
MOON FIGHTERS!
第2話 レヴァニア市のミイラ男
ローバーの遭難事件から二日がすぎた。
真朱孝太郎はその二日間を、報告書や始末書の作成や、高度な検疫やあれやこれや――事件の後始末に費やしてすごした。
自分の荷を解くヒマさえなかったほどだ。
忙しかったのは隊長の葡萄染克也も同様だった様子で、顔を合わすたびに不機嫌さが増していっているようだった(だから、なるべく顔を合わせないようにしていた)。
その後、孝太郎たちは月軌道上のステーション〈フィオルクヒルデ〉を後にして(今度は民間のシャトルだった)、鴻救命の本部があるレヴァニア市に移動した。
レヴァニア市。
北半球最大の都市で、人口は一万人を超える。元はフンボルト海北西の渓谷を利用した小さな基地だったが、三〇年近くを経てこれまた増築に増築を重ね、直径三キロの都市にまで発展した。
孝太郎は事件の直後にこの街のドックを一時的に訪れていたが、すぐに月軌道のフィオルクヒルデに戻ってしまったので、気分的にははじめて訪れたようなものだった。
「おまえの着任手続きは済んでいる」
レヴァニアの港湾エリアを出ると、葡萄染は孝太郎に告げた。
「端末の登録とか住民票の届出とか、そういうのはよく知らん。適当にやっとけ」
「適当に……って。端末が未登録じゃ、何もできません。住民票はもちろん荷物も届いているのか……」
孝太郎の端末は一日前からほとんど使えなくなっていた。地球のプロバイダとの契約期限が終了したのに、月面での契約がまだだからだ。
「俺は知らん! あす八時前から当直だからな。解散!」
「あ……」
そう言うと葡萄染は女房役の副隊長・常盤勇吾とその場を去っていった。居住区とは反対側にある繁華街の区画に向かっていったので、これから飲みに行くらしい。
こうして真朱孝太郎は、正真正銘ただ一人になってしまった。
夜時間なので幹線通路はうす暗い。古びた看板が歯磨き粉の広告をたれ流している。幹線からいくつもの支線通路が伸びており、仕事帰りの人びとが行き交う。最初の一〇分は何もかも珍しかったので、あてもなくそこらをぶらついたりしていたが、すぐに帰る部屋さえないことを思い出した。
今いるのはレヴァニア市の港湾区とクイーンズ区の境目あたり。港湾労働者が多く住む一角だ。孝太郎の部屋もこの近所にあるらしい。『あるらしい』というのは、まだその部屋まで行ったことがないからだった。
「ええと……」
孝太郎は自分の部屋の住所を調べてみた。だが端末の通信機能がほとんど使えず、メモが読み込めない。視界のあちこちに『ネットワークに接続してください』の文字が表示されている。
まずはレヴァニア市の通信会社と契約しなければ。端末を操作して契約ページを表示させようとするが、それもだめだった。代わりにこんな表示が出た。
《新規ご契約のお客様へ/「わくわくプラン」、または「わくわくプランプラス」への新規契約は、最寄りの窓口にてお申し込みください。オンラインの契約は雇用保証法によって制限されており……》
以下、長々と注釈が続く。
まあとにかく、その「わくわくプラン」とやらはオンラインでは申し込めない、と。どこかの誰かさんの雇用を守るため、不便をお願いいたします、と。
そういうことらしい。
「で、窓口ってのは……」
幸い、比較的に近かった。窓口は歩いて三ブロック先だ。ただし、明日の一〇時まで閉まっているけど。
どうしよう。
自分の部屋さえわからない。というか、現在地もいまいちわからない。鴻救命の本部も見失ってしまった。
見知らぬ街で一人きり。ひどく心細い。
通行人もいるにはいるが、なんかガラの悪い人が多いし、っていうかなんで入れ墨してる人こんなに多いの? という感じで声をかけにくい。
ちなみにレヴァニア市は、そのほとんどが高さ二メートルの通路や部屋で構成されている。街というより非常に広くて複雑な基地というのが実状で、たまに小さな体育館くらいの広場が設けられている。孝太郎が今いるのもそうした広場のひとつだ。
広場は公園になっていて、人工の観葉植物が植えてある。ただ手入れはろくにされていないようで、落書きがしてあったりシールが貼り付けられていたり、酔っ払いのゲロがこびりついて乾燥していたり……という有様だった。
天井には窓があり夜空に星が瞬いていたが、もちろん作り物の映像だ。レヴァニア市はまだこれから何日間か昼が続くし、ここは月面から数十メートルの地下だし――そもそも真空の月では星は瞬かない。
広場にはまばらに人がいたが、前述した人相の男ばかりなので、道を聞くのもはばかられる。
いや、一人、そうでもなさそうな人物もいた。
東洋系で、歳のころは二十代。穏やかな顔つきだが、細い目がどことなく狐を連想させる。トレパンに無地のTシャツ、サンダルといった格好で、大きな洗濯カゴを抱えている。
その辺のコインランドリーを利用した帰りっぽい。その彼が、自販機の横で缶ジュースを片手にぼうっとしている(ちなみに月面はアルミ缶が主流で、ペットボトルはほとんど見ない)。
その生活感。近所のコンビニかドンキの駐車場にでもいそうな雰囲気で、ここが月面都市だということを忘れてしまいそうになる。話しかけるなら彼しかいないのではないか。いや、もう絶対そうだ、そうに違いない。
「あの……」
「?」
「よかったら端末の回線……使わせてもらえませんか? きょう引越してきたばかりで……あー、その、プロバイダと……契約が……」
その若者は最初、ほとんど微動だにしなかった。孝太郎は一瞬、彼が宣伝用のバーチャロイドか何かで、実在しないのではないかと思ってしまった。
「あの……?」
「…………」
「あ……の……」
「聞いてるよ。それで、プロバイダと契約が、どうしたの?」
「わ」
いきなり日本語で喋ったので、驚いて後じさりしてしまった。というか、日本人ぽい。
「あ……すみません。契約ができなくて。それで……端末を貸してもらうというか、テザリングさせてもらえないかな……と」
回線を貸してもらえれば、ちょっとの間でいいのだ。
「いきなり、赤の他人のキミに?」
「だめですか」
「だめですね」
「そうですか……。すみませんでした」
しょぼくれた孝太郎がその場を去ろうとすると、相手が呼び止めた。
「待ちなよ。赤の他人はいやだけど、知り合いくらいになら貸してもいい。ここは一つ、ゲームをしようじゃないか」
「ゲーム?」
「そうだな……なんでもいいから、食べ物を思い浮かべるんだ。で、それを当てるゲーム。交互にひとつずつ質問をしていくの」
「ははあ……」
「キミが勝ったら回線を貸してあげるよ。で、もし負けたら……そうだな、今夜はボクの言いなりになる、ってのはどうだい?」
「言いなり、ですか」
「うん。言いなり」
いきなり変な提案をされて、孝太郎は躊躇した。『今夜はボクの言いなり』って、やっぱり何かえろいことでも命じるつもりだろうか。でも回線は貸してほしいし……。
「わかりました。勝負しましょう」
「そうこなくちゃ」
若者は狐っぽい目をさらに細めて、くすくすと笑った。
「じゃあ食べ物決めて。ホントはメモとかに書いときたいけど、まぁ、キミは正直そうだからいいや」
「どうも」
実のところ孝太郎はつい一時間前にしょうゆアルガーメンを食べていたので、これといって食べたいものもなかった。でもまぁ、なんでもいいと言われたので、さっき食べたアルガーメンに決めた。
ちなみにアルガーメンというのは、藻で作られたラーメン(に似た何か)のことである。月面産の代表的な食料といったら、まずい藻類という時代があったのだ。昔は粗食の代名詞みたいにいわれていたが、最近ではなかなかおいしいものも出ている。
「決めました」
「よし。ボクも決めた。じゃあ質問しよう。キミの考えてる食べ物は、甘いかな?」
「あー、いえ。甘くはないです」
「ふむ。じゃあキミの番だ」
「えぇ、うーん。お、それは大きいですか小さいですか?」
「小さいかな。えー、ボクの番ね。その食べ物は細長い?」
いきなり核心に近づかれて、孝太郎は驚きが顔に出てしまった。
「あ……それは……その……」
「答えて。はやく、はやく」
「ほ、細長いです」
「ふふん。もうわかったかも。言っていい?」
まだ二問しか聞いていないのに! なんだろう、この自信は!?
「い……いいですけど、まちがってたら自分の勝ちになりますよね?」
「そうなるね、じゃあ言うよ、アルガーメン」
今度こそ孝太郎は全力で驚きの顔を浮かべた。
「……あ。当たり……です。でも、なぜ……どうして……」
「ないしょだよ、真朱孝太郎くん」
そう言って若者は笑った。自分の名前を知っている。端末で調べたのだろうが、さすがに赤の他人が個人情報を手に入れることはできないはずだ。
ということは、鴻救命の関係者か。
彼は笑いながら孝太郎の胸元に手を伸ばして、なにかをつまみあげた。それは半乾きになったアルガーメンのかけらだった。さっき食べた時にこぼれ落ちてくっついたのだろう。
「あ……!」
「本当にアルガーメンとはね。……ちなみにボクが考えてたのはチロルチョコ。いやー、面白かった!」
「うう……」
「インチキってほどではないし、ボクの勝ちってことでいいかい。それで……約束は覚えてるかな?」
一晩、相手の言いなりになるとかいう話だった。無念ではあるが約束は約束だ。
「は、はい。何なりと……お申しつけください」
と言いながら、さすがに孝太郎も覚悟した。
なにを命じるつもりだろうか。えろいことだったら困る。だが窃盗とか強盗とかの犯罪よりはマシか。だとしてどんなえろいことが考えられるだろう。アレとかコレとか、もしくはソレとか……。
「ついて来て」
若者は含みのある笑みを浮かべると歩き出した。背丈は孝太郎と同じくらいだろうか。いま気づいたが意外に筋肉が付いている。やはり間違いない、鴻救命の関係者だろう。
「あの、鴻救命の方ですか?」
「ああ。言ってなかったっけ。その通り。ゲッキュー三隊の群青薫です。キミの噂は聞いてるよ」
「え、同じ隊」
「うん。ホントならもっと前に顔合わせしてたんだろうけど、ボクはもう一人と研修でね。たまたま居合わせなかったんだ。いやあ、見たかったなあ。葡萄染隊長を出し抜いたんでしょ?」
「いや、出し抜いたなんて。夢中だっただけです。それに最後は葡萄染隊長に助けてもらいましたし……」
「それはそうさ。キミの月面初心者丸出しの歩き方を見れば分かるよ」
「えぇ?」
その若者――群青薫は、前を歩きながらちらりと孝太郎の身のこなしを見返した。バニー・ボーイとは言い得て妙かもしれない。群青の地面を滑るような歩き方に比べて、孝太郎はまさしくウサギのようにピョンピョンと跳ねて、何度も天井に頭をぶつけそうになっている。まだ月に来て間もないので、六分の一Gに慣れていないのだ。
「こっちだよ」
群青はさっさと進んでいく。ここはもう居住区なので狭苦しかった。たまに出会う通行人とも、互いに譲り合わなければすれ違うことも難しい通路もある。
そして落書きの多いこと、多いこと。ぎりぎりでアートを名乗っても良さそうなグラフィティもあるが、ほとんどは憂さ晴らしの罵詈雑言ばかりだ。英語とスペイン語が多いので意味はわからない。いま端末が使えないのはむしろ幸運だった。
下の街区につづく階段を降りていく。一段一段がやたらと高く、急な階段だ。低重力だからこんな階段でも平気なのだろう。孝太郎は宇宙高専のころ、休日に出かけた名古屋城をなんとなく思い出した。
階段を離れ通路を進むと、比較的に綺麗な通路になってきた。二回ほど角を曲がったドアの前で、群青は立ち止まった。
「入って」
「え?」
「なんでも言う通りにするって言ったでしょ。さぁさぁ、早く早く」
電子錠を開けて、中の部屋に孝太郎を押し込む。『部屋』とはいっても、そこはわずか四畳ほどの広さしかない個室で、ベッドと机、あとはささやかな私物で一杯になるくらいの空間しかなかった。だが月で暮らす人間にとっては、これでも比較的まともな私室だといえるくらいだ。
センサが反応してデジタル窓――奥の壁一面を占めるパネルが点灯する。映った風景はどこかのこぎれいな湖畔だった。
「あの、この部屋は?」
群青はにやりと笑って孝太郎をベッドに押し倒した。軽く足払いをされ肩を押されただけなのに、孝太郎はまるで抵抗もできずにきれいに倒れた。
「うっ……」
勝負に負けた以上、言いなりになるのは仕方がない。えろいことはいやだけど、できるだけ、がんばります。
どうしたらいいのか分からないので、とりあえず両腕をクロスさせて仰向けの姿勢をとっていたら、群青が不思議そうにたずねた。
「なに? エジプトのミイラ?」
「いえ。なんとなく……ってミイラ?」
そんなふうに見えるだろうか、見えるかもしれない、どうなんだろう……などと姿勢をあれこれ試していると、群青はベッドから離れた。
「よし。そのまま、ここで寝てて」
「え。なんで……」
「そうだな、えー……一二時までそこを動かないこと。それだけでいいよ」
腕時計をちらりと見て言う。
「あの、よく分からないんですけど、ひょっとしてこの部屋、群青さんの部屋じゃないんですか?」
