
MOON FIGHTERS!
第3話 フンボルト海の暴走する不時着機
その日、ヒロミたち修学旅行生は三日間を過ごしたレヴァニア市を離れて、〈静かの海〉のアームストロング市へ向かうはずだった。
ヒロミはひどく眠かった。
朝一の便のシャトルなので四時半には起きて出発の支度をしなければならないのに、夜中の二時くらいまで起きていたからだ。ルームメイトと恋バナで盛り上がったのだから、仕方がない。
そう、恋バナはすべてに優先される。たとえ家から三八万キロ離れていても。
この旅行は『愛知県特別軌道体験プログラム』などと大仰な名前がついているが、要は『世界一遠くの修学旅行』だ。抽選で選ばれた県立高校生六〇人が招待される、二週間の月面旅行。ヒロミはその第二陣二〇名の一人だった。
毎日作文やら動画制作やらをしなければならないが、三〇〇〇人の応募者から抽選で選ばれたのだから、まあ文句は言えまい。ヒロミは一生分の運を使い果たしてしまったのではないかと心配しているくらいだった。
当然、この宇宙旅行で同行する旅行生はみんな他校の知らない子だらけだった。旅行前の三日間の訓練期間も、一般の教習訓練センターで受けたので、みんな初顔合わせだったのだ。
月での旅程も半ばにさしかかってから、ようやくヒロミにも友達ができた。ミツキという小柄な子だった。
ヒロミとミツキは馬があった。レヴァニアでの三日間のうちに、二人はすっかり意気投合し、三年間の付き合いのように親しくなった。夜更かしもそのせいだ。
「ヒロミ、眠い? なら通路側の席でいいよね? あたしは窓際。にひひ」
同じように寝不足のはずだが、ミツキは元気だ。
アームストロング行きの便は、座席がある程度自由になったので、ヒロミとミツキはもちろんペアの座席を選んでいた。他の旅行生たちも似たり寄ったりで、気の合う相手と近くの席を選んでいる。
「まあたぶん寝るから通路側でいいけど。元気だね、ミツキは……。そんな面白い景色、見える?」
「あっちに着く直前、アポロ一一号が窓から見えるらしいよ?」
「歴史遺産でしょ? そんな肉眼で見えるほど近くを飛ぶわけないじゃん」
「えー、でも見えるって動画、あるよ」
ミツキは端末の共有画面にSNSを表示させて見せた。どこかの投稿者が同じような機内から撮影した動画がある。ほとんど豆粒みたいだったが、確かにアポロの着陸船(の下半分)らしきものが写っている。
かなり距離はあるが、確かに(航法上は)近くを飛んでくれるらしい。
「でも、見えても面白くはないなー。ただの大昔の宇宙船だよ?」
「面白いよ! だってアポロチョコの語源だよ? すごいじゃん!」
「それすごいの?」
ミツキは地球からもおやつとしてアポロチョコを持ってきたそうだったが、行きの軌道シャトル内で食べ尽くしてしまったらしい。
「はーい、もうすぐ離陸ですよー。そこ、私語やめる」
引率の先生が叫んだ。
ヒロミたちが乗るロケットはM320という三〇人乗りの中型機だった。月軌道との行き来や、月面都市間の弾道飛行で広く使われており、年季の入った機体も多い。このM320もヒロミたちが生まれる前から使われているかもしれなかった。
可動シートはどれも角の塗装が剥げていて、細かい傷も無数に走っている。ヒロミはなぜか、子供のころに乗った遊覧船を思い出した。
引率の先生がひと通りの注意事項を告げる。許可なく席を立たないこと、端末の使用制限、可動シートに挟まる恐れのあるもの――コートやブランケット類を畳んでおくこと、なんやかや。あまり真面目に聞いている子はいなかった。
緊急時に着用する『非常用宇宙服』の扱いの動画も、まともに見ている者はほとんどいなかった。『服』といってもマミー式の寝袋みたいな形で、手足はない奴だ。これまでの船でも同じ動画を何度も見せられていたし、地球の訓練所では実物を身につけた。とはいえ事故なんて起きるわけもないし。
M320はレヴァニアの地下宇宙港から地上のパッドに移動し、打ち上げ手続きに入った。その頃にはヒロミは寝不足でうとうとしており、ミツキが『地球が見える』と騒いでいるのも上の空だった。フライト・アテンダントと引率の先生が、航路のことでなにか揉めているのもまったく気づかなかった。
だから最初、その轟音がした時もロケットのエンジンが普通に出している音だと思った。断続的で空気の漏れるような異音を伴った、これまで一度も聞いたことのない音だ。
ひどい縦揺れも、古い機体だし加速の時だけのものだろうと思っていた。だがそれにしては激しすぎる揺れだし、強くて不規則な振動も混じっていて、もう寝ていることもできなかった。
隣のミツキやほかの旅行生が悲鳴をあげた時、やっと様子がおかしいことに気付いた。
目を開けると側の窓に、月面がいっぱいに広がっていた。クレーターがしっかり見えるほど大きい――つまり低空を飛んでいる。しかも左舷を目一杯に下にして。
普通じゃない。この宇宙船は弾道飛行をするはずなのに。
落ちている? 宇宙船が墜落?
どうして? 気のせいじゃなくて?
死ぬの?
え、ちょっと、本当に?
ミツキは隣席で目を閉じ、がたがたと震えていた。はげましてあげたかったけど、無理だった。自分も歯の根があわない。声もまともに出なかった。
はげしいエンジンの音が立て続けに鳴り響いている。必死に機体が姿勢を立て直そうとしているのだろうか。
窓から月面が見えなくなり、数秒間、真っ黒な空だけが見え、続いて上下逆さまの月面が一瞬目に入って――
衝撃。
暗転。
もう一度、はげしい衝撃。
ヒロミは意識を失った。
「急げ、急げ、急げ!」
葡萄染克也率いるゲッキュー三隊は、救助ローバーに積めるだけの救助機材を積みこんで、事故現場へと真っ先に向かっていた。
事故機はM320。アームストロング市に向けて離陸したところ、直後に高度を失い不時着した。
詳細も原因もまだわからない。
本当のところ不時着なのか、墜落なのかもわからない。
現場はレヴァニア市の東に約一五キロのクレーター近く。近いがまだ特に開発の手も及んでいない、月面の原野だ。これが一〇〇キロくらい離れていたら、ローバーではなく着陸船を使っていただろうが、この近距離ならローバーの方がむしろ確実だ。
救助ローバーは月面の荒地を突っ走る。クローラー(キャタピラ)式だが、地形の凹凸でたまに車体がバウンドしていた。さらに月面は大気がないので、遠近感がつかみにくい。地形データをXR(拡張現実)に投影して走らないと、このスピードだとひどい事故を起こしかねなかった。
「フルニエ・クレーターの近くだろう? あそこはレヴァニアより標高が三〇〇メートルくらい高い。普通に行ったらかなり遠回りになるが……」
救助ローバーを運転しながら常盤勇吾が言った。
端末からナビの地形図を広げて見せる。
事故現場まで直線距離なら一五キロちょっとだが、等高の緩やかなルートを通ると実質三〇キロくらいになってしまう。
「近道、あったか?」
克也はたずねた。わざわざ常盤が言うのだから、別のルートがあるのだろう。
「ある。だが通ったことはない。ほぼ直線だが、途中二か所に傾斜のキツい場所があって、この救助ローバーだと簡単には通れない」
「ウインチを使っても?」
「最初の難所はそれでいけるだろうが、二つ目の難所はわからん。どうにかこうにか、ってところだな」
日頃から常盤は、筋トレしながらレヴァニア周辺の地形を頭に叩き込んでいる。こういうときにそれが役に立つ。
「ふーむ……」
「行けるかどうかでいったら、行けるだろう。ただしその難所に手間取って時間がかかるかもしれない。つまり……」
「急がば回れ、かもしれないと……」
「どうする、隊長」
判断は任せる、とばかりに常盤は言った。
まだ事故機の状況はよくわからない。乗客の安否も。不時着直前までは遠隔測定が生きていたが、そこで通信は途絶えている。ほかの無線――通常のS帯通信も、非常用のKu帯通信も検出されていない。アンテナが壊れただけか、機体そのものが粉々になったか。
いくら急いでも無駄かもしれない。逆に、なにか一刻を争うような出来事が起きているかもしれない。
「ちょっと待ってろ。刈安、ドローンは」
後部座席を振り返って、刈安武に声をかける。刈安は、先ほど打ち上げた使い捨てのドローンを操作中だった。そろそろ事故機の上空に届くころだ。
「オッス。ちょうどです。映像来ます」
各員の端末に、使い捨てドローンからの映像が表示される。ただ発射器から打ち出して、上空を通り過ぎる間に現場を撮影するだけのタイプだ。六分の一Gなのでけっこうな滞空時間がある。姿勢制御はリアクション・ホイールだけ。センサも光学と赤外線、簡易なレーダーだけだが、それで十分。安くて確実だ。
映像はまだ事故機を捉えていなかった。上空から捉えた、真っ白な月の原野だけだ。
「何も映ってない」
「いま探してます。……これか? いや、ちがう。これっす」
忙しげに倍率切り替えとスクロールをくりかえし、ドローンの映像が事故機を捉える。
一キロメートル近く地面をえぐり、破片をまき散らし、フルニエ・クレーターの縁で止まったM320機が横たわっている。
「ぱっと見ひどいが、原型はとどめてる」
と、群青薫が言った。まるで感情のない声だった。群青は、任務のとき――特に重大な任務のときは必ずこうなる。
「これなら客席は無事かも……」
と、刈安が言った。さすがにこんな事故ははじめてなのか、声が緊張でうわずっていた。
「M320……というか、あの世代の機体のキャビンは頑丈にできてる。初期のレーザーロケット搭載機で、構造重量に余裕があったんだ。希望は持てるな」
と、常盤が言った。パイロット兼ドライバーだけあって、機種のあれこれには詳しい。
「この煙みたいなのは何でしょう?」
と、真朱孝太郎が言った。彼が一番リラックスした声だったが、たぶん新人すぎて事態の深刻さがイマイチわかっていないのだろう。
だが真朱の指摘は確かに気になる。事故機の後部あたりから、煙と思しきものが大量に舞い上がっている。だが解像度の限界で、それ以上のことは判別できなかった。
「まだわからん。だが……」
使い捨てドローンの映像が途切れる。克也はマップ画面を見て黙り込んだ。
もうすぐ彼らの救助ローバーが、近道か、回り道かのどちらかを選ばなければならない地点に差しかかる。
不確実な近道(最短一〇分、最長で三〇分以上?)と、確実な回り道(三〇分)。
さあ、どうする?
生存者はいる、としよう。
……というか、むしろキャビンの与圧が保たれているなら、乗客は全員無事なはずだ。ならば下手に急ぐことはない……かもしれない。
だがあの煙が機関部か生命維持装置からのものだったら? 重大ななにかが進行中だとしたら?
