。海の砦で生活する俺たちにとって料理が美味いってことはかなり大事なことだ」

 更に長い足をゆっくりと上げ、靴底の角が当たるように振り下ろした。麻袋から悲鳴が出て、ギルベルトは顔をしかめる。

「こいつらは、よりにもよってうちの料理長含む最高の料理人を殺しやがった。勧誘してうちの艦で働かせるのにどれだけ大枚はたいたと思う? 上等な女を一晩買える金額じゃとても足りないぞ。俺達海軍は、艦の中で起きたことは自分たちの法律で執行する。まあ、今は陸だが……やったのは艦の中だからありだ。それじゃあ、これからいい見世物を披露してやるよ。……おい、そいつらを出してやれ。あと何か武器を与えろ」

 ディートフリートが声をかけると、連れ立って共に部屋に来た数名の仲間の男達が次々と麻袋から縛られた人間を出した。縄を解いて、銃で威嚇しながらそれぞれにナイフを渡す。困惑している泥棒五名は、口々に『これはどういうことだ』と怯え混じりの怒声を上げた。

 ディートフリートは無視して大仰に手をふり回して言う。

「さて、世にも不思議で奇妙な遊戯の始まりだ。紳士……居ないな。淑女も居ない。では、野郎ども! お見せするのはこの俺が東の大陸で見つけた野生児だ」

 指を差された少女は何の感情も所持していなさそうな顔をしてその指先を見返す。

「こいつとの出会いはひと月ほど前をさかのぼる。我がライデンシャフトリヒ国海域周辺で通商破壊をたくらむ糞艦隊どもをぶっ潰していた時の話だ。とある夜、戦闘真っ最中に大暴風雨に見舞われた。味方も敵も諸共海に沈んだ大惨事だ。新聞にも掲載されたらしいな。俺はその時漂流していたから知らないが」

 兄が九死に一生を得ていたことを知らされていなかったギルベルトは驚きの表情を浮かべるが話に口を挟む隙は無い。

「艦が座礁し、数人の仲間と共に小さな救命船で流れ着いたのは地図にも記されていない孤島だった。俺はその島でこれを見つけた。……これは独りだった。でかい木の上でどこか遠くを見ていた」

 親は死んだのか。それとも同じように海で遭難してしまったのか。少女の身元は未だ分かっていないとディートフリートは語る。

「見た目は悪くないだろう? あと十年くらいしたら国一つ傾けそうだけど、まだガキだ。俺はガキに興味は無い。無いが……それが好い奴も世の中にはいる。生存してた部下の中にもその手の愛好者が居た。そいつは嬉々として近寄ってな、その場でこれを犯そうとしたよ。よくもまあ漂流したばかりの身の上で元気なもんだ。呆れたね。俺も苛々してたからこんな状況で俺を更に怒らせるなと、その馬鹿を止めて殴ろうとしたんだが……」

 ディートフリートは少女の両肩を掴んで泥棒達に真正面からその姿を見せつけた。

 少女の碧眼は彼らを捉える。

「俺が止める間もなく部下はこれに殺された」

 白く細い腕を後ろから掴んで、空を切らせた。獣が獲物を襲う仕草だ。操り人形扱いされた少女とディートフリートの寸劇に泥棒達は乾いた笑いを漏らす。

 当然の反応だろう。一体こんな子どもに何が出来るというのか。

「足元に転がっていた枝で首を横から一刺し、それから部下の腰に下げられてた軍刀を奪って心臓を一突きだ。的確な身のこなしだった」

 彼が冗談を言っている訳ではないと、ギルベルトはその表情で読み取れた。

「みんな逃げたさ。世界には色んな原住民が居る。俺たちだけが強いと思ったら大間違いだ。こんなガキでこれなら、大人はどれほど強い? しかしこれは逃げても逃げても追ってきた。……けして近づきすぎず。かと言って姿が見えなくなるほど遠ざからない。島の中で俺達はいたちごっごだ。神経もすり減る。疲れ果てた俺は、どうにでもなれと仲間に武器を持たせて叫んだ……『みんな殺せ!』ってな。俺は、そいつを殺せと言う意味で言った。けれど……」

 ディートフリートは、冷たい横顔のまま言葉を続ける。

「これは次の瞬間、その場に居た俺以外の仲間をすべて殺した」

 そのことに、明らかに恨みが残る言い方だった。

 現に、ディートフリートは忌ま忌ましい目つきで少女を見下ろしている。

「それから俺はこの殺人鬼に追い掛け回された。俺の傍を離れずついてこようとする。殺すなら殺せばいいのに俺を殺さない。言葉は通じないんだ。何を話しかけても分かった表情をしない。段々、島にはこれしか居ないこともわかってきた。いつまでも殺人鬼が自分の傍を離れない恐怖がわかるか? 俺はさすがに気が狂って『もう殺せ』と怒鳴ったが、そしたらこれはその場の草むらに隠れていた動物を殺した。……そこで気づいた。これは、俺が命令したから殺したんだと。分かってからは実験を繰り返した。例えば動物や昆虫を指さして『殺せ』と言うとこれは機械仕掛けの人形のようにすぐさま行なってくれる。明確に誰かを殺せと言えば応じるんだ。どうして俺を選んだのか分からない。命令してくれる相手なら誰でもよくて、偶々出会った集団で一番の長を見抜いて従っただけなのかもしれない。これは知能は低いんだ。言葉も話せない。だが、殺戮の命令だけは分かる。それしか、分かる必要がないかのように……。俺は、悩んだ末に、これを傍に置きながら救援を待ち生き延びた。そして持ち帰った」

 いつのまにか、部屋の入口と真ん中で人が分かれていた。ディートフリートが少女を泥棒達の前に押し出してその手にナイフを握らせる。少女の手には大きすぎるナイフだ。

「兄さん」

 ギルベルトはまさかと思い、声で咎めた。

「兄さん、馬鹿な真似はするな」

 それだけでは足りないと、二人の背後から手を伸ばす。

 ディートフリートは唇だけ笑みを作り、泥棒達を指さして少女に頷いた。

 

「殺せ」

 

 ギルベルトは少女の指先を掴みかけていたが、彼女の小さな指の感触は手の中ですぐ消えた。

 命令の遂行は一瞬だった。ナイフを持った少女は手前の男に猫のように飛びつくと、その喉を木から果物を切り取るようにまっすぐ横に裂いた。枝に見立てられた首から多量の血が噴き出し、実である頭がぐずりと揺れる。殺戮に躊躇いは無く、次の行動に移るのもすぐだった。男の身体を踏み台にして少女は跳躍し、他の泥棒の首に裸足の足を巻き付けると脳天にナイフを突き刺した。断末魔の叫びが部屋に響く。少女は二人目の死体から使われていない武器を奪うと残りの三名に体の向きを変えた。

 やっと事態の深刻さに気づいた泥棒達は叫び声を上げて少女に斬りかかる。それよりも少女のほうが早かった。小さな身体を利用し彼らの足元をすり抜け背後から次々と刺殺していく。あまりにも軽やかで、それでいて重い腕の振り方。

 軍で体術や武器を利用した戦闘技術を仕込まれているギルベルトすら驚嘆する身のこなし。彼女には体重など、重力など無いように見える。飛び回るごとに、鮮血が飛び散る。

「やめてくれ、やめ、やめて……」

 追い詰められた残り一名が命の懇願を始めた。もう戦意は失われている。震える唇、恐怖で裏返った声で必死に言い繕う。殺すつもりはなかったんだ、間違いだった。二度としない。罪なら償う。だから殺さないでくれ。恐らくは同じ目に遭わされた料理人が言ったような命乞いの台詞を、思いつく限り吐き出す。泥棒は無抵抗を示す為に武器を降ろした。少女は血まみれのナイフを握りしめたまま後ろを振り返る。判断を仰いでいるのだ。

 ギルベルトは叫んだ。

「やめろ!」

「やれ」

 同時にディートフリートは親指を立てて自分の首をすっと切る動作をした。

 少女は口を少し開け、躊躇を見せる。瞳の行き先が二人の男を交互に行き交い定まらない。

 ディートフリートはその姿を見て、一瞬驚いた顔をしてから笑った。嬉しそうに。

「殺せ」

 だが笑いながら、再度命令した。

 少女はディートフリートを眺めたまま腕を動かし泥棒の命を狩った。

 一連の殺しは、実質一分もかかっていなかった。血まみれの少女は息をぜえはあと吐きながらこちらを見ている。

 喋らない。だが、『これでいいか』とその瞳が言っている。

――何だ、これは。

 強く、問いかけている。

――何なんだ、一体どうなっている。

 ギルベルトの喉が、ごくりとつばを飲み込んだ。

――これは現実なのか。

「分かっただろう。これはな、ギルベルト……ただの子どもなんかじゃない。使い方さえわかれば、恐らくは世界最強となり得る武器なんだよ……」

 兄の言葉を、疑う気持ちはもはや湧きはしなかった。

「だが、俺はこれが恐ろしい」

 人を殺したと言うのに、無表情で立ち尽くして、命令を待っている少女。

「いつまでも付いてくるんだ。命令をくれる者に付きまとう。役には立つが、不要になっても殺せない。自分の防護に対しては鉄壁なんだ。俺はこいつを使い捨てたいのに、それが出来ない。こいつは殺しの……いや戦いにおける天賦の才を持っている。お前にやるよギルベルト。もらってくれ。めすだから成長したら月のものとかで少し手間がかかるかもしれんが、お前ならうまくやれるだろ?」

 ギルベルトは、ディートフリートが、彼女を心底恐怖しているのがその表情で分かった。

「これもきっと、お前のほうがいい」

 笑ってはいるが、引きっている。

 この兄は、弟に、始末の負えない生き物を押し付けようとしているのだ。

 その為に、昇進祝いだと嘘をついてまで呼び出した。

「なあ、もらってくれるだろ。ギルベルト」

 心臓が嫌な音をごとりとたてた。

 

 結局、ギルベルトは彼女を持ち帰った。

 自信家で他人に何かが怖いなどとけして語ったことのない兄が、恐怖しているのに同情したのもある。また、ディートフリートにこの少女を預けていてもろくなことにはならないと判断したせいもある。別れの時、ディートフリートは少女に言った。

「じゃあな、化物。次はそいつがお前のご主人様だ」

 最後まで彼女を人として扱わなかった癖に、頭を一度だけ撫でた。

 少女は何も喋らなかったが、手を引いていくギルベルトに連れられながら何度か後ろを振り返った。

 自分の軍服の上着だけ着せて、靴も履いてない少女を抱きかかえてギルベルトは街の通りで立ち尽くす。あれだけの惨事があったというのに、ライデンの街はいつも通り機能している。目を覆いたくなるような光景も、陽光の下では無かったことのように思える。

 実際、あの殺しは外部に漏れることはないだろう。遺体はまったく別の場所で見つかるか、一生露見することがないかどちらかだ。兄がそんなへまをする男ではないこととギルベルトは知っている。

『いいか、孤児院なんかに預けようと思うな。その後、そこが血みどろの殺人現場になっても俺は知らないぞ』

 兄に釘を刺された一言が頭の中を巡る。少女の戦い方を見た後では彼女を自分の目の届く範囲以外に置こうとは思えなかった。腕の中で不思議そうにこちらを見ている少女は、一見哀れな孤児であるのに。

――今日一日で五人を殺した。

 この小さな殺人鬼をどう処理するべきか。

 ギルベルトという男は、ディートフリートと違っているようで深い所では似ている。

 物事を客観的に捉え、今起こっている事象を正確に判断し、最善の対処をしようとする。

 少なからず非人道的な部分があったとしても、それが出来る心の冷たさは軍人向きだ。

 誰にも預けられない。かと言って忘れさって置き去りにすることも出来ない『武器』をどうするかは感情を抜けば明白だった。

 自分が正しく彼女を『使う』ことである。

 

 ライデンシャフトリヒは今現在、大陸の複数国と対立しており遠征をして戦争を行なっている。人間同士の争いの種は昔から変わらず水や燃料、土地、宗教。様々な問題が複雑に入り組んでいるが、ライデンシャフトリヒの戦争参加の一番の理由は他国の自国侵略、海洋貿易の独占略奪を防ぐためだった。大陸間の戦争を、簡単に大陸戦争と呼ぼう。

 大陸戦争の発端は自然燃料が不足している大陸の北側が南側の諸国に南下を始め、国土を侵略したことにあった。南側の経済地域を侵害し密猟や不法占拠を突如行ったのだ。

 だが北側にはそれをする理由もあった。かねてより、北と南の諸外国ではそれぞれの需要と供給で交換貿易を行なっていた。自然資源の少ない北側は南側のもたらす交易物に依存せざるを得ない状況が続く。それに味をしめた南側が段々と交易物の値を釣り上げていったのだ。 

 北側は適正な価格を求めたが、南側に貿易自体を中止すると脅迫をされる。経済的な支配により相手を掌握しようとしたのは南側が始めたことだった。

 北側諸国は理不尽な対応に怒り南下を決断した。諸国で協力して南下を繰り返し南側を侵略した。まだそれが北と南の戦争だけに留まれば良かったのだが、同時期に別の戦争が始まった。西と東の宗教戦争である。西側諸国と東側諸国は元は一つの宗教を主体に形成された国家だった。同じ神を崇め奉りながらも崇拝の在り方や教義の解釈の違いが国内に広がり、やがては分断され西と東に散ったのが彼らだ。

 本来なら関係の無い東西諸国であったが、もとより北と親交が強かった東側が南下侵攻に協力の姿勢を見せると呼応するように西と南も同盟を組んだ。北東同盟は南側の貿易条約の見直しと西側が所有していた彼らの神の巡礼地の明け渡しを要求した。南西同盟は武力による侵略行為の賠償を求め、徹底抗戦を意思表示した。

 大陸はこのようにして戦火に覆われていったのだ。この戦争の中でライデンシャフトリヒは南側諸国の要だった。大陸最高の貿易国。そして軍事国家。

 ライデンシャフトリヒが落とされれば南側の敗北は決定し、北側の統治国家となる。

 良いように使われるのは今度は南側と言うことだ。

 どちらも負ける訳にはいかない。敗北は隷属を意味した。

 ライデンシャフトリヒには国内を守る迎撃部隊、国外へ攻め入る進撃部隊が海軍、陸軍(空軍は陸軍、海軍どちらにも配備されている)と共にあるがギルベルトは入隊してから一貫して陸軍の進撃部隊にいた。国へ帰るのは年に数回。彼が入隊した折から北側諸外国との関係が更に悪化。十七歳で戦地に赴き八年ほど方々を駆け回った。

 戦時での功績や、彼の血筋の期待も含めて少佐へと昇格したのはつい最近のこと。

 ギルベルトは現在、戦場を離れて一時帰国している。それは彼の昇格にあたり褒章ほうしょうの授与など儀礼的な手続きを済ませる為だった。少女と出会ったのがこの時期であったのは運命的だったと言える。彼が上層部に申し立てをする機会を得るには最もふさわしい時だったのだから。

 ギルベルトは、少佐昇格にあたり自身が総指揮を執ることを任命されていた遊撃部隊に彼女を入隊させようと決心していた。この遊撃部隊の設立理由はいずれ迎える北側諸国との決戦に向けて本隊とは別に暗躍することが出来る人材を育てるのが目的とされている。

 殺戮兵器のような少女を手元に置きながら育てるには最適な場所だと言えた。

 だがいくら自身の部隊の人員とはいえ、まだ年端もいかない少女を戦闘要員に指名するのは許されるはずもない。幼子を手元に置くことによからぬ発想をする者も居るだろう。

 それにあたり、ディートフリートがギルベルトにして見せたことを軍部のお偉い方にも披露し入隊を承認させる必要があった。

 直属の上司に直訴してから数日。少女が本当に『武器』となり得るか軍の訓練場で非公開の実験をする許可が下りた。案件が通ったことにギルベルト自身も驚いたが、まだ少佐に成りたての若造の申し立てに上層部が頷いたのはひとえにギルベルトが積み重ねてきた評価がある。

 影響力のある家柄の当主であること。ギルベルト・ブーゲンビリアという人間がこのような提案に冗談を挟む人間ではないと彼を知る者達から意見があったこと。築いてきた信頼が最後には勝った。だが評価の高い人間とは脚光を浴びる分、影を作るものである。