「うん。じゃあね」
ひらひらと手を振って、群青は部屋を出ていってしまった。扉が閉まりロックがかかったが、照明もデジタル窓も点灯したままだった。
「あの、ちょっと……?」
訳がわからない。改めて室内を見返してみると、ポスターが何枚か目に入った。陸上選手……これはマラソンだろうか? 名前は忘れたがニュースで見たことのある選手だった。その選手がホノルルだかどこだかを走っている姿。
それとビニール製のピンクのイルカが部屋の隅っこに立てかけてある。抱き枕かと思うくらいデカい。ただでさえ狭い部屋だというのに。
他には特に目につくものはない。群青薫とは出会って一〇分かそこらの間柄だったが、それでもここが彼の部屋でないことは容易に想像がついた。なんというのか……この部屋には色気がない。マラソン選手のポスター以外は、まるで飾り気がないのだ(ピンクのイルカだけは例外だったが)。むしろ実直な兵士か何かの部屋みたいだった。
「…………」
仕方がないので孝太郎は言われたままに、その見知らぬ部屋でじっとしていた。疲れていたが眠れそうになかった。実は地球から月まで、愛用の枕をトランクに入れっぱなしなので、ずっと熟睡できていない。枕が変わると眠れないタイプなのだ(しかも六分の一Gだし)。
一五分くらいたっただろうか。
なんの前触れもなくロックが解除されて、男が入ってきた。
歳のころは孝太郎と同じくらい。短髪、痩躯だが一目で筋肉質とわかる。印象的なのは目だ。大きく、ぎょろりとしている。
その彼が孝太郎を凝視して、大きな両目をぱちくりとさせた。
「あの……?」
孝太郎は声をかけたが、相手はひとこと、
「すみません、間違えました!」
と叫ぶと、部屋を出て扉をばたんと閉めてしまった。オートロックがガチャリとおりる。孝太郎は寝そべったまま、ぽかんとしてとりのこされた。
それから一分がたった。
もう一度、ロックが解除されて同じ若者が入ってくる。彼はふたたび孝太郎の姿を認めると、
「すみません、また間違えました!」
と叫び、ふたたびドアを閉めた。
それからさらに一分がたつ。
ドアの向こうに人の気配。困惑した息づかい。
ロックが解除され、今度はゆっくり戸が開き、同じ若者が顔をのぞかせた。孝太郎と部屋のポスター、その他の私物を慎重に見比べて、懐疑的な様子でこう言ってきた。
「お休みのところ、すみません。その、この部屋、たぶん、自分の部屋だと思うのですが……」
「そうなんですか?」
「ウッス。自分は刈安武といいます。で、そのポスターとか鞄とか、自分の持ち物と瓜二つで……つか、やっぱり自分の部屋っすよね? 絶対、間違いなく、オレの部屋だよね? オレの部屋だよな?」
部屋を見回し、ようやく確信が持てた様子でその若者――刈安武は言った。
「つか、なんできみ寝てるの。そしていつまで寝てるの、起きろよ!」
「すみません。ある人との約束で、ここで寝ていないといけなくて……」
横になったまま、孝太郎は応えた。
「いや、だからこの部屋、オレの部屋だっての!」
「それはたぶん本当なんでしょうけど、一二時までここを動かないよう言われたものでして……。いま何時ですか?」
「一〇時すぎだ」
「ええ。まだ二時間もあるよ。長いなぁ」
「居座る気満々かよ! だいたい誰なんだ、おまえは! なぜオレのベッドで寝ているんだ、しかもミイラみたいに腕をクロスさせて!」
「自分は真朱孝太郎といいます。あなたのベッドで寝ている理由は、よくわかりません。腕をクロスさせているのは、なんとなくです」
「なんとなく、だと!? おまえ、なんとなく腕をクロスさせるのか!」
「なんか、どこに腕置いたらいいかわからなくて……」
「そうか、でもそんなのどこだっていい。オレの部屋からさっさと出ていけ!」
刈安武は開けっぱなしのドアをばしばしと叩いて叫んだ。
「ですから、出ていきたいのは山々なんですが、ここに寝ているように言われてるんです」
「だれにだよ」
「群青薫さん、という人です」
すると刈安は天を仰いで嘆息した。
「ああ。またあの人か!」
「ご存知で?」
「職場の先輩だ! ちょっと待ってろ……」
刈安は天井を見つめ、端末でだれかに連絡をとり始めた。たぶん群青だろう。だがショートメールでは埒があかなかったらしく、通話に切り替えて相手に抗議した。
「群青さん! 何なんですか、この男は!? ええと……ま、ま」
「真朱孝太郎っす」
「そう! そのなんとかタロー! そいつがオレの部屋で寝てるんですよ! しかも変に腕をクロスさせて! 意味わかんないっすけど!」
相手の声は聞こえなかったが、たぶん笑っているのだろう。孝太郎に会話が聞こえていないのに気づいて、刈安が通話を共有に設定してくれた。孝太郎の端末の回線は相変わらず切れたままだが、刈安の通話には参加できるようになった。
『……クックッ。いやー、ごめん。ちょっと思いつきでイタズラしただけなんだ。その彼、うちの隊に入った新人くんだよ』
「え、こいつが?」
刈安は改めて孝太郎の顔をまじまじと、無遠慮に見つめた。ただでさえ大きな目が、間近でばちばちとまたたく。『ぱちぱち』ではなく『ばちばち』だ。
「ち、近い……」
「ふーん。葡萄染隊長も気づけなかった『庇』に気づいたって、本当なのか?」
「あ、はい。いちおう……」
「その時も腕をクロスさせてたのか?」
「いえ。つか何ですか、その質問」
『そういうわけで真朱くん。そこの刈安くんも同僚だから。仲良くしてあげてね』
群青が言った。
「は。あの。了解です。それで、自分はいつまでここで寝てれば……」
『ああ、もういいよ。ちなみにキミの部屋はそこの三室となりだから。刈安くんに開けてもらうといいよ』
そうだったのか。まあゲームに負けたのだから、これくらいの冗談は甘んじて受け入れなければならないだろう。
「群青さん、鍵を悪用するの、もうやめてくださいよ。こないだも帰ってきたら、デカいイルカさんが寝ててビビったのに」
ああ、あのピンクのイルカも群青の仕業なのか。
群青が刈安の部屋に入れたのは、アクセス権限を『同僚』に設定してあるからだ。事故や急病などに備えて、部屋の鍵を信頼できる人物に預けておくのは、宇宙生活者では常識に近い。本当の貴重品は別のロッカーに保管する。
『ああ、はいはい。あした早いんだから、じゃあ、お休み』
「群青さん!? ぐんじょ……あー、切れちまった。ったく」
刈安は孝太郎をぎょろりとにらんだ。
「……で、なんとかケンタロー。いつまで寝てるんだ。キーよこせ。おまえの部屋を開けてやるから」
「は。真朱孝太郎です。おねがいします」
ようやく孝太郎はむくりと起きあがった。低重力のことを忘れていたので、天井にぶつかって落っこちて、テーブルの小物類をめちゃくちゃに散らかしてしまった。
翌朝。
孝太郎は盛大に寝坊をしてしまった。
昨夜、ようやくたどり着いた部屋には、すでに自分のスーツケースが届いていて、その中には地球から持ってきた枕がしまってあったのだ(感動の再会だった)。孝太郎は六日ぶりにその枕に顔をうずめ、泥のように眠った。着替えもせずに、八時間は眠れただろうか。夢さえ見なかった。
ちなみにプロバイダとの契約は、昨夜のうちに刈安がオンラインで結んでくれた。窓口に行かなければダメかと思っていたが、簡単な抜け道があったらしい。
で、ようやく起きたら七時三一分である。
きのう葡萄染隊長に『八時から当直』と言われていたのに。孝太郎は血相を変えて、身支度らしい身支度もほとんどせず、オレンジの活動服だけは着て(本当は本部のロッカールームで着替えるのだが)、部屋を飛び出した。
『朝』といっても街の照明が白く強くなっているだけで、本当の月面は『午後』くらいの時間だが、レヴァニア市は賑やかだった。
きのう群青と出会ったような広場には屋台がいくつも出ていて、粗末なテーブルで朝食を飲み食いしている人々で賑わっていた。
その人ごみをかき分け、何度か通行者とぶつかり、鴻救命の本部を目指す。回線が復活していたので、今度は道に迷わなかった。
鴻救命の本部はレヴァニア市の港湾部の一角にある。
港湾部は地上の離着陸パッドから直通の構造だ。他の運送会社や整備会社と同じで、複数の大型エアロックにアクセスできるようになっている。
孝太郎は広めの通路を飛ぶようにして走り抜け、鴻救命の本部に飛び込む。出会う人々に片っ端から『おはようございます!』を連発し、ロッカー室を抜けて講堂に飛び出していく。
時刻は〇七五九時。
講堂にはすでに葡萄染隊長率いる三隊と、ほか三つの隊が整列しようとしているところだった。朝の当直交代が行われるのだ。
昨日から二四時間、勤務していた二隊と四隊が休みに入り、一隊と三隊が当直に入る。軌道上の『フィオルクヒルデ』の当直とはまた別のシフトだ。人口一万のレヴァニア市はその市と周辺だけでも出動がかかることが頻繁にある。
レヴァニア市に、二週間。
月軌道のステーション『フィオルクヒルデ』に、二週間。
これを交互に繰り返すのが、ゲッキューのおもな通常勤務だった。
「お、おそくなりました……!」
孝太郎はどうにか遅刻を免れた。荒い息のまま列に加わる。
孝太郎の三隊――『隊』とはいっても、わずか五名だ。
あの葡萄染克也隊長と、筋トレマニアの巨漢、常盤勇吾。そして昨夜に出会った群青薫と刈安武。
それに新たに加わった真朱孝太郎。
各隊で五名。四隊で計二〇名。それと副司令と専門官など四名で計二四名。
全員オレンジの活動服をぴしりときれいに着込んでいる。いや――全員ではない。孝太郎は活動服をかろうじて着ているだけで、裾ははみ出て、袖はボタンも着けておらず、靴ひももほどけかけている有様だった。
孝太郎も低軌道での勤務経験はあるので、こんななりで列に並んだらどんな目に合うかはわかっている。それでも遅刻よりはましだと、こうして駆けつけたのだ。
「各隊、容儀点検! かかれ!」
副司令が命じると、各隊の隊長が進み出て、自分の隊の容儀点検を始めた。
容儀点検。
身だしなみ、服装に乱れなどがないかの点検作業である。
これに不備があった場合、隊員はペナルティをこなさなければならない。もともとは自衛隊や消防、海保などの習慣だったと聞いている。ペナルティの種類は組織や部隊によってまちまちだが、たいていは腕立て伏せや懸垂などだ。
葡萄染隊長が、まず常盤副隊長の前に立つ。
上から下までチェックするしぐさは見せるが、葡萄染はなにも言わずに常盤の前を素通りする。
次は群青薫だ。昨夜の非番の時とはうって変わって、まったく隙のない完璧な装いだった。こちらも問題はなかったらしく、葡萄染隊長は通り過ぎる。
刈安武も一見すると不備は無さそうだったが、葡萄染は注意深い目で彼を観察し、
「ズボンのプレス、名札の角度」
と言った。見た感じ刈安のズボンはきちんとアイロンがけされているし、名札もおかしなところはなかったが、至近距離で探せばアラはあるのだろう。
「計二点! 腕立て二〇回、かかれっ!」
「オスッ! 刈安航宙士、腕立て二〇回! かかります!」
刈安は回れ右して駆け出し、講堂の片隅にかけてあったタイヤのゴムチューブを手に取ると、また元の位置に駆け戻った。そしてそのチューブを首からかけて、両腕でピンと突っ張ったまま『伏せ』の姿勢を取った。
「いちっ! にぃっ! さんっ!」
リズムよくこなしていく。六分の一Gなのでただの腕立て伏せは軽すぎる。あのゴムチューブを使って動作を重くしているのだ。
腕立て伏せを始めた刈安は放置して、葡萄染が孝太郎の前に来た。まるで初対面のようなよそよそしさだった。
「帽子のズレ、ワッペンの不備」
二点だけ? そう思った直後に、怒涛の勢いで不備の指摘が始まった。
「ボタンのかけ忘れ、バックルの曇り、ワッペンの位置違い、名札の不備、爪が伸びている、靴ひもの結び方――」
まあ、それはそうだ。遅刻しなかっただけマシだと手心を加えてくれるわけがない。葡萄染は更にシャツを脱がし、ズボンをずり下ろして下着までチェックを始める。
「Tシャツにほつれ、パンツの柄が地味、全体的に着こなしがダメ、あとなんか目つきが悪い――」
もうほとんど言いがかりである。
「――以上! 一二点の不備! 腕立て一二〇回!」
いや一〇点でしょう。なにサラっと二点、水増ししてるんですか。……と指摘したかったが、もちろんこの場では許されるはずも無い。孝太郎は命令を復唱するしかなかった。
「はい! 真朱航宙士、腕立て……一二〇回! かかります!」
刈安のやり方を見ていたので要領はわかった。回れ右して講堂の片隅にあるタイヤチューブを取りに走る。ここは講堂というより狭めの体育館に近い。孝太郎は走る時の自分の足音で、なぜか中学時代のバスケ部のことを思い出した。一歩一歩は間伸びしているが、踏み締めるたびにキュッ、キュッと音がするのだ。
他の隊でも数名の不備は出たようだったが、さすがに孝太郎のように一〇点以上という者はいなかった。タイヤチューブを手に取って列に戻りすぐに腕立ての姿勢になる。首にチューブをかけて両腕をつっぱり――
重い!