近道で手間取ったとして、どれほど遅れるだろう? 三〇分以上かもしれない。もしそうなったら、大失態ではすまない。助かる命も助けられないかもしれない。
しかしこの現場は、時間が勝負のように感じる。それこそ一分一秒を争うような。
もちろん増援は向かっている。一隊も出発し、ほかの非番の隊も準備が出来次第、現場に向かう。災害対策の民間防災チーム――消防団みたいなものだ――も、この規模の事故だと出動がかかるだろう。
だが、一番乗りは自分たちだ。
決断しなければならない。
部下たちの視線を感じながら、克也は心配事など何もないように告げた。
「近道を行く。頼むぞ、勇吾」
「了解」
短く応えただけだったが、女房役の常盤のことだ。葡萄染の迷いや不安など全部わかっているだろう。その上でなにも言わないのだ。それがありがたかった。
難所のうち最初の一つは、さしたるトラブルもなく通行できた。
このルートは業者の小型ローバーがたまに通るらしく、あちこちに轍が残っている。
ありがたいことに、きつい傾斜の頂には頑丈な杭が打ち込まれており、通行する者が自由に利用できるようになっていた。その杭にウインチを接続することで、なんとか傾斜を登りきる。
しかしもう一つの難所がきつかった。
誇張ではなく四〇度に近い傾斜がある。救助ローバーのウインチのフックを杭に結び付けたくても、それができない。これくらいの斜面になると、そのフックを運ぶ人間が坂を登れないのだ。
六分の一Gだから簡単そうに思えるが、逆なのだ。体重が軽くて踏ん張りがきかない。斜面の途中でジタバタともがいて、滑り落ちてしまう。ローバーを降りた刈安と真朱が、何度も試したがまるでだめだった。
これで一分のロス。
真朱たちが斜面と格闘している間も、群青が足場になるスパイクを点々と打ちこんで坂を登っている。だがそのあたりは岩が脆くなっているようで、スパイクが思うように突き立たず、進みは遅々としたものだった。あれだと五分以上はかかるだろう。
「もういい。群青が登るのを待て」
斜面を登ろうとしては落ちるのを繰り返している、若手二人に克也が告げる。
「はあ、はあ……。で、ですが……」
「そんな息を荒くして。電力の無駄遣いだ」
二酸化炭素から酸素を作り出すのは電力だ。その意味では、宇宙生活者にとって電力は酸素よりも大事なくらいだった。
「も、もう一度だけ試させて……ください」
と真朱が言った。
「無駄だ。おとなしく待ってろ」
もう二分のロス。
先ほどのドローンがとらえた事故機の姿が脳裏をよぎる。
やはり急がば回れ、だったか? 克也は内心で焦るのを押し殺していた。もう決心したのだから、ここは腹をくくって待つしかない。
真朱と刈安がなにか打ち合わせをしていた。距離に応じた日常会話無線なので、克也にはよく聞こえなかった。だが二人がなにを試みようとしているかは、すぐにわかった。
救助ローバーから持ち出した重りを、刈安が背負う。その刈安が、真朱の肩の上に立つ。姿勢としては肩車というより、組体操かサーカスに近い。地球だったらすぐにバランスを崩してしまうところだが、低重力のおかげでどうにかなっている。
「よし、いくぞ。真朱!」
「オッス! いきます!」
真朱が斜面めがけて駆け出した。肩の上に立つ刈安を落とさないように、最初はゆっくり助走する。
よくわからん、そんな曲芸みたいな真似。
怒鳴ってやめさせようかとも思ったが、放っておいた。
刈安を肩に乗せたまま、真朱は斜面を駆け登る。体が重くなったおかげでむしろ踏ん張りがきく。四歩、五歩、六歩。そこでバランスを崩して転倒する……かのように見えたその時。
「せいや!」
真朱の肩を踏み台にして、刈安がバラストを投げ捨てて跳躍した。低重力のおかげで、その放物線は思いのほか高いものになった。滞空したのはほんの数秒だったが――
「このっ……!」
斜面の三分の二くらいの位置に落ちた刈安の右手が、飛び出した岩をつかんだ。そこから上は傾斜がいくらか緩くなっている。どうにかこうにか……。
「やった!」
刈安が傾斜を登りきった。真朱がウインチのフックを投げて渡す。
杭にウインチを固定し、合図を出す。ウインチを巻きながら、救助ローバーをゆっくり発進させる。群青は作業を中断し座席に戻った。真朱もローバーのサイドステップにつかまる。
常盤は注意深くローバーを登坂させていった。クローラー(キャタピラ)でも空転しそうな場所があったが、レゴリス製のレンガブロックをかまして進んでいく。
ここで三分、いや四分のロス。
だが常盤はあくまで慎重だ。救助ローバーの重量に杭が負けるのを心配しているのだろう。ここで杭が抜けたら元も子もない。
「そのまま……OK、OKです!」
ローバーが斜面を登りきった。上で待っていた刈安が、杭からウインチのフックを解く。
「よし乗れ!」
常盤が告げると救助ローバーは急加速を始めた。刈安が振り落とされそうになるが、さすがにそこまで間抜けではない。
なんとか二つ目の難所も突破した。
残り行程は数分程度だ。結果として近道で一五分以上は短縮できたことになる。
「二人とも、よくやった」
と、克也は言った。ほめるところはほめてやらねば。
「いきなり組体操をはじめて頭がおかしくなったのかと思ったが、よくやった。すごい間抜けな格好だったが、よくやった。あんなことしなくても群青が足場を作ってたんだが、本当に二人ともよくやった」
刈安と真朱は最初、にこにこと笑顔だったが、克也のイヤミを聞いているうちに死んだ魚の目になった。
「そこは素直にねぎらえよ」
と、常盤が苦笑気味に言った。
「ふん。……それより事故機から応答はないか。そろそろ非常用の無線機でも届く範囲だ」
「応答はありません。先ほどから何度か呼びかけてはいるんですが……」
と、群青が答えた。
月面での無線通信は、地球と事情が異なる。電波を反射してくれる電離層がないからだ。レヴァニア市と事故機ほどの近距離でも、衛星通信に頼るしかない場合もある。携帯できる非常用無線機となると、見通し距離で数キロしか使えないことも多い。だからこれまで応答がなかったのも不自然なことではない。……これまでは。
「もうすこしで現場だ」
救助ローバーは緩やかな上り坂を進む。当然、道らしい道などないのでどうしても速度は限られてしまう。地面の凹凸で、大きな車体が宙に浮かぶこともしょっちゅうだ。
「見えました、一〇時の方角!」
真朱が言った。いい目をしている。
手前の低い尾根が邪魔になって見えにくかったが、車体がバウンドするたびにチラチラとなにかの反射光がすこしだけ見える。
あれは――噴煙か?
地表から巻き上げられたレゴリスかもしれない。西に傾く太陽の光を受けて、ガラス質の微粒子が乱反射しているのだ。
「振り落とされるなよ!」
常盤が救助ローバーを加速させ、ハンドルを左に切った。凹凸の多い坂を駆けのぼり、車体がはげしく揺れる。なにかに掴まっていないと本当に振り落とされそうだった。
尾根の低いところを乗り越えると、途端に見通しがよくなって、事故機の全貌があらわになった。
灰色の『平原』に直径一キロ程度のクレーターがあり、そのクレーターの縁によりかかるようにして、事故機が擱座していた。
ドローンのとらえた映像の通り、手前一キロくらいのところに不時着して、そこからこのクレーターのそばまで滑走してきたのだろう。部品や外板がそこかしこに散乱し、まるで血痕のようだった。
そして――噴煙の正体がはっきりした。
エンジンだ。四つあるエンジンのうちの一つ。機体前部がクレーターの縁に突っ込んでいて、それを押すようにエンジンが噴射を続けている。エンジンの噴射炎は無色で見えないが、その噴射が地表を削って噴煙を巻き上げているのだ。
エンジンが、噴射。
いまも。全力で。
「なんてこった……」
克也も様々な事故現場を見てきたが、こんな状況は初めてだった。
なんでエンジンが点いている? 不時着したのに。エンジンの安全装置はどうなっているんだ? それに燃料供給装置は? 爆発はしないのか? どうやって近づく? どうしてこんな……どうして? どうして?
言葉を失っていたのは五秒か一〇秒か。自分を取り戻した克也は、いまだに呆然としている常盤に指示を出した。
「常盤。これ以上接近するな。噴射炎を浴びたらバーベキューだからな。手頃な遮蔽物を探してくれ」
「りょ、了解」
事故機までまだ五〇〇メートル以上離れているが、それでも危険だ。ここは真空なので噴射ガスがほとんど減衰しない。無色透明だが、そこにあるはずの噴射炎を浴びたら、こんな救助ローバーなど一瞬で焼かれ、吹き飛ばされてしまうだろう。
「事故機から応答は」
「ありません」
「くそっ、呼びかけ続けろ」
克也は本部と交信した。
「こちらチの四。三隊の葡萄染です。本部、聞こえますか」
『チの四』というのはこの救助ローバーの車輌番号だ。本部はこちらをモニターしているから、すでに状況は把握しているだろう。こちらと同程度には、だが。
「こちら本部、錫だ。感度良好」
本部長の錫源十郎が応えた。ゲッキューの総責任者だ。きのうは休みだったが、今朝は早くからレヴァニアの本部に詰めていた。
「ヤバそうだな、エビ」
「ええ。見ての通りの状況です。乗客は無事の可能性がありますが、事故機が……ひどく不安定です。まず接近を試みて、エンジンを止める努力をしてみますが、うまくいくかどうか。こちとらレスキュー屋で、エンジン技師じゃないんで」
「わかってる。いま、メーカーの技術者や整備員を呼び出している。古い機体だし、まだ捕まらないが……」
それに整備員ではお手上げかもしれないし、技術者は地球だろう。すぐに対策を教えてもらえるのは望み薄だった。
「燃料が切れるのを、待った方がいいかもしれん。せいぜい四、五〇分くらいだろう」
「そうなんですが……燃料が減るってことは、自重も減るってことです。いまは地面にめりこんでるが、一〇分後はわからない。事故機が暴れて再墜落したら、それこそ目も当てられないことになる」
下手をしたらあの事故機は、ふたたび宙に舞い上がって地面に激突しかねない。その前になんとかしなければ。
「じゃあどうする?」
「やれることをやってみます、としか」
「……わかった。そちらの判断に任せる」
これは錫が言外に『なにかあった時は本部長である自分が責任をとる』と言っているのだろう。だが『なにか』なんて起きて欲しくないし、そもそも責任問題なんぞいまの自分には興味ない。
「増援の到着は――およそ三〇分後だ。無茶はするなよ。死んだら……」
「わかってます。死んだら殺す、でしょう」
自分が新人のころ、錫にさんざん言われた言葉だ。
「じゃあ忙しくなるんで、交信終了」
交信を切って、事故機の様子を見る。
ローバーはいま、車体がギリギリ隠れるくらいの角礫岩の陰にいる。まだ事故機は遠くにあって、噴煙を巻き上げ続けている。だが炎は見えない。水素エンジンの炎は、真空ではまったく無色なのだ。ああして地表を削っていなければ、エンジンが作動していることにすら気づかなかったかもしれない。
「さて……」
どうするか、方針を決めなければ。
「群青。事故機から応答は――いや、あったら言うよな」
「ええ。まあ……」
「事故機のLANにアクセスできるか?」
群青はオービタル・テクニシャン(軌道技師)だ。ローカルネットからエンジンの制御コンピュータにアクセスできれば、噴射を止めることができるかもしれない。
「試してますが、さすがに遠すぎます。機体のアンテナも壊れてるみたいなんで、端末の距離まで近づかないと」
いま群青の端末には山ほどの情報が投影されていることだろう。それらの情報の一つ、電波環境のリストを群青は共有表示した。
「刈安。乗員乗客のバイタルは?」
「ええと……バイタルも、この距離では拾えないっす」
メディックの刈安が報告する。
宇宙生活者は端末から、常にバイタル・サイン――体温や脈拍や血中酸素濃度などの情報を出している。だが端末の電波なので、距離もわずかしか届かない(これが地球だったら違うのだが。地球の機器は宇宙の機器よりも五倍は性能がいい)。
「やっぱり近づくしかねえな。とはいえ……」
もし事故機の姿勢が変わって、エンジンの噴射炎が運悪くこちらに襲いかかったら、一巻の終わりだ。このローバーも宇宙服も数千度の熱には耐えられない。
あの機に生存者がいれば、もちろん助けたい。だが四人の部下の命も、危険にはさらせない。
「勇吾。クレーターの縁に隠れながら近づけるか?」
常盤に相談すると、彼も同じことを考えていたようで、うなずいた。
「いま地形図を見てたが……たぶん可能だ。地形を遮蔽物にすれば、このローバーでも二、三〇メートルくらいまでは近づけるかもしれない」
つまりこういうことだ。
事故機はクレーターの外側に突っ込んでいて、エンジンの噴射も外側を向いている。だから克也たちの救助ローバーは、クレーターの内側から事故機に近づく。何かあって事故機が暴れたり爆発しても、クレーターの陰にいれば被害は最小限ですむ。
「よし、やってくれ。ただし危険ならすぐにやめる」
「了解」
常盤が救助ローバーをクレーターの方へと向ける。
「あの。『やめる』って、どういうことですか?」
不意に真朱がたずねた。
「言葉通りだ。別の方法を考える」
「…………」
「なんだ、不服そうだな」
「い、いえ」
「おまえは要救(要救助者)に呼びかけろ。電波がつながれば、だれかが答えるかもしれん」
「……了解です」
ばつが悪そうに、真朱は作業にとりかかった。おおかた『多少の危険はやむを得ない』だの何だの言いたかったのだろう。それをわざわざ口に出すほどの馬鹿ではないようだが、態度には出てしまっている。
刈安や群青も、真朱の様子に気付いてひそかに様子をうかがっていたようだが、そそくさと自分の仕事を再開した。
一方、常盤の方は運転に忙しくて、それどころではないようだった。
クレーターの縁といっても、小高い丘のようなサイズだ。その縁に、より小さなクレーターが開いていたりするので地形は複雑きわまりない。XR(拡張現実)の助けがなければ、まともに走ることさえできないだろう。
一歩間違えば起伏に足をとられてローバーごと横転しかねないし、傾斜がきつすぎて登れない斜面も多い。
それでもどうにかクレーターの内側に入り込んで、進んでいく。
クレーター内にあたる右側の景色は真っ暗だった。クレーターの底まで急な傾斜が数百メートルも続いているのだ。この時期は太陽の光も当たらない。落ちた時のことは想像したくもなかった。
「来た! 微弱なバイタルを検出しました」
一五〇メートル程度まで接近したあたりで、メディックの刈安が報告した。
「反応多数! まだ読めないけど、一人、二人……あー、増えてる、増えてるっす! 一〇人以上」
「生きてるか」
「ええ、一〇名くらいは確実に。いえ……これはたぶん全員っす! この様子だと客席はまだ無事です」
刈安の端末の情報を共有すると、そこには乗員乗客のバイタル・サインがリストアップされていた。最初は数名分だったが、ほんの数秒のうちに激増して、おそらく全員分のバイタルがスクロールして表示される。
脈拍、呼吸数、血中酸素、心電図……。どれも興奮状態、極度の緊張状態にある。
「よし。人数分、確認を取れよ」
「おっす!」
いい知らせ。すごくいい知らせだ。
同時に全員の命が、自分の肩に乗せられたような気分を克也は味わっていた。
「事故機のLANをみつけました」
続いて群青が報告した。
「MDO(月面開発機構)のアクセス権限を使って接続します。いいですね?」
「おう、使え」
鴻救命はこうした非常時に、事故を起こした機体や施設のネットワークにアクセスする権限をMDOから貸与されている。ただしその権限を使うと、後で報告書やら機密保持証書やらを作成して提出しなければならないので、えらく面倒だ。
「使用します。入りましたが、うーん……。これはちょっと……。機体機材の半分近くは死んでます」
群青の端末から情報が共有される。
機内のネットワークに入ることはできたものの、機材や経路の多くが死んでいる。有線も無線もだ。一見、生きているように見えて故障している機材もありそうだった。
「エンジンを切れ。とにかくエンジンだ。燃料系統でも構わん」
「エンジンは切れてます」
「なに?」
「LAN上ではエンジンはすべて停止しています。というか……アクセスもできません。一番から四番まで、全部シャットダウンしてます」
エンジンが止まった?