 実験当日、ギルベルトと少女はライデンの陸軍基地内にある訓練場に居た。

「……」

 主に近接格闘術の訓練で使われる施設である。長方形の広々とした箱の形をしている。ギルベルトとしてはこの中で非公開に少人数での戦闘能力の披露をする予定だった。彼女の身体能力は殺人をせずとも凄さは知らしめられる。だがいざ話が決まると訓練ではなく『見世物』になっていた。

「……殺人享楽主義者共が」

 訓練場内の窓という窓を暗幕で塞がれて、床に薄汚れた大布が敷かれている。

 用意されているのは死刑囚が十人。それも婦女暴行や強盗の末に殺人を犯した者達だ。

 戦うのは少女一人。ギルベルトの提案が真実であるなら、凶悪犯罪者十人相手など容易いだろうと暗に言っているようなものだった。ギルベルト本人、もしくはブーゲンビリアの家そのものを良く思っていない派閥の陰湿な仕掛けだ。

 憤りを抱きつつギルベルトは思案する。

――中止を求めるか? いや、だが……。

 少女を手元に置いて育てるにはこれしか方法がない。自分は軍人で、彼女は殺人鬼で、共に暮らしていくには彼女の存在を肯定して居場所を勝ち取らなくてはならない。

 いま此処で躊躇ってどうする、と己が己に問いかける。戦場に連れて行けば敵は十人では済まない。戦争という免罪符で殺人を許可された戦士達がゴマンと居る。

 覚悟が必要だとギルベルトは思った。少女にではない。

 自分が少女の使い手となる確固たる覚悟が必要だと、ギルベルトは思った。

 そこまで考えて、ふと軍服の袖口を引っ張られていることに気がつく。

「……どうした?」

 少女がこちらを見上げている。無表情なので何を考えているか分からない。ただその大きな碧眼は新しい主人の様子を窺っているようだった。彼を心配しているのかもしれない。

「ああ……私は、問題ない」

 言葉は分からないはずだが、ギルベルトはなるべく穏やかに話した。少女は返事を貰ってからしばらくそのまま動きを停止し、再度袖口を引く。

 何か命令があるなら言え、と言われた気がして苦笑いした。

「大丈夫だ。それより……」

「ギルベルト!」

 後ろから声をかけられて言葉の途中で振り返る。

「ホッジンズ」

 ギルベルトとそう年齢の変わらない男が屈託のない笑みを浮かべながら近づいてきた。

 見るからに女性に好かれそうな伊達男だ。垂れ目で愛嬌のある顔立ち。だが彫り深く男らしい。特徴的な真紅の髪は緩やかに波打っている。着崩した軍服、腰ベルトから揺らめくグラフチェックの飾り布。同じ軍服でも着こなしでギルベルトとは全く違う印象だ。

「くそ……嬉しいぞ! 生きてたな! 久しぶりだ、揃って少佐に昇格だな!」

 ギルベルトにホッジンズと呼ばれた男は肩に手を回し力加減なしに叩いてきた。飛びつくように体重をかけられたせいか前につんのめる。

「痛い……叩くな」

 口ではそう言いつつも、ギルベルトは口の端を上げる。旧知の間柄なのだろう。

 少女は警戒の目線でホッジンズを眺めるが、主にとって不穏因子では無いと判断したのか掴んでいたままの袖口を離した。

「悪い悪い。俺ついさっき到着して褒章授与されててさ。挨拶回りしてたらお前が大変なことになってるって聞いて。仲良い上司にここ入れてもらったんだ。元気してたか? 飯ちゃんと食ってるか? 嫁さんとかまだ貰ってないよな?」

「見れば分かるだろう」

「お前のその素っ気ない態度、久しぶりだと可愛く思えるから不思議だな~。それで、嫁さんの代わりに子どもだけこさえたのか」

 ホッジンズはギルベルトから少女へ視線を移す。ごく自然に膝を折り彼女の目線に合わせた。

「やあ、俺はホッジンズ。君はなんて名前なのかな?」

「……」

「無口だなこの子」

「彼女は……まだ名前がない。孤児で学も無い。言葉も知らないんだ」

 つい、顔を横に背けて言った。何故かギルベルトが自分自身の言葉に傷ついていた。

「お前、それは酷いだろ。こんな美人さんなんだ。ふさわしい名前をつけてやれよ」

 ホッジンズが『ねえ?』と問いかけるもやはり少女から反応は無い。

 少女の碧眼からチキチキチキと計算機が繰り出す音が聞こえてきそうだった。攻撃対象からは除外したが、何かを測定している。自分にとって彼がどういう存在になるか。

「そんなに見つめられると照れるな……。なぁギルベルト、事情は簡単に聞いたが、お前は大丈夫なの?」

「何がだ」

 床についた膝の埃を払ってホッジンズが立ち上がった。ギルベルトよりも背が高いので見上げる形になる。

「今ならまだ取り返しがつくと思うぞ。本当にこんな子どもに殺し合いをさせるのか? お偉いさん方は楽しみにしてるようだが、俺としちゃ未来の美女が無残に殺されるのは忍びない」

「その点に関しては心配していない。ホッジンズ、そろそろ我々は観覧席に上がるぞ」

「おい、ギルベルト」

 会話に入れず傍観者となるしかない少女に向き直し、ギルベルトは口を開く。

「出来る、そうだな?」

 意味のない問いだった。彼女は言葉を解さないのだ。

「君は、これに打ち勝つ。この状況に」

 だがギルベルトは確認せずにはいられなかった。

 少女を見ていると覚悟が揺らぐ。友人からの言葉もまた彼の罪悪感を刺激する。

 それらすべて、飲み込んで共に生きる道を得たい。

――君を抱き上げた瞬間から、我々は一蓮托生の仲になったんだ。

 彼女の狂気ごと存在を肯定する責任が自分にはあると、ギルベルトは思っていた。

「上で見ている」

 ギルベルトは少女を訓練の審判に預け、訓練場の屋根近くに設けられている観覧席へ腰を落ち着かせた。ホッジンズも当然のように隣に座る。煙草を取り出して『いるか』と聞いてくるホッジンズに無言で手を差し出した。煙草を咥え、ホッジンズの煙草からもらい火をする。

「……久しぶりに吸った」

「子どもの前だとなー吸いにくいよな」

「煙に慣れてるようだが、偶に咳き込む。その姿を見ると、もう吸えない」

 ホッジンズは垂れ目を細めてじっとギルベルトの横顔を睨む。

「ギルベルト、お前そんな奴だった? 随分とほだされてるな……家庭持ったらどうだ。案外向いてるぞ」

「……自分は結婚する気がない癖に人に勧めるのか」

「俺は博愛主義だから、一人に囚われることが出来ないんです~。あー、再度聞くけど……あの子は本当にお前が上に提案した通りの戦力保持者なのか?」

「無論だ」

 それに関して、ギルベルトは不安な思いはなかった。

「嫌にはっきり言うじゃない」

「私でも、きっとあの娘には勝てない。お前にも。丸腰なら話は別だが」

「嘘だろ。俺が負ける訳ない。言っとくが俺は女性には優しいが敵なら躊躇はしないぞ」

「そういう覚悟の問題ではない。天賦てんぷの才能なんだ……」

 ホッジンズは観覧席のへりから身体を乗り出して眼下の少女を見つめる。監督役を務める男に武器を渡されている。銃、剣、弓。好きなものを選ばせているようだ。

 少女は迷った末にまず小斧を手にした。次に短剣、片手用機械弓と選んでいく。扱いの違う武器を複数選ぶその姿に場内に笑い声が広がる。だが、片手用機械弓を戸惑うことなく腕に装着し、試し打ちの的に命中させると静まり返った。ざわざわと小声の波が広がる。

「与える武器が強ければ強いほど、いい」

 皆も少しずつ理解し出したのだ。この美しい生き物の異様さに。

 ギルベルトは監督役の上官に「殺せ」と命じれば動くことを説明していた。ギルベルトがその役割をしないのは審判をする上役達の命令だ。何か小細工をさせない為にと彼らは言った。

――小細工も何も無いのだが、それで彼女の強さが認められるなら従うまでだ。

 囚人達は軍刀を突きつけられながら足枷が外されていく。彼らには警棒が渡された。斧と比べると得物の強さが違うが、子どもが斧を持っているからといってひるむ連中ではない。それに大勢対一人の戦いだ。彼女が銃を選んだとしても、弾が尽きれば殺されるだろうし斧が手から抜けてしまえばやはり死ぬだけだろう。

「ふうん、で……お前、何口にする?」

「は?」

「だから賭け。どっちが勝つか。お前の話聞いて、俺はあのリトルレディに五口賭けることにした。ちなみにこれ煙草の単位な。金より物資のが今は高騰こうとうしてるんだよ」

「……勝手にしていろ。それに持ってない」

「よし、なら俺が貸してやる。お前もあの子に五口な。買ったら三倍の儲けだ。負けたら飯おごれ。酒もだぞ」

「煙草はいらない」

「ギルベルト坊や、他の物を手に入れるのに煙草を使うんだよ。情報とか更に高い物資とかにな。うまくいったらあの子に服でも買ってやれ。あんな野生児みたいな服じゃ動きやすかろうが可愛げがないぞ」

 勝手に宣言してホッジンズは席を離れてしまった。ギルベルトは呆れて物も言えない。子どもが死ぬのは忍びないと言いながら賭けはするのがホッジンズという男だ。彼が再び席に戻ってくる頃には観覧席はほぼ満席で埋まった。軍人たちが見守る中、監督役が動き出す。

 ことの成り立ちとこの実験の意味を滔々とうとうと説明する司会など居ない。ただ監督役がギルベルトに開始の了解を求め、彼が頷いた。訓練場の両端に少女と囚人達を配置させてから監督役は大声を張り上げる。

「それでは、開始っ」

 静かな熱気に包まれながら、殺し合いが始まった。

 囚人達はにやにやと少女を眺め笑っている。すぐに動いて殺そうとする者は居なかった。久しぶりに体の拘束を外されたのだ。そう簡単に終わらせてはつまらないと思っているのだろう。

 一方、少女は監督役に「殺せ」と命じられてもまるで動かずにいた。

 置物のように、斧を握って突っ立っている。

『やはり嘘か、くだらないことに付き合わせおって』

 本人に聞こえるのもお構いなしに揶揄やゆする者。

『あんな子どもが大人相手に勝てるわけないだろう。もう許してやれ、可哀想だ』

 少女の身を案じてつぶやく者。

『ブーゲンビリアの血族も地に落ちたものだ。狂言で注目を集めようとは』

 ここぞとばかりにギルベルトの背景にある権力をののしる者。

『我々の時間が無駄になったものだ』

 周囲の軍人達が次々と騒々しく話し合う。

「おい、ギルベルト」

 ホッジンズは心配そうに声をかけるが、ギルベルトは焦った様子は一切顔に出さず黙り込んでいた。

――どうして動かない。

 少女を見つめる。斧は堅く握られている。攻撃する意志が無いわけではない。

――あの時もあの子は武器を与えられると躊躇なく握っていた。

 怖がっている様子などない。何かきっかけが足りないのだ。しかしそれが命令ではないとしたら、一体何なのか。そうこうしている内に一番大柄な男が一人群れから出て、警棒を振り回し笑いながら少女に襲いかかってきた。

 距離はあるが、少女は身構えもしない。

「おい、ギルベルト! あのままじゃ殺されるぞ!」

 ホッジンズの叫びにも似た大声に、少女はぴくりと反応して観覧席を見上げた。

 少女の碧い瞳が、たくさんの軍人の中でギルベルトの緑の瞳を見つける。

「ギルベルト、止めさせろ! おい!」

 視線が交じり合って、一瞬、心臓の音さえも重なった気がした。

 どくん、どくん、どくん。

 ギルベルトは嫌に自分の心音が耳に響くのを感じた。時間がどうしてだか、遅く流れている。ホッジンズが隣でうるさい。お偉方は汚らしい言葉で少女を罵っている。すべて聞こえているけれど、遅回しの映像だ。

 囚人はギルベルトの目でゆっくり近づいているように見えた。間近に迫っている。少女はその生命の危機の中で。いま、殺されようとしている状況でギルベルトだけを見ている。

――選ばれて、視線を送られている。

 どれだけ監督役が命令しようと、その瞳にはギルベルトしか映っていない。

 だからギルベルトは魔法の言葉を唱えた。

 

「殺せ」

 

 それは彼の周りに居た数人にしか聞こえない音量だったが、少女は確かに聞き届けた。

 ひゅん、と風を切って斧を振り回す音が響く。刃渡り十五センチ程の薪割り斧だ。

 凶器は少女の手から離れて宙を飛んだ。後ろに振りかぶってから投げられた斧は綺麗な弧を描いて旋回し続ける。少女の投げ方はあまりにも無造作で躊躇いが無かった。人を殺そうとするには滑らかに動きすぎていたし、迫る来る敵への苦し紛れの防御にしては迷いがなかった。斧は完璧な曲線を保ち、吸い込まれるように囚人の頭に向かっていく。

「あっ」

 囚人の唇から間抜けで、それでいて哀れな声が漏れた。彼のつぶやきと同調するように観客も口を開けて息を呑む。

「あああっあ! ああああっあああ! ああああああっあ、ああ、ああああああ!」

 襲いかかってきた囚人の額には投げた斧が突き刺さっていた。艶やかな鮮血が斧を伝って吹き出す。

「あああああああああああっつ! う、あ、あううああああああああっああああっああああああああああああっああ、あああ、あ、あ、あ!」

 立て続けに少女は機械弓を構えて鉄の矢を放った。囚人の頭に突き刺さった斧の柄に見事に命中する。矢の衝撃で、ぐっと頭に刃が食い込む。囚人は叫び、痛みに悶絶した表情をしたまま頭から後ろに倒れた。

 誰もが喋ることをやめた。少女はそんな観衆を気にもせず小さな足を動かし痙攣している囚人に近づくと胸めがけて弓矢を放つ。無慈悲に、正確に、機械的に殺人をこなした。鉄の矢が心臓を突き刺し囚人の生命は完全に閉ざされる。

 そして少女は死体から斧を抜き取ると床に向けて一振りして刃についた血と脂を飛ばした。鉄の矢も抜いて回収する。一連の動作全てが慣れていた。人殺しをすることにだ。立つ姿は幼くとも、動く姿は熟練した狩人だった。

 訓練場に敷かれた布がまさか囚人の血で染まるとは誰しも予想しなかっただろう。

 これからこの空間は血まみれになる。

 ライデンシャフトリヒ陸軍の歴史にその名を刻む少女兵が誕生しようとしていた。

 観衆はその予感を抱き畏怖いふした後、ギルベルトに注目した。

 彼は立ち上がり、観覧席の手すりから身を乗り出していた。再度、腹の底から張り上げた声で命令する。

「殺せっ!!

