スペシャル

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「夢見る力」と京都アニメーションの“原点”

氷川竜介(アニメ特撮研究家/明治大学大学院特任教授)

——特別な気持ちを伝える京アニの“原点”

京都アニメーション(略称「京アニ」)は、映像クオリティの高さ、誠実な作品づくりで日本を代表するスタジオです。特に2006年の『涼宮ハルヒの憂鬱』以後、インターネット動画配信の普及と同期して映像が広まり、一躍世界中にも知られるようになりました。単に技術がすごいだけではありません。「絵が動くアニメーション」を通じて日常に潜む「機微」を再発見し、「人の心を動かすこと」で気持ちを浄化する作品づくり、他者を思いやる姿勢が、多くの人を幸せにしてきたからです。そのポジティブさが世界中、多くの人に通じる事実は、本当にかけがえのないことです。
ところがその一方で、今回Blu-ray化される『ムント』シリーズ(『空を見上げる少女の瞳に映る世界』『天上人とアクト人 最後の戦い』の2タイトル)の認知度は、どうやらそれほど高くないようだと聞きました。本作はBlu-ray Box用の特設サイトにも「京都アニメーションの“原点”」と明記された「特別な作品」なのに、ちょっとビックリです。
自分にとっては京アニ初の「完全オリジナルアニメーション」ですし、後の作品づくりの指針が凝縮している出発点という認識です。まず1作目、2003年3月18日発売のOVA『MUNTO』は、放送に頼らず、企画・原作・制作・販売まで一貫して京アニが「製作」(資金の収集から回収まで運用面での「作品づくり」)を手がける作品で、「KYOANI PROJECT」と付記されていたことから、その意欲が伝わってきます。
背景にはアニメビジネスの転機がありました。玩具など二次商品のセールに頼るのではなく、「作家性とクオリティと意欲」をビデオパッケージ化して、直接資金を回収する。つまりファンと価値を等価交換できる時代の始まりでした。それは京アニ元請け第1作とされるテレビシリーズ『フルメタル・パニック? ふもっふ』(2003年8月)よりも早い出来事なのですが、たいていの記事では省略されています。
それは「4回に分けたリリース」という、やや複雑な成り立ちが原因かもしれません。『MUNTO』、『MUNTO ~時の壁を越えて~』(2005年4月23日)とまずOVA2本がリリースされた後は『MUNTO 3』で完結する「三部作」の予定でしたが、OVAの3本目は出ていません。しかし2009年1月には三部作をHD化した上で合計9話に再構成し、テレビシリーズ『空を見上げる少女の瞳に映る世界』としてオンエアすることで、当初予定された物語が完成したのでした。並行して2009年4月18日にはテレビ版を再構成した劇場映画『天上人とアクト人 最後の戦い』も公開されます。これは『MUNTO 3』として観ることも可能ですし、ラストにはテレビと異なる仕掛けもある、サービス精神にあふれた作品でした。

長い時間をかけて作られた分だけ、いろんな角度で隅々まで楽しめるようにもなっている。やはりこれは、もっと知られてほしい作品なのです。

——「生活系とバトル系」の両極が伝える物語

実は氷川は『MUNTO』初出時点から2年ほどして、バンダイチャンネル用(当時はOVA2作のみ配信)に紹介文を書き、その中で京都アニメーションの仕事を高く評価していました。その当時のOVA「みどころ」紹介をふたつ再掲してみましょう。

『MUNTO』
「本作は、TV版『Air』や『フルメタル・パニック? ふもっふ』の高クオリティで注目のアニメスタジオ・京都アニメーションが自主的に企画したもの。現実生活と異世界が交錯するファンタジー作品である。前者では日常風景のていねいな描写と、主人公ユメミの思春期独特の揺れる心理がポイント。後者では、魔導師ムントたち濃いキャラクターのメリハリのついた激しい魔法アクションが作品に彩りを添える。そして、滅亡を前にした異世界の救出と友だちの意外な行動と、一見無関係なこのふたつが交錯して大きなドラマを生み出す。高い質の美しい作画とレベルの高い演出が、最後まで飽きさせずに物語を引っ張っていく。プロローグ的な内容でもあるため、続編も楽しみな1本である」(2005年3月)