無駄だとわかってはいたが、克也は救助ローバーから身を乗り出してしまった。いまは事故機がクレーターの縁に隠れて見えない。真空の月面では音もしないので、エンジンがどうなったのか、すぐには確認できなかった。
「どうする?」
常盤が言った。
「そのまま。そのまま近づいてくれ」
「わかった」
どちらにしても事故機には用があるのだ。ただエンジンの噴射が止まったのなら、これ以上いいニュースはない。ゆっくりと救助作業に集中できる。
そこで刈安が恐る恐る言った。
「あの。たぶんエンジンは止まってないと思うっす」
「なぜそう思う?」
「乗客のバイタルを見ていて……みんなひどく怯えています。かわいそうに」
「そりゃあ、そうだろう」
乗っている宇宙船が不時着したのだから、当然だ。
「いえ、想像してみてください。……不時着して、エンジンが噴射してたけど、止まったなら。機体は無事。しーん……。とりあえず助かった、と思うでしょう? まだ危険はあるけど、ひと段落っす」
「なるほど。それにしちゃ、バイタルが乱れていると」
「さっきから、ずっとパニック寸前っす。まだジェットコースターに乗ってるみたいな状態で……これはエンジンが動いてるってことじゃないかと」
「ふむ……。機体の温度はどうだ? 群青、わかるか」
エンジンが止まれば、機体の温度は下がるはずだ。
「機器が故障だらけなんで信用できませんが……推進機側の機体温度は……非噴射のユニットが平均で二〇度くらいです。さっきから微増してますが、すくなくとも下がってはいません」
「うーん……」
やはり楽観はできそうにないか。使い捨てドローンはあと二個ある。ここはケチらず使ってしまおう。
葡萄染は自分で荷台に身を乗り出して、ドローン弾と多目的ランチャーの支度をした。さっきは刈安がドローンを射出したが、いまは部下たちがみんな忙しい。
ランチャーは筒状の大きな鉄砲のような形をしている。ドローンだけでなく発煙弾や照明弾なども発射できる便利な道具だ。
葡萄染はこなれた手付きでドローン弾を装填し、上空に狙いを定める。さっき刈安が射った時は距離が遠かったので、弾道計算アプリを使って精密な照準をしなければならなかったが、いまは近いので適当でいい。
「ドローンを射つ。ちょっとだけローバーを止めてくれ」
「おう」
常盤がすぐに応じ、救助ローバーが停止する。
こんなものか。
ほとんど垂直に発射する。大気があればポンと音がしただろう。火薬で射ち出された手のひらサイズのドローンが、すぐに起動し姿勢制御に入る(意外なことだが、真空中でも火薬は使える)。
「もういいぞ」
ローバーがまた走り出す。たちまち上下左右のひどい揺れが戻って来る。
ドローンのセンサとリンクする。さて事故機はどこに……。
いや、まともに操作する必要もなかった。すぐに見つかる。エンジンは現在も絶賛・大噴射中だ。
止まっていない。
「くそっ」
ドローンの映像を見て、三隊の全員が失望のため息をついた。
「シャットダウンなんて大ウソじゃねえか」
「機械ですから。まだ何か手はあるかもしれません。いろいろ試してみます」
群青が言って、事故機の機体システムの解析を続けた。
克也はランチャーを荷台に放り、ドローンの映像を切った。嘆いていても仕方がない。いまは情報集めだ。
「乗員乗客と連絡は? もう端末の電波も届くはずだ」
「それが……なかなか……」
真朱が自分の端末で悪戦苦闘している。
「報告は明瞭にしろ」
「すみません。なぜか誰とも通話ができないんです。たぶん離陸時の機内モードに固定されたまま、緊急時の何か……エラー的な? なんかそういう不具合で」
「全然わからん」
「自分もわかりません。ネットワーク技術者じゃありませんから。とにかく普通の通話は無理みたいなんで、ダメもとでいま……リングに」
「リング?」
リング。最近流行りのSNSだ。短い動画をコメント付きでアップできる。そんなSNSはこれまで山ほどあっただろうに、なぜかいまはこれが流行している。『レトロでカッコいい』のだそうだ。
「知りませんか? 若い人はみんな使ってますよ」
なぜか克也を憐れむように、真朱は言った。
「いや知ってるぞ。アカウントはないけど。知ってることは、知ってる」
妙にムキになって克也は言った。
「修学旅行生が乗っているらしいと聞いて……もしかしたら、リングをだれかやってるかもしれないと」
「通話はダメでも、SNSはつながるってのか?」
そんなアホな。いや、そういえば大昔、東日本大震災があったとき、電話はダウンしたが当時のSNSは生きていたと聞いたことがある。それで家族の安否を確認したとか。
だが半世紀以上前の、しかも地球の通信環境と、ここでは話が全然ちがうだろう。だいたいこの非常時に――
「あ、つながりました」
「なに?」
「画面、送ります」
半信半疑の葡萄染に、真朱のアプリの画面が共有される。彼の個人的なアカウントらしい。アカウント名は『masoso』とある(ややこしい!)。フォロワー数はわずか二名。
連絡がとれた相手は『HIROMIMI』といった。アップした動画の履歴とタイトルから修学旅行生だとすぐわかる。たぶん、女の子だろう。自分のコメント欄で助けを求めていたようだ。
〈masoso :(株)鴻救命の真朱(まそほ、と読みます)です。HIROMIMIさん、返事できますか?〉
〈HIROMIMI :はい〉
〈HIROMIMI :助けてください〉
「……と、言ってますが」
いささか間の抜けた声で真朱が言う。ふざけているわけではないのだろうが、なぜか妙な拍子になることが多い奴だ。
「もちろん助ける。まず機内の状況を知りたい。大人に代わってもらえ」
「はい」
すぐに送信。
〈masoso :安心して。必ず助けます〉
〈masoso :先生に代わってもらえますか? ほかの大人でもかまいません〉
〈HIROMIMI :すみません 端末が共有できないみたいで〉
〈HIROMIMI :他の人に代われません〉
『端末』といっても体内に『端末機能』を置いてあるので、昔のスマホのように他人に貸すことができないのだ。
「共有できないのか」
「もともと繋がってるだけでも奇跡的なのかも」
つまり衛星回線は生きていることになるが、群青のアクセスしているLAN内では死んでいる扱いだった。原因はまったくわからない。
いまはどうやらこの『HIROMIMI』さんに頼るしかなさそうだ。
「仕方ない、このままいくぞ。まず怪我人の有無だ」
バイタル・サインのチェックは刈安がしているが、この状況ではどこまで信用できるかわからない。直接確認しておきたかった。
〈masoso :怪我人はいますか?〉
〈HIROMIMI :待ってください〉
〈HIROMIMI :います >怪我人〉
〈HIROMIMI :アテンダントさんがぐったりしています。それから引率のカタヒラ先生が右腕を折ったみたいです〉
〈HIROMIMI :不時着のとき放り出されたのかも〉
〈masoso :アテンダントに目立った傷はありますか?〉
〈HIROMIMI :わかりません〉
「見てるか、刈安」
バイタル・サインの確認をしていた刈安に声をかけると、共有画面に二名のバイタルが表示される。
「はい。ええと……カタヒラ先生ってのはこれかな? 骨折ってのは、たぶん本当です。アテンダントの……オオタって人も確認したっす。意識レベルはMCSで一二。たぶん脳震盪かも……大きな出血はないです」
無線の応答がなかった理由がこれでわかった。アテンダントが気絶していたからだ。
こうした定期便では、パイロットの存在は過去のものになっている。三〇名規模の機体ともなると、機の面倒を見るフライト・アテンダントはわずか一名だ。それが行動不能になると、機体システムはもちろん通信機すら扱える者がいなくなってしまう。
「命に別状はないんだな?」
「いちおう、いまのところは」
「応急処置をしてもらえ。高校生でもできる範囲で」
「うす。真朱、指示のテキスト送るからそのヒロミミって人に見てもらってくれ」
「了解です」
真朱が応じて、刈安からのテキストを転送する。同時にローバーを運転する常盤が言った。
「もうすぐ着くぞ! 事故機のすぐそばだ」
薄暗い機内でエンジンの轟音が響いている。ほとんどの乗客はパニック寸前で、男の子も半分くらいは泣いている。
「どうなってるんだよ!?」
「もういやだ、うちに帰りたい」
「お母さん、お母さん……!」
そんなふうに叫ぶ子たちもいたけど、大抵の子はうずくまって震えるばかりだった。
一方、ヒロミは妙に冷静だった。
不時着時に鞄か何かが飛んできて頭に当たって、短い時間、失神していたせいだろう。自分だけテンションが低いというか――目を覚ましてから改めてパニックになるのも変だったのだ。そのせいで、おろおろ周囲を見回したり、SNSに助けを求めたりするくらいの余裕ができてしまった。
二人の怪我人――引率のカタヒラ先生とアテンダントのオオタさんの様子をみて、指示を待っている間に、ヒロミはみんなをはげまそうとした。
「みんな! 救助隊がそこまで来てるから、心配しないで!」
そう叫んでも、あいにく聞く耳を持ってくれるのは数名くらいだった。
もともとヒロミは内気な質で、声も小さい。その彼女が精一杯に声を張り上げても、機体から伝わってくるエンジン音の方がはるかに大きかった。
「大丈夫だよ。絶対、大丈夫だから!」
そばで怯えている仲良しのミツキを撫でてあげる。ミツキは目を閉じたまま、ヒロミの手をぎゅっと握りしめた。
「こわいよ……」
「あたしもだよ。でも大丈夫……!」
ミツキを励ましながら、ヒロミは動画が撮れるかどうか試していた。自分の「端末」はコンタクト型ではなくメガネ型だ。すこし古い機種だが、おかげで内蔵カメラが大型で解像度もほんのちょっと高い。窓から見える景色などをSNS――リングにアップすれば何かの役に立つかもしれない。
窓から外を見るには、ミツキの上半身を乗り越えなければならなかった。少し無理のある姿勢で窓に張り付く。
灰色の地面と真っ黒な空しか見えなかった。ほかは様々な部品やら破片やらが散らばっている。よく分からないが、念のためにこれもクローズアップして撮っておく。それから機内の様子もできるだけ収録してやる。
動画をリングにあげてみる。少しラグが発生したが、問題なく上がっているようだった。コメント欄に新メッセージ。横浜のおばあちゃんからだ。
〈osinko :ちょっとヒロちゃん、大丈夫?〉
おばあちゃんの名前は新子といった。「古いけど新子よ」というギャグをヒロミはこれまで三〇回は聞いている。
SNSで怯えた様子を見せるのも変なので、ヒロミは冷静に返事をした。
〈HIROMIMI :大丈夫じゃないけど、まだ生きてるよ〉
〈osinko :本当なの? ネタ動画とかじゃなくて?〉
こっちは必死なのに、三八万キロの彼方からこのコメント。祖母の間抜けな質問のせいで、自分が死ぬかもしれないことの現実味がどこか薄れて感じられてしまう。
〈HIROMIMI :本当だよ/いま忙しい〉
〈osinko :大変/いまお母さん呼んでるから〉
母はたぶんいま帰宅中だ。瀬戸線の電車の中だろう。
〈HIROMIMI :いいって/いまマジで忙しいの〉
実際ヒロミは忙しかった。鴻救命のマソソさん(だったか?)から応急手当の指示が来たのだ。救急セットからあて木を探して腕に巻き付けるだとか、頭を高い位置にして寝かせだとか――それほど難しいことは書いてなかったが、怪我の手当てなんて初めての経験なのだ。