 少女は機械仕掛けの人形のように動いた。

 小さな体を更に低くした状態で突進する。血で照り光る斧を走りながら投げつけてまた一人戦闘不能にした。囚人は逃げる者と、うろたえながらも警棒を振り回し同じく走りだす者に分かれた。逃げた者には機械弓が容赦なく頭めがけて連射される。勇気ある者達は協力して少女をとり囲み出した。よってたかって殴り殺す魂胆のようだ。一斉に襲い掛かり、武器を奪おうとする。

 だがその目論見は間違いだった。彼らの体躯で少女の姿が見えなくなった、と同時に囚人達は悲鳴を上げうずくまり床に転がる。全員足を斬られていた。闇雲な攻撃では無い。足首を何度もえぐるように斬りつけられている。小回りが利く少女だからこそ出来る戦法だ。

 倒れた彼らの真ん中で短剣を手にし立っている少女の姿は、血の花弁から生まれた妖精のようで恐ろしく扇情的だった。

 足を引きずって逃げようとする囚人の一人に駆け寄って後ろから頭を掴み喉をナイフで一裂きし静かに生を途絶えさせる。魚や鶏をさばく料理人にも似た手つきだ。解体されるのを待っている囚人達を順番に殺していく。途中、ナイフが使い物にならなくなりついには警棒で撲殺するしかなくなった。

「嫌だ、嫌だ、嫌だ!」

「化物だ! 助けてくれ! なあ、助けてくれよ!」

「嫌だあああああああああああっ」

 警棒は一人につき一本、失われ。殴られた囚人達の顔は見事に陥没していた。

 次第に、戦場で死体に慣れている軍人達の中でも観覧席で嘔吐おうとをしだす者も現れ始め、眼下の惨状から目を背け出す。

 しかし、ギルベルトはしっかりと見つめていた。

 拳をぎゅっと握り、感情を押し殺しながら最後まで目を見張る。

 この殺人遊戯の餌として提供されたのは本来少女のはずだった。

 だが、最後の一人となり息をしていたのは望まれた者ではなかった。

 囚人達がすべて殺されてしまうと、少女は銃を構えて見守っていた監督役をぼうっと見る。殺し足りないのだろうか。怯える監督役が銃を向けるが、それでこの少女を殺せるかは疑問だ。

 どんな武器を所持し対峙しようとも、勝てる見込みは少ないだろう。圧倒的なのだ。

 弱い腕力を補うあらゆる武器での格闘術。卓越した技術は力よりも勝る。どこで習い、何をしてきたのか。彼女が喋れたとしてもロクな答えは望めない。この殺しの技術がそれを物語っている。少女は殺しで場を制する才能があった。多勢に無勢であっても関係無い。

 もはやこのショーの観客は彼女の虜で、素晴らしい才能を賛美せざるを得ない。

 少女は、天賦の才能を持っていた。

 もし死を司る神というものが存在していたとしたら彼女はその神に溺愛されているのだろう。

 主の命令をしかりと守った小さな殺し屋はゆっくりと視線をギルベルトに移す。

 碧と緑の瞳が交わった。

「やめろ」

 ギルベルトは少女に首を振った。すると少女は手にしていた警棒を捨てて、その場に座り込んだ。血だまりの中でぜえはあと息をする。

 血と脂でべとべとになりながらも、そうやって小さな唇で息を吐く姿は子どもそのもので。

 それがまた恐ろしさを増す。

 ホッジンズは、あまりにも冷静なギルベルトに怖さを覚えたが、彼の横顔が蒼白なのと、握られた拳が震えているのを見て少しホッとした。

 こういう時にからかおうとするのがこの男なのだが、ホッジンズの手もまた震えていた為、彼はギルベルトの背中を叩くだけに済ました。

「とんだ、掘り出し物だ。ギルベルト少佐」

 軽口に返事は無い。『実験』で分かったことは二つだった。

 この少女が類まれな強さを持つ、本物の化物であること。

 そして、命令は恐らくはギルベルトからしか聞かないこと。

 少女の所業は、ライデンシャフトリヒ陸軍内に衝撃を与えた。

 後日、ギルベルトは内部辞令を受けた。ギルベルトが少佐として隊長となる新しい部隊が出来たと直属の上司に言い渡されたのだ。当初予定されていた通りの遊撃部隊でライデンシャフトリヒ陸軍特別攻撃部隊と命名された。ギルベルトには来たるべく最終決戦に向けてこの部隊を指導していくことが求められる。

 そして彼に期待をかけられた事柄がもう一つある。

 部隊の構成兵士が書かれた書面には載っていない秘密の武器を磨き上げること。

 ライデンシャフトリヒはその存在を人ではなく、武器として認定した。

 使用者はギルベルト・ブーゲンビリア。登録名は無い。

 実のところ、それは少女の為の攻撃部隊だった。

 

 隊の発足にあたり、様々な準備や対応に終われ瞬く間に日が過ぎた。

 ギルベルトは正式に彼女を部下として迎え、大手を振ってとまではいかないが本部内を歩けるようになった。人間として登録されていない少女ではあるが、ギルベルトにとってはこれから先ずっと側に置く存在だ。ホッジンズに言われたこともあり怖がる女性士官を何とか説得して少女の身の回りを整えさせた。髪を切り、真新しい軍服を着せられた少女の姿は本部内で有名になり、ギルベルトの宿舎まで見物に来る者も現れた。自分より位が下ならば一喝すればいいが、上の者だと下手な真似も出来ない。いやらしい目つきで少女を舐めまわす者も多く、日々ため息が出た。

――ひどいことをしている。

 この少女が、普通の人間とは違うのは確かだ。恐ろしく強いことも、残忍な殺し方が出来ることも確か。だが、少女が『少女』であることも確かである。

 その手がどれほど多くの生き物を殺してきたとしても彼女はまだ幼い子どもで、彼女が喋らないのは誰一人として言葉を教えていないからである。

――化物なら、そんな扱いをしてもいいのだろうか。

 こうして、武器として使用してもいいのか?

 自分で始めたことながら、ギルベルトは頭を悩ませた。

――しかし、私は他の何処にこの娘の居場所を用意してやれるだろう?

 現実的な問題が、良心の痛みを無視しろと訴えてくる。

 出来ることといえば、せめて立派な軍人に育ててやることだとギルベルトは思う。彼女は戦いの申し子で、命令を求めているのだから。

 出立式も済ませ、国外へ派遣される前日の夜。ギルベルトは宿舎で少女に自分の気持ちを話そうと決意した。寝る前のネグリジェ姿の少女はあどけなく愛らしい。ふわりと広がる金糸の髪はすべらかでシルクの手触りだ。

 明日からこの髪をまた血の色に染めさせてしまう。

 彼女を寝台に座らせ、自分は目線を合わすために床に膝をつけながら語った。

「いいかい。君は明日から、私と共に戦地に赴く。私は君の力を借りることがあるだろう。どうして自分がそうしなくてはいけないのか。どうして、兄さんと離れていま私と共にいるのかきっと君はまだ分かっていないに違いない」

 少女はただじっとギルベルトの言葉を聞いている。

「君は何も知らない。戦いしか知らない。私はそれを利用している。だから君も、自分で努力して私を利用するようになるんだ。何でもいい。金でも、地位でも……欲しい物を私から奪えるようにしなさい。物事を色々考えられるようになるんだ。いいね、私は……そういう形でしか君を守ってやれない。本来なら、君にちゃんとした両親を与えて育ててやりたい。だが出来ない」

 ギルベルトは、苦しげに言う。

「私は、君が、私の知らない所で誰かを殺すのが怖い。君には、私がどうしてそれを怖がるのかを分かってほしい。時間がかかってもいい。同じ価値観を少しでも抱いてくれ。そうすれば、君も今の『道具』扱いの存在から何か違う者になれるはずだ。私の傍で、どうか、自分の居場所を見つけて生きてくれ」

 細い肩に手を置いて、必死に語りかけた。

 言葉はどうせわからない。そうは思っても、真摯に伝える以外に何が出来るだろう。

 ギルベルトは、何も言わない少女に少し困ったように笑って見せてから続けた。

「君の名前は、ヴァイオレットに決めた。そう名乗りなさい。神話に出てくる、花の名の女神だ。きっと、成長すれば……君はその名がふさわしい女性になる。いいかい、ヴァイオレット。『道具』ではなく、『ヴァイオレット』になるんだ。その名が似合う、女性になるんだよ」

 少女は、いや、ヴァイオレットは。

 自分に呼びかける男の瞳をぼんやりと見つめ、何度か瞬きをした。

 そして言葉がわからないのにも関わらず、何故かこくりと頷き、口を開く。

「しょうさ」

 ぽつりと彼女に口から漏れた囁きにギルベルトは驚き目を見開く。

「言葉が、わかるのか?」

 心臓が、痛いくらいの速さで心音を刻み出す。彼女の前で交わしたいくつもの会話の数々。その存在を軽視した言葉の羅列が頭の中で一瞬で駆け巡る。

「しょう、さ」

「私の言うことが、わかるのかヴァイオレット」

 焦りながらも、どこか嬉しくて、必死に聞くが。

「しょうさ」

 何度尋ねても、『しょうさ』としか言わない。そして自分を指さしてまた『しょうさ』と言う。

「違う、君はヴァイオレットだ」

 小さな人差し指を、握って、何度か自分たちの間を往復させた。

「少佐は、私。君はヴァイオレット。いいか、少佐は私。君はヴァイオレットだ」

「しょう、さ。ヴぁいおれっと」

「そうだ。君はヴァイオレット」

「しょうさ」

「そう、そうだ。私は……私は……少佐だ」

 どうして少女が突然喋りだしたのか。何故、初めての言葉がギルベルトの呼び名だったのか。

 誰からも、『少佐』と呼ばれるギルベルトの姿を見て、彼が『しょうさ』と呼ばれることぐらいは学習していたのだろうか。

 自分が、どうやら何か名前を付けられたと感じて、彼の名前も確認したくなったのだろうか。

 わからない。真相は彼女にしかわからない。

 やはり、彼女は喋れないのだ。

 いま口にした『少佐』と『ヴァイオレット』と言う名前以外は。

 無性に、切なくなって、ギルベルトはヴァイオレットの肩に頭を乗せて息を吐いた。

 ヴァイオレットはただされるがままになる。

 うなだれるギルベルトを無視して名前を囁き続けた。

「しょうさ」

 忘れず、覚えようとしていた。

 

「少佐」

 

 金糸の髪の間から、碧い瞳がゆっくりと開いた。

 周囲からは立て続けに爆音が響いている。上空は晴れやかな青空が広がっているが、鳥の目線から見える光景は激しい銃撃戦だ。更地に近い砂漠化した平野で二つの陣営に分かれた軍隊が攻防を繰り広げている。碧い瞳の持ち主は戦火の地にはひどく不似合いな女だった。その美しさは人形の如く、整いすぎている顔立ちは人ならざる者にすら見える。

 体中土まみれになって仰向けで地面に倒れていた女は、自分を必死な形相で覗き込んでいる男を見つめてまたつぶやいた。

「少佐、何分、気を失っていましたか」

 赤い唇から紡がれる声は玲瓏だ。

「……一分も経っていない。砲弾の衝撃で吹っ飛んで少し脳震盪を起こしただけだ。大丈夫か、無理して立つんじゃない」

 話しかけた男は大きなエメラルドの瞳をした軍人だ。グラスグリーンの生地と白の毛皮で出来た戦闘服姿。憂い気な表情が似合う端正な顔立ちをしている。止められているのに関わらず女はすぐさま身を起こし状況を確認した。前方には陣営と防壁を組んで銃撃を防いでいる同じ軍服姿の軍人達の姿が。そして背後には大きな穴と飛散した死体の数々があった。衛生兵がわらわらと動いていたが、生存者はあまり見込めないだろう。

 味方の防壁の向こう側、粉塵吹き荒ぶ敵陣地ではこの死体の山々を作った大口径の火砲が見え隠れしていた。砲撃の反動でかなり後進してしまったのだろう。すぐに動き出す気配は無い。

「少佐、私が突っ切ってまず撹乱かくらんし陣営を崩します。その後砲兵を仕留めます。あれだけ大規模な物だと次の装填まで時間がかかるはずです。援護をお願いします」

 言うや否や、女は気を失いながらも握っていた戦斧を持ち上げた。軍刀や銃、大砲が主流の戦闘状況で戦斧という武器は随分古典的な武器だ。近接戦闘ならば脅威になり得るだろうが距離がある相手では不利にしかならない。その上それは女が扱うにしては柄が長く斧部も大きすぎた。全長は恐らく女の身長とそう変わらない。

 少佐と呼ばれた男は一瞬苦しげな顔をするも、すぐに声を張り上げて他の者に命令を下す。

「ヴァイオレットが砲弾主を止める! 前衛、そのまま守れ! 後衛! ヴァイオレットの援護、その邪魔をするものを断て!」

 少佐の背後に控えていた兵士たちが素早く陣営を組み、子どもの背丈程ある大筒型の兵器を肩に乗せ構える。肩打ち式砲弾のその効果とは。

「撃てぇっ!!

 それは放たれてから分かった。合図と共に発射された弾は自陣から飛び出して走りだしたヴァイオレットを遥かに通り越して地面に落ち、ぜると同時に白い煙を発生させた。砲弾の正体は発煙弾だった。白い煙の道が彼女の姿を敵陣から隠す。あちらからは広がる煙しか見えなくなっていることだろう。

 北の同盟国の証である星の軍旗を掲げた兵達は突然の煙幕に動きが止まる。

「撤退する気か?」

 驚いてトリガーを引く手を休めてしまう北軍銃撃手の一人を司令官が叱咤しったした。

 闇雲に撃たせようと一喝するが、標的の見えない煙に銃弾を打ち込んでも不安しか生まれない。煙に飲み込まれていく銃弾は何の生命も絶たず無駄撃ちとなる。白煙が入道雲のように広がっていく。その光景だけが敵の命を狩ることが使命の兵士達の唯一の変化だ。心休まることではない。むしろ掻き乱されるばかりだ。

 ライデンシャフトリヒ軍相手の先ほどまでの過熱した銃撃戦に突如もたらされたこの静寂に、隊の中に言いようもない『揺らぎ』が生まれる。二つの陣営の間には開きがある。ライデンシャフトリヒ軍の次の手が何であってもすぐにこちらに来られるはずがない。

 この煙が晴れた後に何も居なくなっているのか、それとも。

「……な……な、何か来た!」

 間近に迫る煙の森をくぐり抜けて恐ろしい『獣』がやってくるのではないか?

 その危惧が現実となった時、悲鳴が上がった。

 煙幕の中から蛇のようなものが現れて兵士の一人の足に絡みついたのだ。一瞬で煙に引きずり込まれて今度は断末魔の叫びが上がる。間を置かずまた得体の知れない何かが飛び出してきた。それはよくよく見ると分銅鎖だった。長い鎖の先には鬼灯ほおずきの実にも似た形の装飾がされている。同じ手を二度喰らうものかと足元を狙ってきた鎖は軍刀によって弾かれた。

 鎖はひゅんっと戻り、数秒経たずに再び現れた。先程までの速度は小手調べだったのか、段違いの速さで前衛の陣営である銃撃手達の顔を横殴りで流れていく。鎖の先端についていた装飾は鋭利な刃物の塊だった。兵士達の目や鼻をそぎ落とし、傷つけ、あっという間に十数人を戦闘不能にさせる。

「あああっああああああっああ、あ、あ!」

「痛いっ! 痛い痛い痛い、あ、あ、あいやだ、嫌だああああ!」

「殺せええええ! あれに攻撃させるなああ!」

 複数の叫びと指令が混ぜ合わさった。兵士達に守られていた司令官の前は開けてしまっている。丸裸になった獲物を狙い、鎖が伸びた。刃物で出来た先端部が開いて顔を掴む。

 アームになった飾りは銃声にも似た可動音の後、司令官の顔面をそのまま握り潰した。

 血が吹き出て、肉片が飛び散り司令官が膝をついて倒れ絶命する。

 まさかの蛮行に北軍は静まり返り、そしてまた悲鳴の嵐に満ち満ちた。

「突撃しろ! 何が相手でもいい! 殺せ!」

 冷静さを欠いた中で誰かが言う。

 前衛遥か後方に用意されていた火砲がようやく次弾の装填準備を整えたようだ。謎の鎖の正体ごと吹き飛ばすつもりだろう。血に濡れたアームは獲物を惜しげもなく放り捨てて煙の中に帰り、次は火砲目掛けて飛んできた。発射の準備に取り掛かっていた砲兵は身構える。だが司令官のようにアームで襲うことはなく、代わりに砲身に括りつけられる形で鎖でがんじがらめにされる。今までの行動で鎖は一度放たれると必ず出現した方向に戻っていった。伸縮機能があるのだろう。重さで獲物を引っ張ることが出来ない。となると、どうなるか。

 鎖の本体の方がこちらに引っ張られてくることになる。

 煙の向こうから何か、稼動音が聞こえた。

 混乱極まる絶頂を待っていたのかもしれない。鎖の正体はようやく姿を見せた。

 縛り付けた砲兵と火砲を固定具にして鎖は煙幕から一人の兵士を引っ張り出す。身の丈ほどある大きな戦斧を持っている。

「何だ、あれ……!」

 奇妙な来訪者は所持する武器も変わっていた。

 分銅鎖は戦斧の柄の末端から伸びていた。自動で収納する鎖により兵士は自走もせずに高速で敵陣に乗り込んでくる。おまけに片手に銃を持ち、通りすがりがてら数人脳天を撃ち抜くという芸当までしてみせて火砲の砲身に飛び乗りその姿を北軍の兵士達に晒す。