『MUNTO ~時の壁を越えて~』
「高クオリティの作画と演出で人気の京都アニメーションが放つ自主プロジェクトの第2弾。前作のスタッフが再結集し、世界と物語をさらに深く掘りさげて描いている。天上を危機から救うことに成功したはずのムント。しかし、天上界は野望のまま戦う者に充ち、秩序は失われた。ムントの味わう挫折の苦さを、たたみかけるアクションの連続の中で描く作風は京アニならではの快感。一方、ユメミの属する現実世界にも天上の戦いが波及。その緊張感も実に丁寧な日常描写の中で醸し出され、破格の制作規模で未来を賭けた凄絶な戦いが入念に描かれていく。そんな繊細さと大胆さを兼ねそなえた映像美が見事。必見のファンタジー巨編だ!」(2006年9月)

あらためてテレビシリーズを確認すると、初期はこのOVAのとおりの印象です。大きく分けて少女ユメミのいる「地上界」とムントのいる「天上界」とふたつの世界がある。前者は後に増加する日常系のルーツと言える丁寧な生活描写と、幼なじみ3人の心の交流が主体です。後者は異世界でいくつかの陣営に分かれて覇権争いをくり返す、異能バトル満載のアクションが主体です。多くのアニメで必要とされる「生活系とバトル系」の両極を実践することには、教育的な目的があったのかもしれません。
異なる世界の「境界」を越える中で、空に浮く大地が見えることで閉じていたかもしれないユメミの心は次第に開き始め、ムントの側もストーリー全体を動かす「アクト」の本質と循環の重要性に気づいていく。それぞれの世界は一枚岩ではなく、人と人、集団と集団にはいろんな境界があり、だからこそ境界を越えて響きあう絆もある。

先の紹介文では詳しく書けませんでしたが、スズメがカズヤとともに「川を泳ぎきるシーン」は、とりわけ印象的でした。映像作品において川は「何かと何かを隔てる境界・障害」として使われます。それを泳ぎきる意味を、ユメミなりに受け止めた。だから境界を越える勇気が出た。またイチコもユメミの見たものを他の人のように否定せず、自分も見てみたいと思う。こうした共感と「アクト」には深い関係があるわけです。

そして最後まで一気に見直したとき、「監督・脚本・絵コンテ・演出・シリーズ構成」と京アニの作家性を統率した木上益治氏が「アクト」に託したものは、パズルの断片のようにピタリとハマっていくことに気づきました。それゆえ、今回の再リリースにも深い意味を感じるようになったのです。

——「アクト」とは「夢見る力」と「アニメ」そのもの

「シリーズ構成」には「木上益治とユメミる仲間たち」とクレジットされています。主人公ユメミの名前が織りこまれている。また初期資料には「夢見る力がテーマ」と書かれています。つまり「アクト」とは「夢見る力」そのものではないか。
単なる「夢=ドリーム」の意味ではありません。人間にとって大事な空想力、想像力。未来を創造するパワー。自分ではない他者に思い入れする共感の能力……。
これらを総合した「虚構を信じる力」が絆を強化し、団結を生んで人間(ホモ・サピエンス)を特別なものとした。その結果、現在の文明が発達したという説は、「サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福」(ユヴァル・ノア・ハラリ)で、近年広く知られるようになっています。2016年に日本で出版されたこのベストセラーを先取りしたような話を、『ムント』シリーズは物語化していたのではないでしょうか。
だとすると、これはすごいことです。また「アクト」をそうとらえると、劇中で起きる争いの本質や、なぜその回復や争奪が問題にされるのか、違う意味も見える気もしてきました。自分はアニメなどの物語に対し、ある種の「たとえ話」だと考えるようにしています。そこに作者側がこめた想い、「現実世界をどう見つめて、どうたとえたか」が、本来の「世界観」です。決して「便利な設定」ではありません。