〈osinko :ヒロちゃん/なにか欲しいものはある?〉
〈HIROMIMI :忙しい〉
救急セットは出口ドアのそばに取り付けてあったのですぐ見つかった。落ち着きを取り戻していた男子の一人に手伝ってもらって、カタヒラ先生の腕にあて木を付ける。あて木は樹脂製で自由に折り曲げられるようにできていた。
〈osinko :ヒロちゃん/手伝えることはない?〉
〈HIROMIMI :だから忙しいんだってば! この〉
わからずや、と入力する前に、祖母が取り乱しているのだと理解する。動画を見たなら事態の深刻さはわかるだろう。おじいちゃんと一緒に、あの古いマンションの、土産物だらけのリビングで心配顔をしている姿が目に浮かぶ。
〈HIROMIMI :ごめんね/絶対大丈夫だから〉
〈HIROMIMI :あとで連絡するね/ありがとう〉
『ありがとう』は本心からだった。自分が思ったより苛立っていることに、おばあちゃんがはからずも気付かせてくれた。
三回、深呼吸をする。
そのおり、マソソさんからさらに連絡が来た。非常用宇宙服の準備をしてほしいと言っている。まずはみんなを落ち着かせて、ゆっくり、確実に。座席の下に必ず一着用意してあるので、安心して欲しい、と。
〈masoso :非常用宇宙服はまだ着ないでください。あとハッチにはなるべく近づかないでください〉
〈HIROMIMI :はい。ハッチのそばに通信機もあったんですが/使いますか?〉
ヒロミは非常用の通信機をとりあえず持ってきていた。牛乳パックくらいの大きさで、頑丈そうにできている。電源ボタンはなんとなくわかるが、ほかのスイッチ類はさっぱり意味がわからなかった。時間をかけてマニュアルをしっかり読めばどうにかなりそうだったが、その時間が彼女にはない。
〈masoso :通信機と端末のリンクはできますか?〉
〈HIROMIMI :できません/わかりません〉
端末とほかの機器との接続がうまくいかない。先生やほかの友達と共有もできないし。
〈masoso :では今は触らなくていいです〉
〈HIROMIMI :はい。あと動画を投稿したけど見れましたか?〉
〈masoso :いま確認してます。とても助かります。上司が絶賛してます〉
ああ、このマソソさんは責任者じゃないのか。ヒロミは何の根拠もなくマソソ氏の姿を、四〇歳くらいのごっつい大男の隊長で想像していたので、ほんのわずかに拍子抜けした。
〈masoso :必ず助けます。がんばってください〉
〈HIROMIMI :はい〉
それほど事態は好転しているとは思わなかったけど、やはり救助隊員の『必ず助けます』というのは本当に励まされる。これが音声の通話だったらもっといいのに。なぜリングしか使えないのやら。
直後にそのリングのコメントへ書きこみがあった。複数。知らない人たちだ。
〈koryoryo :がんばれ。応援してます〉
〈ingalls1938 :(翻訳)みなさんどうかご無事で〉
赤の他人でも励ましの言葉はありがたい。
だがメッセージはそれだけではなかった。
〈sincostan :(翻訳)つーか早くエンジンを切れよ。救助隊は何やってるんだ?〉
〈neroneru :ヒロミミさんは(差別語のため削除)なの?〉
〈XXX pinker XXX : (翻訳)ヒロミミかわいい。顔見せて〉
〈sincostan :(翻訳)エンジンを切れ。マジで危ない〉
〈ahendaiseido :HIROMIMIの(猥語のため削除)を(猥語のため削除)したい〉
〈koryoryo :ここ救助隊とのやり取りに使ってるから、書きこみ控えた方がいいかも〉
〈123TS500i :がんばれ! ヒロミミちゃん〉
書きこみはみるみる増えていく。
マソソからのメッセージはあっという間に見えなくなってしまった。スクロールしてスレッドの頭を出そうとしてみても、それより早くメッセージが押し寄せてくる。いたずら半分のものも多い。減るどころか増える一方だ。
「どうするの、これ……」
さすがに頭痛がしてきた。寝不足のせいだけではないだろう。
その時、機体が一度、大きく傾いた。
葡萄染克也と真朱はちょうど戦争映画の偵察兵のように身を伏せ、クレーターの縁の外側にめりこんだM320機の様子をうかがっていた。常盤や群青、刈安は救助ローバーに残って、それぞれの作業にいそしんでいる。
距離は五〇メートルくらいか。事故機のエンジンはまだ噴射中だ。見えない噴炎は二人とは逆方向に向かって伸びているので今のところ危険はなかったが、何かが起きてこちらに向かってきたら、消し炭にされてしまうだろう。
「あの噴射でどうして機体が動かないんでしょうか? こちらに突っ込んできて、空中に飛び上がってもおかしくないのに」
真朱が言った。
「知らねえよ。くぼんだ地形にたまたまハマってるとしか――」
そう克也が言いかけたところで、まさしくそのM320機が動いた。一瞬、こちらに機体が突進してくるのを覚悟したが、前に数メートル進んだところで地形にめり込んで停止した。エンジンは相変わらず作動中だ。
克也は真朱を庇うようにして、とっさに地形に身を隠していたが、機体がひとまず止まったと判断すると身を起こした。
「――心配した通りだ。自重が軽くなってきて、機体が滑り出してる」
「なら、急がないと……!」
「急ぐ? エンジンを全力で噴射してる宇宙船を、急いで何をどうするってんだ」
「非常用宇宙服はあるんだから、一刻も早く脱出させないと」
真朱は足元に積んである救助機材――ワイヤーとアンカー・パイルを掴んだ。このワイヤーで事故機を地面に固定する腹づもりだったが、三隊の持ってきたワイヤーの量だけでは正直心許なかった。それに――
「だめだ」
「なぜです?」
「安全が確保できないからだ」
いま事故機は、本当に、いつ動き出してもおかしくない。救助に近づけば、動き出した事故機に巻き込まれて死人が出る危険が大きい。
「だったら俺が行きますよ……!」
真朱の胸ぐらをぐいとつかむと、克也はヘルメットとヘルメットがぶつかり合うくらいに顔を近づけた。
「覚えとけ、新人」
「う……」
「身の安全が確保されてねぇ現場には、何があっても入るな。たとえ要救がいてもだ。レスキューが要救になっちまうのが一番の恥だ。いいな?」
「…………」
「いいな!?」
「……はい」
やっと応えたが、納得した様子にはほど遠い、不本意そうな返事だった。
それにしてもこの真朱孝太郎。
普段は従順なのに、非常時になると態度も口調も強くなる。反抗的、というほどではないのだが、独善的で冒険的だ。二十歳の若者なんてこんなものだといってしまえばそれまでなのだが、どこか若さだけでは説明できない危うさを感じる。
生き急いでる、とでも言うのか。
いや、いい。いまはこちらも余裕がない。新人の教育は後だ。
「常盤。これでもう一度機体が飛び上がって落ちたりしたら……キャビンは耐えられると思うか?」
後ろの救助ローバーで作業中の常盤に意見を求める。下手に救出作業をするよりも、乗客にシートベルトをしっかり締めさせてもう一度衝撃に備えた方がいい――というか、まだマシかもしれない。
「……普通、こういう構造物は一度の事故にだけ耐えるようにできている。あまり期待はできないな。それに『もう一度』だけなんて、誰が保証してくれる?」
それこそ二回、三回と飛び上がって地面に叩きつけられることも、充分ありうる。
「だよな……」
「そのキャビンですが――エアロックがまずいです」
続けて機体システムと格闘中の群青が言った。
「まずいってのは?」
「エアロックは非常用も含めて三基あるんですが、使えるのは右舷の一基だけです。その右舷のエアロックも減圧中で、現在〇・三気圧。あと数分でほとんど〇気圧になるでしょう」
「そうか。わかった」
エアロックは『一気圧の機内』と『〇気圧(真空)の機外』とをつなぐ出入り口だ。救助隊員が一気圧の機内に入るには、エアロックがきちんと機能しなければならない。それが故障したということは、与圧したまま機内に入る方法がないということだ。
つまり乗客は全員、非常用宇宙服を自力で着けなければならない。救助隊員の助けなしで。
宇宙に出る前、研修は受けているはずだったが、非常用宇宙服の着用訓練なんて形ばかりのものになっている。着用そのものは決して難しい作業ではないが、もし万一ミスがあったら、それが直接死につながってしまう。だが、いざとなったらそのリスクも覚悟して、要救助者を真空暴露するしかない。
なにか冷ややかなものが、背中を這い上がってくる感覚。
救難をやっていると必ず出会う瞬間がある。要救助者を前に何もできず、無力さを噛み締めるときだ。――それがまたいま、近づいている気がした。あの感覚を、葡萄染はこれまで何度も味わってきた。
いや。まだだ。まだ早い。
「群青……。エンジンを止められる見込みはあるか?」
いま群青は不時着機のシステムに接続して、試行錯誤を繰り返している。本部のネットワークともつないでそちらの技術者も総出で対応しているが、まだまともな状況すら把握できていない。また物理的にエンジンを破壊する手段も検討されていた(少量の指向性爆薬なら救助ローバーに積んである)が、これも燃料系統に引火する危険が無視できず、すぐには実施できなかった。
「いろいろ試してますが、やはりエンジンにはアクセスできません。でも、もしかしたら、ですが……」
群青が無線の向こうで口ごもった。自分でも考えに確信が持てないらしい。
「なんだ、言ってくれ」
「事故機は古い独立連動システムで稼働してるんです。主系統から切り離されても、エンジンは自己判断で機体を守ろうとします。全力で噴射をしているのには訳があるのかもしれません」
「つまり?」
「ここからは自分の推測ですが――なにか間違った情報から、三番エンジンは『機体がまだ墜落している』と誤認しているのかもしれません。そして墜落を避けるために……」
「噴射してるってわけか」
そんな馬鹿な、と切り捨てることはできなかった。目の前の事故機そのものがまさしく『そんな馬鹿な』状況なのだ。
「だとしたら、考えられるのは……?」
「なにかのセンサが機内LANから切り離されて狂ってるのかも。INS(慣性航法装置)やSPS(衛星航法装置)、ムーンDME(月面距離測定装置)などはこちらからも確認できるので除外して……一番怪しいのは高度計ですかね」
「高度計?」
「高度計の情報が何らかの故障で『墜落中』を示してるせいだとしたら……説明は付くかもしれません」
高度計の仕組みは一〇〇年前から変わらない。地上に電波やレーザーを照射して、跳ね返ってくるまでの時間を測る。だから高度計のセンサは機体の表面に露出している。
「M320機の高度計センサは六カ所だ」
常盤が会話に割って入った。同時に機体の概要図が端末に共有して表示される。
「機体中央部を取り囲むように四つ。これは垂直離発着の時に使う。残りは巡航時に使う二つでここと――ここだ。正・副の二系統で離して配置してある」
手書きの赤丸でセンサの位置を示す。機体はいま斜めに横たわっていて、センサのうち四つは地面の下に埋もれていた。露出しているセンサは二つ。一つは無傷で空を向いていて、もう一つは半ば潰れて地面を向いている。
「怪しいとしたら、あれか」
壊れかけ、砂塵に塗れたレーザー高度計のセンサ。その周囲もひどく損傷しているし、噴射を続けるいまいましい三番エンジンにもいちばん近い。だからといって、あのセンサが原因だなんてことがありうるのだろうか?