 敵陣の防壁に乗り込んできた特殊な戦斧を持つ兵士は少女だった。碧い瞳と金色の髪。

 ライデンシャフトリヒの陸軍の証である戦闘服を纏っている。

 女であること、幼い身であること、それを踏まえた驚きよりも彼女のあまりの美しさに北軍の兵士たちは驚愕した。

「警告する。死にたくなければ降伏せよ」

 美貌の少女兵は軍靴で火砲に巻き付いていた鎖を乱暴に蹴って動かし、拘束を解いた。圧死していた砲兵が地に落ちる。

「武器を地面に置かない者は……」

 片手には戦斧、もう片手には銃。

「攻撃の意思有りと見なし、ライデンシャフトリヒの名の下に殲滅する」

 最後の一音を言い終わる前にヴァイオレットは戦斧を頭上高く掲げた。

 開戦の合図は無くとも戦闘は再び始まった。血走った目で軍刀を向けてくる兵士達の中にヴァイオレットは飛び込んだ。振り上げられた刃の数々は女一人を串刺しにしようと一斉に襲いかかる。いくら巧みな武器使いと言えど敵陣に一人で身を投じるのは無謀に等しい。

「警告はした」

 だが数秒後、ヴァイオレットの周りにだけ死体の花弁が出来た。幼い頃あのライデンシャフトリヒの訓練場で披露したのと同じだ。血の雨が大地に降り注いだ。血風の中でこそ映える花があるとすれば、彼女そのもの。ヴァイオレットは見るも恐ろしい戦斧を活用して近寄ってくる敵を斬り殺し、殴打する。片手の拳銃が使えなくなれば敵から奪った。拳銃、銃剣、小銃、何でも有りだ。あらゆる武器の行使に置いて怯む様子はない。むしろ奪い取られ、ヴァイオレットの手元に居る方が武器もまた生き生きとしている。自身より遥かに大柄で屈強な兵士に対しても並外れた身体能力を活かして曲芸師のように飛び跳ねて舞う。その姿は鮮烈で、扇情的。体術、武器術に置いて一騎当千の強さ。阿鼻叫喚の地獄となっていた敵陣に遅れて乗り込んで来たライデンシャフトリヒの部隊が更にその戦況に加わり、王手はかけられた。

 ライデンシャフトリヒ陸軍特別攻撃部隊の勝利である。

 

 この戦闘が引き起こされたのは、ギルベルトの部隊が次の戦地への移動中の出来事だった。情報漏洩かはたまた本当に偶然か、先ほどの敵部隊と鉢合わせし突如戦闘となったのだ。

 捕虜にした兵士達の拷問は他の者にまかせて、ギルベルト・ブーゲンビリアは各自被害状況を確認している部隊の兵士達をねぎらいながら一直線に歩く。彼の視線の先は戦斧を抱えて地面に座り、軍車にもたれて目を瞑っているヴァイオレットだった。

「ヴァイオレット、水を持ってきた」

 手にしていた筒型の水筒を差し出す。ヴァイオレットはパッと目を開くとそれを受け取り少し口にした後、頭から水を被った。顔に飛び散っていた血や泥が流れていく。

「怪我はしていないか。どこか痛めたところは」

「少佐、問題ありません。銃弾が肩をかすめましたが。既に血も止まっています」

 血がどす黒く滲んだ戦闘服の上から包帯が巻かれてある。救急箱が地面に転がっていた。

 先の戦闘で一番の功労者だというのに彼女をねぎらう者はギルベルト以外いない。周囲は一歩線が引かれたように誰もおらず、遠巻きに眺められている。

「中で休むといい。荷物しか入っていない車を片付けさせた。補給地の街まで数時間はかかる。寝ていなさい」

 隊の大型軍車を指さしてギルベルトが言う。ヴァイオレットは頷くとよろめきながら戦斧を引きずり車へ向かった。幌がつけられた軍車に乗り込み、人一人寝られる程度の隙間に転がってうずくまる。すぐに寝息をたて始めた。

 ヴァイオレットが車に入るのを確認するとギルベルトはまた他の兵士達に指揮をし始めた。

 部隊はその地を後にし、ひたすら車を走らせる。太陽が沈み、夕焼けのだいだい色から闇色に空が塗り替わる頃、ようやく部隊は目的地へ到着した。街はライデンシャフトリヒが陸軍の師団を置いている領地だ。ギルベルトの部隊は師団の仲間達からねぎらいを受け宿舎に迎えられた。

 これから数日は滞在することになる。ギルベルトは怪我人以外の者たちに「はめを外すな」と小言を含みつつも外出許可を言い渡した。

 宿舎に残された特別部隊の隊員は結局数人となり、ヴァイオレットは一人だけ相部屋ではない一人部屋を用意されて眠りこけている。

「少佐、少佐が運ばれなくてもっ」

 現地の師団の隊員が焦った声を出してギルベルトを呼び止めた。夕食の載った盆を持ってヴァイオレットの部屋に向かおうとしていた。

「自分が運びます」

 好青年そうな男がそう言って盆を受け取ろうとするが、ギルベルトは首を振った。

「過去数回、そう言って任せたあげく、死体になって帰ってきた者がいるのでこれは私の役目なのだ」

「え、死体って……あの、女に殺されてですか? あれが……ヴァイオレット?」

「そうだ。まあ、後で聞いたら殺されても仕方ない行為をしでかそうとしたからなのだが……」

 にごした言い方をしたが、何を示しているかはよほどの純朴でなければ分かる。

「それであの娘に個室を?」

 あまりよい反応ではなかった。

 他の隊員からしてみればヴァイオレットへの扱いは破格の待遇として映るだろう。

 少女兵だから。それともギルベルトの寵愛ちょうあいを受けているからか。

 穿うがった見方はいくらでも出来る。ギルベルトはもはや常套句じょうとうくと化した台詞を口から吐き出す。

「彼女はうちの部隊で実質的に一番の手練れだ。本来ならしかるべき勲章を胸につけ、君が敬礼すべき位にいる。だが生憎あいにく秘匿ひとく扱い。せめて功績に応じた扱いを受けるのは当然だろう。とにかく……君が私への好意でそう言ってくれていたとしても私は頷けない。手伝ってほしいことがあればまた頼む。下がってくれ」

 青年は複雑そうな顔をしながら、敬礼してその場を去った。足音が遠のいてからギルベルトは息を吐く。

――詮索をするな、という刺青でも顔に彫りたいくらいだ。

 幼いヴァイオレットを引き取ってから数年。どこへ行っても、誰に会っても、ギルベルトはヴァイオレットの存在の説明を求められる。

 致し方ない。ライデンシャフトリヒの陸軍内においてまことしやかに流れる噂があるのだ。

 国の英雄、ブーゲンビリアの一族の息子が飼う少女兵が戦神として名高いと。

 誰がつけたか『ライデンシャフトリヒの戦乙女』とも呼ばれているらしい。たかだか少女兵に与えられる称号ではない。それ故に男顔負けの物々しい、化け物のような娘を想像しがちだが実際に会うと人々は口を揃える。

 まるで天使の顔をした魔女のようだと。

――名にふさわしく育ちすぎた。

 魔性の美しさと飛び抜けた戦闘能力を備えた部下を持つのは、上司としては一苦労だ。

 ギルベルトはかちゃかちゃと食器の音を鳴らしながら、宿舎の古ぼけた木の階段を上った。

 ヴァイオレットの部屋の周りには立ち入るなと師団の面々には注意していたのだが、数人中を覗こうとしている輩が居て一喝した。名前だけ告げさせてその場を去らせる。後でここの師団長に罰則を与えて貰わなくてはとまた息を吐く。扉を叩いてから開いた。

「ヴァイオレット」

 声をかけると、布団の中でうずくまっていた彼女が顔を出した。男物の随分と大きいシャツを着ている。

「食事をしよう」

 自分の分も載せていたギルベルトは、部屋の隅にあった椅子と小さな卓を近くに寄せ、卓に置く。彼女の分は盆ごと引き渡した。

「持てるか。腕は」

「ありがとうございます、右は無傷ですから」

 すらすらと礼を述べる彼女には、出会った頃のように物言えぬ様子はない。姿も数年を経て子どもの体つきから女へと変化しつつあった。

「少佐は……街に出かけなくてよろしいのですか」

 さじを握ったまま食べようともしないヴァイオレットに、食べなさいと言い聞かせてからギルベルトは答える。

「報告書が溜まっているし、次の戦地での作戦会議もある。遊びに行くのは他の者の仕事だ。君が外に出たいのなら別だが。他の者と一緒に出かけても良かったんだぞ」

「誰とでしょうか」

「……さあ、誰でもいい」

 ヴァイオレットは首を振って拒否を示した。

 同じ隊で働く仲間達はヴァイオレットとは喋らない。恐怖心が大さじ一杯、扱いにくさが小さじ二杯といったところだろう。彼女の戦いぶりを見続けていれば距離を置きたくなるのも仕方ない。ギルベルトには服従しているが、他の者にはそうではないのだ。

――あまりいいことではないな。

 こんな風に、ギルベルト以外とは話すことすらしないように成長してしまった。

――だが、他の者に懐かれても困る。

 それは彼にとっては自分の『武器』を奪われる懸念の為でもあったし、最近は心情的に許せないと言う理由のせいでもあった。

「……何か足りない物があるならここの女性士官に買いにいかせよう。それとも自分で買いに行きたいか?」

「いいえ、必要な物は揃っているので大丈夫です」

「君の場合は、給料を使わないから貯金が増える一方だな……年頃なんだし、着飾る物を買ってもいいんだぞ。……使う場はあまりないかもしれないが、持っているだけでもいいだろうし」

「年頃とは」

「目の前にいる君ぐらいの子のことを言う。君は……少し……大人びているけれど」

 いま彼女が何歳なのかはギルベルトすら知らない。二人が出会ってから四年の歳月が流れていた。仮に出会った時が十歳だとしても今は十四歳だ。本来ならばまだあどけない顔をしているはず。しかし整いすぎた顔立ちは、そのあどけなさを消して、それこそ成熟した女性に見える。言葉を教えてからギルベルトはヴァイオレットに過去のことを尋ねてみたがディートフリートに出会う以前の記憶は無いそうだ。

 気がついたら無人島に居て誰かの命令を待っていた、と。

「年頃の少女は何を買うのですか」

「そうだな……私も結婚をしていないし、妹達とは戦地に出てからあまり会ってないので何とも言えないが……。ドレスとか、ブローチとか、指輪とか、可愛らしい人形だとかじゃないだろうか」

 ヴァイオレットは部屋の隅に置かれた自分の戦斧と軍事用鞄を見た。戦斧は汚れた布にくるまれ主と同じく休息をしている。荷物はそれしかない。

「……私がそういう物を持っても、意味が無いと思います。少佐に……ウイッチクラフトを頂けただけで充分です。希望した通りの設計で、とても扱いやすいです」

 先ほどの戦闘でも活躍したその戦斧は、ギルベルトが軍部に掛け合って作らせた特注品だった。開発者から付けられた名前はウイッチクラフト(魔女術)。人殺しの武器を欲しがり、人として欲しい物は無いヴァイオレットらしい答えにギルベルトは苦笑する。

「私が……もっと幼い君に何かしてやれば、興味が持てただろうか」

 人形もドレスも、買ってやったことはない。ヴァイオレットと出会ってから四年間、常に部隊は大陸を動き続け、長い休暇は無かった。移動続きの軍の生活。少佐に昇格したばかりで、隊を統率する責務を負ったギルベルトも日々のことで忙しく、言葉を教えるのが精一杯だった。

 だが、軍の中で彼女が異質でありながらも確固とした地位を築き守られているのはギルベルトの功績だ。彼は彼なりにこの異質な少女をどうにかして社会に馴染ませることに尽力した。

 そしてそれは成功している。

 ギルベルトはヴァイオレットをふと見つめた。日をどれだけ浴びても黒く染まらない白い肌。化粧をせずともはっきりとしている目鼻立ち。

 かつてその名にふさわしい女性になれとギルベルトは言った。

 ヴァイオレットは彼の願い通り成長を果たしている。少し神がかった美しさですらある。

 身に包んでいるのが軍服や戦闘服でなければ更に磨きがかかるだろう。

 きっと社交界にいるどの女性よりもたおやかで可憐な花となる。

――本来は、そういう道で生きるべき娘だった。

 言葉を与え、規律を教えた。自分の身を守る為と命令された以外で殺しはしない。

 いや、元々喋られない頃から彼女はそうだった。怖がることをせずに、しかるべき養育機関に預けていれば戦場を知らずに済んだかもしれない。

 ギルベルトが引き取った結果、ヴァイオレットは銃弾を受け、疲労した身体を寝台に預け、冷えたスープをすすっている。やるせない気持ちがわいた。

「……ヴァイオレット、明日……いや、明後日……都合をつけるから少し外に出ようか」

「どうしてですか」

「背が伸びたし、衣服もしばらく買ってないだろう。揃えよう」

「支給されている物で足りています」

「寝間着まで支給はされてないだろう。大分擦りきれている」

 シャツの袖を指さして言った。幼い頃のヴァイオレットの身の回りの品の買い物は、道中で立ち寄る師団の女性士官に任せきりでギルベルトはしたことがない。寝間着に与えたシャツも、彼女が不届き者を殺して汚してしまい、一時的な措置で渡しただけの品だ。他の物は固執しないのに、ギルベルトから貰った物は別なのかヴァイオレットは拒む。

「でも……少佐から頂いた物ですし。まだ着られます」

 いじらしい態度にギルベルトは自然と声が和らぐ。

「小さい頃着ていたようなネグリジェなどは……隊の中ではもう着て欲しくないが、似たような形の物や着心地の良い物も他にはある。いや……別に寝間着じゃなくてもいいんだ。食べたい物でもいい」

「少佐が出かけられたいのでしたら私は此処で待機します。部屋から出なければご安心でしょう。鍵をかけてしまえば他の者も入れませんし」

 暗に寝床に忍び込んでくる輩を指している。

「怪我をしている時は私も加減が出来ませんから」

 ヴァイオレットは自分が死体を作ってしまうことを懸念していた。止められない自己防衛本能で襲ってくる者すべて撃退する手腕は賞賛ものだが仲間同士の殺しはまずい。

 ギルベルトが他の人間を遠ざけているのも、ヴァイオレットに危害が加わらないよう守っている為だと分かっているのだ。

「……私が、君を……君と、外に出たいのだ。たまには、親代わりらしいことをさせてくれないか」

 少し、無理矢理な言い訳だったがギルベルトが早婚であればヴァイオレットくらいの子どもがいてもおかしくはなかった。言葉から生活習慣まで何でも教えてきた。その関係は親子のようであり、兄と妹のようでもあり、教師と生徒。

「……少佐は、私の親ではありません。そもそも私に親はいませんし。その代わりを少佐がされるのはおかしいです」

 そしてやはり上司と部下だ。か細い声が、ギルベルトの胸に突き刺さる。

「君が……そうでも。私にとって君は……」

――君は。

 うまく言葉が続かなかった。

 彼女は自分の何なのか。どう定義すれば一番当てはまるのか。

『武器』が一番妥当かもしれない。だが、ただの『武器』を異性と認識して守ろうとするのはやはり矛盾していて。ならば自分の『子ども』か『妹』か。

 しかし真似事はしていても家族らしい感情はさほど向けておらず、そういう扱いもしていない。ヴァイオレット自身もギルベルトを親だとは思っていない。

 対外的には身分の優劣があるが、ギルベルトはヴァイオレットにとって上位の存在でもなく彼女が一度牙を剥けばすぐに殺される相手で、今の関係が成り立っているのはこのヴァイオレットと言う少女が命令を欲しがり戦う特質を持っているからだ。