チューブは途中で結び目を作ってあり普通のものよりも随分と短くなっている。腕を伸ばしているのはもちろん、縮めている時も負担がひどい。はっきりいって一Gの腕立て伏せの方がはるかにラクだった。
「い……いぃーーちっ! にぃーーいっ! さあーーんっ!」
これを一二〇回。できるだろうか? 地球でも腕立てなんて一〇〇回くらいしかやったことがない。いきなり朝からえらいことになった。
「じゅーーしっちっ! じゅーーはっちっ! じゅーーきゅっ! にじゅーーっ!」
見れば刈安武は自分の腕立てを終わって、ゴムチューブを返し、列に戻っている。
孝太郎のペナルティの腕立てが終わるのを、当直交代に参列した全員、二四名が直立不動の姿勢で待ち続けている。老いも若きも。偉い人も、怖そうな人も。みんな無表情で。これもつらい。
孝太郎は新人だ。この手の『歓迎』を受けるのはよくあることだろうが、それがわかっているからといって腕立てが楽になるわけでもない。
それでも六〇回を超えるまではある程度のペースを保つことはできた。しかしその後は途切れ途切れでどうにか続けているのが精一杯で、一〇〇回に達するころには声を出すのもやっとの有様だった。
「……ひゃーーく、いっち……。ひゃーーく、にぃ……。ひゃーーく……。…………っ。さ、さ……さあーん……」
葡萄染隊長は酷薄極まりないサディスティックな顔で(見えなかったがきっとそうだ)孝太郎を見下ろしている。
「早くしろ。あとたった一五回だぞ」
その一五回がキツいのだ。だいたい最後の二〇回は隊長が勝手に増やしたんでしょうが。本当ならもう自由になっているはずなのに!
「……ひゃ、ひゃーーく、きゅう……。……ひゃーーく……じゅう……。ひゃ、ひゃ……ひゃーーく、じゅういーち……」
汗がゆっくりとしたたる。腕ががくがくと震える。その場に突っ伏したい衝動がすさまじい。
「……ひゃくじゅーーう、なーーな……。ひゃ……ひゃくじゅーう、はーーっち……」
もう無理。もう限界。腕が言うことを聞いてくれない。
「……ひゃーーく……じゅーう……きゅ、きゅーーう」
無理。無理。無理。
「ひゃーー……くっ、にじゅっ……」
辛うじてカウント。床に身を投げ出したかったが、グッとこらえて立ち上がり、チューブを返して列に戻る。
そんな孝太郎の存在などすぐに忘れたかのように、葡萄染隊長は、直立の姿勢で副司令に向かって言った。
「三隊、容儀点検、よし!」
「各隊、容儀点検完了。二隊隊長、申し送りを伝達せよ」
「はい。先週から続いているレヴァニアの第二発電所の不具合ですが、部品調達が遅れているそうです。地球から部品が届くのは五日後です。まだ電力不足を心配する段階ではありませんが、注意が必要です。またケプラー区で起きている微量の気圧低下ですが、昨夜時点で原因の範囲を三地区まで絞りこみ……」
孝太郎の腕立てが終わるのをずっと待っていたのに、副司令も他の隊員たちもまるで苛立った様子を見せなかった。舌打ち一つ、嘲笑の一つもない。
なぜか孝太郎は、まだほとんど知らないこの同僚たちを信頼できると感じた。
腕立て一二〇回どころか、二〇〇回でも三〇〇回でも彼らは不動で待ち続けてくれるのだろう。そう、本当に命のかかった現場でも。
次は待たせないようにしたい。強くそう感じた。
「……アホか!? 内心ではブチ切れまくっとるに決まってるだろ! 腕立て一二〇回なんてスルッと済まして涼しい顔してろ、このバニーボーイが! だいたい正式な着任の初日にギリギリ出勤とかするか!? しかも活動服はだらしねえし! ホントは容儀の不備なんて三〇点でも足りねえくらいだよ。でも他の隊が待ってる手前、仕方ねえから減らしたんだ! 恥ずかしいったらねえよ、まったく!」
当直交代後、講堂に三隊だけ残ってから、孝太郎が礼をいうと、たちまち葡萄染隊長が爆発した。
少なくとも一名は、信頼が危うい人がいたわけだ。
とはいえほかの三隊の面々は、まったく呑気なものだった。
「いやー、真朱くんが選んだタイヤチューブ、一番サイズが小さくてキツいやつだったんだよ。知ってた?」
と、群青薫がおかしそうに言う。
「え?」
「オレ、あえて選んだのかと思った。でもその様子じゃ、知らなかっただけみたいだな……」
と、刈安武が言う。
「なんだ? 二人とも、真朱くんと面識あるのか?」
と、訝ったのは巨漢の常盤副隊長。
「面識というほどではないですが、昨夜、ほんのちょっと。ね?」
「は、はあ。まあ……」
おずおずと孝太郎が答えると、刈安が思い出したように群青に食ってかかった。
「そうだ! 群青さん、もうオレの部屋に変なもの置くの、やめてくださいよ!」
「でもピンクのイルカは気に入っただろ? 真朱くんも気にいるかと思って」
「なんスかそれは。イルカさんだけで十分スよ。真朱はいりません」
イルカが気に入ったのは事実らしい。あとこの人、必ずイルカに『さん』をつけるのはなぜなのか。
「あー……。とにかく真朱のことは知ってるんだな? じゃあ自己紹介とか要らねえか。さっさと朝の体操いくぞー」
と、葡萄染が課業をこなしにかかろうとすると、常盤が割って入った。
「隊長。そうは言っても、けじめは必要です。最低限の紹介はやっときましょうや」
「うーん、そうか? じゃあ……まあ。俺と勇吾はもう知ってるだろ。隊長と副隊長。それで……群青」
「はい」
群青がいちおう、背筋を伸ばした。
「こいつは群青薫。テクニシャン(技師)をやってる。キャリアは――三年だっけ?」
「四年です。一年、自衛隊にいたんで」
「そうだった。あと京大出のインテリだ。なにか分からないことがあったら群青に聞けよ」
「そういうわけで、よろしく。真朱くん」
群青はにこりと笑った。これまでとは違って、まったく何の含みもない笑顔だった。普通にいいひとなのかもしれないな、と孝太郎は思った(普通にいいひとは同僚の部屋に、変な置き物をして遊んだりしないが)。
「はっ、よろしくお願いします」
「んで次は……刈安」
「はい!」
葡萄染に呼ばれて刈安は直立不動の姿勢をとった。
「こいつは刈安武。メディック(救命士)だ。まだ月には一年くらいだな。おまえと一番歳が近いから、仲良くしてもらえ」
「よろしくお願いします」
「…………」
刈安は大きな目を光らせ、こくりとうなずくだけで何も言わなかった。どうも仲良くしたそうには見えない。
これは敵意……?