作中で「アクト」は万能のパワーをもつものとされていて、思いのままに物質化することも可能とされています。そこで「あっ!」と思ったのです。
「アクト」で何かを具現化したり、破壊も含めて何かを変える作用とは、要するに「アニメの絵に何かを込めて伝えること」の「たとえ話」ではないかと。
京アニの作品づくりが目指すものは、単にテクニックを駆使してキレイに整えることだけではありません。そこには「気持ち」や「魂」「心」を込めて、懸命に何かを伝えようとする姿勢があります。そうしないと、いろんな細部が省略されているアニメの画面は、すぐに空疎化、形骸化してしまうからなのです。
「天上界」が「アニメ世界」だと考えてみると、「ユメミにしか見えなかった世界」を傘で隠していた行為は、ファンが「アニメ趣味を恥ずかしがること」に似ている気もしてきます。しかしいくつかの試練を乗りこえることで、主人公たちは「虚構を信じる力」の重要性に気づき、「力の循環」を回復する。

だとすると、「この物語は今だからこそ必要とされるな」とも思ったのです。ことに「アクト」を単に利用しようとする人びとが、「アニメを金儲けの手段としか思っていない人」(そんなに多く実在していませんが)かもしれないと見立てると、あらためて「アニメのもつパワーと価値」までさかのぼって考え直したくなりました。
コロナ禍以後、全世界の人びとは「無条件で普通にあると思っていた大切なものが簡単に失われる可能性」を知りました。であれば、これまで以上に「夢見る力」を必要とするでしょう。非常事態宣言や行動制限にもかかわらず、アニメ映画がヒットし、配信におけるアニメの存在感が増しているのも、その傍証のひとつに思えます。であれば、「アニメの価値」も「夢見る力」なんだと、“原点”を再確認したい。それから先に進む時期が来てるんだなと、そんなことも、本作の再見は感じさせてくれたのです。

——京アニの“底力”を再発見できる作品

アニメ作品のルック(外見)には流行があります。キャラクターデザインにしても、目の大きさ、鼻の描き方、全身のプロポーション、髪の毛のハイライト処理、衣装やアクセサリー、ファッションのモードに相当するものがあります。さらにデジタル制作以後はCGとの連携や、フィルター処理など画面加工が日進月歩で高度化していきました。そのため、2003年から2009年まで約7年がかりで発表されていった本作は、「過去のルック」が目立つかと思います。

また近年の諸作では、異世界は「現実から切り離されたテーマパーク的なもの」として描かれることも多いので、それに慣れた人だと現実世界とも表裏一体となった本作の描写には、若干の違和感を覚える可能性もあります。
しかし、そんな表面的な違いは簡単に乗りこえられるはずです。それは「京都アニメーションの“底力”はここにある」と、こう思ったからです。続く作品群に「ムントらしさ」は着実に継承されていたのです。原作のあるなしを越えてつながっていく、本質的な「京アニらしさ」を底流で支える「秘密」を見た気にさえなりました。

ただキレイに整えて、正確に緻密に描くことが「クオリティ」だと錯覚されがちな昨今――その風潮へのアンサーが見えるかもしれません。デジタル加工による「お化粧」が控えめな本作では、逆に「心を貫く作画パワー」が表に出て際だち、「アニメーションに何が必要なのか」を改めて伝えてくれる力を見せてくれると思います。
さまざまな意味で「京都アニメーションの“原点”」が、ここに見えます。それを、ひとりでも多くの方に、再確認していただきたいと思います。「“アクト”に込められた木上益治監督の想い」を胸に抱きつつ、京都アニメーションの後続の作品群を再見すれば、温かく優しいアニメ映像に秘められていた“輝き”を再発見できるはずですから……。