 二人の間にあるのは、利益のやりとり。

 彼が彼女に戦場と命令を提供し、彼女が彼に力と勝利を捧げる。

 それだけが本当の真実。

 ギルベルトとヴァイオレットは。

「……私は……君が……」

 彼と、彼女は。

「…………私は…………」

 本当は何の繋がりも無い。

 口を閉ざしたギルベルトを見て、ヴァイオレットは珍しく瞳を右往左往させた。

「少佐が望まれるなら、行きます」

 黙り込んでいる彼に言い募る。

「少佐が命令をされるなら……」

「命令じゃない……」

「お、望みなら」

 ヴァイオレットはどうあっても自分の希望は出さない。しかし、必死に彼の落ち込みを励まそうとする姿にギルベルトは自分が情けなくなりながらも笑う。

「……ああ、私が望んでいるから、君が叶えてくれ」

 ギルベルトの顔に笑みが浮かび、ヴァイオレットは安堵したように深く息を吐き頷いた。

「はい、少佐」

 まるで人形のように。

 

 二日後の夕方。二人は共に過ごした四年間で初めて職務と関係ない外出をした。

 早朝から仕事を始め、なんとか時間を空けたギルベルトは部屋まで彼女を迎えに行く。宿舎から離れることは他の隊員にも伝えてはいたが冷やかしの視線というよりは、奇異な物を見る目で部隊の仲間に見送られた。ヴァイオレットの場合は外出をすること自体が珍しい。ギルベルトの場合は書類仕事や関係者との会合で忙しいので個人的に外出をする時間が無い。外出の理由を『所用』としか言わなかったので何か秘密裏な仕事だと思っているのかもしれない。

 詮索をされないことはギルベルトにとっては好ましかった。

 街までは徒歩で移動した。並んで歩くのはいつものことだが、スカート姿のヴァイオレットと街を歩くのはギルベルトにとってくすぐったい気分だ。ついつい横目で彼女を見てしまう。

 少し暗くなってきた夜空。繁華街を照らしだす街灯。大きな通りを両側から挟んだ建物同士でランタンがかかった紐を繋げていて、それが星空の光を模している。

 気候も暖かく、陽気な音楽に酒が楽しめる雰囲気だ。

 ギルベルトもヴァイオレットも楽しそうに笑ってなどいない。無表情で歩いている。

 二人はまだ営業している大きな衣料品店に入った。天井から床まで服が吊るされている不思議な店だ。陸軍師団がある街のせいか軍人の男女が入店しても驚く顔をもせず歓迎してくれた。

「これも似合う、これも似合うわね」

 店主は四十代の女性だった。娘に話しかけるようにヴァイオレットに服をあてがう。

 困った様子で立ち往生している彼女の代わりに、ギルベルトが話す。

「それは派手すぎる。彼女はどの色でも似合うが……軍人だと言うことを忘れないでくれ」

「じゃあこれは? お偉いさん」

「形はいいな。私はここに居るから、下着も見繕ってやってくれ」

 店主はおもむろにヴァイオレットの胸に触ると苦い顔をした。

「ほんとね。大きさが合わないもの付けてるって感じ」

 奥の部屋に女二人が消えるとようやく息を吐けた。ギルベルトは口元に手を当てて覆う。顔が赤くなるのを見られずに済んで内心安堵していた。

「たくさん買ってくれてありがとう! また来てよ」

 店主に見送られ衣料品店での買い物が終わると、夜は更に深まっていた。そのまま帰ってもよかったが。

「まるで星が降りてきたようですね」

 ヴァイオレットが物珍しそうに煌めくランタンの道を眺めて立ち止まるのでギルベルトの気が変わった。せっかくなので夜の繁華街を見回ることにする。

 まずは飲料店だ。肉の炙りや揚げ芋の屋台、各地で収集した酒を一杯から販売する酒屋。

 どこも美味そうな匂いで客を呼び寄せている。ほろ酔い気分の人々は陽気に歌い、それに合わせて旅の楽団が即興で音楽を奏でる。楽しそうな雰囲気に人が集まり、場に乗じて酒場の専属踊り子が店先で踊って小金を稼ぐ。

 歩き進めると食品を扱う店は減り、今度は貴金属や民族小物を取り扱う露天商がずらりと並んだ。昼と夜とでは出る店が違うとギルベルトは初日から休暇を楽しんでいた隊員から聞いていたが、二人は昼の店構えを知らない。人の数の多さはそう変わらないが最初の華やかな通りとは違って落ち着いた雰囲気だ。

 ヴァイオレットはこれまで特に何かに興味を惹かれる様子もなかったが、ここに来て一度足を止めた。

「何か、欲しい物があったか?」

「いいえ……」

 否定はするが、瞳はまだそこを見続けている。腕を引っ張って無理やり見に行かせた。

「いらっしゃい」

 好々爺こうこうや然とした店主が愛想よく言う。地面に置かれた黒のベルベットの敷物の上に、硝子箱に入った宝石が並んでいる。本物の鉱石なのかはギルベルトには分からなかったが、細工は他の露天商の品物より凝っていて気品があると感じた。

 ヴァイオレットは商品をじっと観察してから、今度はギルベルトに目を向けた。

 射殺すように見つめるその視線に、ギルベルトはたじろぐ。

「何だ……?」

「少佐の瞳があります」

 ヴァイオレットは宝石を指さした。

 まっすぐ伸びる白い指の先にあるのはエメラルドのブローチだ。確かにそれはギルベルトの不思議な色合いの緑の瞳に似ていた。大きくて、輝きのある一品だ。他の宝石より一際美しく硝子箱の中で咲き誇っている。

「こういうの、何と言うのでしょう」

 言葉が出てこないのか、口を開けて眉を寄せるヴァイオレットに店主が助け舟を出す。

「エメラルド」

「……名前、ではなく……」

「名前じゃないならなんだい」

「これを、見た時に……何と言うのがふさわしいか……」

 店主は『そんなことか』とヴァイオレットを笑った。

「美しい、だよ。お嬢さん」

 店主からしてみれば、笑うのは当然だった。宝石を取り扱う商人だ。日々言い慣れた言葉だろう。だがヴァイオレットはその表現が誰よりも似合うというのに、教えて貰った単語を初めて聞いたと口の中で反芻はんすうする。

「うつくしい……」

「何だ、あんた。言葉を知らんのかね」

「美しいは、知りませんでした。綺麗、と似ている言葉ですか」

「そうだけど……本当かい?……いや、驚いた。頭良さそうな面してんのになぁ」

――嗚呼、何てことだ。

 二人のやりとりの横でギルベルトは呆然としていた。

 身体がひどく熱くなる。とてつもない失態をおかした時と同じような感覚、冷や汗、高鳴る鼓動、羞恥の心が身体を燃やす。

 言葉をヴァイオレットに教えたのはギルベルトだ。四年間共に過ごし、必要に応じて覚えさせた。日常会話は問題ない。軍事的な用語も。

――だが、私は。

 こんな簡単な言葉も彼女に教えていなかった。

「あんた戦争孤児かい」

 ある程度会話が出来るようになったから、その後は他の言葉も当然知っているものだと思っていたのかもしれない。自分の尺度で、勝手に。

 彼女は『しょうさ』としか言えなかった少女なのに。

「いえ、ですが親はいません」

『殺せ』と言う言葉以外、この娘は望まない。拾って後見人になってから連れて歩く場所は戦場ばかりだった。こうした買い物も今日が初めてだ。

――嗚呼、親代わりなどと口走って。

 ろくに言葉も教えていない。

 それが、ひどく恥ずかしい。

――『殺せ』とは言うくせに。『美しい』の一言すら与えていないなんて。

 その言葉が真実似合う娘だと言うのに。

 ギルベルトが後悔の念におちいる中、会話は続く。

「文字は? 文字は書けるのかい」

「名前なら……」

「あんたの生まれが不憫だったんだろうなぁ。俺だって文字くらい書けるよ」

「文字が書けると良いことがありますか」

「手紙が書けるさ」

「手紙ですか……」

「あんたも故郷離れて生きてるなら、手紙くらい書けなきゃ」

「……そうなのですか」

 二人の会話を、阻むようにギルベルトが財布を硝子箱に叩きつけた。

「ちょっと、あんた困るよ。商品が……」

「一つ買おう……。ヴァイオレット。選びなさい」

 怒っているような、低い声音で言う。

 ヴァイオレットは目を瞬いた。

「ご命令ですか」

「……そうだ、命令だ……。何か、選びなさい。何でも良い」

 本当は命令だとは言いたくなかった。

 しかしこの娘が命令以外のことを素直に聞くとは思えない。

 ヴァイオレットは硝子箱を再度見て、やはりエメラルドのブローチを指さした。

「では、これを」

 硬い表情のギルベルトに気圧されつつも、店主は笑顔で『毎度あり』と言ってブローチを渡した。かなり良い値だったので、店主としては嬉しい限りだろう。

 ブローチを受け取るとギルベルトはヴァイオレットの腕を引っ張りすぐその場を後にした。

 夜の街を楽しみに来た人々が増えている。人混みの中ではどこへ行っても関係や存在を尋ねられる二人もただの雑踏の一部だ。

 人混みになれていないヴァイオレットは視線を右往左往させ歩くのが遅れる。途中で手が外れて、離れ離れになった。そこでようやくギルベルトはヴァイオレットを振り返る。

 群衆の中に金糸の髪が見え隠れしていた。

 騒がしさの中で『少佐』と声が聞こえた。どれだけ人がいようと、たとえ姿さえ見えずとも、ギルベルトがその声を聞き逃すことはない。

 幼い彼女が『しょうさ』と初めて話してくれた時からずっと、鈴の音の声は耳に焼き付いている。慌てて元来た道を戻って傍まで駆け寄った。

「……ヴァイオレット」

 焦って息を乱しているギルベルトを、ヴァイオレットは平然とした顔で見る。離れて不安でいた訳では無いようだ。

「少佐。これは、頂いてどうすればいいのでしょうか」

 握りしめていたブローチを見せてきた。

「……好きな所に付けなさい」

「失くしてしまいます」

 ギルベルトはため息を吐く。

「戦闘中は、そうだろう。平時だけ付ければいい。……君の、碧い瞳となら、本当は同じ碧を選んだ方が良かったのかもしれないが……」

 その言葉にヴァイオレットは首を振った。

「いいえ、これが一番『美しい』でした」

 手にしたブローチの針を服に刺して、付けながら言う。

「少佐の瞳と同じ色です」

 断言された。玲瓏な声音で紡がれたその言葉に、ギルベルトは一瞬息が止まる。

――君は、そこで、どうして。

 私の瞳を『美しい』と言う。

 心など無いような娘なのに。心など育ててやれなかった男を慕う。

 そんなことを言われる資格は。

――私には、無いのに。

 ギルベルトの感情など知りもせず、ヴァイオレットは言う。

「……『美しい』と、私は前から思っていました。……言葉が分からなかったので言ったことはありませんが」

 うまく付けられないのか、もたもたと針を刺し抜きしている。

「少佐の瞳は、出会った時から、『美しい』です」

 囁かれた台詞に、ギルベルトの視界がぼやけた。

 一瞬。たった一瞬だ。すぐに瞳は明瞭に世界を捉え、沸き上げかけた何かを打ち消す。

――感情を消せ、こんな顔を見せられない。

 喜怒哀楽を抑制するのには長けている。特にこの軍人と言う仕事はそれを求められる。

「貸しなさい……」

 彼女の手からブローチを取り上げて、代わりに付けてやる。

 ヴァイオレットは胸に光る宝石の輝きに視線を落とす。

「少佐、ありがとうございます」

 声だけがほんの少し明るい。

「ありがとうございます」

 重ねて言われて、やるせなくなり胸が焼けただれた感触がした。

――何も、言えない。言う資格が無い。

 思っていることを、素直に言えたならどれだけ心が軽くなるだろう。

 罪悪感、後悔、切なさ、悔しさ、怒り、悲しみ。

 混ぜ込まれた感情のスープが頭の中で溢れそうだった。

 

 戦局が突如変わったのはそれから数日後だった。

 大陸戦争は北と南の燃料戦争に始まり、同時期に勃発した西と東の宗教戦争も絡み合い複雑化している。ギルベルト達、ライデンシャフトリヒ陸軍特別攻撃部隊は大規模で硬直化した戦地ではなく、各所の小規模戦地に派遣される所が多かった。早期終結の一役を買うのが遊撃部隊の役どころだ。多角化した戦闘、悪く言えば小競り合いが大陸では繰り広げられていた。

 戦力が一箇所にぶつかり合う簡単な戦ではなかったのである。

 北の侵略、南の阻止。これらの防衛線が繰り広げられていた大規模戦闘地をインテンスと言う。ちょうど大陸真ん中に位置する土地だ。インテンス地方一帯には東西諸国が信仰する宗教の巡礼地が存在する。石造りの都で南西中心部では最大の補給地でもある。西側が所有していた巡礼地を欲せんと、東も同盟国である北の戦力となり当然西は南を援護していた。

 そのインテンス防衛線が破られたと連絡があったのが明け方前の午前三時。

 それぞれが陣営を立てていたインテンス防衛線は最近では北からの攻撃がぱったりと無くなり小康状態が続いていた。各地の小戦争が収まっていたのも同時期である。元々資源の少ない北とそれの支援に努めていた東がついに物資の補給が追いつかなくなり静かに武力をインテンスに集中させ総力戦で賭けに出たことがこの事件の顛末てんまつだった。兵力差が圧倒的に違う奇襲に即時対応出来る準備が無かった南西陣営は侵攻を許す。

 防衛線突破の連絡を聞いた南西連合諸国、連合所属のギルベルト達の部隊も招集命令がかかった。武力を総じての決戦に挑むことが正式に発表され、集められた兵士達は皆インテンス巡礼地に向かうよう伝令が飛ぶ。既に北東の同盟国部隊は巡礼地に辿り着き、制圧されているらしい。事実上、この戦いはただの補給地・巡礼地奪還ではなく、満を持しての最終決戦となる。失敗すれば、他で牽制していた土地や国も奪われてしまうのは明白だ。

 各地に飛ばされていた小隊がインテンス巡礼地周辺に設置された本陣に集結していた。

 ギルベルト達が本陣に到着したのは夜更け過ぎ。あてがわれた野営場でギルベルトは久しぶりにホッジンズに出会った。

「生きてたか」

 今度はギルベルトからホッジンズを見つけ肩を叩いた。赤髪の色男は振り返ると破顔する。

「ギルベルト……よう、そっちも生きてたな。心配してくれてたのか? 部下はたくさん死んだが……俺は生きてるよ」

 彼はこのインテンスで駐屯していた部隊の一部を担っていた。疲労と仲間を失った悲観の感情は薄ら笑いには隠しきれてはいない。冗談を言って笑いをとりはするが、目の下のクマは深く顔も土気色だった。移動の途中でギルベルト達もインテンスの防衛線の戦場跡地を見てきたが弔いきれていない死体が地面に山ほど転がっていた。黙祷を捧げる時間すら無く、この総力戦への準備だ。日々互いの命を預け信頼していた仲間が身近にいたホッジンズには堪える現状だろう。だが連れていたヴァイオレットを見て、ようやく朗らかな表情を見せた。

「これが、あの小さい女の子かよっ」

「ヴァイオレットだ。そう名付けた……」

「お前、結構きざな名前つけるのな。ヴァイオレットちゃんか。やあ、俺は初めてではないんだが……覚えていないよね? 君を一方的に知っている。ホッジンズ少佐と呼んでくれ」