いや、敵意というほどではないが、なにかを警戒しているように思える。それが何なのかは孝太郎にはまるで想像がつかなかったが。
「なんだ、刈安? 後輩ができて少しは喜ぶかと思ったのに。隊長からいじってもらえなくなるのが心配か?」
と、常盤が少しからかうように言った。
「な……なんスか、それは。そ、そんなんじゃないっスよ」
ものすごく図星っぽい。
「よくわからんが。もう二年目なんだ。いつまでも新米気分じゃ困るぞ」
「は、はい!」
葡萄染に言われて刈安は姿勢を正した。
「じゃあ、真朱。おまえもなんか自己紹介しろよ」
「え?」
「『え』じゃねえだろ。得意な歌とか、得意な盆踊りの曲とか、なんでもいいから披露しろ」
「それは自己紹介とは違うのでは……」
「とにかくなんでもいい、早くしろ」
「え……っと」
三隊の四人は孝太郎の言葉を黙って待っている。奇妙な緊張を感じた。
「真朱孝太郎です。一応、EVAマスター(船外活動士)です。得意な歌とかはありません。以上です」
「それだけ?」
「はい! それだけです」
「つまらん……。体操はじめるぞ」
四人は失望もあらわに散り散りになって、手足を振って体操に取りかかった。
そこそこにハードな体操(チューブ体操)をこなした後、会議室でミーティングを行ない、今日の予定について説明を受ける。
三隊は現在、二四時間の当直中だ。だがぼーっと待っていればいいわけではない。
機材の点検をした後、昼食前にEVA訓練。その後に事務作業。時間ができたら夕飯。その後、屋内訓練。その後、仮眠。そして明日朝八時に当直を交代。おおむねこんな感じだった。
もちろんレヴァニア市か、その周辺でなにかが起きて出動要請がかかれば、これらの予定はキャンセルになる。
出動。つまり誰かがどこかで助けを求める、ということだ。
「だがまあ、今日は三隊はバックアップだし、出番は来ないと思うよ」
緊張を隠せない様子の孝太郎に気づいて、副隊長の常盤が言った。出動がかかるにしても、三隊と共に当直に入っている一隊が、まず出動する。一隊だけでは手に負えないか、別の出動がかかったとき、三隊の出番となるのだ。
「そうそう。ボクなんか新人で配属されたとき、二ヶ月くらい出動がかからなかったよ。あれはあれで、精神衛生によくないね」
と群青が冗談めかすと、刈安が咎めるように言った。
「そんな! 出動がかからないのはいいことっスよ! 精神衛生にもいいはずっス!」
「あー、うん。キミはそうなのかもね」
刈安の反応は毎度のことらしい。群青は軽くあしらうだけだった。
「何にしても、油断はするなよ」
葡萄染が言った。
「むしろそうやってのんびり構えてるときこそ、厄介ごとが迷い込んでくるもんだからな」
「こないだみたいに?」
常盤が茶化すと、葡萄染はむっとした。
「のんびりなんて、してなかったぞ?」
「いやあ、俺の記憶じゃ、かなりのんびりしてたよ。なあ真朱?」
急に話を振られて、孝太郎は困惑した。
「いえ。はい。ど、どうだったでしょう。矢沢永吉を鼻唄で歌うのは、のんびりっすか?」
「それは油断しまくりだね」
と、常盤が笑う。
「よほど月に帰ってきたのが嬉しかったんですかねえ」
と、群青。
「しかもヤザワとは。隊長の十八番です」
と、刈安。
「あー! もうその話はやめやめ!」
ばつが悪そうに手を振る。
そのおり、彼らの会議室に初老の男が入ってきた。
「おー。やっとるな」
今朝の当直交代では見なかった顔だ。だが刈安や群青がその男を見るなり直立不動の姿勢になり、葡萄染と常盤もわずかに居住まいを正す。端末が復活していたので、孝太郎にもすぐに相手が誰だかわかった。
錫源十郎本部長だ。
鴻救命の月でのトップにあたる。彼より偉い人は地球にしかいない、ということだ。
小柄だが芯のある物腰。現場には出ないらしくスーツ姿だ。首などは色白だが顔の前半分だけ焼けていて、小さい皺がたくさんある。EVAの大ベテランによくある特徴だ。年は五〇代くらいだろうが、もっと老けて見える。
「本部長。きょうは休みじゃなかったんですか?」
葡萄染がたずねる。
「うん。でも新人くんが見たかったんでね、散歩ついでに寄ったの」
錫は孝太郎をちらりと見た。孝太郎は直立不動の姿勢をとっていたが、さらに背筋を反らして緊張した。
「ここの本部長やってる錫です。よろしくね」
「はっ。真朱孝太郎です! こ、こちらこそよろしくお願いします!」
「聞いたよ? エビを出し抜いたらしいじゃないの」
「はっ。たまたま、幸運というか……」
「うん。でもこの業界、なにも起きないのが幸運だから」
一段階低いトーンだった。
「す、すみません」
「なんてね! ごめんなー、説教くさくて」
錫は破顔して孝太郎の肩をぽんぽんと叩いた。その時に気づく。彼の両手の指が半分以上なくなっていた。親指と人差し指、中指はかろうじて残っているくらいで、小指と薬指は完全に欠損していた。
孝太郎が密かに驚いているのに気づきもせず、葡萄染がぼやいた。
「説教くさいってわかってるなら、言わなきゃいいのに」
「んー、つい出ちゃうの。そういうお年頃なんだよ。エビも年取ったらわかるって」
「いや、でも本部長、昔からそうじゃないですか」
「そう? ま、いいや。とにかく頑張って。お邪魔したね」
指の欠けた手をひらひらさせて、錫は会議室を出て行った。
「なんだ? ヒマなおっさんだな……」
「お前の様子も見たかったんじゃないか? 休暇明けだから」
常盤が言うと、葡萄染は短くうなずいた。
「ああ。オヤジもあれで心配性だからな」
「あの、本部長の手は……」
孝太郎がたずねる。
「現役時代の負傷だよ。凍傷でな」
「凍傷……」
「昔、夜に遭難した要救助者に電力をギリギリまで分け与えて……氷点下で何時間も耐え抜いたそうだ」
そう説明する葡萄染の横顔には、錫に対する深い敬愛の情が浮かんで見えた。ちょっとだけ、少年に戻ったようだった。葡萄染のそういう顔ははじめて見た。
「まあいいや。で……次は何やるんだっけ」
「機材点検だろ」
常盤が言った。
機材点検。
その名の通り、救助作業で使用する機材を点検する作業だが、ゲッキューではその点検作業が少々面倒くさい。
地上の消防隊などなら、職場に隣接して機材置き場があって、隊員はそこに足を運ぶだけで点検ができるわけだが、月面に出動する彼らはそうはいかない。
なぜか。レゴリスのせいである。
レゴリス――月面の砂は、ただの砂ではない。地球の砂は、風や水によって表面を削られ、ミクロレベルで見ると丸い形をしている。だがレゴリスは風も水も無い世界の産物なので、削られることがない。角張っている、尖っている。これが人体に吸い込まれると、ひどい害を与えるのだ。
しかもレゴリスはきめが細かく、物品に付着すると簡単にとれてくれない。そのため、一度月面の『屋外』で使ったことのある機材は、基本的にもう『屋内』には持ちこめない。ロープやスコップ、カラビナや担架などはもちろん、ローバーなどの乗り物も、人間の生活圏には持ち込み禁止である。任務や訓練のたびにすべての救助用機材を徹底洗浄するというのは、現実的ではない。
では、そうした機材はどこにあるのかというと、鴻救命の本部に隣接したエアロックの外、非与圧エリアに置いてある。つまり隊員たちは機材の点検をするためだけに、宇宙服を着なければならないのだ。非効率なようだが、長年の運用の末、けっきょくこの形に落ち着いている。
三隊の五人はまずEVAスーツ(宇宙服)のインナーを着ると、互いに気密、電力、通信をチェックし、エアロックに向かった。二段階あるエアロックのうち内側を抜けてからEVAスーツのアウターを着る。その間、葡萄染と常盤は他愛のないプロ野球の話題で盛り上がっていた。
「ヤクルト、勝ったってさ」
「本当かよ、さっきまで二点差だったのに」
「本田が3ラン打ったって」
「ホントか? いやうそだろ。絶不調だったじゃねえか!」
孝太郎は野球にまったく興味がなかったので、三八万キロ彼方の試合結果で、なぜこんなに盛り上がれるのだろう、と不思議に思った。
非与圧エリアに入る。ここから先はEVAの資格保持者以外、立ち入り禁止だ。
そこは地下から地上へつながる広大な空間で、ちょうどドライエリアのような構造になっている。壁面にはいくつもの露天式エレベータが設置され、エンジニアや作業員が出たり入ったりして、人の出入りがはげしい。
鴻救命の機材置き場はすぐ近くにあった。ここはすでにレゴリスの汚染エリアだが、ぱっと見はきれいなもので、床もほとんど汚れがなかった。いまは見えないが、たぶん清掃ロボットが定期的に働いているのだろう。
施錠された扉を抜けて機材置き場に入る。ローバーなどの乗り物のスペースと、機材を収納したロッカーが立ち並ぶスペースの二つに分かれていた。
「よしかかるぞ。常盤と群青はローバー。刈安と新人はロッカーだ」
「了解」
「えー……一〇時までに終わらせる。あと三〇分。かかれ」
葡萄染が命じると、一同はさっと散りそれぞれ機材の点検に取りかかった。だが孝太郎だけは何をしたらいいのか分からず、所在なげに突っ立っていた。
「ええと……あの」
誰も聞いていない。葡萄染もタブレットを片手になにかを入力していて、こちらにはまったく無関心だった。
孝太郎はとりあえず刈安のやっていることを真似してみた。彼の開けているロッカーのすぐ向かいを開けて、中身を見てみる。
そこにはジャッキ類が整然と収納されていた。シリンダー型のものからマット型のもの、ただのコンクリート製ブロックも大小様々。擱座したローバーや転倒した建築物に使うのだ。細かな傷がたくさんついたジャッキには、妙な迫力があった。たぶんこのジャッキは『実戦』に参加したことがあるのだ。孝太郎はごくりと喉を鳴らした。
「……って、おい新人。なんとかコータロー」
刈安が背後から声をかけた(ここは真空なので無線越しだが)。
「はい?」
「その列のロッカーは隣の隊。四隊の機材だから勝手に触っちゃダメ」
「あ、そうでしたか」
あわててジャッキの入ったロッカーを閉じる。
「あのう、お尋ねしますが、三隊のロッカーは……」
「この列。ここからあそこまで」
それだけ言って作業に戻ってしまう。だがすぐに思い直して、ため息まじりに言ってきた。
「……手分けしてやらないと間に合わないか。お前は下段のロッカーから点検しろよ。分からないことがあったら、聞いていいから」
「あ……はい!」
孝太郎が犬だったら、確実に尻尾を振っていただろう。下段のロッカーに飛びつき、点検をはじめる。
が、わからない。
開いたロッカーにはどっさりとロープ類が詰まっていたが、これをどうすればいいのか。孝太郎は刈安にたずねた。
「すみません、わかりません」
「ん。なにがだ?」
「なにがわからないのか、わからないです」
「おまえなあ……!」
刈安は一瞬、声を荒げそうになったが、またすぐに思い直した。ついさっき『聞いていいから』と言ったことを思い出したのだろう。
「もしかして、XR使ってないのか?」
「はい。なぜです?」
「ああー……まったく。端末のXRの選択画面に〝gekkyu_0210〟ってのがあるだろ。リストの下のほう」
「はい。ええと……」
孝太郎は宇宙服とリンクしている端末に、XR(拡張現実)の表示の選択画面を出した。普通、XRの表示はほとんどオフにしている。そうしないと広告やら政治ビラやら落書きやら、そうした不要な情報で視界がいっぱいになってしまうからだ。宇宙服を着て船外活動をしていても、無線の届く場所なら広告は無節操に現れる。こんなエアロックのすぐ外ならなおのことだ。
〝ad_035351〟、〝ad_124267〟、〝mdo_0001〟などといったXRの選択リストの一番下に〝gekkyu_0210〟があった。
「ありました」
「オンにして。パスは123456」
「それ、パスに選んじゃいけない奴では」
「知らねーよ。昔からこのパスなんだ」
「ははあ……。入りました」
その雑で不用心なパスを入力すると、ゲッキュー専用のXRが表示された。といっても、各ロッカーに番号とタグが重ねて表示されているだけの地味なXRだったが。
「そこにロッカーの中身が記録してあるから。実際の機材と照らし合わせて。変わりなければチェックだけしておく。不足や故障があったらチェックして報告。いいな」
「わかりました! ありがとうございます!」
XRの中のタグを開くと、ロープ類の番計、長さ、用途、数などがずらっと表示される。これはありがたい。孝太郎はようやく仕事に取りかかった。
いくつかのロッカーを点検していく。備品の不備は今のところ見つからなかった。
「あの、刈安さん」
すこし余裕が出てきたので、孝太郎は刈安に声をかけてみた。
「なんだ」
「昨日はすみませんでした。あんな風に……」
あんな風に、なんだろう? 続く言葉がいまいち思い浮かばなかったが、まあとにかく刈安の部屋に邪魔をしたことは、改めて謝罪しておきたかった。
「ああ。別に怒ってはいないぞ。群青さんのいたずらだし」
「群青さんは、いつもああいうことを?」
「いつもじゃないけど、たまに。忘れたころにやってくる。最初は小さなものだったんだ。手のひらサイズのダルマとか、フウセンウオのぬいぐるみとか」
「ははあ」
「それが次第に大きくなっていって、サッカーボールとか、桜島大根とか」
「桜島大根?」
「なんか、知り合いが栽培に成功したらしい。とにかくそんな調子でなぜかだんだん巨大化が進んで、ピンクのイルカさんでもう打ち止めかと思ってたら……今度は両手をクロスさせた男が置いてあった」
「そうでしたか。お気の毒に……」
「いや、おまえが言うな」
点検の終わったロッカーを閉めて、刈安は言った。
「おまえ、いくつだ?」
「二十歳です」
「じゃあ宇宙高専の出身か。オレは下地島なんだが、おまえは見たことない顔だ。ということは……」
「は。知多学校です」
「うぬぬ。やっぱりか」
日本には宇宙高専が二つある。知多と下地島だ。どちらが優秀、とかの差はないのだが、この二校は伝統的に互いに強いライバル感情を抱いている。