「あのセンサだけが原因ではないでしょうけど、理由の一つかもしれません」
「……真朱、ランチャーとLSAよこせ」
「LSA……遮光弾ですか? ……はい」
LSA(Light-Shielding-Agent)――光を遮る薬剤をまき散らす弾だ。太陽電池の発電を一時的に止めたり、窓などの遮光に使う。克也はその遮光弾をランチャーに装填して構えた。狙うのはあのセンサの周辺だ。
「撃つんですか、隊長?」
群青が心配そうな声色で言った。
「いまより悪くはならねえだろ」
ほとんどヤケクソだが、なにもしないでいるよりはマシだ。
発射。
遮光弾が事故機のセンサ周りに当たって、青黒い薬剤を撒き散らした。同心円状の霧状になってあたりに広がっていく。大気がないため風に流されたりはしない。
なにも変化は起きない。
そう思った直後、それまで盛大に噴射していたエンジンの炎が一回り小さく、弱くなった。いや、二回りくらいは弱まっただろうか。一瞬、爆発でも起きるのではないかと覚悟したが、そうではなかった。
間違いなく、エンジンの出力が弱まったのだ。
「信じられん」
常盤が唖然として言った。他の部下も同じ様子で、目をぱちくりさせていた。
「高度計の拾う光が……えーと? 吸収されて? 高度が高くなったと誤解……するのか? え、でもそんなことが……」
群青が混乱した様子でつぶやく。かたや刈安は喜色満面で、
「すげえ。奇跡っすよ!」
と脳天気に叫んだ。
一方、克也は事態をどう把握すべきか迷っていた。
理屈はどうあれ、エンジンの出力が下がったのはいい。だがそれでもまだ六〇パーセントから七〇パーセントくらいだ。危険な推力なのは変わらないし、時間が経てば事故機はまた動き出すだろう。それにいきなり、また全力噴射に戻ることだってありうる。
だがここで何もしなければ、要救助者は――
「いましか……ない」
その時、真朱孝太郎がひとことつぶやくと駆け出した。
両手には持てるだけの機材を抱え込んで、クレーターの縁の坂道を事故機目がけてまっしぐらに――
「おい! やめ……」
真朱は応えも振り返りもしなかった。事故機のことしか考えていない。
あの時と同じだ。庇の際で行動不能になったローバーから、強引に乗員を助け出そうとしたあの時と。
いますぐ走れば追いつける。
押さえつけて、怒鳴りつけて、やめさせることはできる。
迷ったのは三秒くらいだろうか。だがそのわずかな間に、真朱は行ってしまった。
「くそっ!」
克也は残ったワイヤー・リールと機材をかき集めて、走り出した。常盤がたずねる。
「どうした? なにが起きた?」
「どうもこうも、あのクソバカが……!」
克也は会話が録音されていることを思い出し、それ以上罵声をあげるのをやめた。
「あー……事故機のワイヤー固定を試みる! 常盤と群青、刈安はそのまま救助ローバーで待機せよ」
「ワイヤー固定? 二人だけで?」
「とにかく待機だ!」
こんな一か八かの危険に、ほかの隊員を引き込むわけにはいかない。
ちらりと、地球に残してきた妻と娘の姿が脳裏をよぎった。だが次の瞬間、その甘美な姿は消え失せて、月の斜面を走る真朱の背中だけが視界を占める。この若者の存在が、自分の中のなにかを変えてしまうのではないか――そんな予感を覚えたが、葡萄染克也はすぐにその思いを振り払った。
馬鹿馬鹿しい。なにが変わるというのか。
息が上がる。
視界が狭まる。
胸の鼓動が耳の後ろまで響いてくる。
真朱孝太郎には、自分のやっていることの意味をじっくり考えるゆとりなどまるでなかった。ただ頭にあるのは、『いま動かなければ要救助者を助けることができない』、それだけだ。自分一人が頑張っただけでは役に立たないことも、ほかの隊員を結果的に巻き込むことも、極論すれば二の次だった。
とにかく動かなければ――
孝太郎はまだろくに月面を歩き慣れていないことを思い出す。足を踏み出すたびに、思ったよりも速度が出てしまう。一歩一歩が大きく、高くなってしまう。
このままでは事故機のそばを通り過ぎて、エンジンの噴射炎に飛び込んでしまうのでは。
ぞっとする考えが浮かんだが、それより前に転倒した。かなりの勢いでヘルメットのバイザーを地面の岩に打ち付けてしまったが、さすがにバイザーはそれくらいのことで割れたりはしない。しかし上半身が砂塵まみれになった。帯電状態のせいか、この辺りのレゴリスは粘り気が強く、体にまとわりつく。
「う……」
身を起こすと事故機はすぐ目前にあった。
思ったよりデカい。長さだけでも救助ローバーの五倍はある。
機体の半分はひしゃげて、レゴリス混じりの部品が醜く露出している。アクセスパネルや姿勢制御ノズル、パイプやケーブル、その他の名前もわからない部品。
そして噴射を続けるエンジン。灼熱のガスが間近にあるはずだったが、まるで見えない。熱さも音も、まったくしない。そこに飛び込んだら即死するのに、その実感がまるで湧いてこない。どこか現実離れした光景だった。
円筒状の与圧ブロックは無事だった。
いちばん近くの窓に、人の姿が見える。だが窓はレゴリスにまみれていて輪郭しかわからなかった。小柄だ。女の子だろうか? いまは手を振る余裕さえない。
孝太郎はアンカー・パイルを手に取り、地面に向かってハンマーで打ち込みにかかった。金属の輪が一体になった長さ一メートルの杭だ。これで事故機と地面をワイヤーで固定する。
三隊が持っているアンカー・パイルは一〇本だった。
一〇本――このサイズの宇宙船をつなぐには頼りない数だ。一本あたりの耐荷重が理想的だとおよそ六トン。一〇本で六〇トン(理屈では。実際にはもっと低い)。対する事故機がおそらく六〇〜七〇トン。エンジン一基の推力に耐えることはできるかもしれない。
この辺りのレゴリスの層は数センチ程度の厚みだ。その下は斜長石で覆われている。アンカー・パイルの尻を力一杯ハンマーで何度も叩くと、八分の一くらいが地面に食い込んだ。
「よ、よし……」
打ち付けるたびに体が浮かび上がるが、構っていられない。不恰好な姿勢でハンマーを振るう。だが半分くらいまでいったところで、いくらハンマーで叩いてもパイルが地面に埋まらなくなってしまった。
「あ、あれ?」
場所が悪いのだろうか? なにか硬い岩に当たったのか? 打ち込む場所を変えようとしてアンカー・パイルを抜こうとしても、今度は抜くこともできない。中途半端に地面にめり込んだままで、押すことも引くこともできなくなってしまった。
「芯棒が出て、パイルが膨らんでるんだよ」
いきなり葡萄染が横から出てきて、孝太郎のパイルをつかむと尾部のレバーに捻りを加えた。するとパイルの芯棒が引っ込んで、アンカー・パイル全体が細くなり簡単に抜けてしまった。
「この状態で埋めこんで、最後に芯棒を出して膨らませる。すると簡単にはパイルが抜けなくなる。わかったか?」
非常時だというのに――いや、だからこそなのか、葡萄染の声は静かだった。
「は、はい」
「二メートル間隔でパイルを打ち込め。小刻みに打つのがコツだ。俺は機体側のワイヤー固定をやる」
「わ、わかりました」
孝太郎は少しの間あっけにとられた。これだけのことをやっておきながら、葡萄染が助けに来てくれることなど想像もしていなかったのだ。
「殴るのはあとだ」
「な、殴るんですか」
「生きてたら、たっぷりな。さあ急げ」
「はい……!」
改めてアンカー・パイルを打ち込む。今度は芯棒を収納させたので、前よりスムーズに打ち込むことができた。
だがそれでも地面はところどころが異様に硬い。何十億年もの間、降りそそいだ微小隕石のせいだ。月では大気がないため、数ミクロンの隕石でも燃え尽きることなく落着する。その衝突で地面が押し固められるのだ。すんなりパイルを受け入れる柔らかい地面もあれば、戦車の装甲板みたいな地面もある。
それらを探りながら三本目のアンカー・パイルを打ち込んだ時、常盤の通信が割って入った。
「さすがに二人じゃ、間にあわんだろう。手伝うよ」
見れば常盤がクレーターの縁を乗り越え、こちらに向かって来ていた。宇宙服を着ていても大柄なのですぐわかる。
「だめだ。危ない、来るな」
葡萄染が制止する。
「なんか言ってるぜ」
常盤が背後に向かって告げた。来たのは彼だけではなかったようだ。群青と刈安も後から姿を現した。救助ローバーに残っていたアンカー・パイルとワイヤー、その他の救助機材をごっそりと持って、クレーターの縁を駆け降りてくる。
「お、おっす。お供します」
と刈安。
「この際、みんなで片付けちゃった方がいいですよ」
と群青。
「お前ら……くそっ」
葡萄染が舌打ちする。数秒ほど考えてから、決意した様子で指示を出した。
「しょうがねえ。刈安と群青はパイルの残りを打ち込め。常盤は俺とワイヤーの準備」
「おっす!」
「そう来なくちゃ」
三人はすばやく事故機の周囲に取りつくと作業にかかった。その身のこなしはさすがにこなれたもので、あっという間にいくつかのアンカーとワイヤーを固定してしまう。孝太郎の動きが、いちばん遅くてぎこちない。
「真朱! お前は乗客に非常用宇宙服を着るように指示を出せ」
葡萄染が命じる。言外に『お前はトロいから他の仕事をしてろ』と言われたような気がしたが、実際トロいのは事実なのだ。自分が飛び出してみんなを巻きこんだというのに、情けない限りだった。
「わ、わかりました。これ、お願いします」
「ん」
アンカーの準備は群青と刈安に任せて、孝太郎はあのSNS――リングの『HIROMIMI』に連絡を取ろうとする。
しかしその『HIROMIMI』のアカウントが大変なことになっていた。五分くらい前は三〇人しかいなかったフォロワー数が、いまは一〇万人を超えている。いや、もう一一万だ。全世界からこの月面に、野次馬が押し寄せているようなものだった。
コメントも一〇〇〇を超えていて、孝太郎の指示などすぐにスクロールしてしまう。大半は励ましのコメントだが、いたずら目的のものも多い。紛らわしいアカウント名で話しかけてくる者、猥語や差別語を連発する者もいて、混沌のるつぼだ。孝太郎側のアカウントもフォロワーが二名(祖母と祖父)から五〇〇〇名に急増して、『HIROMIMI』と連絡が取りづらくなっている。しかもリングにはダイレクト・メッセージ的な機能がない(あえて無くしているそうだった。なぜかは知らない)。
試しにコメントを書いてみたが、それを彼女が目にしたのかはわからなかった。
要救助者と、まともに連絡が取れない。端末はあてにならない。非常用通信機を無理してでも使わせておくべきだった。
どうすれば……。
(そうだ、窓だ……)
孝太郎は事故機の窓に取りつくと、こびりついたレゴリスを必死に拭った。
自分の体で直射日光を遮ると、どうにか窓の中が見える。先ほどちらりと見えた小柄な人物は、やはり女の子だった。ショートカットで前髪ぱっつん。涙目で宇宙服姿の孝太郎を見ている。こちらの顔はバイザーで見えないだろうが。
これだけ近ければ端末同士で通信ができそうだったが、やはり応答はなかった。XRもだめだ。女の子は口を動かしているのだが、なにを喋っているのかはわからなかった。ならば、と読唇術のアプリを探してみたが、ダウンロードに三〇分以上かかる上、そのアプリの評判が星一つだったのでやめた。
「ああ、くそっ」
こうなっては仕方ない。孝太郎は最も原始的な手段に頼ることにした。窓から見える地面に、指文字を書くのだ。
《よめる?》
様子を見ていると、女の子は両の指で輪っかを作って見せた。『○』ということだろう。地面の文字を手のひらで消すと、次にこう書いた。
《HIROMIMIよんで》
この女の子が、彼女のアカウント名を知っているかどうかはわからないが、孝太郎はできれば『HIROMIMI』と話したかった。彼女はこれまで責任感のある行動をしてくれているし、機転も利く。下手な大人よりよほど手助けになるだろう。
女の子はうなずき、片手で「待って」とジェスチャーして、窓の奥に引っ込んでいった。大丈夫だろうか、と心配するまでもなかった。十秒としないうちに別の少女がやってくる。古風な眼鏡にセミロング。見るからに内気で気弱に見えるが、なぜか孝太郎は確信した。この子が『HIROMIMI』だ。
地面の指文字の《よんで》だけを消して、《HIROMIMI》の字と少女とを交互に指差す。『君がHIROMIMI?』とジェスチャーでたずねたつもりだった。眼鏡の少女は何度もうなずき、両手で輪っかを作ってみせた。
よし、やはり彼女が『HIROMIMI』だ。
改めて指示を書いていく。なるべく簡潔に。
《ESSきて ぜんいん》
《いますぐ》
ESSは非常用宇宙服のことだ。研修で習うはずだから、わかるはずだ。こんな地面に『非常用宇宙服』などと書く自信はなかった。
『HIROMIMI』――多分、本名はヒロミだろう。バイタル・データに名前がある――ヒロミは非常用宇宙服の着用を理解したようで、もう一度、指で輪っかを作った。そして精一杯の勇気を出して、こちらにニッコリと笑顔を見せた。任せてください、とでも言っているかのように。