 配布されていたスープの入った杯を持ちながらヴァイオレットは敬礼をする。

 ホッジンズは夜の中でも、篝火かがりびの灯りだけでその美しさを際出せている妖艶なヴァイオレットの姿に一瞬見惚れた。ギルベルトが咳払いをして意識を現実に引き戻す。

「……美人になったなぁ……」

 ホッジンズはギルベルトの肩を引き寄せて小声でヴァイオレットに背を向けて話し合う。

「お前……これは、まずいだろ……。戦場にこんな綺麗な女の子。いや、まあ……身体の心配はする必要がない娘だけれど。武勲はうちの隊まで届いていたし」

「ヴァイオレットに関しては、私が目を配っているから心配ない」

「そうだろうけどさ……何というか、勿体無いな。持って生まれて与えられたのは強さだけではないだろうに。それを、活かせる仕事につけたらいいのになぁ……」

 その言葉にギルベルトの心が痛みを訴えた。

 自分が思っていることを他人に指摘されると痛いものがある。しかも、大本の原因は全てギルベルトだ。後見人をしている彼自身が軍人で、彼女を手元で戦わせているのだから。

――そんなのは、私が一番分かっている。

 成長した彼女がどれほど美しく、何か他の才能に溢れていそうな女性でも軍人のギルベルトが戦地に縛り付けている内はただの殺戮機械人形だ。

「……俺さ、この戦争が終わったら軍人辞めて商売始めようと思ってるんだわ。そしたら、ヴ

ァイオレットちゃん、誘おうかな」

 ホッジンズはくたくたになった煙草を取り出し口にくわえた。煙草の箱にはあと一本しか入っていなかったがギルベルトに握らせる。既に吸う習慣を止めていたギルベルトだったがこの最終決戦前の夜、友人から差し出されたそれを受け取らないほど野暮ではない。

 二人は顔を近づけ火を分かち合う。

「そう言う台詞は戦の前に軍人が言うとあれだぞ」

 紫煙を吐き出し、ギルベルトが涼し気な顔で茶化す。

「いや、俺死なないから! 絶対。実は前から考えててさ、既存の会社を買い入れて……」

「そんな金どこにある」

「この戦いに勝つ方に、とある賭博協会に全財産賭けてる」

「……お前は……どうしてそう刹那的な生き方を……」

「俺はね、別にお前みたいに代々軍人の家庭じゃないの。家なんて普通に本国で商店やってるし。次男坊だしな。軍に入ったのは、家業を継ぐのが兄だったから。やることない次男があと家族に貢献するとしたら、国を守ることで家族を守るくらいでしょう。だから、南が勝ってライデンシャフトリヒが一時でも戦争をしない状態になれたなら、商売するよ。俺はさ、やれば何でも出来る子だからこのまま軍に居てもある程度地位を築けるだろうけど……それは何か違うんだよな。やっとわかってきた」

 照れくさそうに夢を語るホッジンズをギルベルトは素直に羨ましいと思った。

 明日は無いかもしれない。そんな時に『やりたいことがある』と未来を描く同僚。それを馬鹿だと笑う者もいるかもしれないが、ギルベルトにはまぶしく見える。

――私にはしたいこともないし、他に行くべき場所も考えつかない。

 軍人名門一家ブーゲンビリアの子として生まれるべくして生まれてここまで来た。ギルベルトは軍人向きの男だった。陸軍で昇進していくことに何の不安も感じないし、恐れもない。ぴったりと、形が合う運命に神様が投げ込んで下さった。

――では、ヴァイオレットは?

 少し離れた場所で地面に座り、焚き火を眺めている彼女。

 ギルベルトの手前、声をかける者はいないが野営場の軍人達から視線を集めているのは肌で感じている。不似合いなのだ、この場に。

――例えば、もっと華やかで。

 彼女が年頃の女性らしく着飾って生きていけるのならば。

――いいや、華やかじゃなくても。彼女が私の命令ではなく自分の意思で。

 動くことが出来る、そんな場所で生きていけるのならば。

――もっと、違う、何かを。

 与えてあげられる気がする。

「……そうだな。もし……お前の商売が安心な物ならば、預けるかもしれない」

 まさか承諾をもらえるとは思っていなかったホッジンズは『は?』と聞き返し咥えていた煙草を落としそうになった。黙っていたヴァイオレットがぴくりと反応してこちらに顔を向ける。

「だから、ヴァイオレットが居るにふさわしい場所だと判断したなら、預けるかもと……」

「本当か!? 言質げんちとったぞ! 証文書いてくれ!」

 軍服のジャケットの首元を掴んでぐらぐら揺らされ、ギルベルトは咳き込む。

「『かも』と言っている! 確実ではない!」

「おお、俺のやる商売にはどうしても危険な地域にも迷わず行ける子が必要なんだよっ」

「……危険なことをさせるなら断る」

「いや、危険って言っても……そんな、それが主にって訳ではなくて」

「この話はまただ。じゃあなホッジンズ」

「おいギルベルト! 絶対いまの言葉忘れんなよっ! 絶対だかんな!」

 くどく言い募るホッジンズをいなしながら、ギルベルトはヴァイオレットを連れて自分たちの天幕に戻った。今夜は二人で夜を過ごす。他の部隊まで集まり寝床が足りないのでヴァイオレットに一人だけの空間を与えることは出来なかった。かと言って、他の大きな天幕に混ぜてしまうと、おかしな真似をされて戦の前に兵士が減る。

 天幕は荷物を置いて寝転がるだけの空間しかなかった。寝返りをうてば、すぐ体が触れ合ってしまうだろう。ギルベルトは妙に緊張してしまう自分が居るのに気づいた。

――いや、でも。

 出会った時は抱き上げて帰ったのだ。

 血まみれの言葉も喋れない彼女を。こわい、こわい、と思いながらも抱き上げて帰った。

 あの時のヴァイオレットは、ずっと不思議そうにこちらを見上げていた。

 いま横を見ると金糸の髪を解き放ち、清廉な女性に変貌した彼女が居る。

 まだ少女の年齢。けれど大人びた顔立ちは「女」にしか見えず、その器の中には冷酷な戦士の魂が備わっている。ギルベルトが見つめたせいか、ヴァイオレットも顔を横に向けてきた。

 視線が交差する。

「少佐」

 内緒話をするような小さな声。

「どうした」

 ギルベルトも同じ声量で返す。

「……私は……次は、何をするのでしょうか」

「何を、とは……。明日は決戦だ。我々は遊撃隊としての責務を果たす」

「いいえ、明日以降のお話です。明日が終われば何をするのでしょうか。少佐が、ホッジンズ少佐と話していらっしゃいました。私をあの方に預けると」

「聞いていたのか」

 ヴァイオレットの顔は、いつもどおり無表情だったが微妙に声が不安気に聞こえた。

「あれは……まだ、決まったわけでは」

 濁す言い方をするギルベルトにヴァイオレットは言い募る。

「私は、もうご不要ですか」

「ヴァイオレット?」

「処分される結果、ホッジンズ少佐の元へ移されるのでしょうか。もう少佐に命令は頂けないのでしょうか」

 それは、自分を『物』だと認識した台詞だった。

「ホッジンズ少佐の命令は、恐らく、私は聞くことが出来ません。私は、自分でも、よくわからないのですが……認めた方の命令でしか動けないのです。そして私は命令がないと、うまく生きていけないのです。だから……少佐のお側に居るほうが、私は役に……」

 役に立つと、道具らしい返事をされギルベルトの表情が曇った。

「……君は、私の命令がそんなに欲しいのか」

『殺せ』としか、言わない上官なのに。そんな育ての親なのに。そんな男なのに。

「命令は私のすべてです。そしてそれは……少佐からでなくては……私は……」

――どうして。

 またやるせない気持ちになる。

 いつもこうだ。ヴァイオレットは、常に自分を道具らしくあれと戒める。誰も望まなくてもそうするのだろう。そういう性なのだ。そういう生き方なのだ。そういう生き物なのだ。

――けど、それは。

 もう、見ていて辛すぎる。

――どうして、私は。

「……どうして、私が…………に…………と……なくてはならないんだ」

「え」

 距離がこれほどまでに近くても、聞き取れない呟きだった。

 ギルベルトは、今までにヴァイオレットに見せたことが無いような、感情を剥き出しにした表情で苦しげに言葉を吐き出した。

「私の命令は、この戦い以降は聞かなくていい。私は、君を手放すつもりだ。君も好きなことをすればいい。誰の命令なんて聞かなくてもいい。自由に行動しなさい。もう一人で……何処ででも生きていけるだろう?」

「で、ですが……そうしたら私は誰に命令を……」

「誰の命令も聞くな」

 ヴァイオレットは口を開いては閉じ開いては閉じ、戸惑いを浮かべる。

 まるで母親に突き放された子どもだ。

 そんな顔をしていれば、彼女はまるで少女そのもので。

 どうして戦場にいるんだと問いたくなる。

 その身を戦火に投じるのは何故だ。その身を人に委ね、道具となるのは何故だ。

――その主人に私を選んだのは何故だ。

「そ、れが……ご命令、ですか?」

 ヴァイオレットはそうはあって欲しくないと少ない表情の変化で必死に訴えていた。

「それが、少佐のご命令ですか?」

――嗚呼、何故、どうして。

「ち……が……う」

「けれど、聞くな、と」

――嗚呼、違う。

 思い通りにならない憤りが頭の中で沸騰して弾けた。

「……どうして……どうあっても命令だと思うんだ! 私が、君を本当に道具だと思っていると? そうなのであれば、幼い君を抱いて帰りはしなかったし、成長した君に虫がつかないように守りなどしない! 私が、君を、どう、思っているか……君はどこまでも分かってくれない。普通なら、きっと、分かるはずだ。怒っているのも、辛いのも、君を……!」

 ヴァイオレットの瞳にはかくも情けない顔をしているギルベルトが映っている。

「君を……ヴァイオレット」

 その碧い瞳はいつもギルベルトを見ている。

 だが、彼の持つ緑の瞳とて同じだった。気がつけば彼女に視線を注いでいた。

 月日にすれば四年。何処へ行くにも一緒に歩んできた。

「しょ、うさ」

 赤い唇が言葉を話してくれた時から、ずっとギルベルトは彼なりにヴァイオレットを守ってきた。出会った時は、彼も青年だったのだ。子どもを育てるのに右も左も分からなかった。

「君は感情が無いのか。そうじゃないだろう。まったく無いわけではない。そうだろう。感情が無いならその顔は何だ。そんな顔、出来るんじゃないか。君には感情がある。君には、私と同じ心があるだろうっ!?

 怒鳴り散らした声は他の天幕にどう聞こえただろう。一瞬で体面を考えて、ギルベルトは更に心に苦痛を感じた。彼女に偉そうに物を語る資格などない。

「……私は、感情なんて、わかりません」

 震える声で返される。

 ヴァイオレットは怯えた顔をしてわからないと言う。

「いま、私のことが、怖いだろう? 急に怒鳴られて、嫌だろう?」

「わかりません」

「理不尽に言われて腹が立つだろう?」

「わかり、ません。わかりません」

「……嘘だ……」

 ヴァイオレットは。

「わか、りま、せん」

 首を横に振って、真剣に訴えた。

「少佐、本当に、わからないのです」

 彼女は欠落していた。人として必要な何かが。感情があっても感じられないのだ。そういう風に育ってしまった。

――これは、誰のせいなのか。

 ギルベルトは片手をまぶたの上に被せ、目を閉じた。そうするともう彼女の顔は見えなくなる。呼吸の音しか聞こえない。もう、見えない。

「少佐」

 現実を拒否したギルベルトの耳に、ヴァイオレットの声が響く。

「……私は、自分でも自分がわかりません。どうしてこんなに他の人間と作りが違うのか。どうして私は、少佐の命令しか聞けないのか……」

 その囁きはひどく頼りなく心細げで。

「ただ、少佐と……初めてお会いした時に、私は思ったのです。『この方に付いて行くんだ』と」

 声さえ聞いていれば、彼女がどれだけ幼いのか嫌でもわかる。

「何を言っているのか、わからない言葉の渦の中で、少佐が私を真っ先に抱きしめてくださったこと。それが、たぶん、私をそうさせているのです。後にも先にも、私を……守ろうという意志でそうしてくださった方はいません。だから……私は、少佐の、命令を聞いていたいのです……私は、少佐の命令があれば、どこまでも、行けるのです」

 幼いままに、ただひたむきにギルベルトだけを求めている。

――これは、誰のせいなのか。

 ギルベルトは、少しの沈黙の後に小さくつぶやいた。

「ヴァイオレット、すまなかった」

 目を開き、彼女の方に手を伸ばした。毛布を肩口までかけ直してやる。

「君は悪くない。責める口調で言ってしまった……許して欲しい。明日は、決戦だ。君の力がたくさんの人に期待されている。だから、もう寝るんだ。その後の話も、また今度にしよう」

 出来る限り、優しく出した声音。

「……はい」

 ヴァイオレットの安心した吐息が漏れる。

「必ずお役に立ってみせます。おやすみなさい、少佐」

「ああ、おやすみヴァイオレット」

 ごそごそと身動きをする音が聞こえてから、すぐに規則正しい寝息が聞こえてきた。

 ギルベルトは、ヴァイオレットに背中を向けて同じように眠りに身を落とそうとした。

 しかし、閉じた瞳から涙が溢れてしまう。

――目の中が熱い。眼球が燃えてしまいそうだ。

 いつのまにか、こらえきれないほど溜まっていた涙のしずくが次々とこぼれ落ちた。

 声を漏らさないようにするのが精一杯だった。顔を手で押さえながら、胸の痛みをこらえる。

 腕の中にすっぽりと収まるほど小さかった彼女を思い出して泣けた。

――これは、誰のせいだ。

 そればかり、考えていた。

 

 インテンス巡礼地は高い石の塀で守られている。

 殺伐とした雰囲気がかもしだされた外見ではあるが、中は入り組んだ水路と風車、畑が広がりまるで箱庭のような構造だ。入り口も出口も一つしか無い。巡礼の道と呼ばれる長い一本道が街の中心に走っており、進むごとに傾斜が増し、頂きには大聖堂がある。

 大陸では多くの神々が描かれた大陸創世記の書が存在し、そこには過去の神々の戦いやこれから起こるとされる世界の崩壊などがまことしやかに書かれていた。

 この地が巡礼地とされているのはその原典が保管されている大聖堂が設立されている為であった。大陸創世記には複数の神々の特徴や行いが記されており、どの神を信仰していたとしても結局は原典が信仰対象への一番近い場所となる。

 此処は原典という物質を通してあらゆる宗派が巡りあう和平の土地だった。

 ギルベルト達南西軍はその和平の土地をこじ開けて奪還せねばならない。

「問題は潜入方法だ」

 早朝、まだ日が昇り切ってもいない中、指揮官達は顔を突き合わせて計画の再確認を行なっていた。生き残りの指揮官としてホッジンズは作戦本部の進行を任されていた。小さな図面を荷物が入った箱の上に並べてホッジンズが羽根ペンで書き込んでいく。

 出入口は一つ。箱庭の街。攻略は厄介だ。

 インテンス防衛線で攻防を続けていたホッジンズによると、インテンス巡礼地には原典を守る騎士団が存在しており、万が一原典を奪う輩が現れた時の為に脱出用地下水路が作られているとのことだった。

「本隊は唯一の出入り口で攻防戦だ。壁面から登って奇襲をかける手も考えたが壁がでかすぎる。無理だ。はしごを開発している内に士気が落ちてしまうし北東に巡礼地を完全に根城にされる。そこでだ。南西諸国連合の皆々様方で輩出された遊撃隊に頼りたい。まずはライデンシャフトリヒ陸軍特別攻撃部隊、ギルベルト少佐」

 ホッジンズに呼ばれギルベルトは片手を挙げる。

 その他にもライデンシャフトリヒを含め合計四隊の遊撃隊指揮官の名前が呼ばれた。それぞれ別の国で作られた遊撃隊だ。互いに顔を合わせるのも初めてである。

「実はいま巡礼者礼拝用に大聖堂に置かれている原典は写本だ。本当の原典は北東軍侵略時すぐに騎士団によって別の地に移動させられている。それに敵さんが気づいているかは分からんが……地下水路はまだ有効の状態と仮定して遊撃隊はそこから潜入してもらう。一隊は大聖堂制圧、制圧後照明弾をあげて勝利宣言をしろ。勿論もちろん狂言だが動揺は効果的な攻撃だ。二隊、三隊は街の中心部に向かえ。戦いは唯一の出入り口に集中してる。街中警戒網は張られているだろうが戦力を分散しないことには制圧も出来ない。敵さんがたは勝利宣言に驚いて長い長い巡礼の道を登ってくるだろうから撃ち落とせ。四隊は出入口の攻防戦を背後から攻撃だ」

