MOON FIGHTERS!

MOON FIGHTERS!

  • 著者:賀東招二
  • キャラクターデザイン:丸木宣明
  • イラスト:京都アニメーション

プロローグ

 

 安全な観光旅行のはずだった。

 一家三人で月旅行。

 父さんと母さんが九年間、地道に旅費を積み立てて実現した旅だった。ぼくの九歳の誕生日は過ぎてしまっていたけれど、遅めの誕生プレゼントだと父さんは笑っていた。

 そうだ。父さんはよく笑う人だった。

 それがふさわしくない時でも、よく笑った。家の洗面台が壊れて部屋中が水浸しになった時も苦笑いしていた。小一の運動会の徒競走でぼくが転んでしまった時も、はげますように笑った。父さんが笑うたびに、ぼくはつられて笑ったり、逆に腹を立てたりした。

 反対に母さんはよく泣く人だった。ニュースでどこかの排水溝にはまった飼い犬が助けられた、というだけで感動して泣いたりした。洗面台が壊れた時も泣いたし、徒競走でぼくが転んだあと最下位でゴールしたのにも涙を流して喜んだ。小さいころは一緒に泣いたけど、小学生になったころには母さんの涙腺るいせんのゆるさにちょっと呆れていた。

 その旅行は楽しみだったけど、一家三人で行くなら月でなくても構わなかった。熱海あたみとか箱根はこねとかでも別によかったのだ。

 だけどなにしろ月というのは、庶民にとって一生で一度、行けるかどうかという場所だったし、父さんと母さんはぼくが心の底から月旅行を楽しみにしていると信じている様子だったので、とりあえずそういうふりをしておいた。

 空港で地球低軌道行きのTSTO機を間近で見たころには、ぼくは『ふり』をする必要はまったく無くなっていた。

 何もかもが素晴らしかった。

 地球低軌道から見下ろす地球、月軌道行きシャトルでの数日、とてつもなく大きく見える月の姿。アームストロング市の偉容いよう。月面の六分の一Gはとんでもなく楽しかった。

 そう。楽しい、楽しい時間だった。

 あの展望室に行くまでは。

 そこはぼくらの泊まった月面ホテルの最上階で、いちばんの景色が望める場所だった。ぼくと父さんと母さんはその小さな部屋に出かけた。そこで何時間も続いている日没をちょっと見ようという話だった。たまたま展望室はすいていて、客はぼくら以外いなかった。

 そこに入った直後に、大きな揺れが来た。

 床が傾き、ぼくは壁に叩きつけられた。なにが起きたのか、まるでわからなかった。父さんも母さんも無事だったけど、ホテルへ戻る扉は固く閉ざされ、ぼくらはその部屋に閉じ込められてしまった。

 あとで知ったけど、直径一メートルの隕石がホテルを直撃したんだそうだ。

 宝くじに当たるくらい滅多にないことだった。それに大きな隕石は普通、ちゃんと監視されていて、衝突が起きそうな時はずっと前から警告が出る。運悪く地上の施設が壊れても、その何日も前に人は避難できるから安心だ――そう聞いていた。

 でも、警告なんか出なかった。理由は知らない。

 ホテルの客と従業員のほとんどは、なにが起きたのか知らないまま死んでしまったそうだ。展望室に閉じ込められたぼくらだけが生き残った。

 父さんは笑わなかったし、母さんも泣かなかった。緊張で全部の感情が引っ込んでしまったように無表情だった。

 助けはなかなか来なかった。ホテルだけでなく、近くにあったいろいろな施設が被害を受けていたせいだ。何時間助けを待っていたのか、よく覚えていない。それでもぼくらは励ましあった。地球に帰ったら食べたいものしばりでしりとりをやったりした。

 地平線の向こうに沈みかけた太陽がまぶしかった。夕日なのにぜんぜん赤くない。父さんは展望窓の操作パネルを必死にいじっていた。

 部屋が蒸し暑かった。我慢できないほど暑かった。

 頭も痛くなって、ぼんやりとしてきた。

 父さんと母さんは、酸素が足りないのか、二酸化炭素のせいだと言っていた。どちらなのかは、ただの観光客のぼくたちにはよくわからなかった。

 その部屋の非常用キットは、地球のエレベータによくあるやつとたいして違わなかった。ちょっとの水とお菓子、空気ボンベと救急セットだけだった。

 ボンベはぼくの目から見るとけっこうなサイズだったが、母さんは『これだけ?』と言っていた。マスクもひとつだけだった。

 端末はまったくつながらなくて、助けはいつ来るのかわからなかった。

 部屋の片隅で父さんと母さんが何かの相談をしていた。ひそひそ声だったけど、とぎれとぎれにぼくにも聞こえてきた。

『三人では酸素がもたない』

『せめてこうちゃんだけでも』

『ほかに手はない』

 そして父さんと母さんは、ぼくを何度も抱きしめてほっぺたにキスをした。しつこいくらいに。ぼくはこれから三人で死ぬんだろうと思った。でも父さんと母さんがいっしょなら、それほどこわくはなかった。

 父さんがマスクをぼくにかぶせて、元気づけるための笑顔を見せた。

『これをかぶって寝てるんだ。なにがあっても取るんじゃないぞ』

 母さんがぼくの髪をやさしくなでた。母さんはぼろぼろ泣いていた。

『いっしょに寝るからね。だいじょうぶよ』

 ぼくをはさんで、父さんと母さんも横になった。それから何度もぼくを愛してると言った。二人はぼくの手を握って離さなかった。ちょっと痛いくらいだった。

 視界のはじっこで、展望窓から景色が見えた。

 太陽がほとんど沈みかけた月面。その向こうから夜が――暗闇がとてもゆっくりと近づいてきた。地球の夜闇よりもはるかにおそい。そしてその闇を追うようにして、ベールのようにぼんやりとした光が見えた。砂嵐のような、荒々しい光。

 あとで知ったけど、それは『ホライズン・グロー』と呼ばれる発光現象だった。

 その光と闇が展望室を通り過ぎると、窓に何かが当たる音がちりちりとした。父さんと母さんの横顔を照らしていた光がかき消え、まったくの暗闇が部屋に訪れた。

 二人の手を握る力がすこし弱まった。

 あんなに暑かった室内が、急にすずしくなってきた。

 母さんが何度もせきこみ、ぼくの名前を何度も呼んで、手を握らなくなった。

 父さんもせきこみ、たぶんはいた。それからぼくの名前を呼び、かすれ声で『がんばれ』と言った。手の力がなくなり、ぼくが握っても、もう握り返してくれなかった。

 二人とも、もう呼びかけても応えてくれなかった。

 まったくの暗闇。マスクの呼吸音。

 さむい。

 はやくぼくも追いつきたかった。

 やさしい父さんと母さんに、追いつかなければ。

 何時間も。何時間も。暗闇の中で、それだけを考えて待っていた。

 助けなんて、いらなかった。