ヒロミからは、孝太郎の顔は宇宙服のバイザーのせいで見えないはずだ。なのに、自分の不安を反対に彼女から励まされたような気がした。
いや、意図はどうあれ、実際に彼は励まされたのだ。
地球から三八万キロ離れたこんな場所で、救う者、救われる者の区別なんてほんの僅かな差しかない。それが肌身で実感できた。
《ありがとう》
余計な言葉を書いている場合ではなかったが、孝太郎は書かずにはいられなかった。もしかしたらその『ありがとう』の指文字は、何万年、何億年も先まで残るかもしれないことなど、その時は考えもしなかった。
「真朱! 指示は出したか!?」
葡萄染の声。孝太郎は我に返る。
「は、はい! 一応は……」
刈安のチェックしているバイタル・データのうち何人かが、ESS――非常用宇宙服とリンクし始めている。非常用宇宙服を着始めた証拠だ。
「いま着てます!」
「だったらこっちに来て手伝え! ボサーっとしてるんじゃねえ!」
「はい!」
孝太郎はあわてて葡萄染と常盤のところへ駆け出していった。
少しは落ち着きを取り戻しつつあった旅行生やその他の乗客に、ヒロミは非常用宇宙服を着るように告げて回った。たいていの乗客は彼女に従ったが、中にはまだ混乱しているのか、指示に抵抗する者もいた。
「ていうか、なんであんたが命令してんだよ?」
旅行生の男子の一人が言った。名前はたしかタナカだったか。
「命令ぽく聞こえちゃったならごめんなさい。救助隊の人の指示なんです。いますぐ非常用宇宙服を着てくださいって……」
「ESS? そんなの着たって無駄じゃない? 統計では、ESSを着用した時の生存率は二〇パーセント以下なんだってよ。ネットの記事で読んだぞ、俺」
タナカはやたらと早口だった。おびえているのかもしれない。ちなみにその記事ならヒロミも最初のあたりだけ読んだことがあった。デタラメを書くことで有名なサイトの記事だと気づいて、読むのをやめたのだが。
「とにかく着てください。たぶん……全員が着ないと脱出できないから」
「たぶん、じゃ納得できないでしょ。なんかエビデンスあるの?」
「え……エビデンス、ですか……? ええと……ないけど着てください」
「なんだよ、それ。理屈になってないだろ。おい、聞いてるのか――」
これ以上、この男子に関わっている時間はない。ヒロミはそう判断して、他の乗客の様子をうかがうことにした。タナカはなおも背後でウダウダ言っていたが、彼女はそれを無視した。助けが必要な人は他にもいる。
しきりに不安を口にするものをなだめたり、非常用宇宙服の着用を手伝ったり。
他者から見れば気高く、英雄的な行為だったかもしれないが、ヒロミ本人にとってはそうではなかった。他人に助けの手を差し出している時は、自分の不安や恐怖がいくらか鎮まるのだ。むしろ逃避行為に近い。
そうこうしているうちに、一人、また一人と非常用宇宙服を着け終える者が出てきた。
非常用宇宙服は単純な構造をしている。
マミー型の寝袋に近い形をしており、歩いたり作業をすることは全くできない。船外活動の訓練を受けていない人間が歩けたとしても、ほとんど役に立たないどころか、むしろ危険の方が多いからだ。小型の生命維持ユニットを内蔵し、真空の宇宙でじっと救助を待つための機能に絞って設計されている(色は当然、オレンジだ)。着用がとても簡単で、使用前はコンパクトに折りたたんでおけるのもポイントだ。
着用者は足からESSに入って、ファスナーを上げる。内側から二重にシールすると、ESSが自動で気密をチェックして緑のテープ型ランプがつく。これで最大八時間、着用者は宇宙空間や月面で生存できる。少なくとも、そういうことになっていると、ヒロミは研修で教わった。
すでに八割くらいの乗客がESSを着用してくれた。
ESSを着け終わった乗客が、客席に座った状態で待機しているのは奇妙で不気味な光景だった。ESSにはもちろん窓などついていない。マミー型――まさしくミイラのようなオレンジ色の繭が、ずらりと並んでいるのだ。ヒロミは不謹慎だとは思いながらも、ひそかにその光景を録画してしまった。
ヒロミは右腕を怪我しているカタヒラ先生の着用も手伝った。
アテンダントはもうろうとしているので外部からESSをシールする必要があったが、これもどうにかうまくいった。
先ほど変な理屈で彼女を困らせた男子も、周りの旅行生が黙ってESSを着けているのを見て、しぶしぶ同じように着用していた(だったら最初からそうしてよ!)。
もうほとんどの人々がESSを着けている。自分も急がなければ。
自分の席に戻ってESSを広げる。足を突っ込むと、合成繊維のなめらかでひんやりした感覚が印象に残った。隣のミツキはもう肩までESSを着ていて、あとは頭を入れて内側からシールをするだけだった。
「待っててくれたの?」
「うん。じゃあ、あたしもフタするね」
泣き疲れた鼻声で、ミツキは言った。
「あとでね、ミツキ」
「うん、ヒロミ。またあとで……」
ミツキもESSをかぶると、グリーンのテープライトが点灯した。
本当に『あとで』なんて来るのかはわからなかった。ESSに入ったら、あとは真っ暗、一人きりだ。何時間も閉じ込められて、救助はされても精神がおかしくなってしまった人の話を聞いたこともある。でもいまは信じるしかない。あのmasosoさんと救助隊の人たちを。
ヒロミは一度、客席を見渡した。
すべての乗客がESSを着用しているのを確認すると、自分も頭をつっこみ、二重のファスナーを閉める。ファスナーには完全に閉じると自壊する機能が備わっている。基本的に中から開けることはできない(裏ワザはあるらしい)。閉所でパニックになった着用者が、真空中なのにESSを開けてしまうことを避けるためだ。
自分がESSに入るところを録画して、リングにアップした。「全員着ました >masosoさん」とコメントも付けておく。投稿者のコメントなら誰でも見られるはずだ。
もう自分にできることは何もない。ヒロミは目を閉じ、心を鎮めようとした。
だがうまくいかなかったので、気晴らしにmasosoさんがどんな人なのか想像してみた。最初はイケメンを思い浮かべようとしたが、やっぱり、なぜか、どうしてもガチムチ系のおじさんになってしまう。腕なんかもうヒロミの胴体くらい太くて、ヒゲも濃くて、顔もむせ返るくらい濃ゆい人。ガハハって笑うようなタイプで、大酒飲みで、趣味は競馬とパチスロ。平成時代じゃあるまいし、そんな人いるのか知らんけど。
どういうわけだか今はそういう人にそばにいて欲しかった。まあ、どうでもいい――
その時、いままでで一番大きな揺れが襲ってきた。
がくんと地面に叩きつけられるような衝撃、それからガタガタと客室全体が激しく振動する。それが三、四秒のサイクルで断続的に襲ってきた。
もういやだ。もうたくさんだ。
こわい。こわい。こわい――
「隊長。いまヒロミさんから全員ESSを着けたと――」
孝太郎が報告しようとした途端、事故機がはげしく揺れ出した。とっさにエンジンの方を見ると、信じられないことが起きていた。
エンジンは四基ある。そのうちこれまで噴射していたのは第三エンジンだけだった。だがもう一基のエンジン――第四エンジンが点火して噴射をはじめたのだ。
「危ない、下がれ――」
事故機はすでに一〇本のワイヤーでつながれていたので、まだどうにか、その場を離れて飛び上がったりはしなかったが、それでも何度か浮き上がり地面に叩きつけられた。
そのはずみでワイヤーが一本外れて鞭のようにしなり、孝太郎の三メートル左の地面にぶつかった。
「!」
無音だが、パッと飛び散ったレゴリスの量と高さが、ワイヤーの力の激しさを物語っていた。もしあの場所に立っていたら、唐竹割りに真っ二つになっていたことだろう。ワイヤーが切れた時の危険域は最初からわかっていたので、その危険域に入らないようにはしていたが。これは地球も同じで、訓練校時代から厳しく叩き込まれている。その教官の顔を思い出し、孝太郎は密かに感謝した。
だが飛び散ったレゴリスの一部は、ほとんど勢いが減衰することなく孝太郎にも当たっていた。EVAスーツのアウターにいくつもの小さな穴が開いたが、貫通はしなかった。アウターは防弾ベストのような機能も持っている。微小隕石や微小デブリの対策だ(万能ではないが、ある程度は防いでくれる)。だが、それでもよろめき、たたらを踏むくらいの衝撃は受けた。
「……っ」
「生きてるか、真朱?」
いちばん近くにいた常盤が訊いた。バイタルは確認できるはずだが、舞い上がった砂塵で姿が見えないから一応確認したのだろう。
「だ、大丈夫です!」
孝太郎は応えた。
ほかの隊員も無事だったが、事故機は小刻みに暴れ続けているので近づけない。ワイヤーの固定が遅れていたら、もっと悲惨なことになっていただろう。
「これじゃ手が付けられない!」
「待ってください。いま高度計に偽の数字を……」
群青が機体システムを試行錯誤する。一瞬、第四エンジンの出力が上がった。ワイヤーがまた一本外れる。今度は刈安の右側にあった岩を真っ二つにした。
「下がれ、下がれ!」
「ヤバいぞ。ローバーまで退避を――」
「あー、わかった、わかった。反対だ」
さらに群青が機体システムをいじる。二基とも噴炎がやや小さくなった。五〇パーセントくらいだろうか。事故機の振動もいったんは収まる。
しかし一基の噴射が、いまは二基だ。これではワイヤーもいつまで保つかわからない。
「なんで第四エンジンまで……原因は!?」
葡萄染が群青に訊く。
「まったく、わかりません。第四エンジンも機内LANから切り離されてて……今でも計器上は停止状態です」
「だがおまえ、エンジンを操ったな。出力を下げた」
「いえ、操れるなら停止させてますよ。INSやGメーターの数値をいじってみたら、理由はわからないけど効果はあった、ってだけで。ほとんどまじないみたいなものです」
「そのまじないが頼りだ。なんとか機体を大人しくさせてくれ」
「保証はできませんよ」
「とにかくやってくれ。……勇吾、くそったれエンジンの燃料はあとどれくらいだ?」
「この噴射だと二、三〇分といったところか」
常盤が素早く答える。
「増援の一隊の到着はあと二〇分。たぶん間に合わん……」
一隊が来てくれれば、ワイヤーの数は倍になる。燃料切れまで事故機を地面に縛り付ける成功率は、大幅に上がるだろう。それをあてにしていたのだ。
だがその時間がない……。
「刈安、要救(要救助者)は全員、非常用宇宙服を着用したんだな」
「お、おっス。バイタル上では全員確認したっす」
刈安が応えた。
「真朱。さっき、あのヒトミちゃんがどうとか言ってたな」
「あ」
孝太郎は先ほど中断していた報告を思い出した。エンジンの騒ぎで忘れていたのだ。
「ええと、彼女からも全員ESSを着けたと知らせがありました。あと、ヒトミちゃんじゃなくてヒロミちゃんです」
「名前はどうでもいい。確かにそう言ったんだな」
「はい」
「あー……。ちょっと待て……待て……決めるから」
葡萄染が黙って考えこんだのは、五秒くらいだったろうか。短い沈黙だったが、彼がこれから重要な決断を下すだろうことを、四人の隊員たちは予感した。
「決めたぞ。これから要救助者の機外への救出・避難を行う」
葡萄染は宣言した。
事故機のエンジンが制御不能なことは変わらないのだ。これから燃料が減って自重が軽くなると、いままで以上に機体が暴走するリスクが高くなる。燃料が切れるまで、いま機体を繋ぎ止めている八本のワイヤーが持ちこたえるかは、まさしく神のみぞ知る、だ。
ワイヤーが持ちこたえるのにかけて、これ以上何もしないか。
事故機が暴走する前に、乗客を退避させるか。
二つに一つだ。
どちらも間違っているとはいえない。どちらも大きな危険がある。そのどちらかを選んで、決断しなければならない。
そして葡萄染隊長は決心した。
その重圧と孤独を想像するには孝太郎はまだ若すぎたが、それでも葡萄染の声と背中から何かを感じとることはできた。
「まず右舷エアロックを開放し、客室内を減圧する。これは俺と真朱でやる。常盤と刈安は救助ローバーをあそこまで近づけて、右舷エアロックまでロープを張る。群青は機体システムをなだめてろ」
決心した以上は、一秒でも早く救助しなければならない。
全員が動いた。常盤と刈安は文字通り飛ぶようにして、クレーターの裏側に停めてある救助ローバーへ向かう。葡萄染と孝太郎は、いまなお暴れ出しそうな事故機に向かった。
右弦のハッチ――エアロックはいま地上から五メートルくらいの高さにあってやや下を向いている。まず葡萄染が跳躍して、エアロックの脇に取り付いた。孝太郎は三回やってどうにかしがみつくようにしてエアロックに取り付いた。腰の電磁アセンダーがベタッと機体にくっついても、落ちそうな気がしてあたふたとする。