 ギルベルトの部隊は一隊として配置されることになった。どこに配置されても危険なことは変わりないが最重要任務を担うことになる。

「とまあ、理想論で計画を立てているが実際はこんなにうまくはいかないだろう。遊撃隊が駄目だった場合は撤退して外から焼き払う手も考えている。畑も多いしよく燃えるだろ。その方が早いからな。一網打尽だ。……だが巡礼地を焼き払うってのは感情的には頂けない。睨まないでくれ西軍の将校さん達。俺達南軍だって無神論者ってわけじゃない。俺は無神論者だけど。いや、本当に。それは最後の手段だからな。しかし機は今しかないんだ。時間が経てば経つほどあちらはインテンス巡礼地を要塞化して更に攻略が難しくなる。中の民衆にも被害広がるはずだ。このまま補給地をむさぼられ宗教戦争にも敗退し、南西諸国の顔に泥を塗られるくらいならって。皆も思うだろう。要は……ライデンシャフトリヒ陸軍特別攻撃部隊だぞ。頼んだ」

 強い口調で言われて、ギルベルトは「分かっている」と低く返した。

「大聖堂の守りは一番強固だろう。だが、我々がそれに臆することはない。ライデンシャフトリヒの……『武器』がそれを証明する。各部隊は、安心して制圧に挑んでほしい」

 ギルベルトの言葉は、これから戦に赴く指揮官達に気力を与えたようだ。口々に「幸運を」と言い、ギルベルトに握手を求める。

「本当に、これを最後の戦いにしたい」

 誓いは、ギルベルトの願いでもあった。

 

 インテンス巡礼地を囲む石塀、その周りには用水路がある。大人が腰まで浸かる深さの水路だ。辿って行くと滝のように地下に落ちる穴が見える。その下水道は中でいくつもの道に分かれており街中に出る道もあれば大聖堂へ続く道もある。

 設置された梯子を慎重に下りながら部隊は潜入を開始した。第二部隊、第三部隊、第四部隊と次々に別れ、最終的にはギルベルト達第一部隊だけが長々とした地下水路を走っていた。

 てっきり待ちぶせがあるかと思ったが、その様子はなく拍子抜けをする。

 隊の中には決戦の行く末を楽観視して軽口を叩く者もいたが、ギルベルトはヴァイオレットの様子を見てそうはならないと予測した。

――ヴァイオレットは、危険に敏感だ。

 自分の命が脅かされている時の彼女の表情は同じ無表情でも普段とは少し違う。しばらく走り続けると、入り組んだ水路の終わりが見えてきた。梯子があり、その上に鉄蓋らしきものがある。その先が外の世界だ。ヴァイオレットはぴたりと足を止める。自然と皆も立ち止まった。

「少佐、恐らくはこの上に既に敵兵が待機しています」

「何か聞こえたか?」

「聞こえないからそう判断しました。私が指揮官なら意気揚々とやってきた遊撃隊をここで根絶やしにします。安易に梯子を登り外に出れば殺されるでしょう。少佐、私だけ先に上に行きます」

 背に抱えていた彼女のためだけの戦斧を抜いてヴァイオレットは言う。

「駄目だ、どれくらい数がいるかわからない」

「もし数が多いのなら尚更私が先に行って皆が上がってこられるように敵を蹴散らします。ご命令を少佐」

 命令、と言う言葉にギルベルトは胸が締め付けられる。

「少佐、ご命令を」

 死にに行けと言うようなものだ。

「少佐!」

 そんな台詞を吐けと言う。

 ヴァイオレットだけでない、部隊全員の視線がギルベルトに集まった。

「……照明弾の予備はあるか?」

 少しの作戦の後、皆が壁際に配置されヴァイオレットだけが鉄蓋の真下に移動した。戦斧ウイッチクラフトを握りしめ分銅鎖を可動させる。思い切り体を捻って、鉄蓋に向けて鎖の鉄槌を打ち込む。

 かぁんという景気の良い音と共に鉄蓋が浮いた。垣間見える向こう側の世界では敵の兵士の驚いた顔が見える。だがそれらが弾丸をヴァイオレットに浴びせる前に伸びた分銅鎖がアームを握りつぶして照明弾を放った。まばゆい光に敵兵が怯む。

「行きますっ!」

 俊敏な動きで梯子を登り一気に地上へと消える。すぐに誰かの悲鳴が聞こえた。

「よし、我々も登るぞ! ヴァイオレットを援護しつつ身を隠せる場所に移動する!」

 ギルベルトが先頭に立って梯子を登った。ヴァイオレットは十数人相手に大立ち回りをしている。地下水路の上がった先は大聖堂の中ではなく周辺の少路だった。彼女に視線が集中している間に、部隊は急いで壁となる建物まで走って身を隠す。

「狙撃手! 用意!」

 ヴァイオレットの周りを囲む兵士達に狙いが定まる。

 彼女はウイッチクラフトを地面に立て、その場から高く飛び上がった。柄の先に足をかけて更なる空中に舞い踊り一人銃弾の的から抜ける。

「撃てっ!!

 弾丸がヴァイオレットを囲んでいた兵士達を貫いた。ヴァイオレットは空中で身をひるがえし戦闘服のガンホルダーから銃を抜き取る。着地の前にギルベルト達へ襲いかかろうとしていた敵を二名射殺した。足を地に着けるとウイッチクラフトの柄ではなく分銅鎖を握りしめ振り回す。逃げ出そうとしていた敵兵数名の首が飛んだ。敵だらけだった少路が開け、ヴァイオレットは先陣を切って走る。あらゆる出来事が瞬く間に起こっては過ぎ去る。

「総員! 続けええっ!!

 ギルベルトの号令に軍刀を抜刀した皆が後を追う。その小さな背を疑う者は誰もいない。

 最高の殺しの技術の持ち主が、今日という日に持てるすべてを出し切っていた。

「おおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!

 ライデンシャフトリヒ陸軍特別攻撃部隊は大聖堂へと向かった。

 

 一方、南と北にある正門では必死の攻防が繰り広げられていた。

 ホッジンズ率いる正門制圧の部隊は多数の戦死者を出しながらも開門に成功し、門付近で交戦していた。

「随分とお上品に戦うもんだ」

 後方で指揮をとっているホッジンズが舌なめずりをした。

「商人の俺からすりゃ甘い、甘い。甘すぎるね。この戦いの損失と、勝利した時の利潤を考えてるのが見え見えだ。そんなに街が破壊されるのが怖いのか? 大事な新しい補給地だもんなぁ。夢にまで見た巡礼地だ。そうだろうそうだろう」

 ホッジンズは不敵な笑みを浮かべながら声を張り上げた。

「後方部隊! 投石機も持ってこい! 敵さんが背にしてる風車ぶっ壊すぞ。倒して後衛の部隊を潰してやる。次々とあっちも兵隊持ってくるだろうが怯むなよ! この要塞、うまく使いこなせた方が勝ちだ。どっちが出来がいいか教えてやれ!」

 呼応するように『おうっ』と掛け声が返りそれぞれが迅速に動き出した。まだ勝敗は見えない。だが、それはこちらにも勝機があると言うことでもある。敵の背に伸びる坂道の奥の奥には荘厳な大聖堂が見える。まだ、何の知らせも出されてはいない。

――ギルベルト、頼んだぞ。何もかもうんざりだ。

「俺は昨日から……いや、ずっと前から怒ってるんだ! いい加減こんな馬鹿げた戦い終わらせてやるっ!」

 自身も銃を掲げて、ホッジンズは仲間と共に砂埃の中の戦いに入り込んだ。

 

「正門で本隊が制圧を始めています。ここを統治している北東諸国部隊も正門と大聖堂の二手に分かれている模様。将軍首に当たる指導者はどちらかに居ることでしょう。我々はその指導者の首を獲り、大聖堂を押さえるのが勝利条件です。あちらの士気が下がれば勝利も見えます」

 ライデンシャフトリヒ特別攻撃部隊の面々は大聖堂を前にして、近くの建物内に潜伏していた。正門から派遣された通信兵に事情を聞き状況を整理する。

 建物の窓から見える大聖堂の様子は笑いたくなるほど鉄壁の守りだった。円筒状の塔の形をした大聖堂の周りをぐるりと武装した兵士達が囲んでいる。

 残った攻撃部隊の面子はわずかだった。負傷した者もこの建物に運んで来たが、それは勘定に入らない。大聖堂の高さは地上からかなりある。登るためには唯一の出入り口である地上の門を通るのみ。他に望みはなさそうだ。

 だが真正面から行っても、無駄に命を散らすだけである。

 皆、疲弊していた。とりあえず態勢を整える為にここに逃げ込んだが、いつまでも居るわけにもいかない。他の者が床に座り込んでいるにも関わらず、ヴァイオレットはずっと窓辺に立

っていた。敵を観察しているのかと思ったが何か考えていたようだ。

「少佐、あの建物を見てください」

 言われて外を見る。何の変哲もない、真四角の建物だ。

「屋上が開けていますし、大聖堂からの距離もそう遠くない。私なら、助走をつければ飛び移れます」

「……さすがにそれは」

 無理だと思われた。建物と大聖堂の距離は確かに近いが、飛び越えられたとしても足場が無い。落下死するのが目に見えている。

「ステンドグラスが横向きにあります。あれを破って中に飛び込めば頂上からは少し遠のきますが楽に入れる。もちろん、私が飛び込んでいる間に銃でステンドグラスを割ってもらう必要があります。発砲の位置からすぐに居場所は知れるでしょう。少佐達は後退し第二、第三部隊と合流、戦力を募ってください。この人数で大聖堂制圧は無理です。私が最上階まで到着しましたら照明弾を発射します。我々第一部隊の任務はたとえ嘘であっても大聖堂を制圧したと敵に思わせることです」

「……うまくいっても、君は一人で戦うことになるぞ」

「少佐が皆を連れて戻ってきて下さると信じています。他に方法が思いつきません。この戦いの勝利にあそこを押さえるのは絶対条件です」

「君は死を覚悟して言っているのか」

「わかりません。死は覚悟するものなのか、どうか……私には」

 それは、怖くないと言っているようなものだ。

「……承諾出来ない」

「では、正門の部隊がこちらに来るまで此処で待機されるおつもりですか?」

「……私は、君だけを、犠牲にしたくないっ」

「私でなくとも、此処に来るまでにたくさんの仲間が死んでいます。それにこれは犠牲ではありません必要な措置です。少佐はいつものように、正しく判断してくだされば良いのです。私に言ってください。命じてください。どんなことでも……少佐。そうしたら、私は……必ず」

 ヴァイオレットは、はっきりとした意思を声に乗せて言った。

「貴方の『盾』となり『武器』になる」

 ギルベルトの緑の瞳を眩しそうに見る。

「貴方を守る」

 その言葉に偽りは無い。

「けしてお疑いにならないで下さい。私は貴方の『物』です」

 おかしなことに、少しだけヴァイオレットの口角が上がっていた。

 笑顔など、ギルベルトは見たことは無い。よりにもよってこんな時に、こんな台詞で彼女は笑うのだ。それがひどく悔しくて、悲しくて、狂おしくて。

 ギルベルトは拳をぐっと握りしめた。

「……いま、はっきりと分かった」

「何がでしょうか」

――私は。

「何が最善で、何が最悪かだ」

 私は他の誰かなどと君を比べられない。大勢の部下が死んでも、君に生きていて欲しい。

――私は。

「ずっと考えていた。自己の利益ばかりを優先してきた結果の末路を」

 出来ることなら君だけ逃して、もう私の元に帰ってくるなと約束させたい。

――私は。

 いま、はっきりと分かった。

「君は正しい。個を優先するのは間違っている。優先すべきは、もっと他にある」

――私は、君にとって害毒だ。

「……わかったヴァイオレット。そうしよう」

 但し、とギルベルトは付け加える。

「君だけには行かせない。突入班と第二、第三部隊への合流班と分ける。屋上に鉄紐を打ち付けて君にそれを持ったまま降下してもらう。そうすれば鉄紐の道が出来て君だけでなく他の者も中に侵入できる」

 言われた言葉にヴァイオレットは目をぱちくりと瞬いた。その考えは浮かばなかったようだ。

「皆、作戦を伝える。耳を貸してくれ」

 いよいよ潜入開始となった。

 ヴァイオレットが指さした建物までは簡単に移動出来た。というのもよほど戦局が良くないのか、大聖堂に配置されている人数の者たち以外、街をうろついてた兵士達も門に向かっていたからである。

 屋上まで上がると錆びた鉄網に囲われた空が見えた。進行通路に邪魔になる部分だけ排除してヴァイオレットが走りやすいようにする。

 鉄紐を助走距離地点の地面に打ち付け固定した。後は道を彼女が作るだけだ。

「降下の順番は、私が最初だ。続いて順番に降りろ」

 鉄網を短く切断した物を各自持つ。これを鉄紐に引っ掛けて滑り降りるのだ。

「行きます!」

 ヴァイオレットが掛け声と共に走りだした。後ろに控えていた部隊の面々が銃を構えて目前の大聖堂のステンドグラスを撃ちぬく。硝子の割れる音が響き、極彩色の欠片が地面に降り注いだ。ヴァイオレットは飛んだ。鳥のように、鹿のように。

 下から敵兵士達の声が聞こえる。感づかれたようだ。ヴァイオレットの身体に付けていた鉄紐がしっかりとぴんと張っているのを確認しギルベルトが勢い良く降下する。壁にぶつかり、なんとか這い登るとヴァイオレットがすぐ手を差し出した。

 足を踏ん張って、鉄紐に乗ってくる仲間の重さに耐えている。

「ヴァイオレット」

 大丈夫か、と言いかけて急に彼女がその場で転んだ。鉄紐が敵に銃で撃ち抜かれていた。途中まで降りかけていた兵士は地面に落下死している。

 屋上に残された仲間にギルベルトは手だけで『応援を呼べ』と合図をした。

 結局二人だけの潜入となってしまったがギルベルトはどこかこうなるべくしてなったのだと運命めいたものを感じた。

「ヴァイオレット、いいか」

「はい少佐」

 ヴァイオレットは酷い有様だった。白い頬がステンドグラスの破片で切れている。戦闘服も破れてボロボロだ。硝煙の匂いにまみれ、敵兵の血に濡れ、体力も限界に来ているのか息も乱れていた。

「二人だけだ。死ぬかもしれない」

「はい」

 ギルベルトもまた、疲労のあまり肩で息をしている。

「だが命令だ。君は絶対に死ぬな」

「はい、必ず生きて少佐をお守りします」

「……いい子だ」

――本当に、良く話せるようになった。大きくなった。君は物なんかじゃない。

「だがそれは私の台詞だよ」

 

 入り込んだ場所は屋上より五階ほど下の部屋だった。楽器や銅像が置いてある。ただの倉庫なのだろう。部屋の外に出ると屋上まで続く螺旋階段に行き当たる。

 階段を上るごとに壁面の窓から見える外が高くなっていった。門の方から大きな煙が上がっている。ホッジンズは、生きているだろうかとギルベルトは彼の身を案じた。

「少佐、まもなく最上階です」

 抜き身の戦斧をヴァイオレットが握り直す。二人の足音に、待機していた兵士が気づき階段を上り切らない内に軍刀を振り下ろし襲いかかってきた。同時に下からも兵士達が駆け上がってくる音がする。

「少佐!」

 待ち構えていた兵士を戦斧で薙ぎ払いヴァイオレットが振り返る。

 ギルベルトは抜身の軍刀を手にして下階への道に立ち塞がっていた。

「行け、ヴァイオレット。私が此処で食い止める間に、上の連中を殺して照明弾をあげろ。それだけで、この戦いの勝利宣言と同じだ。劣勢でもこちらに風が吹く」

 非情な決断をいつも迷うことのないヴァイオレットが逡巡した。下に控えていた兵士たちが全員上がってきたとしたらギルベルト一人で相手出来るとは到底思えない。

「私も応戦を、少佐!」

「命令だ! 行け!」

「ですが、少佐が」

「命令だと言っている! 行け、ヴァイオレット!」

 一喝されて、ヴァイオレットは半ば自動的に体が動いた。返事も出来ずにそのまま上へ登る。

 神々の御姿が描かれた最上階への扉を蹴破り外に出た。すると眼前に、こんな状況で目にするには惜しいくらいの美しい光景が広がっていた。優しいせせらぎの噴水。緑と花が生い茂る花壇。甘く清らかな香りと硝煙の匂いが交じり合っている。大聖堂の最上階は空中庭園が出来ていたのだ。一瞬、余りの現実感の無さにヴァイオレットは呆けた。

「敵だ! 殺せ!」

 四人の兵士が居た。長距離射撃手と観測手だ。大聖堂までの移動の最中、何人の仲間が彼らに殺されただろう。此処は絶好の射撃場所だった。

 下では悲鳴と銃声が響いている。ヴァイオレットの心音が急激に上がった。

「どけ……」

 戦斧を振り、死人の血をその場に飛び散らせ、獣の瞳で目の前の敵を睨む。

「どけ、どけ、どけ、どけ、どけ!」

 後ろの音ばかり気になる。

「どけどけどけどけどけどけどけどけえええええええええっ!」

 大きく跳躍して兵士たちに飛びかかった。

 一人、二人、三人。腕や足を切り刻み、刺し殺す。

「どけどけどけどけどけどけ!」

 焦る気持ちがヴァイオレットの武器を扱う腕を鈍らせる。銃弾が腹をかすめ、腕の肉をえぐった。普段の彼女ではあり得ない失態だ。痛みで目が霞む。

 後ろでギルベルトが防いでいるのだ。一刻も早く、戻って加勢をしないといけない。

「どけええええええええええええええええっ!!