孝太郎の知多宇宙高専は、都会的で大人しい生徒が多い一方、刈安の下地島宇宙高専は体育会系の気質が強い。知多は名古屋まで電車で一時間だが、下地島は宇宙港があるにしても街らしい街は宮古島くらい。知多は女子が四割だが、下地島はなぜか九割五分が男子。知多は髪型が自由だが、下地島は基本的に丸刈り。
……訂正した方がいいかもしれない。
下地島が知多に対して一方的にライバル心を燃やしている。
「やっぱり、そうじゃないかと思ったんだ。髪型とか雰囲気とか、いかにも知多っぽいからな」
「そんなことを言われたのは初めてです。というか『知多っぽい』ってどんなですか」
「都会っぽいってことだ」
「知多が都会!?」
孝太郎は天を仰いだ。
「知多牛の牛舎があちこちにあるのに? そりゃ名古屋は近いですけど、都会といってもなにしろ名古屋ですよ? エビフライくらいしか自慢がないのに。いや、ほかにも自慢は色々あるけど、自分が感動したのはエビフライくらいです」
「さらっとひどいこと言うな」
「ただまあ……自分は宇都宮出身なんで、都会っぽく見えたとしたらそのせいかもしれません」
「宇都宮って都会なのか?」
「わかりませんが、とにかく知多を、知多を都会だなどとは言わないでください」
「わかった、わかった。下地島に比べれば都会だ、ってくらいの意味だ。そんなむきにならなくてもいいだろ」
「知多は都会じゃありません!」
「わかったって! しつこいな!」
けっきょく出身校の話題はそれきりになったが、興味が湧いたのか刈安はさらに尋ねてきた。
「それで高専の後は? すぐに鴻か?」
「はい。フロリダやらインドネシアやら、低軌道もちょこちょこ。一年くらい訓練と実地で」
「その辺はだいたいオレと同じか」
「鴻救命はブラックだし月給も安いからやめておけと、さんざん高専の先生には言われましたが。でも……宇宙で救難やるなら、鴻かアストロエイドしかなかったんで」
すると刈安は作業の手を止め、しげしげと孝太郎の顔を覗きこんだ。
「物好きだな。最初から救難希望だったのか」
「ええ」
「まあ、オレもだけどな」
そう言うと、刈安は笑った。
そういえば、彼が笑うのは初めて見た。ほんの少しだが仲間と認めてもらえたような気がして、孝太郎はすこし嬉しくなった。
その後、機材点検は完了した。特に大きなトラブルもなく、いくつかの摩耗した備品を交換に出しただけで済んだ。もっとも孝太郎の受け持ち分は時間ギリギリで、刈安の手を借りることになってしまったが。
「よーし。じゃあこのまま上いって訓練はじめるぞ。スーツの電力をチェックしろ」
葡萄染が言った。各自でEVAスーツを点検後、同僚にも見てもらう。電力、ヨシ。
「全員A装備で、2Cエレベータ前に集合」
一番軽装だが、実戦同様の装備だ。ロッカーから装備類――ロープバッグ、ハーネス、アッセンダー、カラビナ、クランプ、スリング、プーリーなど――を持ち出す。孝太郎も不慣れだが、とりあえずは問題なく装着を済ませた。
ゲッキューのEVAスーツ――そのアウターは救難用にデザインされている。視認性の高いオレンジ色でハーネス類が最初からついていて、予備の酸素タンクを背中につけており、長時間の放射線曝露などにも耐えられる。レゴリスにもロープの摩擦にも強い。その見た目は防火服を着込んだ消防士とよく似ている。
急ぎ足で鴻救命のヤードからほど近い、小型の露天エレベータの前に集合する。
「整列、右へならえ。番号」
「一」
「二」
「三!」
「四……!」
常盤、群青、刈安、孝太郎の順に数える。
「装備を確認する」
気をつけの姿勢の部下たちの前を歩き、ざっと不備がないか確認。孝太郎は――
「ハーネスベルトの緩み、ロープバッグがちゃんと閉まってない、あとやっぱり目つきが悪い、計三点」
その場で腕立て伏せを三〇回。葡萄染はごていねいに『屋外用』ゴムチューブを持参していた。EVAスーツでやる腕立て伏せは、また格別にやり辛い。それでもなんとか腕立てを終える。その間、三隊の面々は直立不動で待ち続ける。
「はぁ……はぁ……」
「今後、ゴムチューブはお前が持ってろ。EVA中はずっとだ。訓練でも実戦でも」
「お、おっす」
「よし。『外』に行くぞ。全員、エレベータに搭乗」
露天エレベータで数十メートル上の地表に向かう。巨大な縦穴の壁際に設けられたもので、上にいくにつれてレヴァニア市の全景が見えてくる。
同じように設けられた大小のエレベータ。無数のダクトとケーブル類。忙しく地表との間を行き来するシャトルやローバー。
彼らのエレベータは大の男が五人も乗るとすし詰めに近い状態だった。なのに腰の高さの手すりがあるだけなので、ちょっとしたはずみで転落しそうでひどくおっかない。六分の一だとしても重力はある。六〇メートルの高さから落ちれば命はない。
だが葡萄染と常盤は、のんきに昨日居酒屋で食べたモツ煮(もちろん擬似食品)の感想を言い合っていた。なんでもその居酒屋が、最近3Dプリンタを買い替えたらしいのだが、それが賛否両論らしい。
「確かにな、見た目は今の方がモツっぽいかもしれない。でも食感がダメだ。ふわふわしてるし、汁の絡みもない」
「でも食感を本物っぽくしようとしたら、解像度を上げなきゃならないしな……」
「そう、それだ。いっそ七二〇ナノくらいでモツをプリントするべきだ」
「一人前作るのに一時間くらいかかるんじゃないのか、それ」
そんなやりとりをしているうちに、エレベータが地表に着いた。
ケージの日陰を出ると、たちまち日光が襲いかかった。EVAスーツのバイザー越しでも目もくらむような光。はじめは何もかも真っ白だったが、すぐにバイザーの調光機能が働いてくれた。
ここは月面と言ってもレヴァニア市のすぐ上なので、無数の地表構造物が身を寄せ合っている。新品のエレベータもあれば、動いているのかも怪しい旧式のラジエーターなどもある。唯一言えるのは、これらの地表構造物を作った者は、だれ一人として市の美観など配慮しなかっただろう、ということだ。
だというのに独特の風合いはあるのが面白かった。当初は派手だったはずの色とりどりのユニットは、どれも太陽光線に色褪せ、むしろ不思議な統一感を醸している。
もっとも、葡萄染たちはこんな景色などすっかり慣れっこのようで、いまだに料理の話をああでもない、こうでもないと言い合っていた。
関連企業の資材が山と積まれたエリアをすこし歩くと、鴻救命の訓練場についた。訓練場といっても、たいした設備があるわけではない。いらなくなったコンテナを組み合わせて建物を再現し、廃棄ローバーやシャトルが置いてある。与圧エリアなどは全くないし、ライトと非常用電源の他は設備らしい設備もない。入り口のフェンスに鴻救命のロゴと『KEEP OUT』の看板があるだけだ。
三隊はその訓練場に入っていくと、まず腕慣らしに障害物競走をやった。
コンテナ内に設えられた障害物をすり抜け、その時間を計る。コンテナの中にはひっくり返った机や椅子、ラック類がでたらめに置かれてある。これがけっこうな重労働だ。低重力に不慣れな孝太郎がもっとも遅い結果になった。
続いて同じコンテナで、要救助者に見立てた人形を運ぶ訓練。重くはないが、かさばるので苦労する。何度も何度も、飽きるほどやらされた。
「それじゃラペリング降下いくか」
準備運動でも済ませたくらいの気軽さで葡萄染は言う。
一同はコンテナで作られた簡易ビルを上がっていった。高さはおおよそ六〇メートル。これまた高くておっかない。
この簡易ビルのてっぺんから、単身、ロープを使って降下するのがラペリングだ。実戦の状況次第では、空中に滞空している降下艇からラペリング降下しなければならないこともある。地球だったらヘリからの降下だ。これはそのための訓練だった。
「この仮設ビルは高く見えるが、地球でいったら一〇メートルくらいの高さだ。落ちても運がよければ助かるかもしれないから、まあそのつもりでかかれ」
警告なのだか気休めなのだか、よくわからないことを言ってから、葡萄染は自分のロープをこなれた手つきでほどいていく。
「まず俺が行く。次に群青、刈安、真朱。常盤が最後」
「はい!」
葡萄染は手際よく準備を進める。いくつものロープと様々な器具。自身のハーネスに下降器を(二つ)接続し、続いて支点からのびる黄色いロープに接続、降下に備える。
「下降器よし。降下地点よし。降下準備よし」
身を乗り出す。
「降下!」
びっくりするほどスムーズに降下。一瞬、ロープを身につけていないのかと思ってしまうくらい、まっすぐ、素早く降りていく。
「……着っ!」
瞬く間に六〇メートルを降下し、着地すると、すぐにロープを外す。
「ロープ、離脱よし!」
さすがにベテランだ。すべての動作に無駄がなく、洗練されている。
「次、群青!」
「はい」
葡萄染に続いて群青が降下する。隊長ほど早くはないが、安定した降下と着地だった。その気になれば、もっと早く行けそうなのに、あえてそうしていないようにも見える。
「次、刈安!」
「はいっ!」
刈安が降下する。荒削りではあるが、さすがに危なっかしさはない。ロープ離脱でやや手間どったが、それ以外は問題なかった。
「次、真朱!」
「は……はい!」
答えながらも孝太郎はごくりと唾を飲み込んだ。ラペリング降下自体は、地球での訓練で何十回も経験している。だがこんな高さは初めてだった。六分の一Gだから、単純計算すれば葡萄染の言うとおり一〇メートルくらいの危険度のはずだが、見た目はビルの二〇階くらいはある。
「要領は地球と変わらない。ただブレーキは早めに、な。真ん中過ぎたあたりで」
副隊長の常盤が後ろでささやいた。
「は、はい」
「大丈夫だ。意外と簡単だから」
常盤が最後まで残っていた理由がわかった。新人の孝太郎の面倒を見るためだ。
ロープを下降器に接続。安全索を常盤に取り外してもらう。
「下降器よしっ! 降下地点よしっ! 降下準備…………よしっ!」
はるか眼下に葡萄染たちの姿が見える。表情はバイザーで見えなかったが、彼らが笑ってはいないことだけは想像できた。
「降下っ!」
すぐには加速しなかった。ふわり、と体が浮き、ゆっくり、次第に下へ下へと吸い寄せられてゆく感覚。
さらに下へ。さらに、さらに下へ。
(ブレーキは早めに……)
そうだった。常盤の言葉を思い出し、孝太郎はロープの摩擦を強めてブレーキをかけた。
思ったより摩擦が強い。そうだ、落ちる強さは……六分の一でも同じなのだ。ブレーキさえかければ、感覚は地球での訓練とそう変わりなかった。やや強くブレーキをかけすぎて、ゆっくりした着地になってしまったが――
「……着っ!」
転びはしなかったが、ちょっとふらついてしまった。あわてて姿勢を取り戻してロープを外そうとする。だがロープが宙でくねくねとして、思うように手の中で動いてくれない。
「ロープ、り、離脱……よ……よし……よし!」

あたふたしながらロープを外す。どうにか成功した――そう思った瞬間、たちまち葡萄染に後頭部をはたかれた。
「いてっ」
「離脱が完了してから、『離脱』と宣言しろ。上にいる奴が知らずに降りてきたら危ねーだろ」
「あ……。すみません」
「あとブレーキはやすぎ。着地まで時間かかりすぎ。以上三点。三〇回」
孝太郎が肩にかけていたゴムチューブをつつく。さっそく腕立て三〇回をこなした。前ほどキツくないのは、だんだん慣れてきたせいだろうか。
孝太郎が腕立てを終えるのを待ちもせずに、葡萄染は一同に告げた。
「また上にいけ。今日はラペリングを徹底的にやるぞ」
「新人にはきつくないか?」
「月の低重力に慣れるには一番いいんだよ」
「そんなもんかね」
葡萄染の宣言どおり、その後はラペリング訓練が延々と続いた。ただの降下は五回くらいで、その後は降下台がガクガクと揺れる中を降りたり、上下左右に動く中を降りたりした(コンテナにアクチュエーターが仕込んであるそうだ)。かなり難しい降下もあり、群青や常盤さえ少しまごついたりしていた。そうした高難易度の訓練でも、隊長の葡萄染は難なくこなしているのは流石というべきか。
孝太郎は降下中に止まってしまったり、着地に失敗して尻もちをついたり、さんざんな有様だった。そのたびに葡萄染は罵声を浴びせて、尻やら頭やらをはたき、腕立てを命じる。温厚な孝太郎でも殺意メーターが上がっていくのを感じるほどだった。
もう何回、降下台を上ったかわからなくなってしまった。息も上がるし、体温も上がる。EVAスーツは警告音を何度も鳴らす。
「真朱、うるさい! 警告なんか切っとけ!」
「はぁ……はぁ……。でも規則では……」
「ここでは俺が規則だ!」
「そんな無茶苦茶な」
それでも何とか訓練にかじりつき、一回の降下で一〇回の腕立てくらいで済むようになってきたころ、葡萄染は命じた。
「よし。次、夜間訓練。これをかぶって降下しろ」
降下台の片隅に詰んであったバケツをつつく。ダイソーとかで売っていそうなただのバケツにゴム紐がついている。これをかぶって、視界ゼロの中を降下しろと言っているのだ。バイザーの透明度を最低にしても、周囲が明るいと輪郭くらいはわかってしまう。そのためのバケツだ。
「XR(拡張現実)は使用禁止。高度計だけを頼りに降りる。できるな?」
「え。そんな、いきなり……」
「手本だ。やるぞ」
葡萄染がバケツを持って、降下準備に入る。下降器よし。降下地点よし。そこで手にしたバケツをすっぽりとかぶって、宇宙服の留め金に紐をくくりつける。
「降下準備よし。降下」
後はこれまでと同じだ。葡萄染はするするとロープを滑らせまっしぐらに降下した。
嘘だろ? 目が見えないはずなのに。
続いて群青と刈安も目隠しで降下する。特に群青は、目の見えている時よりも早いのではないかと思うほどだった。
孝太郎の番だ。
準備後、目隠しのバケツをかぶる。何も見えない。これで降下なんて。
「降下準備よ……よし! 降下!」
と口では宣言しても、体は動かない。もう何度もやってるはずなのに。腕が脚が、言うことを聞いてくれない。
なんの脈絡もなく、突然やってきた暗闇は、彼の四肢から完全に自由を奪っていた。
「こ……降下……」
降りろ。降下しろ。降りるんだよ!