「す、すみません」
「あわてんな。体を安定させろ」
これが訓練だったら『なにをダラダラやってんだ!?』とか怒鳴られているところだろう。そうせずに辛抱強く待たれる方が、むしろ孝太郎には辛かった。
「右舷、外側のハッチを開放する。右舷、外側のハッチを開放する」
周囲の安全を確認。
葡萄染はハッチの脇にあるアクセスハンドルを引っ張り出し、回転させた。外側のハッチが音もなく開いていく。もともと空気がほとんど抜けていたので、なにも起きない。
ハッチの中――エアロックの内部は薄暗い非常灯で照らされていた。男が二人でほぼ満杯な広さだ。そして奥に内側のハッチがある。その向こうは、与圧された客室だ。
まずその客室を、こちらと同じゼロ気圧に減圧しなければならない。そうしないとたとえロックを外しても、気圧差のためにハッチは絶対に開かない。
「こちら葡萄染。最終確認。要救助者二三名は全員ESSを着用しているか。各員、端末を確認せよ」
じっと葡萄染が孝太郎を見る。熱心に自分を見詰めて、なんだろう……と思ってすぐに気付いた。確認作業は下の者から順番に報告するのだった。つまり最初は自分だ。
「す、すみません、真朱です。ええと……確認しました」
端末に並んだ要救助者のステータスが、全員『ESS着用中』なのをあわてて確認し、孝太郎は言った。
「こちら刈安、確認したっす」
「群青、確認しました」
「常盤、確認した」
それぞれが報告する。
「こちら葡萄染、要救助者二三名のESS着用をすべて確認した。客室の減圧を実行する。繰り返す。客室の減圧を実行する」
エアロックの内壁にオレンジ色のカバーに覆われたレバーがある。客室の減圧を強制的に手動で行う装置だ。葡萄染はそのカバーを外し、二重のロックを解除して、ためらうことなくレバーを押し下げた。
レバーのそばのランプが、緑から赤になって明滅する。
音は当然まったくしなかった。だが客室の気圧を示すアナログメーターの針が、みるみるとゼロに近づいていく。もし何かのまちがいで、ESSを着けていない乗客がいたら、この段階で絶命しているところだ。
本来ならこれくらい慎重に要救助者の『真空曝露』は行うのだ。孝太郎は自分の『初仕事』のときのローバー乗組員をどう扱ったかを思い出して、その乱暴さに今さらながらぞっとした。
「減圧完了。客室のハッチを開く」
葡萄染はエアロックの内側のハッチのロックを解除し、開放した。
ゼロ気圧の客室へと入っていく。
室内は赤い非常灯にうす暗く照らされていた。ESSに収まった要救助者たちが、客席に横たわっている。マミー型だがふくらんだ風船のように、体も足もピンとまっすぐだ。
まるで奇妙な地下墓地か何かのような光景だった。だが彼らは生きている。いまも微かに一人が身じろぎした。
孝太郎は端末に呼びかけられないか試してみた。せめて『助けに来ました』とか『もう安心です』とかの一言くらいかけたかったが、やはり端末に応答はなかった。仕方がないので直接、相手の頭部のあたりに自分のヘルメットを密着させて大声を出した。
「救助隊です! もう少し、がんばりましょうね!」
振動を直接伝える方法だ。ESSもいまは空気でパンパンに膨れている、頑張れば伝わるはずだった。
「……はい……おね……します」
相手が答えてくれた。若い男性。糸電話を通したような小さな声だった。
本当にかすかな声だったが、それでも孝太郎は相手から勇気を与えられた気分だった。
「真朱! おまえは右の列から、一人ずつハッチに移送しろ。いま勇吾たちがハッチから安全地帯へハイラインを準備している。準備ができ次第、要救を機外に運び出す」
「は、はい!」
言われた通り、右側の座席からESSを着た要救助者を運び出す。六分の一Gのために想像以上に相手は軽かった。手を滑らせて、キャビンのどこかに要救助者をぶつけてしまいそうで心配になるくらいだ。
先ほどのエアロックのハッチまで行くと、すでに刈安が来てロープのハイラインの準備を進めていた。
ハッチから機外――離れた場所に停めた救助ローバーまでロープを張り、要救助者を素早く退避させる。救助した要救助者は、ひとまず救助ローバーの蔭に置く。そこもまだ危険域だが、機内よりはましだ。その後、より安全なエリアまで避難させる手筈だった。
ロープはエアロック内の手すり二か所に支点を確保し、そこからメイン、ビレー(バックアップ)の二系統を伸ばしている。地球ならばより荷重を分散して安全対策をするところだが、ここは月面で時間もない。最低限のロープで要救助者を運ぶしかなかった。
機外の救助ローバー側では、常盤がロープを固定し終えている。
何度か強度を確かめ、『メインラインよし』『ビレーラインよし』とそれぞれが告げる。
「できたな?」
葡萄染が要救助者を二人抱えてやってきた。
「時間が惜しい。三人ずつ運ぶ」
ロープに小型の電動下降器を接続し、その下降器から三人の要救助者をぶら下げる。まるで漁船のマグロの積みおろしだ。六分の一Gだからできる、地球では考えられない乱暴なやり方だった。
三人を送り出す。
ロープにぶら下がった三体のミイラが、電動下降器の内蔵モーターで機外へ運ばれていく。常盤が待っている救助者ローバーまで三〇メートル。
「いけるっすよ!」
「残り二〇人だ。この調子でさっさと運ぼ……」
そのおり、機体がまたガクガクと震えた。エンジンの噴射のせいだ。
機体が一メートルくらい移動した。三人の要救助者を運ぶロープが緩む。落下はしないが、このままでは要救助者を地面にこすりつけてしまう。レゴリスまみれで岩も露出している地面だ。下手をしたらESSが破れかねない。
「まずい……!」
孝太郎と刈安は滑車から伸びたロープを締め付ける。だが足りない。
危ういところで、運転席に飛びついた常盤が救助ローバーをバックさせて、緩んだロープをまた張り詰めさせた。
「急いでくれ! あと刈安、こっちに来てくれ! 運転席から離れられん!」
常盤が叫ぶ。
「うす! ここ、頼みます!」
刈安がハッチから飛び出し、救助ローバーへと文字通り跳んでいった。
「どんどん運べ。とにかく機外へ逃がすんだ」
「はい……!」
その後は無我夢中だった。
客席から要救助者を運び出し、三人ごとに電動下降器に結んで送り出す。
電動下降器の数は限られているので、向こう側から刈安が投げてよこすのを孝太郎か葡萄染がキャッチして使う。
救助ローバー側では刈安一人が要救助者を受け取って、車体の蔭に横たえている。群青もなるべく手伝っってはいたが、彼は彼で機体システムとエンジンの掌握で忙しい。
いくら急いでも、三〜四〇秒に三人一組くらいが限度だ。
要救助者に話しかけて元気づける余裕もない。孝太郎は聞こえているか分からないまま、ヘルメットを押しつけて『救助隊です! がんばりましょう!』と怒鳴るのがせいぜいだった。
葡萄染の方はヘルメット越しに叫ぶ方法は使わず、ESSの上から軽く相手を叩いていた。確かにあれでも救助が来たことは、なんとなく相手に伝わる。
九人、一二人、一五人と機外への退避が済んだ。その中にはヒロミやその友達もいたが、何かのやりとりをするようなゆとりはまったくなかった。
一六人から一八人目を運んでいる時に、事故機が今まででいちばん大きくゆれ動いた。
「…………っ!」
常盤が必死に救助ローバーを操作し、刈安と群青が要救助者をすばやく収容する。
ロープは激しく震え、機体を固定しているワイヤーも一本、また一本とアンカー・パイル(杭)ごと抜け落ちた。抜けたワイヤーが暴れ回って、左舷の機体表面にぶつかって大きな引っ掻き傷を作った。
「もう何をやっても駄目です! 機から離れてください!」
群青が叫んだ。機体システムのごまかしが利かなくなっている。
もう限界だ。
機内に残っている要救助者は残り五人。
そのうち二人は葡萄染に抱えられてハッチ付近にいた。残り三人のうち二人が、孝太郎に抱えられてその少し後ろにいた。
最後の一人――名前も知らない乗客の誰かは、まだ客室にいた。
もうロープと下降器を使っている余裕はない。機外への脱出が最優先だ。
「限界だ。離れるぞ!」
「でも、あと一人が客室に――」
「いまは自分の二人に集中しろ!」
葡萄染が二人の要救助者を抱えたまま、ハッチから地上へ跳んだ。自分が預かっている二人の安全を確保するためだ。
孝太郎も二人を抱えている。
自分の二人に集中しろ――その通りだ。まったく正しい。
この二人を安全なところへ運ばなければならない。孝太郎は葡萄染に続いて、ハッチから跳んだ。
要救助者二人を抱えたまま着地。思ったよりずしりと重かったが、落としはしなかった。葡萄染は眼前を救助ローバーに駆け出している。彼も走った。
刈安が、救助ローバーの近くで手招きしている。
その刈安まで数メートルのところで、孝太郎は立ち止まった。
「…………」
事故機を振り返る。M320機はワイヤーをさらに断ち切り、ズルズルと前進を始めていた。このまま増速して、クレーターの縁を乗り越えて、クレーターの中へと墜落していきそうだ。
まだ一人いるのに。
恐怖によるものか、興奮によるものか、頭の後ろがじんじんとする。耳鳴りがして、視界が極端に狭まる。ピッピッ、ピッピッと何かがうるさい。それが自分の宇宙服のバイタル・アラート音だと気づくまで、少しかかった。心拍数と呼吸数が高すぎると警告しているのだ。
「うるさい……」
「え?」
「刈安さん。この二人、お願いします」
きょとんとした刈安に告げ、抱えていた二人を地面に置く。
孝太郎は加速を始めつつある事故機に向かって走り出した。
「おい!?」
救助ローバーと事故機をつなぐロープ――メインラインが一本切れた。音もなくのたうつロープが、孝太郎の脚を薙ぎ払うように襲いかかったが、彼はぎりぎりでそれを避けた。
「真朱! やめろ! もう無理だ!」
葡萄染が叫んだが、孝太郎の耳には届かなかった。
あと一人、あと一人なのだ。
その一人を見捨てたら、自分は自分を許せない。
いやだ。そんなの絶対にいやだ。
死んだって、いやだ。
だれかがうなっている。自分の声だった。うなるように泣いている。泣くように怒っている。
絶対に。絶対に。絶対に――
事故機が巻き上げる砂塵で視界がきかない。それでも、さっき飛び降りたばかりのハッチは見えた。助走をつけて跳ぶ。
この一日でもっとも綺麗な跳躍だった。
電磁アセンダーを使う必要さえなかった。ハッチにしがみ付き、開きっぱなしのエアロックを通って機内に入る。
「はぁ……はぁ……!」
キャビンへと急ぐ。最後の要救助者はいちばん奥にいたはずだ。
音もなく、はげしく機体が揺れる。孝太郎は空の客席や天井に何度もぶつかった。
いた。
オレンジ色のESSがキャビンのいちばん奥に座っている。
孝太郎は近づいてシートベルトを外そうとしたが、振動がひどくて思うようにいかなかった。指が強張り、バックルのボタンをなかなか押せない。
「くっ……!」
どうにかベルトを外す。最後の要救助者を肩に担いだ。
「大丈夫……大丈夫だから……!」
裏返った声でそう告げたが、その声が届いているかどうかはわからなかった。
窓から外は、機体の巻き上げるレゴリスでなにも見えない。だがすでにおそらく時速二〇キロくらいは出ているだろう。こうしている間にも、さらに加速している。
「はやく……脱出を……」
ハッチに引き返そうとしたその時、機体が右舷に大きく傾いた。
孝太郎と要救助者は、客室内の通路で倒れ、跳ね上がり、また通路に叩きつけられた。夢中で手足を振り回し、バランスをとって要救助者を担ぎなおす。
「で、出口……」
よたよたと、へっぴり腰で右舷のハッチへ向かう。
ハッチまではすぐだった。しかし、ついさっきの傾斜のせいで右舷側は大きく下を向いていた。つまりハッチの外はすぐ地面だ。いまでは大量の砂塵と岩くずが、凄まじい勢いで機内に飛び込んでくる。
ここからは脱出できない。
ならば左舷だ。
地面で塞がれた右舷とは反対側――左舷のハッチがまだある。孝太郎はキャビンの荷物棚を足場にして左舷側へと這い上がろうとした。だがどうあっても思うように登れない。揺れがひどいし、片腕は要救助者で塞がっている。
一度戻って、要救助者を背負ってロープで固定するべきだったが、もう時間がない。機体の時速は四〇キロを超えつつある。
「もうすこし……もうすこしだから……」
孝太郎から漏れる言葉は、要救助者というより自分に言い聞かせているものだった。
左舷のハッチに登れない。絶望感が這い寄ってくる。
だめだ。自分一人では――
「ハッチから離れてろ!」
葡萄染の声がした。
すぐに頭上の左舷ハッチのロックが外れ、勢いよく開放される。
その向こうから葡萄染が現れた。
孝太郎は目を疑った。あの揺れの中で事故機の外壁に取りつき、左舷側に回り込んだというのか。下手をしたら暴れる機体に押し潰されて、グシャグシャになっていたかもしれないのに……!