 最後の一人は戦斧で首をはねた。

 銃撃の痛みに自然と片足が地面についた。堪えつつ、ガンホルダーに巻きつけていた照明弾を空に向けて放つ。空に白い光が散った。まるで光の花だ。

 一発では終わらせない。残弾をすべて打ち込んでいく。最後の照明弾は派手な音を立てた。

 ヴァイオレットはその音の直後、顔面から倒れた。

「あ、あう、う」

 今しがた自分が打ち上げた照明弾の音では無かった。あまりのことに小さな悲鳴が漏れる。右肩が至近距離で撃たれ風穴が開いていた。自らの血だまりに顔が浸かる。背後で銃のリロード音が聞こえた。ヴァイオレットは即座に左手で銃を抜き取り振り向きざまに撃つ。

 殺し損ねていた兵士の一人が大口径の小銃を握ったまま脳天を撃ちぬかれ絶命した。

「……」

 息がうまく出来なかった。利き手の肩が、ぶらんとぶら下がるだけになる。手の感覚が薄い。

「う、あう、うう」

 立ち上がるべきではない。いや、それどころか身動きすればするほど血が流れる。

「……少佐!」

 それでもヴァイオレットは元来た道を戻った。

 重症の身を動かすのはただ一人の主への執着でしかない。

 ヴァイオレットの歩いた痕は鮮血に染まった。

「少佐、少佐! 少佐!」

 何度も呼び、ギルベルトを求める。最上階の手前まで来ていながら絶命している兵士達の死体をよけて、その中に居ないかと探した。

「少佐っ!」

 硝子が割れるような、叫び声をヴァイオレットは上げた。

 ギルベルトが階段の途中で今まさに敵兵士に銃剣で刺殺されそうになっていた。

 敵はヴァイオレットの声に手元が狂わせるが、それた切っ先が顔をえぐる。

「き、さ、まああああああああああああああああああああああっ!」

 片手で持っていた戦斧を振り投げて胴体を切断した。兵士が倒れる。勢い余ってヴァイオレットも転んだ。ギルベルトの元に這うようにして近づく。

「少佐、少佐、少佐!」

 ギルベルトは片目は潰され酷い傷が出来ていた。これではもう光も色も感じることは出来ない。物言わぬ死体のようになっているが息はあった。だがひどく浅い。手も足も銃弾や剣の傷で血まみれだ。出血多量で死ぬのが早いか、階下から押し寄せてくる敵兵に殺されるのが早いか。どちらにせよ命の灯火は消えかけている。

「少佐、少佐っ」

 答えてくれない上官に、声を荒らげながらヴァイオレットは彼を担ぐ。ぶらさがるだけだった手を無理に使って、背負った。

「うう、あ、ううう、あ」

 利き手が、耐え切れずその場に両膝をつく。

 何段か転げ落ちて、また立ち上がりギルベルトへ手を延ばした。力をかけ過ぎたせいが腕は肩から千切れかかっている。そちらの腕は武器は持てそうにない。

「……」

 ヴァイオレットにギルベルトと戦斧のどちらかを捨てるかなど選択の内にも入らなかった。戦斧を捨てて、生きている腕でギルベルトを背負い、下りようとする。

 すると下から武装を固めた一団が上がってきた。

「ううううううううううああああああああああああああああああっ!!

 ヴァイオレットは捨てた戦斧をまた拾って片手で斬りこむ。自分の身体をすり抜けていこうとする者に容赦なく分銅鎖を叩きこみ、アームで脳天をかち割った。

 同じことの繰り返しだ。ギルベルトを運ぼうとする、敵が下からやってくる。殺し尽くす。またやってくる。いつまでたっても進まない。重傷を負い、その上の消耗戦だ。

「し、死ねええええっ!」

 遂にはただ悲鳴を上げて突進してくるだけの若い兵士に攻撃を許した。

「……っ!」

 悲鳴は声にもならなかった。

 戦いの技術も何も無い敵だった。きっと本来なら戦争に縁もない青年で、剣を振るう必要すらなかったはずだ。彼の軍刀はヴァイオレットのもう一本の腕の付け根をえぐり、貫通した。 刺されて武器も落とし立ち尽くすヴァイオレットを見て、若い兵士は絶句する。間近で見る彼女。自分が殺そうとしている相手が少女であることに気づき後ずさりした。

「私、を……」

 唇から一筋の血が垂れる。

「殺し、ても、いいから、少佐は、殺さないで」

 ヴァイオレットはギルベルトの命乞いをした。

 美しい碧眼には後ずさりする兵士が映っているが、頭から流れる血と汗でヴァイオレットにはよく見えなかった。彼がどんな表情をしているのかも、おぼろげだ。

「ご、ごめん、違う、俺は」

 兵士の声は裏返る。

「……少佐は、殺さないで」

「違う、ごめん、違う、違う!」

「お願い……しま、す」

「違う! こんなの……! 違うんだ!」

 叫んで、兵士は逃げた。

 逃げ帰る敵兵を唖然として見送り、ヴァイオレットはギルベルトの傍へ戻る。

「少佐……」

 意識が飛びそうなのか、足元がおぼつかない。

「少佐、私、やりました、少佐……少佐……」

「……ヴァイオレット……」

 ずっと目を閉じたままだったギルベルトが、片目をかろうじて開けて、言葉を喋った。

 ヴァイオレットは自分の名を呼ばれて、泣きそうな声で呼び返した。

「しょう、さぁ」

 今まで出したことの無い声。

 さっきまでの鬼神めいた様子は消え、戦場の隅で怯える子どもの顔になる。

「……ヴァイオレット、いま、どうなっている、ここは、何処だ」

 ギルベルトの問いかけに、ヴァイオレットは声をつまらせながら答える。

「こ、此処はまだ大聖堂です。私たちは任務を達成しています。後は応援がこちらに来れば無事逃げられるのですが、まだ来ません。敵が下からどんどんやって来ます。きりがありません。少佐、ご指示を。命令してください」

「……逃げ、なさい」

「少佐を連れて、どうやって逃げれば」

「…………私を、捨てて、逃げなさい」

 言われたことがすぐに理解出来ず、ヴァイオレットは答えにきゅうした。

「……置いて行けと、言うのですか」

 嫌々するように首を横に振る。

「出来ません! 少佐を、連れて逃げますっ」

「……私はいい。私を置いていけば、君だけなら、まだ、助かるはずだ。逃げなさい、ヴァイオレット」

 遠くで大きな爆撃が聞こえた。二人の居るこの場所だけ、別の時空のように今は静かになっている。

「逃げません! 少佐! 少佐が残るのならば、此処で戦います! 逃げろと言うのなら、少佐も連れて逃げます!」

 ヴァイオレットは血を流し痙攣する腕を、両方、悲鳴を上げながら動かしてギルベルトの戦闘服の首元を掴んだ。引きずって、引きずって、運ぼうとする。

「ヴァイオレット、やめてくれ」

 ぶちぶちと血管がちぎれる音が聞こえる。肉の絶たれる感触。

 痛みは凄まじいだろう。

「……ヴァイオレット!」

 ぶら下がるだけだった利き腕はついに地面に落ちた。それを見もせず、ヴァイオレットは残りの腕でギルベルトを引っ張る。

「……やめろ……やめてくれ、やめろヴァイオレットっ」

 ヴァイオレットは命令を聞かない。

 息をぜえはあと吐き、銃剣が刺さったままの残りの腕に力をかけて、一段一段、また一段と下がる。動かすごとに、刃が肉を切り裂いた。

「ヴァイオレット!」

 残ったもう一本の腕さえもヴァイオレットを裏切り千切れた。ヴァイオレットはその場にひっくり返る。羽根をもがれた鳥の如く、両腕からおびただしい血を流していた。自分の有様を、左右に首を動かし確認して半笑いになる。

「少佐、いま助けます」

 それでも唇をきゅっと噛みしめると、膝だけで階段を上り始めた。

 腕を失い平衡感覚が失った体。途中何度も足を踏み外しては階段を転げ落ちる。

 落ちて、上がる。落ちて、上がる。

 ただギルベルトだけを求めて冷たい階段に血の海を作り上げる。

 ギルベルトは、自分の為に彼女が両腕を失ったことを見えない視界でも気づき涙を流した。

「やめてくれ」

 泣き声混じりの哀願が響く。

「もう、やめてくれ! ヴァイオレット!」

 嫌です、とはっきりした拒絶が返ってきた。

「少佐……あと、あと、少しです」

「もう、いい。もう、いいから、腕が、君の腕が」

「敵兵が来ません。たぶん、応援が下に来ているんです。音も、します」

「じゃあ君だけ下にさがれ! そうだ、それでいい。応援を呼んで来なさい。行くんだ、私は大丈夫だ!」

「嫌です! 私が、私が、居ない間に少佐が死んだらどうするのですか」

「そうしたら、それまでだ。いいから下に行くんだ!」

「嫌です! 絶対に、嫌です! 此処で置いて、戻ってきたら、少佐が……」

「私は死んでもいいんだ! 君さえ生きてくれればそれでいいんだっ!」

「その命令は聞けません!」

 這いつくばって、両腕を無くしたヴァイオレットはそれでもギルベルトの元へ戻る。腕がない。もう引っ張れない。かろうじて、膝をつかい、歩けはするが、もう、彼を連れていけない。

「……絶対、絶対……少佐を死なせません」

 ヴァイオレットは、ギルベルトの肩に噛み付いた。

 犬のように口で物を運ぼうとする。

「う、ううううううっ!」

 唇から漏れ出る苦痛の声。何度も何度も、引っ張ろうと必死に体を揺らす。しかし大怪我をしているその身で。犬では無い人の身で。うまくいく筈もない。

「しょ、う、さ」

 ギルベルトは。

「……ヴァイオレット、やめてくれ」

 ギルベルトは。

「……してるんだ」

 ギルベルトは。

「……してるんだ、君を」

 ギルベルトは、片目の視界を涙で溢れさせて叫んだ。

「……君を愛してるんだっ! ……死なせたくない! ヴァイオレット! 生きてくれっ!!

 それは、初めて彼女に口にする言葉だった。

「愛してる」

 言ったことは一度もなかった。口にする機会はいくらでもあったのに、言わないでいた。

 いつも、いつも、いつも。

「愛してる、ヴァイオレット」

 心ではそう囁いていたのに。

 ただの一度も言ったことはなかった。

 その芽生えが何時からなのか。何がきっかけなのかは分からない。

 何処を好きかと問われると、言葉ではうまく言い表せない。

「ヴァイオレット……」

『しょうさ』と呼んでくれたことがいつまでも嬉しくて。

 後ろをついてくる彼女を守らなくてはと思い。

 何処までも変わらぬ献身に胸を打たれた。

「聞いて、いるか、ヴァイオレット」

 身を焦がすような視線を、同じ温度で返すのに時間はかからず。

 武器として使うことに苦しみを感じ、彼女の命が失われることが一番の恐怖となった。

「君が、好きだ」

 もう、何が正しくて何が悪いのか神に問いかけるのはやめたい。

 告げることが罪であるなら、死ですべての精算をしたい。

「……愛してる」

 ギルベルト・ブーゲンビリアは。

「愛してる、ヴァイオレット」

 純粋に人を愛すのは彼女が初めてだった。

「……あ、い」

 ヴァイオレットは、両腕から血を流しながら、初めて聞く言葉のように反芻した。

 ギルベルトの傍に来て、ぺたりとその場に座り込み、顔を覗きこむ。

「愛って、何ですか」

 心底、わからない、と言う声音で聞く。

 上から、ぽたぽたと雫が降ってきてギルベルトの頬を濡らした。

「……愛って、何ですか。愛って、何ですか。愛って何ですかっ」

 子どもの頃だって晒したことのない、ぐしゃぐしゃの泣き顔。

 人を殺したって、誰からも愛されず孤独でいたって、泣きはしなかった。

 泣いたことなどない娘だった。

「……わかりません、少佐……」

 その彼女が、いま、泣いている。

 

 

「あいって、なんですか」

 

 

 それは、本当の意味での質問だった。

――嗚呼、そうだ。

 ギルベルトの心が、体よりも痛みを訴える。

――知らない、知るわけがない。

 言っていないのだから。そして彼女は恐らく自分以外からも言われたことがないのだから。

『学習』していない。

――愛なんて、知らないのだ。

 ギルベルトは、そこでまた大粒の涙を流した。

――私は、何て、愚かなんだ。

 愛する人に、思いを伝えることが出来ないのは自分が愛を怠った結果。

 こんな無様な死に際があるだろうか。

「ヴァイ、オレット」

 しかし不思議と心が穏やかになった。身体の痛みも段々と治まってきた気がする。変な感覚だ。ようやく自分の本当の気持ちを言えたことがそれを引き起こしているのかもしれない。

 なんだか全てが許された気がした。

「……ヴァイオレット、愛、は」

 ギルベルトは彼の人生で最愛の少女に言う。

「愛とは、君を一番、守りたいと思うことだ」

 優しく、諭すように、まるで彼女が出会った頃の子どもであるかのように、囁く。

「君が大事で、大切だ。傷つくことなどさせたくない。君に幸せになって欲しい。君に元気でいて欲しい。だから、ヴァイオレット。君は生きて、自由になりなさい。軍から逃げて生きるんだ。私がいなくても大丈夫だ。ヴァイオレット、愛している。生きてくれ」

 ギルベルトは、重ねていった。

「ヴァイオレット、愛しているんだ」

 告白の後に聞こえるのは、愛を伝えた人の泣きじゃくる声だけ。

「わかりません、わかりません」

 彼女は泣いて訴える。

「わかりません、愛なんてわからない。少佐の言うことが、わからない。ならば、どうして私はこうして戦っているのですか。どうして命令をくれるのですか。私は、道具ですっ。他の何でもない。貴方の道具ですっ。私は愛なんてわかりません、私は、ただ、少佐を、助けたい。独りにしないでください。少佐、独りにしないでください。命令してください! 私の命を懸けても助けろと、命令してください!」

 殺せと言う言葉しか聞くことが出来なかった子どもが、助けさせろと泣いている。

 ギルベルトは、手を差し伸べて抱きしめる代わりに、消えゆく意識の中でこう返すしか出来なかった。

「……愛してるんだ」

 階下から誰かやって来る音がしたが、もう、瞳すら開けられなかった。

 

 

 

 

 ヴァイオレットと呼ばれた少女兵の記録はそこで途絶えている。

文庫『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』刊行10周年を記念し、エピソードをセレクトして期間限定で無料公開中。1月から12月にかけて、【毎月第4金曜日】に公開エピソードを切り替え! シリーズ全4巻に収録されているうちの約半分のエピソードをお楽しみいただけます。
ぜひこの機会に『ヴァイオレット』を読んでみてくださいね!

KAエスマ文庫『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』シリーズ刊行10周年記念企画特設ページ
https://www.kyotoanimation.co.jp/books/violet/special/10th/