こういう時は葡萄染は罵声を浴びせてこない。じっと黙って新人のする事を見ている。それがまたプレッシャーだったりする。
降下だ! 降下!
だが動かない。なぜ動かない。自分自身でもわけがわからない。
「真朱、中止するか?」
どこかで常盤の声が聞こえる。すぐ背後からだと遅れて気づく。
「いえ、やれます」
口でそう答えても、手足がまったく言うことを聞いてくれない。こんな経験は初めてだった。
ちらりといやな思いが脳裏をよぎり、その記憶の断片がさらに体を締め付ける。
高いところはこわいけど平気だ。
早いのや、深いのや、時間がないのも、大変だけど我慢できる。
でも暗いのは、暗いのだけは――
「真朱。真朱。応答しろ、真朱」
「や、れ、ます……!」
もう何も考えない。ここがどこかも、何をしているのかも。考えたら負けだ。
気がついたら、孝太郎の体は宙に浮いていた。下降器のブレーキがなぜか利かない。自分が強く下降器を握りしめているせいだと、その時はわからなかった(自転車のブレーキと逆で、離すとブレーキが利くのだ)。
「あ……」
暗闇の中を落ちてゆく。
その感覚だけだった。手を振っても、足をバタつかせても、なにも触らない。
「真朱!!」
落ちてゆく。落ちてゆく。
このまま加速し、月の地表に叩きつけられる――
そう想像した瞬間、宇宙服の安全装置が作動した。アウターの各所に仕込まれてあったエアバッグが作動した。首や胴体はもちろん、手足までも保護するため、孝太郎の姿は外から見れば肉襦袢か何かでも着ているように見えただろう。頭に被ったバケツも、どこかに吹き飛ばされてしまった。
衝撃は意外に軽かった。一度きりだ。エアバッグが自発的に破れて、孝太郎は地面に大の字に寝そべる格好になった。
下で待っていた葡萄染たちは、もちろんエアバッグのことを知っていたので、心配した様子も見せない。
「殉職、一名だな」
と葡萄染が言う。
「いやあ、派手に落ちたね。どう、刈安くん? エアバッグ使用の先輩として」
と、群青。
「なんスか、それは。オレが落ちた時は半分くらいの高さでしたよ」
と、刈安。
「勇気はある」
と、遅れて降りてきた常盤が言った。すると葡萄染が誰に言うともなく『勇気はな……』とつぶやいた。
「すみません……。何が何だか、わからなくなって……」
群青と刈安に手を貸されて、孝太郎は立ち上がった。エアバッグが作動したせいで宇宙服のアウターはズタボロだった。ハーネスや背部のタンクは残っているが、ほとんどインナーが露出している。ここは訓練場なのでレゴリスは少ないが、それでもインナーの掃除をしなければならないだろう。
「あ……新しいアウター、取ってきます」
よろめきながら訓練場の出口めざして歩こうとすると、群青がそれを引き止めた。
「だめだめ。一人で行っちゃ。いちおう、船外活動中だよ」
「そ……そうでした」
二人一組の原則を思い出す。
「オレが付き合いますよ。隊長、許可を願います」
刈安が言ったが、葡萄染は軽く右手でそれを制した。
「待て」
左手で端末のジェスチャー操作。本部となにかのやり取りをしているらしい。すこしの間、一同は沈黙して様子をうかがった。
「……一隊に出動要請がかかった。したがって、これから三隊が副当直から本当直になる。
訓練は中止。直ちに本部に戻るぞ」
一隊に何らかの出動要請がかかった。それが何かはわからなかったが、本物の出動だ。自分たちの出番ではなかったが、孝太郎はドキリと心臓の鼓動が高まるのを感じた。
「やれやれ。本当直か」
と、常盤がぼやく。
「こういう時って、出動が重なったりするんですよね」
と、群青が言う。刈安は何も言わずに装備の片付けをてきぱきと始めていた。
孝太郎もすぐに思い直して、装備の片付けを手伝いはじめた。
いよいよ本番が近づいている――そう考えると先ほどの失敗のことなど、どこかへ吹き飛んでしまった。
本番が近づいている――はずだった。
はずだったが、一転して孝太郎の三隊はヒマになった。なにかがあったらすぐに出動できるように、本部で待機していなければならないからだ。
もちろん事務仕事はある。一日目なので細々した手続きが残っていたし、アウターをエアバッグで消費してしまったので、その報告書も書かなければならない。アウターは消耗品だが、それでもけっこうな値段なのだ。
ちなみに出動した一隊の方は、すでに帰還していた。
レヴァニア市内で起きた喧嘩騒ぎで、一部の区画に電力まわりの事故が起きたのだが、配電盤の故障程度で大ごとにはならなかったという。一度出動がかかると本当直と副当直は入れ替わったまま、という決まりなので、三隊はそのまま待機を続けている。
ほかの四人は孝太郎よりも先に事務仕事が終わってしまったので、のんびりお茶など飲んでいるのだった。
「書類仕事なんかテキトーでいいんだよ。AIにでもやらせとけ」
葡萄染がほうじ茶をすすりながら言った。
「そうは行きませんよ。それに自分の仕事を覚えなくちゃ……」
孝太郎は慣れないキーボードをつつきながら答える。
「ははん。若いやつは仕事熱心だねえ」
「お前も現場仕事だけは熱心だけどな。机仕事にも、もう少し熱心になって欲しいもんだ」
常盤がぼやいた。お茶を飲みながらもう片方の手でダンベル運動をしている(例によってゴムチューブを引いたり弛めたりだが)。常盤勇吾は暇さえあれば筋トレをしている。ただでさえ筋骨隆々なのに、これ以上鍛えてどうする気なのだろう。
「机仕事といえば」
と、群青が言った。
「ちょっと噂になってましたよ。葡萄染隊長が大宮に帰ってたじゃないですか。近いうちに地球の勤務に異動するんじゃないかって」
「俺が? なんだ、そりゃ? どこで出た話だ?」
「いやあちこちで。あくまで噂ですけど」
そう言う群青を、常盤がちょっとだけ意地の悪そうな微笑で見つめていたが、葡萄染に気づいた様子はなかった。噂の出所というのは、群青自身なのかもしれない。
「異動なんかするか。ただの里帰りだよ」
「本当ですか?」
「当たり前だろ。バカバカしい。嫁さんと娘にサービスして、見沼田んぼ行ったり山行ったり。回転寿司とか焼肉屋とか。それでまっすぐ戻ってきた。それだけだよ」
事務仕事をしていた孝太郎も、この会話には耳をそば立ててしまった。葡萄染隊長に妻子がいたとは。いや、いたっておかしくないだろうが、なぜか少しだけショックだった。
「娘さん、いくつでしたっけ」
「三歳」
「僕も姪がいますけど、かわいい盛りですよねえ」
「ああ、そりゃもう目に入れても痛くないってのはああいう事を言うんだろうなぁ……って、なにが言いてえんだ。俺に里心がついちまったとでも?」
「別に。ただ寂しいだろうな、と思って」
「まあ後ろ髪をひかれなかった、と言ったら嘘になるけどな。それも地球の低軌道ステーションまでだよ。あとは現場が恋しくて恋しくて……この通りさ。一刻も早く戻ることしか考えてなかった」
ほうじ茶を飲み干し、蓋つきの湯呑みをとんと机上に置く。葡萄染のその様子を、群青は注意深く見つめていたが、やがて納得したようにうなずき、ため息をついた。
「まあ、そりゃそうか。そりゃ、そうですよね。隊長が現場を離れるわけない」
「ご納得いただけたかね、群青くん」
「ええ。僕はまだまだ隊長から教えてもらいたいことが、山ほどありますからね。やめられちゃ困ります」
いつもふざけてばかりいる群青だったが、その瞬間だけは真面目な声色になった。葡萄染もその態度を茶化したりせず、『おう』と答えた。
「……それに帰り道はこいつがいたからな。ドタバタしてて、家のことなんて考える暇がなかったよ」
そう言って葡萄染は孝太郎をちょいちょいと指さす。
「ああ、そういえば。同じ便に乗り合わせたんですか?」
いきなり水を向けられ、孝太郎はきょとんとした。
「そうそう。それが聞いてくれよ、こいつアテンダントのオバちゃんにいきなり喧嘩売ってさ――」
「待ってください、喧嘩なんか売ってません」
「いや、だってあのオバちゃん、テイザー銃を抜く直前だったぞ」
すると刈安が驚いて、大きな両目を見開いた。
「テイザー銃とか、ガチでヤバいじゃないですか。真朱おまえ、なにやったんだ。痴漢とか?」
「なんでそうなるんですか。オバちゃんに手を出しそうに見えますか」
「それは分からん。まだ会って一日たってないし。もしかしたらそういう趣味かも」
「そう言えばそうだね。ここは真朱くんの好みのタイプを聞いておこうか」
と、群青が言ってくる。
「やめてください。し、仕事中ですよ? 隊長もなにか言ってください」
孝太郎が助けを求めると、葡萄染はしごく真面目な顔でこう言った。
「真朱航宙士。好みのタイプを申告してから仕事をしろ」
「なんですかそれは! 居ませんよ、そんなの」
「いいから言えよ。芸能人でいったら?」
「わかりませんって。動画とかあんまり見ないし」
葡萄染たちはまたしても失望をあらわにして、
「つまらん」
「がっかりですねー」
「暇つぶしになるかと思ったのに」
などと、口々に言った。
実際、三隊はヒマだった。
ヒマだが緊張を強いられる時間との付き合い方を、まだ孝太郎は学んでいなかった。手持ち無沙汰な自分と張り詰めた自分とのギャップを埋められなくて、待機室(兼事務室)の中を意味もなく行ったり来たりして、しまいには葡萄染にどやされたりした。
雑務はあるが、すぐに済んでしまう。夕方に体力錬成の体操があったが、それだって三〇分くらいだ。また待機に入って暇になる。
もちろん勉強することはある。端末からマニュアルを開いて、電動カッターの六分の一Gでの扱いを復習する。トルクに注意せよ。切断を試みていいもの、いけないもの。インド・中国系の施設では酸素濃度が高いので切断時の火花に注意……などなど。大事なことばかりだが、いまいち身が入らない。
群青はEVAスーツの手袋だけをつけて、配線の練習をしていた。古いLANケーブルをニッパーで切断し、繋ぎ直したりしている。器用なものだが、もっと早くしたいらしく、何度も何度も作業を繰り返している。
刈安もEVAスーツの手袋をつけて、こちらはロープと格闘していた。後ろ手で八の字結びやもやい結びを作り、また解いてを繰り返している。後ろ手でロープを扱うことなんてあるかどうかは分からないが、いい練習に思えた。あとで真似しよう。
孝太郎の貧乏ゆすりを見て、副隊長の常盤が声をかけてきた。
「真朱、落ち着かないか」
「いえ! そんなことは……いえ。やっぱり、そうかも……」
「こればっかりは慣れるしかないな。別にゲッキューだけじゃない、消防でも海保でも、世界中の新人が味わう気分だろうしな」
確かに。当直の変な緊張感というのは、別に月面都市でなくても同じだろう。そう思っただけで、孝太郎はすこし気分が楽になるのを感じた。
「常盤副隊長も新人の時はこうでしたか? こう……フワフワとしたような……」
「どうだったかな。ずいぶん昔のことなんで忘れちまったよ」
「はあ。……?」
常盤とのやりとりは別にして、変な匂いが漂ってきた気がして孝太郎は鼻をひくつかせた。
「それより、そういう時は筋トレだ。ちょうどゴムチューブが余ってる。一緒に上腕二頭筋を鍛えないか?」
「いえ、あの」
「今日は食事当番じゃなかっただろ。だったら夕方でも暇なはず……だ?」
常盤の声のトーンが一段階ほど変わった。変な匂いは強まっており、常盤も気付いたようだった。
「食事当番……」
常盤が周囲を見回す。群青と刈安は作業の練習中だったが、葡萄染の姿が見えなかった。
当直のときは五人のうち一人が食事当番として、調理を担当する。これは公平な持ち回り制で、上司も部下もない。そして今日の食事当番が書かれたホワイトボードを見ると、そこには『エビゾメ』と書いてあった。
「ああ、そうだった……」
常盤がなにかに観念したようにうつむく。群青も作業をやめ、部屋に漂う匂いを嗅いでため息をつく。刈安に至っては、半泣きに近い有様だ。
「? ど、どうしたんですか?」
「メシの時間だ……」
隣の調理場から顔をのぞかせ、葡萄染が言った。
変な匂いはその調理場から漂ってきている。
なぜだかその目は半ば血走り、顔つきもなにかに取り憑かれたようだった。
メシ? あの名状しがたい、変な匂いがメシのものだと言うのだろうか? あの……ツンと刺すようにするどく、それでいて甘ったるい、なおかつニンニクを一〇倍に濃縮したような匂いが……メシ?