「急げ!」
葡萄染が右手をさしのべる。孝太郎は要救助者を担いだまま、思い切り跳躍して、その手をつかんだ。宇宙服のグローブ越しとは思えないような、力強い感触だった。まるでどこにだって連れていってくれるような――心の奥のよどみを振り払い、どこか明るい場所に彼を引き出してくれそうな――
「そら……よっと!」
孝太郎と要救助者はエアロックに引き上げられる。機外はすぐだ。
ハッチから出ると、まず照りつける太陽が目に入った。続いて揺れ動き、加速を続ける機体。それが巻き上げる砂塵。
そして葡萄染の頼もしい横顔。
クレーターの縁が近づいている。その向こうは絶壁と漆黒の谷底だ。
葡萄染は機体を飛び降りるタイミングを見計らった。
「まったく、お前といるとよく跳ぶな! 今週、二回目だ!」
「す、すみません」
「生きてたら、全員にビールをおごれ!」
「はい!」
「一年間!」
「え、ええ?」
「とべ!」
外壁を蹴る。
葡萄染と孝太郎は抱き合って、その間に要救助者を挟んで守るような格好で跳躍した。
白い大地と黒い空。くるくると景色が回る。どちらが上なのかもわからない。
事故機が離れていく。みるみると加速を続け、クレーターの縁を飛び越え、そのまま見えなくなる。
孝太郎は、回転しながら背中から月面に叩きつけられた。

宇宙服のアウターに仕込まれていたエアバッグが作動した。瞬間的にエアバッグが膨らみ、すぐさましおれていく。それでも猛烈な衝撃だった。肺から空気が絞り出されて、悲鳴とも咆哮ともつかない声が洩れた。
彼らは大量のレゴリスを巻きあげ、月面をはげしく転がった。六分の一Gなのに、ほとんど体が弾まなかったのは意外だった。
孝太郎は葡萄染の腕に夢中でしがみついた。それ以外は何もできなかった。
やがて――
体の回転が止まった。
自分がどうやら生きていることを認識し、要救助者のESSが無事なのを確認する。
「も、もう安心ですよ! すこし待ってて……ください!」
要救助者にヘルメットを密着させて叫ぶ。かすかな返事が聞こえた。
あたりを見回す。そこはクレーターの縁のぎりぎり外側で、数メートル先は暗い奈落だった。もう少し転がっていたら、クレーターの内部に落ちていただろう。
きわどい、本当にきわどいところだった。
葡萄染は孝太郎からすこし離れて倒れていた。大の字になって、ぐったりと横たわっている。
「た……隊長?」
返事はなかった。
葡萄染の背中のすぐ下に、拳大の岩が見えた。ぎざぎざで鋭い。あれが直撃して、宇宙服が損傷していたら――
「隊長……!」
駆けつけようとして、何かを踏んで転倒する。エアバッグが作動したせいで、孝太郎の宇宙服のアウターはズタズタだった。そのアウターを踏んづけたのだ。
「くっ……」
オレンジのアウターを引き剥がすように脱いで、インナーだけになると、倒れたままの葡萄染に取りすがる。
「隊長! しっかりしてください、隊長……!」
葡萄染はこたえない。
バイザーに太陽が反射して、その相貌すらうかがい知れなかった。
「そんな……嘘でしょう!? 隊長! 隊長!」
葡萄染はこたえなかった。
孝太郎の腕に抱かれたまま、何の反応もない。彼は葡萄染を抱え上げ、呆然とした。
巻き込んでしまった。死ぬべきは自分の方だった。それだけのこと――独断専行をしでかしたのは分かってる。隊のみんなにどう告げればいいんだ。奥さんと娘さんには。
またしても自分は。また自分は。
「すみません……」
そうつぶやくのがやっとだった。
「本当にすみませんよ……ったく。なんで俺はまたお姫様抱っこされてるんだ……?」
孝太郎の腕の中で、葡萄染が言った。気だるそうに身じろぎする。
「あ」
「『あ』じゃねえよ。……うーん。状況は? 頭打ってすこしのびてたみたいだ」
やっと我に返って孝太郎は、端末から隊長のバイタルをチェックした。
「生きてる!」
「当たり前だ。あれくらいで、くたばってたまるか……って、おい」
孝太郎は赤ん坊でもあやすように葡萄染を抱え上げて、くるくると回った。
「生きてる! 生きてる!」
「おろせ」
「どうしようかと思いました! いやあ、よかった!」
「わかったから、おろせ!」
一隊に要救助者を任せた常盤がその場に駆けつけるまで、孝太郎は葡萄染に抱きついて離れなかった。
ヒロミが緊急用宇宙服――ESSから助け出されたのは、それから三時間後だった。
怪我人や気分の悪くなった人は降下艇で優先して後送されたが、ヒロミは比較的に元気だったので後まわしにされたのだ。
まず現場に遅れて駆けつけた救助ローバーの一台に乗せられて、そのままレヴァニア市に運ばれた(その前に通信は全て回復したので、自分たちが助かったことはもう知らされていた)。レゴリスの電気洗浄を受けてから、与圧エリアにやっと入れてもらった。
ESSをカッターで切り開いてもらって、外の空気を吸った時の気分ときたら。花火の燃えカスみたいな焦げくさい匂いだったが、人生で一番おいしい空気だった。
仲良しのミツキは別のローバーで運ばれていたらしく、すでに病院の方に運ばれていた。ヒロミも精密検査のために病院送りになった。
病院でミツキと再会したときは、それはもう感激だった。その時の動画もいちおう撮っておいたが、パンツ一枚にガウン姿だったので、これはちょっとアップできないだろう(ヒット数は稼げそうだとミツキは言ったが、却下した)。
家族とも無事に連絡が取れた。おばあちゃんと通話で話したときが、なぜか一番泣けた。
ヒロミは例のSNS――リングのせいですっかり有名人になってしまった。
だがカウンセラーがいうには、事故のことが人々の話題に上るのはせいぜい数日だろう、ということだった。アカウントは作り直した方がいいけど、地球に帰るころには元通りの一般人ですよ、と。
放射線の被爆が通常より多かったが、ほかの精密検査も問題なく、一日で退院できた。
だが残りの旅程はすべて中止になり、まっすぐ地球に帰ることになった。なにしろ着替えも歯磨きセットもない。みんな事故機に置いてきてしまった。
事故機はあの後、クレーターに落ちてばらばらになったらしい。
自分の歯磨きセットもその破片の中に混じって、今も月面に転がっているのだろう。もしかしたら何億年も先まで、歯磨きセットはそのままかもしれない。
事故原因の究明は時間がかかるそうだ。腹は立つが、全員無事だったからまだ許せる。本当によかった。
masosoさんにお礼を言いたかったが、レスキュー会社に問い合わせても連絡先は教えてもらえなかった。そういう決まりなのだそうだ。救助隊員と要救助者が個人的な関係を作ると、トラブルの種になることが多いらしい。
リングの方もmasosoさんのアカウントは削除されていた。
でも、せめて一言お礼を伝えるくらい、いいではないか。
レヴァニア市を離れ、地球に帰る朝。
すこし時間があったので、ヒロミは空港のそばにある『(株)鴻救命』のオフィスまで行ってみた。ミツキも一緒だ。
だが入り口はロックがかかっていて、社員か関係者以外は入れなくなっていた。まあ、当然といえば当然だ。インターホンを押して受付のAIと押し問答をしてみたが、それで取り継いでもらえるわけもなかった。
《申し訳ありません。もう一度、ご用件を繰り返して下さい》
「だから、人を呼んでください! せめて事情くらい説明させて……」
《よくわかりませんでした。もう一度、ご用件を繰り返して下さい》
「もうあきらめよ、ヒロミ」
「でも」
「もうすぐ集合時間だよ。遅刻しちゃう」
「うん……」
ミツキの言うとおりだった。これ以上粘ったところで無駄だろう。彼女はため息をついて引きかえそうとした。
そのとき、ちょうど出社してきた社員らしき二人とぶつかりそうになった。
「あっ……」
低重力はどうしても慣れない。ヒロミはよろめき転びかけたが、その二人のうち背の高い方が軽く手を差し伸べただけで、簡単に姿勢は元通りになった。
「っと。大丈夫ですか?」
「あ、ありがとうございます」
どちらも若い社員だ。二人とも私服なのでどんな仕事の人なのかは想像もつかなかった。でも、この人たちに頼めば……。
「あ、あの……!」
「はい?」
「ここのレスキューの人で……その……」
masosoさんを呼んで欲しいなんて。変な女だと思われて終わりだろう。すこし口ごもってから、彼女は何をどう頼んだらいいのか迷ってしまって、結局何も言い出せないままペコペコとお辞儀した。
「いえ。あの。……が、がんばってください!」
「? あ、はい」
「がんばるっす! よくわからんけど」
それぞれ答えて、二人はオフィスへと入っていった。そのドアが閉まる直前、背の低い社員がもう一人の方に話かけていた。
「そういやマソホ。けっきょく報告書は――」
ドアが閉まって、会話はそれきりだった。
マソホ?
ヒロミは少しの間、ぼうっとしていた。ひょっとしたら、いまの人たちが……?
「ヒロミ? どしたの?」
「案外、用は済んだかも」
「なにそれ?」
彼女は笑った。
「わかんない。でももう帰ろ」
「うん。もう月はこりごりだみゃー」
ミツキも笑った。
二人は空港方面の通路に向かって歩き出した。
「そういや真朱。けっきょく報告書は仕上がったのか?」
「はい。どうにか。休日返上になっちゃいましたけど……」
真朱孝太郎は、途中で出会った刈安武と一緒に鴻救命のオフィスに出勤したところだった。
二度目の当直だ。あれだけ大変な救出劇があっても、当直のシフトは変わらずやってくる。救いは昨夜、たっぷり眠れたことだろうか。おかげで今日は早起き。余裕を持って出勤できた。
「あの女の子たち……」
通路を曲がったあたりで刈安が言った。
「ええ」
「高校生なんて、この街じゃ珍しいし。あの事故機に乗ってたのかな」
「あ……」
あの古風なメガネ。あの顔立ち。いまの子がヒロミだったのでは……?
孝太郎は立ち止まり、オフィスの玄関に駆け戻ろうとしたが、すぐに思い直した。規則を思い出したのだ。
要救助者と個人的な関係を結ばないこと。
「なんだ。会いに行ってこいよ」
多少は事情を聞いている刈安がどこか呑気に言った。
「いえ、規則が。それにこれから当直交代ですから」
「ああ、そうか――わちゃホヒィぃっ!」
いきなり刈安がのけぞって奇声をあげた。
同じく出勤してきた群青薫が後ろから忍び寄り、刈安の背中を指先でつつーっとなぞったのだ。
「な、なにするんですか群青さん!?」
「いや、もうその反応が見たくて」
群青が笑って言った。期待通りのリアクションが面白くて仕方ない様子だった。
「まったく……」
「ごめんごめん。それより真朱くん。会いにいくって、誰に?」
「いえ、それは――」
孝太郎は事情をかいつまんで話した。
「なんだ。そんな規則、気にしなくていいよ」
「いえ、気にしないわけには……って、そうなんですか?」
「まあ表向きの決まりっていうか。でも四隊の隊長なんて、救助で知り合った女性と合コンをやって、その合コンで知り合った女性の妹さんの友達と結婚したし」
「それはその……要救とか、あんまり関係ないのでは」
「ともかく、ちょっと挨拶するくらいなら、別に構わないさ。行ってきたら?」
「ありがとうございます。でも、本当にいいんです」
今回の一件では隊の皆に迷惑をかけた。とりわけ隊長には。
そんな自分が女の子と会ったりヒーロー面なんて、とてもできない。さすがにそこまで厚顔ではなかった。
「そう。ならいいけど」
その内心をどこまで察したのかはわからないが、群青はそれ以上その話はしなかった。
実際、鴻救命の中での、三隊と葡萄染隊長の立場は微妙なものだった。
結果として、M320機の乗員乗客はすべて助かったが、その過程は決して褒められるものではなかった。
まずエンジンが暴走して、いつ爆発するかもわからない事故機に接近し、ワイヤー固定を試みたこと。これは下手をすれば三隊全員が死亡する惨事になっていたかもしれない。
そうした危険な状況下で、乗員乗客を機から脱出させたのも賛否が分かれる。
そして機に残された要救助者を救出するために、隊長と隊員一名が、無謀ともいえる危険を冒した。
どれも一歩間違えば死人が出ていた。葡萄染の謹慎くらいでは済まない行動だ。
しかし。
そうでもしなければ、M320機の乗員乗客が助からなかったのも事実だ。
いまもフルニエ・クレーターの底でばらばらになっている事故機が、それを雄弁に物語っている(ちなみに破片の回収作業は約二〇日後、次の『昼』に行われる予定だった。フルニエやレヴァニアはこれから危険な『夜』になるからだ)。
たまたま、今回はうまくいった。
それでも危険行為の数々を犯したのは事実なのだからと、処分を求める声もあった。社内では処分に賛成が三割、反対が三割、態度の保留が四割といった感じだったそうだ。
けっきょく本部長の錫源十郎が処分反対に回って、おとがめなしに決着した。
錫は救助前、葡萄染にすべてを一任した。だから罰するならば、まず自分を罰してくれ、と言ったそうだ。
とにかくこうして三隊は通常のシフトに戻っている。
群青も刈安も、孝太郎の行動については何も言わないが、本音まではわからなかった。だいいち、知り合ってまだ一週間もたっていないのだ。
三人がロッカー室で着替えていると、葡萄染克也と常盤勇吾が少し遅れて入ってきた。
「おはようございます!」
「おはよう。今日は遅刻しなかったな、真朱」
常盤に言われて、孝太郎は苦笑するしかなかった。
「おう」
葡萄染はぞんざいに答えると、自分のロッカーを開けて活動服に着替え始めた。
「た、隊長……」
「なんだ?」
「あの。例の件ですが。生きてたら殴るって……あとビールとか……」
どたばたと忙しくて、葡萄染と落ち着いた場所で会うのはいまがやっとだった。葡萄染は責任問題で上層部に呼び出されて、ほとんど隊員の前に姿を見せていなかった。
「ああ。冗談だ」
「あ。そうでしたか」
「今日びそんなパワハラみたいな真似、するわけないだろ。ビールも殴るのも冗談、冗談。気にしてないって」
葡萄染はさわやかに言った。
にっこりと。
その一〇分後――
「各隊、容儀点検! かかれ!」
葡萄染隊長は常盤、群青、刈安をほぼスルーして、ギラついた目で孝太郎の前に来ると、ここ数日の憂さを晴らすように容儀の不備を指摘した。
「真朱航宙士――帽子のズレ、帽子の角度、帽子のシワ、帽子の名札不備――」
帽子だけでこれ。
「シャツの丈、袖の短さ、バックルが汚れてる、ワッペンの位置違い、爪を切りすぎてる、髪が三日前から伸びてる、名札の字が汚い――」
次から次へと、ケチをつけるにしても、ここまでくると才能が要る。
「あと、やっぱりなんか目つきが悪い! 以上、三〇点の不備! 腕立て三〇〇回!」
めっちゃ気にしてる。めっちゃ根に持ってる。
呆然とする孝太郎に、葡萄染は再度告げた。
「ほらほら、三〇〇回! さっさとやれ!」
「くっ……」
ほとんど涙目になって、孝太郎はゴムチューブを取りにいった。
死にそうな顔で腕立てを三〇〇回している間、葡萄染は心底楽しそうだった。
(フンボルト海の暴走する不時着機・終)