「今日こそは食わせてやる。史上最高の麻婆豆腐をな……。逃げるなよ」
「あの、自分、用事を思い出して……」
刈安が待機室を飛び出そうとしたが、それより早く葡萄染がそのドアをロックした(それも指揮官権限で)。
「ひっ」
「逃げるな、と言っただろ。ンボンゴ、マニゲット、アサフェティダ……。苦労して地球から持ち込んだスパイスをどっさり使うんだ。何がなんでも食べてもらうぞ」
「ンボ……なんスか、それは。聞いたこともないっスよ、そんなスパイス」
孝太郎は偶然ンボンゴだけは知っていた。カメルーンだったかどこだったか。そんな黒シチューがあるのだ。旅番組で見た。
だが少なくとも、麻婆豆腐にはンボンゴを入れない。
「うまいんだ。保証する」
「そう言って毎回、地獄のような味じゃないですか。群青さんなんかこないだ一日中、舌が麻痺して喋るのにも苦労したんスよ?」
「やめて。思い出したくない」
群青の悲痛に満ちた声を、孝太郎は初めて聞いた。
「自分は隊長のこと、尊敬してます……! でもこれだけはパワハラだと思います」
「だったら本部に訴えろ。訴えないなら、おとなしく食え……!」
「そんな……!」
「刈安、いいかげん慣れろよ」
常盤が苦笑気味に言う。すでに諦めているのだろう。
「なに余裕こいてるんですか。副隊長だってこの前の翌日は、トイレで子供が産まれそうな声で叫んでたのに」
「ああ……。でもなぜか脂肪は落ちるんだよな……。筋トレ的にはプラスだった」
「生命にはマイナスですよ……!」
悲鳴に近い声をあげる刈安の肩を、葡萄染ががっちりとつかむ。
「今度は違う。今度こそうまいから。間違いなく、最高の味だから」
「普通でいいですから。ホント、普通に作れないんですか!?」
「普通なんてつまらない。自分を小さな型にはめるなよ。志は大きく持とうぜ」
「今夜のおかずで志とかいりませんから!」
葡萄染はぎろりと孝太郎を凝視した。
「真朱はもちろん食うよな?」
「は……」
孝太郎は鼻をくんくんさせた。ものすごい匂いだったが、食欲をそそる香りも混じっている気もする。それに隊長が一生懸命作った料理だ。いくらなんでも刈安の態度は大袈裟ではないのか。
「はい。ごちそうになります」
「そうこなくちゃな! よおーし、あともう少しで完成だから、楽しみにしてろよ!?」
「どうせ真朱が断ったって食わせるくせに……」
刈安がぼやくのを完全に無視して、葡萄染は腕まくりしながら調理場に引っ込んでいった。その背中を見送ってから、孝太郎がほっこりとつぶやいた。
「なんか、平和っすね」
『どこが!?』
ほかの三人が異口同音に言った。
一時間後、孝太郎は葡萄染の麻婆豆腐を食べて、スパイスのドン底に叩き落とされた。辛かったり酸っぱかったり苦かったり、散々に舌を酷使して、苦しみの限りを味わい、自分のほっこり発言を後悔した。
それでも残さず食べたのは、高専や訓練校時代の習慣もあるだろう。食える時に食っておかないと、飢える直前まで食べられないことがあるのがこの業界だからだ。
「もう死ぬ……」
葡萄染を除く四名はぐったりしていたが、当の料理人本人はピンピンしており、てきぱき食器を片付けていた。
「思い通りの味にはならなかったが……まあ、なかなか美味くできたな!」
本気か。あれがなかなか美味いって。
「あの、副隊長。隊長……奥さんがいるんですよね。あの味覚でどうやって付き合ってたんですか……?」
孝太郎はいちばん消耗が少なそうに見える常盤にたずねてみた。
「人から出されたメシを食ってる分には普通なんだがな……。自分で料理しようとするとああなるんだよ」
「はあ」
「普段、料理しない奴にありがちなことかもな。まあ、これであいつの料理当番は当分ないから、しばらくは平穏――」
その時、待機室にアラーム音が響いた。甲高く、ただの一回。
本部に要注意の情報が入ったのだ。
「……おっと」
常盤が机上の専用端末を操作する。小型の画面が大型化して机上に表示された(一部の情報が、こぼれた麻婆豆腐でよく読めなかったが)。
孝太郎は緊張を露わにして訊いた。
「出動ですか?」
「いや。まだだな。その手前だ」
ぐったりしていた群青と刈安も、すぐにその身を起こして端末を見にきた。向こうの調理場で食器を洗っていた葡萄染も、エプロンで手を拭きながら様子を見にきている。
「どこだ?」
「市の二キロ西。ハヌエル・ガンチョク社の製鋼所。火災が起きた。すぐに減圧して火は消えたが……その時に避難した作業員が二名、奥のチェンバーに閉じ込められているらしい」
「ふむ……」
その製鋼所の構造図が表示される。
製鋼所といっても、ここで作っているのは鋼ではない。鋼には炭素が必要だからだ。月では産業に使えるような炭素はほとんど産出されない。代わり、というわけではないが、月ではチタンが豊富に採れる。そのチタンを加工して合金化する工場が、ハヌエル・ガンチョク社の『製鋼所』だ。
その工場の一部で出火。火はすぐに消し止めたが(真空の月では火はすぐ消せる)、避難した作業員が、工場の隅っこ側に取り残されてしまった、という状況だ。
「古い工場だな。その避難したチェンバー、いまは使ってない旧区画からもアクセスできるんじゃないか?」
「いま、それを試してるみたいだ。アクセスできれば、作業員はそちらから避難できる。全員無事。あとは保険屋の仕事だ」
「アクセスできなければ?」
「うちの出番だな。チェンバーの電力と空気は……だいたい四時間ってところか」
「けっこうヤバいじゃねえか。準備しとくぞ。全員、宇宙服で第三エアロックに待機」
その後の行動は早かった。全員、慌ただしくはないくらいの早さでロッカー室に急ぐ。
EVAスーツのインナーは活動服の下に着ているので、すぐに準備ができる。昔はまずLCVGという全身用の冷却下着を着る必要があったが、いまはインナーにその機能が備えてある。ヘルメットを装備してインナーのファスナーを締め、各種点検を完了する。
孝太郎が一番遅かった。葡萄染などは本部とやり取りをしながら着替えているのに、一番早いくらいだ。
そばにいる者同士で点検を行う。
気密よし。電力よし。通信よし。
ここまで二分かそこらだった。インナーを着た三隊の五名がエアロックの前に集まる。
「まだ正式な出動要請は出ていないが、ローバーの準備まではしておく。いいな?」
「ん……」
と、常盤。
「はい」
と、群青。
「了解っす」
と、刈安。
「りょ、了解しました!」
と、孝太郎。自分だけ過剰に気が張っていると、そこでようやく気付く。ほかの四人も気付いただろうが、こういう時はなにも言わない。もしかしたら、自分の新人のころを思い出したりはしているかもしれないが。
「じゃあ行くぞ」
エアロックに入る。午前の装備点検と同じエアロックなのに、なぜか違って見えた。
EVAスーツのアウターを着て、もう一度チェック。非与圧エリアに出る。
「刈安と真朱は機材を運べ。群青は現場データのチェック。常盤はローバーの点検」
葡萄染が指示を出す。
孝太郎は刈安と共に救助機材をローバーに運び込む。機材の種類はXRに表示されているので訊ねる必要がなかった。B3カテゴリー。中量級で三番目の種別。該当するロッカーから装備を選んで引っ張り出す。六分の一Gなので軽いが、ロープ類が腕の中でどうしても踊り回ってしまう。
「モタモタすんな! 急げ!」
ローバーの後部キャビンに折りたたみ式エアロックを放り込み、刈安が叫んだ。たった一年だが先輩だ。動きにも無駄がない。自分もあんな風になれるだろうか……?
機材を次々に運んでいるうちに、常盤がローバーの発車準備を進める。群青はすでに後部座席に腰掛けてじっとしているが、あれはサボっているのではなく、端末に表示された現場のデータを読んでいるのだろう。
「B3のローバーへの搬出完了!」
機材の運び出しを終えて孝太郎は叫んだ。刈安はロッカーの方を一通り目視して、忘れ物がないことを確認した。
「ロッカーに忘れ物、なし。B3のローバーへの搬入完了!」
ああ。これはあとでまた腕立て伏せだ。ロッカーの目視点検を怠ったこと、一点。『搬出』ではなく『搬入』、一点。
計二点、二〇回。
「隊長。確認、願います!」
「うん……待て」
葡萄染は本部とやり取りをしていた。ブツブツなにか言っているが詳しくは聞き取れない。孝太郎は刈安と一緒にその場で直立不動していた。
隊長が装備を確認するまでは、動けない。
なにしろここは真空の月面だ。装備の不足が死をもたらすこともありうる。
「いま確認する。いや……やっぱ待て」
葡萄染はまた本部と通信をはじめる。
それが長い。やたらと長い。二、三分は待たされただろうか。そしてようやく本部との通信を終えて、こう言った。
「作業員は無事に避難できたそうだ。出動はなし。くり返す、出動はなしだ」
一同はため息をついた。それは安堵と肩透かしとがない混ぜになった、なんとも複雑なニュアンスのため息だった。
「まあ、無事でよかった」
と常盤がつぶやく。
「ちょっと、つまらないですけどね」
と群青がぼやいて顔の前で手をヒラヒラさせた。端末に表示されていたデータを消去しているのだろう。
「また、つまらないなんて! 人命がかかってたんですよ?」
と、刈安がつっかかる。
「ああ、はいはい。人命第一、人命第一」
「茶化さないでくださいよ。もう……」
一方の孝太郎は腰が抜けそうになるのを、どうにかこらえているところだった。すっかり出動するものと思っていたので、緊張感の抜きどころがよく分からなかったのだ。
ええと? 安心していいのかな?
一瞬、ここが真空なのも忘れてヘルメットを外したい衝動に駆られたりまでした。もちろん本気で実行したりなどしないが。
「じゃあ戻るぞ。正式に出動がかかったわけじゃねえから、まだ三隊が本当直だ」
「はい」
答えてから、孝太郎は気付いた。
ローバーの後部に収納した装備類。これをまたロッカーに運び込まないといけないのか。どっと疲れがわいてくるのを感じた。
刈安と二人で片付けるのかと思ったら、ほかの三人も手伝ってくれたので意外に早く装備品は片付けることができた。ただし、腕立て伏せはきっちり二〇回やらされたが。孝太郎のミスを、葡萄染隊長は見てないようでしっかりと見ていた。
装備品を片付けてエアロックをくぐり、アウターを脱いで活動服を着ると、何事もなかったように待機室へ戻る。
葡萄染をはじめとして四人はまた思い思いに時間を潰し始めた。クロスワードをする者、筋トレをする者、読書をする者……。ひとり孝太郎だけが、所在無げに立ち尽くしていた。
ええと? さっきまで自分はなにをしていたんだっけ? そうだ、隊長の料理を食べてグッタリしていたんだった。
時計を見る。まだ八時前だ。一時間もたっていない。
口をもごもごさせて、唾を飲み込んでみたが、隊長の麻婆豆腐の味はまったくよみがえって来なかった。ひりつくような、鉄の混じったような、あの宇宙特有の味と匂いがしただけだった。
ほかの隊員たちも、料理のことはすっかり忘れたように見える。わざわざそれを指摘してひどい味を思い出させるのも悪かったので、孝太郎はなにも言わずに長机のすみっこに腰かけた。
当直の二四時間は、まだ半分も過ぎていない。
「長いな……」
誰にも聞こえないくらいの独り言のつもりだったが、そばの席の葡萄染はそれを聞いていたようだった。
「長いか」
「え……はい」
「勇吾は慣れるって言ってたけどな。俺はこの仕事一〇年やってるけど、ぜんぜん慣れない。長いな」
「そう……なんですか?」
大ベテランの葡萄染からそんな言葉が出てくるのは、孝太郎にとって意外だった。
「俺の最初の当直任務は……月じゃない。神戸の消防署だったけどな」
鴻救命のレスキューには様々な経歴の人間が集まっている。孝太郎や刈安のように高専から直接入ってくる者もいるが、消防士や海上保安官から転身してくる者も多い。
「消防学校を出たばっかりで、すげえ緊張したよ。けっきょく一度も出動がかからなくて、ただ神経がクタクタになっただけだった。昨日のことみたいに覚えてる」
「隊長が、ですか?」
「なんだ、その疑惑に満ちた視線は。俺にだって新人のころはあったよ」
そこで常盤が口を挟んだ。
「そうそう。真朱よりよほど叱られてたよな。腕立てなんて一日で何回したっけ?」
「うるせーよ。まあ、二〇〇回以上は確実だが、よく覚えてねえ」
葡萄染克也と常盤勇吾は付き合いが長いとは聞いていたが、消防士時代から一緒だとは意外だった。
「話が逸れたな。とにかく……ちっとも慣れないってことだよ。どっちがいい悪いじゃない。俺はそうだったよ、ってだけだ」
「自分はどうでしょうか?」
「? なにがどうなんだ」
「あ、言葉足らずですみません。ぼくはどっちのタイプになるのかな、と。その……慣れるのか慣れないのか……」
「そんなの俺に分かるわけねーだろ。正式に勤務して半日だぞ?」
「あ、そうですよね」
「でも、たぶんだが……」
葡萄染はなにかを言おうとして、すぐに気を取り直し首を小さく振った。
「いや、なんでもない」
「なんですか。いま何か言おうとしましたよね」
「なんでもないって」
「いいえ、隊長、何か言おうとしましたよ? たぶん『俺と同じタイプだ』とか、そういうのをカッコよく言おうとしたでしょう?」
「なんだそりゃ。そんなわけねえだろ」
「でも少なくとも『同じタイプだ』とは思ったでしょう?」
孝太郎が食い下がると、葡萄染は露骨に不愉快そうな顔をした。
「思わねえし言おうともしてねえ! なんなんだ、おまえ」
「すいません。願望が、つい」
「わけわからん。……便所いく」
話はそれきりとばかり、葡萄染はトイレに立ち上がった。
八時を過ぎると、小さな雑務がたまにあるだけなので、ひたすらロープワークの練習をした。昼間の出動で副当直になった一隊は、EVA訓練でもう三時間くらい『外』に出ている。過酷ではあるが技能の習得にはなるので、孝太郎は一隊がうらやましかった。
九時すぎに軽めの体操を五人でこなし、トレッドミルでランニングをこなす。
ランニングはトップから刈安、葡萄染、孝太郎、群青、常盤の順だった。刈安が断トツで早かったが、いつものことらしい。孝太郎はビリにならずに安心したものの、あとで群青(勝ち負けに興味がない)と常盤(今日は遅筋を休ませる日らしい)は適当に流して走っていたと知り、微妙に落ち込んだ。
普段はランニングでビリになった者が、近くのコンビニに行って人数分のガリガリ君を買ってくる決まりになっているそうだったが、本当直なのでそれもなかった。待機室からおよそ一〇メートル以上、離れてはならない決まりで、離れるときも相応の理由が必要だった。
シャワーは交代で一人五分。
新人の孝太郎は順番的に最後だったが、葡萄染が本部の人と話し込んでいて、『先に入っとけ』と言われたので、その通りにした。だが初めてのシャワー室で勝手がわからず、もたついてしまった。やっとお湯の出し方がわかって、シャワーを浴び出して一分もしないうちに、用のすんだ葡萄染が『俺の番だぞ』とノックしてきた。
「あわ……す、すみません」
あわててシャワーをやめて脱衣スペースに出たら、すでに葡萄染が脱いでいるところだった。当たり前だが、恥じらう様子などまったくない。
狭苦しい脱衣スペースに裸の男が二人。尻と尻がこすれあうくらいの距離しかなかった。
「なに脱いでるんですか。すこし待ってくださいよ!」
「もう五分過ぎてるぞ。じゃまだ。そっち寄れ。違う、そっちじゃない」
「押さないでください。ちょっ……いたい、いたいいたい」
「あーもう。ケツを突き出すな。って……ほう、けっこう鍛えてるな」
「ちょっ、どこ触ってるんですか」
「ふむ。この大臀筋はなかなか……」
そんな調子でくんずほぐれつしていたら、群青が外から覗きこんで、端末でパシャリと一枚撮影していった。
「って、なに撮ってるんですか、群青さん」
「隊長の奥さんに送ろうかと。浮気現場の証拠写真」
「どうかな。俺の嫁さん、むしろ喜ぶぞ」
「なんなんですか、それは」
けっきょく写真は奥さんには送らなかったらしい。代わりにXRでシャワー室前にしばらく張り出してあった。葡萄染はその写真を見ても、『うーん。俺様、いい男』とほれぼれするばかりなので、しまいには孝太郎が剥がして消去した。
そんな小さな(?)事件があったくらいで、当直の夜は更けていった。仮眠室で仮眠をとったが、孝太郎は例によって枕がなかったので、ろくすっぽ眠ることができなかった。
他の四人は気持ちよさそうに眠っている。下手をしたら市街の自分の部屋のベッドよりも、仮眠室の寝床の方が広いかもしれない。
本部だけでなく街の照明も深夜モードになっていたが、それも明るくなり始めた。
もう早朝だ。
隣の第一仮眠室では人の動く気配がする。一隊の誰かがもう起きたのだろう。孝太郎も眠れそうにないので、起きて簡単なストレッチをした。
トイレに行くと、一隊の早起き隊員と出会ったので軽く会釈する。
若い隊員だった。自分と同じか少し上くらいか。背が高く、髪は黒のストレート。えらくハンサムだが、冷たい印象の顔立ちだった。ちらりと見えた胸の名札は『濡烏』とある。
「三隊の新人って、おまえか」
「? はい」
「ふーん……」
それだけ言うと、その早起き隊員は一隊の待機室へさっさと行ってしまった。
「…………」
なんだ、『ふーん……』って。
あの『ふーん……』は、『ふーん……新人が入ったって聞いたけど、なんか期待はずれだな』とかの『ふーん……』に限りなく近いニュアンスだった。朝なんだし、もうちょっと愛想よくてもいいだろうに。
少しむっとはしたものの、その時はその『濡烏』隊員とはそれきりだった。
トイレを済ませて戻り、壁時計を見ると五時半だった。
当直はあと二時間半で終わる。
ろくに寝ていないせいもあって、疲労感が強かった。当直が終わったら、一日半は休みだ。まずは自室に帰ってぐっすり眠ろう。
待機室で救難の教本を読んで過ごすうちに、三隊の仲間が一人ずつ起床してきた。最後に起きてきたのは葡萄染だ。
「うー……嫌な夢みた」
「いっつもヤな夢見てますね。今日はどんなでしたか?」
鬱陶しそうに無精髭を撫で回す葡萄染に、群青が言う。
「仕事中にロープが足りなくなる夢……」
「また? プルージックですか?」
「そう。いつもプルージックなんだよな。今どきほとんど使わないのに」
「不思議ですね。まあ、成長した娘さんが、ゲッキュー隊員の嫁になる夢よりはいいんじゃないですか」
「あれは最悪だったな……」
そんな他愛のない会話をよそに、孝太郎は時計を見る。
六時半。あと一時間半。
起床した三隊は軽い体操をして、簡単な朝食をとった。会話は少ない。大の男が二四時間近く一緒に過ごしたのだ。口数が減るのも当然のことだった。
孝太郎は時計(アナログで機械式だった)を見る。
七時半。あと三〇分。
もう次の当直の隊が出勤してきている。事務方も出勤してきてオフィスも待機室も騒がしくなってきた。
各自が日誌に引き継ぎ事項を記入して提出する。私物があったら自分のロッカーにしまい込む。
やれやれ。長い二四時間だった。
孝太郎はやっとリラックスしたため息が漏れるのを感じた。
いやいや、ダメだ、まだ一五分ある。それまでは気を抜いてはいけない。
そう思い直した瞬間――
待機室にアラーム音が響いた。甲高く、短く一回。
要注意情報が入ったのだ。
「どこだ?」
葡萄染が言って、長机のディスプレイを広げる。不満や不平の一言すら漏らさない。
「中型の宇宙機が離陸直後に消息を絶った。レヴァニアの郊外、南東二〇キロ」
「墜落?」
「まだ墜落と決まったわけじゃない。連絡が取れないだけで――」
待機室にアラーム音がまた響いた。甲高く、今度は三回。
出動要請だ。
端末にもその旨が表示される。付随する様々な情報も。墜落の可能性大。
墜落。
孝太郎は時計を見る。
七時四六分。
まだ三隊が本当直だ。あと一四分だとしても、出動するのは三隊だ。
「三隊、出動。かかれ!」
葡萄染が命じるのと同時に、三隊の隊員たちはロッカー室に向かった。
(レヴァニア市のミイラ男・終)